『ある婦人の肖像』における小説版と映画版の比較
研究
著者
石黒 真衣
雑誌名
Immaculata
号
24
ページ
1-10
発行年
2020
URL
http://id.nii.ac.jp/1560/00000463/
『ある婦人の肖像』における小説版と映画版の比較研究
石黒 真衣
序論
アメリカ出身の作家であるヘンリー・ジェイムズ(Henry James,1843-1916)は、資 産家の家に生まれ、生後6ヵ月で父に連れられてヨーロッパに渡った。この経験は後 に彼が人生で、何度もアメリカとヨーロッパを行き来するきっかけとなる。それゆえ に、彼が描く作品には、アメリカ人の無垢と、ヨーロッパ人の経験や邪悪さを対比する 「国際性」をテーマとしたものが多く見受けられる。1881 年に発表されたThe Portrait of a Lady も、国際状況がテーマとなっており、三期に分けられる彼の活動の、第一期 の代表作である。ここでは、数あるヘンリー・ジェイムズの作品の中から、このThe Portrait of a Lady 一作に着目する。主人公の女性は、ヴィクトリア朝(1837-1901)時代 の女性が「家庭の天使」1と呼ばれたのに対し、「ニューウーマン」2という位置に立つ。 さらに、この作品は1996 年に、ニュージーランド出身の女性映画監督、ジェーン・ カンピオン(Jane Campion,1954-)によって映画化されている。同じ作品でも、男性 が描いた原作と、女性が制作した映画では、必ずどこかに違いが出てくるはずである。 この小説から映画へのアダプテーションを通して、それらの間にある差異や共通点につ いて考えを巡らせ、それぞれにおいて主人公がどのように描かれているのか、ヘンリー・ ジェイムズやジェーン・カンピオンがどのような思いを作品に込めたのかを批判を交え ながら考察する。Ⅰ . アダプテーション研究
初めに、アダプテーションについて触れておく。アダプテーションとは、単に物語を 映像化することだけを指すのではなく、もともと映像だったものを小説化したり、漫画 化したり、あるいはゲーム化したりすることも指す。また、英語で書かれた小説を日本 語の小説に訳すといった言語間の移動であっても、それはアダプテーションの一部だと いえる。それゆえに、私たちがアダプテーションについて考える時、「その多様性において捉えるだけでなく、多方向性において捉えること」(岩田 9)も重要となってくる。 では、アダプテーション研究となると、一体何を研究すればいいのであろうか。文 豪アーネスト・ヘミングウェイ(Ernest Hemingway, 1899-1961)は、1932 年に発表した 小説Death in the Afternoon の中で、話を書くことについて次のように述べている。「ど
んな話でも、得心の行くまで話せば死で終るものです」(106)。ここで彼の言う死と は、退屈であることを指す。優れた小説家は、話の皆まで語らず、聞き手、あるいは 読み手に話の展開を想像させ、退屈を与えないのである。こうした彼の考えは、Iceberg Theory と呼ばれており、日本語では「氷山理論」と訳される。氷山は、水面に出てい る部分は全体の八分の一にすぎず、動く氷山の威厳は、水面下に隠された八分の七の部 分に存ずるというものだ。表面に現れている少しの部分だけで、隠れている残りの大部 分を想像させるのが優れたレトリックであると彼は主張している。書かれていることを 文字通りに解釈するだけではなく、各々がその文章に秘められた別の意味を考えだし、 その物語の別の一面を見つけることで、作品の面白さは一層深みを増す。この、彼が唱 えた「氷山理論」が、アダプテーション研究にも少なからず結びついているのではない だろうか。映画監督や小説家が、どのような意図をもって、原作にある場面を省略した り、また独自の場面を挿入したりしたのかを考えることこそ、アダプテーション研究の 面白さである。省略された場面や、独自に挿入された場面には、必ず意味がある。次節 からは、アダプテーションがもつ自由さ故に、広がりを見せる二次作品の奥に秘められ た考えを読み解いていきたい。
Ⅱ . 映画版独自の場面
ジェーン・カンピオン監督が制作した映画、The Portrait of a Lady は、原作とは大き
く違う場面がいくつか挿入されている。その中でも、以下の二か所について論じる。 一つ目は、本編が始まる前の場面で、二つ目はオズモンドとキスをする場面である。 まず初めに本編が始まる前の場面について述べる。この場面では、本編とは全く関係 のない女性たちが複数人登場する。初め、画面は真っ暗で、数人の女性が自分たちの恋 愛観、特にキスについての感想を話している。何の前触れもなく、突然「キスで一番と きめくのは、相手の顔が近づいてきてキスするのねって思う時。あの一瞬が素晴らしい わ」や、「キスは大好き」、「キス中毒よ」といった台詞が流れてくる。姿は見えず、た だ暗闇の中に、キスに関するそれぞれの女性の思いが自然と飛び交っている。またこれ らの台詞は“modern idioms and cadences”(Bentley 133)であり、現代の女性たち、つま り私たちと同世代の女性たちの意見だということが分かる。さらに、ベントレーは暗闇
