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北タイ山地における仏教布教プロジェクト : あるカレン族村落群の事例 [Buddhist Missionary Project in the Hills of Northern Thailand : A Case Study from a Cluster of Karen Villages]

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東南アジア研究 32巻2号 1994年 9月

北 タイ山地 における仏教布教 プロジェク ト :

あるカ レン族村落群 の事例

速 水

子*

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YokoHAYAMI*

From 1964to1965,theThaiGoverTmentandsanghatogetherlaunchedaprojecttosendmissionary monksamongthehiu-dweuingnon-ThaiethnicminoritygroupsintheNorth,withtheobviousaim of

i

ntegratingthesevariousgroupsintoaunifiednational cultureandsociety. TheTharrmacarik (WanderingDharma)Project,asitwasnamed,hasbeencitricizedasacaseofreligiousaniancewith political andadministrativepurposes. Moreover,theeffectsoftheproject,atleastinitsinitial

stages,havebeenquestioned. Mostofthesereportsandcriticismsweremadeintheearlystagesof theproject,andtherehavesincebeenfewreportsfromthescene. Basedonobservationsmadeina clusterofSgawKarenvillagesinChiangMaiProvincebetween1987and1989,thispaperprovidesan accountofdieProjectasitwascarriedoutinthisarea. Itexaminestheculturalreasoningandsocio -economicchangesthatprompttheacceptanceofBuddhistpracticesinthecorrmuruty,andconcludes thatitispreciselytheritualisticandanegedly`superficial'tendenciesofBuddhism advocatedbythe projectthataccountforitsreadyreceptionbytheKareninthisarea.

序章 :タンマチ ャー リック ・プロジェク ト

1

9

6

4

年 か ら

1

9

6

5

年 にか け, タイ政 府 内務 省公 共福祉 局 と仏教教 団 (サ ンガ) とが合 同で , タ イ国内 の 「山地民 族」1)地域 に僧 を派遣 し, そ の仏教化 をはか る タ ンマ チ ャー リ ック (「法 の巡 歴

」 [

石井

1

9

6

9:2

2

5

]

)

プロ ジ ェ ク ト (「北 タイ山地民 族 に対 す る仏教 普 及計 画」) を始 め た。

1

9

世紀 末 か らバ ンコク を中心 と した行政機構 を整 えて 中央集権化 をはか った タイ政府 は, 山地 の非 タイ系少 数民族 に対 して は無 関心放任 主義 を通 して い た。 しか し

1

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5

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年代 未 にな る と,森 林 の乱伐 , アヘ ン栽培 ,及 び共 産 ゲ リラ活動 な どを理 由 に山地 に関心 の 目を向 け る よ うに な っ た。 そ して国境 警 察 を設 けて山地へ の 目を行 き届 かせ , タイ語 に よる学 校教 育 の普及 や農 業 プ ロジ ェク トの導 入 な どを始 め た。 山地 の非仏教 徒 少 数民 族 の仏教 化 とタイ国民 と して の意識 の

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,Yaiygama-Kasmi -cho,Taihaku-ku,Sendaicity,Miya

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1)プロジェク トは 「山地民族」の呼称の もとでカレン,モ ン (Hmong),ラフ,アカ, リス, ミエ ンの 諸民族 を対象 として始められた。

(2)

東南 アジ ア研 究 32巻2号 向上 を目標 とす る タンマチ ャー リック ・プロジェク トも, こうした一連の動 きの一環 であ った と同時 に,サ ンガの国家権力へ の従属度 を強化 した1962年のサ ンガ法がその背景 にあ った。 プロジェク トは内務省公共福祉局 の山地民族福祉課長であ ったプラデ イッ ト・デ イサ ワ ッ ト が発案 し,サ ンガの北部 における-管 区長で もあ ったバ ンコクのベ ンチ ャマボ ピ ッ ト寺の僧正 の協力 の もと,サ ンガの大長老会議 の承認 を得,サ ンガ と公共福祉局の共同で, アジア基金の 支援 も得 て始 め られた。 プロジェク ト開始 の1968年 にはバ ンコクで募 った50人の僧侶が10のグ ループに分かれ,北部の

4

県の,福祉局 の駐在所 のある村へ派遣 された。翌年か ら一部 の派遣 僧 は現地 に住 み込 むようになった。1970年代初め まで,派遣僧 はバ ンコクを中心 にプロジェク トの対象 となる各県か らも募集 され,その数 も1971年 には180人 となっていた。 当初,バ ンコクか らの派遣僧 の条件 は

4

0

歳以下 (各県で は

4

5

歳),バ リュ ン (パ ー リ語試験) 4段以上 とされ,選 ばれる と1週 間のオ リエ ンテーシ ョンの後送 り出 された。初期 の報告 には 派遣僧 の役割 として,人々 と接 して三宝帰依 や基本的な仏法 を教 え,托鉢 に出かけ,ある程度 仏教への関心が示 された ら信者 として誓 い を立てることを奨励 しその敬 (小 さな仏像 な ど) を 与 えること,そ う した活動 を映像記録 に して宣伝 に用 い,積徳行 や出家の奨励 をす ること, な どの仏教布教活動 とともに, タイ語や タイ文化,政府へ の義務 を教 え,村 の開発 を指導 し,基 本的 な衛生観念 を教 えなが ら必要 とあれば薬 を分配す るな ど,行政 や開発 の推進役 となること な どが求め られていた [somboon 1977:105-107;Thaaand,DivisionofPublicWelfare 1965]0

その後,1972年 にチ ェンマイのス イソダ寺 に タンマチ ャー リック僧 の教育訓練 セ ンターが設 立 された。派遣僧 は,当寺で教育 を受 けた山地 出身者 を含 めた応募者の中か ら選 ばれるように な り,その基準 も下げ られ,雨安居 を二度以上経験 し,ナ クタム (タイ語 による教理試験)

2

級 に合格 した者で,儀礼 や一般常識 を身につ けた者 とされた。2) 現在 プロジェク ト本部 はバ ンコクのベ ンチ ャマボ ピ ッ ト寺内にある

01

4

名の中央部運営委貞 は, プロジェク ト対象地域 であるサ ンガの北部

4

管区の長お よび副 管区長 らが中心 となってい る。即 ち タイ北部 に関係す るサ ンガの上層部が名 を連ねているのである。 一方,チ ェ ンマ イの ス イソダ寺 は教育訓練 セ ンターであ る と同時 に,地方本部 を兼ね,

4

区に分 かれて行 なわれて い る布教 活動 の実際 の 中心 で あ り, またその内のチ ェ ンマ イ県 を含 む第

1

区の本拠地 で もあ る。地方本部 の16名の運営委月 は,チ ェ ンマ イ周辺 の大 きな寺やス イソダ寺の僧達 と,開発 に 携 わる役人 に よって構成 される。ス イソダ寺で教 育 を受 ける山地民子弟 は,

6

年 間の義務教育 修了後であれば

3

年 まで,未修了の場合

5

年 まで滞在 し, タイ語 を始め とす る一般教 育 と,ナ クタム3または 2級程度 の仏法 とパ ー リ語 を学ぶ。 タンマチ ャー リック ・プロジェク トについては,出発時の 目的や経緯,そ して初期 の方法や 2)ナクタム (在家者 も受けられるタイ語による教理試験)は3つの級 (3級が最も初歩)からなる。更 にバリュン (出家者のみを対象とするパーリ語試験)は,第 3段から第9段まである。

(3)

速水 :北タイ山地における仏教布教プロジェクト

成果 についてプロジェク トの年次報告 な どのほかに, これ を紹介 し,あるいはこれに言及 して い る研究 は少 な くない。 プロジェク トは当初か らモ ン (Hmong)族 とカレン族 に重点 をおいて お り [somboon 1977:107;Thailand,DivisionofPublicWelfare 1965],報告 もこれ ら二民族 に関す る ものが ほ とん どで あ る [飯 島 1971:212-218;石井 1969;Keyes 1971;Ma血a 1980;Somboon 1977:1011108;Tapp 1989:85-91]。その中で, プロジェク トの背景や 目的 について,宗教的主体性 の欠如 した政治 による宗教の利用,あるいは一部宗教者 による政治へ の体制順応である, とい った指摘が され,その実践 について も権威主義的かつ形式主義的であ る と批判 されてい る [石井 1991:175;Keyes 1971]。同時 に, プロジ ェク ト当事者以外 に よる報 告 の ほ とん どが,その初期 の効 果 につ いて は疑 問 を示 してい る [Keyes 1971;So m-boon 1977:108;Tapp 1989]。Keyesは, プ ロジ ェク トが始 め られて ま もない1968年 頃 の

メ-サ リア ン県のカ レン族の観察 に基づいて,派遣 されるのはほ とん どが タイ人の僧で タイ語 しか話せ ないため,山地民 との意志疎通が成 り立 たず,伝達 されるのは仏教 の行儀作法 な ど表 面的な要素のみで,根底 にある思想 は伝 わっていない と評 している。毎年数字の上で は山地民 の出家者 など報告 されていて も,実際その多 くは雨安居 の

