後発国工業化における政府と民間の関係に関する一
考察
著者名(日)
? 仁平
雑誌名
経済論集
巻
31
号
2
ページ
135-158
発行年
2006-03
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00002292/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止後発国工業化における政府と民間の関係に関する一考察*
ޓޓ仁 平
目 次 1 はじめに 2 近代日中における鉄道建設の状況とその差異 3 阪鶴鉄道の建設をめぐる政府と民間の動向 4 おわりに 1 はじめに 経済発展過程における政府と民間の役割をめぐって、開発経済学の分野では激しい論争が繰り広 げられてきたが、市場メカニズムがうまく機能しない(市場の失敗)場合、政府が一定の役割を果 すべきだとする考えは経済学者の間で広く支持されている。とくに発展途上国に共通する特徴であ る「市場の未発達」あるいは工業化の始動段階においては、政府が積極的な役割を果すことが認め られている1。 日本の場合、これまで西欧先進国の経験を判断基準として、明治政府の役割を極めて高く評価し、 日本の工業化は政府主導型であったことが強調されてきた。明治政府が「殖産興業政策」を通じて 押し進めた「上からの工業化」、つまり政府ないし官営部門の積極的イニシアティブの下で進めら れた近代産業部門を中心とする工業化こそが、日本の近代経済成長の最大の成功要因と考えられ、 これは内外の学界において、ほぼ「通説」となった。戦後についても、高度経済成長期に通産省が 産業政策を通じて果たした役割を重視する立場が一般的である。「日本株式会社」論や「官民一 体」論などは、その典型といえよう2。さらに近年の東南アジア諸国の発展を、日本と同じ政府主 導型モデルであるとする「開発主義論」も、この流れを組んだ論議である3。 ’ 本稿は平成12∼15年度科学研究費補助金(基盤研究B(1)「中国の近代経済成長と構造変化に関する数量 的・総合的分析:日本との比較発展史」(研究代表者・南亮進東京経済大学教授(当時)、課題番号 12430019)による研究成果の一部である。本稿をまとめるにあたり、佐藤正広氏(一橋大学経済研究所教 授)から数多くの有益な助言をいただいた。記して感謝を表したい。 政府の役割に関する開発経済学の主流派の観点をもっともよく表しているのが、世界銀行[1994]である。 Johnson℃[1982]を参照されたい。 例えば、村上[1992]、原[1994]、青木他編[1997]。経済発展初期において、キャッチアップのために政府が果たす役割が大きいことは、日本だけで はなく、他の後発国にも見られる共通した現象である4。しかしより詳細に見れば、各国における 政府と民間(官と民)の関係のあり方、インセンティブの質と強さ、それが経済発展に与えた影響 の度合いは大きく違っていた5。このことを考慮に入れるとき、民間部門を中心として発展してき た欧米先進国との比較で、日本の近代経済成長における政府の役割の大きさを指摘するに止まるな らば、それは誤りではないにしても、不十分のそしりを免れないであろう。例えば、近代中国との 比較の視点から近代日本の経済発展を見る場合、その際立った特徴は、政府の役割より、むしろ政 府の政策に対する民間側のレスポンスの大きさと迅速さである。また今日の途上国の発展をみると、 政府の政策に対する「社会の反応」(民間部門のレスポンス)の大きさは、その国の歴史や社会構 造など各国の「個性」に関連しており、このあり方こそが、国々の経済発展の成否の鍵となってい る6。 以上のように、いままでの日本の経済発展に関する研究は、1)欧米のみと比較し、日本の工業 化の特徴を単なる欧米先進国の発展パターンからの乖離として把握してきたこと、加えてまた、 2)中国を始めとする多様な後発国の経験を、その比較史的な視点から十分にとり込むに至ってい ないこと、などの問題点がある。そのような研究視点の欠落によって、日本の近代経済発展に対す る理解には不十分な面や、時には誤りもあり得る。したがって、アジア諸国との比較的な視点から、 日本における政府と民間の関係を歴史的にみておくことは、日本の経済発展の特徴や経験をより正 しく把握するために非常に重要な意味をもつ。また歴史的転換期を迎えた現代日本における官民関 係を論議する上でも必要であろう。さらに、この問題の解明は、途上国の経済発展を考える際にし ても大きな現実的意義がある。 日本における政府と民間の関係を歴史的な視点から見る場合、個別事例や個別産業に関する実証 研究が必要である。本稿は近代中国の鉄道建設との比較を基本的な視点として、日本の工業化の始 動期における鉄道建設をめぐって、政府の政策に対して民間側がどのように対応したか、また民間 の動きが政府の政策に対してどのような影響を及ぼしたかという官民相互対応の流れに注目し、日 本の工業化における政府と民間の関係の特質を明らかにしたい。 ここで鉄道産業を取り上げるが、それには以下2つの理由が挙げられる:第1は、交通、通信、 教育などインフラストストラクチャ(以下インフラとする)、いわゆる社会的間接資本が、経済成 4 後発国の場合、先進国をキャッチアップするために政府が果たす役割が大きいということを最初に示した のは、ガーシェンクロンであった。彼によると、後発国の経済発展の初期段階において、経済の「離陸」 のために必要な前提条件(運輸システム、財政金融制度、教育など)が満たされていない場合でも、政府 がそれを政策的に作り上げることができるので、先進国に比べて、後発国の方が一般的に早く成長できる という。Gerschenkron.A[1962]及びアレクサンダー・ガーシェンクロン[2005]を参照。 中谷[1995]は各国の文化や発展段階の違いによって、途上国における官民関係のあり方も異なることを 指摘した。 6 原[1994]を参照。
長の基盤として、近代経済成長(特に初期段階)において、特に重要な役割を果たしたことである。 明治期の日本では、欧米諸国を範として近代化をはかるため、インフラの整備が重要な課題となっ た。明治政府は「殖産興業政策」の重要な一環として、これらの整備を推進した。近年様々な産業 に関して、技術進歩や技術普及などの視点から、民間部門が日本の工業化の過程で果たした役割に 着目し、日本の工業化はむしろ民間の努力により大きく推進された、つまり「下からの工業化」で あったという反論が現れた7。そして、近代日本経済発展の成功要因は、むしろ民間在来産業の急 速な発展にあると指摘された。しかしこれらの研究は主に製造業や紡績業などに集中しており、イ ンフラ産業については、このような研究はまだ少ない。筆者の考えでは、近代日本の経済成長にお ける政府と民間の関係を解明するため、そもそも民間部門を中心として推進してきた他の産業より、 鉄道など本来なら政府が担うべきインフラ産業を分析することが、むしろ重要な意味をもつと思う。 第2は、鉄道の導入における日中両国の経過の対照性である。近代日本において、鉄道を始めと する交通手段の整備は、「殖産興業政策」の重要な一環とされた。そして明治20年代半ば頃に「企 業勃興期」の中心となって急速に進展した。また鉄道網の建設は、その「間接的波及効果」を通じ て、ほかの近代産業発展に対して大きく寄与したと考えられている8。他方、近代中国の「洋務運 動」において、洋務派(清政府内部の改革派)は、近代産業や技術の導入とともに、近代的な交通 手段として鉄道も導入、建設しようとした。結果的には近代中国における鉄道建設は、日本に遅れ をとったが、鉄道の導入、建設が洋務運動の中心内容の1つであったことは間違いない。日中比較 の視点から、日本経済発展における政府と民間の関係を探究しようとする場合、近代日本における 鉄道産業の発展は、この観点からも、大きな意味のある分析対象であると筆者は考える。 本稿の構成は以下の通りである。第2節ではまず近代日中における鉄道建設の概況を比較し、両 者の差異を明らかにする。第3節では鉄道敷設法成立前後に、民間により出願・建設された阪鶴鉄 道をとりあげ、その出願、建設をめぐる政府と民間の動向を検討し、近代日本における鉄道建設の 特質の一端を探りあてようとする。第4節では結論と今後の課題を述べる。
