東南 ア ジア研 究
1
8
巻3
号1
9
8
0
年1
2
月石 原 虞 一 郎 と 資 源 確 保 論
安
場
保
士 *「二】
Hiroichiro lshihara and 也 e Stable Supply ofIron Ore
YasukichiYASUBA*
Iiiroichirolshihara,ridingonthewaveofTaisho
Nan∫h'nron,Wentto British Malay to setup a rubberplantation. Aftera seriesoffailures,i n-cludingthatofthisventure,hediscoveredtwolarge iron-oredepositsinMalay and established himself in the minlng business between
1
9
1
9
and1
9
2
4.
From theseminesandothersmalleronesinSouth・ eastAsia,IshiharasuppliedJapanwith1
8
million tonsofiron orebetween1
9
2
1
and1
9
4
0
,approxi・ mately4
5%
ofthetotalconsumptionorironorein Japan.However,hedidnotreceivemuchsocialrecogn1
-Ⅰ 前 史 石原 贋 一郎 は明治
2
3
年1
月 ,京 都府 下 吉祥 院村 の 自作農 の長 男 と して生 まれた。吉祥 院 はい まで は市 街地 化 して い るが,石原 が生 ま れ た ころは まだ府 下紀 伊郡 の - 寒 村 で あ っ た。村 内を貫 流す る桂川 は毎 年の よ うに氾濫 し,村 民 の暮 ら しは貧 しか った。 堤 防が決壊 す る と村 民 は 日当5
0
銭 で修 復工事 に狩 り出 さ れ,石原 も しば しば これ に 参加 した と い う [石 原1
9
70:1
-2;
石原 産業1
962:2
]
。 吉祥 院 の村 人 の暮 ら しが 「どん底」1)だ っ た とい って も,石 原 家 は 田1町歩 所 有 の 自作 *京都大学東南アジア研究セ ンター (併任), 大阪 大学経済学部 ;The Centerfb∫SoutheastAsian Studies,Kyoto University.and Departmentof Economics,OsakaUniversity4
7
6
tionfrom hiscontemporaries,andhisachievements have been regarded rather ligh tly by historians. Inordertoexplainthistreatment,thispaperputs lshihara'sachievementsinhistoricalperspective.
Themajorreasonsappeartobe:(1)therewasa surplusoforeatthetimeoflshihara'sdiscoveries and(2)仏e military,which wasthe realdriving forcebellind the expansion oftheiron and steel industry befわre W orld W ar
I
I
, considered the supply from Malayand thePhilipplneSmoreVuト nerable and,hence,lessvaluable than thatfrom KoreaorNortheastChina.農 で あ ったか ら,石 原 本人 が生 活 に困窮 して いたわ けで は ない。贋 一郎 は京 都 農 林学 校 を 卒業 し, しば ら く家 の手 伝 いを して いたが, 間 もな く, 農林 学校 時代 の師,木村 良 の世 話 で,月 給
1
2
円5
0
銭 で京 都府 農 業技 手 に任官 し た。 そ して,宗 家石原 彦 次郎 の二女 トミと結 婚 し, 一女 を も うけて一 応安定 した生 活 の基 礎 を作 った [石原1
96
4:1
ト1
2
]
。
贋 一郎 は なか なか の野心家 で, さ らに立 命 館大学 の夜学 を も卒業す るが,高等 文 官試験 に合格 しないか ぎ りいつ まで た って も判任 官 どま りとい う将来 には満 足 で きなか った。 ま た,上 記木 村良 のす す め もあ り, 当時 よ うや く興 り つ つ あ っ た 「大 正期 南進 論」 [矢 野1
97
9:9
2-
95
]の潮 流 に乗 って南方 で-旗揚 げ1
)
山下留吉談 [石原産業1
9
6
2:2
]
。- 1
2
0
-安場 :石原 虞 一 郎 と資 源確 保 論 る ことを決 意 す る。 そ して , 大 正 5年 に, 2 年 ほ ど前 か らマ レー に渡 って い た次 弟 新三 郎 が 一 旦 帰 国 した の を機 に, 近 所 の青 年 ふ た り を誘 い, 妻 と長 女 の全 員 5人 で シ ンガ ポール - 渡航 した。 時 に廉 一 郎27歳 , 父 親 が 田畑 を 売 って作 って くれ た5,000円2)を持 って, 日 本 郵船 欧州 航 路 常 陸 丸 の3等 船 室 に お さま っ た の で あ っ た [石 原 1964:12-14;1970: 13 1-シ ンガ ポ ール を経 て一 行5人 が落 ち着 いた の は, ジ ョホ ール 王 国バ トパ - のパ ンチ ョ-ル に先 行 の弟 ふ た りが 開 墾 して い た ゴ ム園で あ った o そ して , 丸太 柱 , ア タ ップ葺 きの屋 根 ・壁 の高 床 住 宅 を 自分 た ちで建 て ,環 地 の 人夫 数 人 と と もに斧 ・鍬 を用 いて ジ ャ ングル を 開 墾 した 。 開墾 がす む と人 夫 は解 雇 し,仲 間 だ けで植 え付 けや除 草 に あた った 。 日 々が 苦 闘 の連 続 で あ り
,
