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南船北馬集 : 第五編 利用統計を見る

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(1)

南船北馬集 : 第五編

著者名(日)

井上 円了

雑誌名

井上円了選集

13

ページ

123-258

発行年

1997-03-20

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00002950/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

(2)

南船北馬集 第五編

       

(3)

1.冊数

  1冊

2.サイズ(タテ×ヨコ)   188×127㎜ 3.ページ   総数:128   目次: 2   本文:126 .:’1//「

懇北鼻

篇五椙,

肇轟難

(巻頭) ×﹂ 竪、 .咀墓渠主

寵継蟹

ぐ /. 4.刊行年月日   底本:初版 明治43年12月20日 5.発行所   修身教会拡張事務所

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千葉県安房、上総二州紀行

南船北馬集 第五編  ここに千葉県紀行を叙述するにさきだち、明治四十二年十二月二十四日、埼玉県大里郡熊谷町︿現在埼玉県熊谷 市﹀農学校に至りて講演をなし、四十三年二月十日、神奈川県第三中学校︵愛甲郡厚木町︿現在神奈川県厚木市﹀︶に 至りて講話をなしたることを表示すべし。前者の校長は青木信一氏にして、後者の校長は大屋八十八郎氏なり。   熊谷町  農学校  一席  二百人   厚木町  中学校  一席  四百人    合計 ニカ所、二席、六百人  明治四十三年二月十二日。朝、霜気稜々。天青く地白き中に、車をはしらせて八時前、両国停車場に至り、房 総行の途に上る。随行は角田松寿氏なり。蘇我駅に降車して上総国市原郡八幡町︿現在千葉県市原市﹀旅館東屋に着 す。ときに午前十一時なり。会場は小学校にして、主催は郡教育会なり。郡長池内才次郎氏、郡視学森川忠氏の 配意によりて盛会を得たり。会長大河内初氏、校長鴇矢忠郎氏もっぱら尽力せられ、町長江沢信次氏、教育家山 本文雄、福原清次二氏もまた助力あり。会後、八幡神社に詣す。東京深川八幡社と海を隔てて相対向すという。  二月十三日︵日曜︶ 晴れ。森川郡視学と車を連ね、養老川にそい、海上村く現在千葉県市原市∨小学校に至りて開 演す。   凍風吹断見春晴、車上暁寒醒宿醒、養老川頭南総路、梅花香裏踏霜行、 123

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  ︵いてつく風は吹き途絶えて春の晴天となったが、車上の身に早朝の寒さはふつかよいをさます。養老川の   ほとり、南総の道を、梅の花の香りただようなか、霜をふんで行くのであった。︶  村長立野徳次郎氏、校長斎藤栄氏、土岐共平氏、小笠原関等の諸氏、みな尽力あり。夜に入りて、会場をへだ つること約一里、市西村泰安寺に移りて宿す。住職井口善叔氏は旧哲学館出身なり。  十四日 晴れ。鶴舞町︿現在千葉県市原市﹀開会。町は丘上にありて、その寒気は千葉県第一なりという。会場小 学校は旧藩主の御殿なり。当夕、旅館小松本屋に宿す。町長今関邦次郎氏、助役深山大三郎氏、校長金子待時氏、 大久保校長、加美安宅氏等、みな尽力あり。主催はすべて郡教育会なり。   松邸麦圃路横斜、鶴舞村頭晩駐車、地気不欺春信到、霜風冷処見梅花、   ︵松林の丘や麦畑を、道は横ざまであったり斜めにと通る。鶴舞村のあたりで日も暮れ、車をとどめて宿に   はいった。大地の生気はあやまりなく春のおとずれを示し、霜をふくんだ風の冷たい所にも梅花が見られる   のである。︶  十五日 晴れ。午前中は鶴舞町にありて揮毫に従事す。午後、馬背にまたがり、丘山を上下して君津郡久留里 町︿現在千葉県君津市﹀に移る。山上、遠望するによろし。宿所は同町山田旅館なり。町内、小楊子を産出す。その 金額、毎年一万三千円に上るという。  十六日 晴れ。久留里小学校にて開会す。発起者は町長寺山寛容氏、校長浪久敬之助氏なり。会後、真勝寺に おける仏教道徳会の新年会に出席す。住職は武田俊明氏なり。  十七日 風雨。車行して木更津町︿現在千葉県木更津市﹀に向かう。途中、郡長岡巌氏の歓迎あるに会す。宿所は 124

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南船北馬集 第五編 松川旅館なり。夜に入りて、郡会議事場にて開会す。ときに雨ようやく晴るる。主催は斯民会にして、会長は岡 郡長なり。町長幸崎政次郎氏、郡視学杉山与三郎氏、校長佐藤啓氏等、みな尽力せらる。  十八日 晴れ。風あり。午前、木更津中学校にて講話をなし、更に杉山視学とともに佐貫町︿現在千葉県富津市﹀ に移る。中学校長は畑勇吉氏なり。この辺り、戸々みな噴泉ありて、水いたって清し。会場は佐貫小学校、主催 は町長大森俊氏、校長笹生健治氏、宿所は鯉田屋なり。当日、途上吟一首あり。   凍雨夜来風巻濤、暁晴回望気何豪、相山一帯如波走、雪色涯天蓮岳高、   ︵いてつくような雨が一晩中つづき、風は波濤を巻くように吹く。朝の晴天にみまわせば、なんと豪快であ   ることか。相模の連なる山々は波の走るがごとく、雪の色を空いっぱいに見せて富士山が高だかとそびえて   いるのだ。︶  十九日 穏晴。馬車に駕し、相州の連山と富峰とに応接しつつ鋸山をめぐりて房州に入る。   夜来風浪暁来収、相海雲開好凝眸、路向鋸山自成燧、送迎富岳入房州、   ︵昨夜からの風浪は朝になっておさまり、相模の海も雲もはるかに見渡せる。道は鋸山に向かっておのずか   らめぐり、そのために富士の姿が隠見するなかを房州に入ったのであった。︶  午後、安房郡保田町く現在千葉県安房郡鋸南町v小学校にて開会す。町長早川儀之助氏等の発起なり。  二月二十日︵日曜︶ 曇晴。午前、宿所松音楼を辞して鋸山にのぼる。満山みな石材なり。乾坤山日本寺に一休 し、五百羅漢および三十体観音を巡詣す。石像の九分どおりは胴のみありて頭なし。石像になんの罪ありて、か く斬首せられしやを思わしむ。絶頂は十州を一望すべしという。その風景の美は東海第一と呼ぶも過賞にあらず。 125

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  鋸峰高処尋禅寺、春霧濠々山欲睡、般若談中望漸開、風光如酒使人酔、   ︵鋸山の高所に禅寺をたずねれば、春がすみがたちこめて、山はねむりこもうとするかのようである。悟り   を開く知恵などを談じているうちに視界がようやく開けた。その風光はあたかも酒の人を酔わせるがごとき   おもむきがある。︶  山上にナンジャモンジャととなうる奇樹あり。この日、郡視学野沢常太郎氏とともに木の根嶺をこえ、那古観 音に詣して、北条町︿現在千葉県館山市﹀旅館木村屋に着す。  二十一日 晴れ。午前、郡立高等女学校にて講話をなす。校長は八巻嘉作氏なり。午後、中学校講堂にて開演 す。主催は大道会にして、秋山弘道氏、正木貞蔵氏、その幹事たり。郡長太田資行氏は病臥中なり。たまたま檜 垣直右氏をその僑居に訪う。氏は喜びて﹁世をすくふおおしき君かこころをは、かみも仏もまもりますらむ﹂の 国風一首を賦して贈らる。  二十二日 晴れ。車行遅々、富峰を見送りて山に入り、更に渓を出でて富峰を迎う。当面に大島三原山の雲煙 をいただきて横臥するを望む。   相海房山明且清、風光随処動吟情、暗如有約蓮峰雪、看送人渓出又迎、   ︵相模の海と房総の山は明朗かつすがすがしく、その風光はいたるところで吟詠の情をかきたてる。ひそか   に約束でもしたかのように富士の雪は、人の谷に出入りすることに見送り、また出迎えてくれるようである。︶  途上、官幣大社安房神社に拝詣す。門庭人影なく、梅花ひとり額郁たり。   一路房山将尽辺、祠門遥認抜林泉、神前春昼無人費、鳥語花光転粛然、 126