2 近代日中における鉄道建設の状況とその差異
ここで近代日中における鉄道建設の概況とその差異について簡単に述べたい。比較する時期は、 それぞれ明治期(1905年の国有化まで)と清末期(1911年の辛亥革命まで)に限定する。 2 1 近代日本における鉄道建設の概況 鉄道建設は、富国強兵、殖産興業を目指す明治政府が最も力を入れた事業の一つであった。当時 ?青戊[1 [1995]。 この点については、南[1984]および南・牧野[2002]を参照されたい。民部・大蔵大輔大隈と民部・大蔵少輔伊藤博文らは、外交・財政等の問題を担当する過程で、中央 集権化を進め富国強兵を実現する手段として鉄道の有用性を認識し、中央集権確立の観点から鉄道 の早急建設を積極的に提唱した。しかし、当時政府の財政に余力がなく、民間も鉄道についての認 識不足もあって起業意欲を示さなかった。その後、明治2年(1869年)6月イギリス人(Horatio Nelson Lay)が日本へ来て、政府への鉄道建設資金提供を申し入れた。同年12月12日、政府は「廟 議決定」という形で、外資による官設官営で鉄道建設を正式に決定したのである9。 日本の鉄道はこのように、外部からの資金提供を契機として、民間の鉄道投資の条件が未成熟の ときに政府によって建設されることになった。民間の力がないときに鉄道を導入しようとすれば、 政府が担当するほかなかったのである。 明治3 (1870)年12月工部省が設置され、鉄道建設が着実に進行し始めた。明治3年3月に新 橋・横浜間29キロの鉄道建設の測量がはじめられ、5年9月全線開業した。また3年11月に神戸・ 大阪間33キロの建設に着手し、7年5月に開業した。さらに9年9月には大阪・京都間44キロが開 業される。しかし、打ち続く内乱と財政難が災いし、政府は鉄道建設を進める余力を失ったのであ る。前述の2年11月の閣議決定に際しては、東京∼京都∼大阪∼神戸に至る幹線および東京∼横浜 間の支線と琵琶湖∼敦賀港の支線を3年から5年で敷設する目論見であったが、新橋・横浜間の最 初の着工時より10年経過した明治12年末現在の営業距離もわずか117キロメートルに過ぎなかった。 この間に鉄道が官設官営方針による建設の、現実の停滞状況に乗じて、一部の政商資本や華士族 資本などによって、民間が鉄道を建設しようという動きが見られた。まず東京を中心とする旧上層 武士階級の資本を基礎とする私設鉄道計画がいくつかあった。たとえば明治4、5年に、横浜の商 人高島嘉右衛門による東京∼高崎間の鉄道敷設を目的とする計画であった。また関西の豪商・高利 貸し資本による一連の鉄道建設計画(京都∼大阪間の鉄道建設資金の供給を目的として設立された 関西鉄道会社や大阪∼堺間の鉄道敷設を請願した堺大阪鉄道建設会社など)があったことも見逃し てはならない。こうして、民間資本による鉄道建設の胎動が明治初期において早くも示されるが、 それらはむしろ利権取引・特権吸着を狙うだけのもので、いずれも実現にいたっていない。 一方、政府の側でも、政府の手による鉄道建設という官設官営方針は早い時期から動揺しはじめ たと見られる。当時の政府側も既成官設鉄道を民間に払い下げることを検討している。たとえば、 明治9年8月に『鉄道払下げ約束条款』を定めた(しかし払下げは結局実現しなかった)。西南の 役での鉄道の軍事的効用(動員兵力6万人のうち約半数が新橋・横浜間の鉄道を利用した)にかん がみ、軍部も鉄道建設の必要性を認識し、積極的に促進する方針に転じた。しかし鉄道建設には巨 額な費用を要するため、当時の政府財政状況では、民間の力を借りて鉄道建設を促進しなければな 9 鉄道省[1921]上編、677ページ。
らなかったのである。 明治13年当時の鉄道開業延長は、まだ158キロメートルに過ぎず、政府としては自らの手による 全国鉄道網早期完成の緊要性と、財政難による鉄道建設の立ち遅れとの矛盾に直面せざるをえな かった。この矛盾を打開する方法の一つとして、明治14年5月に日本鉄道会社の設立を認可し、私 有鉄道を建設せしめることに踏み切ったのである。 この日本鉄道は、明治政府による華士族授産政策の意味を持つものであると同時に、国内市場開 拓の要求をみたし、かつ軍事的・政治的意義を有するものであった。いいかえれば国家財政の窮乏 の条件のもとで、官設線に代位補充するものとして敷設された幹線鉄道であった。このため政府は 次のような手厚い助成措置を提供した。すなわち、①出資金に対しては、建設期間中でも年8分の 利子下付。開業後10年は純益が年8分に不足する場合は不足分を利子補給。②鉄道用地については、 官有地ならば無料貸し付けまたは払い下げ。私有地ならば政府買上のうえ払下げ。③鉄道用地に対 する国税の免除。④建設工事・運営を当初は鉄道局に委託するなど、政府と密接な関係をもった1°。 それにしても、日本鉄道の認可は、政府が従来の官設官営方式から私鉄に対する監督・助成へ政策 転換したことを示すものといえる。 日本鉄道会社は明治16年から東京∼熊谷間61.2キロメートル、17年から東京∼熊谷∼前橋間 109.2キロメートル(京浜・高崎地方間の生糸・米・鮮魚・雑貨等の輸送が活発に行われる)が一 部開業すると、当時として破天荒の利益率(10%以上)を続け、これが民間資金の鉄道事業への投 資意欲を刺激し、いわゆる第1次私鉄ブームが巻き起こった。明治18(1885)年以降23年にかけて、 私設鉄道会社の設立が出願されたのは、50社ほどにのぼっているlt。図一1によると、明治20 (1887)年末から25年末まで私鉄の新規開業里程は1,758キロメートルというめざましいもので あった(官設鉄道では、むしろ新規開業里程の延びがほぼ停滞していることに注意すべきである)。 図1に示されたように、1880年代半ば頃以降、工業化の本格的な始動L2に伴い、第1次民営鉄道 建設ブームを経て、鉄道普及が一気に進んだ。そして工業化の進展を背景に、様々な勢力の間で鉄 道建設に対する関心が高まった。軍部、民間、鉄道官僚などそれぞれの立場から、日本の将来の鉄 道網のありかたについて、様々な論議、構想が現れ、政府に対して全国的で長期的な展望をもつ鉄 道政策を求める声が強くなっていた。 このような背景の下で、明治政府はこれらの動向を視野に入れつつ、交通政策の面では、維新以 来の道路を中心とする陸上交通機関整備政策から鉄道中心のそれへと転換し始めだ3。その第一歩 Io tI L2 ]3 鉄道省[1921]上編784ページ。 中西[1963]35ページ。 日本の工業化(産業革命)期は、銀本位制へ移行した1886年から日露戦争直前までとされている。詳しく は石井[1992]、南・牧野〔2002]に参照されたい。 明治期の交通政策については、山本[1986]に詳しい。
