はじめに
本稿は山口県・周防大島町の沿革を踏まえ、現在の漁業協同組合 (以下漁協と称する)と共同漁業権のありようを記述・分析するこ とを通じて、「地域社会のあり方」一般を考察する視点を探ること を目的としている。当地は島であるが、藩政期に多くの漁浦・漁村 が存在していたわけではない。島末と呼ばれる島の東部地域(旧東 和町)では沖家室、小泊、伊保田、西部地域では久賀や安下庄、旧 大島町の小松といった集落で漁業の発達が見られたにすぎない。周 防大島全体でも漁業よりも農業や製塩業が盛んであったことは否め ない。 しかしながら、その周囲を海でかこまれ、且つ遠洋に浮かぶ離島 ではなかったことは、当地での「海の力」が発揮されることとな る。すなわち、晴れた日に少し高い丘陵からは海を隔てた本州の 山々が見られたことは、島を出たい気持ちを高揚させたろうし、実 際にたやすく小舟で他出する者も少なくなかったようだ(1)。こう いった他出の容易さは帰郷の容易さとも通じるが、このことが当地 の共同漁業権の行使実態や「地域社会のあり方」とも連関している のではないかということを指摘することが本稿の意図である。漁業協同組合と共同漁業権
-山口県・周防大島町の場合-
林 研 三
はじめに 1.周防大島町の概況と沿革 2.周防大島の漁協 3.共 141 号共同漁業権 おわりに-「村落構造論」への新たな視点言うまでもなく当地の沿岸全域には共同漁業権が設定されてい る。そして、この共同漁業権は漁協に免許される漁業権である。も ともと漁協は明治期の漁業組合令による漁業組合を、共同漁業権は 明治漁業法(明治34年制定、明治43年全面改正)による地先水面専 用漁業権を前身としていた。さらにその漁業組合は後述するように 藩政期の村、いわゆる藩政村を必ずしも単位としていたわけではな い。それまでの漁業慣行にもとづいて複数の藩政村から一つの漁業 組合が成立することもあった。 さらに、地先水面専用漁業権は、明治8年の太政官布告「海面官 有宣言」以来の混乱していた漁業権制度に一応の決着をつけた明治 漁業法によって規定されていた。この漁業権は藩政期の「山野海川 入会」での「磯は地付き、根付き、沖は入会い」の「磯は地付き、 根付き」を継承するものであり、「海の入会権」であった。戦後の 漁業法(昭和24年制定)による共同漁業権はその多くを引き継いで おり、「海の入会権」としての性格の多くを継承している(2)。 勿論、漁業組合や漁協はその後の合併を経て今日に至っており、 それに伴い共同漁業権の免許をうける漁協も広範囲に及ぶようにな った。しかし、このような広範囲の共同漁業権区域での組合員によ る操業は決して一律ではなく、各漁浦・漁村でそれぞれの漁業の方 法が規制されており、その規制の内容から当地の「地域社会のあり 方」を考察する視点を確立できるのではないかと考えている。 この「地域社会のあり方」とは村落構造論と呼ばれてきたテーマ と近似するが、従来の村落構造論は村落の内部構造に主眼がおかれ てきていた。本稿では各集落(漁浦・漁村)の内部構造ではなく、 対外的な関係性に焦点を合わせるという意図のもとで「地域社会の あり方」という言い方を採用した。 なお、周防大島は宮本常一の故郷であり、当地についての著作や 言及も多いことで知られているし、その晩年には出身地の東和町の 郷土誌を編纂・執筆もしている。本稿でも折に触れてそれらを引用 していきたい。
1.周防大島町の概況と沿革
(1)人口と産業 周防大島町は平成16年(2004)10月1日に大島郡久賀町、大島町、 東和町、橘町が合併して成立した自治体である。周防大島は山口県 東部に位置し、瀬戸内海に浮かぶ島では3番目の面積(138.17平方 キロメートル)を有している。地勢は全般的に山岳状で、海岸部に 丘陵地がわずかに広がっているにすぎない。「地目別民有地面積」 をみてみると、総面積1094158aのうち山林面積が615928aをし め、田は61810a、畑は328334aである。しかし、経営耕地面積は 10000aほどであり、このうち樹園地は8190a、田は1380a、畑は 430aとなっている。気候は温暖で年間平均気温は15.5度である。 当地の「産業別就業人口」では、第一次産業の農業は2297人(専 業農家720、第一種兼業農家102、第二種兼業農家464)、林業は5 人、漁業は513人である。第二次産業では建設業が最も多く925人、 次いで製造業が712人であった。第三次産業が最も多く、なかでも 卸売・小売業が1307人、医療・福祉が1351人であり合計5270人であ る(『平成17年町勢要覧』による)。医療・福祉が最多であるが、これ は島内での高齢者率の上昇に伴う介護施設の増加によるものであろ う。平成25年(2013)9月に周防大島高校の3年生数名と懇談した 際には、ほとんどの生徒が高校卒業後は島を出るという意向を示 し、その一人は「卒業後の就職といっても、ここには介護ぐらいし かないから」と言っていたことも、この就業人口の趨勢をあらわ している(3)。 島内の人口は他の多くの農山漁村と同様に、過去30年間は減少傾 向にある。昭和55年(1980)以降平成26年(2014)までの人口の推 移を示したものが表(1)である。昭和55年(1980)には3万人を 超えていが、平成22年(2010)を過ぎると2万人を割ってきた。こ れに伴い人口減少率も上昇している。特に最近の5年間は減少率が 10%を上回っている。高齢者率もこの30年間で一貫して上昇しており、平成27年度(2015)には半数以上が65歳以上となっている。 