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タイ国における国民統合と仏教サンガの役割 [Buddhism and the National Integration of Thailand]

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東南 ア ジア研究 11巻3号 1973年12月 資料 ・研究 ノー ト

タイ国 にお け る国民統 合 と仏教 サ ンガの役割

井 米 堆 *

Buddhism andtheNationallnte皇ration ofThailand

by

YoneolsHII ギ ァツCliffordGeertzは,発 展途上 国の国民統合 を阻害す る 「分権 自治主義communaiism」 の根底 に,隣接居住,血縁 関係,特定の宗教団体-の出生 に基 づ く帰属、特有語 または方言 の 使用,特定 の社会的習慣 の遵守 など,人間が社会的に存在す る以 上かな らず与 え られ るところ の諸条件 に由来す る感情や愛着心 の存在 を認 め, これを 「根源 的 」感情 あるいは 「根源的」愛 着心 primordialsentiments,primordialattachmentsと呼んだ。1)ギ ァツは言 う。 「人 が 自己 の親族 ,隣人 ,信仰 を同 じくす る友 に対 し義務 を感 じるのは,かれが親族で あ り,隣人で あ り, 同信 の友 で あるとい う事実それ 自体 による。 それは個人的 な愛情 とか,実生活上 の必要 とか, 共通の利益 とか, あるいは義務 の強制 とかによ るもので はな く,大部分 はそのよ うな関係 それ 自体 の もつ,言葉ではあ らわ しきれないある種 の絶 対的重要性 による ものなのであ る。 そのよ うな 「根源 的」紐帯 の強 さ一二一そ してだい じなのはその紐帯 のタイプなのだが- は人 によ り, 社会 によ り, また時代 によ って一様ではない。 しか し, 実質的には誰 にで も, どんな社会 に も, そ して ほ とん どいつの場合 で も,社会的相互関係か らと言 うよ りは,む しろ自然発生的 な - あるいは精神的 と言 ったは うがいいか も知れない- 親和性か ら生 まれ る愛着心が存在す るよ うに思 われ る。」2) ギ ァツの指摘 した 「根源的感情」 ない し 「根源 的愛着心

は,発展途上国の構成民族 のそれ ぞれの内部 を強 く結合す る紐帯 の役 割を果 たす ことによ っていわゆ る 「分権 自治主義」を生 み

*

京都大学東南 アジア研究 セ ンター

1) CliffordGeertz,"Primordialsentimentsandcivilpoliticsinthenew states,"Geertz(ed.1,Oldsocieties a7Zdnew ∫taze∫.New York:TheFreePress,1963.pp.105-157.

2) Zbid.,p.110.

(2)

石 井 :タイ国における国民統 合 と仏教サ ンガの役割 出 し国民統合 を阻害す る。 その事例はイ ン ドにおけ る言語分布 に基 づ く州再 編成 の動 き,マ レ ー シアを構成す る民族間の権 利配分 問題 をめ ぐる紛 争な どの中に求 め られ るで あろ う。皮 肉な ことに,市民政治の伝統 を欠 く多 くの発 展途上国においては, 国民統合 のほ とん ど唯一 の契機 とな りうるもの もまた この 「根源的愛着心」であ るとい う矛盾 的状況が存在す る。ただ この場 合 も, もし優勢 な民族が,かれ ら固有 の 「根源 的愛着心」 を過 度 に強調す る時 は, それを共有 しない他 の構成民族 の反発をまね き, 国民統合 を崩壊- とみ ちび く危 険が発生 す る。 ビルマに おけ る仏教 国教化をめ ぐる一 連 の動 きは,その典型的なケース と見 ることがで きよ う。3) そ こ では ビルマ族 の 「根源的愛着心」 の 根源 で ある仏教 に与え られた特権的地位 が 総人 口の

1

5%

を 占める非仏教系民族 を して ビルマ 族主導型 の 国民統合 に 反発 させ る結果 を もた らしたので あ った。 周知 の とお り, タイ国においては, 仏教 と国王 とが, 国民統合 の二大 シンボル とされて い る。 このふたつ の シンボル は, タイ国旗 の中に視覚 化 され,4)さまざまな儀式 にお ける国旗 の 使用 を通 して, これ らの象徴 に由来す る 「根原的感情」が再生 産 され る。 タイ国の場令,仏教 と国王 とは,互 いに別個 の存在 と して あ るのではな く,国王はその支配 の正 当性 を仏教 の擁護 者 と しての資格 に負 うところが大 きい反面,仏教 は, その超世俗性 の持続的維持 を国家 の保護 に依存 してお り,両者 は相 即不離 の関係 にある。5) か くして, 国王 ・仏教 とい う象徴複合 はタ イ人 の 「根原的感情」を と りわ け強 く刺激す るにいた る。 タイ国は,東 南アジア諸因のなかでは,民族構成 の均質 な国 とされてい る。 国民の中核的構 成民族で あるマ レー人が よ うや く総人 口の半数 に達す るにす ぎないマ レー シア,国民の四分の - の異民族 を包含す るビルマなど と比較す るな らば, タイ人が人 口の90% をはるかに越 え るタ イ国の社会 は, 「顕著 な均質性 を示す

と言 って過言で はなか ろう。6) それに もかかわ らず, タイ国に も社会統合 をおびやかす きまざまの要 因のひ とつ と して,少数民族 問題が存在す るこ ともまた事実で ある。本稿 は, こうした少数民族 の存在 によ って しば しば弛緩せ しめ られ る社 会統合 の強化要因 として,仏教が どのよ うな役割 を果 た して い るかにつ いて,サ ンガの新 しい 動 きに則 しなが ら検討す る ことを目的 と して執筆 され る。

3) D.E.Smith,Re/なionandPoh'fic∫inBurma.Princeton:PrincctonUniversityPress,1965.pp.230T280. 4) 現行のタイ国旗は,六世王によって1917年9月28日に法律をもって制定された。 ("Phraratchabanyat kaekhaiphraratchabanyatthongphraphutthasakkarat2460,"Sathien Lailak(cd.) Prat/2um Kotmai Pracham Sob,VoZ.30.73angkok,1934.pp.39ト395.)「トライロングTrairong旗」と呼ばれる横縞 の

三色旗で,縦横の比は2対3, 縦長を六等分 し,中央に縦長の六分のこの濃背の横縞をおき, その上下

に, それぞれ縦長の六分の-の幅の赤縞を配している (第三条)。 六世王白身の解説によれば, 中央 の

青は国王をあらわし,それを囲む白色は宗教 (-仏教)を,赤は民族を象徴 しているという。

5) 石井米雄 「タイにおける仏教とナショナ リズム」,高橋 保編 『東南アジアのナショナリズムと宗教』

東京 :アジア経済研究所,1973,pp・60-66・

6) WendellBlanchard,etaZ.,Thailand,iz∫pcoPZe,it∫∫ociety,iz∫culture. New Haven:H・R.A.F.,1958. p.56.

(3)

東南 ア ジア研究 11巻3号 Ⅰ タイ国内の少数民 族 デ ュフ ァール JeanDu鮎 rは, タイ国内に居住す る少数民族 を, (1) 人 口が僅少で,かつ各地 に散在 してい るもの。 (2) ある程度 の人 口を有 してはい るが,居住地 が一地方 に限定 されてい るもの。 (3) 人 口も大 き く,かつ その居住地域 も全 国にわた るもの。 とい う三 つのカテゴ リに分類 して い る07) 第- のカテゴ リーに属す る民族 には, いわゆ る印僑 と, 中国系 あるいはベ トナム系のカ トリ ック教徒 があ る。前者 は, 1960年 のセ ンサスで約6,700人,その うち6割程度がバ ンコクに集 中 し,残余 は地方 中小都市 に居住 して,主 と して商業 に従事 している。カ トリック教徒 は,人 口約12万7,000人 と言 われ, 中国系が多いが, チ ャンタブ リ県 など東南部 タイ には ベ トナム 系 のカ トリック部落が見 られ, また東北 タイ の ノ ンカイ県 には ラーオ人 の カ トリック部落が 多い。 このカテゴ リーに属す る少数民族 は, いず れ も周 囲のタイ系住民 とよ く同化 してお り, と く に政治問題を起 こす には至 って いない。8) 第三のカテゴ リーに属す る少数民族 は,華僑 で あるが, これについてはすでに多 くの論著が あ り,9)かつ本稿の主題 とは直接 関係 しないので省略す る。 少数民族 の うち,政治的に もっとも重要 な意味を もつグループは,デ ュフ ァール の分類で第 二 のカテゴ リー とされた ものであ る。 これには, (1) 東北 タイの ラーオ系住民 (人 口約1,000万人)

(

2

)

南 タイのマ レ一系 ムス リム (人 口約

8

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万人) (3) 北部 および西北部 タイの山岳地方 に住 む山地 民族 (人 口約30万人) (4) 東北 タイのベ トナム難民 (人 口約4万 人) の四つのグループが含 まれ る。以 下 それぞれ のグループについて概観 したい。 東北 タイの ラーオ系住民 東北 タイは15県 よ り成 り,総面積17万平方 キ ロ, タイ全土 の31.5%を 占め る広大 な地域 で あ る。東 と北 はメコン河 を介 して ラオス と接 し,南 はダ ング レク山脈 がカ ンボジア との国境 を成

7) Jean Duffar,Le∫force∫poZizigue∫enThaiZande・ Paris:PressesUnivers)'tairesdeFrance,1972.pp. 85-126.