3

カ月 さえ待 たず に還俗 して しまう 例がほ とんどである。 そ して, この様 な表層 的な受容 は,プロジェク トが 目指す 山地民の仏教 化, タイ化 を達成す るどころか,む しろカ レン族のあいだで よ く見 られ る千年王国運動 につ な が る危険性 さえあ ると指摘 している [Keyes 1971:565]。モ ン族 の調査 に基づいて Tappも, 出家の 目的はバ ンコクへ行 ってみたい, タイ語 を習いたい といった もので,本人達 も自ら仏教 徒 とは考 えていない とい う。 作法や積徳行 を強調す るタンマチ ャー リック ・プロジェク トを通 じて彼 らに提示 される儀礼主義的な仏教が,支配的な民族集団側 によるタイ国家 を正当化す る イデ オロギー と見 な され, これ を受 け入 れ ることは民族 のアイデ ンテ ィテ ィの喪失 を招 く上 に,モ ン社会 とはあ ま りに異 なる価値 や信仰 の体系 を背景 としてお り,根本的に相容 れないの だ とTappは説明 している [Tapp 1989:85-91]。 一方,Keyesと同 じ頃カ レン族の調査 を行 なった飯 島は,批判 に同意 しつつ も,今後 プロジ ェク トが, カ レン族の文化 ・社会 に影響 を与 えないではおかないであろうと予測 し,彼 らの タ イ化 を考 える上で重要 な要素 となる と述べ ている [飯島 1971:218]。その後ス イソダ寺 の教 育 ・派遣 プログラム も軌道 に乗 り,Keyes自身,70年代 に再び観察す る機会があ ったプロジェ ク トは,当初 よ りも洗練 されていた と一言記 してい る [Keyes 1979:61血.85]。 しか し, プ ロジェク トの活動 については,受 け入れる側 の現地での観察 に基づ く詳細 な報告 は少 ない。3) 1987年か ら1989年 にかけて筆者が調査 を行 なった北 タイ ・チ ェンマ イ県のカレン族村落群で は,村 々に若 い派遣僧が住 み込み, プロジェク トの もた らす仏教の諸活動が 日常生活や儀礼 に 3)Ma曲aが,タンマチャーリック僧 と関わりの深い村について記述 しているのは,貴重な例外である lMadha 1980]

.

233

(4)

東南アジア研究 32巻2号 浸透 していた。4)本論文 はこの調査 に基づ き, プロジェク トが入 って まだ数年 のSムラの事例 を中心 に

,

Sム ラを含 む地域 の仏教 活動 の拠点 であ るH ム ラに も触 れ なが ら, タンマチ ャー リック ・プロジェク ト受 け入 れにつ いて,伝統儀礼 との関わ り,共同体 の社会経済的変化 とい う背景の 中で記述 ・考察す る。5)そ して,表層 的,儀 礼主義 的で ある とされるプロジェク トの 現場 における活動 内容 を明 らか に しつつ,そ うした傾 向が プロジェク トが この地域 で一定 の成 果 をあげ るこ とにむ しろ寄与 している と論 じる。Ⅰ章で カ レン族 における仏教受容 の歴 史 と, 伝統儀礼 の実践 につ いて概観 した後,

Ⅰ章では調査地での プロジェク トの活動 の実態,伝統儀 礼 との関わ りを検討す る

。Ⅰ

Ⅰ章 で は受 け入 れ る側 の背景 とプロジェク ト自体 のあ り方 とが ど の様 に関わるか分析 し,最後 にそ う した受容が プロジェク トの意図であるタイ化 につ なが る も のか どうか を考 えてみたい。 タイ国 におけるカ レン族人 口は,1986年現在で27万人 とされている (山地民族研究所調べ)。 これ はタイ全人 口の

1%

に及 ばないが, プロジェク トの対象である山地民族 と称 されるグルー プの中で は最大で,その分布 も北 タイほぼ全域 と中央 タイ西部 に跨 っている。北 タイのカ レン 族 の多 くは千 メー トル以下の山や谷 間にムラを形成 し,水 田 と焼畑での 自給 自足 的な稲作 を生 業 と し,調査地で は現金収入 は村外 の 日雇いのほか, カボチ ャやキ ュウ リな どの畑 の作物 や森 の木の実 な どを小売 して得 ている。 調査地 は,北 タイの都 チ ェ ンマイか ら北西160キ ロにある標高千 メー トルの高原地帯 にある スゴー ・カ レン族村落群で,伝統儀礼が続 け られる一方で,50年 ほ ど前 か らキ リス ト教 と仏教 の影響 が見 られ た。 プ ロジ ェ ク トの 当地域 での拠 点 とな って い る

H

ム ラは,砂利 道 なが ら チ ェ ンマ イに通 じる幹線 道路 に沿 ってお り,北 タイ人の出入 りも多 く,警察,軍,農業 プロ ジェク トな どの駐在地がある。 このムラは,郡内ではカ レン族 の タイ社会 との接点であ り, タ イの社会,文化,経済的影響が最 も色濃 く, タイ化 の最前線 ともいえる。後 に述べ るように仏 教 との接触 も最 も早 く,調査 当時 は伝統儀礼 と仏教 が共存 し,中には後述す る方法で伝統儀礼 を断 った世帯 もあ った。一方,Hム ラか ら徒 歩1時 間の奥 まったSム ラは, タイ人 との接触 ははるか に少 ない。 ここではムラの4割がキ リス ト教徒 であ り, 6割が仏教 活動 に参加 しなが ら伝統儀礼 を も続 けている。 キ リス ト教 と仏教 で は,伝統儀礼 との関係 に顕著 な相違が見 られ る。 キ リス ト教へ の改宗 は一切 の儀礼 の放棄 を前提 とす るので大 きな決断 と生活の転換 を伴 う 4)仏教受容の度合は地域によっても偏差がある。これまで多 くのカレン研究者が伝統儀礼に関心をも ち,仏教やキリス ト教の影響の少ない地域を選んで調査を行なう傾向があった。筆者は宗教変化に関 心があったため,仏教やキリス ト教の受容がある程度進んだ地域を意識的に選んで調査 した。この地 域は山地にあ りながら,キリス ト教 と仏教が半世紀近 く影響を及ぼしてきたという点では特殊である が,調査時点の北タイで全 くキリス ト教や仏教の影響のないカレン族共同体を見つけることは,ほぼ 不可能であった。 5)SムラもHムラも,カレン族の最大の社会集団であるとと呼ばれる共同体であるが,タイの行政村 (タンポン)下の小村 (ムーバーン)の更に下位の集落である。

(5)

速水 :北 タイ山地 における仏教布教 プロジュク ト が,仏教 は伝統儀礼 との併存 を許容す る

。S

ムラで も,伝統儀礼 を続ける非キ リス ト教徒全員 が程度の差 はあれ仏教 を受 け入れているのである。

カレン族の伝統儀礼 と仏教 (

背景 )

1

.

カレン族 と仏教 カ レン族 は,

2

世紀のあいだ仏教やキ リス ト教の影響 を受 けて きている。 ビルマでは

,1

8

世 紀後半か らカ レン族の仏教 との若干 の関わ りを示す報告があ るが,特 にモ ン

(

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)

族の影響 の強か った平地では

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世紀半 ばにはポー ・カ レン族出身の僧侶 も出現 し, またこのころビルマ 各地 のカ レン族 にみ られたカル トの中には仏教の影響 の濃厚 な ものが多かった

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タイの カ レン族 について は, 中西部 で は

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世紀初頭 か らモ ン仏教 の影響が強 かった

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が,北 タイでは,ポー ・カ レン族 の間でモ ン仏教, ス ゴー ・カ レ ン族 で は,多少 ビルマ仏教 の影響が見 られた ものの libid..

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,後 に述 べ る僧 ス イウイチ ャイとの関係 を除けば, タイや北 タイ仏教 との関わ りを示す報告 は

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年 代以降の ものである。 しか し

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年代以降の多 くの報告か ら,北 タイのカ レン社会 にあって 仏教 が もはや看 過 で きない要 素 にな りつつ あ る こ とが読 み とれ る [飯 島

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調査地の村落群のカ レン族が仏教 に身近 に触れるようになったのは遡 って

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9

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年 ころのこと で,北 タイにその名 を知 られた僧,ス イウイチ ャイが この地 を訪れたことが契機 となった。当 時 を知 るHムラの古老 によると 「それ まで は僧侶 もあ ま り見たこ とがなか ったか ら剃髪に黄 衣の僧 を見て,あれは男だろうか女だろ うかなどと言 う者 もあった」 とい う

。1

9

世紀後半のバ ンコク王朝によるタイ全土の中央集権化 と並行 して,バ ンコクを中心 とす る単一のサ ンガ組織 への統一が進め られていたが,独 自の仏教伝統 を持 った北 タイにはこれに対す る反発があっ た。ス イウイチ ャイは,中央か らその資格 を与えられた僧でなければ得度式 を行 なうことはで きない とい うサ ンガの規則 を無視 して自らこれを行 なうなど,バ ンコクに反旗 を翻す もの とし て数度捕 らえ られた