S55 (1980)(1985)S60 (1990)H 2 (1995)H 7 (2000)H12 (2005)H17 (2010)H22 (2015)H27 人口 32021 29749 27119 24795 23013 21392 19889 17199 A(%) 24.3 26.7 33.2 39.0 42.5 44.4 47.4 51.9 B(%) 7.1 8.8 8.6 7.2 7.0 7.0 13.5 表(1)人口の推移(Aは 65 歳以上の構成比率、Bは減少率) (2)沿革 周防大島町は平成16年10月1日に成立したことは既述したが、そ れ以前の東和町、橘町、大島町、久賀町も昭和30年(1955)に町村 合併促進法によって新たに成立した自治体であった。東和町はそれ までの油田村、和田村、森野村、白木村が合併して成立した。合併 直後の昭和35年(1960)には世帯数4101、人口14397人、昭和45年 (1970)には世帯数3717、人口10493人(4)であった。東和町に合 併した旧4ヶ村は明治22年の町村制施行によって成立したものであ るが、白木村は昭和16年(1941)に家室西方村から名称変更された 村である。油田村はそれ以前の藩政期の伊保田村と由宇村、和田村 は小泊村と和田村と内入村、森野村は神浦村と和佐村と森村と平野 村、家室西方村は西方村と外入村と地家室村と沖家室村が合併した 行政村であった。表(2)はこれらの経緯を示したものである。 橘町は安下庄村と日良居村、浮島、沖浦村秋が合併した町であ り、蒲野村三蒲、小松町、屋代村、沖浦村の家房以西が合併したの が大島町であった。久賀町は蒲野村椋野のみを合併する形でそのま ま新しい久賀町として成立することになった(表(3)参照)。 表(3)の日良居村には浮島が属することになるが、浮島はもと もとは町村制施行期には森野村に併合された森村(表(2)参照) に属していた。しかし、浮島の南端の見壁山をめぐって森野村との 間で入会訴訟が生じた。もともと見壁山については浮島住民の草 刈・薪取り場としての入会慣行があったが、訴訟では浮島が敗訴し
た。これをきっかけとして浮島は日良居村に属することになるが、 見壁山だけは森野村に属していた(5)。 藩政期の椋野村も一度は三蒲村とともに蒲野村を構成していた が、昭和30年の町村合併時に蒲野村議会が大島町への参加を議決し た時には、椋野の議員の大半は反対した(6)。その後も大島町から の分離、久賀町への合併運動が椋野では推進され、住民投票の結果 久賀町に併合されることとなった(7)。 表(2)東和町の推移 藩政期* 明治6年(大区小区制) 明治 22 年(町村制) 昭和 30 年 伊保田村 第一大区第一小区 油田村 東和町 由宇村 小泊村 和田村 和田村 内入村 神浦村 第二小区 森野村 和佐村 森村 平野村 西方村 第三小区 家室西方村 (後に白木村に改称) 外入村 地家室 沖家室 (*天保年間の「風土注進案」) 藩政期 明治6年(大区小区制) 明治 22 年(町村制) 昭和 30 年 安下庄 第一大区第四小区 安下庄村 (大正3年から町) 橘町 日前村 第五小区 (浮島を含む)日良居村 土井村 油良村
(3)現在の周防大島町 藩政期以来の上記の経緯を経て成立した周防大島町であるが、そ の成立後も旧町の4区分はいくつもの点で維持されている。たとえ ば、町役場は本庁と支所に分かれているのではなく、大島庁舎、久 賀東庁舎、東和庁舎、日良居庁舎、橘庁舎等に分かれ、総務部は大 島庁舎、産業建設部は久賀庁舎、環境生活部は久賀東庁舎、健康福 祉部は日良居庁舎におかれている。 この庁舎以外でも、コミュニティーセンターや図書館は合併以前 のまま、この4地区にそれぞれおかれ、行政上は一つの自治体であ ってもその内部の区分は多かれ少なかれ未だ維持されているのであ る。同様なことはそれぞれの旧町内部の藩政村や集落についても、 その「自律性」の程度は落ちるが言えそうであることは、後述する ことになろう。 高等学校については、従来島内には安下庄高校と久賀高校が存在 表(3)町村の推移 秋村 第九小区 沖浦村 橘町 日見村 大島町 横見村 戸田村 出井村 三蒲村 志佐村 第十小区 (大正6年から小松町)小松志左村 小松村 屋代村 第八小区 屋代村 (昭和 29 年小松町と共 に旧大島町成立) 三蒲村 第七小区 蒲野村 椋野村 椋野は久賀町へ編入 久賀町 久賀村 第六小区 (明治 37 年から町制)久賀村
していたが、平成19年(2007)4月に両校を統合した周防大島高校 が誕生し、従前の二校は平成21年(2009)3月に閉校している。た だし、校舎はそれぞれの二校の校舎を使用し、普通科と地域創生科 がそれぞれ安下庄校舎と久賀校舎に分かれている。 周防大島町では平成18年度(2006)から平成27年度(2015)にか けての「ひと・まち☆きらり 周防大島総合計画」が策定されてい る。「農林水産業・商工業・観光」、「生涯学習・教育・生活基 盤」、「福祉・安全・防災・防犯・交通」を三本柱としているが、その なかでも力を入れている一つが「観光」である。「観光」政策とし ては「体験交流型観光」と「サタデーフラ」が中心となっている。 「体験交流型観光」に関しては、平成20年(2008)に「周防大島 町体験交流型観光推進協議会」が設立された。この協議会が進める 「体験学習」は、従来の修学旅行のために用意されていた「広島県 の『平和学習』のマンネリ化に対応する」ために考案されたもので あるという。農漁家に泊まる「民泊体験」をはじめ、「竹のぽんぷ ら飯づくり」、「カヌー」、「石風呂」、「茶がゆづくり」等が用 意されている。 他方の「サタデーフラ」とは平成20年(2008)から毎年7月末か ら6、7週間かけて、町内の4会場で行われるフラダンスの競演会 である。当初は約20チームの参加であったが、平成25年(2013)は 約100チームが参加した。周防大島観光協会の江良正和事務局長に よると、「現在(平成25年)の観光人口は年間約93万人であるが、 そのうち1、2万人はフラ関係」であるという。 もともと当町ではフラダンスが盛んであったと言われているが、 その理由の一つが明治期の「官約移民」に始まる海外移民であっ た。明治18年から明治28年までの当町からのハワイへの「官約移 民」は3900人を越えていた(8)。移民のなかにはその後戻ってきた 者もおり、町内の片山地区はそういった帰島者のが多く居住してい る(9)。 また昭和38年(1963)には周防大島とハワイ・カウアイ島の間で
