江戸時代になると、文学作品も版本による普及が始まる。版木によって一度に大量に印刷されるようになるのであ る。しかし、それより前は、写本というかたちで文学作品は読み継がれていた。物語や和歌集を読みたければ、人か ら本を借りて書き写すよりほかなかったのである。 経典などの宗教・信仰にかかわる書物は、聖なる教えを正確に誤りなく写そうとするため、一字一句原本どおりに 写された。正当な文学と意識されていた漢詩・漢文・和歌も同様であった。しかし、物語は女こどもの心を慰めるも の、もてあそびものであり、正当な文学とは考えられていなかった。平安時代にあっては、物語も物語作者も、その 社会的地位は低かったのである。現代のように、作家が羨望される職業になり、作品が著作権法で守られているの 改寅される物語の写本
源氏物語には五十
I散供した巣守巻の古写本断簡I
四帖以外の
巻があった
池田
和
臣
−48−源氏物語には五十│呵帖以外の巻があった 一散供した巣守巻の古写本断簡 は、文学にとってごくごく浅い歴史にすぎない・ 社会的地位が低かったので、物語の原文を尊重し、正確に書き写そうとする意識は、平安時代の人々にはなかっ た。﹁枕草子﹄︵能因本二六二段︶には、﹁物語こそあしう書きなしつれば、言ふかひなく、作り人さへいとほしけれ﹂ ︵物語が悪く書き直されると、その作者までが気の毒︶とある。作者が気の毒になるほど勝手気ままに物語本文は書 き変えられたのである。たとえば、﹃挟衣物語﹄の本文異同の激しさなどは、よく知られた事例である。 表現だけでなく、ストーリーまでが改変されることもあった。鎌倉時代初期︵正治二年’一二○○lから建仁元年 I一二○一I頃︶に成った物語評論﹁無名草子﹄によると、﹃とりかへぱや物語﹂にはストーリーの異なる古本と今 本︵改作本︶が存在したと云う。﹁夜の寝覚﹄にも改作本︵ダイジェスト本︶が存在する。﹃伊勢物語﹂も、藤原定家 の整定した一二五章段からなる形になるまでには、長きにわたる変動・成長が、すなわち後人による増補・改編があ ったと考えられている。 では、﹁源氏物語﹄はどうであったか。聖なる古典﹁源氏物語﹂には、そのような流動はなかったと思われがちで あるが、実は﹁源氏物語﹄も例外ではなかった。平安末期︵嘉応元年’二六九Iから承安元年’二七一I頃︶に 成った﹃簾中抄﹂、その異本である﹃白造紙﹄︵正治年間’二九九から一二○一Iの書写︶には、﹁コレハナキモァ リコレカホカニノチノ人ノックリソヘタルモノトモ﹂、すなわち五十四帖以外に後世の人が作り加えた巻として、﹁サ クヒト﹂︵桜人︶﹁サムシロ﹂︵狭筵︶﹁スモリ﹂︵巣守︶の三巻の名が挙げられている。また、平安末期に成った﹃源 五十四帖以外の巻の存在 −49−
氏物語﹂の最初の注釈書﹃源氏釈﹄には、桜人巻の十三カ所の本文が掲げられ、注釈が加えられている。 ﹃源氏物語﹂も、平安末期には、表現の細部が改変されただけではなく、原作には無かった桜人巻や巣守巻などが 書き加えられていたのである。平安時代中期の原典成立から鎌倉初期の藤原定家による青表紙本の整定までの約二百 年間は、﹁源氏物語﹂もこのように流動していたのである。﹃源氏物語﹄が不動の古典・聖なる古典となるのは皐滕原 俊成・藤原定家などが祁歌の手本・教科書として学問的対象にしてから後のことなのである。 そのなかにも桜人・巣守があるが、 巣守は古本巣守巻とも呼ばれる1. 平安時代末から鎌倉時代にわたって、﹃源氏物語﹂の一部として読まれていた桜人巻や巣守巻であるが、残念なが らその写本そのものは散供してしまい、今に伝わってはいないl室町時代に作られて写本が現存する﹁雲隠六帖﹂、 そのなかにも桜人・巣守があるが、これらと平安末期の桜人・巣守とは別の作品である。