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[調査研究活動報告] 国立歴史民俗博物館所蔵の古代史料に関する書誌的検討

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Academic year: 2021

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測定結果に対しても,真摯に再検討をおこなっていただいたことに深く感謝の意を表し,敬服する 次第である。また本館坂本稔氏には試料の自動化学処理で助力をいただきお世話になった。 本稿は,平成 16 ~ 20 年度文部科学省科学研究費補助金学術創成研究費 「弥生農耕の起源と東ア ジア」(研究代表 西本豊弘国立歴史民俗博物館研究部教授)の成果の一部である。 参考文献 藤尾慎一郎(国立歴史民俗博物館研究部) 今 村 峯 雄(国立歴史民俗博物館名誉教授) 山 崎 頼 人(小郡市埋蔵文化財調査センター) (2009 年 3 月 31 日受付,2009 年 5 月 8 日審査終了) 今村峯雄 (2007.3)「炭素 14 年代較正ソフト RH3.2 について」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第 137 集,pp.79 ~ 88). 藤尾慎一郎 (2007.3)「土器型式を用いたウィグルマッチ法の試み」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第 137 集, pp.157 − 184). 藤尾慎一郎 (2007.5) 「弥生時代の開始年代」(『縄文時代から弥生時代へ』新弥生時代のはじまり第 2 巻,pp.7 − 19,雄山閣). 藤尾慎一郎 (2007.5) 「九州における弥生時代中期の開始年代」(『縄文時代から弥生時代へ』新弥生時代のはじまり 第 2 巻,pp45 − 51,雄山閣). 藤尾慎一郎(2009.3) 「弥生時代の実年代」(『弥生農耕のはじまりとその年代』新弥生時代の始まり第 4 巻,pp.9 − 54,雄山閣). 山崎頼人編著 (2004.3) 『福岡市小郡市力武所在力武内畑遺跡7』−弥生時代前期稲作農耕集落跡の調査―,小郡 市文化財調査報告書第 190 集,小郡市教育委員会 . 山崎頼人・杉本岳史・井上愛子(2005)「筑後北部三国丘陵における弥生文化の受容と展開−三国丘陵南東部遺跡群 をケーススタディとして−」(『古文化談叢』第 54 集,pp.1 ~ 33). Sakamoto M, Kodaira A, Imamura M. (2004) An automated AAA preparation system for AMS radiocarbondating. Nuclear and Instrumental Methods in Physics Research B 223-224, pp. 298-301.

国立歴史民俗博物館所蔵の古代史料

関する書誌的検討

Report on Investigation and Research Activities

渡辺

調査研究活動報告 1   はじめ かつて国立歴史民俗博物館(以下「歴博」と略称)初代館長を勤めた 井上光貞(一九一七~一九八三)は、館の一般公開を目前にした時期、 館蔵史料について「歴博には財産らしき財産の乏しきことに全く唖然と した」 〔「国立歴史民俗博物館開館に当たって」 『文化庁月報』 173、 一九八三年 二 月 〕 と 述 懐 し て い る。 そ の 翌 月、 井 上 が 急 死 し て か ら、 す で に 四 半 世 紀がたった。かつて「東洋一」をうたわれながらも、内容の充実を求め られていた歴博収蔵庫は、この間の精力的な収集活動により、もはや飽 和状態に達しつつある。それどころか、急速な史料収集を進めた結果、 逆に館蔵品に関する情報発信が十分に行い得ないという問題点すら生じ てきている。収蔵品のなかでも、とくに優品を多く擁する前近代の文字 資料については、整理・目録化の作業が館内の各部門において鋭意進行 中であるとはいえ、完全な情報公開を行い得るまでには、まだ時間を要 するのが現状である。 本 稿 の 検 討 課 題 と な る 文 書・ 典 籍 の 場 合、 た と え ば 館 蔵 の 中 世 文 書 ( 約 二 〇 〇 〇 点 ) に 関 し て は「 館 蔵 中 世 古 文 書 デ ー タ ベ ー ス 」( http:// www.rekihaku.ac.jp/doc/t-db-index.html ) で 検 索 で き る( 画 像 デ ー タ に も リ ン ク し て い る )。 ま た、 高 橋 一 樹「 国 立 歴 史 民 俗 博 物 館 所 蔵 の 中 世 文 書 ― 個 別 収 蔵 文 書 を 中 心 に ―」 〔『 古 文 書 研 究 』 60、 二 〇 〇 五 年 七 月 〕 によって、概要が解説されている。とはいえ、その他の多くの史料の場 合、基本的には各種目録や「館蔵資料データベース」などで概略を確認 するしかない状況にある。そこで本稿では、私が外来研究員として館蔵 品を調査してきた経験を生かし、正倉院流出文書からはじまり、院政期 の文書・典籍までにいたる主要な古代史料を、できる限り網羅的に紹介 していきたい。 本論に先立ち、主な史料群の概略を述べておこう。まず広橋家(藤原 北家流) に伝来した 「 広橋家旧蔵記録文書典籍類 」(資料番号 H-63 ) は、 大正期に岩崎家(三菱創業者)が購入し(この際、広橋家に残った一部 の典籍・文書は、のちに下郷共済会が購入した。石田祐一「下郷共済会 所蔵の﹁経光卿記﹂ 」『東京大学史料編纂所報』 8、一九七三年を参照) 、 東洋文庫に寄贈(当初は寄託)された典籍・古文書からなっている。の ち東洋文庫の財政難から文化庁へと売却され、一九八四年に歴博の所蔵 と な っ た 〔 斯 波 義 信「 財 団 法 人 東 洋 文 庫 の 80年 」『 東 洋 文 庫 八 〇 年 史 Ⅰ ― 沿

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革 と 名 品 ―』 財 団 法 人 東 洋 文 庫、 二 〇 〇 七 年 三 月 〕 。 た だ し、 歴 博 は 広 橋 家 旧蔵本のすべてを移管された訳でなく、東洋文庫の目録(後述)と比べ ると約一〇〇〇点のうち四〇点 ほ どの漏れがあり、 たとえば 『古文尚書』 ( 国 宝 ) な ど は 東 洋 文 庫 に 現 蔵 さ れ て い る 〔石塚晴通 「岩崎文庫貴重書書誌 解題稿―広橋本之部 ( 1)―」 『東洋文庫書報』 22、 一九九一年四月〕 。なお広 橋家の旧蔵本には、 一部に 「広橋蔵書」 (陰刻朱印、 縦二 · 九×横三 · 〇 ㎝ ) が捺されているが、捺印時期は近世以降だろう。また広橋本の外題は、 大正年間の上野竹次郎氏による整理・補修作業(後述)のなかで後補さ れたものと考えられる。以上に関しては、今後、いちいち詳細を言及し ない。 具 体 的 に、 広 橋 家 旧 蔵 の 諸 史 料 の 内 容 を 検 討 す る 際 に は、 『 岩 崎 文 庫 和漢書目録』 〔東洋文庫、 一九三四年〕 を利用する必要がある。これは 「岩 崎 文 庫 和 漢 書 目 録 」 と し て、 東 洋 文 庫 の H P で も デ ー タ ベ ー ス が 公 開 さ れ て い る。 ま た 歴 博 移 管 分 に 関 し て は、 「 館 蔵 資 料 デ ー タ ベ ー ス 」 も 参考になる。このなかに、 たとえば重要文化財としては『扶桑略記』 ・『別 聚符宣抄』 ・『弁官補任』 ・『律』 ・『令義解』 ・『経光卿記』 ・『兼仲卿記』な ど が 含 ま れ て い る。 指 定 品 以 外 で も、 『 叙 除 拾 要 』・ 『 法 曹 至 要 抄 』・ 『 時 範記』などの貴重な写本を含んでいる。なお歴博所蔵分の目録作成の過 程で、裏文書の翻刻作業も現在進行中である。そこで、広橋本に関する その種の情報は、本稿において基本的に挙げない。 広橋本の大半は、現状では深緑色の表装をして、題簽に墨と丹で様々 な 書 き 込 み が 付 さ れ て い る。 紙 質 調 査 を さ れ た 宍 倉 佐 敏 氏( 宍 倉 ペ ー パー・ラ ボ )によれば、これらの表紙や軸付紙などは近代以降の機械漉 き和紙とのことである。つまり、岩崎家への売却当時「残らず糊が剥が れ て 何 が 何 だ か 判 ら な く な っ」 〔 村 口 半 次 郎「 酒 竹 文 庫 及 び 和 田 維 四 郎 」 『紙魚の昔がたり 明治大正篇』八木書店、 一九九〇年一月、 初出一九三四年、 二 九 一 頁 〕 て い た も の を、 上 野 竹 次 郎 氏 が 整 理・ 修 補 し た 際 に 付 さ れ た も の と 考 え て よ い。 上 野 氏 の 履 歴 に 関 し て は、 『 明 治 天 皇 紀 』 編 纂 に 従 事し、 『山陵』 〔山陵崇敬会、 一九二五年七月〕 ・『歴代皇宮』 〔千代田会事務所、 一 九 二 九 年 三 月 〕 な ど を 出 版 し た こ と 以 外、 不 明 で あ る。 「 元 臨 時 帝 室 編 集 局 編 集 官 」 〔『 明 治 大 正 馬 政 功 労 十 一 氏 事 蹟 』 帝 国 馬 匹 協 会、 一 九 三 七 年 一 月 〕 ・「 つ い こ の 間 亡 く な ら れ ま し た 上 野 竹 次 郎 と い う 方 」 〔 前 掲『 紙 魚 の 昔がたり 明治大正篇』 〕 などとあるところから、一九三〇年代初頭に没し た宮内省の旧職員と推測される。現装丁で表紙に付された題簽への書き 込みは、この人物によるものだろう。題簽に見える「綴合そのまま」な どの記載は、改装を依頼された経師(上田氏?)に対する上野氏からの 指示と考えられる。 この改装の際に剥がされたと思しき旧表装の一部は、巻子『題簽集』 ( H-63-984 ) と し て ま と め ら れ て い る。 こ れ に よ る と 表 装 の 多 く は 色 調や模様の点で共通性が見られるので、大正以前(おそらく近世)にも 特定の時期にまとめて整理・改装が行われたことが想定される。この巻 子の表紙には 「鶏肋集」 ・「大正六年十一月三十日夜   上田」 などとあり、 改 装 を 担 当 し た 経 師 自 身 が、 そ の ま ま「 捨 て る に 忍 び な い 」( = 鶏 肋 ) 思いから自発的に作成した可能性もある。 「 高松宮家伝来禁裏本 」(資料番号 H-600 )は、後西 ・ 霊元天皇などの 蒐書を核とした有栖川宮家の旧蔵本を高松宮家が継承したものである。 宣 仁 親 王( 一 九 〇 五 ~ 一 九 八 七 ) の 死 後、 禁 裏 か ら の 委 譲 分 が 文 化 庁 へ、宮家の蒐書分が宮内庁書陵部へと分割された。そして、そのうち文 化庁の保管分が一九八七年一〇月 (この際の移管分の資料番号は H-600 番 台 で は な い )・ 一 九 九 〇 年 一 〇 月 の 二 回 に 分 け て 歴 博 へ と 移 管 さ れ、 二〇〇五年度の予備調査を経て、二〇〇六年度以降、本格的な調査が進 められている。調査の経緯などに関しては、以下の三報告書に詳しい。 その全貌に関して、現状では天野まどか・内田澪子・大内瑞恵「高松宮 家 本( 旧 有 栖 川 宮 家 本 ) マ イ ク ロ フ ィ ル ム 一 覧( 稿 )」 〔『 報 告 1』〕 を 参

