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大津商人による鉄道発起と挫折 : 京都・大津間鉄道敷設計画を中心として

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Academic year: 2021

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大津商人による鉄道発起と挫折

         一京都・大津間鉄道敷設計画を中心として一

︵目次︶ 一、 ヘじめに 二、京津電気鉄道︵京津・一次︶の発起 三、京北鉄道発起への参加 四、京北鉄道の姉妹会社たる近畿鉄道と京阪鉄道 五、京津電気鉄道︵京津・二次︶の発起 六、むすびにかえて 一、 ヘじめに 京都三条と浜大津を結ぶ京阪電気鉄道京津線は平成九年秋開通予定の京都市営地下鉄東西線︵醍醐∼二条問一二・七キ ロ︶の都心部区間の御陵∼市役所前間へ、新造の専用車両三二両による直通運転が決定している。これに伴い、電圧の昇 大津商人による鉄道発起と挫折 一

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大津商人による鉄道発起と挫折 二 圧、ホーム延伸工事が進み、東西線開通後は路面中心の平行区間の京津三条∼御陵間は廃止が予定されているなど、大正 時代の電気軌道の面影を異なお色濃く残し、断続的な併用軌道の存在と急曲線、急勾配で知られた京津線も近々滋賀県の       ︵1V 県都と京都の都心を直結する高速・大量輸送機関へ大きく飛躍・変身することが期待されている。  大正一四年二月一日に京津電気軌道を合併した京阪電気鉄道の社史﹃鉄路五十年﹄は京津線の創立史を﹁星空海道筋に沿 って、大津と京都の繁華地へ通じる鉄道を敷設しようという計画が、官線の開通後まもなく、大津人・京都人のあいだに起こった。 明治二七年︵一入九四︶年前後の話である。京津電気軌道株式会社が、大津市御蔵町・京都三条間の軌道敷設を出願したのは明治三 九年三月一九日であるが、これにつづいて京都電気鉄道ほか一社からこれと同一の区間に対して軌道敷設を出願したために三者の競 願となった。主務官庁が三者に対して合流・妥協を要請したので、京都電鉄は島津電軌に合流することになり、明治四〇年一月二四 日、丸面電略に対して特許状および命令書が下付され、同四三年三月二入日、京都商業会議所で創立総会を開いて発足をみたのであ        ︹2︶ つた。資本金は一五〇万円、社長は奥繁三郎氏︵四月七日就任︶であった。﹂と原文では僅か十行足らずで簡潔に紹介するにとど めている。  本稿では京阪社史のいう﹁大津人・京都人のあいだに起こった﹂京都・大津間鉄道・軌道敷設計画の試行錯誤を中心に、 滋賀県都の大津の商人層による鉄道・軌道会社の発起・出願と、相次ぐ挫折・撤退・脱落を見て行くこととしたい。全く の偶然であるが、京津電気鉄道を名乗る、最初の大津商人主導による津津間の電鉄会社は、奇しくも京都市交通局の前身 ともいうべき京都電気鉄道との間で、冒頭に紹介したと同様な、注目すべき一種の相互乗入計画をたてていた。大津と京 都の距離的接近性の故に歴史は繰返すというべきであろうか。  滋賀県には明治以降もいわゆる﹁近江商人﹂の伝統を継承する有力な商人層が湖東地方を中心に形成され、彼らによる        ︵3> 銀行、保険、鉄道、繊維産業等の新興産業への積極投資に関してはかなりの研究蓄積が存在する。しかし滋賀県都の大津

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在住の商人・経済人の明治・大正期の活躍に関しては藤田貞一郎氏らによって執筆された﹃新修大津市史潮五巻近傑﹄︵以 下単に﹃市史﹄と略︶をはじめとする優れた地方史等をのぞけば比較的手薄であり、伝統ある﹁近江商人﹂研究の層の厚 さとはかなりの格差が認められる。  そこで本稿では特に大津の商人層による企業勃興期の企業設立行動の一環として、地元の鉄道・軌道会社の発起・出願 を取り上げ、彼らの投資行動の特色を可能な限り探索して見たい。大津の商人等による鉄道投資として﹃大津商工会議所 沿革史﹄は明治三六年︵以下年号の明治は略︶一〇月一一日大津商業会議所の役員会で京都∼大津間の新しい交通機関の 実現を促進すべ曳紺地間の交通に著て詳細なる調査を行ふに告L・この馨が端緒とな・て紆余曲折を経た後笹津電 気軌道︵現京導線︶が実現することとなったと特筆大書するとともに、湖西軽便鉄道︵四四年出願︶認可のための請願書 ︵大津商工会議所の副申書︶を引用して次の三計画をあげている。 ①﹁わが大津市より直接北陸地方に対する交通機関の必要を認むること久しく、往年有志が小浜より大津に通ずる鉄道敷 設を出願せり﹂ ②﹁明治三十九年には︵小浜鉄道の︶前設計を踏襲して近若鉄道株式会社を組織し、大津市を起点として福井県三宅村井 口に達する鉄道敷設を出願せるも、当時経済界の不況のため実現せず﹂       ︵6︶ ③﹁今回︵明治四四年︶大津市橋本甚吉郎外数名より︵近若鉄道の︶前設計に基き湖西鉄道を企画出願せり﹂  ③の湖西鉄道も前二者と同様に不成立に終ったが、いずれの計画も後年に実現に至った江若鉄道の先鞭・先駆をなすも のであり、いずれ機会を見て取り上げたいと考えるが、ここでは大津の商人等による鉄道発起として、主に京都・大津間 に限って取り上げることとする。ただ、当初北陸と京都・大阪を結ぶ計画の京北鉄道だけは結果的に京都・大津間と密接 に関係するので、一部の大津の商人らが参加したものの、東京資本主導の計画ながら本稿で取り上げる。当時の﹃鉄道時 大津商人による鉄道発起と挫折 三

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大津商人による鉄道発起と挫折 予 報﹄は﹁京北鉄道と云って京都大津間の仮免許状を得て居た会社があったが今は消滅して居る。⋮京津間電気鉄道これは前の京北鉄 道に代るもので、其名の示す如く京都大津間の電気鉄道であるが、これに就き三派の発起者あり、其の為め久しく悶着して居たが、       ︵7︶ 今は其間の調停が出来て出願中であるから、遠からず其実行を見ることが出来るであらう﹂と報じている。  この京北鉄道と出京津島との関連は第一に京北鉄道が発起人の当初の意図とは異なり、結果的に京都・大津問のみが許 可されたこと︵免許取得のみで、﹁向に着手しなかったが故に、結果として後年の京津線の実現を大幅に遅延させたこ と︶、第二に京北鉄道発起人の中心人物の︸人でもあった子爵由利公正ら、いわゆる﹁華族派﹂が同社の免許失効後に再 度、京都・大津間ほかの電鉄敷設を目論見︵近畿電車鉄道︶、これら各派の発起が最終的には大津側の計画とも合流し、現 京混線成立に繋がっていること、第三に京北鉄道と姉妹関係にあった近畿鉄道の後身・京阪鉄道こそは、現在の京総理を        ︵8V 経営する京阪電気鉄道と系譜的に直結する前身の一つと考えられることなどがあげられる。  なお本稿では相互に人的連携を持ちつつも、同名異社の京津電気鉄道︵または岡津電気軌道︶という社名が繰返し登場 するので、明確に区別するため、以下年代順に二七年の出願計画を﹁京津電気鉄道︵第一次︶﹂または﹁京津︵一次︶﹂、三 六一八年の出願計画を﹁京津電気鉄道︵第二次︶﹂または﹁京津︵二次︶﹂、実現した江津電気軌道︵現京阪・京津線︶を﹁京 津︵三次︶﹂と便宜上呼ぶこととする。  日頃から貴重なご指摘、ご教導を頂戴しているとともに、本稿でも先行研究業績を大いに利用させて頂いた同志社大学 の藤田貞一郎、末永官紀、和歌山大学の上村雅洋、本学の宇佐美英機の各氏ら近江商人研究の先学各位、大津の先覚・高 谷光雄翁の曽孫高谷達雄氏、同氏をご紹介頂いた本学の大和田敢太氏に厚く御礼申し上げるとともに、当史料館に御寄贈 ・御寄託賜っている多数の史料所蔵者各位を始め、今回も貴重な史・資料の拝借・閲覧等に便宜を賜った鉄道史資料保存 会の高山禮蔵氏、西城浩志氏、国立公文書館、国立国会図書館、交通博物館、交通科学博物館、滋賀県県民情報室、滋賀