区別するために、散供した しかし、幸いなことに古本巣守巻については、間接的な資料がいくらか残されている。 むすめ ﹁無名草子﹄︵正治二年’一二○○lから建仁元年’一二○一I頃、俊成女作か︶⋮・⋮﹁浮舟の君、巣守の中の君 などの、兵部卿の宮には思ひおとし侍るこそ口惜しけれ⋮⋮巣守の君は心憎き人のさまなれば:⋮﹂とある︵宇治 の中君説、巣守の中君説の両説あり︶。 ﹁風葉和歌集﹂︵文永八年’一二七一l撰集︶:::現行﹃源氏物語一一に見えない四首︵菫二首・匂宮一首・一品内親 王三位一首︶がある。巣守巻で登場人物の詠んだ歌と思われる。 古本﹁巣守﹂の復元
-50-源氏物語には五十四111'1以外の巻があった−散供した巣守巻の占写本断簡一 光源氏の異母弟である蛍兵部卿宮、その子である源三位には一男二女︵頭中将・巣守三位・中君︶があった。妹の 中君は今上天皇の娘である女一宮に仕え、匂宮が通っていた。やがて、匂宮は頭中将の手引きで姉巣守君にも通うよ うになり、巣守君も女一宮に仕えることになった。祖父︲父からの伝えの琵琶の才で、巣守君は三位を賜った。中君 のもとには匂宮の兄宮︵式部卿宮︶が通ってくるようになった。中君は乳母に譲られて典侍になった︵鶴見大学本古 系図︶・姉の巣守君は匂宮の華やかな性格を嫌い、童君の心深さに動かされ愛し合うようになった︵鶴見大学本では ような内容である。 これらの資料から、巣守巻の人間関係とストーリーがある程度復元できる。伝清水谷実秋筆本古系図では、蛍兵部 卿宮の孫であるべき巣守の三位を蛍兵部卿宮の子にしていたり、国文学研究資料館本古系図では、やはり蛍兵部卿宮 の孫であるべき中君︵内侍典侍︶を蛍兵部卿宮の子にしていたり、資料によって異同がみられるが、あらましは次の 述 、 鎌倉時代以降に作られた﹁源氏物語古系図﹄の類︵登場人物の多い物語を理解しやすくするために、人々の系図と 簡略な説川を付した書物︶:::正嘉本l桃園文庫本・火肌本I、伝渭水谷実秋筆本、大島本、伝家隆筆専修大学 本、鶴見大学本、国文学研究資料館本、源氏物語巨細、系図小鑑などにみえる、巣守巻の登場人物についての記 の詠んだ歌と思われる づるに、宮車にすべりづるに、宮車にすべりのらせ給て、宮﹂云々とあり、匂宮と巣守三位の歌三首が記されている。巣守巻で登場人物 巣守巻そのものでも梗概本でもなく、和歌中心のいわゆる源氏物語歌集と判断される︶の断簡。﹁すもり内よりい 堀部正二﹃中古日本文学の研究l資料と実証l﹂|:⋮.﹁源氏物語和歌集﹂︵訶耆きよりも歌を高く言いているゆえ、 _ 医 1 − J 上
菫と巣守君との関係は大内山隠棲後のこととする︶。巣守君は菫との間に若君を生むが、その後も匂宮は巣守君につ きまとい、それを厭うた巣守君は、女四宮︵冷泉院の女御であったが、籠愛薄きゆえ出家した︶のいる大内山に身を 巣守巻の匂宮・巣守三位・菫の関係は、現行の源氏物語の菫・浮舟・匂宮の関係を逆転したものとなっている。現 行の物語では、まじめな貴公子菫が色好みの匂宮に浮舟を奪われるのだが、巣守の物語では、菫が匂宮から巣守君を 奪うことになっている。菫に同情した後人が、菫を恋の勝利者に仕立て上げようと、巣守巻を害き加えたのだと推察 される。 ここに二枚の物語の断簡がある。平安・鎌倉時代の古写本の文字は美しいので、一頁ずつに切断され、手鑑に貼ら れたり掛け軸にされた。この二枚もそういう目的で切断されたものである。 そして、この二枚の断簡は同じ一冊の写本から切り取られた別々の頁︵﹁ツレ﹂と云う︶と認められる。料紙の質 が同じであること、料紙の大きさがほぼ同じであること、一面十一行書きという体裁が同じであること、そしてなに よりも癖の強い筆跡が同じであるからである。同様な筆癖と字形を表にして示してみる。︵︶の中の数字は本文の 行数。また、表に拾い出した文字は、それぞれの断簡本文の該当する文字右傍に傍線を付しておいた。 隠し、ともに勤行に明け暮れた。 きまとい、それを厭うた巣守君哩 ||枚の物語の断簡 −52−