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照することになるが、 目下、 二〇〇八年度末を目標として正式な目録(二 分 冊 ) 刊 行 の 作 業 を 進 め て い る( 補 注 )。 な お、 多 く の 写 本 の 奥 に 捺 さ れ て い る「 明 暦 」( 朱 方 印 ) の 寸 法 は 縦五 · 二 × 横三 · 五 ㎝ で あ る( 本 文 中では、繰り返さない) 。 「研究調査報告   1(平成一八年度) 」『中世近世の禁裏の蔵書と古典 学の研究―高松宮家伝来禁裏本を中心として―』二〇〇七年三月 「研究調査報告   2(平成一九年度) 」『中世近世の禁裏の蔵書と古典 学の研究―高松宮家伝来禁裏本を中心として―』二〇〇八年三月 吉岡眞之『高松宮家蔵書群の形成とその性格に関する総合的研究』科 研費報告書、二〇〇八年三月 こうした状況もあり、関係研究はまだ緒についたばかりである。現状 では、上記報告書などを中心に、分量の大半を占める日本文学・和歌関 係 の 史 料 に 関 す る 研 究 が 中 心 と な っ て い る。 歴 史 系 の 古 代 資 料 と し て は、 『時範記』 ・『西宮記』 ・『続日本紀』 ・『法曹至要抄』 ・『日本紀略』といっ た近世写本が中心である(なお、高松宮本は近世前期に書写した写本ば かりからなるのではなく、中世後期頃に成立したと思しき写本も、いく つ か 含 ま れ て い る )。 た だ し、 こ れ ら に 関 す る 検 討 は『 国 立 歴 史 民 俗 博 物 館 蔵   貴 重 典 籍 叢 書 』( 臨 川 書 店 ) の 解 説 や、 上 記 報 告 書、 あ る い は 石田実洋 「冷泉家時雨亭文庫所蔵 『朝儀諸次第』 と高松宮家伝来禁裏本」 〔『書陵部紀要』 53、 二〇〇二年三月〕 などで部分的になされているにすぎ ない。正式な目録(補注)の刊行後には、本格的な研究の展開が期待さ れる。 「 田中穣氏旧蔵典籍古文書 」(資料番号 H-743 ) は、 田中教忠 (一八三八 ~一九三四)氏のコレクションが、忠三郎氏(子)を経て、穣氏(孫) のご厚意により文化庁へと譲られ、それが一九九〇年三月に歴博の管理 下に移されたものである(一部、他の国立博物館の所蔵に帰したものも あ る。 詳 し く は 後 掲 の 諸 目 録 を 参 照 )。 個 々 の 史 料 の 入 手 元 に 関 し て は 不明な点も多いが、教忠氏の居住地である京都周辺で明治期に蒐集され たものと考えられる。これは質量の両面から見て、歴博の収蔵文書・典 籍の中核をなす史料群といって、過言ではない。 ただし、コレクション最盛期の何割が現存しているのか、定かでない のは残念である。たとえば田中家における保管単位(箱)ごとに所蔵品 を み た 場 合、 一 〇 四 ・ 一 〇 七 な ど の 箱 は 文 化 庁 に 移 管 さ れ た 段 階 で、 す でに空になっていた。ここまで露骨でなくとも、教忠氏の老衰期以降、 忠三郎氏が厳正に管理を行うようになるまでの間に、不可解な理由から 箱の中身が目減りすることは、かなり多かったようである。この ほ か、 教忠氏自身が興味のある写本を購入するための資金繰りの目的で所蔵品 を 売 却 し た 事 例 や、 公 的 機 関 に 譲 渡 し た 事 例 も あ っ た 〔 川 瀬 一 馬「 明 治 時 代 前 半 の 蒐 書 」『 日 本 に お け る 書 籍 蒐 蔵 の 歴 史 』 ペ リ カ ン 社、 一 九 九 九 年 二 月 〕 。 こ う し て 田 中 家 か ら 流 出 し た 史 料 に 関 し て は、 田 中 氏 が 蔵 書 印 を捺さない方針を貫いたこともあり、基本的に氏自身の筆跡による書き 込 み が な け れ ば、 そ の 旧 蔵 品 で あ る こ と は 確 認 で き な い。 と く に 実 際 の流出の時期や契機に至っては、 ほ とんど明確にできないのが現状であ る。ちなみに田中家からいったん流出したものを、歴博所蔵品として再 収 集 し た 事 例 と し て は、 『 筆 海 要 津 』( H-237 )・ 『 小 野 宮 年 中 行 事 裏 書 』 ( H-1762 ) な ど が 挙 げ ら れ る。 こ の ほ か、 氏 が 所 蔵 し て い た と 伝 え ら れるにも関わらず、実際には現存していない貴重な写本の数は数知れな い。今後も注意していれば、そうした史料が古典籍の売り立て市などに 姿をあらわす可能性は高い。 田中本の詳しい構成に関しては、とりあえず以下の目録・論文を参照 していただきたい。それによれば多数の古文書の ほ か、 『春玉秘抄』 ・『延 喜式』 ・『令集解』 や、 『顕広王記』 をはじめとする各種の伯王記 (仲資王記 ・ 忠 富 王 記・ 業 資 王 記 な ど )、 ま た『 本 朝 世 紀 』・ 『 春 記 』・ 『 江 都 督 納 言 願 文集』 ・『寛平遺誡』 ・『西宮記』 ・『山槐記』などの貴重な原本・写本が揃

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っている。重要文化財以上に指定された史料としても、上記の諸史料に 加え、国書では『神代系図』 ・『帝系図』 ・『醍醐雑事記』 ・『大神宮法楽寺 領文書紛失記』 ・『阿不幾乃山陵記』 ・『不知文集』 ・『大理秘記』などが、 漢籍では『白氏後集』 ・『白氏文集』 ・『李嶠雑詠百廿首』 ・『臣軌』 ・『周易』 などが含まれている。このうち、たとえば『白氏文集』はいずれも金沢 文庫旧蔵本で、とくに計五巻のうち三巻は平安後期の写本とされる逸品 である 〔静永健 ほ か 「国立歴史民俗博物館蔵 『白氏文集』 翻字 ・ 校勘記 1」『白 居易研究年報』 7、 二〇〇六年一〇月〕 。これらの漢籍に関して、 本稿で言 及することは叶わないが、将来的にはその収集経緯まで含めた総体的な 調査・研究が望まれよう。 高 橋 秀 樹「 解 題 古 記 録( 田 中 穣 氏 旧 蔵 典 籍 古 文 書 )」 『 国 立 歴 史 民 俗 博 物 館 資 料 目 録 1』 歴 史 民 俗 博 物 館 振 興 会、 二 〇 〇 〇 年 三 月、 初 出 一九九七年 高 橋 一 樹「 解 題 古 文 書( 田 中 穣 氏 旧 蔵 典 籍 古 文 書 )」 『 国 立 歴 史 民 俗 博物館資料目録 1』歴史民俗博物館振興会、二〇〇〇年三月 川瀬一馬編『田中教忠蔵書目録』私家版、一九八二年一一月(以下、 「川瀬目録」と呼称) 国 立 歴 史 民 俗 博 物 館「 田 中 穣 氏 旧 蔵 典 籍 古 文 書 目 録   古 文 書・ 記 録 類 編 」『 国 立 歴 史 民 俗 博 物 館 資 料 目 録 1』 歴 史 民 俗 博 物 館 振 興 会、 二〇〇〇年三月 国立歴史民俗博物館「田中穣氏旧蔵典籍古文書目録   国文学資料・聖 教 類 編 」『 国 立 歴 史 民 俗 博 物 館 資 料 目 録 4』 歴 史 民 俗 博 物 館 振 興 会、 二〇〇五年一二月(以下、これらは「歴博目録」と呼称) 「 」( 資 料 番 号 H-1242 ) は、 奈 良 の 水 木 要 太 郎( 一 八 六 五 ~一九三八)氏のコレクションが、直箭氏(子)へと受け継がれ、のち 筈夫氏(孫)のご厚意で、一九九四年一二月に歴博へと譲られたもので ある(ただし歴博に移管されたのは、全体のうちで文書・典籍を中心と する部分にすぎない。他に天理大学や古代学研究所〈京都〉などに譲ら れ た 部 分 も あ る )。 こ の な か に は、 注 目 す べ き 史 料 が い く つ か 含 ま れ て いる。 内容の概略に関しては、 国立歴史民俗博物館 「水木家資料目録」 〔『国 立 歴 史 民 俗 博 物 館 資 料 目 録 3』 歴 史 民 俗 博 物 館 振 興 会、 二 〇 〇 四 年 三 月 〕 を 参 照。 な お、 た と え ば 古 文 書 に 限 っ て い え ば、 『 平 安 遺 文 』 に 収 載 さ れ る「水木直箭氏所蔵文書」全二二通のうち、歴博の所蔵に帰したものは 計一〇通である。 残りは現在でも水木家に所蔵されているようである (東 大寺返抄の大半を現在でも水木家が所蔵することは、国立歴史民俗博物 館『収集家一〇〇年の軌跡―水木コレクションのすべて―』歴史民俗博 物館振興会、 一九九八年一〇月を参照) 。移譲の際、 どのような基準に沿っ て、このような分割がなされたものかは、明らかでない。 こ の ほ か、 「 」( 資 料 番 号 H-1615 ) は、 平 田 篤 胤・ 鉄胤などが収集した史料群で、二〇〇三年度に平田神社(東京都渋谷区 代々木)から歴博へ譲られたものである。古代の史料はそれ ほ ど多くは ないが、関連する範囲で言及を加えた。全貌に関しては、国立歴史民俗 博物館 「平田篤胤関係資料目録」 『国立歴史民俗博物館資料目録 6』〔歴 史 民 俗 博 物 館 振 興 会、 二 〇 〇 七 年 三 月 〕 を 参 照。 そ こ に は、 か な り 詳 細 な 情報が提示されている。 以 上 の よ う に、 館 の 収 蔵 品 は、 「 史 料 群 」 と し て 一 括 収 蔵 さ れ た 分 だ けでも、その概略を確認するためには、かなりの紙幅を要する充実ぶり である。またこれら以外で、小規模な史料群のなかに含まれるものや、 単 品 で 入 手 さ れ た 史 料 も 数 多 い。 古 代 の 史 料 に 限 っ て も、 『 額 田 寺 伽 藍 並条里図』 ・『中右記部類』 ・『大安寺資財帳』 ・『高山寺文書』 ・『栄山寺文 書 』・ 『 大 織 冠 伝( 多 武 峰 縁 起 )』 な ど を は じ め、 国 宝・ 重 要 文 化 財 に 指 定されたものだけで、十数点に及ぶ。これらは、来るべき歴博開館に備 え、文化庁が長年にわたり膨大な予算を投じて収集を続けた史料群に加 え、既存の国立博物館(東京・奈良など)より移管された大量の史料、