図1 近代日本における鉄道営業距離の推移(1872∼1905年) 6000 5000 4000 謎 覇・・… 2000 ・ 1000
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(資料)1)『明治40年度鉄道局年報』付録「全国鉄道開業明細表」より算出・作成。 2)原表のマイル表示をキロメートルに換算した。ただし、1マイルニ1.609キロメートルとする。 としては、政府は1892年(明治25)年6月に、「鉄道敷設法」T4を制定、公布し、全国的な鉄道網 の完成のために、積極的な鉄道政策を展開しようとした。この姿は、ほぼ同じ時期の中国とは対照 的である。中国では洋務派を中心に鉄道建設を積極的に推進しようとしていたが、実際に営業距離 延長は進まなかった。また現存する鉄道を前提とし、そのネットワークとしての拡充整備を目指す という意味では、長期的展望や全面的な鉄道政策を持たなかっだ5。 鉄道敷設法は、将来の日本が持つべき主要鉄道網の青写真を国家が自ら描き、政府主導の下で自 らの手(官設官営)により完成する計画を立てたものである。これと同時に、この法律では、予定 線に挙げられている線区への民営鉄道の出願、敷設も認められる。民間側はこのような政府の誘導 政策に対して、素早くレスポンスし、民営鉄道の第2次建設ブームが起こった(表1)。 このように、鉄道敷設法の制定は、民営鉄道に対して大きな影響を及ぼし、第2次民営鉄道建設 ブームを誘発したと言える。明治20年代後半から鉄道国有化までの間に、このように政府が鉄道政 策の主導権を握った上で、民営鉄道が鉄道建設の主役となり、官民双方が相互に対立、対応しなが ら、鉄道網を建設・形成していくのである。言い換えれば、鉄道敷設法体制の下で、工業化の進展 に伴って、民営鉄道もその発展の全盛期を迎え、日本の鉄道網の形成に大きな役割果たしていくの である。鉄道国有化直前の1905(明治38)年には、鉄道営業距離は7,800キロメートルほどに達し、 14 13 鉄道敷設法の成立過程と内容については、これまですでに多くの先行研究がある。例えば、原田[1965] 及び 松下[1994]。 中国では、政府が長期的な全国鉄道網建設に関する建設計画と統一的な鉄道政策を打ち出したのは、1912 年民国政府の成立以降のことになる。例えば、1912年、孫文が「建国方略」の中で、大規模な全国鉄道網 建設計画を発表した。宏[1963]第3巻を参照。表1 民営鉄道の推移(1886∼1895年) 年度 会社数(年度内の変化) 年度中 年度末 出願 仮免許 免許 開業 開業キロ 営業キロ 1886(明治19)年 4 1 50 267 1887(明治20)年 11 3 2 205 472 1888(明治21)年 5 1 6 4 182 654 1889(明治22)年 14 5 4 5 289 943 1890(明治23)年 2 1 2 1 422 1,365 1891(明治24)年 4 4 1 510 1,875 1892(明治25)年 7 1 4 1 249 2,124 1893(明治26)年 34 2 9 2 77 2,201 1894(明治27)年 51 21 1 4 273 2,474 1895(明治28)年 99 11 ll 5 229 2,703 (資料)1)『明治40年度鉄道局年報』付録「全国鉄道開業明細表」より算出。 2)1894,95両年の出願者数は路線延長を請願した既設会社も含む。 全国鉄道幹線網がほぼ形成された。 2.2 近代中国における鉄道建設の経緯 近代中国における鉄道建設については別稿で詳細に述べたので16、ここでは簡単に振り返るにと どめたい。 中国最初の鉄道は、1876年上海一呉松間にイギリスの商社が許可なく敷設した軽便鉄道(15キロ メートル)である。しかし敷設後1年足らずで清政府によって買い取られ、撤去された。その4年 後の1881年には清政府(洋務派一直隷縛督李鴻章)は、河北省の国営炭鉱の石炭を運ぶため、唐山 一騨各荘間9.7キロメートルに国営鉄道を敷設し、1888年までに天津間130キロメートルに延長して いる。これが中国に敷設された2番目の鉄道であった。 日清戦争直後、鉄道輸送(軍事輸送)の重要性を痛感した清政府では、洋務派系の官僚である張 之洞を中心に鉄道の導入が本格的に計画された。しかし、日清戦争の賠償金の支払いに縛られた当 時の清政府には、国家の財政支出によって鉄道を敷設することができなかった。このため、外国か らの借款によって急いで鉄道を敷設しようとした。これに呼応して中国進出を狙う列強側は競って 鉄道建設の計画を提起し、鉄道敷設をめぐって激しい利権獲得競争が展開されることになった。こ の時期、列強が中国において獲得した鉄道利権の総計は、直接経営(所有)権が3,760キロメート ル、借款関係に基づく管理参加権、人事権などの間接的支配権が4, 054キロメートルに達している。 これは当時中国の鉄道建設計画の3分の2を占めていた。このように、当時世界を支配していた帝 国主義諸国の利権との結びつきが強かったことは、他の産業と比べて、近代中国の鉄道発展過程に 16 @邸[2005]を参照されたい。
おける1つの特徴である。 1900年華北地域に起きた義和団運動(北清事変)が、8ヶ国連合軍によって鎮圧された後、清政 府は、各国と「北清事変に関する最終協定書」を調印し、巨額の賠償金(4億5千萬両)と各国の 占領地域において自由に鉄道を敷設する権利を認めた。これに対して、条約の廃止、鉄道敷設など の利権回収などを要求する中国人の運動が全国に広がっていった。 さらに日露戦争の影響もあって、1906年頃から1910年にかけて、中国では、鉄道利権の回収と自 主建設運動が、四川、湖南省の保路運動を中心に全国的に進められた。清政府も列強諸国から鉄道 利権を回収(買い戻し)し、自国による鉄道建設を進める方針を採用した。当時全国各省に鉄道建 設会社が数多く設立されたが、資金調達、技術者の選用などの問題があって、実際に敷設されたの は、国有鉄道の京張鉄路(201キロメートル、中国の資金と技師)と民営鉄道の潮汕鉄路(28キロ メートル、民間資本と外国の技術一日本商社三五公司の工事請負)の2線だけであった。つまり、 民間資本による鉄道建設運動も盛んになっていったとはいえ、見るべきほどの事業規模に達した民 営鉄道はほとんど生まれなかったのである。 このような状況の下で、清政府(郵伝部)は、各省の鉄道会社で資本の募集さえも進展せず、敷 設工事着工への見通しがたたないことを理由に、1911年5月に鉄道国有化、外国借款導入の政策を 打ち出した。これに対する各地の反対運動が導火線となって、同年10月の辛亥革命が起き、ついに 中国最後の王朝である清朝の滅亡に至った。 以上、近代日中における鉄道建設の概況を振り返ってみてきたので、ここで鉄道建設過程に見ら れる日中両国間の差異をまとめておこう。 まず第1は、近代交通手段としての鉄道は、日中両国において、ほぼ同じ時期に導入されたにも かかわらず、中国は日本と比べて、その発展が大幅に遅れた。日本の場合、1872年新橋・横浜間の 官営鉄道が開通して以降、官・民の手によって鉄道建設が順調に延びた。一方中国では、1876年 (日本にわずか4年遅れて)に早くも最初の鉄道が外国人によって敷設されたが、翌年に廃止され た。その後1880年代から洋務派が鉄道建設を推進しようとしたが、結果的には停滞したままであっ た。1900年の時点において、日本では鉄道営業距離がすでに7,000キロメートルにまで達し、全国 幹線鉄道網がほぼ形成された状態であったが、中国では、鉄道営業距離は700キロメートルしかな かった(図2)。 第2に、日中両国に鉄道が導入された時点、欧米において鉄道はすでに陸上交通機関の中心を占 めるほどにまで発達していた。これに対して、日中両国においては鉄道建設の技術となる土木技術 や車輌制作技術などが、まだ未発達であり、独自で鉄道を建設することは不可能であった点、共通 している。また鉄道建設の動きが、日中ともに外国人による建設計画への対応から始まったことも 共通である。しかしこのように共通する初期条件の下で、両国政府の対応(政策)は異なり、この