8) oP.lit.,p.85; GeorgeIJ.Harris,ctaZ・,AreaHa71dboohforTAaiZand・Washington,D・C・,1966・p・213・

9) タイ国における華僑研究としては,

G.William Skinner,Chine∫eSocietyz'nTut,'Zand:A71AnalyticalHi∫lory.Ithaca:CornellUniverslty Press,1957.

RichardJ.Cough lin,Doublerde72tity:TheCh'ne∫einModernThailand. HongKong:HongKong UniversityPress,1960.

の二著が基本的である。

(4)

石 井 :タイ国における国民統合 と仏教サ ンガの役割 して いる。西方 にはペチ ャブ ン山脈 が南北 に走 って,北 タイおよび中部 タイ との交通 を さまた げて いる。住民 の大半 はタイ ・ラーオ族 で ラオス王国の ラーオ人 と民族 的に きわめて近 い関係 にあ る。歴史的 に見 ると,東北 タイの住民 は, 19世紀末 までは, タイよ りもむ しろヴ ィエ ンチ ャンおよびル ア ンダプ ラバ ンに忠誠 と誓 っていた。一方,バ ンコクを中心 とす るタイ国政府 に とって は,東北 タイは近年 に至 るまで,遠 隔かつ交通不便 のため一般 にほ とん どな じみの薄 い 地域 であ り,10)そのため開発 の手が加 え られぬまま放 置されて いた。東北 タイのタイ ・ラーオ 族 は, もち米 を常食 と し, 中部 タイ人に とっては 「田舎 くさ く」 ひび くラーオ系方言を話 し, ケ- ンとい う特殊 な竹製楽器 の伴奏で 「モー ラム

(語 り物) を楽 しむ とい う特殊 の地 方文化 を有 してお り, これが地理的条件 に加 わ ってバ ンコクの中央文化 との間に心理的隔絶 を もた ら して きている。東北 タイでは, また,経済的貧困が顕著で ある。 た とえば,1953年度の全 国農 業調査 によると,-戸 当 りの農家所得 が全 国平 均で1b3米 ドルで あるのに対 し, 東北 タイのそ れは46米 ドル弱に過 ぎなか った。11) そのた め,中部 タイ (輪 タク,労働者 な ど),南 タイ (鉄鉱 山労働者 など) - の出稼 ぎ者 が多 い。 1954年10月の調査 によると,バ ンコクで発給 された輪 タ ク営業許可証 所有者 の約半数 が東北 タイ出身者 によ って 占め られていた とい う。12)東北 タイの 経済 的貧困の最大 の原因 とされ るのは,水不足 ない し不安定な水 供給 に もとづ く農業生産性 の 低 さで ある。輪 タク運転手 を対象 とす る前記の調査で も, 出稼 ぎを必要 とす る最大 の理 由に, 東北 タイにお け る水不足が挙 げ られてい る。13) このよ うな社会経済的背景 の下 において, 東北 タイには伝統 的 に反 中央感情が強い。 中央集 権化 の進行 によ って この地 方 にタイの支配 が浸透 し始 めた今世紀 の初頭 には,千年王 国論的イ デオ ロギーに導 かれた農民暴動が発生 している。14)今 日において は, こうした東北 タイ 自体の 問題 のはか, ラオスにおける共産主義勢 力の台頭 とその影響 とい う国際政治 の問題がか らみ, 事態 を複雑化 している。 タイ政府 が, 1961年10月 「東北 タイ開発 委員会

を発 足 させ た時, あ らた めて東北 タイが 「タイ王 国の不可決 に して不可分 の一部で あ り,東北 タイ住民がタイ国民 で あ るとい う事実」15)を再 確認す る必要 が あ った とい うの も東北 タイ問題 の深刻 さを示唆 して い る もの といえ よ う。

10) ReginaldLeMay,TheEConomicCondition∫ofNorth-Ea∫ternSiam・Bangkok:MinistryofCommerce

&Communication,1932.p.1.

ll) MinistryofAgriculture,Thaila71dEconomicFarm Survey,1953,Bangkok,1955・p・26・

12) Robert,B.Tcxtor,From PeasanttoPedicabDriver. New Haven:YaleUniversitySoutheastAs ia Studies,1961.pp.6-7.

13) )bid.,pp.15-16.

14) 石 井米雄 「タイにお け る千年王 国運 動 につ いて

『東南 アジア研究』第10巻第 3号,1972. pp.352-369.

15) ThePlanningO抗ce,N.E・D・B.,TheGovernmentof Tu iZand,TheNorthea∫ZDevelopmentPlan: 1962-7966. Bangkok,n・d.p・1.

(5)

東南 ア ジア研究 11巻3号 南 タイのマ レ一系 ムス リム 1960年 セ ンサ ス に よ る と, タイ国南 部 には,約83万 人 のムス リムが居住 して お り, と くにマ レー シア に接 す るいわ ゆ る辺境 四県 (ナ ラテ ィワ- ト, ヤ ラー,バ クニー, サ トゥン) にお い て は,人 口の80% 以 上 がマ レ一系 ムス リムで あ るといわれて い る。16)もともとこれ らの辺境地 方 はタイの 「朝貢 国」 で, 大幅 な 自治 にゆだ ね られて いたが, 1897年制定 され た地 方行 政法 が, 1901年末 適用 されて以 来,バ ンコク政府 の直 接統 治下 におかれ る ことにな った。 しか し, 住 民 の大半 はマ レーで, タイ語 とは ま った く系統 を異 にす るマ レー語 を話 し, イス ラー ムを奉 じ, 独 白の文 化 を有 して い るた め,異 教徒 で あ るタイ人仏 教徒 の支配 下 に入 る ことを好 まず, ことご とにバ ンコク政府 に反発 して来 た。 1902年 の初 め,地 方行政法適用 の示達 が行 なわれ た 時 ,クー ニー (バ クニー),ラゲ (ナ ラテ ィワ- ト) の 国王 は地 方役 人 の中央政府 によ る任 免, と くに徴 税 官 の派遣 を拒 否 した。 これに対 しバ ンコク政府 は,軍艦 を派 して クー ニー の国王 を 逮捕 , そ の官職 を剥奪 して ピサ ヌ ロー ク-追 放す る とい う事件 が発 生 して い る。17) この よ うに, 当初 か ら仏 教文化 圏 に よるイス ラー ム文 化圏 の政治的 ・軍事 的征服 とい う形 で 進行 した マ レー人 居住地 域 の タイ国へ の統合 は,住民 の 中央政府 へ の不信 と反発 を生 み, それ が タイ政府 の支配 か ら離 脱 しよ うとす る累 次 の試 み とな って現 われて い る。 1947年 には15万 人 の署 名 を添 えた請願 書 を国連事務総 長 に送 付 して, 国際監 視 の下 に住 民 の帰属 を定 め るた めの 住 民投 票が行 なわれ るよ う要 請 を行 な って い る。18) タイ国 内のマ レ一系 ムス リムの もうひ とつ の集 中地 域 はバ ンコク周 辺部 を中心 と した中部 タ イの諸県 (バ ンコク, トンブ リ, アユ タヤ な ど) で, 1960年 のセ ンサ スで は この地 方 に住 む ム ス リムの人 口は19万 人 強 とな って い る。19)これ らのムス リムの大半 は, 1832年 の南 タイ討伐 後 , バ ンコク周 辺地 区 に強制移 住せ しめ られたマ レー人捕虜 の子孫 で,20)固有 の信仰 を捨 てて は い 16) GovernmentofThailand,ThailandOjWciaZYearbook1968. 13angkok,1968.p.547.

Ⅰ)uffar,op.cT,'t.,PP.97-98.

17) TejBunnag,"PhrayaKhaekChetHuamuangKhabotRo.So.121,"Chumnum Bothhwam

Thang-u・Z●chahan T/la・LL,aiPhrachaoworawongt/weKrommamun Narath

hong;Praphan,Lem 2. Bangkok: Samakhom SangkhommasathaengPrathetThai,1971.pp.15-39.

18) 南タイのマレ一系住民を包括的に取 り扱った研究はまだ少ない。 比較的まとまったものとしてつぎの

著書および論文がある。

Virginia Thompson& Richard Adloff,MinorityProbZem∫in Soul/zea∫tA∫ia.Stanford:Stanford UniversitvPress,]955.pp.158-165.

JeanDu鮎 r,op.lit.,pp.97-107.

AstriSuhrke,"TheThaiMuslims:SomeAs pectsofMinorityIntegration,"inPaczjicAHaz●r∫,Vol. 43,No.4,1970,pp.53ト547.

19) GovernmentofThailand,op.tit.,p.547.

20) PierreFistie,LaThZande.Paris:PressesUniversitairesdeFrance,1963.pp.13-14.