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県立図書館、滋賀県議会図書館、京都府総合資料館、大津市立図書館、東京大学明治新聞文庫、同志社大学人文科学研究 所、龍谷大学長尾文庫、神戸大学経営分析文献センター、京阪電気鉄道広報課、近江鉄道総務課、下郷共済会、大宅壮﹁ 文庫、近江商人郷土館、大津市商工会議所︵順不同︶などお世話になった多数の関係諸機関各位に対して厚く御礼申し上 げたい。 ︵1︶平成七年二月八日﹃日本経済新聞﹄。 ︵2︶京阪電気鉄道﹃鉄路五十年﹄昭和三五年、=二八頁。 ︵3︶近江商人による新興産業投資に関しては高橋久一﹃明治前期地方金融機関の研究﹄昭和四二年、新生社、南開史研究会編﹃変革期の商人資本−近江   商人丁吟の研究一﹄昭和五九年、吉珊弘文館、安岡重明、藤田貞一郎、石川健次郎編著﹃近江商人の経営遺産1その再評価一﹄平成四年、同文館、   傳田功﹃地域の金融・財政史一滋賀県と近江銀行1﹄平成五年、日本経済評論社、ならびに麻島昭一、末永國紀、上川芳実各氏らの多くの論稿、関   連の社史・伝記類︵前掲の﹃近江商人の経営遺産﹄巻末の文献リスト︶を参照。なお当世助三郎の生保・鉄道等への投資に関して拙稿﹁日本生命創   業者人脈と弘世、岡橋、片岡らの共同投資行動一証券引受機能の集団的発揮一﹂︵作道洋太郎編﹃近代大阪の企業者活動﹄平成九年四月刊行︶、藤井   善助の鉄道・汽船・生保投資に関して拙稿﹁近江商人系金融機関の地元還元投融資−藤井善助による琵琶湖鉄道汽船の統合と解体l﹂︵﹃滋賀大学経   済学部附属史料館研究紀要﹄第二八号、平成七年三月︶、同﹁近江商人による生保支配−大正期の日本共立生命の資本的連携を中心にl﹂︹﹃滋賀大学   経済学部研究年報﹄第一巻、平成七年三月︶なども参照されたい。 ︵4︶﹃新修大津市史五近代﹄昭和五七年、鉄道等の部分は藤田貞一郎氏が執筆。 ︵5︶︵6︶﹃大津商工会議所沿革史﹄昭和一八年、大津商工会議所、三四五頁、四一五頁。橋本甚吉郎は大津市の実業家で近江政友会に所属、三十九年に   は藪田信吉らと大津電車軌道を発起、このほか﹁従来京都の有志者等に依り婁唱道された﹂︵四四年一月一=日﹃鉄道時報﹄︶京都市から今津を経て   敦賀に至るルートには京都の碓井小三郎、上田万次郎、村上捨次郎、中安信三急呈八名が四四年四月二十日出願した京北軽便鉄道など、類似の計画   があった。︵四四年五月一日﹃鉄道時報﹄V。 ︵7︶三八年五月十三日の﹃鉄道時報﹄。 ︵8>渋沢栄一の履歴台帳は渋沢が創立委員長となった京阪鉄道は﹁大坂・京都間二一新路線ヲ開キ、両流ノ交通ヲ便ニスルヲ目的トシテ、元近畿鉄道ノ   創立二等シキ趣旨﹂︵﹃渋沢栄一伝記資料﹄第九巻、三二四頁︶で、﹃渋沢栄︼伝記資料﹄は﹁京阪鉄道会社ハ即チ近畿鉄道会社ノ相続者﹂、﹁明治三十   九年京阪電気鉄道許可サレシモ之亦京阪鉄道ノ後継者タリ﹂と形容している。︵﹃渋沢栄一伝記資料﹄昭和三一年、第九巻、三二八頁︶。 大津商人による鉄道発起と挫折 五

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大津商人による鉄道発起と挫折 . ノ、 二、京津電気鉄道︵京津・﹁次︶の発起 (一 j疏水運河を利用した京都大津間の舟運  滋賀県の県都・大津と京都の間は僅か三里程度に過ぎない近距離に位置しており、両都市間の商工業上の取引関係は極 めて密接であり、車馬の往来が頻繁なにもかかわらず、明治中期の﹁交通機関としては二十年来依然として東海道官線の        ︵1︶ 外、疏水運河に過ぎず、到底交通の敏速と簡便を期すること能はざる﹂状態にあった。  二二年には湖東線開通により﹁社運振はず﹂打撃を受けた太湖汽船が支配人の﹁芳野寛の画策しで太湖汽船関係者らと       ︵2︶       ︵3︶ ﹁旅客吸収の︸策として京津馬車会社を副業として開始し﹂、京都∼大津間に馬車を走らせたが、﹁数年にして廃せられた﹂。  疏水運河を利用した公共交通機関としては京都大津間の舟運があり、京津両駅とも不便な描線に比し盛んに利用されて いた。二八年当時の京都の案内書には﹁南禅寺の南に出で此所に舟溜所ありて近江への荷船客船を扱へり、客船は大津三        ︵4︶ 井寺下迄一人五銭にて通船せしむ﹂と紹介している。二四年四月大津を訪問したロシアのニコライ皇太子の旅程も当初予        ︵5︶ 定の馬場駅からの帰路に代えて疏水を船で蹴上へ戻る案が︸時は浮上したほどであった。  二七年当時は﹁近来疏水運河を利用して京津間を上下する諸貨物の運賃は各問屋競争の結果賃銀を低落し大津より京都への運賃 米一俵一銭五六厘なるより、水夫等は其間にて種々の悪策を運らすにぞ。遂に荷主の信用を価し、重に陸路運搬となし、殆ど疏水の   ︹6︶ 効力なき﹂有様であったという。二七年二月にはこうした舟運業者の不正行為を嘆いていた京都の竹島末江、林嘉平、橋本 甚太郎、富岡溝橋、沢井長兵衛の五名が発起人となって、資本金五千円の疏水運送合資会社が疏水仁王門通浜に設立され た。同社は大津三保ケ関の第一築地に支社を置き、三月一日から開業し、貨客の便宜上、﹁大津の湖南汽船会社と特約して 西江州一円の荷物運送を引受け、同社の汽船をして運送会社の支店なる第一築地に寄港する事となし、来る二十八日より

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  ︵7︶ 実行するしなど湖南汽船との提携策をも展開した。疏水運送は姉妹関係にある疏水倉庫ともども役員関係のある二黒銀行 を資金的背景としており、鴨東銀行取締役だった下郷外次郎は﹁我々が京都で疏水倉庫会社やら、鴨東銀行を起しました        ︵8︶ ⋮私は両方を遣って居ましたが、是は主人︵下郷伝平︶から許可を得て遣ったのです﹂と下郷伝平︵以下特記なき場合は 先代・久道︶の意向の下での経営参加だったことを明らかにしている。       ︵9︶  この結果、従来舟運業者の弊害のため﹁江州等よりの米穀は重に陸路運搬となす﹂はかなかった﹁各荷主は大に同社に 信用を置き続々委托するやうになりたるにより、従来の運送業者五名は斯くては一大事なりと共同して資金を募り、競争        ︵11︶       ︵10︶ を試みんとて目下計画中﹂で、﹁江州坂本にも江阪運輸合資会社と云ふを起し⋮大に疏水を利用する計画あり﹂と報じられ       ︵12︶ た。記事にある坂本の江阪運輸社は二丁年創立され、後に淡海汽船と改称、三五年一月湖南汽船に買収された。  この前後に設立された疏水利用の通船会社としては上記のほかに二六年一二月設立の疏水遊船合資会社、二七年一二月 設立の京都疏水通船、二七年一二月設立の京近曳船会社などがあった。このうち最大の京近曳船は資本金七・五万円で﹁京        ︵13︶ 津間米穀薪炭雑貨及乗客の漕運を目的として﹂大津町西山に設立され、三〇年上半期では払込資本金五・一五万円、借入 金四五〇〇円、遊船勘定一・七万円、汽船勘定三・一万円、社長は京都の小牧仁兵衛、専務は宮原魚礁、取締役中山勘三、       ︵14︶ 吉村太助、木村小兵衛、監査役大塚栄次、水上久兵衛、中田長茂であった。社長の小牧仁兵衛は後述の通り京北鉄道︵第 一次︶の発起人総代になった人物でもある。  この通船は﹁京近心船会社の通船により碁客の運輸を為す⋮疏水通船の乗場は三尾神社重なる鹿関橋畔に在り﹂﹁大津三井寺下な       ︵15︶ る第一疏水東畑の起点より京都蹴上げの終点まで約一時間にて達す、屋形付の和船にて本邦第︼の大仕掛なる疏水運河を下るもの﹂       ︵16︶ で、三入年には大津から京都へ向かう旅客船の利用客は一一万一五︼四人であったが、四〇年代から逓減した。しかし京 津電気軌道開通後の大正三年には利用客は二言五六一〇人にまで減少したものの、大正四年時点でもなお﹁京近曳船会社 大津商人による鉄道発起と挫折 七