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。 しか し,巌 しい戒律 を守 り修行 を経 た高徳の 僧 として称 えられ,北 タイの民衆 に敬われていたス イウイチ ャイを罰す ることは,かえって北 の反発 を募 らせ ることが懸念 され,釈放 された。ス イウイチ ャイは,広 く山地 をも行脚 し,そ れ まで仏教 に無関心だったカレン族やモ ン族の中に も信奉者 も得た。彼 は厳 しい修行 と戒律 を 守る生活 を通 し,菩薩 としての超 自然的な力 を持つ と評判 されたが,当地のカレン族の場合, 以下 に述べ る事情 か らも察せ られるように, こうした力がス イウイチ ャイ信奉の大 きな動機だ ったようだ。 調査地一帯 には

1

9

1

0

年頃にカ レン族が住み着いたが,

H

ムラ周辺 には仏教徒先住者が残 した 235

(6)

東南アジア研究 32巻2号 寺跡や仏塔が多数放置 されていた。村人は,当時の天然痘の流行 による死者 の続 出 と飢鐘 の原 因の一つ として, これ らの放置 された仏像や仏塔が土地 に猛威 をふるっていると考 えた。ス イ ウイチ ャイは北 タイ各地の寺の再建,建立 に尽 くし,北 タイに仏の浄土 を再現す ることを目指 した とされ,Hムラを訪問 した折 に も寺 と仏塔の修復 ・建立 を勧めた。Hムラの人々は近隣の ムラを回 り説得 して寄付 を集め事業が進め られた。当地のカ レン族 に とっては,ス イウ イチ ャ イによって建立 された寺が,その力 の故 に荒れた土地 に秩序 をもた らす もの と期待 されたので ある。 この寺 には当初北 タイ人の僧 が常住 したが,その後無住 とな り,Hムラ周辺の仏教活動 は散発的 な もの となった。ただ,

H

ムラか ら一人の青年が出家 してチ ェンマイの寺で

7

年間修 行 し,還俗後 は帰村 して当地の仏教活動 を指導 し,あ るいは出家中に覚 えた護呪 を用いてムラ の悪霊赦 いなどを行 なっていた。

1

9

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年代 までは,最低限の交易 も山道 を何 日もかけて歩いて行 なっていたが

,1

9

7

0

年代 か ら Hムラを通 る道が徐 々に整備 され,軍や国境警察が出入 りす るようにな り,Hムラはこの地域 一帯の タイ政府主導 による 「開発」 の拠点 となる。無住 だった寺 にタンマチ ャー リックの布教 僧が派遣 されるよ うにな り,以後

H

ムラを主村 とし,周 囲の多 くのムラを支村 として,6) ス イ ソダ寺で教育 を受 けた若いカ レン僧が送 り込 まれてプロジェク トが進め られた。 この様 に, こ の地域の仏教受容 は,当初北 タイの仏教伝統 の タイ化 に抵抗 したス イウイチ ャイの訪問 を契機 とし,北 タイ仏教 の伝統の中で, カ レン族の伝統的な共同体の秩序のために,特 に仏教 の もた らす呪術 的力 を借 りる意味で始 まった。 しか し,今 では同 じHムラを拠 点 にプロジェク トが もた らす仏教 は,山地民の タイ化政策の一貫 として,その共同体 をタイ国家へ包含す ることを 目的 としている。

2

.

伝統儀礼 と共同体 カ レン族 をと りま く世界 には様 々な霊がお り,共同体,家族,個人の生活の全 ての局面 に関 与す る。守護霊の庇護 を求め,悪霊 を追放す るな ど,諸霊 に対処す るために 日々多様 な儀礼が 行 なわれる。特 に重要 なのが, オへ と呼ばれる祖霊へ の家族単位 の供蟻 の儀礼 と,水 と大地の 主 (テ イクチ ャコクチ ャ) と呼 ばれる守護霊 と土地の諸霊 を対象 とする共同体単位の諸儀礼で ある。 オへは伝統的な共同体の儀礼 のみならず社会生活の中核 をなす もので, これを続 けるこ とは様 々な生活上 の規制 を伴 う。 この伝統 を守 り続 ける人々を,「オへ をす る人々」 と呼 び, 逆 にオへ を放棄す ることは,生活や社会関係 のあ り方 に も変化 をもた らす。水 と大地の主への

6

)

タンマチャーリック ・プロジェクトでは一地域の活動の中心となる主村 (ムーバーン・ラック)がい くつかの支材 (ムーバーン・ポリウェーン)への活動拠点となる。ここではHムラが主村であ り

,S

ムラを含む11のムラが支材 となっている。Hムラの寺は結界をもってワットとして公認された 「寺」 ではなく,公式にはア-ソムと呼ばれるが,村人はワ- (タイ語のワットから)と呼ぶ。本文でも支 材の集会所なども含めて全て 「寺」と呼ぶ。

(7)

速水 :北タイ山地における仏教布教プロジェクト 儀礼 は, ヒコ と呼 ばれる儀礼 的 リーダーの もとで行 なわれ,共同体 の秩序 と境界 を守 り,土地 の豊鏡 を確保す る。 焼畑 に よる米作 を生業 の 中心 と した カ レン共 同体 で は,畑 は共 同で準備 し,必要 に応 じて 各 々の家族 に配分 した。相続 され る財 は銀 な どの装飾品であ り,経済的な格差 は主 に家族の成 員や労働力の差 に よる一時的な もので, ムラの繁栄 は共同で開拓す る土地の豊鏡 に依存す る。 その豊能 を得 る為 には, ムラの社会的-儀礼 的秩序 を保 たなければな らない。儀礼 を正 しく行 い,共同体 の秩序 と豊鏡 に貢献す る者が社会 的に認 め られるが,それは,年齢 を重ねて儀礼 の 知識や経験が豊富 にな り,家族 や子孫 の繁栄 を得 るとともに増 してい く。儀礼 において,供蟻 に用 い られるブ タや トリは量的に多 くはないが,必要 に応 じて儀礼 を行 な うためには,家畜が 十分 あ っで 惜 しまず犠牲 にす ることが求め られる。 したが って,儀礼 的行為 を全 うす るには, ある程度の生産性が前提 となる とともに,逆 に余剰 は儀礼 的実践が ともなわなければ威信 には つ なが らない。 カ レン共同体 は,儀礼的秩序 の もとの平等主義的な運命共同体 と言 えよう。 オへ を始め とす る諸儀礼 は,結婚や居住形態か ら家その ものの建 て方 に至 るまで,生活の多 くの場面 に規制 を加 える。 また,常 に少 なか らぬ家畜 を儀礼 のために飼 っておかなければな ら ず, カ レン村落 にあ って数少 ない臨時収入の源 とな りうる家畜の換金へ の大 きな制約 となる。 焼畑 か ら水 田耕作へ の移行 や,後 に述べ るような行政の介入や道路 の整備 などによるカ レン族 をと りま く世界 との関わ りの変化 に ともない,伝統的 な社会関係 に変化が生 じ,北 タイ人の商 人の出入 り, カ レン族 自身の村外経済活動 な どを通 して タイの市場経済への関わ りが増 してい る。 結婚,教育,労働 な どのためにムラを離 れる者 も増 えてお り,家族全員が参加 しなければ な らないオヘ儀礼 の続行 もむずか しい。そ うした中で,儀礼 を中心 とし儀礼 に規律 される生活 も変化 を見せ てお り,社会経済生活 と切 り放 しがたい伝統儀礼が負担であ り足伽 で もあるとい う認識が強 まっている。 ただ, オへ はカ レン共同体 の伝統 的な生活の中核であるだけに, これ を放棄す ることは容易 な決断で はない。

Ⅰ タンマチ ャー リック ・プロジェク ト主導の仏教実践 と伝統儀礼の放棄

1.

S

ムラの仏教 をめ ぐる日常 と諸行事 Sムラは,前述 の Hムラでの1930年代 の寺 の復興 に も関与 し,以来 Hム ラの寺 の行事 に参 加 し,関 わ りを保 っていた。1970年代 にHム ラが タンマチ ャー リ ック ・プロジェク トの拠 点 (主村) となってか らは

,

Sムラに も派遣僧が通 うようにな り, プロジェク トの支村 となった。 1985年 にはムラ外 れの丘の上 に木造 の簡単 な集会所 (村人 は寺 と呼ぶ)が建 て られ, プロジェ ク ト本部か ら派遣 されたカ レン族の若 い僧が ほぼ一年 を通 して住 むようになった。 調査 時 には,近隣の3つの ム ラが Sムラの寺 の仏教活動 に加 わ っていた。 中で も中心 的 な 237

(8)

東南 アジア研究 32巻2号 表l S村43世帯 の生 活指 標 世帯 世帯主年 齢 人月 米の産高畑/ 田 水牛 ブ タ 他大 きな家畜 .機械 家屋 教 育 その他 1★ l 47 l 8 l 18(セ)l 3 l2 lゾウ0.5 耕 うん機 l木葉 l本人ス イソダ寺長男 ス イソダ寺長男 ス イソダ寺 I小売松脂工場月1妻 の妹 (1)援助700B 2☆ 32 7 3/24 1 3 I 木竹 3 22 4 2/4