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0 図2 近代中国における鉄道営業距離の推移(1881∼1911年)旙榊蝉一“令N CN・いぷいいぷ◇年度i
[−i”一三国有鉄道一◆一良営鉄這→←外国経営鉄這1 (資料)都[2005]表1により作成。 結果、その後の発展過程は大きく異なることになった。 日本の場合は、明治政府は諸外国人からの出資、建設、経営の一括にして担当する「外国人管轄 方式」の鉄道建設構想を拒否し、自国の力 自国管轄方式一で鉄道建設をしようとした。そし て最初の段階でこそ鉄道建設において外国技術に依存したが、短時日のうちに鉄道建設の主導権を 握り、外国技術の代替に成功した。一方中国では、当初は外国人による鉄道建設に反対したものの、 その後1890年以降になると、列強による圧力もあって、鉄道建設は資金、技術、経営など全面的に 外国に依存することになった。1905年の時点で、中国の鉄道営業距離の中には、外国経営鉄道が4 割以上を占め、官営鉄道も資金面、技術面で外国からの借款と外国人技術者にほぼ依存していた。 日本と比べて、鉄道建設において、その建設と経営に直接・間接的に諸外国の支配を受けたことが、 近代中国の鉄道建設における大きな特徴であろう。 かくして、日本と比較した際に、近代中国における鉄道発達水準の後進性の原因は、その建設と 経営に関して直接・間接的に諸外国の支配を受けていたという点にあるように見える。このことは 民間鉄道の未発達と表裏の関係にあると考えられる。つまり、近代日本における鉄道網建設は、政 府主導の下、政府の政策に対する民間からの強いレスポンスー民営鉄道の存在と発展に支えられて 完成したのである。これは近代中国が経験しなかったものであり、中国において鉄道建設が遅れた 原因の少くとも一部は、ここに求められると考える。そして両者の相違の原因を究明するために、 以下第3節では、明治20年代後半から30年代末まで(いわば第2次鉄道ブーム時期)に、民間によ り出願・建設された阪鶴鉄道をとりあげ、その建設をめぐる政府と民間の動向を検討し、近代日本 における民営鉄道建設の実態と特質を、具体例に即して調べていくことにしたい。3 阪鶴鉄道の建設をめぐる政府と民間の動向
本節で考察の対象とする阪鶴鉄道は、明治20年代後半から30年代末までに建設された大阪と舞鶴 を結ぶ「南北両海港横断連絡鉄道」(現JR福知山線、尼崎・福知山・舞鶴間)である。阪鶴鉄道を 取り上げた理由としては以下の2点が挙げられる。 第1に、明治期の鉄道建設における政府と民間の関係を分析する際阪鶴鉄道はいい素材である。 近代日中のような「特許型」1?鉄道建設システムの下では、その敷設線路や建設主体を選択するに 際して、国家と民間双方の現状認識及びそれに基づく意志決定が深く関わっている。阪鶴鉄道の出 願、建設においては、京・阪・神地方の商工業の利害と、国家の軍事的要請が絡み合い、その決定 までに迂余曲折を経た。つまり、最初は民間による敷設運動が起き、その後鉄道敷設法の官設比較 線をめぐる争いを経て、民営の阪鶴線はそれに敗北した。その後、再び民営鉄道建設の計画が出願 され、政府がこれを認めて、結局民間の手によって完成されたのである。 第2に、阪鶴鉄道が当時民間から出てきた全国鉄道網建設構想に基づいて、出願、建設された稀 有の例である点である。すなわち、初期鉄道技術者として活躍し、その後阪鶴鉄道の技師長、社長 になった南清は、明治30年代に独自の立場から、政府の鉄道網構想と対立する全国鉄道網構想を打 ち出した1s。南清の鉄道網構想と阪鶴鉄道の設立とでは、時期的に前後10年ほどのズレがあるが、 大阪と北陸幹線に繋がる阪鶴鉄道は、南清の鉄道網構想の中に重要な位置を占めることは変わりが ないし、南の構想自体、後述のように、阪鶴鉄道のそれまでの計画に内在していた鉄道網構想を陽 表的に体系化したものと見ることもできる。 以上の理由から、本節では阪鶴鉄道を取り上げ、分析を進めることにしたい。 3.1 阪鶴鉄道建設の胎動 民間における京阪神地域と舞鶴を結ぶ鉄道建設の動き 京阪神地域から舞鶴港に達する鉄道建設計画は、まず民間側から起こった。 明治7年5月大阪・神戸間官設鉄道の開通により大阪と神戸という経済活動の要地が結び付き、 両地の商工業・貿易拡大を通じて周辺地域の産業経済の近代化が進められることになった。この官 設鉄道の開通はただ単に阪神両地間だけではなく、その沿線・後背地にも順次影響をもたらした。阪 神間は古くから摂津平野の農村地帯を基盤とした経済的先進地であり、集落や交通路もよく発達し、 商品流通もさかんであった。こうした近世以来の在地産業が、鉄道という強力な輸送機関のもたら す経済効果に直接に刺激され、鉄道と積極的に結び付こうとする動きが各地で見られた。当時地元 ]7 Is イギリスが個々の資本家にある「分散型」に対して、日本の鉄道網建設がフランスのように国家によりコ ントロールされている「特許型」と特徴づけている。これについては、佐藤[1988]を参照。 南清は当時の政府の鉄道政策を批判し、商工立国主義の視点から、大阪を中心とする鉄道網構想を提出し た。詳しくは「南清伝」(『明治期鉄道史資料』第1期第2集(5))を参照されたい。の実業者であった酒造家小西一族(兵庫県川辺郡伊丹町)の動きは、その中でも顕著な一例である。 小西新右衛門は、すでに神戸以西へ伸びる鉄道の将来に着目して山陽鉄道の発起人に名を連ねて いたが、さらにそれらの幹線体系と自己の企業拠点とを直結するかたちで、明治20年4月、小西壮 二郎ほか13名を発起人として川辺馬車鉄道会社を設立した。川辺馬車鉄道は、資本金10万円、株数 2000株のうち、酒造業として名のある伊丹町の新右衛門自身が504株、同じく武庫郡今津町鷲尾久 太郎が408株を保有し、この2人だけで半数近くを占めていた。この顔ぶれからは、彼らの起業動 機が酒の輸送を目的としていたことが推測される。しかし、この馬車鉄道は営業収支がともなわな いため、根本的な改善を意図して動力を蒸気に改め、路線も延長して、三田・篠山・福知山を経て 舞鶴に至る「摂丹鉄道」を計画し、明治20年に出願した。つまり、小西らは当時の鉄道起業熱の波 に乗って、自分達の経営する鉄道を幹線鉄道に脱皮させようとしたのである。この摂丹鉄道の発起 人たちは、その後阪鶴鉄道を出願する際にも有力なメンバーとして名を連ねている。 明治20(1887)年5月に公布された「私設鉄道条例」は、国家統制のもとに、積極的に私有鉄道 の設置を認めたものであった。これを受けて、阪神地区においても私鉄建設計画は一層活発化した。 特にその前年(明治19)、海軍区の設定が海軍条例によって制定され、第四海軍区鎮守府の有力な 候補地として舞鶴が登場すると]9、京・阪・神地区から舞鶴を目指す鉄道が、明治22年に相次いで 計画された(表2)。 表2によれば、明治22年4月から6月にわたって出願された私鉄は6社である。