「僅 か に与 え ら れ た慰 安 といえ ば, 夕食 後 ベ ラ ンダ で南 国 特 有 の澄 み き った月 光 を浴 びて ,榔 子 の菓 ずれ の 音 を聞 きなが ら,将 来 の抱 負 を語 り合 う こと くらい で あ った 」 [石 原 産 業 1956:4]。 石 原 の ゴム園 は大正6年 刊 の 『馬 来 に於 け る邦 人 活 動 の現 況 』 に よれ ば, 植 え付 け面 積 わず か に30ェ - カ ーだ ったか ら, 当時200ェ - カー程 度 の経 営 はザ ラだ った 日系 ゴ ム園 の 中で は,石 原 の事 業 は ま った くのか け 出 しで しか なか った [個 1917:巻 末 付録,13]。 と ころが石 原 の ゴ ム樹 が成 育 して ゴ ムの生 産 が で き るよ うに な る ころ, ち ょうど世 界 大 戦 が 終 って ゴ ム市 況 が 暴落 す る。 石 原 は, バ トパ - 政府 が 計 画 中 の水 道 工 事 を 引 き請 けて苦 境 切 り抜 けを はか るが , 大 戦 終 結 に伴 い水 道 工 事 もと りや め とな って , 計 画 は挫 折 す る [石 原 1970:21-25]。 そ こで , 大 正6年 にはせ っか くの ゴ ム園を売 り払 い, シ ンガ ポール に 「石 原 洋 行」 を設 立 して , 自転車 部 品 の輸入 , 2)なお,父親は先にふた りの弟にも2,000円を与 えている [石原 1964:910 ゴ ム ・郁 子 の輸 出な ど に活路 を求 めた。 しか し, これ も結 局 うま く行 か ず, 大 正8年 には 事 業 は破 産 に瀕 し,石 原 は金 策 の た め に帰 国 の遠 につ くことを余 儀 な くされ た [石 原 産 業 1956:5], Ⅲ 鉄 鉱 石 の 開発 輸 入 石 原 贋 一郎 自身 の回想 に よれ ば, 大 正5年 シ ンガ ポ ール到 着 の時 ,植 物 園 の歩 道 のバ ラ ス トが褐 鉄 鉱 で あ る ことを 知 り, そ れ な らこ の地 に豊 富 な鉄 鉱石 が あ る に違 い な い と判 断 し,「
これ を探 査 し祖 国 に不 足 し て い る鉄 鉱 を わが手 で供 給 して, 日本 の産 業 発 展 に寄 与 す る ことを使 命 と しよ うと固 く決 意 した」 と い う ことで あ るが これ は い さ さ か 疑 わ し い [同上 書 :序]。 も し, この話 が事 実 な らば 父 か ら 買 っ た 5,000円 が まだ残 って い る問 に もっと本 格 的 な探 鉱 活 動 を した はず で あ ろ う。 事 実 , ゴム が成 育 す る まで の期 間 に贋 一郎 は弟 新 三 郎 と 一 緒 に, マ レー 中部 か ら東 海 岸 にか けて, 秩 鉱石 を求 めて , 「1年 間 , 山野 を は いず り回 った」 [石原 1964:15]とい うが, どれ だ け 真 剣 に探 鉱 活 動 を行 な った か は疑 問 で あ る。 この ことは,石 原 が の ち に書 い た もの ほ ど探 鉱 活 動 の こ とを 強 調 して い る ことか ら して も 推 測 で き る。 鉄 鉱 山開発 は, む しろ, 石 原 が シ ンガ ポ ー ル のか つ て の体 験 を想起 して う った最 後 の ば くちだ った とい うべ きで あ ろ う。 とにか く, 父 か ら再 度 の援 助 を受 けた石 原 は再 び マ レー 半 島 に帰 り, 今 度 は本 気 で 鉄 鉱 山探 しにか か る。 マ レー半 島 にお け る石 原 産業 の経 営 鉱 山 は ス リメダ ンとケ マ マ ンで あ るが, 友 人 の情 報 に基 づ いて大 正8年 石 原 が最 初 に発 見 した の は, ジ ョホ ール王 国 シ ンパ ンキ リ川 岸 の ス リメダ ン鉱 山 (図 1参 照 ) で あ る。 この時 の模 様 を石 原 は次 の よ うに書 いて い - 121- 477東 南 ア ジ ア研 究 18巻3号 図1 戦前の東南アジアにおける石原の主要事業所 (昭和15年) る。 密林 の中を 奥深 く分 けて 行 く に つ れ て 「前 方 が次 第 に明 る くな った ので,患 かれ た よ うにその方 向- 進 む と,急 に巨木 が消 えて一 面の 潅木地 帯 に変 って視 野 が広 が って きた。 強行 軍 に疲 れた ので そ こで ひ と休 み しよ うと 腰 を お ろ しか けて脚下 を見 ると, オ ヤ黒 い岩 だ .′岩肌 はつ やつ や と黒光 り して い る。 これ は変 だ ぞ- 見 回せ ば あた り約二,三 百 坪 は み なその黒光 りの岩 だ。私 は もの も言 わず に い きな り腰 に した- ンマ-で岩 を くだ くと, なん とそ の断面 は鉄鉱 独特 の金 属 光沢 に輝 い て い るで は ないか。 『あ っ・-・・これ は鉄 鉱石 だ !』三 人 は期 せ ず して飛 び上 が って歓 声 を あ げた」 [石 原
1
9
7
0:2
8
-
2
9
]
。
ス リメダ ンの鉱 山は川岸 か ら約4
分 の1
マ イル の と ころか ら始 まる丘 陵で,
「高 さ 約 百 メー トル,総面 積約4
0
0
ェ -カー-・-鉱 量 は 約一 千万 トンと推定 され,-・-品位 は六十五 % もあ る赤 鉄鉱 で あ った」[石 原産業1
956:
23]。 もっと も,この よ うな希 にみ る優良 鉱 山4
7
8
を発 見 した もの の, それ だ けで事業 が始 ま る わ けで は ない。採 掘権取 得 ,資 金 ,市 場,採 捕,運 搬 な どいず れ も難 問で あ る。 まず採掘権 で あ るが,石原 は当初,外務 省 通 商局 長永 井松三 の協 力 を求 め, 出先 に移牒 して貰 う。 しか し, 国際 問題 にな る ことを お それ た シ ンガ ポール総領 事 の意 向で,結局,外 務 省 の協 力 は 得 られ なか っ た [同上書 :17
]
。 そ こで石原 は 自 ら, ジ ョホール政府 と折衝 し て,採 掘権 を得 るだ けで はな く, シ ンパ ンキ リ川 の下 流 ,バ トパ-川河 ロバ トパ - に対 し 開港場 の指定 を して くれ るよ う折衝 した [同 上書 :16
,2
7
-
2
8
]
。
英 国筋 は, 開港 に必 ず しも賛 成 で はなか っ たが, 当時第1
次大 戦終 了後 の不 況か ら, ゴ ム収入 が激減 して お り, 国王 に と って は鉱 山 開発 に伴 う失業者 の救済 ,鉄鉱石輸 出 に伴 う トン5
0
セ ン トの輸 出税 収入 増加 の魅 力 は大 き か った。結局 , わずか1日の折衝 の の ち,大 正9
年12
月 には国王 自身 の発 意 でバ トパ-開 - 122-安場 :石原贋一郎 と資源確保論 港 が認可 された。 次 に,市 場 につ いて は,開港 に先 立つ大 正
8