ChaophrayaThiphakorawong,phrarazcAaPho72g∫aZLJadan Krung Razanaho∫incabap Ho∫amuthaeng C/lat:Ratchahanthi3--41・ Ihngkok:Khlangwitthayal1963・p・121・

t 342

(6)

石井 :タイ国における国民統合 と仏教サ ンガの役割 ないが,圧倒的 に優勢 なタイ文化 に包囲 されて同化 を余儀 な くされ,政治的にはほ とん ど問題 とな っていない。21) 北部 ・西北部 の山地民22) タイ国の北部地方 の山間盆地 には,

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3

世紀以 降タイ族 が進 出 して,小 ・中規 模のかんがいに よる比較的集約 的な農業を生産の基盤 とす る小国家群 を成立 させ た。チ ェ ンマイを中心 とす る 北部 の諸土侯 国は,南 タイ と同 じ 「朝貢 国

と して, 自治にゆだね られて いたが

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4

年 の総 督派遣以 来, 中部 タイ-の統合努力が進 め られ今 日統合 はほぼ完成 の城 に達 して いる。 この地 方 は,中部 タイのタイ人が

,

「タイ ・ドゥ-ム (本源的 タイ)」 と呼んで 陸慣 す る独 白の伝統文 化 を有 してお り, また伝統 的なかんが い施設 の整備 によ り農業生産性 も高 いので,東北 タイお よび南 タイに見 られ るよ うな反 中央意識 はほ とん ど感 じられない。 北 部地方 には, これ ら山間盆地 のはか に もうひとつの生活空 間 として山地 民 の居住地 域で あ る山獄地帯が存在す る。まず,最北端 にはデー ンラーオ山脈 が東西 に走 って ビルマの シャン州 との境 をな し,西方 にはタノ ン トンチ ャイ山脈 が ビルマのカヤ州 との境界 を形造 ってい る。ま た,東部 の ラオス国境 に沿 ってはル ア ンプ ラバ ン山脈 の南端 とこれにつづ いてペ ッチ ャブ- ン 山脈 が南 に延び, 中央部には, ピーパ ンナ-ム山脈, ク ンター ン山脈 が縦 走す る。山地 部の平 均標高 は1,600m で あるが,最高峯 の ド-イ ・イ ンタノ ンでは標高 2,595m に達す る。 これ ら の山地 部には, チベ ッ ト・ビルマ語系, ミャオ ・ヤオ語系, モ ン ・クメール語系 の言語 を話す 十数種 の山地 民約30万人が居住 してい る。主 な ものを挙 げれば, カ レン族 (12万 3千人), ミ ャオ族 (5万3千人), アカ族 (2万5千人), テ ィン族 (1万9千人), リス族 (1万7千人), ラフ族 (1万6千人), ヤオ族 (1万6千人) な どである。 いずれ も焼畑農業を主た る生業 と す る漂泊的農耕 狩猟民で,阿片 を栽培す る者が多い。一般 に平地民であるタイ人 との接触 が少 な く, タイ国への帰属意識が稀薄 であ る。 と くに ミャオ族 は,中央政府 の阿片栽培制限 に対す る利害 の対立か ら反 タイ意識が強 く,時折 タイ側官憲 と武力衝突 を起 こ して いる。 東北 タイのベ トナム難民 第二次大戦後,主 と して ラオス,一 部 カ ンボジアか ら多数のベ トナム人 がメコン河を越 えて 東北 タイに避難 した。 タイ政府 は当初, これ らの難民 に

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3

県 へ の居住 を許 したが, の ちに こ れを5県 に制限す るとともに,北ベ トナム- の送還 の方針 を打 ち出 し,1955年のバ ン ドン会議 を契 機 と して北 ベ トナム との非公式接触 を開始 した。1959年 8月, タイ ・北 ベ トナム両赤十字 21) Duffar,oP.lit.,pp.97-98. 22) 北タイ,西北タイの山地民族に関する研究としては,次の三著が基本的である。

PcterKunstadter,Southea∫tA∫l'an Tribe∫,Mz'noritic∫a71dNazion∫,(intwovolumes). Princeton: PrincetonUniversityPress,1967.

FrankM.LeBar,eiaZ.,EtJ5nicGrouP∫ofMainZandSouthea∫tA∫ia. New IIaven:H.R.A,F.,1964.

(7)

東南 ア ジア研究 11巻3号 代表 による送還協定が ラングー ンで締結 され, この協定 に もとづいて,1960年1月か ら62年6 月 までの30カ月 間に,約3万 5千人 のベ トナム難民が北 ベ トナムへ送還 された。1959年11月に 行 なわれた帰 国希望者調査 によると,北 ベ トナム-の帰国希望登録を行 な った者 の数 は約8万 人 に上 った とい う。残余 の帰 国希望者 について は,新協定 の調印 によ り,1964年7月まで引き 続 いて送還 が継続 されたが, ベ トナム戦争の激化 に伴 い,北 ベ トナム側か ら安全 を理 由 とす る 受入れの一時停止 の申入れが行 なわれ,送還業務 は中止 された。1973年9月現在, ベ トナム難 民 の北 ベ トナム-の送還業務 の再 開見通 しは立 っていない。23) Ⅱ 少数民族対策の基本的方向 以上 の簡略 な叙述か らも知 られ るよ うに, タイ国内 に 居住す る少数民族 の 構成 はかな り複 雑である。 民族的に見 ると, 広義 のタイ族 は, 東北 タイのタイ ・ラーオ族 だ けで, それ以外 は,すべて非 タイ系 に属す る。非 タイ系 の内訳 も,チベ ッ ト・ビルマ系, メオ ・ヤオ系, モ ン ・ クメール系, ヴ ェ ト・ムオ ン系, マ レー系 と多岐 にわた ってい る。宗教的には, タイ人 と同一 の南方上座 部仏教徒 が タイ ・ラーオ族 とクメール族, ムス リムが南 タイおよび中部 タイのマ レ ー人, カ トリック と儒 ・仏 ・道混成教徒 が東北 タイのベ トナム難民, プ ロテスタン ト諸派 のク リスチ ャンが北 タイ,西北 タイの山地 民の一部, そ して山地 民の大半 はいわゆ るアニ ミス トで, 世界宗教 の影響外 にあ る。生業形 態についてみて も,東北 タイのタイ ・ラーオ族 は 自給 自足的 稲作農民, ベ トナム難民 は疏菜栽培,手工業職 人,小売商人 な ど,南 タイのマ レー人 は半農漁 氏,北 および西北部 の山地 民は焼 畑栽培民 ときわめて変化 に富んでい る。 さ らにまた直接間接 に関係す る外 国について も, ラオス, カ ンボジア,ベ トナ ム, ビルマ,マ レー シア, 中国 と, 近隣のすべての国に及 んでい る。 このよ うに複 雑な背景を もつ少数民族 に対す るタイ政府 の政 策 は, それぞれの民族 の特性, 歴史 的背景, 現勢 な どに応 じて, 積極的同化か ら, 漸 進的統 令,封 じ込 めない し排 除策 に至 るまでの多様性 を示 してい る。 まず,南 タイ・中部 タイのムス リムか ら見て行 きたい。ムス リム住民 に対す るタイ政府 の態度 は積極的な同化政策 を とった ピブ ン政権下 の一時期 を除 けば,おおむね,漸進的統合 の方 向を示 してい るといえよ う。かれ らの宗 教で あるイス ラームにつ いては,憲法 に明示 されている信教 の 自由の建前か ら,仏 教 と同様 の擁護 と奨励 を与え るとい う立場 を基調 としてい る。1945年5 月制定 された 「イス ラームの擁護 に関す る勅 令」(1948年一部改正)は,この基本的立場 の法律的 表現 で ある。24)この勅 令 は,タイ国王が 「宗教 の擁護者」とい う憲法上 の資格 において,ムス リ 23) 東北タイ在住のベ トナム難民についてのもっとも包括的な研究として,

Peter,A.Pole,TheVz'etname∫ein Thailand:A Hz'∫toricalPerspective. Ithaca&London:Cornell tJniversityPress,1970. がある。論文としてよくまとまっているのは,高橋 保 「タイにおけるベ トナ ム人問題の現状と歴史的背景

『アジア経済』第12巻第7号,pp.67-95である。

24) HPhraratchakrusadikawaduaiKansasanupatham faiItssalam Phutthasakkarat2488" 344

(8)

石 井 :タイ国に おけ る国民統 合 と仏教 サ ンガの役割 ム住民の宗教活動 に 与える擁護奨励 をその内容 と して い る。上 の勅令の規定 に基 づ き, イス ラ ーム教育振興のため,1950年,5年制 の 「イス ラー ム専門学校

がバ ンコクに創設 された

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)

1946年10月,南 タイ四県 におけるムス リムを両 当事者 とす る家族法 および相続法 関係 の民事訴 訟 に対 し, イス ラー ム法 の 適用 を走 めたの もこの基本理念 に 沿 って とられた措 置 と考 え られ る。26)このよ うに, タイ政府 は,一方 においてムス リムの宗教 的 自治 を許 しなが ら,他 方, ム ス リム ・コ ミュニテ ィ全体 を政府 の 統制下 にお く方途 を講 じて いる点 が 注 目され る。 すなわ ち, 前記 「擁護勅令」は, タイ ・ムス リムの最 高責任者 に 「チ ュラー ラーチ ャモ ン トリ」 とい う称号 を与 え, これにタイ国王の 「イス ラーム擁護」の実施責任者 と しての任務 を課 し, その ための管理組織 として, 「チ ュラー ラーチ ャモ ン トリ」 を長 とす る 「タイ国イス ラー ム中央委 員会