で声のみを響かせることがもたらす効果について以下のように述べている。
The result is a kind of framing of female subjectivity, an isolation of interior experience. At the same time, the absence of any image actually serves to heighten our awareness that film is a medium of pictures, its vocabulary chiefly visual. (133)
つまりこの場面は、観客にそれまでの経験から植え付けられた「女性らしさ」というも のを意図的に思い起こさせており、映画というものは観客の視覚に訴える、一種の絵画 的要素を持ち合わせていると考えられる。 また、いくつかある台詞の中で、本編にも関わってくる重要な台詞が二つある。それ は、「結末がどうなるか解らないけど キスは全ての始まり」と、「曇りのない真実の鏡 を見るようなもの。真実の愛なら――輝き返してくれるはずよ」という台詞だ。この一 文については、イザベルとオズモンドがキスをする場面についての考察で改めて触れる。 さて、およそ一分間の暗闇の世界が終わると、次に現れるのはモノクロの世界である。 この場面では、本編とは関係のない複数の若い女性たちが登場する。しかし、こちらの 場面では前の場面と反対に、誰一人として口を開いていない。カメラは、肌の色が違う 女性たちを一人一人捉えていく。そして、彼女たちは無言のまま、ただじっとカメラを 見つめている。その様は、無言であるにもかかわらず、観客に何かを力強く訴えかけて いるように感じる。もしくは、あけすけにカメラを見つめる様子は、無垢や、世間知ら ずさも表しているのではないだろうか。ここまでの数分間で、観客はこれから始まろう としている映画の、フェミニズム色の濃さに気づく。 次に、イザベルとオズモンドのキスシーンについて考えたい。このキスシーンは、イ ザベルの中で一つのクライシスとなっている。あれほど結婚をしないと固く誓っていた イザベルだったが、オズモンドとのキスでその気持ちは狂わされてしまう。ここで、こ の章の最初に述べた暗闇の中で流れた台詞について触れたい。「結末がどうなるか解ら ないけど キスは全ての始まり」や、「曇りのない真実の鏡を見るようなもの。真実の 愛なら――輝き返してくれるはずよ」といった冒頭のこの台詞から、観客はキスに対す るイメージを予め植え付けられている。そしてこの場面は、映画が始まってから初めて のキスシーンである。観客は冒頭の台詞を思い出さずにはいられないであろう。そして 観客が冒頭の台詞について考える中、二人のキスシーンは、とても美しく、一種の芸術 作品のように映し出されている。天井から入り込んでくる太陽の光は、まるでスポット ライトように二人を包み込み、この時の二人は、美術館などで作品にだけ光が当てられ ているのと同じような雰囲気を放っている。この美しい場面で気になる点といえば、長
いキスの間、オズモンドはずっと目を閉じたまイザベルにキスをし、反対にイザベルは 時々瞬きをしながらオズモンドのキスを受けているのだ。その理由について考える時、 映画冒頭の女性の台詞が意味を持ってくる。キスをする際の目は、真実の愛を映し出す と冒頭で語られている。イザベルは、オズモンドの目の中に、それを見出そうと、何度 も彼の目を覗き込もうとしているのではないだろうか。イザベルは、一人の女性として、 他の誰でもないオズモンドの内側に真実の愛を見つけ、彼から愛されたいと感じている のである。しかし、オズモンドが次に目を開くのは、キスが終わってからだ。彼が目を 閉じたままキスをしたのは、イザベルの財産を目的として彼女との結婚を切望している という邪悪な考えが、曇りとして自分の目に映りこんでいることを隠すためだったと考 えられる。 これら二つの場面の分析から、ジェーン・カンピオンは、女性の内に秘めたる悩みを 的確に映像化し、本編に挿入していることが分かる。原作と比べると、イザベルの苦悩 が非常にリアルに映像化されており、同性の目から見ると、強かなイザベルも、真実の 愛を求め、悩める一人の女性だということがわかり、その存在はかなり身近に感じられ る。ヘンリー・ジェイムズが書いたこの作品は、映画化によって、より一層、共感者を 増やす媒体へと変化するのだ。
Ⅲ . 映画版で省略された場面
