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近江に於ける封建:都市の盛衰
一都市形態の変化よりみ弛長浜と大溝一
小
林
博
On the Growth and Decline of Feudal Cities in Omi, Japan 一from the viewpoint of the changing city pattern in Nagahama and Omizo一 Hiroshi Kobayashi The writer tried to study the changing of the spatial pattern of the feudal cities in modern ages, taking up )/agahama and omizo as his example. Nagahama was a 」6kamachi (eastle town) established in 16 C. and became a commercial city. Omizo was also founded as a j6kamachi, and was a political city till thL“v end of the clan governrnent. But in the course of the industriali− zation of Japan, the former grew up step by step, and the latter deciined. In accordance with the change of these cities’ functional areas and spatial pat− terns, the difference between these two cities will be pointed out as follows. 1. Change of spatial pattern 2. Functionat region 3. Movement of in− stitutionNagahama
axial growth. differenciation in the︷
old city area commer− cial, industrial. very frequently inward,︷
outward,Omizo
from a ladder pattern︷
to a line along a main road. co皿mercial function︷
reduced. local community center nones 都市の盛嚢は種々の要因によって移民数多く繰返さ れているが,就中社会機甲の変化に基いて今迄繁栄し た都市が没落し,無名の農村が一躍大都市に発展した 例は多い。特に之は琵業革命を契機として世界各地に みられる現象である。我国の封建都市が明治以降近代 に於いて示した著しい変化も又例外ではないがそれに は大別して急激な発展,衰退,漸次的な発展,山面と 四つの類型がみられる。この様な歴史的都市の近代的 変貌は景:観,地域の変化,入口,機能,村、会構成等多 くの観点から考えられ,陰毛に地理学の立場のみでな く史学,社会学の分野からも多くの問題が提供され る。然しここでは有機体的構浩と機能をもつ都市が近 代社会と云う新しい社会的環境の中に如何なる適懸を 示したか,それが都市の形態に如何にあらわれたかに 問題を限定し,盛嚢を対比しつつ眺めんとするもので ある。 近江は近世に於いて城下町,宿場町,市場町,港町 等多くの封建都市が発達したが之等の中現在なお発展 酌傾向にあるものは大津,彦根,八日市,長浜,草 津,守山,入幡,水口にすぎず,残余の7割近くは衰 退乃至は停滞の状態にある現況である。今この中前者の例として臨後脚例として購をと揃述の趣
旨に從ってみて行こう。 先ず両都市の成立と変遷を概観すると長浜はその起 源を秀吉による城下町設定に負うているQそれ以前は 今浜と呼ぶ湖絆の一漁村にすぎなカ・つたが天正2年 (1574)浅井氏の小谷城下をここに吸牧して町づくり された。城は湖眸に臨み町には條里地割を踏襲したと 思われる碁盤目状の町割がなされた。立地の狙いは湖 上交通を集敏し,北陸,東山両道を掘する軍事的政治 的重要性を利用せんとしたものであろうが城下町とし ての機能は徳川氏の全国制覇と共に彦根に移り僅か三 十数年の生命しか保たなかった。爾後長い徳川時代を 通じ松原,朝妻と共に彦根三湊の一つとして湖上交通 の要地となり,北陸道の宿,伊香,浅井,坂田の諸郡 を後背地にもつ商業都市として秀吉以來の地子冤除の36