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南船北馬集 第五編   ︵道は房総の山波の尽きはてるあたりにいたる。安房神社の門がはるかに林や泉のかなたに見え、神前の春   のひなかにも人の拝礼におとずれる姿はなく、鳥のさえずり、花の美しさもなんとはなしにものさびしい。︶  午後、富崎村︿現在千葉県館山市﹀小学校にて開演す。校長御子神勇次郎氏、学務委員神田真吉氏等の発起なり。 当地には遠洋漁業者多し。  二十三日 晴れ。白浜を経て犠町︿現在千葉県安房郡千倉町﹀に移る。途上、菜花満開、もって気候のいかに温暖 なるを知るべし。   二月房南試客遊、軽風一道菜香浮、灯台脚下時回首、雲際青山是大洲、   ︵二月、房総南部への遊説の旅にでた。軽やかに吹く風とひとすじの道に菜の花の香がただよう。白浜灯台   の下に立って見まわせば、海上の雲ぎわに見える青い山は大島である。︶  白浜灯台を過ぎて蟻町に入れば、大島は背後に没し、ただ太平洋の蒼荘たるを見るのみ。会場は円蔵院にして、 聴衆、堂にあふる。諸般の準備よく整頓せり。宿所は千倉温泉にして、鉱泉温浴の設備あり。主催は町長小林専 吉氏、助役岩瀬久次郎氏、区長高橋、野口氏等町内有志にして、みな大いに尽力あり。  二十四日 晴れ。和田町︿現在千葉県安房郡和田町﹀小学校にて開演す。主催は町長劒持安太郎氏、校長小西鍋吉 氏、僧侶渡辺竜翁氏、医師安田弁蔵氏等なり。学校の建築および位置、ともに佳良なりとす。当夕、金子屋に宿 す。  二十五日 晴れ。太海村︿現在千葉県鴨川市﹀に至るの途中、岩窟を入覧す。その窟内の深さ幾里なるを知らず。 その近傍に七不思議あり。会場は小学校、宿所は旅館なり。村長田村猪吉氏、校長鈴木哲蔵氏等の発起にかかる。 127

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 二十六日 雨。朝、太海を発し、鴨川、天津両町を経て小湊に至るとき、烈風暴雨、天ために暗し。日蓮十大 霊蹟の一たる誕生寺に詣するも、一人の参拝者を見ず。   漁屋連軒路一条、満天風雨巻寒潮、入門独詣誕生寺、妙法無声春寂蓼、   ︵漁をなりわいとする家が軒を並べて、ひとすじの道が通り、空をおおって風雨はげしく、あたかも冷たい   潮を巻き上げるかのようである。誕生寺の門をくぐってひとりもうでたのだが、妙法蓮華をとなえる声もな   く、春の寺はものさびしく静まりかえっている。︶  これより断崖千尋の桟道にかかる。暴風、墜石とたたかって進む。その危険いうべからず。これ東海の親知ら ずというべし。房総の国境を越え、夷隅郡内に入ること約半里にして、その名も高き﹁おせんころがし﹂の険に 至る。ときに旋風、人車を巻きて岩壁に衝突せしむ。身転じ車破れたるも、幸いに無事なるを得たるは、天祐に あらずしてなんぞや。   暁天帯雨暗雲姻、狂浪怒号一路伝、行到断崖風益激、阿仙転処我車顛、   ︵あかつきの空は雨を帯びて暗く雲がけぶり、あれくるう波がいかりの声をあげて道を行く人の耳にきこえ   てくる。断崖に行きついたところでは風はますます激しさを加え、むかし阿仙なる婦人が転落したと伝えら   れるところで、わが車もまた転倒したのであった。︶   名にしおふ阿仙の険も今よりは、円了転と人やいふらん、  昔時﹁おせん﹂と名付くる婦人、風のために海中に吹き落とされて即死せるよりその名起これりという。これ より全身大雨に浸され、徒歩して興津に至る。ときに天ようやく晴るる。更に腕車を雇って勝浦町く現在千葉県勝浦 128

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南船北馬集 第五編 市﹀に入り、勝浦館に投宿す。この日、行程八里余なり。北条町以後は郡書記島田源太氏、各所に同伴せられたり。  二月二十七日︵日曜︶ 晴れ。風やや寒し。尚風会の請求により、勝浦、大原両町の日程を変更し、大原町︿現在 千葉県夷隅郡大原町﹀小学校に至りて演述をなす。尚風会の総会なり。宿所竹楼は県下有数の大旅館とす。その構造 に意匠を凝らせしところあり。開会に関し尽力せられしは、市原錬三氏、池田良江氏、浅野豊次氏、梶七郎氏、 奥野常蔵氏、平野勝三郎氏等なり。  二十八日 寒晴。再び勝浦に帰りて開演す。主催は郡教育会にして、町長石幡栄治郎氏、校長滝口荘寿氏の発 起にかかる。宿所勝浦館は湾内を一敵するの眺望を有す。  三月一日 晴れ。寒気強し。馬車に駕して勝浦を去る。前後、燧道多し。   一道随門過幾回、山光水色閉還開、快哉勝浦湾頭望、万里長風送浪来、   ︵道は燧道を出入りしながらいくどもめぐり、山と水の風景はとざされたり見えたりがくり返される。勝浦   湾の風光をみて、思わず快哉をさけんだものである。そこには万里のかなたからくる風に波の音さえ聞こえ   てくるのであった。︶  大原より汽車に転乗して長者町︿現在千葉県夷隅郡岬町﹀に移る。会場は小学校、主催は校友会なり。町長金綱丞 氏、会長小高六之丞氏、副会長橋本正氏等、諸氏の多大なる尽力によりて盛会を得たり。県下巡回中、揮毫所望 者の多き、当地をもって第一とす。この辺り一帯の海岸、近来別荘を設くるもの多しという。宿所は新万楼なり。  二日 晴れ。郡書記神西要次郎氏とともに長者町を発し、大原を経、国吉町︿現在千葉県夷隅郡夷隅町﹀小学校に 至りて開演す。助役斎藤団次氏、校長元吉暢氏、学務委員実方栄治氏等数名の諸氏、みな尽力せらる。宿所は富 129

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士見屋旅館なり。当地は井水に色あり。       30  三日 晴れ。午前、大多喜町︿現在千葉県夷隅郡大多喜町﹀中学校に至り、校友会の依頼に応じて講話をなす。校長 − 青木義教氏不在なれば、教諭遠峰亮氏代わりて応接せらる。郡長沢寛蔵氏も来会あり。午後、再び中学校講堂に おいて、郡教育会の所望に応じて開演す。聴衆、堂にあふれ、戸外に立つもの多きの盛会を得たり。閉会後、寒 雲雨を醸しきたる。宿所は尾高旅館なり。  四日 晴れ。夜来雪花を散じ、暁窓一面、四山みな白し。たまたま中学校教諭友木饒氏、鯉魚を携えて来訪あ り。この佳散に助けられて一酌を試み、暁寒を忘るるを得たり。郡視学柏吉太郎氏は、近ごろ文部省より選奨の 栄をになわるを聞きて、一詩を賦呈す。   叢林凋落日、柏樹独青々、官命賞其操、四隣徳自馨、   ︵やぶや林がしぼみ落ちる季節に、柏樹のみが青々としているのと同じように、まわりが精彩を欠くとき、   柏氏のみが目立つ活躍をして、このたび官府の命令が下ってその志操を褒賞された。まことに四方への教化   はおのずからかおりたかく遠くに及ぶであろう。︶  客舎を辞するに当たり一絶を浮かぶ。   夜来積雪圧山屏、暁望鎧々天独青、偏伯寒威侵病骨、小炉温酒発茅亭、   ︵昨夜来からの積雪はびょうぶのように立つ山をおおい、あかつきに望み見れば白一色で、天のみが青色で   ある。ただひたすらにこのきびしい寒さが疲れた体をそこなうことをおそれて、小さな炉で酒をあたためて   飲んだ上で、かやぶきの宿を出たのであった。︶

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南船北馬集 第五編  天青く地白きの間に馬車を走らせて、長生郡庁南町︿現在千葉県長生郡長南町﹀に移る。   暁窓対雪酒方酷、奇勝須鞭駅馬探、吟賞松邸青白雑、望中不覚到庁南、   ︵朝の窓べに雪をみながら酒をくんでたのしみ、すぐれた景色は馬車に鞭うってもとめるべきであろう。松   林の丘に松の緑と白雪のいうどりをじっくりとめでつつ、ながめるうちにいつしか庁南町に着いたのであっ   た。︶  庁南会場は三途台、主催は郡教育支会、宿所は糀屋、主任は小学校長吹野銀次郎氏および学務委員滝田勝也氏 なり。旧知人白井勇次郎氏と相会す。  五日 快晴。郡視学金沢登久三氏とともに車を連ねて客舎を発し、途中、鶴枝村千葉弥次馬氏の宅を訪う。主 人懇ろに庭内に噴出せる天然ガスを示して説明し、愚俗の狐火、鬼火、竜灯等の妖怪に関する惑いを解くを得べ しとなす。よって小詩を賦呈す。   主人穿井水、地底得灯明、一片噴泉気、照来妖怪城、   ︵この家の主人が井戸を掘ったところ、地の底でガスのあかりを手に入れることになった。わずかながら噴   出するガスは、世俗にいう妖怪の堅い迷信のとりでを照らし出し、惑いを解くものとなるであろう。︶  午後、土睦村︿現在千葉県長生郡睦沢町﹀小学校にて開演す。村名は旧十一力村、相合して互いにむつまじくする の意より出ず。校舎の設備は県下の模範たりという。   有村十一合相親、造築功成校舎新、喜我此来梅月夜、読書窓下養精神、   ︵十一力村を合わせて、たがいに親しむ意をこめて土睦村といい、村の結成とともに学校も新しく建築した。 131