これは近畿地域 における第1次私鉄ブームということができる。これら計画はいずれも京阪神地方と舞鶴港を連絡 することを目的とする鉄道であったが、舞鶴鎮守府を目指す軍事的意義ばかりでなく、当時の工業 化の進展にともなって、後背地域としての山陰地域と京・阪・神市場圏を結ぶ、つまり都市と周辺 の生産地とを結ぶ商品流通経路の拡大を目指すものでもあった。なぜならば、従来北陸・山陰の物 資を京阪神に運ぶには、陸路および琵琶湖を経由する以外は、遠く下関を迂回して瀬戸内海に入る コースをとっていたので、汽船で2週間、帆船では50日も要していた。これを鉄道で結べば、わず か5時間に短縮されるのであるから、その経済的意義は計り知れないほど大きかったのである2°。 前述のように、1885年以前の段階では、政府が民営鉄道設立を許可するに際しては、まず鉄道局 に諮詞するのが通例となっていた。そして鉄道官設を主張し続けていた鉄道局長官井上勝は、これ ら民設6社の出願に対して、出願者達の事業計画はすべて不完全であり、収支見込みの困難な点を 疑問とし、政府に対してこれら申請を全部却下すべきである旨を答申した。政府もまたこれをうけ てこれらの申請を却下した。こうして、阪神地域で林立競合した鉄道敷設の争いは、一社の許可も ]9 @舞鶴鎮守府の決定は明治22年5月28日、開庁は明治34年10月1日。 L° @当時、日本海側への鉄道としては、官設鉄道敦賀線があったが、これは岐阜・名古屋に連なる鉄道であっ た。敦賀が大阪につながるのは湖東線の完成した明治22年7月以後のことである。
表 2 京阪神と舞鶴を結び鉄道建設計画(明治22年) 会社名 出願者 経 路 播丹鉄道 藤田高之 飾磨・山野・福知山・舞鶴 舞鶴鉄道 土居通夫 大阪・池田・園部・舞鶴 摂丹鉄道 小西壮二郎 神崎・福知山・舞鶴(後山陰鉄道と改称) 舞鶴鉄道 磯野小右衛門 大阪・池田・綾部・舞鶴 京都鉄道 市田里八 京都・亀岡・園部・舞鶴 南北鉄道 土居源三郎 加古川・加東・多加・氷上・天田・舞鶴 (資料)福知山鉄道管理局[1972]より作成。 なくこの時は消滅したのである。 一方、この時期、国家の側では次第に全国的な鉄道網の建設が考えられる段階に達し、北陸・近 畿・山陰地方に対しても、この観点からようやく具体的な検討が加えられ始めた。その一環として、 日本海における海軍の活動の中心地としての舞鶴港と京阪神地方を結ぶ鉄道の建設を、政府は軍事 的観点からも重視するようになった。そして、1892年6月に公布された「鉄道敷設法」では、「第 一期間二於テ其ノ実測及敷設二着手スル」ものとして、近畿予定線のうち「京都府下京都ヨリ舞鶴 二至ル鉄道若ハ兵庫県土山ヨリ京都府下福知山ヲ経テ舞鶴二至ル鉄道」21も設定され、この路線を 国家の手によって建設する方針が示された。 以上のように、明治20年代以降民間および国家が様々な立場から、太平洋と日本海とを連絡する 手段として、舞鶴港と京阪神各地を繋ぐ鉄道を重視し、その建設が日程にのぼるに至ったのである。 しかし、「鉄道敷設法」では、「京鶴線」と「土鶴線」の2ルートを比較線として設定したために、 その取捨選択をめぐって、京都・大阪・兵庫各地方の利害関係が錯綜、激しい競争が繰り広げられ た。 3.2 鉄道敷設法に対する民間の対応:その一 官設比較線の選択 京鶴線と土鶴線の争い 前述のように、明治20年代初めから京阪神地方と舞鶴港の南北連絡鉄道を計画する私鉄会社がい くつかあったが、いずれも実現せず、政府は「鉄道敷設法」によって、官鉄として建設を遂行しよ うとした。このような政府の動きに対応し、民間側では、一転して、鉄道民設のかわりに積極的に 官鉄を誘致しようとする運動が高まっていった。とくに第1期予定線の中に「京鶴線」と「土鶴 線」が比較線の形で指定されたために、この両比較線をめぐって、京都と神戸の経済的利害が激し く対立することになった。つまり路線選択をめぐって激しい競争が演じられた。 京都側では維新以後低下しつつあった経済パフォーマンスの向上をはかるため、「第一期中二敷 2i S道省[1921]上編、960ページ。
設セラルヘキ舞鶴二達スル舞鶴線ハ我府下ノ盛衰二係ル大ナルモノアル」との立場から、とくに京 都市と三丹地方との経済的な繋がりに注目、「鉄道敷設法二於テ舞鶴二達スル路線ハ軍事ト経済ト 京都ヲ以テ起点トナスノ現在及将来二必要欠クヘカラサルコトヲ認定セラレタル」22と結論し、京 都市の有志や京都商工同盟会のような地方財界を中心に、京鶴線の速成運動を積極的に推進した。 これに対して、神戸商業会議所は、「須らく東洋貿易交通の活勢を熟察し速に土鶴線を選択し国家 百年の大計を定めること洵に方今の一大急務なるへし」23と、専ら開港場神戸の利害から土鶴線の 建設を主張した。 こうした京鶴・土鶴の争いに決着がついたのは鉄道会議の決定であった。明治26年2月、鉄道会 議では、「従来の山陰地方と京都との関係を聞くと、どうも土山へ出るより京都の関係のほうが厚 い……また陸軍の政府委員が京都よりの線を弁じ……」24という経済的、軍事的理由から、京鶴線 を採択したのである。しかし、この京鶴・土鶴の比較線路に見られた対立は、次に登場する私鉄、 京都鉄道と阪鶴鉄道との対立の素地をつくっていたのである。 3.3 鉄道敷設法に対する民間の対応;その二 民設の要求一京都鉄道と阪鶴鉄道の競願 京鶴・土鶴の争いは鉄道敷設法の予定線、比較線をめぐる争いであったが、鉄道会議による「京 鶴線」の決定案の帝国議会通過が遅れている間に、民間から舞鶴港をめざす私鉄建設の動きが再燃 した。これは当時の京・阪・神の経済にとって、舞鶴港との連絡が重要であったためである。明治 26年、経済界が好況に転じるに伴い、舞鶴港との連絡鉄道を速成するため、官設を待たず早急に私 鉄によって民間の手で敷設すべしという主張はますます高まった(表3)。 明治26年7月、京都商工会議所は田中源太郎らの発議により私設鉄道敷設を提案、満場一致で、 「京都鉄道会社」を創立することが協議決定された。同社は資本金600万円を以って、京都∼綾部 ∼舞鶴∼宮津に至る鉄道の免許を申請した(これはJR山陰本線の前身である)。 こうした京都側の動きにたいして、同年8月、既成の摂丹鉄道会社の主要株主小西新右衛門(前 出)らは、住友吉左衛門・田中市兵衛らの大阪財界や丹波・但馬地方の有力者を糾合し、「阪鶴鉄 道会社」を設立し、資本金400万円をもって、大阪∼神崎∼池田∼福知山∼舞鶴を結ぶ鉄道を申請 した。 しかし、この申請にあたっては、大阪側には別の動きも見られた。京都鉄道が政官界に強い力を 持っているのに対して、阪鶴は大阪の財力を引き入れたわけであるが、もともと阪鶴鉄道の主流は ?2@鍬本[1892]。 23@ 山本 [1892]。 2‘ @「第5回鉄道会議議事速記録」(r明治期鉄道史資料』第rl期第2集(1))を参照。