姉妹島提携が結ばれており、その交流が現在も継続していたし、こ のハワイ移民関係の資料を展示する「日本ハワイ移民資料館」も設 立されている。こういったことが「サタデーフラ」が開催される基 盤となっていたようである。 冒頭でも言及した民俗学者の宮本常一、及び作詞家の星野哲朗は 当町の出身である。宮本常一の著作や蔵書、撮影した写真等は当町 の「周防大島文化交流センター」に収蔵・展示されており、「星 野哲朗記念館」では星野の作品の世界を体感できるマルチスクリ ーンやそのエピソードを綴る「星野工房」などが設置されている。 ちなみに平成20年度(2008)の町内の主要な施設への観光客数をみ てみると、「周防大島文化交流センター」は6394人、「星野哲朗 記念館」は41220人であり、最多は道の駅「サザンセトとうわ」の 227570人であった。
2.周防大島の漁協
周防大島には現在は3漁協が存在する。大島町漁協、久賀漁協、 山口県漁協である。前二者と最後の山口県漁協は一見してもその規 模の違いは明白であるが、この山口県漁協は平成17年(2005)8月 1日に山口県漁業協同組合連合会の主導のもとで39漁協が合併して 成立したものである。この39漁協のなかには当時の島内の東和町漁 協、安下庄漁協、日良居漁協、浮島漁協が含まれていた。現在島内 には山口県漁協の東和町支店、安下庄支店、日良居支店、浮島支店 があるが、それぞれが東和町漁協、安下庄漁協、日良居漁協、浮島 漁協の管轄区域を継承している。 安下庄漁協、日良居漁協、浮島漁協は橘町内の漁協であり、東和 町漁協はそれ以前の油田漁協(由宇・情島・伊保田を含む)、和田 漁協(和田・内入)、小泊漁協(小泊・和佐)、森野漁協(森・平 野・神浦)、白木漁協(外入と船越を含む)、沖家室漁協が昭和40 年(1965)に合併したものである。昭和40年(1965)に合併した東和町内のこれらの6漁協は、明治 22年の町村制によって成立した行政村やそれ以前の藩政村を単位と した漁協であったが、この6漁協も町村制以前に設立されていた次 の9漁業組合が合併したものである。すなわち、沖家室漁業組合、 家室西方内浦漁業組合(下田、長崎、西方)、外浦漁業組合(船 越、外入、伊崎、地家室、佐連)、小積漁業組合(小積、大積)、 森平野神浦漁業組合、和佐漁業組合、和田村漁業組合、伊保田漁業 組合(伊保田、小伊保田、雨振、両源田、情島)、油宇漁業組合 (油宇、日向泊、馬ヶ原)である(10)。 この明治期に設立された漁業組合は藩政村単位や町村制によって 成立した行政村単位ではない。むしろ藩政期の各漁浦での漁業慣行 によってこれらの組合は成立したのであり、その漁業組合ごとに地 先水面専用漁業権が免許されていた。このことは集落と漁業の関係 や各地先漁場の「狭さ」を示唆するとともに、その「狭さ」を克服 するための漁業組合間の入漁権などによる相互関係が想定されよ う(11)。 戦後は水産業協同組合法により漁業協同組合が各地で設立される ことになる。安下庄漁協は戦前の安下浦漁業組合を前身とし、戦中 の安下庄町漁業会を経て昭和24年(1949)8月に333名の組合員に よって設立された。日良居漁協の前身は明治36年3月に設立された 日良居村漁業組合であり、これも日良居漁業会を経て、昭和24年 (1949)10月に設立された。当時の日良居漁協の組合員数は正組合 員は239人、准組合員は14名であったが、昭和25年(1950)9月に は離島である浮島の組合員が全員脱退し、組合員数117名で浮島漁 協を設立した(12)。 これらの旧漁協では沿岸漁業が主であったが、その漁獲量はその 後の高度成長期には著しく低下し、若年労働力も他産業に流失して いった。昭和35年(1960)に山口県は「山口県沿岸漁村振興漁民運 動」を提唱し、昭和38年(1963)8月には「沿岸漁業振興法」も制 定され、これらによって漁業経営の近代化に取り組み、1.5倍の生
産額の増加を試みた。しかし、下記の表(4)の三漁協の昭和44年 (1969)から昭和48年(1973)の漁獲高の推移を見ると、浮島漁協 以外はそのような成果は得られていない(13)。 安下庄漁協 日良居漁協 浮島漁協 総計 S.44 495 242 187 925 S.45 207 284 209 700 S.46 257 289 214 760 S.47 360 236 264 860 S.48 514 192 290 996 大島町内の漁協についても若干言及しておこう。町内には沖浦漁 協、小松漁協、蒲野漁協が昭和24年(1949)に設立されていた (14)。これらは新大島町成立以前の旧町村に対応し、3漁協が合併 したのが現在の大島町漁協である。 このように、山口県漁協への合併前は周防大島には6漁協が、さ らにそれ以前にはそれ以上の多くの漁協や漁業組合があったのだ が、このことは当初の各漁浦・漁村の「自律性」を示唆するととも に、その後の漁協や漁業組合の合併過程、あるいは入漁慣行からは その「自律性」と併存する開放性がうかがわれるかもしれない。と もあれ、ここではまず平成元年(1989)以降の、山口県漁協に合併 した4漁協(平成17年以降は4支店)と久賀漁協、大島町漁協の組 合員数や漁獲高等の約20年間の推移を示しておこう。 この表(5)からもわかるように、これら6漁協のなかでは東和 表(4)漁獲高の推移 ( 単位;トン ) 年 漁港名 属地陸揚量(トン) 属地陸揚金額 (百万円) 登 録 漁船数 正組合員 数 准組合員 数 組合員数(合計) 元 東和町漁協 1,988.00 932 1,023 421 449 870 日良居漁協 186.00 73 85 32 107 139 安下庄漁協 261.00 183 160 126 150 276