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  ときに私がここに来訪したことを喜ぶように梅花の香る月夜となり、窓のもとに書を読んで精神を養ったの   であった。︶  開会に関して村長池沢正一氏もっぱら尽力あり。文学士土屋幸正氏は特に東京より帰村して歓迎せられたり。 当夕、校内に宿泊し、鯉魚の調理を供せらる。  三月六日︵日曜︶ 晴れ。一宮町︿現在千葉県長生郡一宮町﹀小学校にて開演す。岩本筏雄氏、石川誠一氏等、教育 会員の発起にかかる。宿所は一宮倶楽部なり。  七日 晴れ。茂原町︿現在千葉県茂原市﹀小学校にて開演す。郡長渡辺勤氏の送迎を受く。郡視学金沢氏、町長武 田刑部左ヱ門氏、教員山田精吾氏等もっぱら奔走せらる。茂原より庁南まで人車鉄道を敷設し、翌日より乗客を 取り扱うという。  八日 晴れ。午前、山武郡大網町︿現在千葉県山武郡大網白里町﹀に移る。開会は郡教育会の主催にして、校長石井 恒清氏、同高安卯太郎氏、その主任に当たらる。三島繁三郎氏も助力せらる。会場蓮照寺住職野口日主氏は哲学 館出身たり。  九日 晴れ。午前、東金町︿現在千葉県東金市﹀高等女学校にて談話をなす。川村良四郎氏その校長たり。午後、 小学校にて講演をなす。主催は郡教育会にして、郡視学深山健吉氏、町長篠原蔵司氏、校長柿沢玉樹氏、教員藤 田昇氏、有志家能勢銑三郎氏等、みな尽力あり。宿所は八鶴館にして軒前に湖あり、めぐらすに小丘をもってす。 その風致、東京の不忍湖に似たり。   南総尽辺停客車、轡光水色帯春霞、臨湖八鶴軒前坐、疑在東台山下家、 132

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南船北馬集 第五編   ︵南房総の尽きるあたりで、車をとどめてみわたせば、山の景色、水の色にも春の霞をおびているようであ   る。湖を臨む八鶴館の前に座せば、不忍池に似ているため、上野台下の家にいる思いがした。︶  哲学館出身者森川寛行氏、広部永真氏来訪あり。  十日 晴れ。郡書記松本留吉氏とともに片貝村︿現在千葉県山武郡九+九里町﹀に移り、花沢元脩氏の宅に宿す。会 場は新築の小学校にして、校長は安西景美氏なり。三重県阿山郡視学神部甲太郎氏来訪あり。村は九十九里の中 央に位す。一望平原、長さ二十里、幅三里、荘漠際なきを覚ゆ。  十一日 穏晴。軽風習々の中に車を走らせ、東金を経て松尾町︿現在千葉県山武郡松尾町﹀に至る。会場小学校は 丘腹にありて眺望よし。聴衆、堂の内外にあふれ、一千三百名以上と算せらる。発起中の主なるものは町長押尾 大次郎氏、校長朝比奈逞氏、伊藤信平氏等なり。当夕、松尾館に宿す。  十二日 朝来天候険悪。郡書記岡本三郎治氏とともに泥路をわたりて二川村︿現在千葉県山武郡芝山町﹀に向か う。途中、勤風雪を巻きて襲いきたり、車行遅々、雪ようやく積みて脚を没するに至る。道程二里半を行くに三 時間を費やし、芝山旅館藤屋に着す。風雪ますますはなはだしく、廻尺を弁ぜず。午後、尺余の深雪をうがちて 二川小学校に至る。遠近より会するもの二百余名に及ぶ。寒気膚を破り骨に徹せんとす。校長子安宣治郎氏、お よび磯辺謙吉氏もっぱら斡旋せらる。演説後、天ようやくはれ、残照を漏らしきたる。乾坤瞠々、満目銀世界を 開現す。   遥訪芝山将一拝、林風醸雪何須怪、仁王有意散天華、為我造成銀世界、   ︵はるかに芝山仁王尊を訪ねて参拝しようとして来た。ときに林を吹きぬける風は雪をもたらしたが、これ 133

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  をなにも怪しむ必要はない。なぜならば仁王には思うところがあって雪を散り降らせたのであり、私のため   に銀世界を作り上げてくださったのだから。︶   車到仁王門下村、晩晴一望白乾坤、笑吾奇癖漫揮筆、積雪城頭留墨痕、   ︵車は仁王門の下の村に到着した。日もおそくなって晴れのもとに一望すれば、天も地も白雪一色となって   いる。笑え、私の奇妙な癖はむやみに筆をふるうにあるのだ。またしても積雪のこの地に墨痕を残したので   あった。︶  三月十三日︵日曜︶ 晴れ。昨日は天地怒り、今日は山川笑うの好晴に会し、仁王尊を一拝し、草鮭竹杖、氷雪 をわたりて成東町︿現在千葉県山武郡成東町﹀に至る。旅館にして鉱泉浴場を兼ねたる成東館に休泊す。館舎、庭園 ともにひろし。しかのみならず、波切不動堂の巌頭にかかるありて、大いに風致を助く。午後、中学校講堂にお いて開演す。夜に入りて、中学校長山崎正矩氏、同教諭柴山正矩氏、町長伊庭弘道氏、小学校長古川哲三氏等と 会食す。  十四日 晴れ。春日煕々、和気洋々。深山郡視学の案内にて、馬上丘山を上下し、睦岡村︿現在千葉県山武郡山武 町、八街市﹀に至る。雪泥脚を没する所あり。会場は小学校、主催は青年会にして、会長は嘉瀬才知氏、校長は越 川兵蔵氏なり。村内山林多し。午後三時、日向駅にて乗車。八時、帰京す。  総房二州巡回に関し、県庁および郡役所の配意により大いに便宜を得たり。教育の内容は一見なんとも評し難 きも、校舎の構造は旧式のもの多し。しかれども決して教育に冷淡なるにあらず。寺院は廃頽するも修繕を加え ざるもの多し、もって宗教心の薄きを見るべし。したがって迷信すこぶる多し。風景は房州を除くの外は、すべ 134

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て殺風景の方なり。人情、風俗は一見粗野なるがごときも、そのうちおのずから関東武士の遺風あるを見る。料 理店の比較的多きがごときは、その地東京に近く、人をしていくぶんか食いだおれの風をならわしむる傾向あり。 しかして人気は進取快活の風を帯び、教員のごときも活気を有するは賞賛すべし。開会一覧表は左のごとし。 南船北馬集 第五編 千葉県上総安房二州開会一覧表  国郡 上総市原郡   同   同 同上君津郡   同   同   同 同上夷隅郡   同   同   同  町村 八幡町 鶴舞町 海上村 久留里町 木更津町 同 佐貫町 勝浦町 大原町 長者町 国吉町  会場 小学校 小学校 小学校 小学校 議事堂 中学校 小学校 小学校 小学校 小学校 小学校

二二二二ニー二二二二二席

席席席席席席席席席席席数

 聴衆 五百人 七百人 三百五十人 七百人 五百五十人 三百五十人 四百人 三百五十人 八百人 七百五十人 七百人  ・王催 郡教育会 同前 同前 町内有志 斯民会 中学校 町長 郡教育会 尚風会および教育団 校友会 町内有志 135

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  同   同 同上長生郡   同   同   同 同上山武郡   同   同   同   同   同   同   同 安房安房郡   同   同 大多喜町 同 庁南町 一宮町 茂原町 土睦村 大網町 東金町 同 松尾町 成東町 片貝村 二川村 睦岡村 北条町 同 保田町 中学校 中学校 寺院 小学校 小学校 小学校 寺院 小学校 高等女学校 小学校 中学校 小学校 小学校 小学校 中学校 高等女学校 小学校

席席席席席席席席席席席席席席席席席

千百人 四百人 五百人 三百人 七百人 五百人 八百人 八百人 三百人 千二百人 五百五十人 七百人 二百人 三百人 六百人 三百人 六百人 郡教育会 中学校友会 郡教育会 同前 同前 村内有志 郡教育会 同前 高等女学校 郡教育会 同前 同前 同前 青年会および同窓会 大道会 高等女学校 町内有志 136

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南船北馬集 第五編 合

計同同同同

   太海村   小学校    二席  七百人    富崎村   小学校    二席  四百人    和田町   小学校    二席  七百五十人    蟻町    寺院     二席  八百人 二州、六郡、二十八町村︵二十一町、七村︶、三十ニカ所、 日数三十一日間。 演題細別  詔勅および修身に関するもの  妖怪および迷信に関するもの  哲学および宗教に関するもの  教育に関するもの  実業に関するもの  雑題に属するもの 十五席 二十二席   七席   七席   七席   二席 町内有志 町内有志 村内有志 村内有志 六十席、聴衆一万八千六百五十人、 137