滋 火論 集
第 2 集
1 9 5 3 特権を守りつつ存続した。更に徳川後期,所謂浜蚊 帳,浜縮緬の勃興に逐い之等生忌物の集島地としての 機能を加え,入口も4750(寛政元年)をi数え維新に至 ったのである。爾後商業的機能を継承したばかりでな く湖北行政の中心地として徐々に発展,更に周辺の工 業の発達につれ工業的機能を増加,昭和10年以後tV l しい入口堀加をみて町域を拡回し市制施行(昭和18 年)となり今口に至っている本縣唯一の一業都市であ る。之に対し大溝は往古勝野と称したが天正10年
(1582)織田信澄の城下町として附近の新庄,南市, 今市より入を集めて設置された。次いで京極氏,公郷 領時代を経,元和5年(1619)分部氏が伊賀より封ぜ られ2万石の城下町として明治に至る迄領国の中心地 であった。維新後政治的機能を喪失し,江若鉄道今津 開通(昭利6年)迄は港を通じ湖西李野の商業中心で あったが鉄道開通に比う商圏の縮至心より漸次停滞乃 至ほ嚢微の道を辿り今日に至っている。戦時中隣村を 合併し高島町となったが実質的な発展の結果ではな く,叉長浜の様に合併地内に多くの工場をもつわけで はなく農業的色彩の濃い在町である。以上の檬に両者 (Ll) 共に城下町として始り夫々商業都市,政治的都市とし て封建都市の生命を保つたが近代に及んで盛褒の対蹄 的な経過をたどっている。 註 (1) 本稿は昭和26年日本地理学会(春季)で 発表したもの(地方都市の近代的変貌一長 浜の場含)及び昭和27年人丈地理学会で 発表したもの(近江に於ける封建都市の衰 一一大溝の場合)の中,都市形態に関する 部分を要約したものであるQ紙数の関係で 其他は後日に譲ることにする。 (2)藤岡謙二郎「近畿地方の町」 (人丈地理3巻3号)
1町域の変化
先ず長浜と大溝の近代以降に於ける一般的な町域の 変化についてみると第1図の如くで一見して前者の拡 大発達と後者の縮少退嬰が伺われる。(大溝の図省略) 長浜の場合幕末迄の町域は城下町時代の町家の地域 を主体とするもので秀吉による地子冤除の区域内に限 Cl) られている。いわば城下町としての三巴が廃城と共に 二三され,切断された胴体だけが自立的に機能を果し ていた姿である。之が明治時代になり周辺に接続的に 町域を拡大し始めた。邸鉄道の開通により停草場,港 (L,) 湾施設が旧城と町の間にある荒廃地に設置されるに謡 い段々ここが充唄されて行った。北東及東部は夫々後 背地に通ずる道路に滑って三ツ矢,東三ツ矢,紳前東 に樹枝状に市街が形成され,更に大正年間になると二 等の言分の聞隙が充填され,更に束,三ツ矢新道を輸 として南北の道路にそ5拡大がみられ,昭和以降この 地域の充填と西部への発展が行われたのである。ここ にみられる特徴は①町域の発展形態では樹枝駄の成長 と旧地の充血形式が交互に繰り返されていることであ る。地方都市に於,・ては都市の成長力は直接周辺の勢 力圏との相互関係に規制される所が多い。從ってその 発展は大都市に於ける檬な環1動的発展(Ring Growth) . よりも入王子,伊那,入幡,草津,守山の如くこの檬 な形態がより多くみられるが,長浜もその例にもれな いと云えよう。之を理由づけるものに②商圏との関係 がある。即ここでは拡大方向が商圏に吸引されている のである。ここは機業地帯の申心地として東浅井,坂 田両郡更には湖北の主要都市で北方及東方への後背地 は廣いに拘らず,南は彦根を近くに控えその商圏は南 方約6kmの天ノ川を境として之と接している。しか も之等後背地より來集する顧客は這路交通を主とする ものが多い。それ故前述の様に瀞前論(東方坂田郡部) 三ツ矢中及北,北日吉等(東浅井郡方面),北及東の主要 道路にそう拡大が先ずみられ次いで御坊東側の東三ツ (3) 矢が三ツ矢の繁栄をi奪い,それが旧東海道廃止道路か ら山東部方面の交通がひらけるにつれ商業化の度を加 えた。更に大正以後新道の設定に憶い三宮,三ツ矢新 道附近を中心に拡大をみせている。