0

1 (他村 の 葉竹 4 48 7 6/10 3 1 親戚 と共有) 葉竹 56789☆* 10 ll 12★ 13 14 111567 67463542444555059609800297 138635902 277563 23223221/1′1/′1//1′0/1/42221105020064055 110022202400021 3440 ウシ 1 脱穀機111325021 オー トバ イ1 木葉竹葉竹葉竹葉竹葉竹菓竹菓竹菓竹菓竹木竹木葉木竹 18 19 20 527073 327 2′1060

0

00 001 葉竹菓竹葉竹 妻の実家夫の甥(40)(1援助9)共同 21 29 3 0 0 1 葉竹 妻 の実家(39)共同 22 63 1

0 00

葉竹 息子(2,26)援助 23 24 6590 23 6′100 31 32 葉竹葉竹 義兄(22)援助 25 26☆ 4237 l4 2/1l 100 20 31 葉竹木 松脂工場 月1700B 27† 28† 29† 30† 31† 6244160608 6 32435 ′02110254 35000 00213 ウシ2耕 うん機ウシウシ23 ゾウ 1トラ ック 木 ト竹葉 妻公立 中学木葉竹葉竹木葉竹木葉竹 長男K本人本人C

C

.長女K 助役 32† 33† 34† 35† 45154502 10677 5/5221305 0520 1111 木 下竹木 ト葉木竹木 ト竹葉 牧師養殖池 36† 32 5 6 1 0 木竹 本人教 師養成 小学教 師月300OB 39† 40† 6435 160 31/1′185 42 22 木木 長男K 41† 21 3 6 0 1 木葉 本人Ⅹ 注 1)☆ は世帯主が寺 の委員 ★ は世帯主 と子 の代一人が寺の委月 ☆*は委員長 †はキ リス ト教徒 2)水 田耕作 で は単位面積 当 た りの産高 は毎年 ほぼ一定 であ る。水 田の不足分 を焼畑 で補 うが,産高 は 不安定 で あ る。産高 は借地 の場合借地代分 を差 し引 いた値。貸 し主 には貸 し代分 を加 えた値。米 の 産高の単位 は精製前 の米 にカ レン族が用 い る単位 (セ) で, 3単位がお よそ大人一人一年食分. 3)伝統家屋 は竹 と葉 とい う森 の産物 をその まま使 った ものであ るが,木造 と トタン屋根 は購入 され る もので非常 に 目につ くステー タス シ ンボル とな ってい る。通気性 をよ くす る意味で も, また オへ を 行 な う家 で はオヘ儀礼 のため に,炉 の問のみ竹 と葉 で作 り,木造 と折衷型 と してい る家 も少 な くな い。屋根 は棄 また は トタン (ト) また は木の板,家 の主要部分 を木 または竹, またはその両方 を用 いる。 4)教 育 に関 して は最終学歴 が 中等教 育以上 の家族員 につ いて記 した。Cは,チ ェ ンマ イにあ るカ レン バ プテス ト会議 の指導者養成 セ ンター,KはS村 か ら徒歩1時間 にあ るカ レンバ プテス ト会議が設 立 した公認の中学校。

(9)

速 水 :北 タイ山地 にお け る仏教 布教 プ ロ ジェク ト 役割 を担 っていた委員会 (タイ語で ガマ ガ- ンと呼 ばれている)の メ ンバ ー数人は,僧 の要求 や忠告 を村 人に徹底 させ た り,寺の行事 の準備 な どに奔走 し,布施 や寄進 に も熱心であ った。 Sムラには2人の青年部代表 を含 め7人の委員がい るが, その内 C氏 (表1の世帯 1) と

S

氏 (世帯

5

)の

2

名 は長男 を出家 させてス イソダ寺で教育 を受 け させ てお り,C氏 は三男 も寺 の小僧 (デ ック ・ワ ッ ト) と して僧 の元 に預 けてい る。 若手の委員では

N

氏 (世帯

2

6

)

が, 出家 してス イソダ寺で教育 を受 けた経験 をもつ。いずれ も働 き盛 りの,家族 を持 った男達であ る。 村人の先頭 に立 って三帰依 の唱和 な どを リー ドす るのは,出家の経験 を持つ青年達か, ま たは壮年 のC民 ら,委員会の メ ンバ ーであ る。寺 をめ ぐる 日常 は,毎朝 の食事布施 か ら始 ま る。 そ して毎月4度の仏 日を守 り,寺 に集 まる。特 に,雨安居 の仏 日には朝昼夕 に礼拝 を行 な う 。 調査 時 に

S

ムラに常住 していた僧 (調査地 の カ レン族 は北 タイ式 に,僧 を トゥ一,少年僧 をプラと呼ぶ) は,同 じ郡内の カレン出身で当時

2

6

歳 だった。勉強好 きで,地元の小学校 を卒 業 してか ら,出家 してス イソダ寺で一年半仏教教理 と一般教育 を学 んだ後,布教 のために送 り 出 され,Sムラが三つ 目の任地だ った。村人 に托鉢 や寄進 な どの積徳行 を奨励 し,仏 日には彼 らを集めて読経 と説教 を行 ない三帰依 の唱和 を教 える。 また,薬 を配布 した り,寺の使 い走 り として預 け られた少年連 に タイ語 な どを教 える。 委員会 を組織 し,村人 を動員 して寺の周囲 に 柵 をめ ぐらせ,井戸 をつ くり,新 しい仏像 を迎 えるな ど,寺やムラの改善に当たって も村 人 を 指導 して,積徳 を促す。 ソンクラー ンやバ ーバー奉献祭 な どの特別行事 には,行事 についての 説明 を含 むス イソダ寺か ら送 られるタイ語の手紙 を読み上 げ, カ レン語で解説す る。 また寺で 行事 のある時 は必ず出席者の人数,顔ぶれを記録 し,毎月チ ェンマ イのス イソダ寺へ 出かける 折 に現地の状況 を報告す る。 タイ人の役人や国境警察 には立 ち入れないムラの生活の実態が, 彼 を通 じて本部へ伝達 され るのであ る。 調査地域 の場合,ムラに滞在す る派遣僧達 は皆 同 じ地域 内の カレン族 出身者であ り,チ ェン マ イのス イソダ寺やバ ンコクのベ ンチ ャマボ ピッ ト寺で教育訓練 を受 けていた。調査 当時 プロ ジェク ト全般 を通 じて派遣僧 の多 くが山地民族出身者であるのに対 し,組織運営 や教育 に関わ る僧達 は タイ人,及 び北 タイ人であ った。即 ち,組織 の底辺で実際 にムラに入 ってい く役割 を 多 く担 っているのは山地出身者である。 プログラムの対象 となる

4

区は,更 にい くつかの支部 に分かれているが,現地 とス イソダ寺 を結ぶ要 となる支部 の責任者 レベ ルには山地出身の僧 も お り,彼 らは上層部 の僧達 と同様 にアチ ャー ンと呼ばれる。 僧 の個人的資質 に もよるが,調査 地で は,現場 の僧が カ レン出身であ るため,親 しみやすか った ようだ。 タイ人の僧が村 を訪 れ る機会 は年 に一度か二度,バ ーバ ー奉献祭や後 に述べ るルーブガ儀礼 な どの時だけである。村 人に とってカ レン僧 は,若 く知識 も経験 も不十分で,重要 な儀礼 は タイ人の年輩の僧 に行 なっ て もらいたい反面,その権威 は彼 らには遠い ものである。若い カレン族 出身の派遣僧 の存在が 239

(10)

東南 アジア研究 32巻2号 仏教 の受容,そ して タイ人の僧達 の権威 の受容 を容易 に していると言 えるだろ う。 以下で はタンマチ ャー リック主導で行 なわれる主な年中行事 をい くつか簡単 に紹介す る。 ソンクラー ンと村 の悪霊疎 い カ レン暦 (陰暦) による新年儀礼が終 わった後,新 しい農耕サ イクルが始 まる直前 に タイの旧暦 の新年, ソ ンクラー ンが祝 われ る (カ レン語 で新年 (ニ ト ソ) と呼 んだ り, カ レン靴 りの タイ語で ソタラ と呼ぶ)。 この地域 では

5

日間ほ どにわた り, 毎 日朝晩 に寺で礼拝 があ り, タイの新年 の祝 い方 やその意味,積徳行 につ いて僧 が説 明 した り,本部 か らの書状 を読み上げ, プロジェク ト主導で諸行事が行 なわれる。 新年のほ とん どの行事がプロジェク ト主導で行 なわれるのに対 し,新年行事 の最後 に行 なわ れるムラの悪霊硬 い儀礼 (カ レン語で ウ オズィ, ムラを囲 む) は, プロジェク トが この地 に来 る以前か ら,Hムラの僧 または出家経験者 によって行 なわれていた もので,現在 は村人の要請 で僧 が行 な っている。7)ムラの中心 に近い十字路 に,柱 型 の祭壇が設 けられ,寺か ら運 ばれた 仏像 がおかれ,八方 に白い綿糸が張 られ る。 この儀礼 の 目的 は,柄,災厄 や悪霊 を,仏像, 僧,そ してその護呪 (プラ ・パ リッ ト) の力 をもってムラか ら追い出 し, ムラを秩序 ある状態 に して新 しい農耕 の一年 に備 えるのだ と言 う。 雨安居 と出家 雨安居 は出家の季節であ り大 きな年間行事 である。その始 ま りを告げるカオ ・ パ ンサ ー (その ままタイ語でカオパサ)が近づ くと,僧 は仏教活動 に積極 的で小学校 を卒業 し た男子のいる家 々を訪ね,出家 を勧 める。 得度式 はバ ンコクのベ ンチ ャマポ ピ ッ ト寺で行 なわ れ,その後,ほ とん どの見習 い僧 は当寺やス イソダ寺 で教 育 を受 ける。授業料 は無料であるた め,教 育 を受 けることが出家 の大 きな動機 とな ってい る。8) しか し,授業料 が無料 とはいえ, 少ない現金収入か ら中チ ェンマイ- の往復 や小遣 いな どに出費がか さみ, しか も農繁期 に重要 な働 き手 を欠 くことに もなるため,息子 を出家 させ るのは多少 な りとも余裕 のある家である。