年 暮 れ,石 原 は一片 の紹 介状 も持 たず,八 幡製鉄所長官 自仁武 を訪 れ,南 方 の鉄鉱石 を 採掘 し, 日本 - の供給 の道 を開か な ければな らない と説 いた。鉄 鉱石 の売 り込 み と国の発 展 とを結 びつ けて説得 にあた ったのは石原 一 流 のや り口で あ るが,か れ の説得 力は よほ ど 強か ったので あ ろ う。 白仁 は直 ちに,技 師 を 派遣 して現地調査 をす る ことを約 し, その報 告 を受 けて,早 くも大正9年2月 には,大 正 10年5万 トン,11年10万 トン,12年10万 トン 以上 の長期納入契約 を締 結 した。 石原 は 「長官 のその大胆 さには驚 くほか は なか った」[同上書 :37]とい って い るが, 当 時 ,年 約60万 トンの鉄 鉱石 を輸入 し,大正7 年 以来 フ ィ リピ ンの カ ラ ンバ ヤ ンガ ン鉱 の輸 入 を始 めて いた八 幡 に と って,市 価 トン30円 よ り 5円安 い とい う 有 利 な 条 件 で [同上書 : 31,37]この程度 の約束 をす る ことはそ うた い した ことで はなか ったで あ ろ う [八幡製鉄 1950:215]。 われ われ はむ しろ,開港 も決 っ て いない時 に,大 量 の供給 を約束 した石 原 の 決 断 に驚 か ざ るをえない。 開港 が実現 しなか った とす れ ば, シ ンガ ポール経 由で鉱石 を送 り出す ほか はな く,運賃 は トン 1円50銭 ほ ど 割高 にな って いた はずで あ る [石原 1970: 51]。 しか し, さす が の石原 も鉱石 が輸 出 され る よ うにな るまで の金繰 りには苦 しめ られ る。 立命 館大学 良 と して な にが しか のつ なが りの あ る台湾銀行 頭取 中川小一郎 の肝入 りで,大 正9年 同行 か ら第 1次35万 円,第2次 65万 円,計100万 円を借 り受 ける話 が ま とま ると ころまで は,順 風 を帆 に受 けた観 が あ ったが, 第1
回融 資5
万 円が到着 して, ス リメダ ン開 発 が始 ま った ころか ら,風 向 きは一変す る。 第 1次大戦 の終結 に伴 って, 日本 経済 は不 況 に陥 り, 台湾銀行 が追加融資 に消極 的 にな っ たた めで あ る。 台湾銀行 は苦境 に陥 って いた 鈴木商 店 が重要 な貸 し出 し先 で あ っ た だ け に,新規融 資 を極 力押 え る方 針 を採用す るほ か はな く, シ ンガ ポール総 領事 の消極 意見 も あ って,石原 へ の融資 は中止 して し ま っ た [同上書 :4ト43]。 しか し, ここで も,石原 は無類 の好運 に恵 まれた。 シ ンガ ポール時代 の大 阪 の取 り引 き 先,守谷商 店 の塩 山支店長 の紹介 で,川崎造 船所 の永留専務 に会 い,結 局, 同社 々長,松 方幸 次郎 の後援 を受 ける ことがで きたか らで あ る。松 方 は石原 を激 励 した上,台湾銀行 か らの借入 に対 し,借 入金 相 当額 の川崎造船所 株式 を担保 と して提供す る ことを約束 した。 そ こで,台湾銀行 も75万 円を融 資す る ことに 同意 し,先 の 5万 円 に次 ぐ,第 2回融資 と し て30万 円を支払 った。石原 が松方 に対 し鉄鉱 採掘権 の50%を提供す る ことに よ って, この 後 援 関係 が成 立 した ので あ る。 か くして,大 正9年9月大 阪市 に本 社 を置 く南 洋鉱 業公 司 (石原 産業 の前 身) は資本金10万 円,石 原 と 松 方 そ して 松方 の 代理 人 田中慎 吉 の3人 を 「社 員」 とす る合 資会社 と して発 足 した [石原 産業 1956:19-22]。 そ して,30万 円の電送 を受 けた現 地 は次弟 新三郎 を指揮者 と して, 一時 中断 して いた樹木伐採,川掃 除,桟橋建 設 な どに と りかか った [同上書 :24]。 しか し,30万 円は またた く問 に使 い尽 くさ れ,同年12月 には,賃金 の支払 い もで きない 状態 に追 い込 まれた。 現地 に戻 って いた石原 は,
「われ われ の手 で 祖 国 に 不 足す る 鉄鉱 を 送 る」
た め,食糧 と ビール, ウイスキーだ け は十 分 に提 供す るか ら,2
カ月 間賃金 支払 い を待 って ほ しい と 従 業員 を 説得 した。 「祖 国 に鉄鉱 を !」
とい うス ローガ ンに 日本 人従業 員 が同 意 した ことはわか るが,300人 に上 る 中国人 , マ レー人労務 者 が この よ うな提 案 に 同意 した [同上書 :30-31]の は給料 その他 の 面 で のそれ まで の待遇 が よほ ど よ か っ た の - 123- 479東南 アジア研究
1
8
巻3号 か,あ るいは,当時,第1
次大 戦後 の失業 時代 で,食糧 と酒が あれば失業 よ りま し.とい うこ とだ ったのだ ろ うか。 の ちの石原 産業 で の賃 金 が 比較的 高 か った ことは 事実 で あ るが,3) 石原 が この段階 で それ ほどの信用 を得 て いた とは考 え に くく, おそ ら く, あ との解釈 が正 しいで あ ろ う。 とにか く,作業 はその後, 時間 を延長 し, 休 日 も返上 して続 け られた。 そ して,1
月 に は三 井船 舶部 の夕張丸(
7
,
0
0
0
トン) がバ ト パハ に入 港 し, 鉱石3
,
0
0
0
トンを積 み と って 帰航 の途 につ いたo この実績 に基 づ いて台湾 銀行 も融資残額4
0
万 円を送金 して きたか ら, 南洋鉱業 の経営 は よ うや く安泰 にな り,大正1
0
年度 には,納入5
万 トンの契約 に対 して, 実 に]3万 トンの実績 を挙 げた。創立1周年 の 晩餐 会 (大 正1
0
年9
月) には ジ ョホール 国王 が 出席 し, この地 をス リメダ ン (光 の野原) と命 名 した。従来 は,パ トメダ ン(石 の野原) とい うのが通称 で あ った [同上書 :3
3
-
3
6
]
。
この よ うに,多 くの好運 に恵 まれ,数人 の 後援者 の援助 を受 けた とはいえ,石原 の特徴 はで きると ころは全部 自分 た ちだ けでや ろ う とい う点 にあ った。初期 には,採掘,積 み込 み な どすべ て にわた って ズ ブの素人 が担 当 し, 「なん ら専 門的技術家 の設計 も建設指導 も受 け ることは なか った」 [石原 産業1
9
6
2:1
3
-1
4
]
。 それ に もかかわ らず,素人 の努 力 と研究 工夫 に よ って次第 に技術進歩 をはか る ことが で きた ことは, 日本 の経済発展 の秘密へ のひ とつ の手 がか りと して興 味深 い。 もちろん,石原 産業 も,次第 に大 き くな るに つれて,専 門技術者 を採用す るよ うにな り,技 術進歩 は加速度 化す る。 昭和 に入 る ころ,覗 場 には5
0
0
馬力 の 自家発電所 がで き,第1
か ら第 3に至 るエ ン ドレス運搬設備,川岸か ら 3)のちの文献には石原がかなり高賃金を払ってい たことが しばしば報道されて いる。 また膚 水[
1
9
7
8:
9
]
にもいくつかの例が引用されている。4
8
0
山麓 にいた る運 河 も完成 していた。輸 送 には 曳船1
5
隻, 停船6
0
隻を用 いて,1
日2
,
0
0
0
-2
,
5
0
0
トンの荷役可能 で あ り, 年 間3
0