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また開館以降に館の予算で購入された史料などからなっている。開館以 前 の 収 集 の 事 情 に 関 し て は、 「 国 宝・ 重 要 文 化 財 等 の 国 の 買 取 り〈 付 国 宝 ・ 重要文化財等買上品目録〉 」 〔『月刊文化財』 158、一九七六年一一月〕 な どに詳しいが、それによれば一九七〇年代の特に後半、歴博開館を目前 にひかえた時期、文化庁の史料収集予算がうなぎ登りに増大していく様 子を伺うことができる。そのあり様は、もはや大規模な国家事業の一つ とすらいえる ほ どの勢いである。歴博という機関は、それ ほ どまでに大 きな期待をこめて創設されたものだったのである。 な お、 こ う し て 形 成 さ れ た 歴 博 開 館 当 初 の 収 蔵 史 料 に 関 し て は、 「 国 立 歴 史 民 俗 博 物 館 収 蔵 資 料 一 覧 」 〔『 月 刊 文 化 財 』 247、 一 九 八 四 年 四 月 〕 に 大要が掲載されている。そこには、本稿の冒頭で挙げた「財産の乏しき ことに全く唖然」という井上光貞(初代館長)の述懐が嘘のように思え る ほ ど、充実したラインナップが確認できる。おそらく、開館を主導し た井上の頭のなかにあった歴博の初期構想と、その背景として最低限求 められる収蔵史料の質・量とは、常人にうかがい知ることのできない ほ ど、巨大なものだったのだろう。 ところで、本稿で言及する史料の選定に関してだが、研究者毎のスタ ン ス の 違 い な ど に よ っ て、 「 古 代 」 の 範 囲 に は 諸 説 あ る。 と は い え、 本 稿の趣旨はそうした議論の詳細を見極めるところにある訳でない。とり あえず、古文書は『平安遺文』に合わせて元暦二年(一一八五)八月ま でとし、典籍の場合はそれよりもやや柔軟に対応することとしたい。ま た、料紙の繊維調査に関する諸データは概略を述べるに止め、本調査と 連動して館蔵史料の紙質調査を進めておられる宍倉佐敏氏の分析成果の 公表をまちたい( 『国立歴史民俗博物館研究報告』に掲載予定) 。なお、 本稿は厳密な意味での書誌情報を完備した目録ではない。紙幅の関係か ら、前述の諸目録所載の外題・内題などの情報は基本的に繰り返さない ので、それぞれ併用していただきたい。 ち な み に、 日 本 文 学 関 係 の 史 料 に 関 し て も、 館 蔵 品 は 優 品 揃 い で あ る。 た と え ば 重 要 文 化 財 と し て は、 『 伊 勢 物 語 』( H-130 )・ 『 源 氏 物 語 』 ( H-133 )・ 『大和物語』 ( H-132 )・ 『万葉集』 ( H-139 )・ 『続詞花和歌集』 ( H-743-464 )・ 『後拾遺和歌抄』 ( H-743-465 )などがあり、この他にも 旧重要美術品として 『平家物語』 ( H-135 )・『古今和歌集』 ( H-743-483 )・ 『 和 漢 朗 詠 集 』( H-743-486 ) な ど が、 ま た 未 指 定 品 の な か に も 善 本 と 目され、すでに全文の翻刻や詳細な検討がなされているものも数多く含 まれている。しかし本稿では、古代の史料であっても、基本的に言及を 省 い た。 一 部 に 関 し て は、 『 国 立 歴 史 民 俗 博 物 館 蔵   貴 重 典 籍 叢 書   文 学 編 』( 臨 川 書 店 ) と し て 影 印・ 解 題 が 出 版 さ れ て い る の で、 そ ち ら を 参照していただきたい。また、前述した漢籍類だけでなく、とくに田中 教 忠 氏 旧 蔵 典 籍 古 文 書( H-743 ) の な か に 大 量 に 含 ま れ て い る 聖 教 類 に 関しては、今回 ほ とんど言及することができなかった。その全貌に関し ては、過去の目録類を参考としつつ、今後の研究進展に期待していただ く ほ かない。 以上の調査全般を進めるに当たり、歴史研究系の教員の方々、とくに 吉岡眞之教授のご指導・ご高配にあずかった。加えて資料係の皆さんに は、史料の出納・調査の全過程で、かなりの無理をお願いすることもし ばしばであり、恐懼にたえない。この ほ か釈文の作成などに関して、井 原今朝男(歴博) ・加藤友康(東京大学史料編纂所) ・長瀬由美(明治大 学)をはじめとする多くの方々にもご意見を賜った。また本稿の公表に 際しては、高橋一樹氏(歴博)のご助力を得た。ここに記して、謝意に 代 え た い。 な お 本 論 文 は、 「 日 本 古 代 に お け る﹁ 文 書 主 義 ﹂ の 導 入 と、 そ の 展 開 過 程 」( 平 成 一 八 ~ 二 〇 年 度 科 学 研 究 費 補 助 金・ 特 別 研 究 員 奨 励費)による研究成果である。