表3 京阪神地域と舞鶴を結び鉄道建設計画(明治26年) 会社名 出願者 経 路 出願年月 京都鉄道 小室信夫 京都・綾部・舞鶴 明治26年7月14日 阪鶴鉄道 住友吉左衛門 大阪・三田・篠山・福知山・園部・舞鶴 明治26年8月1日 摂丹鉄道 岡橋治助 大阪・池田・本梅・園部・船岡・舞鶴 明治26年8月14日 摂丹鉄道 小西新右衛門 小戸村・園部・生瀬・三田 不詳 (資料)福知山鉄道管理局[1972]より作成。 兵庫県の勢力であった25。つまり、兵庫県側が京都鉄道に対抗するために大阪の住友等の財力を引 き入れたのである。阪鶴鉄道の起点は大阪ということになっているけれども、三田・神田間に支線 を分線すれば、阪鶴鉄道の主要な機能はたちまち神戸に移ってしまう。大阪府・市会は、阪鶴鉄道 の延長により、将来山陰・北陸の商品流通の主導権を神戸に独占されるという懸念を持ち、阪鶴鉄 道の設立に反対した。彼らは以上のような認識から、大阪自身の鉄道会社として「摂丹鉄道」を出 願した。要するに、官設比較線が、「京鶴線」を決めているにもかかわらず、民間では、阪神地域 と舞鶴港を連絡することをめざす、いわば京阪神地域第2の私設鉄道ブームが起こったのである。 さて、こうして「土鶴」の後継路線として登場した「阪鶴」は「京鶴」の後継路線である「京都 鉄道」と激しい免許争いを演じた。両者それぞれの主張する論拠には、鉄道建設にたいする当時の 民間の考え方が反映している。次にこの点について調べよう。 京都鉄道の起業動機としては、京都市場と三丹機業地との直結が目的とされている。これは当時 における京都の経済的衰退状況を挽回しようとする意図とむすびついている。すでに明治22 (1889)年、官設鉄道湖東線(長浜∼大津間)の開通によって東海道線が完成し、先に開通した敦 賀線(長浜∼敦賀間)と連絡することによって、尾濃加越の物資は東京に流れ、江州の貨物は京都 を素通りして大阪に集まることになった。つまり、鉄道により商品流通の中心は東京・大阪に移っ た。さらに大阪鉄道の開業(明治25年)により京都府南部や奈良県の物産も大阪へ流れてしまい、 京都は疎外されるようになった。こうした鉄道の開通による商品流通経路の変化によって、京都か ら見て東南方面諸地域は京都との経済関係を失い、このことによって京都の市場機能は著しく低下 したと当時の京都財界は認識していだ6。このような状況の中で、京都鉄道は京鶴ルートの鉄道建 設によって、京都から西北方面の山陰や、福井県各地方との商品流通の中心的位置を確保すること を目標とした。京都商業会議所の月報には、つまり、京都鉄道は「京都市とその後背地とを直結し て地元産業の振興をはかり、ひいて山陰への縦貫ルートとして全国的幹線鉄道体系の一環」Z7を占 めるという目的をもって創立されたものである。さらに軍事面では東京と舞鶴とを結ぶ最短経路で 15 @日本国有鉄道[1959]第4巻を参照。 ’t’ @「京都鉄道趣意書」『地方鉄道意見集』を参照。 eア @日本国有鉄道[1959]443ページ。
あること、外敵の大阪湾進入に際しては、阪鶴鉄道線は海岸に近いため、艦砲射撃を受ける危険が あるのに対して、京都は海岸に面していない唯一の大都市として、外敵の直接的進入の危険が少な く、舞鶴軍港と直結して作戦基地となり得ることも、その出願理由とされた。 これに対し、阪鶴鉄道側は「大阪ハ我国商業ノ中心ニシテ水陸輻綾ノ地殊二師団本営ノアル経済 上軍事上共二必由ノ所」2Sと、経済・軍事両面での重要性を強調して、阪鶴鉄道の建設を出願して いる。その要旨をまとめるなら、次のようである。 ①大阪を中心とする鉄道網は、すでに阪堺・大阪・関西等の私設鉄道によって、東南方向への発 展はみるべきものがあるが、独り西北方向への鉄道を欠いている。 ②「鉄道敷設法」に示された予定線路に、大阪を起点とする線路の一線もないのは不可解である。 これは恐らく生瀬∼三田間に敷設困難な所があるためであろうが、当社は1/80勾配の地を発見 し、敷設可能となった。これは京都鉄道の最急勾配1/60より緩やかである。 ③沿線について見ると、京都鉄道のそれはわずかに亀岡・園部の二ヶ所が市街をなすのみで、他 は「人煙稀」であるのに対して、阪鶴線は伊丹・池田・湯山・三田・篠山・柏原・福知山等の 市街地多く、戸口物産に富み、その経済上の価値は京都鉄道の比ではない。 ④軍事的にも第四師団と舞鶴鎮守府とを直接に連結する重要な線路である。 こう見ると、大阪と舞鶴を結ぶ南北両港連絡鉄道の実現を目指す阪鶴は、まさに大阪を中心にし た商品流通体系の整備、すなわち大阪市場圏の拡大をはかったものといえよう。これについて、後 に阪鶴鉄道社長となる南清は、「阪鶴鉄道の真価」において次のように述べている。 「従来物資集散の趨勢は京都七分大阪三分の比例に在りしが今や一変して十中の八九は大阪に向 ふに至れり由来大阪は本邦商業の中枢筍も運輸交通の便を有するの地は其物資を挙げてこれに集注 せしむるは素より自然の勢にして今日まで運輸機関の不備なりしため一時の変態を呈したるに過ぎ ず今後舞鶴線連絡の上は西は伯州より東は越前に至る北岸一帯百里の地は其輪出入貨物のほとんど 全部を移して阪鶴線に託送するに至らん」29 すなわち、阪鶴鉄道ルートの完成によって、山陰・北陸地方の経済が大阪市場の支配下に入るこ とが期待されていたのである。また南清の全国鉄道網の構想の中では、この阪鶴鉄道の建設によっ て阪神地域が北陸幹線(「大北鉄道」)と結びつき、北海道と大阪・神戸間の運輸機関として、さら に東露のシベリア鉄道とも連絡することが考えられていた。つまり阪鶴鉄道は、南によって世界的 交通機関として、国内市場と国際市場の形成に対して重要な位置付けを与えられていたのである。 かくして、京都鉄道と阪鶴鉄道いずれも軍事・経済上の観点から、その地方に鉄道を建設するこ とが有利であるという結論を出していた。しかもその論旨は、軍事上の利点を挙げて、鉄道の公共 t8 @日本国有鉄道[1959]第4巻、451ページ。 「e @「南清伝」(『明治期鉄道史資料』第1期第2集(5))、278ページ。
性を強調しているにもかかわらず、実質的には鉄道建設の経済的効果をねらっており、つまり輸送 機関の近代化によって、地元産業の振興と地方市場圏の拡大を意図していた。これは当時における 紡績・製糸その他の軽工業産業部門で、急速に産業革命が進行したことに伴って生じた都市とその 周辺の生産地とを結ぶ商品流通経路の拡張という経済的な要請に、ある程度対応していると考えら れる。 しかし、阪鶴・京都の両鉄道を比較してみると、起業動機と運動を担う主体などの点で、少し違 う点がある。 京都鉄道は京都府・京都市・市商工会議所及び東京在住華士族によって、地元産業の発展と維新 以来低下しつつあった京都の政治・経済地位を挽回することを意図していた。京都鉄道の創立時に おける株主構成を見ると、京都出身で東京に在住する華士族株主がかなりの割合を占めている3°。 京都鉄道が強力な政治的影響力を持つが、相対的に弱い資金調達力しか持ち得なかったことが推察 される。 一方、阪鶴鉄道は、推進主体は主として鉄道に自ら営業上の利害を有する地方実業家(前述の酒 造業者小西新右衛門など)と財界有力者(住友など)であり、鉄道建設による地元産業の振興と市 場圏の拡大を意図していた。この財力は政官界での劣勢をはね返し、その後の鉄道敷設に実力を発 揮することになる。 3.4 民間の動きに対する政府の対応: 一鉄道会議による民設出願の許可 前述のように、鉄道会議は「鉄道敷設法」公布によって定められた制度で、関係(鉄道)大臣の 行政執行上の最高顧問(諮問)機関であり、鉄道建設の順序の決定、私鉄免許付与の可否など、鉄 道に関する政府の諸諮詞に答えるものである。したがって、鉄道会議の決定は当時の政府による鉄 道建設に関する見方をある程度代表すると言える。 さて、阪鶴鉄道、京都鉄道の鉄道敷設の願書は明治27年5月8日逓信大臣から諮詞され、同月9 日の鉄道会議において審議された。鉄道会議では議論百出、討論は長時間に及んだが、ここで阪鶴、 京都両鉄道に関する部分を要約してみよう3]。 1)私設か官設か:鉄道官僚で井上勝とも近い立場にあった仙石貢議員は次のような趣旨の意見 を述べた。この舞鶴軍港に達する線路は「鉄道敷設法」中の第1期着工線路であり、それだけ 重要であるが、私設の場合、経済上の変動によって起こったり止めたりすることになり不都合 である。この鉄道は速成のために当然官設として建設する性質の線路であるから、「原案を否 3° @老川[1983]、42ページ。 31 @『第4回鉄道会議議事速記録』(『明治期鉄道史資料』第II期第2集(1))。