万 トン 以上 の鉱石 を送 り出す ことがで きた。 また, 従業 員 も日本 人, 中国人, マ レー人 を合 わせ れば3
,
0
0
0
人 を越 え るまで に成長 して いた [石 原1
9
7
0:6
3
-
6
4
;石原産業1
95
6:3
6
]
。 Ⅲ 事業 の拡大 と多角 化 尭 に も述 べた よ うに, ス リメダ ン鉱石 の輸 入価格 は 当初 トン2
5
円だ ったが,第 1次大戦 の終結 に伴 って暴落 し,大 正1
3
年 には八 幡製 鉄所渡 しで トン1
1円5
0
銭, その うち運賃 が4
円5
0
銭 で,石 原 と して は これ はいか に も高 く みえた [石原産業1
9
5
6:1
6
6
]
。海運 の生 産性 は明治か ら大戦前 にか けて急上 昇 して お り, それ に 伴 って 運賃 も下落 して い た4)か ら こ そ, これだ けの運賃 ですんだので あ るが, こ の ころか ら次第 に強化 されつつ あ った政府 の 産業 へ のテ コ入 れを利用すれば, さ らに運賃 を 引 き下 げ る ことが可能 で あ った。 石原 は 「運賃市況 の変動 が激 しいた め,紘 石 輸送 を船 会社 に依存 して いて は,運賃が割 高 とな るばか りで な く,鉱 山経 営 がいつ も不 安定 を余 儀 な くされ るとい うことを過去3年 間の経験 に よ って 痛 感 し た」 [石原1
9
7
0:
7
4
]
と述懐 して い る。 だが,運賃 の不 安定 に 悩 ま され た ことは事 実 だ と して も,だか らと い って,直 ちに 「鉱石 輸送 の船舶 を所 有す る に しかず とい う結 論」[同上書 :7
5
】が 出 るわ けではない。 当時 は, いわ ゆ る社外船船主 が経 営 を大 拡 張 した直後 で, 日本 近海 で の不定期船 の競 争 4)明治期の海運の生産性の上昇というのは主 とし て輸入中古船の改善によるものであり,それと 船価下落,乗員賃金の相対的低下によって運賃 が下落 した。1
8
8
0
-
1
9
0
9
年における長崎一上海 間の石炭運賃は物価に比べて実に6分の1にな っている (安場[
1
9
7
9
]
参府)。-1
2
4
-安場 :石原贋一郎 と資源確保論 は激 し く, シ ンガ ポール- 北九州 の石炭運賃 は大正
1
2
-
1
3
年 の問,最高4
円5
0
銭,最低2
円8
0
銭 で あ った [日本郵船株式会社1
9
2
5:1
2
]
か ら, と くに,帰 り荷が少 ない マ レー一一日本 間運賃 を4
円5
0
銭 と して計算 したの はおか し い。 これはむ しろ南 洋鉱業 の輸送担 当者 が十 分 な経 営能 力を発揮 して いなか った ことを物 語 るにす ぎない。 む ろん,石原 が白仁長官 に説いた よ うに, 船 価 の安 い古船 を入手 して, マ レーー八 幡間 を 「トン3円5
0
銭か ら4円見 当の運賃で運」 ぶ ことは可能 なはず であ り,鉄鉱石 を 「製鉄 所構 内渡 し・--十一 円程 度で恒久的 に安定供 給す る」ことはで きたであ ろ う [石原1
9
7
0:
7
6
]
。 しか し, 石原 の本 意 は 自社船 に よる運 送 や鉄鉱石 の安定 供給 にあ ったので はあ るま い 。 従来台湾銀行か ら借 りた7
5
万 円だ けで,無 理 にや り くり して きただ けに,利 子払 い まで 考慮す る と南洋鉱業 の経理 は火 の車だ った と い うのが本 音で ある [同上書 :7
9
]。石原 が天 才的経営者だ ったのは,
「資源 の安定供給」と い う構想 に弱 い 日本 の有 力者 を説得 し, 自仁 長官 , 中川 台湾銀行頭取 な どの支援 を得 て, 鉱石 自家輸送 のための低利政府資 金2
5
0
万 円 の融資 を受 け る ことに成功 した点 に求 め られ る [石原 産業1
9
5
6:4
ト4
3
]
。 石原 の真意 が ど こにあ ったか は,融資総額2
5
0
万 円の うち 船舶購入 にあてた のが半 分以下 の1
0
4
万 円に す ぎず,他 は ス リメダ /設備 増設 に2
1
万 円, ケママ ン鉱 山の買収 に5
0
万 円,台鍛借入金 の 返済 に7
5
万 円をあてて い る ことか らも明 らか で あ ろ う。 石原 の なみなみな らぬ経営上 の才 覚 は,台銀借入 金返済 を条件 に,松方幸次郎 の持 ち分 を と り返 した ことに もあ らわれて い る [同上蕃 :4
3
]
。つ いで なが ら,初期 日本 資 本主 義 の特色 を受 けつ いで購入船舶3隻 はい ずれ も中古 のおん ぼ ろ船で あ った。 マ レー半 島 にお ける第2
の計画,東 海岸 ト レ ンガ ヌのケ ママ ン鉱 山 (図1
参照) は,大 正1
3
年, この時 の資金で,す で に採掘権 を持 って いた佐藤 作次氏か ら購 入 した もので あ る [同上書 :4
4
-
4
5
]。 この ころ まで には, 開発 技術 は大 いに進歩 して いたので, ケママ ンの 建設 は速 やか に進 め られ, また, ケママ ン開 港 も同年 中に許可 された [同上 書 :4
4
-
4
7
]
O
ケ ママ ンの マチ ャンスタ ウン鉱 山は,鉄鉱 石 とマ ンガ ン鉱 の両者 を含む鉱 山で,鉄鉱 は 赤鉄 鉱が鉄分6
3
%
, マ ンガ ン鉱が マ ンガ ン分2
3
-2
8
% ,鉄 分2
5
-3
5
%
とい う高品位鉱で あ った [同上書 :4
8
1
。
鉱 山建設 は,石原 が陣頭 に立 ち, ス リメダ ン開発 の経験者 が これ にあ た ったか ら,1年 足 らずで建設 を完了 し,大 正1
4
年 には,最初 の鉱石2
3
0
トンを送 り出す ことがで きるまで にな った [同上書 :4
6
-
4
7;
石 原1
9
6
4:2
8
]
。
昭和 に入 ると, ケママ ンは年 間1
0
-2
0
万 ト ン, ス リメダ ンは年 間8
0
万 トンを 出鉱す る勢 いで, 事業 もよ うや く軌道 に乗 った ので [石 原1
96
4:2
8
]
,石原 は昭和4
年 ,増資をす る とと もに,社 名を石原産業海運合資会社 と改 め, さ らに,昭和9年 には,組織 を株式会社 化す るとと もに,株式 の一部 を公 開 し,石 原 産業海運株式会社 と した。今 日と同 名の石原 産業株式会社 にな るの は昭和1
6
年で あ るが, この ころまで には事業 は さ らに多角化 し,石 原 の財界で の基礎 はゆ るぎない もの にな って いた [同上 論文1
6
6
-
1
6
8
]
。 鉄鉱石 はなん と い って もス リメダ ンが最大 で あ った が,石原 はほか に もフ ィ リピンと海南 島 の開発 を手 が けて い る。 フ ィ リピ ンの鉄鉱石 は, かねてか ら, その 存 在を知 られて お り,大正 9年 には対 日輸入 の話 もあ ったが, ア メ リカ行政府 が輸 出税 を 課 して これを阻止 した とい うい きさつ が あ っ た 【民谷1