源氏物語には五十四帖以外の巻があった−散供した巣守巻の古写本断簡一 釜 あ 趣 の 。 共通する筆癖と字形
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*筆癖の同質性、字形の同一性 象が大事。本断簡は、|字一宇の筆癖・字形も、全体的印象も、同一である︶ くとも全体の印象が同じということがよくある。一宇一宇の共通性と同時に、全体の印 の印象が似てないということがよくある。逆に、同一筆者の場合、一宇一宇は似ていな *筆癖の共通による全体の印象が同じ。︵贋作の場合、どんなに一宇一宇を似せても全体 *禿筆を巧みに駆る筆線の価が同じ・ .﹁お︵於︶﹂:。⋮方偏の、アヒルが口を開けたような書き癖。 。﹁く︵久︶﹂・・・⋮二画目が右上がりになる。 。﹁す︵寸︶﹂・・・⋮一画Ⅱが左上から右下にはいる。 。﹁て︵天︶﹂:.;.一画目が右上がりになる。 。﹁に︵仁ご⋮⋮扁平な字形で、三画目が二画目より右に出る。 。﹁の︵能︶﹂。:⋮終画を右へ直角に曲げる。 .﹁へ︵部︶﹂.:・・・漢字の﹁一﹂のような字形・右上がりになるものある。 。﹁ま︵末︶﹂⋮。:一画目が縦線の右に出ない。 .﹁ま︵満︶﹂;,⋮前の字の終画を﹁満﹂の一画目に直接つなげる。 .﹁よ︵与︶﹂::・一画目が右下りになる。 。﹁方﹂⋮・・.二画目を右へ長く引く。霞│衝
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1l 9 8 7 6 5 4 句 . の 1 0 乙 1O −54−源氏物語には五十『Llll',li以外の巻があった−散供した巣守巻の古写本断簡一 以上のように、この二枚の断簡は同じ一冊の写本から切り取られた別々の頁、すなわちツレであると認定できる。 ただし、意地悪く考えれば、次のような可能性も理屈としては考えられる。これらは、別々の二種類の散供物語の写 本から切り取られた、別々の物語の一頁ずつである、と。しかしながら、同じ筆跡で言かれた同じ体裁の散供物語が 二種類も存在したという可能性は、理屈としてはあり得ても現実的な可能性は極めて低い。Ⅲじ一冊の写本から切り 取られた別々の二頁と考えるべきである。 さて、物語の断簡というと、﹃源氏物語﹂か一一伊勢物語﹄か﹃狭衣物語﹄あたりと相場は決まっているのだが、こ のツレニ枚の物語の断簡はそれらの断簡ではない。また、現存する他の物語にも該当するものがない。二枚目には和 歌が記されているが、新編国歌大観・物語和歌総覧・鎌倉時代物語集成︵中世王朝物語全集︶などで検索しても、該 当する和歌が存在しない。散供してしまった物語の一部分と考えられるのである。ミロのビーナスの失われた片腕な らぬ、失われた指先、あるいは失われた爪の先が出てきたということになる。はたしてどのような物語の残骸なのか。 たくまる中のきみはおとうとなれといとよくつ し給まへる御さまににる物なきを人もなみ かたちはにる物なくてものをふかく思ひまは かへりたまいてなき給あはれに心くるしけなり 古本﹁巣守﹂の古写本断簡 本ま槌 ことをおしやりて十くわんそよみ 給いとけはいかすかにてうらやましう のみみたまへは うき世をもかけはなれなはいる月は ノー「一 一 0 0