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伊賀、和泉、美作三州紀行

138  明治四十三年三月二十日︵日曜︶ 晴れ。朝八時、最大急行に駕し、午後四時、名古屋︿現在愛知県名古屋市﹀に着 す。車内満員、寸地を余さず。市内は開城三百年の祝事を兼ね、共進会開場のためにその雑踏ただならず。門前 町松葉屋に宿泊し、性高院にて開演す。主催は仏教婦人会にして、主幹は道友雑誌主筆萩倉耕造氏なり。偶然、 島地黙雷氏と相会す。佐々木善親氏随行たり。  二十一日︵春季皇霊祭︶ 晴れ。朝八時、関西線により三重県伊賀国阿山郡佐那具駅に降車し、河合村︿現在三重 県阿山郡阿山町﹀小学校にて開演す。郡長岡耕三郎氏、視学神部甲太郎氏の歓迎あり。校舎の清新かつ壮大なるは、 他に多く見ざるところなり。聴衆満堂、千人と目算す。当夕、校内裁縫室に一泊せるが、室清麗にして俗気を帯 びず。たまたま一詩を賦し得たり。   鈴鹿山南駅道長、孤村一夜臥書堂、雲遮梅月窓無影、風送幽香到客躰、   ︵鈴鹿山の南に鉄道が長くのびて、ぽつんとある村の学校で一夜を臥す。雲は梅花の月の光をさえぎって窓   にはその影もなく、風がほのかな梅の香りを客の枕辺に送ってきたのであった。︶  村長河合隆三氏、助役前沢馬太郎氏、校長村尾門四郎氏等、みな尽力あり。  二十二日 雨。一帯の林丘を上下して山田村︿現在三重県阿山郡大山田村﹀に移る。会場は小学校にして、校内に千 人以上を収容すべき講堂あるも、風雨のためにその半ばを満たすを得ず。宿所は和田旅館、村長は森口亀次郎氏、

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南船北馬集 第五編 校長は池住安太郎氏なり。  二十三日 曇り。長堤数里、山により渓にそい、車を駆りて上野町︿現在三重県上野市﹀に至る。伊賀国第一の都 会なり。宿所は曾我旅館にして、間口狭けれども、奥行きの長きこと丁余に及ぶ。午後、劇場大江座にて開演す。 更に白鳳婦人会の依頼に応じて念仏寺に移り、家庭教育談をなす。夜に入りて、郡長および町村長等と晩餐をと もにす。月瀬観梅の期すでに過ぎたるをもって、客窓寂蓼を覚ゆ。庭前の残梅ひとり一段の雅趣を存し、いささ か清賞するに足る。   白鳳城下一楼深、閑対残花酌且吟、月瀬観梅期已去、隣窓無客夜沈々、   ︵白鳳城下の客舎は奥深く、のどかに散り残りの花を相手に酒をくみかつ吟詠す。名勝月ヶ瀬の観梅のとき   はすでに去り、隣室には観梅の客もなく夜はいよいよふけてゆく。︶  白鳳城は上野城の旧名なり。当町開会は岡郡長、神郡視学をはじめとし、郡書記岸潔氏、町長窪田惣太郎氏、 助役沢島之助氏、念仏寺住職豊岡察道氏等の尽力に成る。すべて郡内開会の主催は郡役所なり。  二十四日 晴れ。名賀郡視学中山与三郎氏の前導にて名賀郡阿保村︿現在三重県多賀郡青山町﹀に移る。山水林轡 の間を出没上下すること約四里なり。江上、風なお寒し。この辺り、従前は人力の先引きに犬を使用すること流 行せしが、県令にてひとたび禁ぜられし以来、荷車のみに限ることとなれりという。   雨後山田麦色新、犬車載米去来頻、瀬渓花信何須問、到処梅開伊賀春、   ︵雨あがりの山田は麦の色も新鮮に、犬の先引きする車が米を積んで往来することしきりである。川の瀬と   谷の花だよりはきくまでもない。いたるところで梅花の咲く伊賀の春である。︶ 139

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 これ途上の実景なり。途中、青竜松を見る。その風骨、臥竜に似たり。会場は阿保小学校にして、宿所は俵屋 なり。当所は大和より伊勢に出ずる参宮街道にして、旅店多し。夜中、名物の盆踊り、石ツキ歌を聴く、また旅 中の一興なり。本日は郡長栗田覚治氏も来会せらる。村長は喜多正二郎氏、校長は小川孝之助氏なり。  二十五日 晴れ。腕車一走して名張町︿現在三重県名張市﹀に移る。郡内の名邑なり。宿所寿楽園は居宅、庭園と もに美を尽くし趣を凝らし、全国の旅館中おそらくは他にその比なからん。将来必ず名賀郡の一名所となるべし。 園内梅樹数百株ありて、紅白栄を競う。しかもその風骨いずれも雅致を帯ぶ。よって一絶を賦して吟賞す。   一路春風払暁霞、来投寿楽主人家、満園培得梅千樹、風骨奇於月瀬花、   ︵ひとすじの道に春風があかつきのかすみを吹きはらい、寿楽園主の家にきたる。園内を満たすように梅樹   が数百株もうえられて、そのけしきやおもむきは月ヶ瀬の観梅よりもすぐれているであろう。︶  会場小学校も新築清美、位置また佳なり。町長は岡従橘氏にして、校長は辻衛氏なり。園内の新亭にて、郡長、 郡視学等の諸氏とともに会食す。郡内の主催は教育会にして、郡役所、町村役場これに助力せらる。  二十六日 曇り。朝八時、名張を発したるも、汽車の都合にて月瀬観梅のいとまなきは遺憾なり。余、先年は じめて月瀬観梅を試みしより、ここにすでに十二回の星霜を経たれば、必ず多少の変遷あるべし。名張を去りて 行くこと二里半にして月瀬に通ずる岐路あれども、直行して上野駅に至る。阿山郡長および名賀郡書記の送行あ り。これより大阪を経て泉州堺市に向かう。  伊賀は国小なれどもよく開け、山連なれども田また多く、米穀はその特産なり。いたるところ校舎の設備の清 美なると教育講話の普及せるとは、余をして驚嘆感賞せしむ。人気は醇厚俗をなすもののごとし。これに反して 140

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南船北馬集 第五編 宗教は不振の観あるを覚ゆ。その地の名物をたずぬれば、茶粥と午睡と炬燵と盆踊りなりという。もし茶粥に代 うるに雑炊をもってせば、北越の名物と同一となるべし。ただし炬燵はすべて置き炬燵なり。この名物に石ヅキ 歌と羊糞漬けと犬の先引きとを加うれば、伊賀の七奇をみたすを得べし。羊糞漬けとは瓜の中に紫蘇をはらませ て、味噌につけたるものなり。  明治四十三年三月二十六日。午前十一時半、伊賀上野駅を発し、午後二時、天王寺駅に着し、更に電車に転乗 して四時、和泉国堺市︿現在大阪府堺市﹀に着す。車中、風邪に触れたるを感ず。手芸女学校長安西卯三郎氏、有志 家肥下徳十郎氏等数名の歓迎あり。宿所は海岸一力楼にして、楼頭の風光は人を酔殺するの趣あり。   一力楼頭夕、衝杯呼快哉、風光和美酒、酔殺万人来、   ︵一力楼上の夕暮れは、杯をかたむけて快哉の声をあげたくなる景色である。このおもむきと美酒とは、多   くの人々を酔わせるであろう。︶  この海岸一帯、昨年火災にかかり、まさしくその一周年なりという。当夕、雨をおかし、菅原社内聚楽館に至 りて開演す。帰りて寝に就くも、隣楼の絃声、深更なお春をわかさんとす。  三月二十七日︵日曜︶ 晴れ。楼上の暁景、詩をもって写す。   昨夜春潮如席平、暁為怒浪岸頭鳴、摂山淡海濠難認、只隔雲姻聴汽声、    ︵昨夜、春の潮はござのごとく平穏であったが、あかつきのころは怒浪が岸にうちよせてなりひびく。それ   故に摂津の山々も淡路の海もうすぐらいなかでは望むこともできず、ただかすみをへだてて汽笛が聞こえる   のみであった。︶ 141