さて、この章では一転、映画版The Portrait of a Lady を批判的に考察する。長編小説
の映画化に伴って起こりうることは、原作にはある場面が省略されてしまうことだ。映 画には、制限時間内で物語を終わらせなければならないという決まりがある。そのため、 特に長編小説や長期連載の漫画などは、映画化される際、いくつかの場面の省略が行わ れる。ジェーン・カンピオンはかなり忠実に原作を再現しているが、独自の場面を挿入 する代わりに、いくつかの主要な場面の省略も行った。ここでは、省略された場面の中 から、最も触れておきたい二つの場面について考えたい。まず一つ目の省略された場面 は、この作品の題名に深く関わりをもつ場面だ。The Portrait of a Lady は、日本語訳の
小説では『ある婦人の肖像』と訳されている。この婦人とは、物語の主人公であるイザ ベルを指すと考えられる。しかし、物語を通してイザベルが誰かに自身の肖像画を描い てもらうことはない。また、オズモンドのコレクションもアンティークな食器などが多 く、絵画が出てくることはほとんどない。ではなぜ、ヘンリー・ジェイムズは、このよ うな題名をつけたのであろうか。そこで原作を読み進めていくと、一か所だけ、題名と 内容が結びつく場面がある。以下にその場面を記す。
The years had touched her only to enrich her; the flower of her youth had not faded, it only hung more quietly on its stem. She had lost something of that quick eagerness to which her husband had privately taken exception―she had more the air of being able to wait. Now, at all events, framed in the gilded doorway, she struck our young man as the picture of a gracious lady. (310) これは、オズモンドとの結婚生活を送るイザベルについて、パンジーの恋人であるロウ ジア(Rosier)が感じた印象について書かれた場面である。イザベルは、オズモンドと の結婚生活が上手くいかず、悩みの多い日々を送っていた。彼女の結婚前までの自由奔 放さは、結婚生活を送るうちに失われていた。自分が下した「オズモンドとの結婚」と いう選択が間違っていたと考えるのを避け、それを周囲に気づかれないよう振る舞って いる。そのような葛藤の中でも、彼女の美貌は衰えることを知らず、ますます際立つば かりであった。ロウジアは、この時、金箔の戸口に立つイザベルの姿を見て、彼女を生 きる肖像画だと感じている。ただ美しいというだけではなく、オズモンドとの結婚生活 を通して大人の女性へと変化したイザベルの影を纏う姿は、絵画として閉じ込めたくな るような魅惑的な美しさを放っていたのであろう。しかし、この題名ともつながるよう に思える場面は、映画版では省略されている。映画版では、このような、他人がイザベ ルの容姿についての感想を述べる場面が少ない。つまり、結婚前と結婚後のイザベルの 姿、立ち居振る舞い、内面の変化などの違いがあやふやになっている。さらに、観客が、 改めて題名について考えるきっかけも失われている。 次に、二つ目の省略された場面について考えたい。イザベルは、アメリカからイギリ スのガーデンコートに渡ってきた。原作の第5章で、イザベルはラルフに邸の中を案内 してもらう。その際イザベルは、ラルフに幽霊を見たことがあるかと聞く。また、彼女 は幽霊が見える人間になりたいと考えていて、いつか自分に幽霊を見せてくれとラルフ に懇願する。そのような無邪気な彼女に対するラルフの答えは次のようなものであり、 イザベルの返答に対し、さらに彼の答えが続く。
Ralph shook his head sadly. “I might show it to you, but you’d never see it. The privilege isn’t given to every one; it’s not enviable. It has never been seen by a young, happy, innocent person like you. You must have suffered first, have suffered greatly, have gained some miserable knowledge. In that way your eyes are opened to it. I saw it long ago,” said Ralph.