元 浮島漁協 535.00 386 198 86 52 138 久賀漁協 28.00 20 88 30 27 57 大島町漁協 513.00 510 161 79 73 152 合 計 3,511.00 2,104 1,715 774 858 1,632 5 東和町漁協 1,965.00 966 905 370 424 794 日良居漁協 130.00 69 75 28 70 98 安下庄漁協 330.00 83 139 109 129 238 浮島漁協 490.00 450 186 87 52 139 久賀漁協 28.00 25 85 28 25 53 大島町漁協 499.00 501 160 67 69 136 合 計 3,442.00 2,094 1,550 689 769 1,458 10 東和町漁協 1,057.00 604 793 311 423 734 日良居漁協 93.00 82 61 32 67 99 安下庄漁協 322.00 164 135 45 42 87 浮島漁協 475.00 381 189 71 32 103 久賀漁協 40.00 35 62 22 26 48 大島町漁協 494.00 495 160 53 60 113 合 計 2,481.00 1,761 1,400 534 650 1,184 15 東和町漁協 1,258.00 479 707 235 406 641 日良居漁協 120.00 45 43 26 71 97 安下庄漁協 245.00 136 104 41 32 73 浮島漁協 596.00 348 174 70 8 78 久賀漁協 23.00 19 59 18 25 43 大島町漁協 302.00 195 157 52 51 103 合 計 2,544.00 1,222 1,244 442 593 1,035 20 東和町漁協 1,228.00 740 641 140 345 485 日良居漁協 76.00 26 51 19 12 31 安下庄漁協 362.00 242 90 39 40 79 浮島漁協 478.00 322 156 70 10 80 久賀漁協 15.30 12 40 15 13 28 大島町漁協 251.00 152 145 53 44 97 合 計 2,410.30 1,494 1,123 336 464 800
町漁協(支店)が最も規模の大きい漁協であり、唯一年間「属地陸 揚量」数が1000トンを超え、組合員数も三桁を維持している。6漁 協の合計「属地陸揚量」の約半分が東和町漁協によるものである が、それでも組合員数をはじめ「陸揚金額」等はこの東和町漁協で も減少してきている。 「属地陸揚量・金額」と正組合員数から1正組合員あたりの陸揚 量・金額の変化を見てみると以下の表(6)ようになる。この数字 は必ずしも直ちに組合員の収入に該当するわけではないが、おおよ その趨勢は推測できよう。 陸揚量(トン) 陸揚金額(百万円) H元年 H 23 年 H元年 H 23 年 東和町漁協 4.72 7.90 2.21 4.89 日良居漁協 5.81 0.85 2.28 0.31 ▲ 安下庄漁協 2.07 8.47 1.45 5.08 浮島漁協 6.22 9.25 4.48 6.46 久賀漁協 0.93 1.16 0.66 1.07 大島町漁協 6.49 3.74 6.45 2.19 ▲ 計 4.54 6.99 2.72 4.45 平成元年(1989)と平成23年(2011)の1正組合員あたりの「属 表(6)各漁協の1正組合員当たりの陸揚量・金額 23 東和町漁協 1,035.00 640 518 131 304 435 日良居漁協 13.70 5 45 16 17 33 安下庄漁協 322.00 193 89 38 26 64 浮島漁協 583.00 407 149 63 10 73 久賀漁協 16.30 15 51 14 7 21 大島町漁協 157.50 92 108 42 47 89 合 計 2,127.50 1,352 960 304 411 715 表(5)漁協の陸揚数・組合員数