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2   予備情報―本論の前提として― まず本稿で扱う ほ ぼ全ての史料の書写媒体である紙に関してだが、奈 良期における紙の寸法に関する規定は残念ながら現存しない。ただし平 安 期 の『 延 喜 式 』 に は 縦 一 尺 二 寸(三六 · 六 ㎝ ) × 横 二 尺 二 寸(六七 · 一 ㎝ ) と 規 定 さ れ て お り( 延 喜 図 書 寮 式 )、 お そ ら く こ れ と 大 き く 異 な る ものではあるまい。なお正倉院文書の実例で縦三〇 ㎝ ×横六〇弱 ㎝ 〔『正 倉 院 文 書 目 録 』 東 京 大 学 出 版 会 〕 、 平 安 期 の 公 文 書 で も ほ ぼ 同 様 の 寸 法 で あ る こ と を ふ ま え る と、 『 延 喜 式 』 に 見 え る 寸 法 は 耳( 漉 き っ ぱ な し の 和紙で四囲に生じる未整形の部分)を切り捨てる以前のものと考えられ る。また紙厚は、 その数値を µm(一マイクロメートル=〇 · 〇〇一ミリ) で表示する。ただし歴博所蔵の古文書・古典籍の多くは、裏打がなされ ている。本報告においてデータ未掲載の事例は、その種の要因から計測 が困難だったものとご了解いただきたい。この ほ か、簀目・糸目や各繊 維の特徴などに関しては、とりあえず山本信吉・宍倉佐敏『高野山正智 院 伝 来 資 料 に よ る 中 世 和 紙 の 調 査 研 究 』 〔 特 種 製 紙 株 式 会 社、 二 〇 〇 四 年 九 月 〕 を 参 照 し て い た だ き た い。 な お、 宍 倉 氏 は こ れ ま で の 研 究 成 果 を 集成した近著の出版(八木書店)を予定されているので、近い将来はそ ちらによって、より充実した関連研究を進めることが可能となるはずで ある。 つぎに、 製紙後の表面加工に関して。古代の紙は、 乾燥させたまま(生 紙)では、表面が荒れていて墨がうまく乗らない。そこで、表面の平滑 性を確保するために、紙を磨く(瑩紙)場合があった。ただし、より一 般的には、液体で湿らせた紙を何枚か重ねて、木槌などで丁寧に叩き、 繊 維 と 繊 維 を な じ ま せ る「 打 紙 」 が 行 わ れ て い た 〔 大 川 昭 典「 古 代 の 造 紙技術について」 『和紙の研究―歴史 ・ 製法 ・ 用具 ・ 文化財修復―』 (財)ポー ラ 美 術 振 興 財 団 助 成 事 業 研 究 報 告 書、 二 〇 〇 三 年 三 月、 初 出 一 九 七 六 年・ 大 川昭典/増田勝彦 「製紙に関する古代技術の研究」 『和紙の研究―歴史 ・ 製法 ・ 用 具・ 文 化 財 修 復 ―』 ポ ー ラ 美 術 振 興 財 団 助 成 事 業 研 究 報 告 書、 二 〇 〇 三 年 三 月、 初 出 一 九 八 一 ~ 一 九 八 五 年 〕 。 こ う し た 加 工 を 経 た 紙( 熟 紙 ) は、 墨の乗りが良く、にじみも抑えられる特性をもっていた。 この「打紙」作業に関しては、平安期にも「太政官長案料、宜便留年 料内、 毎年令打進之」のように指示が出ている( 「延喜十八年(九一八) 十 二 月 四 日 太 政 官 符 」『 類 聚 符 宣 抄 』 巻 六 )。 た だ し 打 紙 は、 か な り の 重労働だったようで、たとえば院政期の事例では、国衙で大般若経を写 経する際、 国内から 「打紙夫役」 が徴発され、 その負担の重さが問題となっ ている 〔「大治元年 (一一二六) 五月二日 某国国分尼寺三綱等解」 『平安遺文』 二 〇 七 〇 〕 。 こ う し た 問 題 も あ り、 製 紙 技 術 の 試 行 錯 誤 の な か で、 表 面 に膠・デンプンなどを塗ったり、紙漉の際に米粉などを混入させること で類似の効果を確保しようとする事例も広まっていく。とはいえ、たと えば濃淡の少ない均等な細字を書き連ねる聖教などの場合、中世以降も 打 紙 は 必 須 と さ れ て い た 〔 永 村 眞「 醍 醐 寺 聖 教 と そ の 料 紙 ― 特 に 楮 紙 打 紙 に注目して―」 湯山賢一編 『文化財学の課題―和紙文化の継承―』 勉誠出版、 二〇〇六年四月〕 。実際、 近世前期に作成された高松宮家旧蔵本 ( H-600 ) ですら、多くの写本で楮の打紙を用いているように、全体のなかでの割 合こそ低下していくが、打紙は後世まで行われ続けていた。 ここで、この種の表面加工に関連して、別の紙の文字が墨うつりする 現象(墨映)に言及しておきたい。先行研究によれば、その要因は、紙 を二次利用する際に、以下のような作業を経た結果と想定されている。 いずれにしても、湿った紙を重ねて圧力をかける過程で生じた現象とい うことになろう。 ・ しわや折目をのばすために、水分を含ませて軽くたたき、つみかさね て重しを載せた結果 〔前田元重 ・ 福島金治 「﹁宝寿抄﹂ 紙背文書について」 『金 沢文庫研究』 270、一九八三年三月 ・ 福島金治「紙背文書論―金沢文庫文書の

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場合―」 『九州史学』 114、一九九六年六月〕 ・ 紙の表側よりも平滑性が低い裏側にも、容易に文字を書けるようにす るため、 水分を含ませて打紙を施した結果 〔吉野敏武 「我が国の料紙」 『古 典籍の装丁と造本』印刷学会出版部、二〇〇六年五月〕 こ う し た 現 象 は、 歴 博 所 蔵 史 料 に も 多 く 見 ら れ る。 た と え ば『 兼 仲 卿 記 』( H-63-753 ~ 826 ) に 関 す る 利 光 三 津 夫「 東 洋 文 庫 所 蔵『 兼 仲 卿 記 』 紙 背 文 書 所 引﹁ 令 惣 記 ﹂ 逸 文 」 〔『 国 書 逸 文 研 究 』 20、 一 九 八 七 年 一 二 月 〕 ・ 藤 原 重 雄「 『 兼 仲 卿 記 』 紙 背 文 書 の 墨 映・ 覚 書 」 〔『 ぐ ん し ょ』 71、 二〇〇六年一月〕 などの指摘も参照。この ほ か 『弁官補任』 ( H-63-553 )・ 『 扶 桑 略 記 』( H-63-937 )・ 『 民 経 記 』( H-63-693 ほ か ) な ど に も、 多 数 の墨映が見える。詳しくは本文中で個々に言及していくが、古記録の場 合、墨の乗りや染み方からみて、一次利用の段階では打紙が施されてお らず、二次利用に際して打紙を施す目的で湿気を含ませた際、墨映りが 生じている事例が大半である。 なお、 この種の目的で打紙をする際には、 通常、白紙面あるいは文字面を相互に合わせ、他面への墨写りを避ける 配 慮 を 採 っ て い る が 〔 吉 野 敏 武「 和 紙 と 筆 触 ― 装 丁 に 使 わ れ て い る 書 写 料 紙―」 『国文学 解釈と教材の研究』 52― 10、 二〇〇七年八月〕 、 たとえば『民 経記』の場合などには、往々にして日記面(二次利用面)に書状(一次 利用面)の墨写りが見える(やや配慮の足りない打紙作業の事例といえ る) 。 一 方、 石 井 進「 高 山 寺 文 書 六 曲 屏 風 」 〔『 石 井 進 著 作 集 七 』 岩 波 書 店、 二 〇 〇 五 年 四 月、 初 出 一 九 八 九 年 〕 ・ 藤 本 孝 一「 表 か ら 紙 背 を 読 む ― 源 義 経 請 文 に つ い て ―」 〔『 日 本 歴 史 』 六 四 二、 二 〇 〇 一 年 一 一 月 〕 な ど が 言 及 す る「 高 山 寺 文 書 」( H-73 ) の 墨 映 の 場 合、 い ず れ の 料 紙 も 打 紙 さ れ て い な い の で( 宍 倉 氏 の ご 指 摘 に よ る )、 し わ 伸 ば し を 目 的 と し た 事 例 と 考えられる。このように、 墨映の生じる原因に関しては、 ケース バ イケー スの判断が必要である。 ただし、以上のような二次利用を目的とした作業の過程で生じる墨映 とは、 やや性格が異なる事例も散見される。たとえば、 栄山寺文書 ( H-74 の『 平 安 遺 文 』 六 三 八 ) や、 『 醍 醐 雑 事 記 』( H-743-458 ) な ど で は、 二 次利用の痕跡が確認できないにもかかわらず墨映が生じている(このよ う な 事 例 は、 歴 博 所 蔵 の 史 料 に 限 ら ず、 散 見 さ れ る )。 前 述 し た 意 図 的 に湿気を含ませる場合とは別に、紙が自然と湿気を含んだ結果として、 墨写りした事例と考えるべきようにも思われる。ただし、これらの史料 を 調 査 さ れ た 宍 倉 氏 に よ れ ば、 「 上 か ら 圧 力 も か け ず に、 こ れ ほ ど 強 く 墨写りする量の湿気を吸えば、料紙に激しい湿損の痕跡が残るはず」と のことである。こうした現象の生じる背景に関しては、もう少し考えて み る 必 要 が あ ろ う。 ま た、 『 吉 続 記 』( H-743-463-2 ) の 場 合、 裏 打 紙 に 本文の別の場所の墨が写っている。これは補修の際に、旧裏打などを剥 がす目的で本紙の上からかぶせた湿紙を、乾燥させて裏打として再利用 し た も の で は な い か と の こ と で あ る( 宍 倉 氏 の 御 意 見 )。 こ う し た 事 例 を子細に拾っていけば、あるいは今後、未知の古文書などが検出できる かも知れない。 つぎに、墨に関して。古代の墨には松煙墨・油煙墨の二種類があり、 後 者 は 中 国 で は 宋 代 に、 日 本 で は 平 安 末 期 頃 か ら 姿 を 見 せ る 〔 大 川 原 竜 一・ 山 路 直 充「 日 本 古 代 の 墨 に つ い て   付 文 献 目 録 」『 古 代 文 字 資 料 の デ ー タ ベース構築と地域社会の研究』 科研費報告書、 二〇〇二年三月 ・ 同 「古代の墨」 『 古 代 の 陶 硯 を め ぐ る 諸 問 題 ― 地 方 に お け る 文 書 行 政 を め ぐ っ て ―』 奈 良 文 化 財 研 究 所、 二 〇 〇 三 年 一 二 月 〕 。 両 者 の 違 い は、 肉 眼 で は 運 筆・ 発 色 の 違いとして確認できるという。具体的には、松煙墨は青色を、油煙墨は 茶 褐 色 を 呈 す る と さ れ る 〔 池 田 寿「 文 書 料 紙 に お け る 紙 質 と 墨 の 種 類 に つ い て 」『 古 文 書 料 紙 原 本 に み る 材 質 の 地 域 的 特 質・ 時 代 的 変 遷 に 関 す る 基 礎 的 研 究 』 科 研 費 報 告 書、 一 九 九 五 年 三 月 〕 。 た だ し 正 確 に は、 煤 粒 子 の 大 き さ を 電 子 顕 微 鏡 で 観 察 す る 必 要 が あ る 〔 前 掲 の 大 川 原・ 山 路 二 〇 〇 三 〕 。