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大津商人による鉄道発起と挫折 入 通船は京津電車と共に大津京都両地間の交通槻興﹂と扱われ、大津の﹃写真集﹄には一人一三銭の﹁血行乗客切符売場﹂       ︵18︶ の旗を立てた疏水入口の京近曳船本社の写真︵年代不.詳︶が収録されている。インクラインが運転を休止したのは実に昭       ︵19︶ 和二三年一一月一六日であった。 ︵1︶前掲﹃大津商工会議所沿革史﹄、三四五頁。 ︵2︶大津市私立教育会計﹃大津市志﹄︵以下単に﹃市志﹄と略︶上巻、明治四四年、七八五頁。芳野寛は大津、白玉町、牛乳搾取業・牧牛社、六十四国   立銀行取、太湖汽船支配人←専務、大津銀行取←監、三四年洋牛搾取の大津牧畜発起し社長、四三年所得入○○円、四〇年五月一四三年八月大津商   工会議所会頭。 ︵3︶前掲﹃大津市志﹄中巻、一=二七頁。社名は上巻では京津馬車会社とし、中巻では大津馬車会社となっており、一致しないが、前掲﹃大津市史五近   代﹄は﹁大津馬車組︵正式名称は京津馬車会社と思われる︶﹂とする。︵同書、三二五頁︶。 ︵4︶﹃奨都祭博覧会遊覧乃栞﹄明治二入年︵平成五年、広島・あき書房復刻︶、三一頁。 ︵5︶前掲﹃大津市史五近代﹄一八八頁。 ︵6︶二七年二月一入日﹃日出新聞﹄。 ︵7︶二七年三月二五日﹃日出新聞﹄。 ︵8︶﹃下郷久道翁伝﹄昭和一九年、四四五頁。下郷外次郎は﹁鴨東銀行から金を引き疏水倉庫に糀米を預ける﹂︵同︶ことにして、江州の糀米買占めを行   つた。上東銀行が破綻した三四年時点では同行から疏水運送への貸越は二五一四円であった。︵高橋真一﹃京都金融史﹄大正一四年、五入頁︶なお三   入年三月藤井善助は藤沢弥三郎、山下元治︵上京区、高倉通丸太町下、三四年現在関西倉庫取締役︶らの経営していた疏水運送︵岡崎、資本金五万   円、運送及び倉庫業︶、疏水倉庫︵岡崎、資本金三万円、倉庫業及び貸金︶を買収して運送業を兼営、織物倉庫運送と改称、藤沢、山下を取締役に加   え、小畑源之助を営業主任とした。 ︵9︶︵10︶二七年三月入日﹃日出新聞﹄。 ︵11︶二七年三月一七日﹃日出新聞﹄。 ︵12︶前掲﹃大津市史五近代﹄、三四三頁。 ︵13︶前掲﹃市志﹄、一=二八頁。﹃日本全国諸会社役員録﹄では資本金七・五万円で二入山八月設立とあるが、﹃盲管﹄や中村紅雨﹃大津名勝案内﹄︵大   正四年︶では京近曳船の設立は二七年一二月となっている。 ︵14︶京近曳船﹃第五回 上半期報告﹄三〇年。 ︵15︶︵17︶前掲﹃大津名勝案内﹄、三一、入頁。

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19 18 16 前掲﹃大津市史五近代﹄、三〇七頁。 徳永真一郎編﹃写真集明治大正昭和大津﹄昭和五五年、国書刊行会、 田村喜子﹃京都インクライン物語﹄昭和五七年、新潮社、二一一=頁。 六八頁所収。 ︵二︶大津の商人等による京津電気鉄道︵京津・一次︶発起  京阪社史が﹁旧東海道筋に沿って、大津と京都の繁華地へ通じる鉄道を敷設しようという計画が、無線の開通後まもな        ︵1︶ く、大津人・京都人のあいだに起こった﹂とする計画について﹃明治運輸史﹄は﹁明治二七年一月大津商業会議所に仮定 款を議事し、大津京都間及三井寺間に敷設すべき京津電鉄﹂を京都電気鉄道、東京市街鉄道等に継ぐ﹁頻々として企画さ るる電鉄企業﹂として、小田原馬車鉄道︵現箱根登山鉄道︶、骨相人車鉄道、相相鉄道︵現伊豆箱根鉄道︶、摂津電気鉄道 ︵現阪神電気鉄道︶、大阪市内、神戸、堺、熱田、広島、大分等各地の電気鉄道計画とともに、﹁日清戦役前の電車熱勃興       ︵2︶ 時代﹂の先駆例として掲げている。  大津商業会議所は二七年一月一二日の役員会で﹁此程調査しつつありし三井寺鉄道踏査の略図出来せしに依り⋮愈々同会にて        ︵3︶ 可認せば一の営利会社を起す目的を以て発起人へ皆無引継ぐ筈﹂で、当初の﹁同鉄道の設計は延長六山苞にして之を電気鉄道とし、 起点を大津三井寺前に取り、小関越は腿道を設けず山嶺を上下して夫れより疏水線を沿ひ京都南禅寺へ出るものにして、其敷設資本        ︵4︶ 金九万円、之に停車場建築其他の費用を合せ凡そ十五万円予定﹂であった。  社名を京津電気鉄道とし、資本金を二〇万円︵四千株、一株五〇円︶、本社を大津町に設置することとし、終点の京都南 禅寺の予定を﹁京街道帯揚げ弓屋の西方に停車場を設け、此に出ることに改め、又中央の山科に停車場を設け、同地天聖 帝御陵の辺にて御陵の東方より京街道を横断して鉄架を架設し、又小関越は上下共にアプト式工事と為す見込にて、総延       ︵5︶ 長五哩四分の三強、賃銭は下等六銭となす﹂こととした。二七年一月の﹃電気之友﹄も﹁計画中の大津京都間三井寺電気 大津商人による鉄道発起と挫折 九

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大津商人による鉄道発起と挫折 一〇       ︵6︶ 鉄道は工費十六万円哩数五哩乗客賃一人六銭の予算なりと﹂報じている。  同社は二七年一月二六日には大津商業会議所で発起人会を開催して、仮定款を議決し、大津に創立事務所を置き、京都 にも四、五名の発起人を得るべく、京都側と交渉をはじめた。京都の﹃日出新聞﹄も﹁大津の有志者が京津間に電気鉄道        ︵7︶ を敷設せんと目論見居ることは兼て聞く処なり﹂とし、﹁大津の発起人諸氏は明年の紀念祭までに布設の功を竣らんことを     ︵8︶ 望める趣き﹂と大津側電鉄計画が二宮年に京都で開催される遷都千百年紀念の内国博覧会を当て込んだものであったこと を伝えている。   ︵1︶前掲﹃鉄路五十年﹄、=二入頁。   ︵2︶﹃明治運輸史﹄大正二年、運輸日報社、軌道四三頁。なおこの京津電気鉄道計画は文献により、﹁三井寺鉄道﹂︵前掲﹃大津市史五近代﹄、三二六    頁︶、﹁三井寺電気鉄道﹂︵二七年一月﹃電気之友﹄三〇号、二四頁︶、﹁京津電気鉄道株式会社﹂︵二七年二月一日置大阪毎日﹄︶、﹁大津電気鉄道会社﹂     ︵二七年二月二三B﹃日出新聞﹄︶など様々な名称で報じられているが、時期、区間、主体の同一性から判断して同一計画と見倣すことが可能であろ    ・つ。   ︵3×4︶二七年一月一二日﹃大阪毎日﹄。   ︵5︶二七年一月二四日﹃大阪毎日﹄。   ︵6︶二七年一月﹃電気之友﹄三〇号、二四頁︵﹃日本電気事業発達史﹄後編、一七六頁所収︶。   ︵7︶二七年一月二八日﹃日出新聞﹄。   ︵8︶二七年二月一六日﹃日出新聞﹄。 ︵三︶京津︵一次︶の主唱者        ︵1︶  京津︵一次︶の発起人は[表11]の通りであるが、主唱者は創立委貝に選出された高谷光雄︵京都側と交渉︶、邨田六 之助︵同︶、西村卯兵衛、藪田勘兵衛、北村兵蔵の山名であろう。二七年一月一二日には大津商業会議所役貝会は前年来の 調査に基づき三井寺鉄道敷設が大津町商工業にとり望ましいと結論しており、当計画は当時、東京、大阪に次いで全国で 三番目に設立された大津商業会議所の中心的メンバーが推進したものと考えられる。京津︵一次︶、京津︵二次︶など本稿