“Yes, of happy knowledge―of pleasant knowledge. But you haven’t suffered, and you’re not made to suffer. I hope you’ll never see the ghost!” (51-52)
ラルフは、幽霊とは誰にでも見えるものではなく、激しい苦労をした人にだけ見えると 言っている。イザベルはこれから始まるヨーロッパでの暮らしに、興奮を隠しきれない でいる。ラルフは、そのような夢や希望で胸をいっぱいにした彼女に幽霊は見えるはず はないと感じている。また、ラルフはイザベルの行く末を見守りたいと密かに計画して いるため、彼女が苦しむことを望んでいない。ラルフは、イザベルが、彼女の持つ力を 最大限に発揮し、幸せな人生を歩んでくれることを願っているのだ。また、ラルフが、 自分は幽霊を見たことがあると語るのは、彼は過去に大病を患い、生死の境をさまよい、 自分が長くは生きられないことを感じ取ったからである。彼は、自分の不幸な運命を受 け入れることで、幽霊が見えるようになったと考えられる。物語の最初に挿入されてい るこの二人の会話は、特に長くもなく、一見何の変哲もない会話のように思われる。し かし、物語を最後まで読み進めると、計算されて挿入されている会話であることが分か る。もう一度幽霊に関する話題が登場するのだ。それは、物語の終わりに近い、ラルフ がこの世を去る場面である。イザベルは夫の制止を振り切って、危篤状態のラルフに会 いに帰ってくる。そして、ラルフと最後の言葉を交わした後の場面が、これから述べよ うとしている場面である。
He had told her, the first evening she ever spent at Gardencourt, that if she should live to suffer enough she might some day see the ghost with which the old house was duly provided. She apparently had fulfilled the necessary condition; for the next morning, in the cold, faint down, she knew that a spirit was standing by her bed. […] She heard no knock, but at the time the darkness began vaguely to grow grey she stared up from her pillow as abruptly as if she had received a summons. It seemed to her for an instant that he was standing there―a vague, hovering figure in the vagueness of the room. She stared a moment; she saw his white face―his kind eyes; then she saw there was nothing. She was not afraid; she was only sure. (479)
イザベルが初めて見た幽霊はラルフであった。オズモンドは、イザベルの財産を目当 てに彼女と結婚し、彼女はその真実を知って深く傷ついた。また、初めて会った時から ずっと憧れを抱いていたマダム・マールは、オズモンドと昔から愛人関係にあり、その 裏切りも彼女を絶望させた。ラルフが幽霊となって彼女の前に現れたのは、単に彼女に
最後の別れを言うためだけではなく、イザベルが十分に傷ついたと分からせるためで あった。好奇心から幽霊を見たいと言っていたイザベルは、もうどこにもいない。イザ ベルは、当初、自由で誰からも縛られない人生を送ろうとしていた。ラルフはそのよう なイザベルの行く末に期待し、彼女に自分が相続するはずだった遺産の一部を分け与え た。しかしイザベルは、オズモンドと結婚することを選択し、ラルフの期待を裏切って しまった。しかも、その結婚生活はうまくいかなかった。最後まで自分を愛し、見守っ てくれていたラルフに詫びるイザベルの前に、幽霊となったラルフが出現することは、 ラルフのイザベルに対する「許し」の表れと考えられる。 映画版では、この一連の幽霊の話は省略されている。この場面で分かることは、イザ ベルの中に、苦しみによる何らかの変化があったということだ。そしてこの場面が省略 されることによって、その成長は、観客にはぼやかされて終わってしまう。 以上の取り上げた二つの場面の省略によって、イザベルの内面の変化は、はっきりと 描かれていないことが分かる。The Portrait of a Lady の要となる部分は、アメリカから