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そうした特質をふまえ、本稿では墨の違いに関しては言及しない。 つぎに、顔料に関して。文書に塗布された赤色顔料に関しては、これ まで正倉院文書 ・ 東南院文書などを対象として、 検討が進められている。 それによれば、水銀朱(辰砂、硫化水銀) ・鉛丹(四三酸化鉛) ・ベンガ ラ(酸化鉄) の利用が認められる 〔成瀬正和 「正倉院の朱印朱筆」 『日本歴史』 521、 一 九 九 一 年 一 〇 月 〕 。 こ の う ち、 ベ ン ガ ラ は 先 土 器 時 代 か ら、 水 銀 朱 は縄文中期以降に用いられた。前者は原料として赤鉄鉱を用いる場合の ほ か、含水酸化鉄を焼いても得られるので、その産出地は全国で無数に あ る 〔 成 瀬 正 和「 縄 文 時 代 の 赤 色 顔 料 Ⅰ ― 赤 彩 土 器 ―」 『 月 刊 考 古 学 ジ ャ ー ナル』 438、一九九八年一一月〕 。丹は、 その生産過程で鉛を高温で融解する な ど の 高 度 な 技 術 が 必 要 な 人 工 顔 料 で あ る 〔 市 毛 勲「 日 本 古 代 の 朱 」『 朱 の考古学』雄山閣出版、一九九八年一一月〕 。法隆寺の壁画などに用いられ て い る の で 〔 山 崎 一 雄「 法 隆 寺 金 堂 壁 画 の 顔 料 お よ び そ の 火 災 に よ る 変 化 に ついて」 『古文化財の科学』思文閣出版、 一九八七年六月、 初出一九五三年〕 、 遅くとも七世紀頃までには利用されるようになっていたと考えられる。 各顔料は一定の色調を有しているが、現実に肉眼で鉛丹と水銀朱の区 別や 〔永嶋正晴 「正倉院文書に使用された彩色料について」 『正倉院文書拾遺』 国 立 歴 史 民 俗 博 物 館、 一 九 九 二 年 三 月 〕 ・ 鉛 丹 と ベ ン ガ ラ の 区 別 が つ か な い場合もある 〔飯田剛彦 ・ 成瀬正和「古文書」 『正倉院紀要』 28、二〇〇六年 三 月 〕 。 と く に ベ ン ガ ラ は、 そ の 純 度 や 結 晶 形 態 の 違 い に よ っ て 赤 色 か ら 茶 色 ま で 様 々 な 色 調 を 呈 す る だ け で な く 〔 早 川 泰 弘「 蛍 光 X 線 分 析 に よ る 地 図 資 料 の 彩 色 材 料 調 査 」『 歴 史 学 研 究 』 841、 二 〇 〇 八 年 六 月 〕 、 経 年 退 色 に よ り 黒 ず む 場 合 が あ り 〔 市 毛 一 九 九 八 〕 、 鉛 丹 も 当 初 の 黄 色 み を 失 い 紫 褐 色 化 す る 場 合 が あ る 〔 山 崎 一 雄「 日 本 絵 画 の 顔 料 に つ い て 」『 古 文 化 財 の 科 学 』 思 文 閣 出 版、 一 九 八 七 年 六 月、 初 出 一 九 七 九 年 〕 。 残 念 な が ら 本 稿 で 「朱」 ・「丹」 ・「ベンガラ」などと記す場合は、基本的には肉眼観察によ るものである。つまり実際の組成というよりは、色の特徴を説明する方 法と考えていただきたい。 なお顔料を実際に利用する際は、かならずしも各顔料を単体で用いる 訳ではないようである。たとえば天皇御璽は鉛丹に朱をまぜており、太 政官印は当初、鉛丹とベンガラの混合であるが、一二世紀の事例ではベ ンガラのみと分析されている 〔飯田剛彦 ・ 成瀬正和 「東南院文書の調査」 『正 倉院紀要』 28、二〇〇六年三月〕 。なお、国印 ・ 倉印 ・ 郡印は、当初から安 価なベンガラで捺印されている 〔杉本一樹「古文書の調査」 『正倉院年報』 九、 一九八七年三月 ・ 同「古文書の顔料調査」 『正倉院紀要』 29、二〇〇七年三 月 〕 。 こ の 種 の 使 い 分 け は、 価 格 や 入 手 の 容 易 度 だ け で な く、 古 墳 時 代 以 降、 全 国 的 に 朱 と ベ ン ガ ラ の 使 い 分 け の 風 習 が 存 在 し た こ と 〔 本 田 光 子 「出土赤色顔料の謎」 『文化財の保存と修覆 ⑥』 ク バ プロ、 二〇〇四年六月〕 との関係も想定する必要があろう。 つぎに、糊に関して。一般に糊というと、麦・米を原料とするものを 想像するが、 古代には文書の場合、 大豆を原料とすることが通常だった。 大豆を「糊料」 ・「紙継料」とする事例は正倉院文書のなかにも多数見え る し、 平 安 期 に も「 凡 年 料 装 潢 用 度、 … 大 豆 五 斗〈 糊 料 〉」 ( 延 喜 図 書 寮 式 ) と さ れ て い た。 そ の 強 度 は 麦・ 米 由 来 の 糊 と 比 べ て、 か な り 強 か っ た 〔 岡 田 文 男・ 秋 本 賀 子「 古 代 の 文 献 に み ら れ る 大 豆 糊 の 試 作 」『 文 化 財 保 存 修復学会誌』 42、 一九九八年三月〕 。実際、 この糊で継がれた紙の糊代(通 常 は 黄 色 を 呈 す る ) は〇 · 三 ㎝ 前 後 で あ る こ と が 一 般 的 で あ る。 一 方、 経典などの場合、膠を用いる事例が多く、たとえば百万塔の包み紙に付 着 す る 糊( 茶 褐 色 ) の 場 合、 デ ン プ ン 糊 に 膠 を 混 入 し た も の で あ る 〔 吉 野 敏 武「 百 万 塔 陀 羅 尼 の 包 紙 と 接 着 剤 に つ い て 」『 百 万 塔 陀 羅 尼 の 研 究 ― 静 嘉 堂 文 庫 所 蔵 本 を 中 心 に ―』 汲 古 書 院、 二 〇 〇 七 年 一 一 月 〕 。 こ の よ う に、 糊 というのは、複数の成分からなっている場合が少なくなく、そうした製 法 は 中 国 の 典 籍 の な か の 記 述 で も 確 認 さ れ て い る 〔 田 中 敬「 粘 葉 用 糊 の 製 法 に 就 て 」『 田 中 敬 著 作 集 3 汲 古 随 想 』 早 川 図 書、 一 九 七 九 年 八 月、 初 出

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一 九 二 三 年 〕 。 な お、 料 紙 奥 の 軸 付 部 分 が 変 色 し て い る 場 合、 そ れ は 軸 付けの際に用いた糊だけでなく、軸木からしみ出した樹液による可能性 も 想 定 す べ き と の こ と で あ る( 吉 野 敏 武 氏 の ご 教 示 に よ る )。 実 際、 巻 子の奥が糊の色とも思われないような変色をしている事例は多い。この 部分の変色がどういった成分に起因しているのかは、今後、事例を集め て科学的に分析する必要があろう。 つぎに虫損に関して。虫損の原因に関しては、一般に強調されるシミ (糊などを好む)よりも、シ バ ンムシによるものの方が圧倒的に多い。 シミ(ヤマトシミ)は糊が好物で、表面をなめるように浅くかじり取る が、 その糞害により汚染が生じる(こちらの方が、 大きな問題となる) 。 一方、シ バ ンムシは糊・植物繊維(とくに楮)が好物で、墨を比較的避 け な が ら、 対 象 の 内 部 に 丸 く 穿 孔 し て い く 〔 東 京 文 化 財 研 究 所 編『 文 化 財 害虫事典』ク バ プロ、二〇〇一年一二月 ・ 佐藤仁彦編「書物の害虫(シミ類 ・ シ バ ン ム シ 類 )」 『 生 活 害 虫 の 事 典 』 朝 倉 書 店、 二 〇 〇 三 年 一 一 月 〕。 洗 浄 が 不充分な楮紙や、紙漉の際に米粉などを混入させた紙が、その害をうけ やすい。 なお書写年代に関しては、紙質・奥書や表裏の利用関係など複数の根 拠から想定できない場合、基本的に言及しなかった。たとえば書風には 筆記主体やその年代によって差異があるので 〔東野治之「藤原宮木簡の書 風について」 『 MUSEUM 』 314、一九七七年五月 ・ 鬼頭清明「八世紀国衙上申文 書 の 書 風 に つ い て 」『 古 代 木 簡 の 基 礎 的 研 究 』 塙 書 房、 一 九 九 三 年 二 月、 初 出 一九七八年 ・ 田中稔「白鳳 ・ 奈良時代初期における書風の変遷」 『 MUSEUM 』 330、一九七八年九月 ・ 杉本一樹 「献物帳の書―奈良時代の書に関する一考察―」 『 日 本 古 代 文 書 の 研 究 』 吉 川 弘 文 館、 二 〇 〇 一 年 二 月、 初 出 一 九 九 九 年・ 宮 崎 肇「 院 政 期 に お け る 典 籍 書 写 と 書 風 に つ い て 」『 早 稲 田 大 学 大 学 院 文 学 研 究 科紀要』 47― 4、 二〇〇二年二月など〕 、 それによって書写年代を推定する 手法もあるとはいえ、そうした判断には、とくに経験が少ない場合、や やもすれば恣意性が混じりかねないからである(そうした方法による年 代 推 定 の 手 法 の 有 効 性 自 体 を 否 定 し て い る 訳 で は な い )。 歴 博 所 蔵 史 料 の場合、とりあえずは H-743 (田中本)に関する川瀬目録 ・ 歴博目録な どを参照していただきたい。 また装丁に関してであるが、たとえば「粘葉装」はそのままの名称で 問題ないだろう。 ただし、 その ほ か各種の呼称が併存する形態に関して、 本稿ではたとえば袋綴に関しては「四目綴」 ・「五目綴」などと、くるみ 表紙は「包背装」と、二ヶ所の二つ穴を綴じた冊子は「大和綴」と呼称 することにする。とくに「大和綴」という呼称に関しては、紙縒で仮綴 したものから、色糸で丁寧に綴じたものまで様々な出来合を含む点で、 一括すべきとは思われない多様な実態を包含している。また最近の櫛木 節 男『 宮 内 庁 書 陵 部   書 庫 渉 猟   書 写 と 装 丁 』 〔 お う ふ う、 二 〇 〇 六 年 二 月〕 ・ 吉野敏武『古典籍の装丁と蔵本』 〔印刷学会出版部、 二〇〇六年五月〕 などで、呼称変更の必要性も指摘されている。ただ本稿では、とりあえ ず周知の呼称で説明しておくこととする。 前置きが長くなったが、 本稿では以上のような基本事項をふまえ、 個々 の史料の検討を進めていく。