9
3
5:7
5
]
。 と ころが,大 恐慌 後 ア メ リカの態度 は一変 し, 日本 に政府代表 を派 遣 して鉄鉱石売 り込 みを はか る始末 だ った。 - 125-4
8
1
東 南 アジア研究 18巻3号 この交 渉 は, フ ィ リピン側 の売 り込 もうと し た鉱石 が 日本 での製鉄原料 と して不 向 きだ っ た ことや, 日本 側 が経 営参加 を希 望 した こと もあ って,結局成 立 しなか ったが, これ を契 機 と して,石 原 は フ ィ リピン進 出を はか る こ とにな った [石 原産業
1
9
5
6:1
3
7
-
1
3
8
】
。
まず,ル ソ ン島南 部 のパ ラカ ン鉱 山 (図1
参照) はすで に地 元 の企 業 が採掘権 を持 って いた が,石原 は弟 の新三郎 を派遣 し,厳 しい 外人 差別 (ア メ リカ以外) を合 弁で切 り抜 け る ことによ って 開発 に成功 した。 昭和1
3
年 か ら出鉱 し,1
5
年 には2
1
万 トンを産 出 したが,1
6
年 には国際状 勢悪化 のた め,早 くも閉 山 に 追 い込 まれ た [同上 書 :1
3
9
-
1
4
6
]
。 フ ィ リピンにお け る もうひ とつ のプ ロジ ェ ク トは ミンダ ナオ東 北 沖 の ヒナ トア ン鉄鉱 山 で あ る。 石 原 は, 昭和1
3
年 ,大規模 な探鉱 調 査 を行 い,鉄 分4
8
-5
3
%
, 埋蔵 量2
億 トンの 大 鉱 山で あ る ことを確認 した。 と ころが, こ の島 はす ぐ対岸 の国営 ス リガ オ鉱 山 と利害 が 競 合 す るた め, フ ィ リピ ン政府 は ヒナ トア ン の開発 に難 色 を示 し,鉱区 標識 の一部 不備 を 理 由に, 昭和1
4
年 鉱業権 を否認 して しま った [同上 書 :1
4
6
-
1
4
8
]
。 ヒナ トア ンの北方 わずか 6マイル の と ころにあ るノノ ック島 の開発 の 方 は,石 原側 の万全 の配慮 もあ って, 採掘権 が与 え られ たが, その時 にはす で に昭和1
6
年 にな って お り,鉱種 の問題 もあ って実 際 の開 発 には至 らなか った [同上書 :1
4
8
-
1
4
9
]。 太平洋戦 争が始 ま る と,石原 は軍 の指令 に よ り,海南 島 田沢 鉱 山の開発 を手 が け, そ の ほか東 南 ア ジア各地 の鉱 山開発 に あた った。 また, ジ ャワへ の定期 船配船 を 中心 とす る海 運業 (昭和6年以 降), 経営不振 に陥 った南 洋倉庫 の経 営 テ コ入 れ (昭和5
年以 降), マ レーの ボーキサ イ ト開発 (昭和11
年以 降) な どに も手 を広 げて お り, ま さに南 進実践者 中 の最大 の大物 にな り上 が った。 しか し, か れ は これ に満 足せ ず,子 女 の教育, 従業 員 の慰 482 労 と健康保 持,家族 との関係 な どを考慮 して, 内地 に事 業所 を経 営 して,常 に,南方事業地 との間 に従業 員 の交 流 を はか る ことを企画 し た。今 日の石原 産業 が あ るの は,かか って こ の発想 に よる [石原1
9
7
0:9
9
]。 この構 想実現 のた め, まず, 昭和9年,兵 庫県 神美 金 山を買収 して経 営を始 めた。つ い で大 分県 旭 金 山を買収す るが, これ ら二 つ の 金 山は戦 時 中, 日本 産金振興会 社 に接収 され て しま う。戦 後 の石原 産業 の基 礎 とな った の は,熊 野 の銅 山 と四 日市 の銅精 錬工場 で,戟 時 には熊 野銅 山は従 業者3
,
0
0
0
人余 , 四 日市 工 場 は1
,
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0
人 をかか え る大 事業所 に成長 し て いた [石 原 産業1
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6:2
5
3
,2
5
7
]。 なお,石 原 は昭和 に入 って,独特 の帝 国主 義的南 進論 を展 開 し, 『新 日本 建設』[
1
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], 『転換 日本 の針路』[
1
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0
], 『南 日本 の建 設』[
1
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]な どの著書 を発表 し, また,政 治 に も ま き込 まれ て い く。 石原 の南 進 論 につ いて は す で に清水 元氏 のす ぐれた研究 【清水1
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]
が あ り,政治- の介入 は本稿 の射程外 にあ る か ら, これ らの 問題 につ いて ここで これ以上 言及 す る ことは避 けたい。 Ⅳ 日本 にお け る鉄鋼業 の発展段 階 この よ うに,石原虞 一郎 は ゴム園経 営か ら 始 めて,鉄 鉱石 開発 に成 功 し, さ らに多 くの 事 業-手 を伸 ば してい く。 しか し,石 原 が 自 分 で もっと も誇 りに して いたの は,鉄 鉱石 開 発 で あ ろ う。 この ことは,か れ の著 書 には必 ず 出て くるが, 『私 の履歴書』
で は, 「こう して私 はマ レーの ほか フ ィ リピ ンに二 カ所, 海 南 島- カ所 の鉄鉱採掘 事業 を営 み, 自家用 船 で安価 な原 鉱 を 日本 の製鉄所 -輸 送 して き た。 その総額 は,大 正1
0
年 か ら昭和2
0
年,大 東 亜戦争終結 まで の2
5
年 間で お よそ1
千8
百
万 トン,実 に この間 の わが国原鉱使 用量 の4
5
% を まか な った ので あ る」
[石原1
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4:3
0
]
- 126-安場 :石原虞一郎 と資源確保論 と述 懐 して い る。 た しか に, この面 で のか れ の活 動 は あ る程 度 政府 か らも認 め られ, 昭和
5