決して政府でやることを希望する」。 これに対して、箕浦勝人議員は「私設としても軍事に於いても先つ可成りの目的を達する」 から、当時民間から強い鉄道敷設意欲と政府の財政状況を考えると、「此鉄道の国有にする必 要はない」と民間の手によって建設すべきだと主張した。 当時の趨勢あるいは政府の意向は、次第に私設許可の方向にむいていた。そのため、この仙 石貢議員の官設論も強い影響力を持たず、鉄道会議における採択でも少数意見として否決さ れた。 2)阪鶴ルートか京鶴ルートか:箕浦議員などは経済上・殖産興業の視点から、舞鶴は「軍港で もできる、商港でもできる」から、もし大阪と舞鶴とを連絡すれば、山陰地方はもちろん、 「北海道・大阪の関係今日より余程頻繁」になることが見込めるとし、これにより「鉄道進歩 も発達し、国の殖産のことが発達し、経済の事情が進んできます」と経済的発展の観点からも 阪鶴線の採決を主張する。 しかし、寺内正毅議員は軍部の代表として、次の意見を述べた。舞鶴港は鎮守府として日本 海方面随一の海軍基地であり、国防上枢要であるので鉄道による後方連絡は急務である。阪 鶴鉄道の計画ももちろんこの要請に応じる一面を含むものであるが、軍事上の立場から、大 阪を起点とすれば「一朝有事」の際敵艦隊の急襲をうけるおそれがある。それゆえ安全度の 高い京鶴線を優先させるべきである、つまり、「私設にしても軍事目的から京鶴線を敷設する ことを希望する」。これは、明治18年に東西両京の連絡線計画に際し、軍部が中山鉄道に固執 したのと同じ理由である。 この両線をめぐり鉄道会議では、論議を延々と続行したが、採決の結果「諮詞を修正して、京都 鉄道に福知山・和田山間も許可し、阪鶴鉄道は次の会期まで保留」という決議になった。 このような形勢の不利をみた阪鶴鉄道発起人は、同年5月11日出願路線を修正して、急遽出願を して、免許条件の好転を図った。つまり、もともとの出願路線のうち、福知山∼舞鶴間は京都鉄道 会社に許可するため、また大阪∼神崎間は官設鉄道と並行するため、敷設線路を神崎∼福知山間に 修正した。この出願にたいして、政府は同年同月に仮免許を与えた。 3.5 阪鶴鉄道の建設 こうして阪鶴鉄道は、首尾を奪われた厳しい条件でスタートしたが、その後まもなく日清戦争が おこり、軍事輸送面で鉄道の役割の重大さが一般に認識され、さらに日清戦争後景気が産業を活気 づけた。これに好機を得た阪鶴鉄道も明治28年10月18日創立総会を開催し、土居通夫が社長に就任 した。翌29年4月ようやく免許状を受けた阪鶴鉄道は、当時欧米における鉄道事業を視察して、帰 国したばかりの山陽鉄道会計師長南清を総顧問として招聴(明治30年4月から社長に就任)するな
どスタッフの強化をはかって、実地測量、株式の募集などを順調に進めていった。 明治30(1897)年下半期には、いわゆる第二次恐慌がおこり、阪鶴鉄道会社は株式募集に支障を 来すなど大きな困難もあったが、敷設工事を着々と進め、明治32(1899)年7月15日、ついに福知山 までの工事を完了した。ここに阪鶴鉄道はわずか2年余の時間で、認可された全区間(神崎∼福知 山、約110キロメートル)の工事を完成したのであった。阪鶴は、その敷設権争いでは京都鉄道に 一歩譲ったが、工事速成においてそれを挽回したということができよう。 阪鶴鉄道はその後、鉄道作業局との契約によって、神崎・大阪間の官線への列車乗入れを認めら れ、ここに大阪・福知山間の直通列車を走らせることになった。大阪・福知山間の所要時間は、上 り5時間弱、下り5時間強であった。阪鶴鉄道の開通によって沿線地方の商品流通、人員流動は活 発化し、鉄道に伴う新事業も起こった。「福知山・大阪間開通せしにより日夜7回つつ発着あり、 福知山は乗客・貨物等の利便多くなり、したがって景気もいっそう良く、なかでも運送店、旅人宿、 人力車夫等は収入を増加し停車場付近は続々家屋を建築」32したという。鉄道の開通が沿線地域の 社会・経済に及ぼした影響が大きかったことが推測できよう。 さて、阪鶴鉄道の当初の起業目的としては、大阪と舞鶴南北両港を結ぶ鉄道によって、山陰・北 陸地方経済が大阪市場圏に入ることをめざしていたが、結果的には、神崎・福知山間だけの建設許 可を得て、福知山・舞鶴間は京都鉄道によって連絡することになったことはすでに述べた。ところ が免許獲得競争において阪鶴に一歩先んじた京都鉄道は、阪鶴鉄道が福知山まで建設した時点で、 ようやく京都・園部間のみを竣功しただけで、それより先の建設は進まなかった。同社の経営は恐 慌の影響を受けて頗る困難となり、もはや独力で京鶴ルートの促成を期することを得ないとして、 政府に補助金の申請をしなければならない状況にたち至っだ3。 こういう事情から、阪鶴鉄道が京都鉄道によって舞鶴港に結び付くことは困難と判断し、同社は 明治33年12月、自力によって舞鶴あるいは宮津に至る鉄道敷設を企図して、緊急稟請書を提出した。 この願書では「大阪市を我国中央に於ける軍事上の中枢と為す以上は直接に大阪と舞鶴軍港との連 絡を促成せしむる必要は申迄もなく商工業の利害関係等より観察するも大阪より舞鶴並びに宮津に 直達する鉄道の敷設は目下最大急務」と軍事上の理由を前面に押し出して、「福知山舞鶴間を急速 に接続せしむるため本会社当初申請之通り福知山以北の線路を此際本会社へ御許可被成下大阪舞鶴 間を一貫して鉄道経営を全ふせしめられ度左すれば本会社は全力を麦に集注して一気呵成に此線区 を促成」3することを申請した。しかし政府はこれを聞き入れず却下した。この後、阪鶴はその敷 設コースを修正し、福知山より園部・舞鶴を経て、軍港地余部に至る延長敷設を明治35年10月に出 32 @福知山鉄道管理局史[1972]、133ページ。 33 @伴 [1901]。 34 @「南清伝」(『明治期鉄道史資料』第1期第2集(5))、316∼318ページ。
願したが、これもまたその4月に却下された。 その却下の理由については、以下のように見ることができる。当時日露の関係が悪化していたた め、政府は軍事的必要から、舞鶴軍港に至る鉄道の敷設を急いだので、この線を私設によって建設 する政策を変更し、官設によって舞鶴線を建設することを決定したのである。京都鉄道が敷設した 鉄道を園部から延長して舞鶴へつなぐことは距離的に遠く、それよりもすでに福知山まで完成して いる阪鶴鉄道によって、大阪・舞鶴間の連絡をとることが有利として、福知山・舞鶴間の鉄道が、 官側の手によって起工された。 明治37年の日露戦争開戦を契機に、軍事的に重要な舞鶴線の建設は一層促進され、11月には官設 福知山・新舞鶴間(約39キロメートル)が開通した。これと同時に、その前年から施工されていた 阪鶴鉄道福知山駅から官設鉄道の福知山駅に至る連絡線路も竣工した。これにより事実上、官設舞 鶴鉄道線は阪鶴鉄道の延長線路となるため、短距離区間でもあり、かつ他の官設線路とのつながり を持たないため、鉄道作業局では管理運営の便宜上、同線の経営を接続線たる阪鶴鉄道に委託する ことにし、明治37年10月に年額14,000円の借用料で3年間の貸与契約を行った。 