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[表一1] 京津電気鉄道(一次)の発起人 大津商人による鉄道発起と挫折 ◎藪田勘兵衛(後の鶴甲)大津町堺川十三番屋敷、藪田商店主、M6に第一米商社の田村善兵衛 轤ニ電信局建設を出願、M15日本BK25株・八幡BK10株所有、県会議員、「銀行に勤め傍ら米屋 やって居ました」(『下郷久道翁伝』p382)、M24金巾製織30株、 M34.2近江Ry監辞任M34.3.2 叝o)、M43長男喜一郎に家督相続後、勘祐と改称か。T9京津100株。なお次代藪田勘兵衛は大津 d車軌道取、常・専、八日市Ry取。[表一2]と二(三)参照。 ◎#*高谷光雄 大津市坂本、京北Ry発120株(M35現在35株)、越前・鯖江の高谷右衛門の養子、M8滋賀県官吏に任用され来県(『大津の人物』H3、大津市、p145)、M13滋賀県勧業課長、「明治十七年五月二日勧業課長一等屡高谷光雄ノ請ヲ允シ、本官ヲ免スJ(『滋賀県沿革略誌』M23、滋賀県第一部、p33)、近江帆布取、京北Ry発120株(35年現在35株)、T2秋死亡。高山寺墓地に埋葬、石 黶E地福寺に記念碑あり。(『大津の人物』)。[表一2]と注二(三)(3)参照。 ◎#▲西村卯兵衛 大津、白玉町、油川、米穀商兼石油販売・西山、近江米穀取引所仲買人。[表一 Q]参照。 西村文四郎 大津、薪炭商、M12商法会員、M24.11二代大津町長、M32。1初代大津市長、M22頃 巨ャの大津知人会所属『市史』p173) 西村勘七大津、上平蔵町、油墨、M24大津商業会議所創立発、M36大津商業会議所議員当選、近 ]油取引所監、近江貯金BK取。 #○▲西田利七 大津、阪田郡出身、M15大津で油の行商を開始、大津、下堅田町、油土、M36大津 、業会議所議員当選、M43所得800円、油商、油石油米肥物商・油仲立業、×米穀商・油米穀肥料問 ョ・管径(『要覧』p237)、近江米油株式取引所仲買人、近江油取引所仲買人、M41.7(資)琵琶湖遊 莱?秩AT11.4∼8会議所会頭、「油行商から身を起し、赤手空拳奮闘力戦遂に大津実業界の大立 邨田六之助大津、橋本町、堅調・醤油醸造、両替商、代弁業、今堀町ほか29ケ町村の連合戸長、 l12商法会員、M22.6∼24.11初代大津町長、大津知人会所属(M22頃結成『市上』p173,212)、 R0.8湖南BK取頭。二(三)参照。 ▲村治重厚大津、神出、(村地重厚はM43所得1.5千円)、M42市参事会員 中村伊助 大津、米商、M12商法会員。[表一2]参照。 池田仙右衛門 大津、湊町、油商・菜種油粕石油米穀仲立業・木屋、近江油取引所監。 五辻卯兵衛 大津、猟師町、米油商、金銭貸付業、M12商法会員、大津BK取、近江倉庫T3時点25 煤B[表一2]参照。 北村兵右衛門 大津、新町、米肥料商、清酒製造兼米穀販売、[表一2]と注三(二)(7)参照 北村常七 大津、丸屋町、大津瓦斯取 北川弥平 大津、太湖汽船取・頭取、大津商業会議所会員 上野新右衛門 大津、上京町、呉服太物商兼洋反物蚊帳真綿糸足袋商・近江屋、M28近江貯金 aK取、M43所得3千円、M28近江段通監、大津商業会議所常議委員・会計部長 石田喜兵衛 大津、近江貯金BK取、百十五国立BK取、邨田六之助の後任の湖南BK取田 谷ロ嘉助 大津、南保町、M43所得1.5千円、M5.3旅客汽船業開業、M9.7航安曇設立、湖南汽船 ミ、甫嶺二次発の谷口賢次郎(湖南汽船支)の養父 村田利兵衛 大津、上小唐崎、M43所得1.5御田 ◎北村兵蔵大津、近江米穀取引所監、第百十五国立BK:取、M24.11∼29.2同行頭。[表一2]参 ニ。   ■      o R中新右衛門 神崎郡未詳(利右衛門なら近江麻糸紡織取、近江倉庫社等で大津との接点多 オ)。 小泉新助神崎郡北五個荘村、近江帆布取、[表一2]と注二(四)(4)参照    (凡例)◎印創立委員(五名)、#印大津商工会議所主要メンバー、○印近江貯金BK重役、*印近江新報社を合資会社化 一     した際の有限費任社員    (役職名の略号)取(取締役)、監(監査役)、理(理事)、支(支配入)、常(常務)、専(専務)、社(社長}、頭(頭取〉、業担(業務担      当社貝)、発(発起人)、創(創立委員)、相(相談役)、清(清算人〉、Ry(鉄道)、BK:(銀行)(以下の図表でも共通)    (資料) M27122∼2.1大隅および高橋久一『明治前期地方金融機関の研究』(堅雪では『研究Jと略)、『大津市史五近代」      (『野史』と略)、中村五十一郎『大津市三十年史』(S3)(『三十年史」と略)、『大津商工会議所会議所沿革史J、『日本鉄      道史」(「鉄道史』と略)、「明治運輸史』(「運輸史』と略)、『華族資料所在目録』、「日本紳士録」(M32)、「日本全国商工人      名録』(M32)(x印T3>、「京都金融史』(T14)、『滋賀県人物名鑑上巻』、『現代滋賀県人物史s(『人物史』と略)、乾巻、      坤巻、『近江人要覧』(「要eesと略)、『大津市人物名鑑』(『名鑑」と略〉(S4,Sll滋賀日出新聞社〉、『浅見又蔵伝』      (M35)、『下郷久道翁伝』(S19)、『藤井善助伝』、『北陸の偉人大和田翁』(S3)、中村栄助述『九十年』、大沢善助『回顧七      十五年間(S4>、『大沢善助翁」(S4)、『田中博翁夜話京都財界半世記」(S27)、「渋沢栄一伝記資料』(『伝記」と略)、『日本      全国諸会社役員録』(各年度)、『工場通覧』、「(京浜)銀行会社要録』(「要録』と略)、「帝国銀行会社要録』(「帝国』と略)      第五版、(T5>、日本電気協会『日本電業者一覧』(第五版、M45>、『近江新報』、『鉄道会議議事速記記録」(「速記』と      略〉、『鉄道雑誌』(雑と略)、『鉄道時報J(時報)、『太湖』、「京都日出新聞』(日出)、『大阪毎日新聞』(大野)、「保険銀行時      報』(保銀)、「京都電灯五十年史』、所得は『滋賀県資産家一覧表』(M43)などにより筆者が作成(以下の表も同じ)

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[表一2] 京津(一次、二次)の主要発起人の連携関係 人 名 藪 藪 高 邨 西 北 北 辻 中 西 西 谷 谷 北 浅 下 小 田 田 谷 田 田 村 村丘 村 村 川 口 口 川 見

郷泉

勘兵 信 光 六之 利 若衛 兵 卯兵 伊 卯兵 太治   賢 テ 次 弥 又

伝新

社名 衛 吉 雄

晦七

門 蔵 衛 助 衛 郎 助 郎 平 蔵 平 助 大津商業会議所 # ■ □■ # # # #□■ # 紙子(一次) ★ ★ ★ ☆ ☆ ★ ☆ ☆ ★ ☆   ☆ ☆ 京北鉄道 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 京津大津派 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆   ☆ ☆ 京津に次) ★ ☆ ☆ ★ ☆ ☆ 京津(三次) ☆ × × X ×   ☆ × 大津電車軌道 ○ ☆◎○ ☆ ☆ 京都電気鉄道 株 関西鉄道 株 近江鉄道 △※ 太湖汽船 □■[]層 湖南汽船 △ ■◎支◎ 京近曳船 株 大津電灯 ☆ ☆ ☆ 大津瓦斯 ○ ○ 第一米商社 ☆ 近江米商会所 ★ ★ ☆ 近江米穀取引所 ○※ ■ ○ △ ○ △ 近江油取引所 ○※ ■ △ ○ 第六十四国立BK ★ ☆○ ○ ☆○ 圏 大津割引会社 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 百十五国立BK ○支 ★○■ ○■ ○ 近江貯金BK ■※ △ ○ △ △ ○◎ ○ 近江麻糸紡織 ☆○ ★◎ ☆ ☆ ○■☆ 金巾製織 株 △ ○ 北海道亜麻製線 ○ ○ 圏 近江段通 ○ ○ ○ ○ ○ 近江新報 * * ■ * 近江倉庫 △ ○ ■ △ △ (凡例) ☆発起人、×発起人から脱退、★創立委員・発起人総代、株…株主、支…支配人、○取   締役・理事、△監査役、◎常務・専務、口副社長・副頭取・副会頭、■社長・頭取・会   頭、#M12の商法会員、*近江新報社有限責任社貝。※印は藪田勘祐名義(藪田勘兵衛の隠   居名) (資料) [表一1]資料に同じ。 大津商人による鉄道発起と挫折

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で主に取り上げるプロジェクトの主要発起人が他の大津関係の主要企業においてどのような役職に就いていたか、その相 互の関係はどうかを一覧したのが[表12]である。主要メンバーは同時に大津商業会議所︵名称は度々変遷︶の草創期 からの中核的構成員であり、同時に密接に連携して以下のように大津の銀行、会社等の設立にも共同行動をとったものと 考えられる。なお上川芳実氏は明治三一年時点で北村兵右衛門、邨田六之進の両名をもって﹁大津町湖南銀行グループ﹂、        ︵2︶ 高谷、西村らは小泉新助、山中利右衛門らの﹁神崎郡グループ﹂に分類する。  すなわち創立委員に選出された高谷光雄︵大津町坂本︶は一七年に滋賀県勧業課長を退官して下郷伝平、浅見又蔵、藪 田勘兵衛、北村兵右衛門らと近江麻糸紡織を創立し専務に就任した人物で、一七年五月から二四年九月まで初代の大津商       ︵3︶ 業会議所会頭で、後に大津電車軌道社長にも就任した。彦根への県庁移転論が高まった最中での二〇年の県庁新築に際し       ︵4︶ て寄付を渋る豪商を尻目に高谷は﹁率先して金三百円を寄付﹂し、中井知事を感激させた。下郷外次郎も﹁なかなか心の       ︵5︶ 練れた人で、何と言はれても決して怒る様なことがない﹂ため下郷伝平も﹁﹃高谷は実に賢い奴だ﹄と言って、大層感心し      ︹6︶ て居られました﹂と回想する。こうした性格の高谷は商業会議所や鉄道発起など複雑な利害の調整役には適任であったと 考えられる。同じく創立委員の邨田六之助︵大津町橋本︶は当時現任︵二四年九月∼三二年三月︶の同会議所会頭で四三 年前得七〇〇円、塩商、代弁業、第百十五国立銀行取、近江油取引所貫長、京都電灯監、近江段通取、京北鉄道発であっ た。また同西村卯兵衛︵大津町白玉︶も同会議所副会頭︵邨田の後任の会頭︶で米穀商・兼石油販売米穀仲立業・西卯、 近江米穀取引所仲買人であった。  藪田勘兵衛家︵大津町早川︶は坂本に残る貴重な里言の一つとして大津市が文化財に指定し、保存公開している旧竹林 院を﹁いつの時代かは定かでない﹂︵大津市発行﹃旧竹林院﹄資料︶が、明治期から大正期にかけて別荘として所有してい たことでも知られる大津の代表的な素封家の一人で、家業の藪田商店主︵豆屋・大一、醤油、味噌、麹、酢醸造業、四三 大津商人による鉄道発起と挫折 一三