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 午後、聚楽館において開演す。主催は堺北教育奨励会の名義にして、実際は安西、肥下両氏等十六名の発起な り。特に両氏の尽力を得たり。  二十八日 曇晴。泉南郡岸和田町︿現在大阪府岸和田市﹀に移る。高等女学校長岡本利宗氏、実業新聞社主寺田兵 次郎氏等の歓迎あり。宿所および会場は浄因寺なり。午後、開会す。初席は町内有志の発起、後席は仏教団の主 催にかかる。郡長岸正形氏来会あり。銀行頭取川井為己氏、町長安藤祥始氏、新聞社主寺井氏、宿寺住職永谷智 暁氏、円成寺住職加藤尭寿氏等の尽力を得たり。会後、岸和田ホテルにおいて晩食をともにす。   孤館岸頭横、海山笑迎客、晩晴対穏波、水与天同碧、   ︵ぽつりとたつ客舎は岸べによこざまに位置し、海も山も笑うようにして旅人を迎える。はれた夜空のもと   おだやかに寄せる波にむかえば、水も天もともに同じくこい青色なのであった。︶  夜に入りて宿寺に帰れば蚊声を聞く。三月中に蚊出ずるは不思議の一なり。   三月泉陽暖、偶来宿草堂、去年蚊未死、深夜襲吾抹、   ︵三月の和泉の南は暖かく、たまたまきたりて草ぶきの家に宿泊す。去年からの蚊が死なずにいたのであろ   うか、深夜になってわが寝床を襲ってきたのである。︶  二十九日 雨。貝塚町︿現在大阪府貝塚市﹀に転ず。その距離わずかに半里なり。名刹願泉寺あり。真宗東西両派 の兼末に属す。会場および宿所は泉光寺なり。住職苑木寛氏、町長木岡吟右衛門氏、校長河合治一氏の発意にて、 貝塚衛生会の主催にかかる。麻生郷村秦静隆氏も助力せらる。  三十日 雨。泉州を去り大阪を経て美作に向かう。泉州三カ所の開会は発起者の尽力ありしにかかわらず、聴 142

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南船北馬集 第五編 衆の比較的少なかりしは、天候の不良によるはもちろんなりといえども、一般の気風は大阪に似て、実業に偏傾 し、学術講話に趣味を有せざるはその一原因なりという。果たしてしからば、実業の振興に徳性酒養の急要なる ことを知らしめざるべからず。宗教は多少勢力あるも、中等以下に限るがごとき観あり。  明治四十三年三月三十日。午後、雨ようやく晴るる。五時半、岡山駅に着し、中国線に転乗して、夜八時、美 作国苫田郡津山町く現在岡山県津山市∨に着す。多数の諸氏の歓迎に接す。途上所詠一首あり。   汽笛声中雨漸収、披璃窓底凝吟眸、風光明媚山陽路、応接群轡入作州、   ︵汽笛をならしつつゆくうちに雨もしだいにあがり、汽車のガラス窓から吟詠の目をもって眺める。風光明   媚の山陽路、多くの山々に迎えられて作州︹美作︺に入ったのであった。︶  宿所は武蔵野旅館なり。  三十一日 曇晴。風寒く霰を散ず。昼夜二回の開演、ともに盛会を得たり。会場は妙願寺なり。演説の前後、 揮毫に忙殺せらる。郡長久山知政氏、郡視学出道直氏、中学校長豊田恒雄氏、高等女学校長堀尾金八郎氏、愛染 寺住職坪井貞純氏、僧侶有志森順暢氏、町長小沢泰氏等、官民僧俗の発起にして、なかんずく坪井氏、最初より 尽力せられたり。津山市街は津山川にそいて連亘し、その長さ一里半に及ぶ。岡山県下第二の都会なり。国名の 美作なるにちなみて、戯れに狂歌をつづる。   国の名に対して阯つる吾詩歌はいつもかはらぬ駄作のみなり、  四月一日 晴れ。午前九時、英田郡倉敷町︿現在岡山県英田郡美作町﹀安養寺住職松坂旭宥氏に導かれて同町に移 る。国境の連山なお残雪をとどめ、半空点々白痕を印するを見る。車行五里にして倉敷安養精舎に着す。精舎は 143

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山に鋸し川に面し、眺望すこぶる佳なり。昼夜二回の開会にして、満堂の聴衆を得たり。発起者は宿寺住職松坂 氏、町長土肥原倭二郎氏、寿林寺住職山田美妙氏、法眼寺住職森霊準氏、郡書記高見徳市氏、小学校長野村和十 郎氏等にして、みな大いに尽力あり。なかんずく松坂氏は発起者中の発起者にして、その尽力一方ならず。揮毫 所望者またすこぶる多く、日夜筆をとるもなお終了せず。  二日 雨。山寺春暁の一絶を浮かぶ。   依山安坐梵王城、一帯清流脚下横、朝雨浸梅花自落、鶯和経唄弄春声、   ︵山によりかかるように寺院がたち、ひとすじの清水が足下を流れる。朝がたの雨に梅花はしっとりとぬれ   てひとりでに落ち、鶯の声と読経の声が春のふんいきのなかにながれている。︶  当町は本日祝典の挙行あり、観客近村より雲集す。午前九時、安養寺を辞し、江見、土井両駅を経、国境をこ え、播州佐用郡に入る。開会地平福村︿現在兵庫県佐用郡佐用町﹀に達する当日の行路八里あり。車行六時間を費や せり。途上また一作あり。   鳥語報晴姻漸消、播山作水望遥々、桜期未到梅期過、野外春光自寂蓼、   ︵鳥は晴れを知らせるように鳴き、もやもようやく消え去って、播州の山、作州の水、望めばはるばると来   たものである。桜花の季節はまだきておらず、梅花の時期はすでにすぎて、野の春の光はおのずからものさ   びしい。︶  会場は光勝寺、宿所は旅館なり。しかして主催は松田久太郎氏、大坪弥之助氏、瓜生原倍之助氏、井上泰諄氏、 原田耕道氏等なり。哲学館出身藤木睦之助氏もこれに加わる。 144

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 四月三日︵大祭日兼日曜︶ 晴れ。午前十時、平福村を発し、車行三里、作州古町駅に一休して鳥取県巡回の途 に上る。この日、朝気寒冷、霜を帯ぶ。いたるところ節句を祝し、雛祭りをなすを見る。よって一吟を試む。   是日客中思帝都、旭旗影下献神触、山村難脱旧時俗、不祭皇宗只祭雛、   ︵この日、旅中の人は帝都を思う。旭日旗のもとで御神酒をささげているであろう。山村では昔からの風俗   よりぬけ出すのはむずかしく、天皇家の代々をまつらず、ただひな祭りがあるのみ。︶  以下は鳥取県紀行に譲る。 南船北馬集 第五編 145

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鳥取県紀行第一、因幡の部

146  明治四十三年四月三日。播州佐用郡より作州英田郡を経、山陰山陽の背骨と呼ばるる一帯の高嶺中、志戸坂峠 をこえて、鳥取県因幡国八頭郡に入る。嶺頭、道険にして車進み難し。ときに牛をして先引きをなさしむ。これ 当地の名物とす。   山似奔濤送又迎、雪残天半白痕横、嶺頭路険車難進、牛力時扶人力行、   ︵山ははげしく大波のうちよせるがごとく私を迎えそして送り、雪は天の半ばをおおうように残って白くよ   こたわる。嶺のいただきの道はけわしく、人力車は進まず、ときに牛の力を借りて車をすすめたのであった。︶ 午後五時、智頭村︿現在鳥取県八頭郡智頭町﹀に着す。この日行程十里にして、一日行尽三国ほどというべし。村外 に八頭郡書記猪口兼治氏、智頭村長今井幸作氏、哲学館出身田村透源氏等数名、出でてわが行を迎えらる。当夕、 興雲寺にて開会す。哲学館出身前田洞禅氏その寺主たり。宿所は桝屋旅館なり。主催は村長今井氏、書記松尾氏、 住職前田氏、富豪石谷伝四郎氏等とす。本県随行は森山玄殖氏なり。  四日 晴れのち雨。午後、同所において開会あり。四面みな山、ただ智頭川の山間を縫って流るるあり。天候 なお寒く、いまだ春暖︹に︺浴せず。  五日 晴れ。川上寒風を排して車を駆り、用瀬︹村︺︿現在鳥取県八頭郡用瀬町﹀に至りて開演す。   智頭川上路依轡、急瀬醸風身亦寒、時入客亭先暖酒、春光不用擁炉看、

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南船北馬集 第五編   ︵智頭川のほとりに道は山にそって走り、はやい流れの瀬は風をおこして私の身体をもつめたくする。おり   しも旅館に入って、まず酒をあたためるようにたのむ。しかし、春の光はもはやいろりをかこむこともなく   なっているのだ。︶  会場は小学校、宿所は徳田旅館なり。しかして主催は村長椿新太郎氏、助役徳永式年氏、有志者井上千代蔵氏 とす。  六日 晴れ。河原村︿現在鳥取県八頭郡河原町﹀に転じて開会す。会場は小学校、宿所は河田辰蔵氏宅なり。主催 は河原村長河辺清六氏、助役谷口好蔵氏、および近村長西尾、倉信、田中、坂本等の諸氏なり。夜に入りて急雨 きたる。  七日 晴れ。暁光清新を覚ゆ。   昨夜雨過洗駅塵、暁光無処不清新、漆天一白連峯雪、四月山陰未入春、   ︵昨夜、雨がとおりすぎて村のよごれを洗い流し、あかつきの光にすべて清らかにそしてもの新たになった。   天にみなぎる白雲は峰の雪につらなり、山陰の四月はまだ春の季節に入っていないのだ。︶  これ、その実景なり。午前、河橋を渡り、安部村く現在鳥取県八頭郡八東町∨に移る。会場は小学校にして、宿所 は入江善太郎氏宅なり。同氏の庭園、美にして趣を成す。その一半は八東川の対岸に屏立せる天然の丘山を加う るところ、すこぶる妙なり。主人のもとめに応じて園名を兼山園とし、軒名を浸月軒とし、かつ題するに小詩を もってす。       47   池浸天辺月、窓浮庭外山、客来相対坐、吟賞夜忘還、      1