口
いまめかしくてしきふきやうの宮そすみ 給おなしゆかりと思ひしかとなくさめかたくて なを恋しき人のおもひをかれぬに人は ひと方に思ひなりてまといありき圏ふたはやす 内侍のすけゆつりてなり給へりはなやかに しもまつよりみつへきたれは思ひまして き給て身をもやすらかにもてなし給へりせん 1︿伝冷泉為相筆﹀ 姿荊・I沙も跨縢針杢懲癖鶴慰謝総甜咽濯麺 ?⋮,、シカ吟j︲てf汽可と7く錆鷺蝿 i澱2つ?増篭乳いき熟人rや︵べ がくソ・1つ寸火さ、雫一m孵卜︽、、?↑溌いr︾.、、ひ溌涯 き燈﹂墨〃僻J’やLYIう癌内リイ鵜11、少狗怒7︸ 山こそついのすみかなるらめ なみたさへおつるけしきなるに そひふし給へり宮いさりいて給へ回い、 目しっ宮の御まへにしやうのこと まいらせていとおかしくあそひあかさせ 給てつとめてはれいの御ねんふつ のこといとなみ給みやこの方同同四 に 2︿伝越部局筆﹀ 。!、。辱︲。頁かf興纐も烏3〃好i二 ︻・浄岬価御岬包伽↓,︲や伽/劫i、,森川諦恥→“7税ヒト,,ル ー血?⋮ャ、しいうL認︲・→、︲i印、金1今叩謝j肌 一牝、、﹀Zj階く食し 一一歩猟や〃9︲7序?し予和漬?2剛 −56−源氏物語には五-'一四帖以外の巻があった−散供した巣守巻の古写本断簡一 一枚目には、﹁中のきみ﹂︵中君︶、﹁せんじ﹂︵宣旨︶、﹁内侍のすけ﹂︵典侍︶、﹁しきぶきやうの宮﹂︵式部川の宮︶ などの語があり、古本巣守の巻の登場人物とまったく重なっている。 ﹁心苦しげに泣いている、麗しい思慮深そうな女﹂は、巣守君と思われる。誤写があるのか波線部分の意味が不明 であるが、﹁中の君﹂に関わって﹁せんじ﹂︵宣旨︶という表現があり、﹃源氏物語巨細﹂が中君を﹁宣旨﹂と呼称す ることと関係がありそうだ。また、誰かから中君が﹁内侍のすけ﹂の地位を譲られたとあるが、鶴見大学本古系図の ﹁御めのとのゆつりにてないしのすけになる﹂、あるいは国文学研究資料館本古系図の﹁御乳母のゆつりにて典侍にな り給ふ﹂という説明と一致している。宣旨と呼ばれていた乳母から中君が典侍の職を讓られたか、あるいは女一宮の もとで宣旨と呼ばれていた中君が乳母から典侍の職を讓られたかの、いずれかであろう。 ﹁宣旨﹂は、天皇の命令︵宣旨︶を蔵人に伝える尚侍・典侍などの内侍司の上脳の女官を指す他、中宮・春宮・斎 院・関白家などの上稿女房をも指す。﹃源氏物語﹄では桐壺院の女房、朝顔斎院の女房に宣旨がいる。それゆえ、女 一宮付の女房である中君が宣旨と呼ばれていてもおかしくはない。また、乳母が宣旨と呼ばれていたのなら、それは その乳母が宣旨を伝える典侍の職にあったためと考えられる。 断簡にはさらに、﹁中君ははなやかで現代風な人で、式部卿宮が通い始めた。以前はくおなじゆかり﹀、すなわち式 部川宮の兄弟が通っていて、その男のことが忘れられないのだが、その男の方は新しい女に夢中になっている﹂とい うことが書かれている。このことも、﹁中君に通っていた匂宮が姉の巣守君に通うようになり、中君には匂宮の兄の 式部川宮が通うようになった﹂という古系図類の説明に一致している。 二枚目は大内山の場面であろう。経典らしい十巻を読んでいるのは四宮か、それを見てうらやましく思い涙するの は巣守君であろう。﹁そひふし給へり﹂がよく分からない。巣守君がものに寄りかかったのか、誰かが巣守の傍らに _ 貝 ワ ー qノ』