こうして阪鶴鉄道は、明治37年11月3日借受官線の営業を開始、大阪・新舞鶴間を両端部分のみ 官設鉄道乗り入れという形ではあるが、5時間で結ぶ直通列車を運転することになり、ここにおい て久しく求め続けた大阪・舞鶴間連絡の実を備えるに至ったのである。 官設舞鶴線の賃借による大阪・舞鶴ルートが完成し、阪鶴鉄道の経営基礎が固まり、営業成績も 漸次好転している35。しかし、明治39(1906)年3月、「鉄道国有化法」が公布された。この法律 により、阪鶴鉄道も全国主要私鉄17社のうちに数えられ、国有化の対象となった。こうした情勢に 対して、当時の阪鶴鉄道会社社長田艇吉は長文の陳情書を提出し、買収から阪鶴鉄道を除外して欲 しいと請願したが、結局翌40年8月阪鶴鉄道は、同社鉄道および兼業に属する海運関係の資産を合 わせて買収された。こうして阪鶴鉄道は、競願・建設10年余間の民営鉄道としての歴史に幕を閉じ たのである。 最後に本節の内容を簡単に整理しておこう。 明治20年代末から30年代にかけて、工業化の進展を背景に、様々な勢力が鉄道建設に対する関心 を強めた。この段階で、論議の中心は、個々の路線の可否ではなく、全国的運輸システムとしての 鉄道建設、すなわち鉄道網形成のあり方について、路線の選定一どこに鉄道を敷設すべきか一や建 設の主体一誰がどのように鉄道を敷設すべきか一などに移行した。これをめぐって、政府と民間、 また政府内部(軍部・政府官僚)の問、各地域間に様々の要求、利害が生まれた。鉄道敷設法の成 35 @同時期の他の私鉄と比較すると、政府から与えられた長期の補助金があった私有鉄道(日本・山陽・九 州・北海道鉄道など)を除けば、阪鶴鉄道の年間利益率はかなり良好だった。例えば、明治36年に阪鶴の 5.0%に対して、京都は3、5%、北越は4.7%、岩越は2.7%であった。富永[1953]、184ページを参照。
立は、それらの要求や動向が互いにからみあって、対立、折衷した結果と言える。 本節で取り上げた阪鶴鉄道で見られたように、その建設をめぐって始終貫いているのは、①政府 側の政治・軍事的関心に基づいた意図と、②民間側による地域振興等の経済的要請との対立であっ た。「鉄道敷設法」による「土鶴」・「京鶴」比較線の取捨選択、その後私設による「阪鶴」・「京 都」両線の競願において、政府はいずれも軍事的理由から京都∼舞鶴ルートを選択した。しかし、 民間側から見ると、神戸・大阪・京都いずれにしても鉄道建設の経済的効果をねらっており、輸送 機関の近代化によって、地元産業の振興と地方市場圏の拡大を意図していた。阪鶴鉄道の建設は、 このような民間側からの推進により、官民双方が時に対立する(出願の許可をめぐる)と共に、時 に互いに利用しあう(官設線の民間への賃与など)といった形で達成されたのである。 また民間側の動きに対応して、政府の政策も随時変わっていった。つまり、鉄道建設をめぐって 政府と民間の間では、民間側が単に政府の政策に対して受動的に「レスポンス」するだけではなく、 時には民間の動きが政府の意思決定に影響することもあったのである。政府による「鉄道敷設法」 においては、「帝国二必要ナル鉄道」の一環として、京阪神地域と舞鶴港との横断鉄道は第一期予 定線に設定されており、国家の手による建設が企てられていたが、民間からの建設要求によりそれ を変更させ、「遂に敷設の速成を切望する私設鉄道を可するに帰着し」’36た。つまり、民間側の鉄 道建設に対する積極的な意欲に応じて、政府も民間の手による鉄道網建設を認めざるを得ないこと になった。言い換えれば、官民双方の相互対応によって、政府の鉄道政策も変化し、その変化に 伴って鉄道網建設が進んでいくのである。 かくして、明治期における鉄道建設の特質は、従来の研究で捉えられた政府により「上から」、 あるいは民間により「下から」の一方的なものではなく、官民双方の相互対立、折衷、対応の「双 向的な」過程であったのである。すなわち、政治・軍事的目的に主眼をおき、鉄道政策の主導権を 把握する明治政府と、経済開発・地域産業の振興を指向する民間側は相互対応しつつも、政府は民 間の力をうまく組織・利用することによって、はじめて全国的な鉄道網を建設し得たのである。こ のシステマティックな関係こそ、近代中国にはついに見られなかった明治期日本における鉄道網建 設の特徴であり、また近代日中における鉄道建設が異なる道を歩んだ根本的な原因でもあると考え る。 4 おわりに 19世紀60年代以降、日中両国では、ともに「西欧の衝撃」をきっかけに、それぞれに近代産業や 近代技術の導入を中心とする近代化改革一明治維新と洋務運動が行われた。しかし、その後の経路 36 @伴 [1901]。
は両国で大きく異なることになった。日本では明治維新を経て、近代経済成長の始動に成功し、そ れ以降奇跡的とも言える経済発展を成し遂げた。それに対して中国では、洋務運動も中国の運命を 変えられず、近代経済成長の「離陸」はできなかった。 比較史的な視点から、このような日中両国における経済近代化の成否の原因を究明することは、 筆者の基本的な問題意識である。この日中比較研究の第一着手として、本稿では、日本の工業化の 始動期における鉄道建設を取り上げ、政府の政策に対する民間のレスポンスを分析し、B本の工業 化における政府と民間の関係の特質を探求することを試みた。それを通じて得られた主な結論を要 約しておきたい。 第1は、日本の鉄道網建設過程において、政府が果たした役割を看過することはできないが、そ れは民間側の強いレスポンスにより支えられ実現したという事実である。 本稿の分析で分かるように、近代日本における鉄道産業は、他の産業と同様、まず政府の手に よって導入され、官設の方式で開始した。官設鉄道は、国民に模範を示し、民間の投資意欲を引き 出したのである。政府はその後日本鉄道を始めとする民営鉄道に対して、技術、経営面で手厚い保 護を与え、建設計画に際しても強い行政指導などより民間を誘導した。以上のような事実を、民間 部門を中心として発展してきたイギリスなどの西欧諸国と比較するならば、日本の鉄道建設におい て政府が大きな役割を果たしたことは疑いがない。 しかし、このようにして政府主導で鉄道建設が推進されたことは、決して日本だけに特有なもの ではなく、同じ後発国である近代中国でも見られた共通現象であった。日中比較の視点から見れば、 その際日本に目立った特徴は、むしろ政府の誘導政策に対する民間側のレスポンスが大きかったと いう点である。 本稿で明らかにように、民間側鉄道建設の動きが、明治初期にも早くから見られた。人々は1870 年代を通じて鉄道建設の方途を模索し続け、多くの民営鉄道建設計画が出された。それら計画の多 くは実現しなかったものの、民間における意欲の強さは読みとられるであろう。そして日本鉄道の 例のように、民営鉄道の建設は、当初こそ経営、技術面が政府に依存していたものの、短時日のう ちに技術的自立を達成した。そして、その後、工業化の進展に伴い、1880年代半ば以降、2回の鉄 道建設ブームを経て、民営鉄道は日本鉄道網建設の主役となった。 以上のように、明治期における鉄道網建設は、政府主導の下、このように、政府の政策に対する 民間からの強いレスポンスー民営鉄道の存在と発展に支えられて完成したのである。これは近代中 国が経験しなかったものであり、中国において鉄道建設が遅れた原因の一部は、ここに求められる と考える。近代日本の経済発展過程における官民関係の特性を探求するに際しては、後発国に共通 な政府の役割を強調することより、むしろ、以上の比較から浮かび上がってくるような政府の政策 に対する民間からのレスポンスのあり方に着目すべきだと思う。