と, その下部組織 と して 「各県 イス ラーム委員会」, 「各 ス ラウ ・イス ラーム委員会

の設 置を定 めて い る。 これによ り, タイ王国官吏 と しての資格 を与え られた 「チ ュラー ラーチ ャモ ン トリ」が,各ス ラウを通 して全 ムス リムを統 轄す る統一組織成立の基 盤が出来上 が った ので ある。宗教 の国家統 制 とい う見地 に立つ な らば,1945年 の 「擁護勅 令」 は,仏教 における 「1902年サ ンガ統 治法」 に も比すべ き重要 な意味を もつ ものであ る。 このよ うに,宗 教的 には性急 な同化策 (-仏教化) を排 し宥 和的統制策 を とる半面,初等 教 育の強化による長期的な視点 による同化策 も平行的 に推進 されて いる。 た とえば,1965-67年 に,南 タイ四県 だ けで78校 もの小学校 が新設 された。南 タイにおける教師対児童比 はヤ ラーで 1対28,ナ ラテ ィワ- トで1対33で あるが, これは国家開発第二次五 力年計画 の目標で ある全 国平均 1対35ない し38を,すでに大幅に上回 って達成 した数字 であるO現状 では,父兄 が伝統 的なポ ン ド (コー ラン塾) を好む傾 向が いぜん と して強 く,高学年 に近づ くにつれ,小学校 に おけるムス リム児 童の比率 は低下す るが, このよ うな教育重視政策 が タイ ・ムス リムの同化 に 与 え る影響 はやがて現 われ るであろう。27) 東北 タイに,近年発生 した 「ベ トナム難民問題」 と, 中部 の シャム族 を中心 とす る国家形成 の結果生 じた中部 タイ,東北 タイの対立 関係 とい う19世紀末以 降存在す る歴史的問題 とは,共 産主 義戦略 とい う国際政治の次元で微妙 なか らみ合 いを見せて いる。まず, 「ベ トナム難民」 につ いては,居住地域 の制 限による行動 の監視 と,祖国の送還 が政府 の基本方針で ある ことは 前述 した とお りで ある。1967年現在,東北 タイ在住 の 「ベ トナム人難民

の数 は44,800人 とさ れて いるが, その全員が必ず しも帰 国を希望 して い るわ けではない とい う。 タイ政府 は, これ らのベ トナム人が,東北 タイに出没す る共産主義 テ ロ リス トを支持 して いる との見方を捨てて

25) "RabiapKrasuangSuksathikanwaduaiItsalam WitthayalaihaengPrathetThai,"inPramuan Kab2-ap Kan∫atsanahhongKromhan∫atJa7iaKra∫uangSuksathihan.Bangkok,1951.pp.156-159.

26) "PhraratchabanyatwaduaiRan chaiKotmaiItsalam na主KhetchangwatPattaniNarathiwat,Yala laeSatunPho.So.2489H

(9)

東南 ア ジア研究 11巻3号 お らず,今後 の成 り行 きが注 目され る。28) 東北 タイのタイ ・ラーオ系住民 をめ ぐる問題 は, しば しば 「タイ ・ラオス国境 における治安 問題」 とい う文脈で とりあげ られ るが,29)その背景には長 い歴史 と社会経済的原因のあること については前 に述べた。 したが って政府 の政策 に も,ゲ リラ討伐 を直接の 目標 とす る対症 的措 置 と,生活環境 の整備 による住民 の 生活水準 の 向上 とい う予防的措 置 とい う二段構 えで進 め られている。 1966年, タイの南ベ トナム派兵 決定を契機 として,東北 タイにおけるゲ リラと軍警 との武力 衝 突 は急増 している。 ナ コンパ ノム, カ ラシン,サ コンナ コ ン三県 にまたが るプ-パ ー ン山地 のジ ャングル には,- ノィ, および北京 と直接接触 を持つ約1,200名のゲ リラが潜 伏 している と言 われ るが, タイ政府 は しば しば正規軍 お よび警察部隊 を出動 させ,討伐作戦 を展開 してい る。た とえば1972年1月∼ 5月の5カ月 に, ナ コンパ ノムで行なわれた作戦ではテロ リス ト側 は42名の戦死者,145名の負傷者, 70名の捕虜 を出 し, 政府側 もまた戦死者57名,負傷者73名 の損害 を出 した と発 表 されている。30) こうした対症 的ゲ リラ対策 と平行 して,地域開発 を重点 的に推進す ることによ って,住民の 生活水準を向上 させ, これによ って タイ ・ラーオ系住民の反 中央政府 意識 を払拭 しよ うとい う 努 力が, 1961年 以来 サ リッ ト内閣 の手 で開始 され, タノム内閣 も大筋において この政策 を踏 襲 している。 「東北 タイ開発 委員会」 は,サ リッ ト首相 自身 を委員長 と して,1961年設 置され,1962-68 年 の 5カ年 にわた る 「東北 タイ開発五 力年計画」が立案 された。 この計画 は東北 タイ住民の生 活水準を,他 の諸地域 の水準 にまで引 き上 げ, さ らに将来 の経済的安定 と発展 のため この地方 の社会 的経済的基盤整備を目標 とす る計画で ある。 その内容 は,(1)水利施設 の改善,(2)道路 網 の整備,(3)農業 の振興,(4)電 力供給 の拡大,(5)民間 商工業部門の振興,(6)地域開発 の促 進 と し, コンケ ン苗 を東北 タイのま った く新 たな中心都市 として発 展 させ, これを中核 と して 地域全体 の開発 を促進す るとい う方針が打 ち出された.31) 1964年 には,東北 タイの うち, とくに国境 に近 いナ コンパ ノム,ルーィ, ノ ンカィ,サ コン ナ コン,ウ ドン,ウボ ンの各県 を対象 とす る 「緊急農村開発計画 ARD (-AcceleratedRtlral DevelopmentProgram)が開始 され,開発 の速度が加速 された。 翌1965年 にはローイエ ッ ト, カ ラシンの二県 が対象地域 に加え られてい る。計画 の中心 を成す ものは道路建設 で,1965年 に

28) 1972年6月2日,プラパー ト副首相は, 国家安全保障会議々長の資格において, ベ トナム人難民のあ る者はタイ国内の共産主義テロリス トに援助を与え, 北ベ トナムのために募金を行なっていると指摘 し ている。AsiaHe∫earc/iBuZ/etin,Vol.2,No.3,August1972,p.1061B.

29) たとえば28)に引用した論文は"T3ackgroundtotheSecuritysituationoftheThai-Ⅰ,aotianBorderHと 題されている。Ibz'd.,pp.1059A11066B.

30) /bid.,pp.1063B-1064A.

31) ThePlanningoffice,N.E.D.E.,a_i" it.,pp.ト104.

(10)

石井 :タイ国における国民統 合 と仏教サ ンガの役割 は前記六県で 202km の新道路が開遺 した。 この ほか地域住民 の訓練,農 業振興学校建設,か んがい施設,保健所の整備 も進 め られ,1963年 には,巡 回医療団が組織 されて,僻村 への巡 回 医療 を行 な ってい る。32) 北 タイ, お よび西北部 タイの山地 に居住す るいわゆる山地 民 と,平野部 のタイ族 とは,伝統 的 に 「相互不干渉」 の関係を保 っていた。 これ らの山地民 た ちは, 国勢調査か らも,地方 の現 勢報告 か らもつねに除外 されてお り, その人 口さえ も推定 の域 を出ていない。 ご く最近 まで, 北 および西北 山地地帯 は, タイ国領 内にあ りなが ら, 事実上, タイ国の統 治の及 ばない地方 で あ った。 1958年12月,サ リッ ト首相 は, 阿片 の栽培を禁止 し, 内務省 に取締 りの責任 を課 し た。 前述 のよ うに山地 民 の中には, 阿片栽培 を生業 と してい る者が多か ったので, この時以 栄, 山地民 は,取締 りの対象 とな り中央政府 との関係 を深 め ることにな った。 1959年 6月 の閣議決定 によ って, 内務省 の 「山地民定着化計画

が承認 され ると, 同省公共 福祉局 は,パ イ ロ ッ ト・プ ロジェク トとして, クーク,チ ェ ンマ イ, チ ェンライ,ル ーイの四 県 に各- カ所ずつ, 「ニ コム

と呼ぶ 「定着実験地域

を設 定 したが, 山地民側 の受 け入 れ る ところとはな らず失敗 に終 わ った。1961- 2年, 同局 は, 国際機関および外 国政府,財団の協 力 を得 て, ミャオ,ヤオ, リス, ラフ, アカ族 な ど,阿片栽培民 を対象 とす る社会経済調査 を 行 な った。 この調査の結果 に もとづいて提 出された勧告 に したが って,1963年か ら64年 にか け て,(1)定着化計画 の拡大 と強化,(2)定着実験地域外 の山地 民に対す る巡 回開発 チー ムの派遣 , (3)山地民研究 セ ンター の 創設 とい う三つのプ ロジェク トが開始 された。 定着化計画 拡大強化 の内容 には,農業試験所,農業普及 セ ンター,換金作物売捌 セ ンターの設 置のほか,開発 普及 員訓練セ ンター, および基地 の設営が含 まれてい る。33) 上 の諸計画 は,禁制品である阿片栽培 と山地部土壌 の侵食 を もた らす焼 畑輪作を平 和裡 に止 めさせ, これに代 わ る生業 を山地民 に与え る方途 を見 出すために立案 された計画 であ るが, 同 時 に, これまで タイ政府 の威令 の及 ばなか った山地民 をその統制下 にお き,かれ らにタイ人 と しての帰属意識 を もたせ ることもその 目標 に含 まれている。 そ して,北 タイに も, いわゆる共 産主義者 の浸透工作 の存在が指摘 され, チ ェンライ県 知事 の殺害事件 に見 られ るよ うに,現実 にタイ人官吏 の襲撃 な どが行 なわれ るよ うになる と,山地民 問題 は, 当初 の比較的限定的な枠 を越 えて,治安問題- と展開す る形勢 を示す よ うにな った。 た とえば,1972年 3月 にはパ テ ト ラオ,北 ベ トナム人, お よび ミャオ族 を含む約500人 の共産主義者がチ ェ ンライ県 の ラオス国 境地帯 のペ ェ レェ山地部一帯 を制圧 した と報告 され, また同年6月 には, ラオスのサ イヤブ リ -州か ら越境 した共産軍がナ ン県 の トウ ンチ ャング地方 の山中に基地 を もうけ, これに対抗す 32)GovernmentofThailand,oP.liz.,pp.390-391.