西方は旧北陸道が 現在の様に鐘紡その他の工場に吸引され駅北方を左折 するに至ったがその閥家屋の充順が漸次行われた。之 に対し南部は明治初年から余り変化なく,僅に工場の 設置(ニケ所),三和町の形成に止っている。 この様 に市域の拡大方向に於いては大都市の如く市域内部の 一盛な諸活動の晶出としての二心現象と云うよりむし ろ市域外との相互的吸引関係の結果が旧く発展に影響 しているのである。③然し町割は城下町当時のものを 踏襲し余り変化をみせず路幅も僅に駅前,三宮通りが近江に於ける封建:都市の盛衰 (/J、林) 37 拡張されたに止り,この町の近代化の景観の限界を 示している。④旧城の土地利用は一部は耕地,多くは 公園となり住宅地の侵入(invasi6n)は余りみられな い。之は飲料水取得の難易によることも一つの原因で あるが先ず他の都市とにた一般的な利用形態を示して いるといえよう。 之に対し大溝の場合は町域の縮少が形態の変化を特 色づける。幕末に於ける町域を江戸初期のそれと比較 すれば薪町の北方への延長,伊勢町の拡大等幾分町域 の拡大が伺われるのであるが,維新以降町域の縮少は (a) 先ず武家屋敷の荒廃となってあらわれた。廃藩置縣に 俘い当町はその政治的機能を殆喪失した結果武家屋敷 は漸次取壊され減少し当初の45軒は明治十年代には 回数軒に,現在では6軒(内3軒のみが昔のもの)に至 っている。しかもそれが多くの城下町系統の中大都市 (.一)) では学校・官衙・住宅地等に韓用されているに拘わら ずここでは田園化している所に衰微都市の特徴がみら れる。 城跡は僅に紳社を残すのみでこの荒廃地に駅が設置 されたが駅前道路と本通りを結ぶ丁字型の新興都市の 形態もまだここでは現われていない。のみならず主要 道路(黒谷,廣獺に至るものと西近江路)の塾側にあ る肋骨型の道路に唱う地域即町の周辺部では漸次縮少 がみられる。:並幅町の喪失,下石皿町冷泉誌面の町屋 の潰滅,西町,中町に於ける荒廃地の発生,伊勢町, 北舟入町の縮少等は之を物語っている。この様な肋骨 型から街村型への変化は都市の衰微形熊としてみられ る一つの型で長浜の発展形態とは同一原理にたつ逆の あらわれ方であると云える。唯一つ長浜と異る当地の 近代的適懸への利点は城下町当時の道路が現在西町。 (6) 中町にみられる様に中央に溝を通じた北国型のもので 相当恥く,從って中央の溝を埋めることにより町家の 移動を必要とせずに三代的な路幅を獲得していること である。(二二参照) 謡 (1) 当時の町は次の通りであった。宮,錦, 片,神戸,伊部,獅堂前,三ツ矢,三ソ矢 中束,郡上,相生,北呉服,祝,西魚屋, 南呉服,大手,東本,西本,横,八幡,永 保,永保紺屋,北船軍,北船南,南船,栄 船,船山,南新,上田,中田,下田,田 旭,横浜,箕浦。この中明治以降三ツ矢が
7町,南呉服が6町,北船1町を夫々分化
し,その他に神前6,高田4,米川,北門 前,仏光寺,三越,目吉3が附加された。 (長浜町紬織) (・2) 明治16年大津一長浜間口絡船,長浜一 東京間汽車が当時の東海道線として開通Q 明治22年7月まで続いた。北陸線は一年 前に敦賀まで開通。(長浜町蝋涙) (3) 明治22年米原を通る東海道線開通のた め=長…:浜一関ケ別間力寓生⊥ヒさ才しそのあとを日費 和初頭まで乗合馬車が運転された。 (聴取 りrcよる) (4)郭内と呼ばれ馬廻り以上45戸が待家敷 をなしていた。(笠井氏談) (5)中大都市のみならず猪苗代,高遠の様な 小都市rcもみられる。尤も大溝の武家屋敷 は沖積地に位置し織田氏の頃は道路力弐山手 ‘を迂延していた為職人町であったと〉・われ る。 (6) 例えば福井県六野町,糸魚川等にみられ るo II諸機関の下潮 都市が一つの有機的構造体であるとすれば之を統一 する主体が考えられる。事実一つの都市N会は夫々の (1) 機能の面で中心をなす何等かの機関がある。例えば行 政面に於ける役場,金融面の銀行,司法面の裁三所, 警察署等はそれである。之等諸機関はその都市の発展 衰退に自口してその成立地盤の変化に懸じ新しい環境に 対して均衡を保たんとする。この様な適懸がその機関 の質的量的な変化と共に位置の轄移をもたらすのであ る。從って都市の成長発展の一表現として轄移が問題 にされねばならない。