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  ︵池は天の一角にかかる月をうかべ、窓は庭外のはるかな山を入れる。客が訪れてこれと対座すれば、吟詠   し賞翫して夜にいたっても帰るのを忘れるほどである。︶  発起は入江氏、内田八男氏、西川元蔵氏、中村勝蔵氏、武田岩蔵氏等なり。内田氏、詩をたしなみて一絶を恵 まる。余、その韻に和して答謝す。   終年北馬又南船、蹟渉山陰四月天、喜我八頭川上路、残梅花底訪遺賢、   ︵一年中、北には馬にのってゆき、また南では船にのって講演の旅を続け、四月の空のもと山陰の山野をあ   るきまわる。喜ぶべきことは私が八頭川のほとりの道を行き、残りの梅花のある地で民間にいる賢人を訪れ   たことである。︶  遺賢とは内田氏を指す。当日、郡長丹羽旦次氏来会あり。夜に入りて会食す。義太夫、謡曲等の酒興を助くる ありて、快談深更に及ぶ。   未酌泉声圧語声、已酔語声圧泉声、夜深酒尽人将散、更漏報来第二声、   ︵まだ酒をくみかわさぬうちは泉の音が話し声を圧するようにきこえ、すでに酔ったのちの話し声は泉の音   を圧倒した。夜もふけて酒も尽き、人々も帰ろうとするとき、時刻は十時をつげたのであった。︶  八日 晴れ。八東川にそいて渓間をさかのぼり、若桜町︿現在鳥取県八頭郡若桜町﹀に着す。街路の両側に清水の 流下するありて、自然に山間市街の趣をなす。会場は西方寺なり。宿所小倉清逸氏の宅は新築まさに成り、用材 の美、人を照らさんとす。軒下に小池ありて、大魚これに遊泳す。その夜景、詩中に入るる。   続屋清泉走、水甘魚自肥、点灯初夜後、影動似蛍飛、 148

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南船北馬集 第五編   ︵邸宅をめぐって清らかな水が流れ、水は美味、魚もおのずから肥えて大きい。灯をともして建築はじめて   の夜、光が動けばそれは蛍が飛ぶかと思われるのであった。︶  軒名を聴泉閣と命ず。別に茶席あり、朧々庵と名付く。主人のもとめに応ずるなり。夜に入り、主人弾琴を命 じて雅遊を助けしむ。発起者は円井邦治郎氏︵県会議員︶、小倉礼吉氏︵町長︶、土肥実道氏︵校長︶、および藤原 令教、中尾克己、松本善太郎、片岡鉄弥、五十嵐半六等の諸氏とす。五十嵐氏が今日は今日、明日は明日の境涯 を送るといえるを聞きて一首をよむ、   今日は今日昨日は昨日明日は明日、其日々々を大切にせよ、  九日 雨。朝、円山氏の宅にて更に仏教大意の談話をなす。ときに竜徳寺住職中島瑞宝氏の贈詩に対し、﹁仏海 荘々知幾程、山陰君独以禅鳴、汲来般若心源水、滴々教吾洗俗情﹂︵仏教の世界は海のごとくひろびうとしてどれ ほどであるかも知れず、山陰の地に君はひとり禅をもって聞こえている。悟りをひらく知恵によって心の源にあ る水をくみとり、しずくのしたたるように私を教えて世俗の情を洗ったのであった。︶の詩を賦して答う。午後一 時より車を飛ばすこと四里半、賀茂村︿現在鳥取県八頭郡郡家町﹀字郡家に至る。これ郡役所所在地なり。市街の形 をなすといえども、一小村落に過ぎず。午後四時半より開演す。散会のときすでに点灯を要す。会場は小学校、 宿所は旅亭なり。発起は村長西村亀太郎氏、助役杉本小太郎氏にして、郡役所内諸氏の助力あり。郡長丹羽氏の 配意と郡視学蔵田慶蔵氏の斡旋とにより、各所において優待を受けたり。当夕、諸氏とともに会食す。  四月十日︵日曜︶晴れ。八頭郡を去りて鳥取市︿現在鳥取県鳥取市﹀に移る。旅館は孔方楼、通称小銭屋なり。午 後、真宗寺開催の釈尊降誕会に出演す。聴衆、大堂に充溢するの盛況を見たり。仏教青年会の主催にかかる。会 149

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長は長谷川熊蔵氏、会場住職は中村賀豊氏なり。  十一日 雨。午後、高等女学校にて開演す。鳥取婦人団体の主催にかかる。女学校長は矢野和喜蔵氏なり。夜 に入りて、真宗寺に開催の仏教青年会茶話会に出席す。  十二日 晴れ。今回本県巡回に関し、県庁より多大の便宜を与えられたれば、午前中、告森県知事、事務官石 津和風氏、同井本満助氏の官邸を歴訪して謝意を述ぶ。知事および井本氏は出京中にて不在なり。午後、鳥取中 学校において開演す。市教育会の主催に出ず。会長は本部泰氏なり。中学校長尾原亮太郎氏には一面識あり。市 長藤岡直蔵氏、図書館長遠藤薫氏も旧知にして、互いに相見ざるや二十年の久しきに及ぶ。当夕、借老亭におい て特に余のために慰労会を催され、県官、教員等、四、五十名出席あり。師範学校長矢島喜源次氏、開会の旨趣 をのべられたり。鳥取市開会に関して尽力ありしは、前記の諸氏の外に、石渡省吾氏、今村寿馬氏、入江澄氏、 戸田信貞氏、松田精三氏、松本時太郎氏、小沢咲氏、浅沼喜雄氏、鈴木鉄次氏、榎本信一氏等あり。  十三日 大快晴、一天雲なし。矢島師範学校長に送られて鳥取市を去り、岩美郡大岩村︿現在鳥取県岩美郡岩美町﹀ に移る。途中の海岸には一帯の砂丘あり、その長さ十余里に及ぶ。まず宿所対帆楼に着し、山陰奇勝の一たる網 代浦の舟遊びを試む。この日や天朗らかに気清く、風軽く波穏やかなり。奇石怪巌林立屏列の間を縫いつつ舟行 里許にして樟をとめ、白砂をむしろとして小宴を催す。あたかも羽化登仙の趣あり。即吟三首を得たり。   怒濤千古洗山根、石骨成屏又作門、林立奇巌何以比、恰如万鷲裁風奔、︵鷲或作馬︶   ︵荒い波は昔より山のふもとを洗い、骨のような岩石が屏のごとく、あるいは門をかたちつくる。林のごと   く立つかわった岩をいったいなににくらべようか、あたかも多くの鷲︵あるいは馬︶が風をきってはしるが 150

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南船北馬集 第五編   ごときである。︶   孤舟一樟破波馳、迎送神巌鬼石歌、看認山陰将尽処、天公何意作斯奇、   ︵一そうの小舟に樟さして波をきってすすみ、神々しい岩や鬼の手になるような荒々しい石のそばだつ姿に   送迎された。見て山陰のまさに尽きはてる所に、造物主はいったいどのような意図があって、この不思議な   景色をつくられたのかをいぶかしむのであった。︶   因山一帯対槍漠、碧浪如莚轡似屏、造化揮来神妙手、刻成竜石虎巌形、   ︵山による一帯は青い海原にあい対し、みどりの波はむしろのごとく静かに、山は屏にも似てたちはだかる。   造物主は神妙不思議な手をふるって、竜のごとき石や虎のごとき岩の形を刻み造りたもうたのである。︶  この奇勝いまだ雅名を有せず、選名の任を余に託せらる。よって従来の俗称を改め、新たに雅名を付し、分か ちて二十勝となし、その総名を仙巌浦と定む、   庚戌春日大岩客中会穏晴、波上如席、与郡視学村長等数氏共樟軽舟、遊干網代外浦、鬼石怪巌連立、如林如   屏、其奇其妙、使看客目眩魂飛、実為山陰奇勝之魁 、天橋或瞠若其後欺、余応需撰其名為仙巌浦、且分為   二十奇、乃定其雅名如左、   ︵明治四十三庚戌の年の春、大岩村に旅客として訪れたところ、極めて穏やかな晴天にめぐりあった。波は   むしろを敷きつめたごとく静かである。そこで郡視学、村長ら数氏とともに軽やかな舟に樟さして、網代の   ぞと浦に遊んだ。鬼神の手に成るような石やあやしげな姿の岩が連なり立ち、林のごとくあるいは屏のごと       皿   く、その奇なること、その妙なること、見る者の目をくらませ、魂も消し飛ぶかと思われた。実に山陰の地