希望を胸に抱いてやって来た自由奔放なイザベルが、ヨーロッパの邪悪な部分に触れ、 苦しみを味わうというところにある。そこからどのように彼女が変化を遂げるのかが物 語の見どころである。しかし、カンピオンは、上記の二つの場面を省略することによっ て、イザベルの変化を曖昧なものにしてしまった。原作を読まずに、映画版を見てしまっ た人には、分かりにくい内容になってしまったのではないだろうか。また、原作を読ん だうえで映画版を見た人にとっては、イザベルの心の変化をはっきりと感じ取れない点 から、少々物足りない仕上がりになってしまったと考えられる。
Ⅳ . 監督が伝えたかったこと
第Ⅰ節から第Ⅲ節にかけて、実際に小説版と映画版のThe Portrait of a Lady を比較し
ながら、カンピオンが行ったアダプテーションについて考えてきた。それを踏まえ、ヘ ンリー・ジェイムズが物語を通して伝えたかったことを考える。そして、これまでの考 察をもとに、カンピオンは、どのような思いで映画版The Portrait of a Lady を制作した
のかを分析する。 ヘンリー・ジェイムズが描いたイザベルの姿を、藤田は「特定の個人の運命でもあり アメリカの若人の共通の運命でもある」(116)と述べる。物語が書かれたころのアメリ カは、南北戦争が終結し、近代産業が発展や都市の拡大が目まぐるしかった。そのよう な中、人々の感性は理想を追い求めるロマンティシズムよりも、現実を直視するリアリ ズムへと変化していく。ヨーロッパに渡ることで、新しい自分の人生が切り開けると思
い込んでいたイザベルは、結婚をすることによって、自分から自由が奪われると考えて いる。しかしこれは、イザベルのhumanity を知らない「ごうまんさ」である(88)と 芦原は述べる。そしてイザベルはオズモンドとの仕組まれた結婚により心に深く傷を負 い、このイザベルの挫折を、当時のアメリカに対する批判だと言う人もいる。しかし、 ヘンリー・ジェイムズは、イザベルを殺すことはしなかった。多くの作品に見られる傾 向として、悲しみと絶望の果てに、主人公が死んでしまうことがよくある。しかしイザ ベルは、絶望の淵にあっても、そこから這い上がる力を持つ。この物語の結末は、オー プンエンディング4となっており、イザベルがどのような選択をしたのかは分からない ようになっている。オズモンドの元に帰り、結婚生活を続けるのか、離婚するのか。少 し前の彼女にとって、自由が制限されたオズモンドとの結婚生活を送ることは、死と変 わらないものであった。しかし、物語の最後、彼女は “a very straight path”(490)を見 つけた。つまり、何かしらの決心が彼女の中にあったということだ。この発見が、彼女 にとってプラスに働くことを祈るほかない。ヘンリー・ジェイムズは、イザベルに苦境 に耐え、生き抜いてほしいと願っているのだ。
さて、映画版The Portrait of a Lady は、主人公イザベルの様子が、女性の目線から、
非常に詳しく描写されている。カンピオンは、この映画を“conscious observation of woman”(Griffin, 127)という意識のもと、制作した。とくに、第Ⅱ節でも述べた、独 自に挿入された場面のほとんどは、役者たちに台詞が無い。カンピオンは、台詞ではな く、役者の視線や表情だけで、登場人物の気持ちを表そうとしていることが分かる。台 詞が無い分、観客たちの五感は視覚のみに集中し、画面を食い入るように見つめるよう になる。カンピオンは、印象付けたい場面には、あえて台詞を入れずに映画を制作して いる。さらに、カンピオンが数々の重要な場面を省略したことから、彼女は原作を忠実 に表現することよりも、自分が伝えたいことを優先して、この映画を制作したと考えら れる。しかし、その行動は、ヘンリー・ジェイムズが物語を通して伝えたかったことを 無視しているわけではない。本編が始まる前、多くの女性たちが自由に動いている場面 について、ベントレーはこう語る。
Instead of the rich period costume and pale(always pale)
skin of an actress from central casting, the viewer sees modern-day young women posed in a series of outdoor tableaux―some of the women moving or dancing, some motionless,[…]Casually dressed, with a range of different skin tones, the women are all beautiful; Campion has not changed that aspect of the novel’s womanhood.(133)