S

ムラでは,出家経験 のある男子 は皆,父親が寺 の委月 をつ とめる家の出身であるか, または 本人が委貞 をつ とめている (表1)。 バ ンコクでの得度式 には,ム ラ在住 の僧 と父親 な ど家族 が付 添 い, ス イソダ寺 の タンマチ ャー リ ック僧 らとともに大挙 して出かける。父親 に とって は,息 子 を出家 させ た こ ととともに,バ ンコ クまで出か けた こ とが 自慢 話 の種 になる。9) ま た,出家 して教育 を受 けさせ れば, 日雇 いよ りは高い現金収入 を稼 げるのではないか とい う期 7)北 タイの村落で行なわれる同 じ儀礼 (songkhrau)についてはDaviSの記述が詳 しい 【DaviS 984: 102-118]。 8)この点について,TappもHmong族は根本的に仏教を相容れないものとしているにもかかわらず,出 家者数が少なくないのはそれが教育の機会であり,識字能力を得ることが彼らにとって文化的に大き な意味を持つことを指摘 している[Tapp 1989:87]。文字や書物はモン族やカレン族の伝承に於て 特殊な意味をもつが,タイ民族の間でも貧 しい青年が教育を受けることを目的に出家することは,教 育の普及以前は特に多かった。 9)タイの仏教徒は,母親は自ら出家 して徳を積むことはできず,息子の出家によって功徳を積むことが できるとするが

,

Sムラではこの様な考え方はまだ見られなかった。

(11)

速水 :北 タイ山地 における仏教布教 プロジェク ト 得 もあるようだ。10) バ ーバ ー奉献祭 と他 の積徳行 稲 の刈入れが終 わ り,新 しい年の種蒔が始 まるまでの乾期 の数 ヵ月 間,各地の寺 で僧 に黄衣 と日用品 を寄進す るバ ーバ ー奉献祭 (タイ語 で トパパ と呼ぶ)が 行 なわれ る。 これ は, プロジェク トの主導 に よ り,各 ムラの僧 と委員の中か ら選 ばれた二人の 代表 が中心 とな って準備す る。 彼 らがチ ェ ンマイのス イソダ寺へ赴 き,準備 を兼ねて高僧 を招 請す る。 この様 な機会 にチ ェ ンマイに滞在す る場合,彼 らは決 まってス イソダ寺 に宿泊す る。 この寺が,北 タイ全域 の タンマチ ャー リ ック傘下の山地 カ レンのチ ェ ンマ イにおける一つの拠 点 となっている と言 えよう。 日取 りが決 まる と, タイ語で書 かれた奉献祭 の通知 と喜捨 を募 る 封筒 が印刷 され

,

Sム ラの付近一帯 の北 タイ人 も含めた地域 に配布 され る。 奉献祭 には,近隣 の カ レンのみ な らず,郡 内の北 タイ人やHム ラで働 く王立農業 プロジェク ト,翠,警 察の メ ンバ ー も集 まる。寺の周囲で は周辺の村 か らも人々が集 ま り,地元 の人 々や郡内外 の北 タイ人 らの出店が並 び,祭 り気分が盛 り上が り,村 人の寄付 で買 われたブ タが一頭殺 され,集 まった 人 々に振舞 われ る。 北 タイ人の行商が出店 を出 し,八 ミリ映画 も上映 され,祭 り気分 のに ぎわ いの中で一人一人の喜捨 の額 は名前 とともに拡声器で声高 く読み上げ られる。 調査 滞在 中には, この他 にSム ラの寺へ仏像 を招致 し, これ に伴 う儀礼 を行 なった り,近 隣で奉献 祭 な どの大 きな積 徳行事 があ る時 には,Sム ラか らも出か けてい った。仏教 を通 し て, カ レン族 も北 タイ人 を含めた地域社会 のネ ッ トワークに包含 されるのである。

2.

仏教儀礼 によるオヘ儀 礼の放棄 キ リス ト教への改宗が一切 の伝統儀礼 の放棄 と洗礼 を伴 うのに対 し,仏教受容 は従 来,伝統 儀礼 の放棄 を強要せず,儀礼 の放棄 とい う大 きな決断 を伴 う明確 な転換点 はなか った。言 い方 をか えれ ば, キ リス ト教 を受 け入 れ る こ とが,伝統 的 な儀礼 を放棄す る道 を提供 す るの に対 し,仏教 は儀礼 を続 けなが ら大 きな決断 を経 るこ とな しに参加で きる点で受 け入れ易 い反面, 儀礼 を放棄 したい場合 にはその手段 を提供 して こなか ったのであ り, この点が, キ リス ト教 と 大 き く異 なっていた。11) しか し,1967年 にプロジ ェク ト傘下 のチ ェ ンマ イ県 のあ るカ レン村 で,村 人の要請 に応 じ て,護呪 (プラ ・パ リッ ト) と戒律 を守 る者 として僧 が もつ力 を借 りて霊 を追放 し, オヘ儀礼 を放棄す る為 の仏教儀礼 が考案 され, これによって,仏教 もまた伝続儀礼 の放棄 の手段 を提供 10)実際 には

,

Sム ラの寺 に関与す る村 々出身のス イソダ寺 の教育 プログラム卒業生 は,全員帰付 してお り,その うち月給 を得 てい るのは,卒業後教 師の養成学校 に進学 して教 師 となった1名 と近 くの松脂 工場で働 く1名のみであ る。 ll)この点 に触 れて,Mischungは,彼 の調査 地 で,儀礼 を放棄 したい者達 はキ リス ト教 に改宗 したが, 当 時 仏 教 は儀 礼 放 棄 の手 段 とな らなか った た め に好 まれ なか った と して い る [Mischung 1980: 143]。 241

(12)

東 南 ア ジ ア研 究 32巻2号 す るこ ととなった。 この儀礼 をカ レン語 でルーブガ (霊 を追放す る), タイ語 では, ピテ ィ ・ ライ ・ピー (霊 を追放す る儀礼) と言 い, オヘ儀 礼 の対象 であ り,家 々の炉 を場 とす る祖霊 (ブガ) を僧が儀礼 によって追放す る, とい うもので ある

1

2

)これ まで, この儀礼 につ いて報 告 されていないので, ここで は

1

9

8

8

年 に

H

ム ラで行 なわれたこの儀礼 について少 し詳 しく記 述す る。 この年,Hムラで は10家族 (ムラの5分の 1) が この儀礼 を希望 し,バ ンコクの本部 とチ ェ ンマ イのス イソダ寺か ら5名の僧 (タイ僧 4名, カ レン僧 1名) と, 6名のカ レンの少年僧が 来村 して これ を行 なった。儀礼の前半 は希望者の家 を巡回す る形で行 なわれた。各家で はバナ ナの幹 を編 んだ

5

枚 の盆 に米,菓子,バナナ, ローソクなどの供物 を乗せ,盆の四隅に白い三 角の旗 を立てる。 この盆 を炉の四隅の柱 の前 と炉 の中央 に置 く。 日頃, オへ を行 なう家で は決 して炉 のある奥の部屋 に僧 を招 じ入 れることはないが,オへ を放棄す る儀礼 を行 な うこの 日,