添い寝したのか判然としない。後者なら、引き続いて﹁宮いざりいで給へぱい、さしつ﹂とあるから、巣守君に添い 寝したのは四宮ではないだろう。巣守君が四宮にはばかって話すのを止めた、その話し相手が確実にここには居る。 四宮の目をはばかる誰かが巣守君に添い寝していることになる。それは薫以外に考えられない・とするなら、鶴見大 学本古系図が﹁朱雀院の四宮に参りて隠れたりしを菫中将見給て語らひより給ふ﹂とするように、薫と巣守君の関係 は巣守君が大内山に隠棲した後ということも考えられるか。そこまでゆかなくとも、少なくとも菫と巣守君の関係 は、大内山隠棲後も続いていたということにはなろう。 ﹁うき世をもかけはなれなぱいる月は山こそついのすみかなるらめ﹂︵自分も俗世を背いて出家したら、月と同じよ うにこの山が終の棲家となるのでしよ ﹄、ノー二句・ヘノテヘ牙コハノ、J主月里つ、、梁訟Iムこ凸多﹄ 参考︿人間関係図﹀ う︶という女君の心情や、念仏にいそ老一筆.7 しむ姿は、古系図類にある巣守君の説−1朱雀院 明に合致している。
以上のように、二枚の断簡は間接的︲源氏
資料から復元されている古本巣守の内 、、︲蛍宮
容にぴたりと一致している。﹁巣守の 、、 君﹂とか﹁巣守の三位﹂とか、﹁巣守︲|という言葉そのものはないので、この藤中
断簡が百パーセント巣守巻であると断 定することはできないが、見てきたよ 藤中 ︵大︶納言一 一 源三位”一丁
女 四君’
| 女 輔中納言 目 = = = =|
一一L一司雷署奄
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二宮︵式部卿宮︶ 若 君 −58−源氏物語には五-'--│ノLI帖以外の巻があった−散供した巣守巻の古写本│釿簡一 大内山の場面と推測されたので、古本﹁巣守﹂の断 元されている﹁浜松中納言物語﹂の散供首巻の内容 式部卿宮に優れた一人息子がいた。声望も高かつ は亡くなり、北の力は左大将と再婚した。左大将戦 を嫌い、母は思い悩んだ。男君は中納言になり、畜 将の大君を望み、父左大将も承諾した。しかし、美 うな状況証拠の上からは、幻の巣守巻の写本の一部と考えられるのである。 平安末期から鎌倉期にかけて、﹃源氏物語﹄の一部として読まれながら散快してしまった巣守巻、その写本そのも かけら のの一部分が、わずかな欠片にはすぎないが、ここに出現したのである。同じ写本から切り取られた別の頁︵ツレ︶ のさらなる発見を、そしてそのことによって幻の巣守巻の実体が明らかになることを、切に期待したい。 を我が物としてしまう 一枚目の断簡は十五年ほど前から手元にあったが、そこに記された﹁中のきみ﹂︵中の君︶と﹁しきふきやうの宮﹂ ︵式部卿の宮︶との関係は、古本﹁巣守﹂のみならず、﹃浜松中納言物語﹄の散快首巻の人間関係とも重なるものであ った。それゆえ、いずれの物語か臆断を下すことが出来ないでいたが、一昨年ツレの二枚目が出現、古本﹁巣守﹂の 大内山の場面と推測されたので、古本﹁巣守﹂の断簡として紹介することにした次第である。そこで念のために、復 元されている﹁浜松中納言物語﹂の散供首巻の内容も記しておく。 式部卿宮に優れた一人息子がいた。声望も高かったが、臣籍に下し源姓を与えた。これが主人公である。式部卿宮 その頃、中納言は故父宮が唐の第三皇子に転生していることを伝え聞く。式部卿宮が大君に近づかないか気がかり |枚目の断簡と﹁浜松中納言物語﹄散快首巻 。左大将も妻を亡くしており、大君・中君の姫君がいた。男君は継父左大将 になり、帝の若皇子が式部卿となった。この式部川は名高き色好みで、左大 しかし、義兄妹として大君に親しんでいた中納言は、その縁談を知り、大君 _ R Q − Lノ己ノ