33) HansManndoI耳,"TheHillTribeProblem ofthePublicWelfareDepartment,Ministryoflnterior,

Thailand:Research and Socio-EconomicDevelopment,"in PeterKunstadter(ed.),Southea∫tA∫ian Tribe∫,Minorit3'es,andNatl'ons. Princeton:PrncietonUniversityPress,1967.pp.525-551.

(11)

東南 ア ジア研究 11巻3号 る措 置 と して, タイ政府 に忠誠 を誓 った土地民部隊が編成 され, ナ ン, チ ェンライ,ペ ッチ ャ ブ ンの山地地帯 に配 置され作戦 を行 な う旨の発 表 が行 なわれている。34) m サ ン ガ と 社 会 (1) 「根源 的愛着心」 の源泉 と しての仏教 1960年セ ンサスによると, タイ国総人 口2,635万人 の うち,93%にあた る2,456万人が仏教 徒で ある035)この数字 にはムス リムが県 内人 口の80%以上を 占める前記南 タイ四県 が含 め られ てい るので, いま これを除 いた地域 における仏教徒 の対人 口比を とってみ ると,96% とい う高 い数値が得 られ る。 住民 の民族構成 が よ り均質 な農村 部では, この数値 はさ らに上昇 す るもの と考 えて よいで あろ う。 「仏教 はタイ民族 に 内属 した宗教である SatsanaPhutpenSatsana クrac/lam Chat」とい う命題を, 「国民各位 と同様に政府 もまた信 じて いる」 とい う発言 が 公 的な立場において さえな され るところの統計的背景 を,われわれは この数字の中に見 出す こと がで きる。36) 南方上座 部仏教 は,サ ンガを中心 として成立す る宗教で ある。仏教の消長 はサ ンガ とその運 命 を共に して い る。 サ ンガが現実に実現 され る場 は寺 院watと,寺 院 に止住す るプ ラ(エ ビク) およびネ- ン(-サーマ ネー ラ)で ある。1967年度の宗教局統計 によると,全 国の寺 院数 は,大 小 とりまぜ て24,634寺 ,プ ラとネ- ンの合計 は28万2,490人,-寺 の平 均止住 出家者数 は11.5 人で あ った。 同年 における全 国の行政村 (タンポ ン) の数 は5,036村 なので,-村 当 りの平均 寺 院数 は4.8寺 とな る。 さ らに,寺院および出家者 の対人 口比を とって み ると,村 民1,316人 に対 し,-寺 が存在 し,村民115人 に一人 の割合で黄衣の出家者 がいる ことがわか る。 出家者 の対男子人 口の比 は1対56である。 いま, その 建立者 ない し維持者 を基準 と して寺 院を分類す ると, 「王立寺院 phraAram Luang」と 「私立寺院 WatRat」の別 を立て る ことが出来 る。 前者 は国王が建立 したか, あ るいは私人 の建立 した寺 院の管理 がの ちに国王 に うつ された寺院で,現 実には国家がその維持 管理 に責任 を負 って いる。 これに対 し 「私立寺 院」 は,民間 の浄財 によ って建立 され,法律 に 基づ いて寺 格 を与 え られた寺 院で あ る。 統計 に よれば, 「王立寺 院」の数は全 国でわずか161 守 , しか もその中の78寺 がバ ンコク市 内に集 中 している。バ ンコクで は全寺院数186寺 の41% まで もが王立寺 院で ある。一 方,私立寺 院の数 は24,473寺 に も上 り, その うち24,365寺 が地 方存在す る。 これを前記 の数字 とあわせ考 え るな らば,地方寺 院の実 に99%が私立寺 院 とい う 34) A∫Z'aRe∫earchBulletin,Vol.2,No.3,p.1063B.

35) 「儒教徒」として46万強が別掲されていることから推定するならば,.この数字は中国人仏教徒を含ま

ず,南方上座部仏教の信奉者のみを示すものと考えられる。

36) 1960年10月28日の総理府声明。

(12)

石井 :タイ国における国民統 合 と仏教 サ ンガの役割 計算 にな る。地 方 の王立寺 院 がすべ て,都市 部 に存 在 して い る ことを勘 案 す るな らば,今 日全 国 の農村 のす みず み に見 られ る寺 院 は そのほ とん どすべ てが住 民 の浄財 の寄進 に よ って建立維 持 されて い る寺 院 で あ る とい う事情 が知 られ る。 つ ま り, 国民 の88% を 占め るタイの農 民 に と って,生 まれ なが らに して与 え られた存 在 で あ る と ころの仏 教 とは, 同時 にその存 続発 展 のた めに村 民 の積 極 的貢 献 が不可欠 の 要 因 と して期待 されて い る存在 で もあ る。 仏 教 を タイ人 の 「根 源 的愛 着心 」 の 源泉 と して 理解 す るた めには, この点 を 十分 に考慮 す る必要 が あ る。 以 下 ,具体 的 な事 例 につ いて検討 しよ う。 表 1は, カ ウフマ ン HowardK.Kaufmanが,バ ー ンク ワ ッ ト村 で行 な った調査 結果 で, 調 査村 の寺 院 の年 間収入 を示 す資料 で あ る。 バ ー ンクワ ッ ト村 は,バ ンコクの東 北地 方

2

5k

m

の運河 沿 いに あ る小村 で, 世帯 数

1

4

7

,人 口

7

4

4

人 とい う典 型 的 な中部 タイデル タの稲作農村 で あ る。 この寺 院 はバ ー ンクワ ッ ト寺 と呼 ばれ調 査 当時

(

1

9

5

3

∼5

4

)1

0

名 のプ ラが止住 して い た。 この数 字 は前 掲 の平 均 値 に近 い。 この表 か らあ き らか な よ うにバ ー ンク ワ ッ ト寺 には,年 間

3

8

,

1

9

2

バ ー ツの現 金 のはか,托鉢 を行 なわ ない雨 安居用 の備蓄米 と して

3

.

6

トンの玄米 と, はか に

1

.

6

トンの もち米 が寄進 され て い る。 この金額 の中 に は,寺 院財産 の賃貸 料, 金箔 売上代 金 と,英 国系 の某社 が カ チナの祭 に際 して臨時 に寄進 した

2

0

,

0

0

0

バ ー ツが含 まれて い るので いまその合計 を減ず る と現 金

1

6

,

1

9

4

バ ー ツ とい う数字 が得 られ る。 そ こで この金額 と

5

,

0

0

0

短 の米 との合計 が, この寺 院 に対す る純粋 にバ ー ンク ワ ッ ト村 民 の 貢 献 とな る。 つ ま りこの村 で は, 一 世帯 につ き 年 間平 均110 バ ー ツ (邦貨 換算 約

1,

9

0

0

円) の現 金 と,

3

5

kg の米 とを, 寺 院維持 の ため に 自発 的 に 拠 出 表 1 パーンクワッ ト寺年間収入-覧 (カウフマンの調査による) 現 金 収 入 寺院土地財産賃貸料 礼拝用金箔売上 カチナ祭寄進 各種賃貸料 (臨時) 住職個人寄付 米 雨安居用寄進備蓄玄米 換金用籾米 (キロ当り0.4バーツ) も ち 米 日 用 品 筆記具,書籍等 349 432バ-ツ 130バーツ 24,000バーツ 1,470バーツ 4,000バーツ 3,600kg 6,200kg (-2,480バーツ) 1,600kg 800バ ー

相 当 住職への特別寄進 (煙草,石けん等) 4,880バーツ相当 現 金 収 入合 計* 38,192パーツ

*

換金用精白米はキロ当り0.4バーツで現金に換算 して加算 してある。

(13)

束南 ア ジア研究 11巻3号 してい るので ある。37) バー ンクワ ッ ト寺 と,バ ー ンクワ ッ ト村 々民 との関係 は, このよ うに数量化で きる ものを媒 介 とす る関係 に限 られて はいない。 こう した金 品の授受 は, さ らに深い精神的紐帯 のひ とつ の 側面 を示す にす ぎないのである。 いま村民各個人が生涯 に経験す る通過儀礼 を見 るとそのほ と ん どすべてが, なん らか の形で仏教 と関係 してい る。38)た とえば,産気 づいた妊婦が 「火神」 に安産を祈願 す る儀礼 において さえ,祈願 は 「ナモー タ ッサ」で始 ま る 「総礼文」 (かの世尊, 応供者,等 正覚者 に均命 したてまつ る) とともに唱え られ るので ある。新生児 の膳 の緒切断 も 「ナモータ ッサ」を 三度唱えなが ら行 なわれ る。 出生後 一 カ月 のの ちに 行 なわれ る 「剃髪式