5

名の僧が この部屋 に入 り,炉 に置かれた盆の前 に一人ずつ座 る。

5

名 は護呪 を唱え,中央の 僧がバケツに入 った聖水 を炉やその上の棚 と用意 された盆 にかける。 そ して, なたを使 って炉 の灰 を盆 の上 にかけ,盆 を家の外 には う り出す。そ して,炉 を囲む柱 や棚 を一,二度切 り割い てか ら,次の家-向か う。 僧達が立 ち去 ると,少年僧達が炉の残 りを徹底的 に破壊 し,残骸 や 儀礼 の盆 を寺へ と運 び去 る。10軒の家で これが終 わる と,各家の家族員が全月,供物 を携 えて 寺で行 なわれる儀礼の後半部の為 に集 まる。僧の説明によれば,本来 は,前半 は家の周囲に糸 (サ ーイシ ン) を張 り巡 らせ,後半 も各家で個 別に行 な うところ を, この 日は希望件数が多か ったため,後半 は寺で一括 して行 ない,サーイシ ンも寺で一度張 って済 ませ た とい うO 寺の外 には各家の炉 の残骸が積 まれた山があ り,その四隅に僧 の黄衣が乗せ てある。10家族 にオヘ儀礼 を要求 し続 けて きた霊の力が ここに封 じ込め られるのである。一人の僧が護呪 を唱 える間,他 の4名が各 々四隅の黄衣の端 をもって唱和す る。 終 わると全員が手 を洗い,堂内に 入 る。少年僧達 は外 に残 り,先 ほ どの山に火 を点 ける。 堂内で は中央の仏像 に結 んだ糸 (サ ー イシン)が,水 を張 ったバケツの上 を経 て堂の中 を一周張 り巡 らされているO糸の内側 に家族 員全員が集 ま り,高僧が今行 なった儀礼 の意味や仏教 ,積徳行 について タイ語で説教 をす る。 その後, カ レン僧がカ レン語 に訳 して手短 に説明す ると,村人達の質問に答 える。質問の多 く はこれ まで行 な って きた様 々な伝統儀礼 や,死 や病 の際 に どうす るべ きか とい うものであ っ た。その間にタイ人の僧達 は先 ほ どの糸 を集 まった村人の手首 に巻 き,最後 にバケツの聖水 を 彼 らの頭上 に撒いて終 わ り,村人達 は追放 された祖霊か ら身を守 られて帰 る。 この様 に して, 僧 による儀礼が オヘ儀礼 に終止符 を打つ。 12)当初は非公式に行なわれていたため記掛 こ残 っておらず,プロジェク トの年次報告 [Odiceofthe

Adnmi strativeComi ttee,PhraThaJTm CarikProjectProvincilDia vision 1985-881に儀礼の件数を記 載するようになったのも1980年代後半になってからであったoそれによると,1985年に161件,1986

(13)

速水 :北タイ山地における仏教布教プロジェクト プロジェク ト側 は,村人の仏教- の帰依 の言明,稽徳行-の参加,子弟の出家, などを仏教 化 の基準 としてい るが,村 人に とってはむ しろこのルーブガ儀礼 こそが,仏教へ大 きく一歩近 づ く契機であ る。 この後,彼 らは もはや 「オへ をす る人々」で はな くな り,「仏 を拝 む人々」 と呼 ばれ る。但 し,現実 にはルーブガ儀礼 を行 なった後,家族 に病人が出て再 びオヘ儀礼 に逆 戻 りす る例 も少 な くない。 このルーブガ儀礼 は, カ レン自身の要請 に よってプロジェク ト側が考案 した もので,基本的 に仏教儀礼 の形 をとっているが, カ レン社会 にこの原型 となった ものがある。 戦後直後か ら, メ-サ リア ン県の カ レン族 を中心 に, オへの霊 を追放す るためのチ ェ トゥス イ (「薬 を射す」, 「入 墨」, 地 方 に よ りchekosi,chakasiな ど) と呼 ばれ る入墨 儀 礼 が 行 な われ て い る [飯 島

1971:178;K皿Stadter 1979;Ma曲a 1980:230-232;Mischung 1980:105]。 この儀 礼 は,

スラ ・チ ェ トゥス イ (スラは呪術 に よる治療 を行 な う治療 師一般 に使 われる) と呼 ばれ る入墨 師に よって行 なわれ,H ムラ近辺 に も戦後 まもな くこの様 な入墨師が メ-サ リア ン方面か ら来 て儀礼 を行 なった。 祖霊 を脅 して二度 と来 ない ように し,夫婦 を守 る呪文 とともに入墨 をほ ど こ し,13)そ して祭壇 を作 って これに花 を飾 って祈 ることを教 えた。当時,H ムラで この儀礼 を 行 なった例が数件 あ ったが,入墨師が立 ち去 って しまうと,病 や死 な どに際 して どの様 に対処 して良いかわか らず,結局全戸元の オへ に戻 った とい う30年前 の経緯があ った

H ムラでチ ェ トゥス イ儀礼がルーブガに先立 って行 なわれていたことは,先述の様 に共同体の伝統的な生活 の変化 とともに, オヘ儀礼が足伽 と感 じられるようにな り, これ を放棄す る方途が望 まれ るよ うになっていたこ とを示 している。 ルーブガは, こう したカ レン側 の要請 と, プロジェク ト側 の意図が合致 して出 された答 えである。 冒頭で も紹介 した通 り,H ムラはこの地域 で も最 もタイ社会 との接触 が進んでお り,一時 に 10件 ものルーブガ希望者があ った こと自体,周辺のムラでは驚異的 とされた。一方

,

Sムラで は,キ リス ト教- の改宗者 は別 として,未だルーブガやチ ェ トゥス イに よってオヘ儀礼 を放棄 した者 はない。H ム ラで10件 のルーブガ儀礼が行 なわれた時

,

Sムラに もス イソダ寺か ら儀礼 の希望者 を募 る知 らせが届 いた

Sムラ在住 の僧 は寺の会合 で これ を伝 えなが ら,委員長であ り現在 ス イソダ寺 に長男 を送 ってい る

S

に意向 を尋 ねた

Sは僧 に対 して は,「自分 自身 は是 非受 けたいが,妻 や妻 の母が祖霊 を恐 れて承 知 しないだろ う」 と答 えた。帰宅後筆者 には, 「この村 には 『ywaを拝す る人々 (キ リス ト教徒)』 と 『オへ をす る人々』 の二種類 ある。 これ 以上増 やす必要 はない。親や祖父母 のや り方 に従 っていればそれでいい」 と語 った。 しか し, この 日か ら僧侶達が

H

ムラに到着す る当 日まで

,

Sムラで は

S

家 と

C

家 を中心 に村人が互い 13)カレン族の治療師の知識の中核をなすのは呪文である。またオへの霊を放棄する以外にも様々な目的 (身体の防備,恋愛や金運にまつわるものが多い)で呪文をともなう入墨が入墨師によって行なわれ る。呪文そのものは,カレン語のほかにも北タイ語,シャン語のものなど様々である。呪文や治療師 については速水 [1992]参照。 243

(14)

東南 アジア研究 32巻2号 の真意 を探 り合 い, ルーブガは専 ら話題 の 中心 であった

C家 の当主 は,「Sか うちか, どち らかがルーブガをすれば,村 中がす るだろ う」 と言 い,や は りSの動 向 を気 に していた。一 方で,儀礼 をふ さわ しく行 な うことによる社会的な威信 に支え られなが らも,他方でそれが負 担 とも足伽 ともなっている彼 らに とって,その危機 を乗 り越 えるために儀礼 的実践 を全 うして い くのか,あるいは違 った生 き方 を求めるのか,ルーブガ儀礼 をめ ぐる決断 は容易ではないの であ る。

タンマチ ャー リック ・プロジェク トの仏教 とカレン族の宗教変化

冒頭 に述べ た ようにプロジェク ト初期 の効果 は疑問視 されてお り,山地民 の仏教受容 も表面 的な ものに過 ぎない とい う指摘があ った

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。 タイにおける仏教 は出家者か ら在家者 まで, また布施や物財の寄進 による功徳の獲得 を重 ん じ る ものか ら信仰心や際想 を重 ん じる もの まで,多様 な様相 を里 している。全 く異 なる文化 をも つ多数の民族 を,個 々の文化 に深 く立 ち入 る事 な く 「山地民」 として一括 し, タイ化 を進め よ うとい うタンマチ ャー リック ・プロジェク トは,批判 され る通 り国家 的な意志が宗教 に介入 し, 目に見 える仏教 的所作 や布施 などの積徳行 を強調す る儀礼主義的な仏教 による体制-の迎 合 といえるだろ う。

S

ムラで もタンマチ ャー リック僧 の もとで,老若男女 を問わず身についているのは寺 や僧 を め ぐる礼儀作法である。若 い派遣僧 も何 よ り儀礼や作法の重要性 を強調 し,定期 的に村人 に仏 像や僧侶 に対す る接 し方,寺での座 り方,三宝帰依 や五戒の唱和 ,食事布施 な どの仕方 につ い て指導 していた。寄進や積徳行 はタンマチ ャー リック僧 を中心 に組織的に行 なわれ,周辺の北 タイ村落 をも動貞 してカ レン村 における地域 的イベ ン トとい う形で繰 り広げ られる。そこでは 布施者の氏名 と金額が読み上げ られ, タイ的文脈で は功徳 を積 む行為が, ここでは更に 「タイ 社会 に適応す る上で望 ましい行動」 とい うもう一つの意味づけが加 え られる。 メ-サ リア ン県 の,仏教 の影響 の強い カ レン村 で調査 を行 な った

Ma

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ha

は,「仏教徒 であ る」 とは どうい うことか不明瞭で,いつか ら仏教徒 となったか とい う問いに対 して も,同 じ個 人で も答 えが一貫 していない と述べてお り,村人の仏教理解 について疑問 を示 している。彼 ら に とって仏陀は縁遠 い存在 で,三帰依五戒の知識 も出家経験のある村長一人 に限 られてお り, 他 の村人 にとって仏教活動 とはサ ンガ- の奉仕 (ここで は,僧 に住居 や食物 を提供す ること) が 中心 であ った。但 し,