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  におけるすぐれた景勝の第一である。天橋立もあるいはおどろきあきれて目をみはってそのしりえにつくで   あろう。余は求めにこたえて名を選び仙巌浦とし、かつわけて二十奇勝とした。すなわちその雅びな名をき   めること左のごとし。︶   ︵一︶弁天興、︵二︶鬼住窟、︵三︶烏帽洲、︵四︶渡猿峡、︵五︶鳳松巌、︵六︶菩薩台︵台、あるいは琴につ   くる︶、︵七︶稚児岬、︵八︶天狗崖、︵九︶夫婦湾、︵十︶鼎足轡、︵十一︶灯明壇︵壇、あるいは嶺につくる︶、   ︵十二︶懸帆嵩、︵十三︶観音礁、︵十四︶摩尼洞、︵十五︶鴨眠磯、︵十六︶浮木橋、︵十七︶菜花峰、︵十八︶   仙遊澗、︵十九︶古城浜、︵二十︶達磨島   鳳松巌上有千貫松、其形似鳳因名鳳松巌、是二十奇中之主眼也、   ︵鳳松巌の上に値打ち千貫の枝ぶりの良い松があり、その形が鳳︹おおとり︺に似ていることにちなんで鳳松   巌と名づけた。これが二十奇勝中のかなめである。︶  午後三時、帰館。すぐに竜岩寺に至りて開演す。住職田村透源氏︵哲学館出身︶はその主催たり。氏は山陰宗 教界中名望家の一人にして、県下開会に関し交渉の中心に立ち、各所照会の労をとられたり。また、大岩村長石 河和太郎氏、校長永見正作氏、網代村長生越相蔵氏等、みな尽力あり。  十四日 快晴。本庄村︿現在鳥取県岩美郡岩美町﹀岩井農業学校にて開会あり。主催は教育部会にして、会長松浦 昇蔵氏、幹事栗林嘉太郎氏、同谷垣邦蔵氏等の発起なり。随所、桜桃村を擁し、菜花田に敷き、満目紫明、これ に加うるに遅日和風、年中の好時節となる。当夕、更に車を飛ばすこと約一里、岩井温泉木嶋館に至りて泊す。 本館主婦は県下第一の女丈夫と称す。館美にして景またよし。一条の流水屋後を走り、渥渓の声枕頭に聞こゆ。 152

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南船北馬集 第五編 楼上晩望一首を得たり。   晩到蒲生川上関、桃花流水是仙衰、楼々噴出霊泉気、凝作蒼姻染暮山、   ︵日暮れて蒲生川のほとりの関に至る。桃の花と流水のおもむきはこれこそ俗世をはなれた仙人の住むとこ   ろである。旅館のそれぞれからは霊妙な温泉の噴気があがり、それはかたまりとなって青味を帯びた煙とな   り、暮れなずむ山を染めている。︶  岩井村長は峯本弥太郎氏なり、この地、実に山間小仙郷の趣あり。高楼軒を並べ、積翠窓に映じ、一朝鉄路全 通の日は、あるいは城崎温泉をしのぐに至らん。  十五日 晴れ。岩井を発して駆馳山下に一休す。哲学館出身井崎謙一氏、わが行を送りてここに至る。昔時、 山上より池月の名馬を出だせりと伝う。茶亭の傍らに一円丘あり、丘上の眺望最も佳なり。余、これを馴馳台と 名付く。一作あり。   村外円邸聾一隅、登臨誰得不歓呼、田如棋局家棋子、海角轡光是書図、   ︵村外の円い丘は一隅にそびえ、これに登るときは眺めのよさにだれもが歓呼の声をあげざるをえない。田   は碁盤のごとく、家は碁石のごとく整然として、はるかな果てと山の姿はまさに一幅の絵である。︶  これより馬の先引きにて榎峠を上下し、鳥取市外を経、宇倍野村︿現在鳥取県岩美郡国府町﹀法美農業学校に至り て開会す。主催は稲葉教育会にして、発起は校長須知十二郎氏、および横山重美氏、出井富五郎氏等なり。その 夕、臼井友造氏宅に宿す。  十六日 晴れ。朝、国幣中社宇倍神社に参拝す。祭神は武内宿禰にして、五円紙幣にえがける社殿はこの真景 153

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を写せるものなり。門庭人なく、ただ桜花のひとり咲︹わら︺うを見る。   祠門桜独護、花下寂無人、一拝堪追想、二千年古春、    ︵宇部神社の門は桜だけがまもるようにたち、花のもとは静かに人影もない。ひとたび礼拝して二千年前の   いにしえの春を追想したのであった。︶  これより三戸古村︿現在鳥取県鳥取市﹀森福寺に至りて開演す。住職劉道智氏は哲学館館外員たりし縁故にて、大 いに奔走せられたり。村長雨河善造氏、収入役山田勝治氏も助力あり。当夕、微酔ののち一詩を賦す。   山陰深処泊禅城、不識本来面目情、傾尽三杯般若水、六根忽覚一時清、   ︵山陰の奥深いところにある禅宗の寺に泊まり、本来の体面なぞは全く気にしないのである。故に杯をかた   むけて般若湯をのみ尽くせば、情を生ずる眼耳などの六根もたちまちにして一時の清らかさをおぼえたので   あった。︶  四月十七日︵日曜︶ 晴れ。岩井郡巡回はここに終わりを告ぐ。郡長井上孝道氏には出会いの機を失いしも、郡 視学小林精太郎氏は、始終同伴して種々斡旋の労をとられたり。更に鳥取市を経、後車のきたるを待たんために 監獄署前の茅店に休憩せるも旅中の一興なり。午後、気高郡豊実村︿現在鳥取県鳥取市﹀小学校にて開会す。宿所は 山本万蔵氏の宅にして、主催は同村青年会なり。しかして村長大塚松次郎氏、校長河崎松一氏、前村長玉野造酒 蔵氏、実にその発起たり。  十八日 晴れ。南風強く砂塵を巻く。吉岡村︿現在鳥取県鳥取市﹀に至る。途中、湖山池をめぐりつつ行く所、風 景すこぶる美なり。湖心に孤山の横臥するあるは、大いに風致を助くるもののごとし。 154

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南船北馬集 第五編   翠轡続水鎖三隅、一帯沙丘鉄路孤、山臥波心形似虎、湖山池是虎山湖、   ︵みどりの山々が湖水をめぐって三方をふさぎ、一帯の砂丘に鉄道が一路通る。山が湖心によこたわって形   は虎に似て、これでは湖山池は虎山湖である。︶  通称湖山池というも、これを虎山湖と称して可なり。吉岡村は郡役所所在地にして、かつ温泉場なり、その地 温泉に富むも、停車場をへだつる二里の遠きにおると、旅館の設備の良からざるために、上等客の入浴少なしと いう。有志家の合同によりて一大旅館を新設してはいかん。会場は小学校にして、宿所は油屋なり。しかして発 起者は村長佐々木久太郎氏、助役花房清十郎氏、校長山本徳蔵氏の外、山口、平野、小泉、楠田の諸氏なり。当 夕、はじめて蛙声を聞く。  十九日 朝雨、のち晴れ。山路をこえて鹿野町く現在鳥取県気高郡鹿野町vに移る。途中、婦人の先引きをなすを 見る。会場は幸盛寺にして、境内に山中鹿之助の墳墓あり。発起は町長柿田槙造氏、県会議員大森経三氏︵哲学 館館賓︶、校長高田晴雄氏、横山滝蔵氏なり。しかして宿所は鈴木旅館なり。  二十日 快晴。百花栄を競い、春色胎蕩、山紫水明の間をわたりて鷲峰山下小鷲河村︿現在鳥取県気高郡鹿野町﹀に 至る。山上なお雪痕をとどむ。会場は小学校にして、宿所は岡山鉄蔵氏の宅なり。同氏および村長三谷富蔵氏は その主催たり。岡田氏は俳句の宗匠にして、機外と号す。席頭に芭蕉翁の像を安置す。よって詩を賦して壁上に とどむ。   鷲峰山畔小庵中、窓月瓶花悟色空、主客伝杯夜将半、芭蕉影下話俳風、   ︵鷲峰山のふもと、小さな庵のうち、窓の月と瓶の花に色即是空を悟る。主人と客人は酒をくみ交わして夜 155