Kho

nPho

m Fa

i

には僧 が招かれて祝福 の祈商 を行 な う。 いず れ も仏 教の文脈 の中にある儀 礼で ある。 バー ンクワ ッ ト村 では, 中部 タイの文化的特性 を反映 して, ネ- ンと して出家す る者 は少 な いが,39)21才か ら30才 までの男子 は,80% までが少 な くとも一雨安居の問,プ ラと して持戒生 活を体験す る。出家 の儀式 は, 出家者 白身 に とってのみな らず,多 くの村民 に宗教的体験の機 会 を与え る。得度式-の参与 は 「タ ン ・ブ ン」(功徳 を得 る行為)の中で も, と くに大 きな功徳 を生 む行為 と信 じられて い るか らで ある。 タイ の 結婚式 は仏教 と直接的関係を もたないが, 「タ ン ・ブ ン」 の文脈で しば しば僧 が招かれ る。 バー ンクワ ッ ト村では,結婚式 に先立 ち, 鰭 家-招かれた僧 が新郎新婦の面前で祝福 の読経 を行 な う。死者儀礼 は, もっとも重要 な仏教的 行事 のひとつで ある。 通夜, 初七 日,50日, 百 力日に読経 が行なわれ るほか,火葬 の当 日に は最大 の法要 が営まれ る。火葬 の時期 と して二月か ら五月が選 ばれ るのは, この時期 にはすで に米 の売却代金が支払 われ,法要 に要す る多額 の出費を賄 うに もっとも都合が よいた めで ある とい う。 このよ うに,個人 の通過儀礼がすべて仏教 に よ って彩 られているだ けでな く,仏 教 はまた季 節 感 の 乏 しい熱帯 の - カ年 にめ りは りを与え る役割 を 果 た してい る。 「マーカプーチ ャ-」 (2月), 「ウィサーカプーチ ャ-」 (5月), 「雨安居入 り」(7月), 「カチナ衣 献納

(10月 中旬∼ 11月 中旬) など,純 然た る仏教行事 だけに とどま らず,元旦 , ソンクラー ン (4月-旧 正月), ロー イカ トング(11月)な ど,起原 は仏教 と無関係 の儀式 において も,現在 で はさまざ まな形で仏教僧 の参加が見 られ る (た とえば,僧 -の食物の供養,読経 など)0 さ らに,満月,新月, 二度の半月 に廻 って くる 「ワ ン ・プ ラ (仏 日)」の存在 も, バー ンク ワ ッ ト村民 に仏教徒 の 自覚 を喚起 させ る契機 をな している。 ワン ・プ ラとその前 日の性行為 は

37) HowardK・Kaufman,Bangkhuad,A CommunityStudyinThailand. LocustValley:J.J.Augustin lncorp.,1960.pp.105-109.

38) Jbid.,pp.140-162.

39) 出家行動の地域的差異については, 石井米雄 ・坪内良博 「タイ国における出家行動の地域的変異につ いての一考察」『東南 アジア研究』 8巻1号,1970,pp.2-15.参照。

(14)

石井 :タイ国における国民統合 と仏教サ ンガの役割 タブー視 されて いるといわれて いる。40) このよ うに,バー ンクワ ッ ト村 にお いては,村民 であ ることが同時に仏教徒 と してあ ること で あ り,両者 は相即不離 の関係 に立 っている。 そ して人類学者 の研究 は, 同株 の状況が中部 タ イのみな らず,南 タイの一 部を除 くタイ全 土の稲作農村 にひろ く存在 して い ることを教 えてい る。41)仏教が タイ人 の 「根源的愛着心」 の対象 と考 え られ る事情 は, こう した状況 を背景 と し て初 めて理解す ることがで きるであろ う。 (2) 威信 ある社会的存在 としてのサ ンガ 仏 教 は, 「グ ッダ」, 「ダ ンマ」, 「サ ンガ」の 三宝 をその 構 成 要 素 と してい るけれ ど も, 「ブ ッダ」 と 「ダ ンマ」 とは 「サ ンガ

によ って初 めて社会的に実現 され

,

「サ ンガ」を通 して 伝承 され るので あるか ら,社会的事実 と しての仏教 を考察す る場合, 「サ ンガ」が と りわけ重 要 な意味を もっ ことは繰 り返すまで もない。仏教 々理 は趨輪廻的秩序 を志 向す る出家修行者 の 存在 を予想 し, 出家修行者 は 自己の修行 の効率化のために生活共同体 を組織 し, その結果 サ ン ガが発生 した。サ ンガはその全生存 を在 家者 に負 うことによ って, その行 動 目的における超輪 廻性 と,行動様式 における超俗性 を保持 しっづ けて いる。われわれは,別 の論考 において, メ イにお けるサ ンガが繁栄 の原因のひとつを, 「タンブ ン

とい う輪廻 的秩序 における, 出家原 理 の再解決の中に見たが,42)す くな くとも形式 的には, 出家者 はあ くまで も超輪廻的秩序 の追 求者 と して ある。それは慣 例 に従 った短期 出家者 において さえ, 自己の出家 目的がネ- ンの追 求で あることを,儀式 的過程 の一段階 において表 白 しなければな らない とい う事実 の中に示 さ れて いる。43) 「タンブ ン」 に動機づ け られた出家者 は, ネハ ンを求 めず, あ くまで も輪廻的幸 福 を追求 してい るとい う点 において,輪廻 的秩序 の克服 を 目標 とす る存在ではないが,かれが 黄衣,剃髪,持戒 など, 出家者 の外的指標 を失 わないか ぎ り, あ くまで も超世俗 の次元 に とど ま り,世俗的次元 に触 れ合 うことはない。 出家者 を超俗 の次元 に とどめることは, タ ンブ ンの 原理 に立つ世俗 の側か らの要請で さえある。 ところで,サ ンガが, このよ うに理念 の世界 において世俗的秩序 を拒否 しなが ら,空 間的 に は特定 の地域社会 の中に存在 し, しか もその中でた とえばカ トリック修道院の よ うに閉鎖的社 会 を構成せず, きわめて 自由に在家者 の接近 を許 してい るとい う事実 は,サ ンガに意図 しない 世俗 的機能 を果 た さ しめる結果 を生 み出 した。伝統 的 タイ社会 において,僧侶 は 「教師」で あ 40) Kaufman,oP.cz't.,p.156. 41) 北タイ農村における仏教については

KonradKingshill,KuDaclZg-TheRedTomb. Chiangmai:ThePrinceRoyal'sCollege,1960,

東北タイについては

CharlesMadge,SurycyBC/OreDeyeZopmenzinThaiViZZage∫・ U・N・Secretariat1955・(mi meogragh ed).

参照。

42) 石井米維 「タイ仏教におけるサンガと社会-その1」『アジア文化』第10巻第1号,1973,pp・2ト39・

43) Kaufman,oA.tit.,p.126.

(15)

東南 ア ジア研究 11巻 3号 り

,

「医者 」で あ り

,

「調停役 」で あ り

,

「相談役」で あ った。寺 院 の建物 は

,

「教場」で あ り, 「集会 場

で あ り

,

「宿 泊所」で あ り

,

「村役場」で あ り

,

「裁判所」で あ り

,

「倉 庫」で あ り, 「病院」で あ り

,

「養老 院

で あ り

,

「博物館」 で あ り

,

「美 術館」で あ った。 こう したサ ンガの 世俗 的機能 は,宗教 的信仰 と密接 に統合 して発 現 され る もので あ るが ゆえに, サ ンガの威信 を さ らに高 め る役 割 を果 た して きた。 しか し,伝統社会 においてサ ンガ の果 た していた これ らの 機能 が,近代 にお ける世俗的諸制 度の整備 に と もな って, しだ いに減衰 しつつ ある ことは認 め な ければな らな いで あ ろ う。 と りわ け都会 においてその傾 向はい ち じる しい。 こう した文脈 に おいて眺 め る とき,最 近 に至 って,サ ンガの側 か ら,伝統 的社会 においてサ ンガの享受 して い た世俗 的権 威 の復権 を もとめる声 が上 が りつつ ある ことは興味深 い。バ ンコクのマ- -チ ュラ ロ ンコ ン仏 教大学 の指導 的立場 にあ るプ ラユ ッ ト師は,つ ぎの よ うに述 べて い る。 「過去 において, 出家者 と在家者 とが親密 な関係 を保 ちえた とい うのは,要す るに,両者 の 生活琵境 に大 きな較差 が なか ったか らだ。 しか し今 日, と くに都市 部 においては,在家者 の生 活 と出家者 の生 活 とのギ ャップははなはだ しく, 出家者 の側 か ら, もっと幅のひ ろい教育 を受 けたい との希望 が高 ま って い る。 - - ・・ しか しわれわれは決 して僧 侶 を世俗化 しよ うと して い ●●●●●●●●● るので はな い。む しろ, われわれ は,世 の人 の宗教 的指導 者 の伝統 的 な地 位 の回復 を, いま試 みて い るので あ る

」4

4

)

(傍点筆者) ここで 「宗 教 的指導者

と言 う語 は,む しろ 「宗教 的 ・世 俗的指導者 」 と読 みか えたほ うが実態 に 則 して い る。 プ ラユ ッ ト師 の この発言 は, 仏教大学 のカ リキ ュ ラムの中に, 一般教科 が 増大 しつつ あ る状況 の 説 明 と して行 なわれた もので あ る が,45)最近 にお けるサ ンガの一般 的傾 向の ひ とつ の側面 を示 した もの と して注 目され よ う。 Ⅳ サ ンガ と社会 をめ ぐる新 しい動 き 前節 において は, サ ンガに よ って実現 されて い る仏教 が, タイ人 の 「根 源的愛着心」 の対象 とな って い る事情, お よびサ ンガが伝統 的 に もつ宗教的機能 とそれ と相 即不離 の関係 にあ る世 俗的機能 が相乗的に働 いて,サ ンガを社会 的 に威信 ある存 在 た らしめて い る状況 につ いて考察 した。 本節 で は, 以 上 の予備 的考 察 を背 景 に, 最近

1

0

年 間 において顕著 に見 られ る, サ ンガ の世俗 的 関心 の深化, とりわ け政府 の 国家開発計画 に 対す るサ ンガの協力 を具体 的 に検討 し よ う。

44) DonaldK.Swearer,"SomeObservationsonNew I)irectionsinThailiuddhism,"TheSocialScience Rcview,Vol.6,No.2,1968,pp.53-54.