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は,生活の余裕 の少 ないカ レン村落 にあ って,僧侶へ の物 的 金銭 的援 助 は大 きな犠 牲 で あ り,仏教 - の関心 の大 きな証 とい え る と述べ てい る

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ムラの村人の仏教 に関す る言説 は調査者の言語能力の限界 を考慮 して も尚,不 明瞭 で要領

(15)

速水 :北 タイ山地 における仏教布教 プロジェク ト を得 ない ものであ った。 しか し, オへの霊や伝統儀礼 に関 して も同様 に,彼 らは どの様 に儀礼 を行 ない, どの様 に生活すべ きかについては明言 して も,霊 についての言説 は不明瞭である。 そ うした村人の言説や知識 によって,カ レン共 同体 において仏教 の もつ意義 を測 り知 ることは で きない。そ して,プロジェク トが 目指す山地民の 「仏教化」の内容が どうあれ,受容す るカ レン族 の側 に仏教 が何 を もた らすか を考慮す る ことな く, プロジ ェク トの現地 における 「効 果」 を表面的に過 ぎない として軽視す ることはで きない。 以下ではこの点 を検討 し, プロジェク ト主導の儀礼主義的仏教が, カ レン族共同体の儀礼や 社会経済的背景 とい う社会生活の変化 と密接 に関わることを論 じる。

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.

伝統儀礼の衰退 と仏教 仏教 や キ リス ト教 な どの外 来 の宗教 はカ レン語で 「タブ タバ」 (夕は名詞 を表 わ し, ブは パー リ語の purma, タイ語の bun,徳,バ は礼拝す る) と呼 ばれる。 つ ま りその語源か らして 非 カ レン的な ものを示唆 し,伝統儀礼 を含 む様 々なカ レン族の習慣 をさす 「アルアラ」か ら区 別 される [Hayami inpress]。Sムラの村 人か ら伝 え聞いたオヘ儀礼の起源伝承 によると,本来 庇護者的存在 であ った ywaとい う創造主が この世界 か ら立 ち去 った際 に, 自分の代 わ りにカ レン族 を守 ることをブガの霊 に頼 んだ。そ して, カ レン族 にブガを満足 させ てその庇護 を得 る ためのオヘ儀礼 を行 な うこ とを教 えた, とい う。 伝統儀礼 の中核 を成す オへ は,ywaの庇護の 代替 とい うわけである。一方,キ リス ト教 カ レンは神 を,仏教 に関与す るカ レンは仏 を,各 々 ywaと呼 び,いずれ も ywaを庇護者 とす る [ibid.]。 ここでは逆 に, タブ タバが, アル アラの 代替であ るともいえる。 つ ま り,庇護者 ywaを拝す るこ とに よ り,諸霊 か ら守 られ る タブ タ バ と,儀礼 によって諸霊 を統御 して身を守 るアルアラとは,競合す る 「信仰」で はな く,いず れ も諸霊 の世界への対処 とい うカ レン族 にとって 自明の必要 に処す る方途 なのである。 タブタ バ受容の契機 は,全 く異なる信仰-の移行 と言 うよ りも,同 じ世界観 に とどま りなが ら,異な る力,異 なる行為 を受 け入れることである。そこで は 「信 じる」 ことよ りも,庇護 を与 える力 ある存在 に対 して正 しく振舞 ってその力 にあずか り,諸霊 を統御す ること,即 ち力ある存在 を め ぐるふ さわ しい実践が問題である。14) 仏 や僧侶 に力があ り, これを もって霊 を制す ることがで きる とすれば,彼 らに とって受容の ポ イ ン トは仏教 の教 義 的内容 よ りも,儀礼 や積徳行 によってそ うした力 にあずか るこ とであ る。 信仰 や教義 とそれ らに対す る内面的 な態度 を重視す る宗教観か らすれば,その様 な受容 は 「表面 的」 とい うことになるだ ろうが,それはカレン族 に とっての宗教受容 の尺度 としてはあ 14)但 し, これは受容 の契機 について述べ たのであ り,キ リス ト教徒や仏教徒の カ レン族が,各 々の宗教 の言説,世界観へ移行 してい くこと,教義や阪想,信仰 の内容 に関心 をもつ ことを否定す る もので は ない。 245

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東南 アジア研 究

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号 ま り意味 をもたない。15)

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ムラで も,伝統儀礼 と仏教 は,相互排 除的ではな く,影響 しあい,あ る意味で は連続 し, 補 いあ っている。 ムラの一部分がキ リス ト教 に改宗 したこともあ って男子の直系 による世襲の ヒコ (儀礼 の リーダー) の継承者が な く,

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年 ほ ど前 か らヒコ不在 となっていた。 この事態 に 対 して,非 キ リス ト教徒 の村人の多 くは, ヒコの不在 とムラの一部のキ リス ト教化 によ り, ヒ コが行 な う儀礼 ばか りでな く共同体 の秩序全般が危機 にある とし,水が少 な くなって凶作 とな った り, ムラ内の争 いが多 くなったの もこのためだ とい う。 そ うした中,寺 の委員で もあ る

C

S

は,寺 がで き,仏像 が安置 され,僧 が住 み込 む よ うにな って ムラの秩序が取 り戻 された とす る。 仏像 のある寺,超俗者 としての僧侶 ,そ して護呪 は力 をもつ とされる

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年代 当初 の仏教受容 の背景 や悪霊蔽 い儀礼 に見 られる ように

,

Sムラのカ レン族 に とっては, この同 じ 力 が ヒコや伝統儀礼 を補 うもの と して期待 されているのであ る [速水

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9

2

]

。更 に,前章で 述べ た ように, オへ を放棄す る決断 を可能 にす るの は,僧 と護呪の力 をもってオへの霊 を追放 す るルーブガ儀礼 であ る。 しか しここに至 って仏教 は もはや伝統儀礼 を補足す る手段 であ るよ りも,彼 らの宗教実践 の中心 となってい く。 Sム ラの様 に伝統儀礼 と併存 す る形 にせ よ,あ るい はHム ラの様 にルーブ ガに よってそれ を放棄す る道 を提供す るにせ よ, プロジェク トが もた らす仏教 が, カ レン族側 か らも積極的 に 取 り込 まれ,その宗教実践 の変化 に大 き く関わ っていることはた しかである。 それは, プロジ ェク トが仏教 の教義 や信仰 内容ではな く,行為 や儀礼 を強調す る ものだか らこそ可能 だ と言 え るのではないだろ うか。

2

.

共同体の社会経済的変化 北 タイ山地 の カ レン族 の生 業 は,今 世紀 に入 って焼畑依存 型 か ら水 田依存 型-移行 してお り, タイの行政 や市場経済 との関わ りも日常 レベルで深 まっていることは,先 に述べ た。開拓 し使用権 を獲得 した水 田は財産 として相続 される。 新 しく水 田 を開拓す る余地が もはやほ とん どな くなったい ま, ムラ内で も所有面積 の大小の差が生 じ,経済格差が世代 を越 えて形成 され つつあ り,一部で余剰 も大 き くな り, ム ラ内外 にこれ を投資す る対象や消費財 も増 えている。 こ うな ったム ラは,焼畑 をめ ぐって土地 を共有 す る運命共 同体 で はな く,個 々に水 田 を所有 し,経済活動 を繰 り広 げる世帯 の集合である。 しか し, この様 に生 じた富の格差 は,儀礼-の 参与 によって共同体の秩序 に貢献す ることが社会的な地位 をもた ら したカ レン社会 に限定 され 15)T00kerはアカ族の宗教 と伝統 をめぐり,伝統 との関係のあ り方を内面の問題 として取 り扱い,「信 仰」 を偏重することは西洋的な前提に過 ぎないと論 じている [T00ker

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]

。カレン族においては キリス ト教などの 「宗教」と 「伝統」の関係はアカ族とは異なるが,カレン族の仏教受容を考える際 にこれまで同様な前提のために現状 を十分に把握できなかったという点で Tookerの主張に賛成す る。

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速水 :北 タイ山地 における仏教布教 プロジェク ト た従来の地位 と威信のシステムでは活か されない。 しか も,伝統儀礼 を続 ける限 り,経済活動 へ の制約 は続 く。 キ リス ト教 に改宗 したムラ人は,余剰 を儀礼 に費やす必要 も,儀礼 に よる制約 もないため, 様 々な経済行為 に参加 しやすい。宗教的価値 と経済的価値が分離 してお り,経済行為が 自由な ので あ る。 他方,非 キ リス ト教徒 の中に もム ラ内外で経済活動 に従事す る者 もあ る。 彼 らに とって仏教 は,儀礼 を続 けなが らも新 しい形で経済的余裕 を振 り向 け,共同体 の内外 に通 じる 社会的地位 と威信 を得 る手段 と場 を提供 してい るといえるので はないだ ろうか

Sムラで仏教 活動 を中心 となって担 ってい る世帯の経済状況 を見て もこれは裏付 け られる。 表 1で は

,

Sム ラ全戸の経済的指標 として米の生産高,家畜 な どの保有数 を示 した。残念 なが ら,年間の仏教 行事 を通 しての布施の額 な どは不明だが,委員会の中心 メンバ ーである C (世帯