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大津商人による鉄道発起と挫折 一四 年所得一・五千円︶。明治期の当主・藪田勘兵衛は百十五銀行取締役兼支配人で米仲買、大津の第一米商社に関与した。堀 江督三は同業の木骨こと木屋兵右衛門︵北村兵右衛門︶が﹁藪田と連合すれば堂嶋の米相場にも影響を及ぼすべき勢力が  ︵7︶ あった﹂と回顧している。藪田は近江麻糸紡織発・理事であり、一七年大津商業会議所の会館に相当する、湖岸にある﹁先         ︵8︶ 代藪田勘兵衛氏所有地﹂に建てた大津・書道館の建築委員も務め、﹁先代藪田勘兵衛氏の黄綬褒賞も此時︵中井知事時代︶    ︵9︶ に賜はった﹂と言われる。        ︵10︶  京風︵一次︶の発起と同じ二七年には藪田、邨田、高谷らは大津電灯を発起、二九年には高谷、邨田、北村、辻らは京        ︵11︶ 北鉄道発起にも参加し、藪田は三九年に大戸川の水力発電を発起した。このほか高谷は四一年時点で京都電気鉄道二二〇 株を保有、藪田は近江鉄道にも役員として関与したほか、二八年末で関西鉄道七九〇株を保有、西村も三二年に京近曳船 五株を保有するなど、彼らの運輸関係の投資も少くなく、このメンバーは二〇年代には大津の社会資本の整備に深い関心        ︵12︶ を払っていたと考えられる。︵次代の藪田勘兵衛が大津電車軌道、琵琶湖鉄道汽船のトップとして活躍したことは前稿参照︶ 邨田、高谷らは大津商業会議所主導の京津︵二次︶でも三丁年一一月遅調印した﹁大津派﹂発二六名の一人として参加し ており、人的に連続性を有すると考えられ、京大︵一次︶の計画も一連の大津商業会議所主導の京津間鉄道計画の先駆と 考えられる。   ︵1︶二七年二月一日﹃大阪毎日﹄。   ︵2︶上川芳実﹁明治期滋賀県の企業家集団﹂﹃京都学園大学経営学部論集﹄第五巻一号、平成入年七月、一四一一三頁。   ︵3︶高谷光雄は京北鉄道の発起人一二〇株︵三五年現在三五株︶の株主で、北村兵右衛門の推挙で近江米油取引所理事長となった。光雄の子息高谷鹿二    は一九年英国に留学、帰国後大倉組の経営に関与した人物で、光雄に﹁新空気を媒介﹂︵高谷光雄﹃懐旧夜景﹄明治三九年、巻之一、二丁︶した鹿二    からの新知識の寄与も役立ったと考えられる。︵大和田敢太、高谷達雄両氏のご教示による。︶   ︵4︶堀江督三﹁櫻洲山人聞説﹂﹃太湖﹄第一四一号、昭和=一年一〇月九日。   ︵5︶︵6︶前掲﹃下郷久道翁伝﹄、四四三頁。

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︵7>﹃太湖﹄第一五九号、昭和一四年四月九日。 ︹8︶︹9︶堀江督三﹁櫻洲山人聞説﹂︵二︶︵四︶﹃太湖﹄第一四二/一四四号、昭和=一年一一月九日・=二年一月九日。 ︵10︶前掲﹃大津市史五近代﹄、三二九頁。 ︵11︶前掲﹃京都電灯五十年史﹄五三頁、七二頁。 ︵12︶前掲拙稿﹁近江商人系金融機関の地元還元投融資−藤井善助による琵琶湖鉄道汽船の統合と解体I﹂参照。 ︵四︶京都電気鉄道との競願  大津の商人等による電気鉄道計画は最.初の営業用電気鉄道となった京都電気鉄道に隣接するという地理的好条件もあっ て、計画の段階としては全国的に見ても決して遅くなく、むしろかなり早い段階での発起であったといえよう。しかし思 わぬ障害が、この地理的好条件の故に発生した。  つまり京電鉄側にも大津延長が予定されていたという競願問題の発生である。﹃大阪毎日﹄によれば﹁大津の京津電気鉄       ︹1︶ 道会社は京都へ交渉の上京都にては山科を中心点として、右鉄道を大津京都の両名にて分有せんとの希望を申出﹂たと報 じ、京電鉄側に取材した﹃日出新聞﹄は次のように報じている。  ﹁京都電気鉄道会社に於ても往く往くは大津まで線路を延長するの計画あるを聞き、他日両者の間に衝突を惹起す如き事ありては 不都合なりとて小泉新助氏を以て京都電気鉄道会社へ同線路布設の件に関し両社相協議せんことを求めたり。依て同会社は一昨日重 役会議を開き協議する処ありしが、結局両会社の敷設線路を区画し、大津は滋賀県管轄境なる滋賀郡藤尾村まで布設し、京都も京都 府管轄境なる宇治郡四ノ宮村まで布設することとし、此協議一決し、此趣きを小泉氏まで答へる由なるが、大津に於ても多分異議な かるべきにより、愈よ大津の同意を得るば更に両会社重役の協議会を開きて両線路連絡の境界等を確定し、其筋の許可を出願する都     ︵2︶ 合なりと云ふ﹂        ︵3>  京津間の鉄道敷設に関する京都側との交渉は﹁相互の意思相投合せざるより、中井京都、大越滋賀の両知事調停﹂に乗 大津商人による鉄道発起と挫折 一五

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大津商人による鉄道発起と挫折 一六 出し、中井知事は二月一八日邨田を自宅に招き、種々協議した。        ︵4︶  京風一次に発起人として参加した小泉新助は神崎郡出身の麻布・関東呉服商で、企業勃興期に積極的な投資活動を展開 し、上川氏指摘通り近江麻糸紡織などで藪田勘兵衛︵同杜発・理事︶、高谷光雄︵同社専務︶ら大津財界人との接点があ り、大津財界から要請のあった高谷の近江米油取引所理事長兼職を快諾している。一方、この頃京都の下京区鳥丸綾小路 に住み・一三年入月から京都株式取引所の肝煎︵後の理事︶に無していたため・京都財界とも交流が深謀・同取引所頭 取でもある田中源太郎ら京都側と大津側との橋渡し役に適任の人物だったのであろう。  二七年二月二一日大津側を代表して高谷光雄、邨田六冊子︵油入年七月には京都電灯監に就任︶、京都側から大沢善助︵京 電鉄取、京都電灯社、宇治川水力電気発︶、中村栄助︵京電鉄監、京都府会議長、京都電灯委貝・監、京都鉄道創立 ︵6︶      ︵7︶       ︵8︶ 委貝︶、河原林義雄︵京電鉄発・取・四〇〇株主︶、堤弥兵衛︵京電鉄取、三〇年七月から京都電灯監︶、田中源太郎︵雷電       ︵9> 鉄監、京都電灯監、京都鉄道取︶が出席して、午後一時から河原町の竹村屋で第一回目の両社交渉会を開催した。京都側 の出席者は上京中のためか京電鉄社長の高木文平を欠くほかは、京都在住の京電鉄の全役員が顔を揃えた。彼らはいずれ も京都財界の大物で京都電灯等、京都を代表する大企業の役員を兼ねている点が注目される。つまりこの会合は電鉄問題 の実務面・技術面を細かく詰めるという性格のものではなく、両都市間に跨がる、政治的、経済的問題としての電鉄問題 を両都市の財界トップ同志が話し合う場として設定されたのであろう。  というのは大津側の高谷光雄、邨田六之助、藪田勘兵衛ら大津町の有力者はこの頃、大阪の有力者一入名と大津電灯を 発起中であり、﹃京都電灯五十年史﹄によれば﹁さふいふ新設会社を起すよりは寧ろ既設会社に事業を経営させるに如くはないと いう意見が一部有力者の間に出て来たので、邨田六之助氏︵後、当社の取締役となる︶より、当社大津支社の設置方を懲糺せられる    ︵10︶ 所があった﹂とある。この両社交渉会でも電灯の話も出たかどうかは不明だが、記事末尾には﹁夫れより一同酒宴を催ふ