地陸揚量」と「属地陸揚金額」を比較すると、6漁協のうち東和町 漁協、安下庄漁協、浮島漁協、久賀漁協は増加しており、日良居漁 協と大島町漁協は減少している。久賀漁協は増加しているといって も、もともとの数字が低い。東和町漁協、安下庄漁協、浮島漁協で は「陸揚量」や「陸揚金額」の減少とともに正組合員数も減少して いることもあり、1正組合員あたりのそれらの増加が見られる。特 に安下庄漁協では3、4倍に増加していることは注目されよう。 浮島漁協も1.5倍程度の増加であるが、この漁協の特質は組合員 数の変化が少ないということである。これは浮島が離島であること も関係していよう。特に平成11年(1999)から平成21年(2009)ま では浮島漁協の正組合員数は70人、71人で推移しており、平成23年 (2011)でも63人である。准組合員数も平成15年(2003)から平成 23年(2011)までの間は8人から10人に増加しているに過ぎず、安 定した組合員数が維持されている。 他方で平成元年(1989)の久賀漁協の組合員数は57人であった が、平成23年(2011)には21人に減少し、しかも正組合員は14人に すぎない。同様なことは日良居漁協でも見られ、平成元年(1989) に139人であった組合員が33人に減少しているだけでなく、正組合 員数は平成23年(2011)には16人にすぎないのである。この組合員 数の減少が久賀漁協では1組合員あたりの陸揚数字をわずかながら も増加させたが、日良居漁協では平成15年(2003)頃から1組合員 あたりの「陸揚金額」が200万円を下回る減少傾向が続いている。 こういったなかで東和町漁協では組合員数は減少しているとは言 え、平成23年(2011)でも正組合員131人、准組合員員304人の計 435人の組合員を擁している。ここでは年間90日以上の操業と16歳 以上の年齢が正組合員資格の要件になっており、年齢の上限はな い。さらに1戸1組合員方式ではなく、たとえば父親とその息子の 二人が同時に組合員になることも可能である。ただし、新規に組合 に加入しようとする者は最初の1年間は准組合員であり、しかもか つては「『地元』の了解がなければ組合員にはなれなかった」とい
う。漁協としては、各「地元」から「推薦」された者について加入 手続を進めていた。 ここでの「地元」とは油田や和田といった旧村やその内部の地区 を指している。そしてその「了解」の程度も地区ごとに偏差があっ た。たとえば、油田地区では「約10年前までは、組合員になるのに 制限があったが、高齢化とともにその制限が緩んできた」。和田と 内入は「建網漁なので組合員数が増加することは避けたい」という 意向があったし、小泊も「やや厳しい」制限を設けている。しか し、「森野は以前から緩い」と言われており、これは当地区での職 業のなかで漁業のもつ比重の低さに影響されているのであろう。白 木地区はその内部の地区によって違いがあり、下田と大積、小積は 「やや厳しい」程度であるが、船越や佐連は特に「厳しい」と言わ れていた。 しかし、近年は既述のように組合員数は減少してきており、従来 のような「制限」をかける余裕は少なくなった。山口県漁協として も、県や国の補助事業として新規の組合加入者の公募を行ってき た。国の「新規就業者総合支援事業」と県の「長期漁業技術研修 事業」である。「現在(平成25年度)は県の事業のみを利用してい る」が、この事業で研修を受けた後は1年間は准組合員となり、2 年目に正組合員となる。この2年目には山口県漁協からの低金利で の貸付金で漁船や漁具を購入することができる。 大島町漁協についても若干触れておきたい。その組合員数は減少 してきているが、それでもここでは平成5年(1993)に一戸一組合 員方式から一人一組合員方式に改めている。昭和32年(1957)の大 島町内の漁家は専業漁家が102戸、兼業漁家が218戸であり、漁獲物 は一本釣りによるタイが当時は最も多かった。次いでえび、せと 貝、タコなどが続いていた(15)。 現在の大島町漁協の組合員N(S15生まれ、志佐在住)による と、今は蛸壺によるタコ漁や建網漁によるメバルが中心となってい るという。タコ漁は昭和20年代後半には志佐地区での約80戸の漁家
のうち約20戸が従事しており、それを10戸ずつの2組に分けてタコ 漁の漁場を割り当てていた。さらに網漁では一隻の漁船に2、3人 が乗り込み1週間ほど出漁していた。しかし、現在、志佐地区でタ コ漁に従事しているのはNのみで、漁場の規制はなく「とり放題」 ということである。さらに、漁獲物は各自が柳井市の市場に持ち込 んで売却している(16)。
3.共141号共同漁業権
周防大島の3漁協は岩国市漁協、和木漁協、桂島漁協、通津漁 協、由宇漁協、神代漁協、大畠漁協とともに共同漁業権第141号を 共有している。このことはこの漁業権区域の全域にわたってこの10 漁協の組合員が一律に操業できるということではない。いくつかの 契約や行使規則等によって、この区域を細分化してそれぞれの漁協 の漁場を確保している。本節ではその契約書や行使規則を紹介して いきたい。 まず、10漁協による「共第141号第一種及び第二種共同漁業権行 使契約書」である。この契約書によるとこれら10漁協からなる共有 組合が結成されており、以下のような条項を定めている。 第1条 共有組合は、水産動植物の繁殖保護に努めるとともに、漁業の操 業秩序維持を図るため、原則として距岸300メートル以内の区域について は、地元漁業協同組合(以下「地元組合」という)がこれを管理、行使 し、距岸300メートル以遠の免許区域については、共有組合が共同してこ れを管理、行使するものする。 ついで第2条1項では「漁業の行使方法、制限事項」を定めてい る。たとえば、「しゃこ漁業」、「たこ漁業」、「建網漁業」では 漁場を「距岸300メートル以内の地元地区地先及び距岸300メートル 以遠の免許区域」としている。このことは第1条での規定をうけ て、「距岸300メートル以内」は「地元組合」の管理下にあることを示すものであろう。但し、第2条2項では、「前項第一種共同漁業 及び第二種共同漁業(建網漁業)の地元組合地先の行使について、 従前から他組合からの行使実態があるものについては、地元組合は これを尊重し、当該組合間の操業協定又は漁場行使協定により、当 該漁業の操業を確保するものとする」と規定し、従前の他地区から の入漁慣行を尊重している。 