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3   本論 H-63-32 『宇佐宮仮殿遷宮定文』 表 紙 に「 宇 佐 宮 仮 殿 遷 宮 定 文   一 巻 」( 外 題 ) と あ る。 寸 法 は、 縦 二八 · 六 ×横一六 · 八(後補表紙) +五一 · 八(第一紙) +五一 · 二 +五一 · 八 +五一 · 七 +五一 · 六 +五一 · 五 +五一 · 七 +五一 · 五 +五一 · 五 +五一 · 七 + 五一 · 七+五〇 · 七(第十二紙、奥に黒ずみあり)+八 · 四 ㎝ (軸付紙…な お広橋本の場合、軸付紙はどの巻子でも基本的に後補紙である)で、軸 は 径一 · 二 × 長二九 · 八 ㎝ 。 全 体 に 天 高 ①一 · 六・ ②一 · 二・ ③一 · 三・ 界 高 二三 · 九 ・ 地高〇 · 六 ㎝ の界線が引かれている。また、 各紙の奥上に「一」 ~「十三」 (丹)の番号が振られているが、第十一紙に「十一」 ・「十二」 と二つの番号が振られており、全体では一二紙しかない。 本巻子は、一旦 ほ ぼ バ ラ バ ラになったものを、後世に継ぎ直したよう なので、ここで継目のデータに関しては言及しない。全体に錯簡がある ことや、本来の並び順などに関しては、巻子冒頭に上野氏の筆跡で「順 序 / 二・三・四・五・六・十・十 一・九・一・七・八・十 二 / 但、 八・十二ノ間ニハ一枚ノ脱アラン」と、貼り紙が付されている。実際に 料紙の破損程度も、 ほ ぼこの順番で低減されていく傾向にある。おそら く現状の継がれ方となる以前には、上野氏が想定するような順序で継が れていたのだろう。 記載内容は、文治二年(一一八六)六月十六日の宇佐宮仮殿遷宮に関 する陣定の終了後に作成された、 参加公卿の意見を列挙した定文 (土代) で あ る。 巻 末 に「 一 見 了 / 参 議 左 大 弁( 花 押 )」 と あ る の は、 形 状 か ら 見 て 広 橋( 日 野 ) 兼 光( 一 一 四 五 ~ 一 一 九 六 ) の 花 押 だ ろ う。 『 玉 葉 』 当 日 条 に「 申 刻 参 内〈 直 衣 〉。 依 宇 佐 仗 議 也。 秉 燭、 公 卿 等 参 集。 仗 議 之間、無別儀云々。…今日仗議、上卿宗家卿、執筆左大弁兼光」とある 点を踏まえると、兼光が当日作成された定文の下書を、各種手続の終了 後に自宅へと持ち帰ったものが、広橋家に伝来したと考えられる。巻子 の奥部分の各種記載からは、定文の実際の作成手順も伺うことができる など、興味深い史料である。 H-63-41 『宇佐使発遣参仕記』 『 兼 光 卿 記 』( H-63-639 を 参 照 ) か ら、 治 承 二 年( 一 一 八 〇 ) 十 二 月 三 十 日 に 宇 佐 使 と し て 右 衛 門 権 佐( 藤 原 ) 親 雅 が 発 遣 さ れ る 際 の 記 事 を 抄 出 し た も の( 同 人 の 履 歴 な ど に 関 し て は、 平 藤 幸「 『 平 家 物 語 』 ﹁南都大衆摂政殿ノ御使追返事﹂をめぐって―摂政使忠成と親雅、有官 別 当 の こ と ど も ―」 『 国 文 鶴 見 』 四 〇、 二 〇 〇 七 年 三 月 な ど を 参 照 )。 本 史 料 は 巻 子 装 で、 全 体 で 五 紙、 う ち 墨 付 三 紙 か ら な り、 そ の 全 体 が 縦 二九 · 二 ㎝ の 白 紙 に 貼 り 付 け ら れ て い る( 軸 径一 · 八 × 長三二 · 三 ㎝ )。 本 紙の寸法は、縦二七 · 四×横一五 · 八(後補表紙)+四六 · 一(第一紙)+ 四七 · 六+三一 · 三(第三紙)+五 · 五 ㎝ (軸付紙)で、それぞれの奥上に 朱で「弐」 ・「三」 ・「四」と書き込まれている。なお第一紙に「弐」とあ り、端側には糊代痕があること、また第三紙が後欠であることなどを踏 まえると、本来は前後にさらに何紙か続いていたと考えるべきだろう。 ま た、 第 二 ~ 三 紙 の 下 方 は、一 · 七 ㎝ の 高 さ で 切 断 さ れ て い る。 な お、 継目には「井」と書かれているが、いずれも継直痕が明瞭なので、一々 の継目幅のデータは挙げない。 表 紙 は、 広 橋 本 の な か で は 珍 し く 旧 表 紙 が 残 さ れ て お り、 「 宇 佐 使 之 事 〈治承二 (奥) 保元〉 」(打付外題) とある。この ほ か 「﹁儀四ノ上﹂ (丹) /兼光卿宇佐使発遣参仕記 〈治承二年十一月卅日/完〉 〈経光卿筆〉 /﹁綴 合もとのまま﹂ (丹) 」(大正の整理の際に付された外題)ともある。 ある時点以降、宿紙を裏打としていたらしく、現状では更にその上か ら白紙を裏打している。また、第一紙はそれ自体が宿紙(それも製紙の 際、意図的に墨を混入した可能性が高い、濃い墨色)で、一次利用面に

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文字の存在が確認できるが、その詳細な記載内容まではハッキリ見えな い( 折 紙 の 書 状 か )。 第 二 ~ 三 紙 も や や 黒 ず ん で み え る が、 こ れ は 裏 打 の色の問題だけでなく、顕微鏡観察によると繊維間に黒い粒子が散在す るので、この二紙も再生紙である可能性は否めない。第二紙(裏)には 「若狭国/上絹拾疋   白布陸段/上糸捌勾   移花弐帖/三月   日」と、 また第三紙 (裏) (前欠) には 「上糸八勾   移花弐帖/三月   日」 とある。 なお、第一紙(裏)と第二~三紙(裏)は明らかに別筆で、紙の厚み も異なる (つまり書状の起草者は別人) 。しかし、 いずれの紙も糸目四 ㎝ 、 簀目一四本/三 ㎝ という点では一致しており、同一の簀で漉かれた可能 性が高い。 この規格の簀は、 おそらく当時の紙屋院で再生紙を漉く際に、 用いられていたものなのだろう。なお三紙ともに、表面に同じ縞が連続 している。これは二次利用の際、水分を含ませた上で打紙などを行い、 乾燥させる際に付いた板目ではないかとも想像される(各紙ともに、現 状では表面はかなり荒れているが、本来は軽く打紙されていたようであ る )。 た だ し、 こ の 種 の 紙 を 打 紙 す る と い う の は、 や や 特 殊 な 作 業 の よ うにも思われる。この点、後考を期したい。 (あるいは瑩紙か) 。 H-63-60 『宇佐使発遣記』 表紙には「 ﹁儀四ノ上﹂ (丹)/保元二年宇佐使発遣記〈八月廿八日   完〉 〈兼宣公筆〉 壱巻/ ﹁綴合もとのまま﹂ (丹) 」(外題) とある。寸法は、 縦二九 · 一×横二〇 · 〇 (表紙) +三七 · 一 (第一紙) +二九 · 五 (第二紙) +四 · 九 ㎝ ( 軸 付 紙 )。 軸 は、 径一 · 七 × 長三二 · 五 ㎝ 。 継 ぎ 方 は 二 次 利 用 面 か ら 見 て 順 継 で、 幅 は〇 · 三 ~〇 · 四 ㎝ 。 奥 に 数 ㎜ 幅 の 赤 茶 け た 部 分 が 顔を出している (元の軸付部分か) 。第一紙の端上に 「キ (井の残画か) 」、 奥上に「井   ×」 、第二紙の奥上に「終   キ(井の残画か) 」などと丹書 がある。第一紙は一三行 (ただし冒頭八 · 五 ㎝ は空白) 、第二紙は一五行。 裏の具注暦は末尾の暦跋(暦師自署部分)に「応永廿三年十一月一日従 四位下陰陽助賀茂朝臣定棟」とあるように、応永二十四年(一四一七) の暦なので、この写本の作成年代はおそらく応永二十五年以降である。 なおこの面には、天高①四 · 九 ・ ②五 · 八 ・ ③二 · 〇 ・ ④二 · 一 ・ 界高一三 · 〇 ・ 地高一 · 三・界幅二 · 一~二 · 二 ㎝ の界線が引かれている。打紙はなされて おらず、墨はかすれ・にじみが目立つ。 内容は、保元二年(一一五七)八月二十八日に行われた、宇佐使の発 遣 に 関 す る 諸 手 続 き に 関 す る 記 事 を、 『 兵 範 記 』( 平 信 範 ) か ら 抜 き 出 したものである(冒頭の「廿八日辛酉」から「直参東三条殿」までの部 分 )。 奥 書 な ど は 見 え な い が、 外 題 に 付 さ れ た 上 野 氏 の メ モ は、 広 橋 兼 宣(一三六六~一四二九)の筆跡とする。実際に筆跡を比較してもその 可能性は高く、とすれば本写本の成立下限は一四二九年(彼の死去した 年)ということになる。ただし前述した紙背の具注暦の存在や、作成契 機として想定される応永二十五年(一四一八)の年末に始まった宇佐八 幡宮の大造営との関係を念頭に置けば、成立は応永二十五年からそれ ほ ど時を経ない時期と推測するのが妥当だろう。当時、権大納言の地位に あった兼宣が、実際に宇佐使を発遣する際の前例として、諸手続きを進 める際の参考にするため抄出した資料と考えられる。 H-63-157 ~ 159 『改元部類記』 広 橋 本 の『 改 元 部 類 記 』( で 古 代 に 関 す る 内 容 の も の ) は、 冊 子 ( H-63-157 )・巻子( H-63-158 ~ 159 )の三種からなる。 ま ず 冊 子( H-63-157 ) に つ い て だ が、 こ れ は「 ﹁ 政 四 一 ノ 内 ﹂( 丹 ) / 改 元 部 類 記〈 自 承 平 至 嘉 保 〉 一 冊 」( 外 題 ) と あ る も の で、 内 容 は 延 長 九 年( 九 三 一 ) か ら 承 平 元 年 へ の 改 元 記 事 を 冒 頭 に、 寛 治 八 年 (一〇九四)から嘉保元年への改元時期までを諸記から抜粋している。 五 目 綴 で、 寸 法 は 縦二九 · 九 ×二一 · 三 ㎝ 、 丁 数 は 二 八 丁。 紙 厚 は 七 〇 ~ 七五 µm程度。糸目は四 ㎝ 前後で、簀目は広め。少量の未叩解繊維が混じ