何も飾らない、そのままの女性の美しさというものが、この場面に込められている。そ のままの女性の強さや逞しさ、しなやかさは、原作の中でヘンリー・ジェイムズがイザ ベルに表そうとしたことだ。さらに、映画の題名は、女性の長く細い指に記されている。 このことから、これから始まる映画が、女性らしさを基調として描かれていることも伝 わってくる。ジェーン・カンピオンは、ヘンリー・ジェイムズが世間に伝えたかったイ ザベルという一人の「女性」というものを、強調しようとしたのだ。「イザベル」という、 現代に通じるものをもった娘の挫折から這い上がる強さに、カンピオンは、惚れたので はないだろうか。 ジェイムズは、「イザベル」という一人の女性を、当時のアメリカを批判する一種の 媒体として描いた。一方、ジェーン・カンピオンは、苦悩するイザベルをとても繊細に 撮影することで、現代の女性の目に、彼女をとても身近な一人の女性として映るように 描いたのだ。二人の間にある共通点とは、挫折したままでは終わらせない、イザベルの 再起に期待する点にある。
結論
アダプテーションについて研究を進めていき、原作にも二次作品にも作者や監督の強 い思いが込められていることが明らかになった。原作を読む人が百人いれば、その原作 には百通りの解釈が生まれる。つまり、アダプテーションの興味深い点は、原作を忠実 に再現することではなく、原作に独自の変化を加え、新しい発想を人々に与える点にあ る。なぜ原作にあるものを省略したのか、または新しい場面を挿入したのかについて考 えていくと、そこに新たに何通りもの解釈が生まれる。アダプテーションをすることで、 原作を見たり読んだりするだけでは思いつかなかった発想が生まれ、それはまるで作品 に新しい命が吹き込まれるかのようである。ヘンリー・ジェイムズがThe Portrait of a Lady を発表し、カンピオンが映画を制作す
るまで115 年という時間が流れた。ヘンリー・ジェイムズが生きた時代の女性たちにとっ て、男性に従い、家庭を守るということは当たり前の習慣であった。しかし徐々にその 習慣から抜け出そうとする女性が誕生していき、ヘンリー・ジェイムズはあえてその少 数派の女性たちに焦点を当てた。映画版が発表された1996 年という時代は、女性の活 躍が当たり前になってきていた時代だ。カンピオンは、なぜこの時代に百年以上昔の作 品を取り上げて映画化することを決心したのであろうか。それは、自分の人生の方向を、 自分で決められることが当たり前である世の中のかけがえのなさを伝えるためではない だろうか。そして、かつて周囲の反感を買いながらも、古い因習を断ち切り独立した、
強き女性たちの存在を、現代を生きる人々に知らしめるためではないだろうか。 ヘンリー・ジェイムズが読者に伝えたかった力強い女性の存在は、アダプテーション を通してさらに多くの人々へと伝わり、その心の中で生き続けているのである。
注
1 良妻賢母という理想。社会的な活動を遠慮し、夫の世話、家事、育児に専念する女性。 2 個人的、社会的、経済的に自立した女性。 3 19 世紀後半から 20 世紀初頭にかけて女性の地位向上を唱える「新しい女性」が登場 したので、ここを区切りとする。 4 物語がそこで終わっていても、読者がその続きをいくつも考えられるようになってい ること。引用・参考文献
Griffin, M. Susan,ed. Henry James Goes to the Movies. Kentucky: UP of Kentucky, 2002. Print. James,Henry. The Portrait of a Lady. New York: W.W.Norton, 1995. Print.
Palmer, R. Barton,ed. Nineteenth-Century American Fiction on Screen. UK: Cambridge University. 2007. Print. 秋山正幸、『ヘンリー・ジェイムズの世界』東京:南雲堂、1996 年。 芦原和子、『ヘンリー・ジェイムズ素表』東京:北星堂書店、1995 年。 岩田和男[ほか]編、『アダプテーションとは何か―文学/映画批 の理論と実践―』 神奈川:世織書房、2017 年。 江原由美子『フェミニズムと権力作用』東京:勁草書房、1988 年。 ジェイムズ、ヘンリー 『ある婦人の肖像(上)(中)(下)』行方昭夫訳、東京:岩波書店、 1996 年。 丹羽隆昭[ほか]編著、『アメリカ文学のミニマム・エッセンシャルズ』大阪:大阪教 育図書株式会社、2016 年。 藤野早苗、『ヘンリー・ジェイムズのアメリカ』東京:彩流社、2004 年。 水田宗子編、『女性の自己表現と文化』東京:田畑書店、1993 年。 y 石いしぐろ黒 真ま い衣