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)や S (世 帯

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) は, ソンクラー ンやバ ーバ ー奉献祭 な どの積徳行で は,他の村人 (平均

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バ ーツ程度) よ り一桁多い額

(

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0-2

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バ ーツ) を寄進 していた。彼 らは前述の ように息子 をス イソダ寺-送 りだ してお り,諸行事の準備 な どでチ ェンマ イへ出向 くなどして,チ ェンマ イ との関わ りを 仏教 を通 じて増 し, これ を経済活動の機会 に も当てていた。 伝統儀礼 においては年長 になるほ ど,知識,経験 も豊富 で儀礼 の効果 も高い とされ,最 も尊敬 を集 め るが,Cや

S

はまだ壮 年 期 にあって経済的 にもムラで-,二 を争い,そ こで生 じた余裕 を仏教活動 に当てている。 今 ま さに彼 らが,経済的価値 を仏教 を通 じて宗教 的価値 と威信 的価値 に, しか もタイ社会 に も通 じ る価値 に転換す る,新 しい地位 と威信 の体系 を築 きつつあると言 えるのではないだろ うか。積 徳行 などの行為 を重視す るプロジェク トの碇示す る仏教 はこう した背景か ら見て も取 り入れ易 い ものである と言 えよう。 こ うした考察 は他地域 か らの報告 と も一致す る。Ham批onは, メ-サ リア ン県 のポー ・カ レン村 について,「アニ ミズム」か ら仏教- の移行 は タイの経済活動 や市場へ の参入 と相 関関 係 があ り, この村で も水田保有者のみが寺へ行 くと指摘 してい る [Ham批on 1976:

2

4

5

]

。 ま た,Madhaは,二つの カ レン村落の構造 を比較 した研 究 の中で,一方の メ-サ リア ンに程近 いが経済的によ り貧 しい焼畑耕作 中心のムラで は全体 で伝統儀礼 を守 り,水平的な関係が保 た れてお り,他方の町か ら遠 くタイ社会か らも遠い方 のムラでは,逆 に現金経済が導入 されつつ あ り,米 も水 田が 中心で階層化が始 ま り,伝統儀礼が衰 え宗教 的に も各世帯が個別化す る一方 で,仏教 がか な り積極的 に取 り入れ られていることを示 している。 これ らの報告 も, カレン社 会 にあっては,水 田耕作 による共同体 の社会関係 と経済活動の変化,商品経済- の関与 や経済 的階層化が仏教受容 の一つの背景 になっていることを示 している [Madha 1980]。 しか し少 な くとも

S

ムラで は, ルーブ ガ儀礼 によってオへ を始 め とす る伝統儀礼 を放棄 し ようとす る者 は今の ところない。 カ レン族の伝統儀礼への参与 を通 じて彼 らが得 る社会的地位 を失 うリスクを冒す ほ どに新 しい地位 と威信 の体系 は

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Sムラでは確立 していないのである。 247

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東南 アジア研究 32巻2号 ルーブガ儀礼 の執行 をめ ぐってSムラの Cや Sを中心 に展 開 された探 り合 いは, このことを 互 いに確認 しあ う過程であ った と言 えるか もしれない。 あ わ り に 本稿 では, タンマチ ャー リ ック ・プロジェク トの仏教布教 活動 の-事例 と してSムラとH ムラを考察の対象 として きた。モ ン族 に関す るTappの報告 (序章参照) とは異 な り, この地 域 のカ レン族 の場合, プロジェク トが儀礼主義的であることが, カ レン族 における宗教実践の あ り方や変化,共同体 の社会的経済的変化 の中でむ しろ受 け入れ られ易 いことを見て きた。そ れは受 け身一方の受容ではな く,表面的 と一言で片づけ られ る もので もない

Sム ラ周辺のカ レン族 は,仏教 を部分的にせ よ受 け入れることで,彼 らの共同体 の存続 を図 り,変わ りゆ く社 会経済的背景の中で新 しい社会関係 を形成 しつつある。 プロジェク トはこの様 に, この地域の カ レン族社会 ・文化 の変化 に一つの形 を与 えているのである。 本論の主要 な論点 は,受 け入 れるカ レン族側の事情 を解明す ることにあ った。 しか し, プロ ジェク ト側 には,仏教化 を通 して タイ化 を図 る, とい う目的がある。 カ レン族が仏教 を受容す ることは, こうした意図 を含んでの ことだろ うか,そ してそれは民族のアイデ ンテ ィテ ィを放 棄 して タイ化することなのだろ うか。最後 にこの点 に触れてお きたい0

S

ムラ周辺 の多 くの村人 は時 として 自らタイ国民であるこ とを強調 し, またある時 にはタイ 族 とは異 なるカ レン族 であるこ とを強調 し, この二つのアイデ ンテ ィテ ィを矛盾す る もの とは 考 えていない。先述の通 り, タンマチ ャー リック ・プロジェク トのみな らず,山地 と平地社会 との関係 は多角化 し,広域化 してお り,土地の所有,教育,行政,そ して経済活動 を通 して村 人 は大 な り小 な りタイ国家 と関わ りをもつ 。 ほ とん どの村人が タイ国民 の身分証明書 をもっ こ の地域 で は, タイ国民 であ ることは当然 の こ ととして多少 な りとも権利義務 をと もなってい る。生活 の様 々な必要上 タイ国民であることを否定す るよ りむ しろ, タイ社会 と良好 な関係 を もっ こ とは,Sム ラ周辺 のカ レン族 に とって は有益 であ る。 プロジェク トが もた らす仏教 が 「表面的」であるにせ よ,少な くとも調査時点でKeyesの危倶 す る様 な千年王国運動 に発展す る兆 しがないの も, こうした背景 によるのではないだろ うか。 しか し, タイ国民である自覚 と同時 に自らタイ族 とは異 なるとい う伝統 に裏打 ちされた 自負 と,平地民か ら二流市民扱 い されている とい う経験 に基づ く認識がある。 こうした中で, カ レ ン族の タイ化 に対す る意識 は,積極的にそれに ともなう権利 を享受 し, その社会 の一月 として の立場 を築 こうとい う部分 と,その ことによって 自らの立場 やアイデ ンテ ィテ ィを失 うことへ の危快 との両面相倹 っている。 ただ,山地のカ レン族地域 にとどまる限 り,民族 アイデ ンテ ィ テ ィとタイ化が大 きな矛盾 となって選択 を迫 られることもない。その ような場で, プロジェク 248

(19)

速水 :北 タイ山地 における仏教布教 プロジェク ト トの もた らす仏教 は, カ レン族 の共 同体 を維持 しつつ, タイ国民 と して仏教行為 を身 につ ける ことを可能 に してい る。国家 の吸引力 を強 く感 じるほ どに, カ レン族 と しての伝統 的共 同体 に 対 す る危機感 もまた募 ってお り, その吸引力 の担 い手 で あ る タンマチ ャー リ ック ・プロジ ェク トが逆 に, 山地 の共 同体 において はその境界 や旧秩序 を守 るため に も利用 されて もい るのであ る。 それ は仏教 が カ レン族 の ム ラに受容 されて地元化 され る形 で定着 してい る こ とを も示 して い るが, 同時 にそれに よって カ レン社 会 に タイ国家 の賂 印が押 されて行 く。 調査 地域 は, プロジ ェク トを受容 す る素地 として仏教 の影響 が既 にあ り, プロジ ェク トが カ レン族 の全地域 で同様 な成果 をあげてい るわ けで はない。 また, プロジ ェク トが カ レン族 の間 で最 も成果 をあげてい る背景 には, カ レン族 の タイ社会 との関係 の歴 史が あ り, プ ロジェク ト の対 象 とされてい る他 の民族へ一般化 す るこ とはで きない。 しか し,儀礼 主義 的,表層 的, と され る手段 を通 じて, プロジ ェク トが この地域 の カ レン族 の タイ社会へ の適応 の一助 とな り, カ レン族共 同体 をタイ国家 の文化 ・社会 に取 り込 む一翼 を担 ってお り,現在 の カ レン社会全般 の変容 を見 る上 で,仏教 は看過で きない要 因 にな りつつ あ るこ とは確 かで あ る。 謝 辞 本論文 は,別稿 の一部分 [速水 1992:ⅠⅤ 章】の論点 を,調査 デー タを提示 しなが らよ り詳細 に論 じる もので ある。調査 は,庭 野平和財団の研 究助成お よび, タイ国NadonalResearchCounC止の許可 を得て行 なわれ た。調査 を可能 に して くだ さった多 くの方 々,特 に北 タイ諸方 の カ レンの皆様 に感謝 申 し上げた い。尚,本論文 の内容 は第47回 日本人類学会 ・民族学会連合大会 (1993年10月 ・立教大学) にて発表 した もの と重 なる。その折 に有益 な御指摘 を下 さった吉野晃氏, また初稿 を丁寧 に読み,貴重 なコメン トを下 さった本誌の評者 に末筆 なが らお礼 申 し上げ ます。 参 考 文 献

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-1adelphia:ISHI.

参照

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