年 には,従五 位勲 六等 瑞 宝 章 を受 けた。 しか し, この評 価 は そ う高 い とはい え ない し, 日本 鉄鋼 業 史 で は石 原 は ほん の ワキ役 と して登 場 す るに とど ま る。 た とえ ば 『八 幡製 鉄所 五十 年 史 』 は 「新 資源 と して大 戦 末 期 の大 正7年 よ り南 方 鉱石 の輸 入 が行 われ た。 即 ち大 正7年 岩 井商 店 に よ る フ ィ リピ ンの カ ラ ンバ ヤ ンガ ン鉱石 と,大 正9年 石 原 産 業 の南 方 進 出 に よ るマ レ ーの ジ ョホール鉱石 とが これ で あ る」 と記 す るに とどま り, その後 のケ マ マ ンな どか らの 鉄 鉱石 輸入 に関連 して石 原 につ いて と くに触 れて は い ない [八 幡製 鉄 1950:215-216]O また 『現代 日本 産業 発達 史 』 の 『鉄 鋼 』 は 「昭和 に入 って か らマ ライ半 島か らの輸入 が 激 増 し,4
年 には中 国を しの いで, 日本鉄鋼 莱- の最 重要 な鉄 鉱石 供給 地 とな って い る」 [飯 田他 1969:216] と記 し, そ の他 の 箇 所 で も, マ ライ鉱石 の輸入 を論 じて い るが,石 原 産業 につ いて は なん ら触 れて いな い。 これ らの叙述 と石 原 の述懐 との問 に はい か に も大 きい ひ らきが あ る。 それで は,鉄 鉱石 の安定確 保 は戦 前の鉄鋼 業 界 ない し日本 経 済 に と って重要 で は なか った のか とい うと必 ず し もそ うはい え な い。 大 治 か らの鉄鉱石 輸 入 は どの史 書 に も大 き くと り上 げ られて お り, た とえば,小 島精 一 は 「明治 三 十 二年 (正 式 には三十 七年 ) には八 幡製鉄 所 は その所要 鉱 石 をヨ易子江 岸 の大 治 に求 めて長 期 投 資 の形 式 で , その供 給 を確 保 した ・--・八 幡対 大 治 の関 係 を考 え る前 提 と して,初 期 の八 幡 の使 用 鉱 石 がい か に大 治鉱 に依 存 す る と ころが大 きか ったか を示 して お く」 と して計 数 をかか げて い る [小 島 1945:607-608]。 昆期 的 にみ るな らば,石 原 が鉄 鉱石 供給 の 上で果 た した役割 が圧 倒 的 に大 きい ことは否 定 で きない 事 実 で あ る。 それ に も か か わ ら ず, 日本 鉄鋼 業史 にお いて石 原 が それ にふ さ わ しい扱 いを受 けて い な い よ うにみ え るの は なぜ だ ろ うか。 この疑 問 に答 え るた め には, われ われ は, 日本鉄 鋼 業 の発 達 史 を振 り返 っ て み る必 要 が あ る。 明治 日本 にお いて も 「鉄 は国家 な り」
とす る意見 は強 く, 「夫 レ鉄 -工 業 ノ母, 護 国 ノ 基礎 ナリ 。 製 鉄 ノ業 起 ラザ レバ万 葉 振 - ズ, 軍 備 整 - ズ, 此業 ノ盛 否 ヲ視 テ 国運 ノ如 何 ヲ 知 ル ニ足 ル ト-,能 ク人 ノ確認 スル所 ナ リ」 (野 呂景 義 .1891. 「鉄 業調 」- 三 枝 ・飯 田 [1957:108]よ り引用 ) とい った俗 論 や 「当世 紀 は実 に鉄 の時 にて,本 邦 にて も益 々其需 要 増 加 す るに,其 供給 は大 概 外 国 に仰 ぎ,一 昨 十 九年 輸入 高 は- -・三 百 二 十 四万 四千 五百 四 十 七 円五十 五 践 -・-輸 入高 の 内 ---未 製 品 は 凡 そ製 品 の六 分 の- 内外 なれ ば---今 後 製造 す べ きの余地 は 目下 の五 倍 な るを知 るべ し。 - - 斯 る製 鉄 の利 益 を挙 げて外 人 に帰 せ しむ るは, 甚 だ策 の得 た る も の に 非 ず」(
『朝 野 新 聞』 1888年7月 6日付 - 飯 田他 [1969: 178]よ り引用)とい う重商 主 義 論 が盛 ん に行 わ れて い た。 ただ, 官 営製 鉄 所 を作 る ことにつ いて は, 藩 閥政府 の権 力 の拡張 や利 権 の創 出を お それ る在 野 勢 力 の反 対 のた め, 日活 戦 争 まで に官 営 案 が衆議 院 を通 る見込 み は な く [同上書 : 93],5)民 営 案 も, 立地 に恵 まれ た釜石 鉱 山が 細 々と経 営 を続 けた ほか は, 採 算 ・資 金 難 な どのた め容 易 に実現 しなか った .6) 5)藩閥政府はたびたび製鉄所設立を計画 している が,自由 ・改進のいわゆる民党はそのたびにこ れに強 く反対 した。たとえば,第4議会では野 党は 「藩閥と情実とは依然としてある。--冒 海は殆んど私党の養成所 とな りました」 といっ て製鉄所設立はもちろん製鉄事業費の要求を も 拒否 した [三枝 ・飯田 1957:146]。 6)明治21年には,品川直道を中心とする京浜間の 産業資本家が結集 し,日本製鉄会社を創設 した が,明治27年の経済恐慌のため,建設未着手の まま翌年解散の憂 き目をみることになる。 - 127- 483東南 アジア研究 18巻3号 戦前 の多 くの政府 介入 と同様,反対論 を抑 えて,官 営案 が通 った のは軍 事的配慮 のた め で あ った。 日清戦 争で武器船 舶 の増 強が急務 とな るに及 んで衆議院 は従来 の 態 度 を 一 変 し, 「要地 に警備 を充足 し,砲 台 を築設 し,質 艦 を増 勢 し,武器 を改良 し,製鋼所 を設 け, 船 渠 を建 設す る等 ,凡 そ国防兵 備 に関す る事 項 につ き,速 に施 設 す るの必 要 を認 む ---」 とい う建議 を行 な った [同所]。 この よ うな世論 の変化 を背景 と して,農商 務大 臣榎 本武揚 は, 明治27年12月 ,官営製鉄 所設立案 を閣議 に提 出 した。 そ して,製鉄事 業 調査会 に よる慎 重 な調査 を経 て,設立地 と して は八 幡が選定 され,大 治鉄鉱石 の輸入 も 決 って [同上書 :23,102, 112], 明治34年 に は熔 鉱炉 に火入 れす る段 ど りとな った [小 島 1925:56]。 か くして,八 幡製 鉄所 は明治34年以 降,秩 鉄 ・鋼 鉄 の一貫生 産 を開始 し, 内地 にお け る 銑 鉄生産 の需要 高 に対 す る割合 は,間 もな く 50% を越 えた (表
1
参 照)。 と くに,第1
次大 戦 中 に, 多 くの民 間一貫製鉄所 が設立 され た 時 には,生 産高 は50万 トンを突破 し,需要高 に対 す る生 産高 の比率 は60%以 上 にな った。 しか し, イ ン ドか らの輸入 が次第 に増大 し, 満州 や朝鮮 か らの輸移 入 が始 ま るにつれ て, JLlー(i)-こ 年 次 大正1-4 5-9 10-14 昭和1-5 6-7 8-10 11-15 16-17 ー=12「 - m-生 産 高 トン 274,022 507,729 578,899 1,009,471 964,052 1,686,278 2,725,395 4,354,549 需要高 に対す る輸入 高 の比率 は その後漸減 す る。 イ ン ドか らの輸入銑 鉄 は と くに割 安 で,大 正10-14年平 均輸 入価格58.4円は国 内平 均価 格 よ り16%方 割安で あ った。 しか も,価格差 はその後 さ らに拡 が ったか ら, この時期 にイ ン ド鉄 の輸入 が急増 した の は当然 で あ るが, 国内民間製鉄業者 の力 が まだ弱 く,造船 ,機 械 , その他 の銑 鉄需要家 が総 供給 の2