さらに、第4条1項においてこの共同漁業権の「適切な管理行使 を図るため、共有組合の代表19名をもって、共第141号共同漁業権 管理委員会(本契約書において「管理委員会」という。)を設置 する」としている。この「管理委員会」の構成員は「共第141号共 同漁業権管理委員会規程」の「別表」の19名である(表(7)参 照)。10漁協の共有にもかかわらず、岩国市漁協には2名の構成 員、山口県漁協は各支店ごとの構成員を割り当てているが、そのう ちの東和町支店には3名(東部地区・中部地区・西部地区)、柳井 支店は2名が割り当てられている。このことは山口県漁協の各支店 ごとの、さらに東和町支店での旧漁協や地区ごとの「自律性」をあ らわしていると言えるかもしれない。 組合名 委員数 組合名 委員数 岩国市漁協 2 久賀漁協 1 和木漁協 1 山口県漁協柳井支店 2 桂島漁協 1 平郡支店 1 通津漁協 1 日良居支店 1 由宇漁協 1 浮島支店 1 神代漁協 1 安下庄支店 1 大畠漁協 1 東和町支店 3 大島町漁協 1 計 19 つまり、契約書の第1条での「地元組合」の一つが山口県漁協で 表(7)管理委員会の委員数
あるが、その山口県漁協内ではこの漁業権の行使方法がさらに細分 化されていくことを示唆しよう。その細分化を規定したものの一つ が、次に紹介する「山口県漁業協同組合 共第141号第二種共同漁 業権行使規則」である。この行使規則では以下のように規定されて いる。 「(管理区域) 第2条 共141号の漁場区域については、距岸300メートル以内の地先区 域を次表のように区分するものとする。 (管理委員会) 第3条 共141号の適切な管理及び行使を図るため、共141号漁業管理委員 会(以下「共141号管理委員会」という。)並びに柳井地区・平郡地区・ 安下庄地区・浮島地区・日良居地区・東和町地区に地区漁業権管理委員会 (以下「地区管理委員会」という。)を置く。 2 (省略) 4 第2条に定める距岸300メートルの地先区域については、地区管理委 員会がこれを優先的に管理する。 (漁業を営む権利を有する者の資格) 第4条 共141号の内容である次の表のア欄に掲げる漁業について、それ ぞれイ欄に掲げる漁業の方法により行使する場合、その漁業を営む権利を 有する者の資格はそれぞれウ欄に掲げる通りとする。ただし、有している 住所又は漁業の根拠地が複数の地区に該当する者にあっては、予めこの組 合が定めた地区に限り権利を有するものとする。 地先名称 区域 柳井地先 柳井市阿月、伊保庄、柳井市及び南浜の地先区域 平郡地先 柳井市平郡の地先区域 日良居地先 大島郡周防大島町大字由良、大字土居及び大字日前の地先区域 浮島地先 大島郡周防大島町大字浮島の地先区域 安下庄地先 大島郡周防大島町字秋、大字西安下庄及び大字東安下庄の地 先区域 東和町地先 大島郡周防大島町大字伊保田、大字和田、大字油宇、大字内入、 大字小泊、大字神浦、大字和佐、大字森、大字平野、大字西方、 大字外入、大字地家室及び大字沖家室の地先
2 前項の漁業を営む権利を有する組合員が死亡した場合において、その 相続人が二人以上ある場合において、その協議により当該漁業を営むべき 者を定めたときは、その者が組合員となったときは、その者は前項の漁業 を営む権利を有する者の資格があるものとみなす。 第5条(省略) 第6条 次の表のア欄に掲げる漁業は、それぞれのイ欄の漁場の区域及び ウ欄の期間でなければ営んではならない。…(「次の表」省略) 2 前項の規定にかかわらず、地元地区地先の行使については、従前から 他地区及び他組合からの行 使実態があるものについては、地元地区はこれ を尊重し、関係地区間及び関係組合間の操業協定又 は漁場行使協定によ り、当該漁業の操業を確保するものとする。」 すなわち、この行使規則第2条「管理区域」と第3条「管理委員 会」では、先の契約書で各漁協(「地元組合」)に割り当てられた 「距岸300メートル以内の区域」を6地区に区分し、その各地区に 「地区管理委員会」をおき、その「地区管理委員会」が「優先的に 管理」するとしている。この区分は少なくとも周防大島では山口 ア 漁業の名称 イ 漁業の方法 地区 ウ 漁業を営む権利を 有する者 建網漁業 磯建網 かれい建網 えび建網 きす・きざみ建網 こち・れんちょう 建網 かに建網 柳井地区 柳井地区(…)内に住 所を有する個人である 正組合員、その営み又 は従事する根拠地が柳 井地区にある個人であ る正組合員 平郡地区 平郡地区(…) 小型定置網漁業 枡網 壷網 日良居地区 日良居地区(…) いか巣網漁業 浮島地区 浮島地区(…) しろうお四手 網漁業 安下庄地区 安下庄地区(…) 東和町地区 東和町地区(…) (表中の は上欄の柳井地区の文言と同一:筆者)
県漁協に合併する以前の旧漁協単位での区分である。さらに第4条 では「漁業を営む権利」者を各地区に「住所を有する」か、あるい は「根拠地」のある「個人である正組合員」に限定している。そし て、第6条2項では入漁慣行の尊重を規定しており、この点も前述 の契約書第2条2項と同様である。 同様に「山口県漁業協同組合 共第141号第一種共同漁業権行使 規則」では「あかがい漁業」、「たこ漁業」等について規定してい るが、「管理区域」、「管理委員会」、入漁慣行の尊重について同 様な条文が掲げられている。 さらに注目したいのは次の文書である。 「 平成19年3月12日 油田地区建網生産組合 組合員各位 … … 記 1.建網操業について (1)建網操業箇所について 情・伊保田地先において油宇組合員は2箇所の操業、伊保田組 合員は3箇所の操業を認めるものとする。但し、カレイ建網は 3箇所以外とする。 *網高さについては、3枚網は5尺以下とする 1枚網は6尺以下とする *1箇所の網の長さは1丸半とする (2)ローラー使用可箇所はママ及び操業禁止区域について 情地先 ①情島東側はローラーの使用は禁止する。(現在協議中) ②情島北側大磯の西側から黒崎の鼻まではローラー使用可とす る、但し、干潮から50m以内とする。 (省略) 伊保田地先 ①ヤゲンから伊の崎及びマナイタ・古出鼻はローラー使用可と する。伊の崎から西はローラー使用可とする。但し、干潮か ら50m以内とする。 (省略) 」