ることが分かる。こうなると、父左大将は式部卿宮を大君に通わすことも出来ず、代わりに中君を式部卿に通わせ た。中納言の子を懐妊した大君は、中納言の母の邸に預けられたが、父に見捨てられたように思い出家してしまう。 やがて尼姿の大君は女子を出産した。 +’20670+’281288︵1297︶13041367︵︶1384 2ぴ︵二標準偏差︶の誤差範囲には約95.45パーセントの確率で実際の年代が含まれるとされている。また、 ︵︶内の数値は、炭素M年代の670を暦年代に換算︵較正︶した年代であり、最も確率の高い年代である。それ ゆえ、この断簡の測定結果は鎌倉未から南北朝時代︵1288∼1304年か1367∼1384年︶のものという 誤差範囲であるが、︵︶内の1297という年代の近辺に実際の年代がある確率が高い。つまり、この断簡は鎌倉 末期のものである確率が高く、鎌倉末期の巣守巻の写本の存在を示す物証なのである。 なお、放射性山 が得られている。 しかしながら、一枚目の﹁せんし﹂︵宣旨︶、﹁内侍のすけ﹂︵典侍︶という語、そして二枚目の主人公が﹁山﹂で ﹁宮﹂と勤行にいそしむ場面を総合すると、やはりこの二枚の断簡は﹃浜松中納言物語﹂の散快首巻ではなく、古本 ﹁巣守﹂と臆断されるのである。 であったが、孝養の志深い中納言は、唐に渡ることを決意する。中納言渡唐の後、大君が中納言の子を身ごもってい 放射性炭素の含有量から和紙の年代を測定する最新科学の研究によって、これら断簡は次のような測定結果 放射性炭素による年代測定 −60−
源氏物語には五十四il]117以外の巻があった−散供した巣守巻の古写本断簡 散供物語巣守巻の古写本断簡の報告、それをとおして述べておきたかったふたつのことがある。 ひとつは、散供作品研究における古筆切の資料的価値についてである。古写本を一頁ずつに切断した古筆切は、そ れ自体としては微々たる断片でしかない。しかし時たま、まったく写本が伝存していない作品の、あるいは完全な形 の写本が伝存していない作品の、すなわち散供作品の古筆切が出現する。そういう時は、たった一枚の古筆切が散供 してしまった作品の実体究明の貴重な資料となる。ミロのビーナスの失われた片腕ならぬ、失われた指先、失われた 爪の先にしかすぎないものが、おおきな意義を持つ。それゆえ、散快作品の古筆切が出現した時には、その存在をす みやかに多くの人に知ってもらい、まだどこかに埋もれているかも知れないツレを、一枚でも多く発見する契機とし なければならない。散供した﹁源氏物語﹄の外伝、巣守巻と推定される断簡の存在を報告することによって、さらな るツレの発見を期待し、巣守巻の実体が明らかになることを切に望みたい。 もうひとつは、平安時代における物語書写の実状についてである。書写する者の手によって表現や筋立が改変され てしまう、物語の流動するありようを再認識しておきたい。ひいては、写本文化の中で作品が古典へと成長すること は、作者の原典から遠ざかることでもあり、多くの人々の手によって洗練されてゆくことなのだということを、再認 識しておきたい・古典の中の古典、聖なる古典と見なされている﹃源氏物語﹂も、原典成立から定家本が整定される までの二百年間は、後人の手が加えられ流動していたのである。古写本巣守巻の断簡の存在がその証しである。鎌倉 末期耆写の巣守巻の写本の存在は、鎌倉末期においても﹁源氏物語﹂の一部として巣守巻が読まれ、﹃源氏物語﹂の おわりに −61−
付記
シンポジウムでの題は含源氏物語﹄外伝I散侠﹁単守﹂の古写本断簡かl﹀であったが、題を︿源氏物語には五
十四帖以外の巻があった﹀に改め、原稿化した。 流動がささやかながら続いていたことの、証しなのである
/、イ、