今この点よむ長浜の場合をみる と(第2図)明治に入り国家の支配機構の末端につな がる行政等諸機関はこの町に新しい要素を附加した。 (2) それは町の発展の一因ともなるのであるが,その位置 が商工業度の低い南部に多い事が注意される。即それ は町内を南北ナる北国街道にそって見出され明治15年 以後鉄道の開通と長浜港の繁栄に吸引されて特にその 傾向を強くしている。例えば明治26年置長浜29町 の中,病院(西本町),登記所,区裁鋼所(南奨服町), 町役場(永保町)を除く凡て(郡役所,警察署,牧町 器,郵便貯金,同宿替取扱所,停車場電信局等)は 北船町に集中し,その他の町のものも之に隣接してい る。一般に都市町蓬に俘う機能的地域の分化が近代都 市の一特徴とするならば長浜のこの檬な行政等諸機関38 滋 大 論 集
第 2 集
1 9 5 3 . ○明汐時dL 〔大正時代 △照和時代 1日il11 役 場 2.郡 役 所 3税 務 所 4.郵 便 局 5.電 活 局 6、裁 判 所 7,警 察 署 s.小 學 杖、 9.工業試験所管鑑灘.\」
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\﹄繁、、 し、食ヂ. 封 の集中は現在の東京都中央区の姿と同檬な形態を示す と言えるであろ5。然し乍ら長浜のこの現象は他に地 域的分化を俘っていないこと,血紅等がまもなく轄移 すること等からみて一時的なものである事がわかる。 当時の文明開化の諸相が上からの近代化であり近代的 く2) 社会関係から遊離したものであった点を考えると長浜 のこの様な行政区域の形成はいわば近代酌擬装とみら れないであろ5か。然りとすれば長浜の近代的変貌は この様な諸機関の擬似近代化に於いて先ずあらわれた と言えよう。だが然し諸機関は夫々の機能的性質に憲 じ求心的傾向と遠心的傾向をもつ。前にみた一時的な 集中は長浜の発展,交通幹線の移動等に伴って本來の 立場を回復する。虞の近代化はその結果に於ける地域 分化に於いて捕えられねぼなる窟い。二等輔移蓮動は 明治32年郡役所の移動に始り後15年程で一病終了 をみる。丁度この時期は入口が明治初年より倍増し市 域も拡大(第1回)し,商社,銀行,工場が躾出した 明治末から大正初期にかけてであり,從來の規模のま まではその蓮営に支障をきたさざるを得なかったもの と思われる。学校の韓移はその代表的なものであろ う。遠心,求心蓮動は近代都市発展現象の楯の両面で ありここに長浜変貌の第二段階がみられる。爾後韓移 (4) は暫く止り大正末から昭和にかけて再びあらわれる。 然し最早凪町内に新機関の発生はみられず,周辺叉は 市外に押出されて生れてくるQ印韓移より遠心的発生 現象が優越してくるのである。更に韓移も第一家聴移 ,点よりの第二次韓移が生ずるのはこ (r)) の時期以後であるQこの第三段階ほ 先の場合に比し蓮続的に生起してい ないがそれは漸進的なこの町の発展 と関宿して考えるべきであろ5。 かくの如く長浜に於ける諸機関の 南面は近代的大都市程明瞭な地域的 分化をなす迄には至らないが近代的 な遠心,求心蓮動を示すのである。 之に対し大溝では前述の機こ高島郡 内に於ける諸機関が今津に奪われそ の出張所の形式で設置された。之等 を含めてもなおその数に於いて長浜 の比でほなく且飯盛も殆ど行われて いない。町内を南北する西近江路に そって役場,郵便局,警察等が設置 されたのは長浜の当初の状態とやや 趣を一にするが,それらは爾後小移動簡魂もの躰質的に黙黙
移はみられないのである。多くの地方都市に見られる 小学校の遠心現象でさえもここでは起らずむしろ町役場学校,郵便局が一つのまとまりをもち農村の
trade center的傾向を示している歌況である。 註 (1) 従って都市の分類の一方法として使用さ れる事もある。佐々木彦一郎の例. (2) 例えば収税署(坂田,東浅井郡管轄)警 察署(坂田郡一一円)区裁判所(坂田,東浅 井,西浅井,伊香郡管轄)小林区署(愛知, 犬k,坂田,東浅井,西浅井)等広範囲に わたり中心的役割をもつた。(明治25年現 在) (3)遠山茂樹「日本近代化の問題」(弘丈堂 社会科学講座第3巻,昭25) (4) 主なる発生又は転移大13商業学校,女学校,昭2蚕業試
験所昭3警察署, 昭5三ツ矢郵便局, 昭6町役場。 (5) 例えば昭18農学校,昭12電話局,昭 27市庁。 (6) イ列えぱ垂匹田局o皿機能的地域の分化