この文書は「情・伊保田地先」でのローラーを使用する建網漁の 操業禁止区域を定めているが、その際「伊保田組合員」と「油宇組 合員」を区別して取り扱っている。「情・伊保田地先」とは先の行 使規則第2条での「東和町地先」の一画であり、「伊保田組合員」 と「油宇組合員」は東和町漁協成立以前の、しかも町村制以前の9 漁業組合のなかの「伊保田漁業組合」と「油宇漁業組合」に相応し ている。 再三言及したように、共同漁業権は漁業法では漁協に免許される が、その行使実態については必ずしも関係する漁協の組合員全員が 一律にその共同漁業権区域で操業できるわけではない。この背後に は繰り返された漁協の合併、その合併の促進をはかるための法改正 があったことは言うまでもない。しかし、ここではそういった合併 にもかかわらず、従前の集落(漁浦・漁村)単位での「自律性」が 維持され、それが入れ子状になっている様子に注目したい。すなわ ち、10漁協が共有する共同漁業権141号、その141号の区域を10の 「地元組合」で区分し、その一つである山口県漁協の共同漁業権行 使規則では山口県漁協の地先を合併以前の6漁協の6地先に分けて いる。さらに6地先の一つである「東和町地先」内では、東和町漁 協成立以前の漁業組合の地先や組合員単位での規制がなされている のである。 共同漁業権行使規則での漁場の区分は実定法上認められるもので あるが、それ以上の細分化はむしろ地元の旧漁業組合や集落の次元 での慣習に依拠する部分でもある。すなわち、ここではその慣習と 実定法が接続されているのである。このことは前節での漁協組合員 になるためには「『地元』の了解がなければ組合員にはなれなかっ た」と言われていたことと連動することは言うまでもない。どちら も法の間隙に慣習が作用し、その慣習の母体である集落の「自律 性」が垣間見られる事象であろう。
おわりに-
「村落構造論」への新たな視点 本稿では主として周防大島の漁協と共同漁業権のあり方について 述べてきた。面積が130平方㎞余りの周防大島には藩政期以来多く の集落が存在してきた。それらが明治期以降に合併を繰り返し、現 在は全島が周防大島町として統一され、高校も周防大島高校に統合 されている。これに伴い藩政期の漁村・漁浦を基礎とした漁業組合 も合併、あるいは分離を繰り返してきた。現在は東和町漁協は山口 県漁協の一翼を担っているが、他方で久賀漁協と大島町漁協はその まま存続している。 しかし、合併が一段落した今日でも上記のように、旧来の漁協や 漁業組合単位での漁区や漁場の割り振りが行われている。すなわ ち、末端の集落(漁浦・漁村)から順次漁場が拡大し、最終的には 周防大島を超える範囲での漁場に一つの共同漁業権が認められてい るのだ。法上は一つの共同漁業権であっても、それが10の漁協によ る契約書や各漁協の共同漁業権行使規則だけでなく、さらに内部の 取りきめや慣習によって細分化されているのである。さらにそうい った細分化された漁場であっても、相互に排他的な漁場が構成され ているのではなく、従来の入漁慣行も尊重されていることは留意さ れよう。 細分化された末端漁場は末端集落やその連合に相応し、末端漁場 での入漁慣行は閉鎖性とともにその開放性をも意味している。末端 集落の漁民が相互に末端漁場を行き来することによって、あるいは それらを超えた漁場を構成することによって、それぞれの開放性を 示しているのである。 このような開放性と閉鎖性が末端集落から順次積み上げられるこ とによって10漁協が共有する共同漁業権区域を構成していることに なろう。そして、こういった重層化は当地の人々の移動性とも関係 しているのではないか。この移動性を端的に示すものが「官約移 民」であったが、それ以外でも少なくとも藩政期末期から他出と帰郷の繰り返しがあったことは宮本常一がいたるところで指摘してい るし、彼自身の人生(17)がそのことを示しているとも言える。 そういった他出と帰郷は「出稼ぎ」ということになるが(18)、本 稿冒頭で述べたような「海の力」も影響していたのではないだろう か。当地が海に囲まれながら、決して絶海の孤島でなかったこと、 このことはたやすく島外に他出できたことを意味しよう。このよう な他出の容易さやその頻度はウチとソトを隔てる境界の低くさや島 の開放性と連動しよう(19)。そして、このことは末端集落の閉鎖性 と開放性のバランス、重層的な漁場の構造に見られる各集落や地区 の境界の柔軟性と相同であろう。こういった重層性は境界が時に応 じて拡大、収縮することを意味し、境界が拡大することはソトと区 別されたウチが広がることになる。 かつての村落構造論(20)は当該村落を閉ざされた空間として捉 え、その内部構造による類型化がなされてきた。特に東北地方を中 心とする同族制村落の場合は、地縁関係を伴う本分家関係を基軸と していたので、村落空間内での構造に主眼があった。しかし、周防 大島では「閉じた島社会」というイメージはない。海を媒介とした 開放性が島外に出て行くことを容易にし、若い女性の島外での女中 奉公や「秋仕奉公」も決して珍しいことではなかった。そして、こ のようなことは、案外他の地方においても藩政期から見られたこと かもしれないのである(21)。 そうであれば、従来の村落構造論が主として対象としてきた明治 期から昭和前期までの村落社会にあっても、人の移動が珍しいこと ではなかったのであり、そういったことを前提とした新たな「地域 社会のあり方」としての村落構造が問われる必要もでてこよう。そ の場合には本稿で述べきたような共同漁業権のあり方(22)は一つの 示唆を与えることができるのではないだろうか。 すなわち、重層的な事象からその内部の構造を考察するという視 点である。そして、この方法は自ずから当該集落の対外的関係だけ でなく内部構造にも及び、その内外との連関のなかでの村落構造を