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るが、地合は悪くない。表面は打紙しておらず、墨のにじみ・かすれが 散見される。奥には「康安二年(一三六二)無射(九月)四日、以右府 (藤原冬通)御本終書写功了。/(花押) 」・「本多僻字、必可校他本也。 前 黄 門 侍 郎( 広 橋 兼 綱 )( 花 押 )」 ( 二 八 ウ ) な ど と あ り、 康 安 二 年 に 広 橋 兼 綱 が 書 写 し た こ と が 分 か る。 次 の 例( H-63-158 ) と 同 じ く、 貞 治 元年への改元 (一三六二年九月) に備えて書写した資料集と考えられる。 つ ぎ に 巻 子( H-63-158 ) は、 計 一 六 紙 か ら な る。 各 紙 の 寸 法 は、 縦 二九 · 六×横二七 · 九 (後補表紙) +二二 · 八 (原表紙) +四六 · 五 (第一紙) +四七 · 〇 +四八 · 二 +四七 · 八(二七 · 三 +二〇 · 五 ) +四八 · 四 +四八 · 五 +四八 · 四 +四七 · 九(三三 · 四 +一四 · 五 ) +四七 · 九 +四八 · 三 +四八 · 四 +四八 · 〇(二七 · 九+二〇 · 一) +四八 · 一+四八 · 三+四八 · 二+四七 · 六(第 十六紙)+四 · 六 ㎝ (軸付紙)で、軸は径一 · 八×長三三 · 〇 ㎝ 。なお、第 四 ・ 八 ・ 十二の各紙は内容上の切れ目で切断されているが、かつては同紙 だったことが明らかなので、一紙として寸法を採った。継目はいずれも 順継で、幅は奥の二ヶ所(〇 · 六 ㎝ )を除き、〇 · 四~〇 · 五 ㎝ 。現状では 全面に打紙が施されているが、一次利用面(書状)の墨が二次利用面に まで染み出している箇所が目立つので、一次利用の段階では打紙されて いなかった半流し漉きの紙を、二次利用に際して打紙したことが分かる ( そ の た め 二 次 利 用 面 の 墨 は、 一 次 利 用 面 ま で 染 み 出 し て い な い )。 第 八紙裏の墨映は、そうした打紙の際に生じたものだろう。ただし二次利 用面は、打紙したわりには墨の乗りの悪いところも散見される。 表 紙 に は「 ﹁ 政 五 一 ﹂( 丹 ) 改 元 部 類 記〈 中 右 記 / 自 嘉 保 至 天 承 〉  光 兼綱公 業 卿 記   壱 巻 /﹁ 綴 合 こ の ま ま ﹂( 丹 )」 ( 外 題 一 )・ 「 改 元 部 類 記〈 嘉 保至天承(中右記)/広橋兼綱筆〉 」(外題二)などとある。原表紙には 「 改 元 部 類 記   中 右 記 」( 現 内 題 ) と あ る が、 こ れ も 本 文 と 別 筆 の よ う で あ る。 第 十 六 紙 の 端 裏 に「 建 永 / 長 兼 記 切〈 …〉 」 と あ る が、 裏 打 が 厚くて読めない。同じく第十六紙に「康安第二南呂(八月)中旬八、右 府( 鷹 司 冬 通 ) 御 本 書 写 了 」( 丹 ) と あ る の で、 鷹 司 冬 通( 一 三 三 〇 ~ 一三八六) の所蔵する本を借りて、 広橋兼綱 (一三一五~一三八一) が、 康安二年(一三六二)八月に書写したものと分かる。内容は、寛治八年 (一〇九四)から嘉保元年への改元にはじまり、大治六年(一一三一) か ら 天 承 元 年 へ の 改 元 ま で を、 『 中 右 記 』 の 記 事 か ら 抜 粋 し た も の で あ る。なお一次利用面の書状・文書の多くは断片的で理解しづらいが、そ のなかに「蔵人少輔」宛の書状が何通か含まれているので、兼綱が貞和 年間(一三四五~一三五〇)に蔵人治部少輔の地位にあった時期に集積 した書状・文書群を転用したものと考えられる。おそらく翌月に予定さ れていた、康安二年から貞治元年への改元(一三六二年九月)に備えて 書写した資料集なのだろう。 巻 子( H-63-159 ) は 計 一 六 紙 か ら な る。 各 紙 の 寸 法 は、 縦二九 · 〇 × 横二七 · 九( 後 補 表 紙 ) +四三 · 七( 第 一 紙・ 前 闕 ) +四二 · 二 +四七 · 九 +四七 · 八 +四八 · 一 +四七 · 三 +一九 · 六 +四八 · 二 +四六 · 九(二二 · 一 + 二四 · 八 ) +四八 · 三 +四六 · 二 +四八 · 二 +一七 · 二 +四七 · 〇(一二 · 一 + 三四 · 九 ) +四八 · 〇 +一七 · 六( 第 十 六 紙 ) +四 · 六 ㎝ ( 軸 付 紙 ) で、 軸 は径一 · 八×長三三 · 〇 ㎝ 。継目はいずれも順継で、 幅は〇 · 三~〇 · 四 ㎝ 。 二次利用の紙なので紙質は様々だが、両面から他面に対して墨が染み出 している。ただし二次利用面では、比較的、墨のにじみやかすれが少な く、乗りもよい(半流し漉きの紙に、二次利用に際して、軽く打紙した も の だ ろ う )。 奥 に 幅 六 ㎝ ほ ど 黒 ず ん だ 部 分 が あ り、 こ れ は 旧 軸 付 部 分 の一部だろう。また各紙の継目に「一」~「十三」までの番号が振って あるが、振り方は飛び飛びで、また番号の重複も見られる。かつてはか なりの錯簡が存在していたのだろう。内容は、外題に「 ﹁政三﹂ (丹)改 元 部 類 記〈 槐 林 記   山 槐 記   山 丞 記   首 闕 / 元 暦・ 文 治・ 建 久 〉  一 巻 /﹁綴合このまま﹂ (丹) 」とあることからも分かるように、この時期の 改元に関して、諸記から記事を抄出している。奥書の類は見えないが、