分 の1
に近 い輸入銃 に頼 る とい う力 関係 の下 で は, 関税保護 によ って輸 入 を駆逐 す る とい うよ う な ことはで きない相談 で あ った。 一貫製鉄 論者 は,か りに銑 鉄 を輸入 して鋼 を生 産す る方 が安上 が りだ と して も,(1)銅生 産 のた め に銑 鉄 を再 加 熱す る必要 が あ る こと と, (2)一貫製鉄 の場合 , ガ ス, タール, その 他 の副産物 を利 用 で きる ことを考 えれ ば,秩 鉄輸入 論 は 間違 って い る と 説 いた [同上書 : 151]。 しか し, これ らの利点 が あれば その分 だ け一貫銑 鉄 を実質 的 に高 い値段 で評価 して よいはずで, そ う して も,輸入銑 鉄 を用 いた 方 が有利 だ とす れ ば,一貫製鉄 論 は勝 ち 目が ない。 そ こで, 当時 の反対論者 が正 し く指摘 した よ うに,推進論者 は 「彼等 の最後 の論拠 を 『国防上止 むを得 ざ るが故 に』 とい うこと に置か う」 と した [東洋経済新報 社 1920年 蓑 1 内 地 の 銑 鉄 需 給 (8) 輸 移 入 高 トン 207,387 284,869 405,349 619,186 572,478 890,802 1,015,888 831,378 一一1面一L一一一 輪 移 出 高 トン (5) 差 引 需 要 高 (2)+(8)-(4)トン 317 E 481,092 7,345 6,011 4,620 910 866 850 1,908 785,253 978,238 1,624,037 1,535,619 2,576,213 3,740,434 5,184,018 (年平均) 内地生産比率 (2)/′(6) % 57.0 64.7 59.2 62.2 62.8 65.5 72.9 84.0
資料出所 :商工省錬山局.r
製織業参考資料J)昭和9年6月調査.2ページ ;同金属局. F'製織巣参考 資料」昭和18年8月調査.3ページ. 484 - 128-表2 安場 :石原 贋一郎 と資 源 確 保論 内 地 へ の 鉄 鉱 石 輸 入 国 別 表 国 午 次 大正10年 間 11年 間
1
2
年
間 13年 間 14年 昭和元年 同 2年 間 3年 同 4年 間 5年 ア % -エ シ ー ン 量 ト ⋮ 同 9年 / 3,307 同 10年 L 58 同 11年 ! 66 同 13年 2,800 同 15年 46,841申
出 .「 4 国 儲 鮎 嘉島姦よ 甥 6 7 =.i Lg.
9 13 数 量 1シェア! 08t
(
至掌言付其他
)
644,730L78.771( /7 ) 0.。2闇 書き手蔓
享 3霊 鳥 7235',44S71i3,78'.;42も 37.07【 0.0011,261,786 0.0011,251,908133.12 ;94冒;…
D
6措 ;70 9 8 26 5 9 5 4 8 7 61 ;:…
呂≧≡:……;;;≡; 15.07 25.05 53.49 94.19 備考 昭和7年以降満州 ニ-関東州 ヲ含 ム1
6
3
,
4
4
1 264,933 290,213 290,053 434,837 738,502 958,61
9 997,891 921,601 877,886 927,232 873,395 1,474,282 1,691,432 1,632,584 1,600,144 1,936,731 2,041,366 1,193,373 76,887 そ 数 の 他 合 計 賢 二F -fA「敷 号 コ 13
8
,
28
7 173,780 童…重き…葺 68'0233. 46・
3
8
1
5
4
45・67L 631 49.2
9;
3
5
,
864 50.56 59.46 185,202 34,729 23.92! 57
8
,
0
56 o 5'
:§Zj 893,26
0
1,065,132 1,103,709 792,830 0 .:0.21.1,96:76・,49;
≡ 9.38 2.24 60.86 40.97 22,722 429,753 43.31; 667,973 4 544:7252も 冒……莞 56.24!1,094,855 42.
5
9㌦,
9
1
3
,
3
1
3 43・52l1,427,052 24・
3
0
1
1
・
038,049 2.051 54,800 資料 出所 :商工省金属局. 『製織業参考資料』昭和18年8月調査.239ページ. 12月1
1日 号]。 しか し,国 防 上 の見 地 か らす る 議 論 は 「有 事 の 際 輸 入 杜 絶 す る 〔ことの な い〕 内地 及 朝 鮮 」 の 原 料 に頼 る こ と に な る [小 島 1925:152]。この見 地 か らす れ ば ,内地 ・朝 鮮 の 鉄 鉱 石 とマ レー ・フ ィ リピ ンの 鉄 鉱 石 とは ま った (,性格 が 違 う こ とは明 らか で あ ろ う。 い ず れ にせ よ保 護 論 者 は 「関 税 保 護 が 全 然 問 題 に な らな い」[飯 田他 1969:199]7)とみ る と, 大 正15年 , か ね て か ら存 在 した 製 鉄 業 奨 励 法 (大 正 6年 ) を 強 化 延 長 して 実 質 的 な 保 護 を 実 現 した 。 す な わ ち, 従 来, 10年 間 の 土 地 収 用 法 適 用 , 所 得 税 ・営 業 収 益 税 な らび に設 備 輸 入 税 の 免 除 が主 内 容 だ った の を , 煤 護 期 間 を15年 に延 長 す る と と もに-一貫 製 鉄 に 1.49 20.16 1.973,659 1,549,919 1,482,409 1,523,627 2,131,916 1292..:23133,'47083',olS… 25・9013・Oll・197 シェア % 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 ……':……i…憲 oz
…
…亨…§§':冒 l 弓 i 21.14t4,910,070;100.0 1・46;3,757,694;loo.0 は トン6
円以 内 , 普通 銑 鉄 に は , トン3