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  半にいたったのは、芭蕉像のもとで俳句の作風について語り合ったからである。︶  二十一日 午前晴れ、午後雨。本日は余の揮毫せる戦捷紀念碑の除幕式ありという。鶯声に送られて、小鷲河 を去り、宝木村︿現在鳥取県気高郡気高町﹀に転ず。途上の春光、詩をもって写出す。   駅路春風遍、望中浮紫煙、桃桜埋綾屋、菜麦染平田、傍海沙丘臥、衝天雪嶺懸、因山兼伯水、到処入詩篇、   ︵村への道には春の風があまねく、一望すれば紫色の煙の浮かんでいるのが見える。桃と桜がひくい家屋を   埋めるようにたち、野菜と麦の色が平らかな畑を緑に染めている。海をかたわらにして砂丘に臥せば、天を   つき上げるような雪の峰がそびえる。因幡の山々と伯書の海をあわせもつこの地の美は、いたるところで詩   中に入るのである。︶  会場は小学校、主催は村長木下昇一氏にして、僧侶中尾不染、校長寺島庄次郎、大沢活人等の諸氏これを助く。 宿所は初田熊蔵氏の宅なり。街上、清水の噴出するを見る。これ天然の水道というべし。  二十二日 朝晴れ、のち雨。隣村正条村︿現在鳥取県気高郡気高町﹀字浜村温泉場にて開会す。会場は小学校、主 催は村長木下米造氏、長泉寺住職狩野洞竜氏︵哲学館出身︶にして、校長、区長これを助く。宿所鈴木旅館は温 泉湧出し、かつ楼上風景清秀なり、この地、天然の砂丘をもって防波兼防風堤とす。停車場ありてかつ温泉あれ ば、将来有望の地たるべし。  二十三日 晴れ。開会地は青谷村︿現在鳥取県気高郡青谷町﹀なり。専念寺において公会を開き、興宗寺において 茶話会を開く。興宗寺住職磯江興山氏は哲学館出身にして、開会に尽力あり。主催は村長山名寿太郎氏にして、 他村長、校長これを助く。浦川真竜氏等の宗教家も助力あり。宿所は竹中旅館なり。当夕、伯州より団野亀吉氏、 156

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南船北馬集 第五編 福井正夫氏来訪ありて、歓迎の詩を示さる。両氏ともに間接に相知る。すなわち次韻をもってこれに答う。   客中迎送幾寒喧、歳月疾於車馬奔、再到山陰人已老、喜君依旧友情敦、   ︵旅にあるあいだの送迎されることでどれだけの挨拶が交わされたであろう。歳月は車馬の奔走するよりも   早くすぎる。再び山陰の地に至れば人はすでに老いてはいるものの、君がむかしからのよしみによってあつ   い友情をいだいてくれていることが喜ばしい。︶  郡視学森田勘吉氏は郡内各所案内の労をとられ、諸事に便宜を与えられたり。本州を去るに臨み、更に一絶を 賦す。   欲食姻霞忙去留、春風北馬又南舟、詩傷已飽因山勝、更転吟輪入伯州、   ︵山水のよい景色をあじわいたいと願って行くかとどまるかに悩む。春風の吹くこのとき北では馬にまたが   り、また南では舟にのって行くのである。詩作も食傷ぎみであり、すでに因幡の山岳の景勝にも満足して、   さらに吟詠の車をめぐらせて伯書の国に入ろうとするのである。︶ 157

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鳥取県紀行第二、伯書の部

158  明治四十三年四月二十四日︵日曜︶ 晴れ。因州気高郡青谷村を去りて伯州東伯郡に入る。初会は宇野村︿現在鳥 取県東伯郡羽△。町﹀安楽寺において開く。住職伊藤諦成氏、村長尾崎清蔵氏、校長団野亀吉氏の主催なり。当村は製 網を業とするもの多し。また、一種の俗謡あり、﹁宇野の沖から貝がらが招く、か﹀よま﹀たけでにやならん﹂。 豪農尾崎積氏の先代は陰徳家なりというを聞き、﹁為衆栽松樹、積年枝葉繁、一村仰陰徳、百世浴余恩﹂︵民衆の ために松樹をうえ、年ふりて枝葉繁茂す。村をあげてその人に知られぬ善行を賛仰し、百世の後までも残された 恩徳をうけるであろう。︶の四句を賦す。団野氏は東伯の詩宗なり。  二十五日 雨のち晴れ。日下村︿現在鳥取県倉吉市、東伯郡羽合町﹀洞光寺において開会し、発起人福井正夫氏宅に て宿泊す。しかして主催の名義は尚徳会なり。会後、更に茶話会を催す。村長岡野勘蔵氏、医師岸田見秀氏、実 業家伊藤伝蔵氏、野一色良吉氏等助力あり。福井氏の楼上、大仙山を望見す。故にその名を選して対仙閣とす。 かつ一詩をとどむ。   一軒隔樹向田開、麦緑菜黄詩思催、不要吟節曳山野、伯陽春色入窓来、   ︵軒は樹木をへだてて田野に向かって開け、麦の緑と菜の黄色は詩情をかきたてる。吟詠の杖をもって山野   を行く必要はない。なぜならば、伯書の南の春景色は窓からあじわえるのだから。︶  二十六日 快晴。倉吉町︿現在鳥取県倉吉市﹀成徳学校講堂にて開演す。聴衆満ちて堂外にあふる。町長尾崎忠平

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南船北馬集 第五編 氏、曹洞宗務所長内田素堂氏、因伯仏教孤児院主八雲竜震氏︵哲学館出身︶その発起たり。当夕、旅宿岡本旅館 において農学校長、中学校長、小学校長と会食す。日夜、煙花あり、山車あり、その前後に仮面をかぶり奇装を なすもの列をなす。これ、中学の新築を祝するためなりという。  二十七日晴、午後、大岳院にて開演す。堂宇壮大なるも修繕を要す。八雲氏の独力活動せるを見て、﹁八雲たつ あれは仏の海にすむ竜のふきだす気焔なるらん﹂と書してこれに与う。日暮に至り、車を飛ばして東郷温泉養生 館に移る。館は湖中に突出し、波光欄に映じ、かつめぐらすに翠轡をもってす。晩望ことに佳なり。本邦温泉多 しといえども、湖中に噴出せるもの他にその類少なし。これに加うるに風光の明媚なるあり。設備もまた山陰第 一と称するも過賞にあらざるべし。名物鰻魚はその名、京阪に聞こゆ。   霊泉一道湧湖中、轡影波光映小権、浴後爽鰻対山酌、酔来自覚在仙宮、   ︵霊妙なる温泉がひとすじ湖のなかから湧き出て、山の姿と波の光は小さなれんじまどにうつる。温泉に入   ったのちに焼いた鰻を前に山にむかって酒をくみ、酔いのまわるほどにここは仙人の住むところとさとった   のであった。︶   轡屏湖鏡続楼台、中有神泉噴出来、勿問仙源何処在、養生館是小蓬莱、   ︵山々は屏のごとく、湖は鏡のごとく旅館をめぐり、そのなかに神妙な温泉が噴き出している。仙人の住む   ところはいずこにあるかなどはたずねてくれるな、養生館こそは神仙が住むという小蓬莱なのだから。︶  当夜、竜徳寺︹東郷村︿現在鳥取県東伯郡東郷町﹀︺にて開演す。村長山本庄太郎氏、校長佐々木粂蔵氏等の発起なり。       59       1  二十八日 雨。東郷を発して由良村に向かう。途上、麦浪菜洲の間を一過するに、吟情勃然として動ききたる。

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すなわち福井氏恵詩の韻を次ぎて一律を賦す。   夜来残雨未全晴、客舎穿泥就暁程、汽笛吐煙知駅近、麦畦濠浪覚風生、望窮仙岳雲辺断、身向由良浦上行、   到処何憂無旧識、江山与我結詩盟、   ︵昨夜からの残りの雨がまだ全く晴れぬままに、旅館からぬかるみに足をとられつつ暁のみちのりにふみ出   す。汽笛を吐いた煙に駅が近いことを知る。麦のうねはゆれうこいて波のごとく、そこから風が生ずるよう   に思われた。はるかに大仙山をみきわめれば雲にさえぎられており、私は由良村に向かって海辺を行くので   ある。行くさきにむかしなじみがいないことなど、どうして気にする必要があろうか。江と山と私は、とも   に詩によって深いちぎりを結んでいるのだから。︶  由良村︿現在鳥取県東伯郡大栄町﹀会場は育英費、主催は豊田太蔵氏にして、役場員、教職員、宗教家等これを助 く。教員三枝菊二氏の韻を受け、﹁講道育英裏、四隣隔世筑、願君使斯校、志士聚如雲﹂︵人の道を明らかにし、 俊英を育成しつつ、四方近在は世俗の悪気より隔絶している。願わくば君はこの学校に志ある人々が雲のごとく あつまるようにされたい。︶の小詩を賦して貴主に贈る。宿所は塩谷旅館なり。  二十九日 朝晴れ、暁気霜を帯ぶ。のち暴風の兆しあり。会場は八橋町︿現在鳥取県東伯郡東伯町﹀小学校、主催 は戊申会にして、町長藤本重郎氏、校長本田富造氏の発起にかかる。藤本氏は東京なる大道社幹事たりしときに 相識れり。爾来郷里に退隠し、俗務の傍ら読書をもって楽しみとす。蔵書の数、三万巻に及ぶという。その令息 押本義氏は哲学館出身の一人なり。当夕、中井旅館に宿す。郡視学牛尾淑人氏、前後二回来間あり。  三十日 晴れ。西伯郡視学羽山八百蔵氏に迎えられて、東伯郡を去りて西伯に入る。当日は弘法大師の忌日な 160

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