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裏(一次利用面)に頭弁を充所とした書状が見えるので(第十二紙裏・ 第十四紙裏の二通) 、広橋家の当主で頭弁を経験した人物が、 (おそらく その在任時期に)改元に備えて作成した資料集と考えるべきだろう。 H-63-198 『藤原行盛年号勘文』 本巻子は、 寸法が縦二九 · 一×横一九 · 五(後補表紙) +四二 · 三(第一紙) +四二 · 四 +四二 · 五 +四二 · 二( 第 四 紙 ) +四 · 七 ㎝ ( 軸 付 紙 ) で、 軸 は 径一 · 九 × 長三二 · 二 ㎝ 。 継 目 は 順 継 で、 幅 は 順 に〇 · 三 ~〇 · 五 ・ 〇 · 二 ~ 〇 · 五 ・ 〇 · 四 ㎝ である。第四紙の奥がやや黒ずむ。全体に、 天高①二 · 一 ・ ②一 · 九 ・ ③三 · 八 ・ 界高一九 · 四 ・ 地高一 · 九 ㎝ の薄墨界が引かれている。 表紙には「 ﹁政十五﹂ (丹)/年号勘 「雑」 (丹) 例   〈兼宣公筆〉   一巻/﹁綴合この ま ま ﹂( 丹 )」 ( 外 題 ) と あ る。 各 紙( 端 上、 第 一 紙 の み 奥 上 ) に は、 順 に「 一 」 ~「 四 」( 丹 ) の 番 号 が 振 ら れ て い る。 た だ し、 第 一 紙 冒 頭 に は糊代痕が残るので、かつては更に前方にも紙が続いていたと考えられ る。本文には、墨・丹などで訂正・補入が行われているが、その筆跡は 本文と同筆のものも含め、複数ある。紙はいずれも打紙しておらず、反 対面へ墨が染み出している。また墨の乗りは悪く、全面でかすれて読め ない部分が生じている。 内 容 は、 「 某 年 二 月 十 四 日 中 原 師 遠 言 上 状 」( 一 ~ 二 ) と、 「 大 治 元 年 ( 一 一 二 六 ) 二 月 十 八 日 藤 原 行 盛 勘 文 」( 二 ~ 四 ) か ら な る。 中 原 師 遠 (一〇七〇~一一三〇)は、寛治四年(一〇九〇)以降、長らく大外記 の地位にあった実務官人。藤原行盛(一〇七四~一一三四)は、勘解由 次官・式部少輔などを経て、保安三年(一一二二)に文章博士に就任し た 人 物。 藤 原 忠 実 の 家 司 も 勤 め た。 父 行 家 と と も に、 『 中 右 記 部 類 紙 背 漢詩集』などに作品を残している。裏は第四紙以外いずれも文字がある が、 年紀の明らかなものは含まれていない(第一 ・ 第三紙の裏はメモで、 第二紙の裏は仮名書状) 。 H-63-210 ~ 211 『年号勘文部類』 広橋本のなかには同題の巻子が計八巻あるが、そのなかから古代に関 する内容の二巻を取り上げる。なお、両写本は別筆である。 まず H-63-210 (自天承度至久安度)は、 「﹁政五四﹂ (丹)/年号勘文 部類〈自天承度至久安度〉   一巻/﹁綴合もとのまま﹂ (丹) 」(外題)と あ り、 計 一 〇 紙 か ら な る。 寸 法 は、 縦二八 · 四 × 横一八 · 七( 後 補 表 紙 ) +四三 · 二( 第 一 紙 ) +四三 · 三 +四三 · 三 +四三 · 四 +四三 · 五 +四三 · 六 +四三 · 五 +四三 · 五 +四三 · 五 +四三 · 四( 第 十 紙 ) +五 · 〇 ㎝ ( 軸 付 紙 ) で、 軸 は 径二 · 〇 × 長三一 · 八 ㎝ 。 継 目 は 順 継 で、 順 に〇 · 五 ・ 〇 · 六 ・ 〇 · 二 ~〇 · 四 ・ 〇 · 五 ・ 〇 · 四 ・ 〇 · 四 ・ 〇 · 四 ・ 〇 · 四 ・ 〇 · 三 ㎝ 。第一紙の端裏には 「年 号勘文 〈自天承元至久安元〉 第一」 (本文と別筆) とある。紙は糸目四 ㎝ 、 簀目は見えない。地合は並で、未蒸解・未叩解の繊維がやや混じる。打 紙は施していないが、 墨はよく乗っており、 ところどころでにじむ程度。 紙厚は裏打によって正確には測れないが、おおよそ八〇~九〇 µm。内容 は、たとえば大治から天承への改元に関して、藤原敦光・大江有光・藤 原行盛の三名から提案された改元案を列挙したもので、冒頭には本文と 別 筆 で「 崇 徳 院 / 大 治 六 正 廿 六 改 元 勘 文〈 天 承 元 〉」 ・「 三 人 」 な ど と 書 き込まれている(以下、長承 ・ 保延 ・ 永治 ・ 康治 ・ 天養 ・ 久安の事例が、 同形式で並んでいる) 。 つぎに H-63-211 (自安元度至貞応度)は、 「﹁政一一﹂ (丹)/年号勘 文部類〈自安元度至応徳度〉   一巻/﹁綴合もとのまま﹂ (丹) 」(外題) と あ り、 計 五 紙 か ら な る。 寸 法 は、 縦二八 · 〇 × 横一九 · 四( 後 補 表 紙 ) +四七 · 五( 第 一 紙 ) +四七 · 四 +四七 · 二 +四七 · 八 +四六 · 二( 第 五 紙 ) +五 · 〇 ㎝ (軸付紙) で、 軸は径一 · 九×長三一 · 二 ㎝ 。紙は、 糸目二 · 五 ㎝ 、 簀目やや広め。未叩解繊維が混じり、漉きムラが少なくないなど、地合 はあまり良くない。打紙は施されておらず、墨はかすれが目立つ。内容 は、安元~貞応にいたる間の改元の際に提案された年号案を、提案者の

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姓 名 と と も に 一 覧 し た も の。 各 紙 の 奥 に「 一 」 ~「 五 」( 朱 ) の 番 号 が 振られている。 H-63-249 『大嘗会記』 (朝隆卿記) 『 朝 隆 卿 記 』 は、 北 家 勧 修 寺 流 の 藤 原 朝 隆( 一 〇 九 七 ~ 一 一 五 九 ) の 日 記 で あ る。 ま と ま っ た 形 で は 残 っ て お ら ず、 現 在 は 逸 文 や そ れ を 収 集 し た 形 で し か 見 る こ と が で き な い。 本 書 は、 そ の な か か ら 康 治 元 年 (一一四二)七月の大嘗会に関する記事を集成したもので、 『朝隆卿記』 〔 内 閣 文 庫 一 六 一 ― 三 七 〕 な ど と 同 内 容 の 写 本 で あ る 〔 木 本 好 信「 『 朝 隆 卿 記 』 と 藤 原 朝 隆 」『 平 安 朝 日 記 と 逸 文 の 研 究 』 桜 楓 社、 一 九 八 七 年 四 月、 初 出 一 九 八 五 年 〕 。 全 文 が 木 本 好 信「 東 洋 文 庫 蔵 朝 隆 卿 記 大 嘗 会 記 」 〔『 国 書 逸文研究』八、 一九八二年二月〕 に翻刻されている。 寸 法 は、 縦三〇 · 五 × 横二〇 · 三( 後 補 表 紙 ) +四二 · 五( 第 一 紙 ) +四四 · 一 +一四 · 一 +二六 · 三( 第 四 紙 ) +四 · 〇 ㎝ ( 軸 付 紙 )。 軸 は 径 一 · 七 × 長三三 · 三 ㎝ 。 継 目 は 順 継 で、〇 · 九 ~一 · 八、 一 · 三 ~一 · 六、 〇 · 六 ~〇 · 七 ㎝ と、 部 分 的 に は か な り 幅 広 で あ る。 た だ し、 二 次 利 用 面 の 本 文には、第一紙奥・第二紙奥で不自然な空白があり、継ぎ直しされてい る 可 能 性 が 高 い。 全 体 に 地 高一 · 八 ㎝ の 押 界 ら し き も の が 引 か れ て い る が、 こ れ は 第 三 紙 後 半 ~ 第 四 紙 に か け て の 下 方 切 断 部 分( 高一 · 七 × 幅 三五 · 七 ㎝ )と連続するので、 界線ではない可能性もある。第四紙には 「院 御抄事申出之所、書写畢。/文正元年(一四六六)七月七日/黄門府公 綱 光 」( 奥 書 ) と あ り、 広 橋 綱 光( 一 四 三 一 ~ 一 四 七 七 ) の 自 筆 と 分 か る。なお、 第一~三紙 (本文) と 「文正元年七月七日」 (奥書) の一行は、 第 四 紙( 本 文 ) と「 院 御 抄 ~」 ・「 黄 門 ~」 ( 奥 書 ) の 二 行 と は、 筆 の 太 さが異なっている。それぞれ別の段階で書かれたと考えるべきだろう。 各紙の裏面 (一次利用面) はいずれも仮名文書である (第四紙は白紙) 。 第 一 紙 の 奥 上 に「 一 筆 」・ 第 二 紙 の 袖 上 に「 二 筆 」 と、 以 下 順 に 第 四 紙 の 袖 上 の「 六 筆 」 ま で、 番 号 が 振 ら れ て い る( い ず れ も 丹 )。 紙 質 は 第 一 ~ 三 紙 は ほ ぼ 同 質 で、 第 四 紙 の み 明 ら か に 別 の 紙( 厚 さ も 薄 め )。 前 半三紙が連続する仮名書状で、第四紙はその礼紙だった可能性も想定で きよう。紙厚は一二〇~一五〇 µmといずれも厚めで、厚礼の書状料紙を 転用したものと考えられる。 なお、かつて広橋家に、この他にも『朝隆卿記』の写本があったらし いことは、 「大治四 ・ 五両年朝隆卿記」 の借覧を要望する 「治部少輔□□」 から広橋経光宛の書状 (『頼資卿記抄』 裏文書) からも伺える。詳しくは、 森茂暁「一条紹介(三) 」 〔『国書逸文研究』七、 一九八一年八月〕 を参照。 H-63-271 『警固中節会部類記』 『 山 槐 記 』 を 中 心 と す る 三 種 類 の 古 記 録 か ら、 節 会 に 関 連 す る 記 事 を 抄出した部類記。計二〇紙(同紙の切断を含めると二三枚)で、内容は 第二~六(前半)紙が『山槐記』 (中山忠親)治承五年正月条、 第六(後 半)~十二(前半)紙が『山槐記』治承四年十二月条、第十二(後半) ~十五 (前半) 紙が 『山丞記』 (藤原定長) 治承五年正月条、 第十五 (後半) ~十七 (前半) 紙が 『一条中納言記』 (一条公有) 建武三年条、 第十七 (後 半 ) ~ 二 十 紙 が『 洞 院 内 府 記 』( 洞 院 実 夏 ) 延 文 五 年 条 の、 そ れ ぞ れ の 抄出からなる。 外題に「 ﹁儀八六﹂ (丹)/警固中節会部類記   完   〈光業卿筆〉   壱巻 /「 綴 合 も と の ま ま 」( 丹 )」 と あ る が、 裏 文 書 の 分 析 〔 菊 池 紳 一「 『 警 固 中節会部類記』について」 『学習院史学』 25、 一九八七年三月〕 によれば、 本 巻子の書写は広橋仲光(一三四二~一四〇六)の時期に行われたと想定 される(筆跡は複数ある) 。なお全文の翻刻が、小川剛生「 『警固中節会 部 類 記 』 研 究、 附 翻 刻 」 〔『 明 月 記 研 究 』 5、 二 〇 〇 〇 年 一 一 月 〕 に お い て なされている。 各 紙 の 寸 法 は、 縦二九 · 七 × 横二七 · 七( 後 補 表 紙 ) +二三 · 四( 第 一

表 紙 に は「 ﹁ □ □ ﹂( 丹 ) / 親 経 卿 記〈 自 治 承 四 年 五 月 一 日 / 至 七 月 奥書などが見えないのでハッキリしたことは言えないが、広橋本のなか や未叩解の繊維が目立つ。 ( 後 ろ に 行 く ほ ど、 一 行 の 字 数 が 減 少 し、 文 字 も 崩 れ る 傾 向 に あ る )。 µm · 程 度 で、 全 体 に 打 紙 さ れ ず、 糸 目 は三 二 ㎝ 、 簀 目 は 広 め で、 や 切っていない部分も散見される。字配は半丁一〇行、一行一三~一九字

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