都市の地域的分化は欧米の近代的都市にみられる程 我国に於いては明瞭でないのであるがそれでもなお近 (1) 代的変貌の重要な指標たるを失わない。長浜について 今之を明治5年と昭和25年の職業人口の分布からみ ると先ず注意されるのほ商業地域の固執性であるQEP 明治5年に商業度の比較的高いのは(商業45%以上) 御堂前,錦,大手を中心としているがこの傾向は現代近江に於ける封建都市の盛衰 (小林) 39 に於いても殆変化がない。旧幕時代長浜の商業は大通 寺の門前町として,叉北国街道の宿場町として,又港 町としての機能に影響された爲か大通寺の門前たる御 堂前一帯と船町を申心とする一帯に二つの極をみせて いる。現代に於ては船町の方は衰えたが御堂前,大手 は依然盛んで之に駅前商店街とその延長の本町が商業 化し,本町と大手町の間には小さいながらも盛り場的 景観を示すものすら形成されているのである。人口が 3倍以上に冷したに拘らずこの固執性がみられるのは
お蕊
(資測壬申戸籍) 第三圖 商工業人口分布(明治5年) 長浜が商業都市として旧幕時代から活動し或る程度の 機能的分化が行われていた事,從ってそれが近代飛躍 酌発展をとげなかった町域に適懸性を有した事,近代 交通機関たる鉄道が町域に接して設置されその機能的 勢力関係が現代に於いてもあまり変化を生じなかった 事に於いて考えられる。後者については特に鉄道の忌rv
(資料センサス)亀、
廻田
溜
llミ:as・融う・三騒
記号は第三図 に同じ 第四圖 商工業入口分布(昭和25年) の (2) 避陛がみられなかった事が逆に近代的変化に大きな役 割を占める交通系統の変化をもたらさず,勢力圏との 関係を旧幕時代の関係位置に於いて継承せしめたとい う点が考慮される。然しこの檬な固執性は同じ地方都 市に於いてもその逆の場合の存在,例えば信州伊那の 如く旧幕時代の町域内に近代化の支障的要因を含む爲 に排斥され,新しい地域に町家の発展を見そこが中 心化する傾向,いわば繁栄中心の移動が見られる場合 (3) も存在するわけで一般的傾向とは云い得ないであろ う。ただ歴史的核をもつ封建都市の近代化に於いては この檬にその核が現代的機能を果すことによって現代 に意義をもち続けている場合が少くないことは注意さ るべきである。第二にこの横な地方都慮に於いても1日 幕時代町内にみられる工業と商業の混在から近代化に 件い中心部の形勢と共に明らかな分化がみられること である。今町内商工業入ロ30%以上の地域を明治5年 と昭和25年で比較すれば(第3図,第4図)前述の 錦大手を中心とする商業地域はその割合を更に顯著に し,工業は逆に中心部で減少し周辺部に増大してい る。この傾向は町内入口の変化にもみられる所で,旧 幕時代その増減が町の内外に共在するに対し,明治以 降核的形成を行い中心部の塘討手少から周辺に行くに つれ大となる様相を示している。この分化形成に重要 な役割をもつ工業の遠心蓮動をみると明治末から大正 初期にかけ,繊維工業に於ける手織機から力織機への 変化が推進され近代的工場が町域外に形成されるに至 り,町内の手工業的生琵が嚢滅して行った事に大きな (4) 要因が見出されるのである○從ってこごこに地方中都 市でありながら比較的顯著な分化を形成した所以が考 えられる。 第三に然し乍ら工業地域は周辺に排斥されながらも 町外に於いて地域形成を比較的あらわしていない。佳 宅地域叉理りである。長浜は姉川の形成した沖積平野 の末端部に湖岸に臨み工業立地上よりの自然的條件は その周辺に著しい差異を示していないQ傾向よりみれ ば湖岸の調馬地(町の西北部,鐘紡等)にやや大なる 工場,北部の用水に恵まれた三ツ矢一帯に単なる工場 の集中がみられるが南部(ヤンマーデa一躍ル)北東 部(長浜ゴム)にも分布し,住宅街が南都,東部ばか りでなく之等工場の間に介在するのであるQこの様な 姿は地方都市に於ける地域分化の限界を示すものと云 うべきであろう。從ってHoytの所謂扇形読(Secto「 (5) Theory)は大都市の糠には見られない事が注意され る。前述の郊外は町域発展の立場からみると当初西北 部は官衙,北部は商業の色彩が強く,南部には工場の 設置がみられたがその更に外側は西北,北部は工業的40 滋 大 論 集