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        ︵11︶ し、六時頃散会せり﹂とあり、懸案の電鉄や電灯問題等を抱えていた大津、京都両都市の財界首脳の懇親の意味も含まれ ていたようである。協議の過程は次の通りである。  ﹁京都電気鉄道会社に覧ては両会社互いに其国境まで布設して両線路を接続し、収入は歩合を以て両社に分配するの意見なれど も、大津電気鉄道会社発起人は国津間六哩余の距離なれば大津より布設する部分は二哩内外に過ぎざるに、乗客賃銭等の収入を歩合 で分配する時は大津の収益甚だ少なきのみならず、二哩内外の間を敷設するに独立して鉄軌其他の諸器械を買入れ技師技手等を雇入 るるときは到底会社の経済を維持し難きにより、寧ろ両会社合併して京津電気鉄道会社と改称し、今の京都電気鉄道会社に増株し        ︵12> て、大津に其支社を設置せんことを申出でたり。有れども京都電気鉄道会社は今日に於て社名を改称する訳に行かざる⋮︵以下略︶﹂        ︵13︶  ﹁将来有望な新供給区域を物色中のこととて快よくこれを応諾することにした﹂京都電灯の場合とは異なり、京電鉄は電鉄業 務に通じていない大津側に対して府県境界を越えた出願手続の煩雑さを強調して、大津側の合併案を煙に巻いた。二七年 二月の京電鉄はのびのびになっていた認可がようやく得られてまもない頃で、﹁翌年の春に京都で開催せられる、第四回内        ︵14︶ 国博覧会に間に合はせなければといふので、随分工事を焦﹂っていた時期であった。その上にやっかいな合併比率、増資 等の株主対策に忙殺されたくないというのが京電鉄の気持ちだったかもしれない。  そのため結局は﹁先づ両会社別々に九界まで敷設するの請願書を其筋に差出すこととし、特許を得たる上にて更に両社 の交渉を開き収入分配の歩合等を取極めることに雀﹂たが・この・品新聞﹄記事は恐らく京電鉄側からの発言と思わ れる、次の興味深いコメントで締め括る。  ﹁右線路中京都の敷設する分は格別工事に難渋なる処なきも、大津の分は逢坂山より最高四十尺以上の処あれば之を切        ︵16︶ 取ること随分難工事なるべしと云ふ﹂   ︵1︶二七年二月=百﹃大阪毎日﹄。 大津商人による鉄道発起と挫折 一七

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大津商人による鉄道発起と挫折 一入 ︵2︶二七年一月二八日﹃日出新聞﹄。 ︵3︶二七年二月二〇日﹃大阪毎日﹄。 ︵4︶小泉新助は[表12]の兼職のほか五個荘通商会社長、近江銀行頭取、近江商業銀行取、伏見紡績社長、一五年には日銀五〇株、三〇年頃には金巾   製織入一〇株、伏見紡績社・三五五五株、日本海陸保険一一二〇株、名古屋紡績七二五株、大和紡績六〇入寺等を保有していた。持株データの出典   は個々に示さないが三〇年時点は﹃京浜銀行会社要録第二版﹄︵==年︶、三﹁時点の持株は三二年三月﹁九日一四月七日﹃時事新報﹄、三五時点は﹁銀   行会社大株主[覧﹂︵三六年一月六日﹃日報﹄︶、三八時点の持株は三去年六月こ四日﹃鉄道時報﹄、大正五年時点は﹃全国株主要覧﹄、大正︸四年時点   は﹃全国株主年鑑﹄等によった。︵以下同様︶ ︵5︶﹃京都取引所五十年史﹄昭和一〇年、一九四頁。 ︵6︶中村栄助は京・下京区五條橋東、鰹節溜息、京都府会議長、憲政党代議士、鴨東銀行副頭取、関西貿易、京都倉庫、京北鉄道にも参加、二一年四月   京都電灯委員、二六年一月京都電灯監、二七年田中らと三姫鉄道発起、創立委員︹思入年一二月三日大壷︶、京都鉄道創立委員、松本重太郎らと丹後   鉄道発︵中村栄助述﹃九十年﹄、九五頁︶、三一年時点で伏見紡績一〇〇株所有。大沢はおなじくクリスチャンで同志平々員の中村との関係を﹁︵中村︶   君と僕︵大沢︶は私的に於て何人にも許さぬ親友であるが、今日まで往々にして主義主張が異なって居﹂︵﹃大沢善助翁﹄二七頁︶たとする。 ︹7︶河原林義雄は大沢の﹁友人﹂︵大沢善助﹃回顧七十五年﹄昭和四年、=二一二頁︶でともに宇治川水力電気等を発起したほか、北桑田郡、京都米穀商   品取引所理長、京都農商銀行頭、北桑銀行社、京都電灯取、高木文平︵社長︶が﹁二十六年⋮河原林義雄、藤本︸二、樋ロ文助等ト謀り其企業二着   手シ﹂︵﹃日本鉄道史﹄下、七三五頁﹀た京都電気鉄道取・監、二九年帝国火災取、京都倉庫監、二七年田中らと京姫道発、創︵二八年一二月三日大  毎﹀二八年京都鉄道監・三〇〇株、三〇年頃伏見鉄道、摂撃鉄道書︵雑三二号、三七頁︶、三九年洛西電車︹二条∼伏見七哩︶発起人総代、三九年西   山電気︵嵯峨入幡∼七条︶発起人総代︵﹃運輸史﹄軌一八○頁︶。 ︵8︶堤弥兵衛も大沢の﹁友人﹂で、宇治川水力電気発、帝国火災監、三入年一〇月二六日死亡。︵﹃京都電灯五十年史﹄昭和一四年、付録︶。 ︵9︶田中源太郎は亀岡、多額納税者、地主、京都商工銀行頭取、京都鉄道社長・五〇〇株、京都織物取、京姫鉄道社長、京都株式取引所頭取、亀岡銀行   取、代議士、京都電灯委員・監、京都陶器取、関西貿易監、京都倉庫監、京都電気鉄道監ほか多数。 ︵10︶前掲﹃京都電灯五十年史﹄、五三頁、三浦豊二﹃大沢善助翁伝﹄、昭和四年、六三頁。 ︵13︶前掲﹃京都電灯五十年史﹄、五三頁。 ︵11︶︵12︶︵15︶︵16︶二七年二月二三日﹃日出新聞﹄。 ︵14︶中村栄助述﹃九十年﹄昭和=二年、八五頁。 ︵五︶京都電気鉄道との相互乗入契約締結 かくて大津側と京電鉄の重役会議で双方以下の契約書を取交わし、線路敷設を出願することとなった。長文ではあるが、

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今日では一般的となった、異なる鉄道事業者間の相互乗入の先駆的計画事例として、興味深い事項がいくつか含まれてい るので掲載した。 コ、工事は国境を以て各自区域と為す事。 一、 戟[ル、架線、全県等の買入れ及工事は共同と為し、域内の哩数に従ひて費額を分担す。但起工の節は双方立会を要す。 一、 Y工事成功の上は双方各自に其費したる金額を精算したる後、其所有権を確むる事。 一、 o方会社の所有権を確定したる後、京都は三条通りインクライン下山門前を起点とし、大津は三井寺下を起点とし、延長中心を 以て双方使用区域とする事。 一、 g用区域点迄︵路線中心︶に双方の会社が負担したる金額に差異を生じたるときは其出資の少き方より双方同数に充つる迄の金 額費用を、多く負担したる会社へ無利息にて預け入れ、其線路の使用権を得る事。 一、 g用区域確定の上は電力使用は共通として、其料金を折半し、各会社に負担する事。 一、 q車は双方同一構造のものを同数所有し、双方協議の上、一定の時間に同じ度数を以て使用し、量器入金は各会社所有の客車に 属する事。但双方協議の上、収入を平等に配当する目安を失はざる限りは其方法を変更する事を得。 一、 ?ミ諸建物及諸費︵使用区域内の線路に係る諸修繕費︶は各自の負担とする事。 一、 蜥テ会社の電気技術に関する監督は京都会社に於て無料にて担当する事。 一、 V災地変其他の事故に伍り此使用区域を変更せざるを得ざる場合に立至る時は予て預けたる金額を返戻し、各会社所有権の区域 を以て各自利害を負担する事。 一、 ?H修繕其他の事故に拠り線路使用区域に故障なき時は其会社は自らの使用区域内に於てを為す事を得べし。一方会社の過失に より全線路使用を停止したる時と錐、其損害を賠償せず。 大津商人による鉄道発起と挫折 一九