問うことになる。ここでの内部構造とは各集落の構成単位とその相 互関係であるだけでなく、従来構成単位とされてきた家、その家の 内部の個人のあり方をも射程に含むことになろう。漁協であれば一 戸一組合員か一個人一組合員かの問題とも関係しよう。しかしなが ら、これらの問題は本稿の考察範囲を超えているので、新たな課題 として稿を改めることにしたい。 (1)宮本常一『宮本常一著作集38 周防大島を中心としたる海の生活誌』(未来 社 1994)21頁 (2)熊本一規『海はだれのものか』(日本評論社 2010)94頁以下 (3)この懇談会には当時の同校校長光田伸幸氏と教務部長河村圭氏にお世話にな った。なお、平成22年の国勢調査によると、第一次産業従事者は1917人、第 二次産業従事者は1190人、第三次産業従事者は4596人であった。 (4)宮本常一によれば「一○年後の昭和四五年には世帯数三七一七、人口一万○ 四九三人で、一世帯あたり、わずかに二・八人という少数家族になってしま った。そのほとんどは老人家族なのである」宮本常一『私の日本地図9 瀬 戸内海Ⅲ 周防大島』(未来社 2008)53頁 (5)宮本常一前掲書 123頁 (6)久賀町史編纂委員会『久賀町史 現代編』(久賀町 2004)122頁 (7)大島町誌編纂委員会編『大島町誌』(山口県大島町役場 1959)407頁 (8)宮本常一によれば、「明治17年の第一回官約移民には渡航者944人のうち大 島郡民が156人をしめており、明治19年の第三回927人のうち285人が大島郡 民で、三分の一近い数字をしめている。ハワイでは農場にやとわれて甘藷栽 培にあたった。」宮本常一「島のくらしと出稼ぎ」『宮本常一著作集2』 (未来社 1967)66頁 (9)昭和30年の「大島郡海外出稼ぎ調査」に参加した宮本常一によると、大正8 年には東和町からは約5000人が海外に渡航していたとされているが、「実質 上の航者はこれに二倍するものがあったと見ていい。その半分は帰国してい たであろうし、外地で死んだ者も多い。とにかく島人口の五分の一近くが外 地生活を経験した」と述べている。宮本常一・岡本定『東和町誌』(山口県 大島郡東和町 1982)663頁 (10)森本孝『東和町誌 各論編第三巻 漁業誌』(山口県大島郡東和町 1986) 93頁、括弧内は集落名。 (11)森本孝によれば、昭和9年には大島郡内の伊保田、油宇、小泊、和田、森、 内浦、日良居、久賀、蒲野、和佐、小積、外浦、沖家室、安下浦、沖浦、平 郡の漁業組合の間で入漁協定が結ばれていた。森本孝前掲書95頁 (12)橘町史編纂委員会編『橘町史』(山口県大島郡橘町 1983)538頁 (13)前掲『橘町史』545頁
(14)前掲『大島町誌』580頁 (15)前掲『大島町誌』539頁以下 (16)これは大島町漁協が信販事業を行っていないからである。 (17)宮本常一自身の論稿については未来社から著作集が刊行されており、他にも 講演集をはじめさまざまな論稿が公刊され続けている。さらに、宮本常一の 人生やその調査研究の遍歴についての論稿も多いが、ここでは佐野眞一『旅 する巨人』(文藝春秋社 1997)、同『宮本常一が見た日本』(NHK出版 2001)、「総特集 宮本常一」『現代思想』11月臨時増刊号(2011)をあ げておきたい。 (18)明治時代以後の東和町からの出稼ぎについては、宮本常一・岡本定前掲書 593頁以下を参照。 (19)この他出の容易さは、昭和51年(1976)7月に本州との間に大島大橋がかか ったことにより加速されていった。しかし、それは帰郷を伴うことのない他 出の場合が多くなったことは前掲の表(1)の人口減少率からも知れよう。 (20)従来の村落構造論をまとめた論稿としては江守五夫『日本村落社会構 造』(弘文堂 1976)の「序論」がある。なお、拙書『下北半島の法社会 学』(法律文化社 2013)の「序章」では法社会学の領域での村落構造論を 整理した。 (21)宮本常一『女の民俗誌』(岩波現代文庫 2001)89頁以下。『家郷の訓』 (岩波文庫)などの宮本の他の著作にも同様な指摘は数多く見られる。 (22)一つの試みとして、筆者は下北半島での共同漁業権のあり方を論じたことが あった。すなわち、当該地の複数の共同漁業権を前提として、相互に各漁協 が入漁協定を結んだり、一つの共同漁業権を共有することによって、「陸の 孤島」といわれた各集落が海を媒介に結びついているのではないかと指摘し た。前掲拙著第6章参照。 (追記)本稿は明治大学社会科学研究所・総合研究「日本基層社会の『境界性』に 関する総合的研究」(H25~H27 代表:大胡修)の研究成果の一部であ る。本稿で使用した資料については、主として周防大島町水産課の瀬川 洋介氏(H25年当時)、山口県漁協東和町支店の支店長松本克己氏の協力 によって得られたものである。記して深謝の意を表したい。