45) マハ-チュラロンコン仏教大学は,出家者だけが入学資格をもつ大学で, 「仏教学部」, 「教育学部」,

「人文 ・社会福祉学部」の三学部をもつ。このうち,たとえば 「人文 ・社会福祉学部」は,専攻としてタ

イ語,英語,東南アジア地域研究,社会学の三種があり, そのカ リキュラムを見ると, 教養学部に相当 する1・2年の過程で,パ-リ語,サ ンスク リット語,仏教々理学の単位数が多いことを除 くと,一般大 学 との間 にほとんど差をみとめることができない。 (C・f・,jl,tahachzdaZongL70rnrajayidyaZaya Buddht∫t

Un,iver∫ityCatalogue,B.A.25mlll/1967-68A.D. Bangkok,1967.)

(16)

石井 :タイ国における国民統 合 と仏教サ ンガの役割 (1) 開発計画 とサ ンガ タイにおいて開発 の問題 が急激に重要視 され始 めたのは

,1

9

5

9

年の初頭成立 したサ リッ ト内 閣が内政面 における最重点政策 と して 「国家開発 KanPhatthanaPrathet」を取 り上 げ, タ イ国最初 の長期開発 計画 を発足 させて以来 の ことである。サ リッ トがあ らゆ るマス ・メデ ィア を動員 して強力 に推進 したキ ャンペー ンの結果 「開発 KanPhatthana」とい う語 はま った く 新 しい内包を付与 されて タイ 日常語乗 の中に定着 して行 った。 こうした時代 的風潮 はサ ンガに おいては, まず青年知識層 の中心を成 す仏教大学 の開発-の関心 とな って現 われた

。1

9

6

1

年, これまで 「仏教学部」一学 部を もつのみであ った 「マハ-チ ュ ラロンコン仏教大学」 に, 「教 育学部」が もうけ られ,「教育学科」,「心理学科」, 「図書館学 科」, 「理学科」 の 四学科が新設 された

。1

9

6

3

年 には, さ らに 「東南 アジア地域研究学部」が増設 されてい るO この学部 は

3

年 後 の

1

9

6

6

年, 「人文 ・社会福祉学部」- と改組 された。46)明 らかにサ ンガの社会開発 への関心 を反映 した再 編成 である。

1

9

6

3

年, 仏 教大学 の卒業生 を各地方-教師 と して派遣す る計画 が 大学 当局 の 手で立案 され た。 この計画に対 してはアジア財団が資金援助を行 な ってい る。 しか し, 当時 は地方開発 に 対す る仏教大学生 の関心 はまだ低調で, 計画初年度 には一名 しか派遣 で きなか った とい う。47) しか し, その後学生 の関心 も高 ま り

,1

9

6

6

年度 までの四年間に

,6

3

名の卒業生 を

2

6

県 に送 り出 した。48) この計画 によ って各地方 -派遣 された仏教大学 の卒業生 は,1年 ない し2年 間それぞれの任 地 に留 り, 「ナクタム教理試験準備 コース」, 「パ ー リ語学校」, 「寺 院立小 中学校

な どで教鞭 を とり,学校 の整備 に も助言 を与 え るかたわ ら,仏教 日曜学校 を設置 した り,各種の機会 を と らえて仏教講演を行 ない, また希望者 に瞬想法 を指導 し, さ らに各地 の地 域開発計画 に も参加 してい る。 仏教大学 に よ って先鞭 をつ け られた仏教僧侶 の開発 への協力活動 は多大 の反響 を呼 び

,1

9

6

5

年 には, 宗教局 によ って, 「タ ンマ トゥ トThammathut」 と 称す るさ らに大規模 な僧侶 の地 方派遣計画が立案 された。 サ ンガは この計画 に全 面的な協力の姿勢 を示 し,翌

6

6

年度か らは, 計画 の一 切がサ ンガの手 に移 されてい る。派遣地域 は九地域 に分かれ るが,東北 タイ- の派通 が群 を抜 いて多いのは,第二節 で述べ たよ うな ラーオ系住民 の統合 問題 の存在す る東北 タイの 開発 が,政府 の重点施策 の ひ とつ にな った事実 に照応 している。表

2

に示す よ うに

,1

9

6

7

年度 では

1

3

4

8

人 の全 派遣者 の

5

4

%

にあた る

7

3

5

名が東北 タイによ って 占め られた。 翌

6

8

年度 には, 46) raid.,pp.13-15. 47) アジア財団クラウスナ-氏William Klausnerのセ ミナーにおける挨拶 (Kan∫ammanaPhraphik∫u Phua Songsoem Phatthana Tungthin hhong Mahawz'ZthayaZaisong na MahachulaZonghornratchawiz・

tayaZainatPAraboromarachupatham,WanAthitthi6,Karahadahhom2512.)

(17)

東南 アジア研究 11巻3号 表 2 タンマ トゥトの派遣先と派遣者数 第 1 地 域 (バンコク中心) 第 2 地 域 (アユタヤ中心) 第 3 地 域 (ピサヌローク中心) 第 4 地 域 (チェンマイ中心) 第 5 地 域 (ウドン中心) 第 6 地 域 (ウボン中心) 第 7 地 域 (プラチンブ リ中心) 第 8 地 域 (ラーブ リ中心) 第 9 地 域 (南タイ) 合 計 派 遣 者 数 114 36 53 221 545 190 94 77 105 35 84 301 448 364 150 100 18 岳 17 さ らに77名増加 して813名が東北-赴 いている。 「タ ンマ トゥ ト

とは,法

(タ ンマ

)

」 の 「使節 (トゥ ト

)

」で あ り,本来

,

「布教 師」, 「伝 道師」を意味す る。事実, この語 のパ ー リ語形 「ダ ンマ ドゥタ

Dha

mma

dut

a

」 は, 海外伝道 師の意味 に用 い られてい る。49)それゆえ, タ ンマ トゥ トの活動領域 は,一 義的には仏教 の布教 で ある。村民 を対象 とす る法話会 の開催,官吏,生私 児 童,受刑者 な どに対す る研修,院想 法 の指導 な どは こうした狭義 の伝道活動である。同 じ 「法 の使節」 の名で呼ばれなが ら, 国内 を対象 とす る 「タ ンマ トゥ ト」が,海外 向けの 「ダ ンマ ドゥタ」と異 なるのは,前者 が単 なる宗 教活動 の枠 を越 え地域開発 とい う世俗 的活動 に直接参与 して い る点で あ る。 日本 な どの大乗系 の仏教 においては,仏僧 が社会的活動を行 な う事例 は枚挙 にい とまがないが,本質的に超世俗 を志 向す るタイの上座部仏教 の僧侶 が, 自発的 に社会的活動に参加 し始 めたのは近年 の現象で あ り注 目に価 しよ う。 表3は,1967年度 における 「タ ンマ トゥ ト」 の活動状況 を,数量的に示 した ものである。 「タ ンマ トゥ ト」には,バ ンコクにある二つ の仏教大学,す なわ ち前記のマハ-チ ュラロン コン仏教大学 (マ--ニカイ派) と,マ--マ ク ッ ト仏教大学 (クマユ ッ ト派) が,派遣訓練 の分野で側面的に協力 してい る。す なわ ち, 1-966年 に開始 された 「地域開発促進 のための僧侶 訓練計画

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が そ

れである。 本計画 には,(1)僧侶 に宗教教育を施 し, また地域開発 に関す る知識 を与 え ること

によ って, 民衆 の依処 としての僧侶 の地 位を保持せ しめること,(2)僧侶 の地域開発参加 を奨 励 し, 開発計画 の 目的達成 に 協力す ること,(3)タイ国民 の団結を強 め, もって 国家 と宗教 の 安寧 をはか ること, の三つの 目的 が 掲 げ られて いるが, 立案者 の意図 は 次 の 計画趣 旨書

49) "IntroducingIDhammadutaI,"Dhammaduta,VoZl1.Bangkok,1969.pp.1-2. 354

(18)

石井 :タイ国における国民統合 と仏教サンガの役割 表 3 タンマ トゥト活動状況 (1967年度)

4

1第

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6

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7

丁粛1㌻事第 9 憎 上敷 遡 上均一_

し些

」一挺 遡 ‡地 域 土壁

1

F第 2LB

3

也 地 域 ‡地 域 タ ンマユット派 遣数 ビク・サーマネーラ研修 村 民 法 話 会 114: 36 官 吏 研 児 童 生 徒 研 笠 鳥

;

75鳥 喜;冒 受 刑 者 研 修 :

-

450 1 授 三 帰 五 戒 1 349 喫 想 法 指 導 ; 341 49,848 1.205 合 計 181 1,348 73,舞 …… 1,169i16,978