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大津商人による鉄道発起と挫折 二〇 一、 J業の場合には双方協議の上、営業細則を定め、取扱の事項を取極むる事。 一、 シ会社に於て起工の許可を得たる後、一ケ月以内に工事に着手せず、又は起工後工事六ケ月以上ヰ止する時は其会社の既得の権 利の総てを﹁方会社へ譲り渡すべし。然る時は引受けたる会社に於て工事を結了し、全部の使用を為すを得べし。此場合に於ては曇 の会社が是が為めに消費したる金額の内現品の存在するものに限り、引受けたる会社の認定を以て代価の幾分を払ひ渡すべき事。        ︵1︶ 一、 シ会社に於て此線路に接続し、更に線路を延長せんとする時は双方協議の上にあらざれば起工するを得ず﹂  契約は一見京都・大津間の平等互恵を謳っているようだが、京都側が大津側を﹁随分難工事なるべし﹂と予測していた との前提で検討すると、冒頭の﹁多く負担したる会社へ無利息にて預け入れ﹂る条項と、末尾の﹁中止する時は其会社の 既得の権利の総てを﹁方会社へ譲り渡す﹂条項は、資本力、技術力ともに勝る京都側が、資本力において劣る大津側への 無利息での資金供与の予約であり、末尾もいわば後年の鉄道財団抵当に近い、軌道の特許権など﹁既得の権利の総て﹂を 包括した貸金紅偲という意味合いから、大津側の中途挫折を見越し、残存鉄道資産を﹁代価の幾分﹂かで買い叩く、先取 特権を予め留保した、ファイナンス条項をも含む京都・大津間の不平等条約と見るべきものであろう。   ︵1︶二七年三月一一日﹃日出新聞﹄。   ︵2︶鉄道財団抵当の法制以前の鉄道抵当の実例に関しては拙稿﹁明治二〇年代の社債発行と保険会杜引受一九州の鉄道・紡績を中心としてl﹂︵﹃経済学    研究﹄第五六巻五・六合併号、九州大学経済学会、平成三年二月︶、﹁明治期における社債発行と保険金融一主要鉄道・工業等一〇社の事例研究1﹂     ︵﹃文研論集﹄第九七号、平成三年一二月、︵財︶生命保険文化研究所︶参照。 ︵六︶京津間電気鉄道敷設の正式出願と却下  以上の﹁京津間敷設の契約は大津電気鉄道会社に於て京都の意見に同意を表し契約書に調印済と為りしを以て京都電気        ︵1︶ 鉄道会社は右契約書に従ひ滋賀県管轄界までの敷設許可を昨日其筋へ出願したる由﹂と報じられたが、三月一六H付の内 務大臣宛﹁京都大津間電気鉄道延長布設願﹂は次の通りである。

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﹁襲キニ本会重力京都市内二電気鉄道布設ノ儀御許可ヲ蒙り目下準備最中二重処、更二今般一層ノ便利ヲ謀り、商工業ノ実益ヲ発達 スルノ目的ヲ以テ、別紙設計書ノ如ク京都粟田口町疏水水利事務所前ヨリ三条通東ロエ大津街道通りヲ東エ延長シ、大津有志者ノ発 起二極ル京津電気鉄道ト山城、近江ノ国境二軍テ連絡シ、両国間ノ便益ヲ増進仕度、元来京都大津聞ハ短距離ナルカ故二人民ノ往復 頻繁ニシテ商工業上ノ関係モ亦最大ナリ。傍テ今般双方ノ間二契約ヲ遂ケ、同時二起工仕度候問、願意速二御聞届被成下度、別紙目        ︵2︶ 論見書及設計書、線路図面相添へ此段出願仕候也﹂       ︵3︶  出願を受理した京都府は三月二入日の京都府臨時会に﹁京都大津間電気鉄道敷設の件﹂を諮問したが、一次会で異義な        ︵4︶ ︿通過し、京都府会議長中村栄助は﹁全会一致ヲ以テ布設スルヲ可ト認寒晒﹂と答申した。当時大津側でも滋賀﹁県庁二       ︵5︶ 於テモ小関通ノ里道ヲ拡築仕、軌道条例ニヨリ布設認可ノ儀内務省二懇願、同省二言テモ之レヲ納メラレ⋮御取調﹂中と の情報を京電鉄は得ていた。  京都府と滋賀県双方からの書類進達後、内務省土木局は京電鉄、京津︵﹁次︶の計画に対して﹁双方ノ目的京都大津間       ︵6︶        ︵7︶ ナルヲ以テ一線路二品ノ営業者アーー、各自営業スルハ不便少ナカラス﹂として、﹁双方合同シテ会社ヲ為スノ方法﹂を強く       ︵8> 示唆した。京都府は両者合同勧奨のため、京電鉄﹁社長高木文平二諭示候処、同人二於テ⋮再度大津有志者ト協議﹂した 上でその結果を報告させることとした。高木の中井知事宛の上申によれば﹁先方大津発起入エ示談仕寸言、同発起人等二      ︵9︶ 於テ合併ヲ不好﹂との事情であったというが、高木の報告内容はやや疑わしい。なぜなら最初に京電鉄との合併を持ち込 んだのは大津側で、京電鉄が大津側との合併を回避した結果、当時としては異例の﹁同一線路二営業者﹂形態に落ち着い た経緯があるからである。  結局最終的に土木局長から﹁同一線路三ブ営業者アーーテ、各自営業スルハ不便少ナカラサルノミナラス、一方二宮テ破産若ク ハ特許解除等ノ処分ヲ受クルカ如キ不都合ヲ為シタル場合二面テハ京津間交通ノ便二供セントスルノ目的ヲ達スルコト能ハサルモ 大津商人による鉄道発起と挫折 二

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      大津商人による鉄道発起と挫折       二二        ︵10︶ ノニシテ、其方法適当ニアラスしとの出願却下の通牒が発出され、八月一〇日京都府庁に出頭した高木社長は通牒の趣旨を示 され、二七年七月二五日置の﹁本年三月十六日出願京都大津問電気鉄道延長布設ノ件、詮議二面ヒ難シ﹂との内務大臣井 上馨名の指令の交付を受け、﹁御達ノ趣、謹承仕候﹂との御請書に捺印させられて一件落着となった。  これ以降、京都電気鉄道は﹁京都大津間にも拡張の計画成りて不日許可を得るの運びに著たるを以て既に仮測量に着手   ︵11︶ したり﹂と報じられた。しかし京電鉄は二八年の﹁博覧会の閉会と同時に火の消えた如く乗客が激減して、博覧会が済ん       ︵12︶ だら会社は解散するとさへ思った人があった﹂ほどの打撃を受けて、経費節減に躍起となっていたから、大津延長が立消 えとなるのも自然の成行と思われる。こののち京都鉄道は二九年入月二条、北野、伏見間と日岡、大津間の延長を出願し       ︵13︶ たが、滋賀県知事は京都府に対し﹁京浜曳船⋮ノ如キハ著シキ影響ヲ蒙ルヘシト錐モ此等ヲ除キテハ︼五二利益ヲ受ク﹂ と賛成した。   ︵1︶二七年三月一七日﹃日出新聞﹄。   ︵2︶﹃京都府土木課文書﹄﹃京都電気鉄道五ノニ﹄所収。   ︵3︶二七年三月二九日﹃日出新聞﹄。   ︵4︶二七年三月二八日付府知事宛答申書、前掲﹃京都電気鉄道五ノニ﹄。   ︵5︶二七年六月二〇日付高木の中井知事宛上申書、前掲﹃京都電気鉄道五ノニ﹄。   ︵6︶︵7︶二七年五月︸日付京都府中井弘知事宛土木局長古市公威文書、前掲﹃京都電気鉄道五ノニ﹄。   ︵8︶二七年五月入日付京都府土木課文書、前掲﹃京都電気鉄道五ノニ﹄。   ︵9>二七年六月二〇日付上申書、前掲﹃京都電気鉄道五ノニ﹄。   ︵10︶二七年七月二五日京甲第五一号、前掲﹃京都電気鉄道五ノニ﹄。   ︹11︶こ八年七月﹃電気之友﹄四八号、﹃日本電気事業発達史﹄後編、一九二頁所収   ︵12︶前掲﹃大沢善助翁﹄、一五八頁。   ︹13︶二九年入月二〇日付府知事宛知事回答書、﹃滋賀県内務部第五課文書﹄。

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三、京北鉄道発起への参加 (一 j京都・大津間の私鉄敷設計画  京都・大津間の私鉄による敷設計画としては二七年に大津の西村、藪田ら珍名が創立委員となって発起した前章の京津        ︵1︶       ︵2︶ 電気鉄道のほか、二九年忌月既設の京都鉄道が二条、北野、伏見問と日岡、大津間の延長を出願、二九年京都の大野嘉助、 大井憲太郎・飯村丈=睡矢島入郎等二〇名発起の京王鉄道︵資本金三〇万円︶によゑ示都番。・日岡・四實藤尾・ 窪町三井寺下・別所間約六町の齢・二九年八月近京経による南禅寺町・白川橋・日の岡竹鼻・案御陵・四宮・ 藤尾、神出、別所、西川口、御倉、松本、大津町馬場間入哩の本線と、馬場、膳所、石山混綿居川約二哩の支線からなる        ︵6︶      ︵7︶        いずれも却下された。近詠鉄道は発起人の資力等から見て、却下されたもの三雲六吋の軽便鉄道の出願などがあったが、 と考えられる。   ︵1︶﹃日本鉄道史﹄中篇、大正一〇年、六九九頁。   ︵2︶大野嘉助は京・上京区、呉服商、平安紡績代表、二入場京都鉄道七〇〇株、北海道鉄道発起入。︵前掲﹃日本鉄道史﹄中篇、七二、六四〇頁︶。   ︵3︶飯村丈三郎は茨城県真壁郡黒駒村、県会議貝、石炭採掘石灰製造業の目立興業社長、第六十二国立銀行取、自由民権運動のリーダーで初代の水戸鉄     道には創立時より参画したほか、太田鉄道、﹁完全に川崎系の代表者として﹂︵﹃飯村丈三郎伝﹄大正入年、=一七頁﹀京成、常総、茨城等の鉄道にも     関与した。︵﹃飯村丈三郎伝﹄︶太田鉄道、水戸鉄道に関しては拙稿﹁明治期銀行融資のデフォルトと自己競落・証券化による不良債権回収一十五銀行     の太田鉄道融資と水戸鉄道新設を中心にl﹂︵﹃彦根論叢﹄第二九九号、平成八年一月︶参照。   ︵4︶﹃鉄道雑誌﹄=二号、三七頁、一四号、三入電、一五号、三入落。京津鉄道は三井寺下から旧大津駅に変更して、大津∼馬場間の官線払下げをも出     願した。︵﹃鉄道雑誌﹄二五号、三入頁︶。   ︵5︶近京鉄道の発起人は滋賀県野洲郡河西村の杉本理三郎、同村の田中兵治次郎、野洲郡速野村の今川正直、栗太郡常磐村の吉田虎之助、野洲郡守山村     の宇埜佐寿郎、坂田郡神燈村の辻村省吾の六名、資本金五十万円、本社大津町。︵﹃近京鉄道株式会社目論見書井仮定款﹄二九年八月︶。   ︵6︶﹃鉄道雑誌﹄一五号、三四頁。 大津商入による鉄道発起と挫折 二三