円以 内 の 製 造 奨 励 金 を 与 え る こ と に な った の で あ る [東 亜経 済 調査局 1933:182-185]。 造船 業 な どの 需 要 家 に は さ らに多額 の奨 励 金 を 与 え て い るが , 奨 励 法 の改 正 が 鉄 鋼 一 貫 生 産 奨 励 - の第 1歩 で あ った こ とは間 違 い な い 。 7)ただ し,鉄鉱石 に対す る関税は明治34年 に撤廃 されてお り,銑鉄生産を助けていた。鉄製品に 対す る関税 は数次 にわた って改訂 されてお り, 明治44年の改正で は,インゴ ッ ト,薄板,葉板 7.5-lo劣, 保, 竿, 板, 線 など15%, 竃鍍 板,鋳鉄管, レール20%,電線支柱 ,建設材料 25%であった。保護関税 に対す る反対はこれ ら について も強 く, とくに造船業界の運動によっ て平均税率 は明治39年の22.1%か ら,19.1% -引き下げ られた T富永 1932:204-2051。 - 129- 485東南 アジア研究 18巻3号 もっと も, この程度 の保 護 で は銑 鉄生 産 は たい して伸 びず, した が って鉄 鉱石 の輸 入 も 大 戦 後 の落 ち込 みか ら容 易 に回復 しない。 昭 和 初年 にな って輸入 量 は よ うや く150万 トン を超 え, 同4年 には ほ とん ど 200万 トンに達 す るが,そ こで,大 不 況が起 こ り,生 産 も輸入 も再 び大 き く落 ち込 んで しま う (表 2参 照)0 操 業 中の高炉 数 は13基 ,生 産能 力 135万 トン に対 して, 遊休 炉数9基 , 生 産能 力 80万 ト ンとい う惨憤 た るあ りさまで あ った [飯 田他 1969:307]
。
先 に昭和3年 の不 況 に際 して は,政府 は カ ルテル を あ っせ ん して, 「民業 保護 」 を試 み た が,今 回 は, もはや, 関税 引 き上 げ に よ る 輸 入 防圧 によ って操 業 の拡大 を はか るべ きだ とい う議 論 に抗 す る ことはで きなか った [同 所J。 従来 100斤 あた り 0.lo門 (約5%) に 据 え 置かれ て きた銑 鉄- の関税 は0.36円 (ト ンあた り約6円)へ 引 き上 げ られ た。 当時 の 平 均輸入価 格 か らす れ ば26% 強 の保護 率 で あ った 。 その結果 ,鋼 鉄 の大 増産 に もか か わ らず, 満 州以 外 か らの輸入 は伸 び悩 み とな り, イ ン ドか らの輸 入 は若 干 回復 す る もの の,結局 昭 和4年 の 41万 トン とい う 水準 まで は 戻 らな い。 そ して,従 来,60% 強だ った総需要 に対 す る内地 生 産高 の割合 は65%以 上 に高 ま り, 太 平 洋戦時 の16年以 降 は別 と して も,昭和1
ト
15年 には内地生 産比 率 は平 均70% を超 え る。Ⅴ
マ レーか らの鉄鉱 輸 入 の意義 以上 ,第2次大 戦 前 の 日本 鉄鋼 業史 を銑 鉄 生 産 を 中心 に して時代 区分 をす る と,(1)八 幡 創立以 前 の時代 (明治33年以前 ), (2)八 幡準 独 占時代 (明治34-大 正 2年), (3)大 戦 によ る 民 営創 立 の時代 (大 正3-8年 ), (4)不 況時代 (大正 9-昭和 7年), (5)保 護 時代 (昭和7年 以 後 ) に分 かれ る。 486 八 幡創 立 時代 か ら第 1次大 戦期 にか けて, 従来十 分 だ と考 え られて いた 内地 鉄鉱石埋 蔵 量 が 当初 の希 望 的観 測 ほ どで はな い ことが わ か り, また,軍 備大 拡張 と と もに鉄鋼 需要 が 急 増 す るにつれ て, 大治 の重要性 が一 時的 に 高 ま った。 しか し, 朝鮮 ,満 州 ,東 南 ア ジア な どで鉱 山が開発 され るに及 んで,第1次大 戦 後 昭和 7-8年 ごろまで, 少 な くと も 鉄 鉱 石 に関 して は過 剰時代 が到来 し,価格 も暴 落 す る。 大 正7年 に24円だ った平均 トンあた り 輸入価 格 は,大 正末期 には8円強, 昭和 5年 には約9円 にな った [富永 1932:149]。む ろ ん,物 価 一般 も下落 す るが, その下 落 の程 度 は大 正7-昭和 5年 の投資 材物 価 で 28%程 度 で, 同 じ期 間 に鉄 鉱石価 格 が63% 下 が るの と は比べ もの にな らな い 「大 川他 1967:134]。 石原 産業 はた しか に,魔 大 な鉄 鉱石 を主 と して マ レー半 島か ら輸入 した。 しか し, そ の 輸 入 が急増 し,総輸入 量 の6割 を 占め るに至 った の は, ま さに,第 4期 の不況 時代 の真 っ 最 中だ った ので あ る。 マ レーか らの輸入 は そ の後 も増加 を続 け るが, 鉄鋼 一貫 生 産 の真 の 目的 が軍事 的 な ものだ った とすれ ば, マ レー か らの供給 は所 詮頼 る ことので きない存 在 で あ った。事 実 ,太平 洋戦 争 の影 が しの び よ る 昭和16年以 降, マ レーか らの供給 は激 減 して しま う。 したが って,石原 の功績 が,成 功 した ひ と りの投 機者 のそれ に しか みえ なか った のは 当 然 で あ る。 この観点 か らす るな らば,石原 が の ちに実 際 にそ う した よ うに,南 洋 を 「南 日 本 」 と して朝鮮 半 島 なみ に 日本 帝 国の一部 に と り入 れ [石原 1942]て しまわな いか ぎ り, 石原 の事業 は国家 的偉 業 には な らないので あ る。 もちろん,戦 中戦 後 の 日本 鉄 鋼業 の 目覚 ま しい進歩 をみれ ば,戦 前 か ら鉄鋼 一貫生 産 が 続 け られ て きた ことが産 み 出 した 「習得効果」
が大 きか った と論 じる ことは可能 で あ る。 そ - 130-安場 :石原贋一郎 と資源確保諭 して この議 論 が 正 しい とす れ ば , 石 原 の 役 割 も多少 再 評 価 され な けれ ば な らな い だ ろ う。 しか し,この よ うな分 析 は本 稿 の枠 を超 え る . 本 稿 で は戦 前 実 際 に行 わ れ て きた議 論 に基 づ い て , なぜ 石 原 贋 一 郎 の事 業 の評 価 が比 較 的 低 か った か を 説 明 す る こ とで 満 足 しな けれ ば な らな い 。 参 考 文 献 飯 田賢一 ;大橋周治 ;黒岩俊郎 (編).1969.『現代 日本産業発達史Ⅳ 鉄鋼』東京 :交誼社. 石原贋一郎.1934.『新 日本建設』立命館 出版部. .1942.『南 日本 の建設』東京 :清水書房. 集』 日本経済新聞社 (編)所収.東京 :l∃本経済 新聞社. 業株式会社. 石原産業株式会社.1956.『創業三十五年を 回 顧 し て』東京 :石原産業株式会社. 石 原 産 業株式会社. 小島精一.1925.『本邦鎖鋼業の現在及 将 来』東 京 :有斐 閣. 倉書房. 日本郵船株式会社.1925.『大正十四年 上 半 期 海 運及経済調査報告