*

*

この数字は誤りと思われるが原表に従った。 (1967年度宗教局報告) の一節 にきわめて明確 に示 されている。50) 「タイ国においては,2,30年前 まで, 僧侶 が宗教 のみな らず, 教育的, 社会的活動 の全分 野で指導 的役割 を果 た していた。僧侶 は, 自 ら進んで,地域社会 の福祉 のた めに物心両面 にお ける社会奉仕活動を行 な って いた。た とえば,家庭 に問題が発生 した り,地域社会 の成員 に不 幸が あ った時 な どには助言 や 援助の手 を差 しのべ, 個人間にいさかいのあ る 時 は これを調停 し, また医療活動 に も従事 していた。1870年,80年代 に開始 された国家教育計画 もまた,初期 においては,サ ンガに依存す るところ大で あ った。僧侶 は教師 とな って教壇 に立 ち,大 半の公 立学校 は寺 院に よ って運営 されて いた。 現 在では,すで に公教育 における僧侶 の責任 は解除 され,教壇 に立つ僧 の数 も,寺 院学校 の 数 も, ともに減少 の一途 をた ど りつつあ るとはいえ, いぜん と して多数 の学校 は寺院の中にあ る。一般 に, そ して中で も農 民社会 においては,僧侶 は今 日もなお 自発 的に社会福祉 のため貢 献 し続 けてい る。宗教 の分野 に限 らず,僧 は率先 して学校,病院,休息所,井戸,道路 のため その施設 を開放 して いる。バ ンコク ・トンプ リの首都圏では,公 立学校で教鞭 を とる僧 はほ と ん どいな くな ったが

,1

4

才か ら20才におよぶ

,9

,

9

1

4

名 もの地方 出身 の青少年学徒 た ちが,200 余 の寺 院において僧 と起居を共に してい る。 ●●●●●●●● 地方 における民衆 の僧 に対す る信頼 は厚 くその信仰心 は深 い。僧 の要請で あれば,何事 であ って も, 人 々は これに服従 し協力 を 惜 しまない (傍 点筆者)。 開発 の 速度が加速 を要す る今 日, も しサ ンガの援助 と協力が あれば,地域開発 諸計画 は,必ず や効果 的に達成 され るに違 い ない。 ●●●●●●●●● ●●●●●●●■●●●●●●●● 以 上の諸点 を勘案 し,政府 の国家開発 政策 の趣 旨に沿 って (傍点筆者), 当 (マ - - チ ュ ラ 50) MahachuZaZonghornra7-azJi4yaZaya

,p.89. 355

(19)

東南 アジア研究 11巻3号 表 4 地域開発促進のための僧侶訓練計画 (1966-68) 一 期 生 (1966) A コ _ ス t 二 (1,% )生 と 三(1莞8)坐 l 合 計 100 (研修コ-ス修了証書授与式における委員長報告より作成) ロンコソ大学) は,地方住民の生活水準向上を目指す政府 の努力に応分の助力を行 な う目的を もって,地域開発計画 の促進のため僧侶の訓練計画 を立案す ることが適 当であると考 えるo」 この 「訓練計画」は,各地方か ら選抜 された出家歴5年以上25年以下 の青壮年僧 (資格 はナク タム三級以上) を対象 とす る

A

コース」 と,仏教大学の卒業生 を対象 とす る

「B

コース」 と に分かれ る。

A

コース」の研修を終 えた僧 は,それぞれの出身地 において,地域開発 の中核 として活躍す ることが期待 されている。1966年,本計画開始以来,1969年までの三 力年間に, 両仏教大学の協力の下 に

A

コース (4

-6

カ月)」

,「B

コース (

2

カ月)」が各年一回,計三 回開催 され, それぞれ100名の研修生を送 り出 した (表4)0 1969年 7月 5日, 6日の両 日,バ ンコクにおいて,過去三カ年 の同計画 の成果 を評価す るた めの両大学合 同セ ミナーが開催 されたO このセ ミナーの報告書は地域開発 における僧侶参加の 実態 と, かれ らの問題意識の一端を示 して興味深い。51)セ ミナーは, 「社会問題」, 「寺院お よび村落開発」, 「国家 と仏教の安全」, 「地域社会 と布教」, 「地域社会 と教育」,の5分科会 に分かれ, 各地方における活動経験者 の 報告 が行なわれた。 各分科会 の 議 論 を 総 括す ると (1)農村 における貧困, とりわけ東北 タイにお ける水不足 は, 恒常的な貧窮を農民に強いてい るという事実の認識,(2)農村在住の僧 は,農民の尊敬を受 けてい るが,教育水準が低 く,開発 の推進に指導者た り得 ない こと,(3)(2)との関連において, 開発 を 指導す る人材不足が指摘 さ れている。 また,(4)共産ゲ リラであると否 とを問わず, 地方における匪賊 (Chonphurai)の 跳梁が農民を悩 ま していること, (5)異民族 に対す る布教 は,急速 な効果 を期待出来 ない こと, (6)異民族 に対 しては,相互理解 の努力が必要であるが,現状は理想か ら遠 く離れていること, (7)青少年の非行が社会問題 として存在 していること,な どが議論の中心 とな った。 こうした諸問題に対 して,地域 の開発 問題 は,政府 の力だけにたよ らず,各地方の住民の努 力が必要であるとし, そのために僧侶 も協力すべ きで あるとい う発言が行 なわれている。 いずれにせ よ,開発 計画 に対す る僧侶 の協力参加は,近年において弱ま りつつ あったサ ンガ

51) Kan∫ammanaPhraPh'k∫uphuaSong∫oem PhatthanaThongth'nhhongMahawitihayaZainatPhrabo -romarachuPatham,WanSapth'SZacWanAt/litth'6,KaraAadahhom,2512.(in2volumes).Bangkok,

n.d.(mimeograghed)

(20)

石井 :タイ国における国民統合 と仏教サ ンガの役割 の非宗教的機能 を再 強化 しよ うとす る運動であ るが, こう したサ ンガの新傾 向に対 しては,僧 は政府 に利用 され るべ きではない と して, これに真 向か ら反対 を唱え る在家者 もあ り,52)今後 の動 向が注 目され る。 (2) 山地 民統合 問題 とサ ンガ 前節 において は,仏教 あるいはサ ンガ に対す る上座部仏教徒 の 「根源的愛 着心」 に着 目 して 政府 が地域開発 計画 の末端へ の浸透 に僧侶 の協力を要請 し,サ ンガ は開発 計画-の積極 的参加 を, む しろサ ンガが伝統的に享受 していた社会的権威 回復の機会 と受 け とめ, 自発的に協力 し てい る状況 を見 た。本筋 では,北 タイ ・北西 タイの山地民統合問題 とこれに対す るサ ンガの協 力 について検討す る。 1959年 に着手 された タイ政府 の山地民対策 が, 1963年 ごろか らしだいに本格化 した事情 につ いて は,すでに述べた。53)こうした情勢 の中で,山地 民部落 に僧侶 を派遣 して仏教 の伝道を行 ない, まず 山地 民 を仏教徒 に改宗 させ る ことを通 して,かれ らにタイ人 と しての 自覚 を もたせ よ うとす るいわゆ る 「タ ンマチ ャー リック計画」54)が構想 された。仏教化 とい うプ ロセスによ って異民族 のタイ化 を促進 させ るとい うこの着想 は, 山地民問題 の直接担 当者であ った内務省 公共福祉局山地民課 々長 のプ ラシ ッ ト・デ ィ ッサ ワ ッ ト氏 NaiPrasitDitsawatの個人 的体験 に負 うところが多い。す なわ ち, 1964年, たまたま慣例 に従 い同氏 が得度 を受 け,バ ンコクの ベ ンチ ャマボ ピ ッ ト寺 において僧 と して修行 中, タイ人 の精神的紐帯 と しての仏教 の果 たす役 割 の重要性 を身 を もって再認識 した結果, 山地民を タイ人 とす るためには, まず これを仏教徒 とす ることが得策 であ り,その手段 と して,布教僧 を山地民部落-派遣す るとい う計画 を考 え つ いたので あるとい う。 ベ ンチ ャマボ ピッ ト寺住職 プ ラタンマキ ッテ ィソーボ ン Phratham一 makittisophonはプ ラシ ッ ト課 長の新構想 に賛意を表 し, 同寺 の僧 で文部省 タイ文化振興セ ン ター ・精神文化委且会 々長で あ ったブ ラシ- ウィス ッテ ィ ・ウォング phrasiwisutthiwongに, 協力方指示 した。プ ラシー ウィス ッテ ィ ・ウォングは,準備 と してまず現地 調査 を行 ない, 問 題点 の把握 につ とめることが重要である と し, 内務省係官 を帯 同 して,ペ ッチ ャブ ン, ピサ ヌ ロー ク,ルーイ三県 の ミャオ族部落を視察 して,帰京後,小規 模 な実験的計画 を策定 し,公共 福祉局 に提 出 して, その承認 を得 た.翌1965年, クー ク県 ,メ ェホ ンソー ン県 ,チ ェンマ イ県 , チ ェ ンライ県, ペ ッチ ャブ ン県 に居住す る六部族, す なわ ち, ミャオ族, ヤオ族, アカ族, リス族, カ レン族, ムス族 の部落,計10部落に対 し,5人編成 の布教 グループ10組,計50人 の 僧 が派遣 された。 これが最初 の 「タ ンマチ ャー リック」で ある。 これ らの僧 た ちは1カ月半現 52) たとえば評論家のスラック ・シ-ワラックなど. (前記セミナー第2日に行なわれた特別講演参照) 53) p.347参照 54) 「タンマチャーリック」は,律蔵大品第1,1ト1に 「比丘等よ遊行せよ Carathabhikkavecarikam (Mahavagga,I.ll,)Ⅹrom Prachasongkhro,RainganKanphoezbhaePhtraphuttha∫at∫anahaeCJをaokhao Tha71gPhahNunPi2509.Bangkok,1967.p.47.

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