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[表一3] 京北鉄道の創立委員 渋沢栄一(委員長)300株東・日本橋区兜町、創立時相、第一国立BK頭とし ト数多くのBK・保険に関与し、『伝記』掲載の関係Ryは46社(初期の電鉄関 Wでは京阪電気Ry発、神戸電気Ry発、東京電車Ry発、陸羽電鉄等『運輸史』 O道P64) 銀林綱男(常務担当者)180株、東・麹町区永田町、北越Ry創立委員・専、北 MRy発、横浜火災運送保険東京支店監督 米倉一平 300株、東・麹町区一番町、川越Ry専・社、注三(五)(10)参照 奥三郎兵衛 300株、東・深川区堀川町、米穀商、三三(五)(8)参照 大江卓 180株、東・芝公園地、茨城炭鉱会、八重山糖業会、巴石油監、相当 qy取、毛武Ry監、土佐Ry監、東京商工相 岡部広(常務担当者)180株、東・日本橋区通三丁目、旧福井藩家老岡部長の キ男、大阪生命社・M35時点 920株、東京商業会議所会員。尾張、知多、東 梵?繩eRy発、注三(五)(2)参照 由利公正 300株、M33辞任、京・上京区二条高倉→東・総監芝車町、39大津∼石山「大津電鉄」出願、近畿電車Ryの発総代、注三(五)(4)参照 磯野小右衛門 300京・下京区松原烏丸、米穀商、堂島理長、注三(五)(11)

Q照

藪田勘兵衛 (京津一慰労)180[表一1]前出 大津商人による鉄道発起と挫折 (資料)M28.10.12『中外商業新報』、所得は『滋賀県資産家一覧表』(M43)、持株は『第六回   実際報告書』(M35)、老川慶喜『明治生地生鉄道史研究』(p34)、『京近曳船第十回事業報   告書』(M32.12)、『近江倉庫第五十入回五目営業報告』(T3.6)、山口和雄編『日本産業金   融史研究紡績金融篇』(巻末p10以下)、高橋久一「明治前期地方金融機関の研究』、 M30『京   浜銀行会社要録第二版』(M31)、 M31はM32.3.19∼4.7『時事新報』、 M35「銀行会社大   株主一覧」(M36.1.6『日報』)、M38はM38.6.24『鉄道時報』、 T5『全国株主要覧』、 T14『全   国株主年鑑』および[表一1]の資料。   ︵7︶前掲﹃日本一道史﹄中巻、六九九頁。 ︵二︶京北鉄道の京滋地区参加者  これらの諸学画のうち、現在の湖西線ルー トに近い京都・北陸直結を目論んだ京北鉄道 の京華地区参加者から見ておこう。京北鉄道       ︵1> は当初二七年五月京都の小牧仁兵衛ほか十九 名が京都の吉田を起点として、一線は出町、 鞍馬口、小山、大宮を経て西陣に至り、一線 は一乗寺、修学院、六二、大原、途中越、木 戸、小松、今津に達する総延長三五哩の敷設    ︵2> を出願した。  日清戦争で一時見合わせた後、設計を大幅 に変更し、二八年一〇月一〇日東京の築地で 発起人会を開催して[表13]の通り創立委       ︵3︶ 員九名を選定した。  二二年一〇月一一日渋沢栄一、銀漏綱男ほ か六一名を発起人として資本金も当初のこ〇 〇万円を三二〇万円に増翫巳・西ノ京を起占⋮ 四

(25)

大津商人による鉄道発起と挫折 五 [表一4]京北鉄道の発起人(京滋地区) ◎□*岡本治助 京・上京区中筋通大宮、蚕業生糸商、織物商・生糸卸・糸大治、京 s陶器、京都撚糸社、塾則BK取、西陣BK取、西陣貯蓄BK取、京都生命監、疏水運 落諱A京都酒造監、京都商業会議所会員、M28京都Ry1000株、 M35京北206株、京都 d気RyM4160株、伏見Ry、京都遊覧Ry発 ◎●□岩井八兵衛 京・下京区四条通、呉服商、岩井商会、京都BK取、京都生命 諱AM28京都Ry500株、京都遊覧Ry発総代、京南、伏見、摂泉各Ry発 *鈴鹿弁三郎京・上京区日暮下立売、酒造業、京都酒造社、京都製綿社、京都煉瓦 サ造取、京都商業会議所理、五二会京都本部評議員、M28京都Ry300株 □小牧仁兵衛二七年五月申請時の発総代、京・上京区河原町二条、牛乳・卸小売、 l取BK老頭、京都農業BK頭、内外物産社、川東貯金BK頭、遠近曳船社、京都牛乳 諱A京都倉庫取、京都遊覧Ry発、 M35京北165株 白山茂兵衛 京・上京区寺町通二条、砂糖商・白木屋→BK貝、京都農業BK取→監 森治郎右衛門 京・上京区油小路御池、貸金業 石原耕太郎京・葛野郡朱雀野村 森市兵衛 京・上京区油小路姉小路、酒商・平の屋・森吉、京都酒類専、京都酒造取 ◎●松木安次郎 京・上京区一条通千本、織物商、京御召縮緬・本平御召・夏物類製 「、西陣綿子ル商、京都撚糸取、西陣BK取・支、西陣貯蓄BK頭、日本撚糸監、京都 a績180株、伏見、摂泉各Ry発 ◎□*富田半兵衛 京・上京区西陣伊佐町、糸練業、西陣紋織幹事、西陣製織社、西 wBK監、西陣貯蓄BK監、京都生命監、近江Ry監、京都商業会議所理・庶務部長、 ワ二会京都本部評議員、伏見、京都遊覧各Ry発 ●◎□*中安信三郎 京・上京区堺町二条、五二会京都本部理(専任)、京北創立委 L兼常務担当委員、注四(四)(5)参照。 辻重義上京区、第百十一国立BK頭、京都貯蓄BK取、京都米穀取引所監、仏教生命 梶A日本撚糸取、M28京都Ry500株、日本生命10株。百十一BK破綻後告訴さる。 ◎●□×江崎権兵衛京・紀伊郡伏見町東菱屋、清酒製造、材木商、伏見商品取引所 搨キ、伏見BK頭、伏見倉庫頭、淀川汽船社、伏見酒造監、伏見商業会議所副会頭、 椏?qy発総代伏見、摂泉、京都遊覧各Ry発 吉田利助 京・下京区新町三条、縮緬商・近利、丹後縮緬兼生糸商、京都製糸二二、 謌鼬ヲ糸紡績監、日本撚糸取、京都米穀取引所理 ◎西川吉兵衛 京・下京区新橋通大和大路、石油蝋燭商、金貸・銭吉、鴨東BK取、 ?健刹烽aK専、京都倉庫取、伏見倉庫取、伏見Ry発 荘野和三郎 京・上京区大宮通今出川、生糸卸商・大文字屋、西陣BK取、西陣貯蓄 aK取、京都生命取、西陣金融取 膳永太十郎 京・下京区松原通鳥丸、仲立仲買、郵便受取所、京株仲買人、京都BK ト、京都貯蔵BK取 ◎●□×築山三郎兵衛 京・紀伊郡伏見町、酒造業、伏見BK取、伏見商品取引所 掾A伏見紡績100株、伏見商業会議所常温委譲、伏見、摂泉、京都遊覧各Ry発 (滋賀県)曽我播 大津、後在家、近江米油株式取引所理、M35京北40株 #薮田勘兵衛 180京津一次発[劃一1]前出 #邨田六之助、#辻卯兵衛、#北村兵右衛門、#高谷光雄は京津一次発[表一1]前出 (凡例)*印は京都商業会議所、×印は伏見商業会議所、#印は大津商業会議所、◎印は伏見Ry発、●印は   摂泉Ry発、□印は京都遊覧Ry発 (資料)[四一3]の資料に同じ。なお鉄道の発起人はM29∼30頃(主に雑による)

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