時間と法に関する研究序説(四・小括)――邦語以
外の文献整理と課題――
著者
齋藤 洋
著者別名
Hiroshi SAITO
雑誌名
東洋法学
巻
63
号
1
ページ
264(63)-242(85)
発行年
2019-07
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00011008/
四.これまで﹁時間と法﹂に関する邦語文献の整理と課題を、法社会学からの千葉正士と哲学からの小林直樹の研 究を主軸にして三回に分けて概観してき ︵ 1 ︶ た 。その中には、内外の多くの先行研究が網羅されており、この二人の先 達の研究を見れば、それまでの研究を知ることができた。そこで本稿では、先行文献の最後として、一九九四年出 版の Mario Bretone, Diritto
e tempo nella tradizione eur
opea ︵﹃ヨーロッパの伝統における法と時 ︵ 2 ︶ 間﹄ ︶ の特に本稿と関係の ある部分を取り出し、その内容を説明しながら検討する。千葉及び小林の研究の多くが、英語あるいはドイツ語の 文献を中心にしているため、このイタリア語文献は含まれていなかった。さらに後述するように本文献の執筆者で あ る ブ レ ト ー ネ ︵ Bretone ︶ の 研 究 視 点 が、 千 葉 や 小 林 よ り も 若 干 で あ る が 拙 者 に 近 い も の と 判 断 さ れ た た め、 文 献 整理の最後の小括として取り上げるものである。あるいはより広く見れば千葉に近いとも評価し得る。 五. 前 出 の 文 献 Diritto e tempo に お け る 本 稿 に 直 接 関 係 す る 部 分 は、 第 二 章﹁時 間 と 規 範﹂ ︵ Il tempo e la norma ︶ で 《 論 説 》
時間と法に関する研究序説
︵四・小括︶
︱
邦語以外の文献整理と課題
︱
齋
藤
洋
あ る。 そ の 冒 頭 で ブ レ ト ー ネ は 次 の 様 に 云 う。 ﹁こ こ で は、 存 在 論 や 現 象 学、 空 想 的 あ る い は 自 然 科 学 的 な 方 法 で、 あ る い は 観 念 の 表 現 と し て、 時 間 を 検 討 す る の で は な い。 ︵中 略︶ 私 は 実 例 を も っ て よ り 厳 密 で あ り た い。 ︵中 略︶ 年 月 日、 そ れ ら は 天 文 学 や 宇 宙 論 の 視 点 か ら 配 列 さ れ て い る の で は な く、 現 在 の 我 々 が 行 っ て い る よ う な、 あ るいは古代の人々が行っていたような日々の経験の中に含まれる。すなわち、年月日は経験に基づいた、あるいは 歴史的な時間の最小限の構成単位なのであ ︵ 3 ︶ る ﹂。 この表現から、ブレトーネは自然科学者が人間と切り離して検討する時間とは異なる、人間の生活あるいは経験 と時間を一体のもの又は人間にとっての時間という視点に立っていることを明言しているといえよう。この点にお いて、法社会学からの千葉に近いと考えられる。 もちろん当該文献の表題からも解る様に、時間とは何か、という問いかけはしていない。あくまでも法規範との 関係のみに絞って検討しているため、そこに現れる例は法規範に関連したもののみである。それでも﹁ヨーロッパ の伝統における﹂と記述しているように、プラトンやアリストテレスなどにも言及する。この言及はヨーロッパに お け る 学 問 に と っ て は 基 本 的 な こ と で あ る と い う。 そ の う え で、 ブ レ ト ー ネ は 古 代 西 洋 哲 学 史 家 の Richard Sorabji ︵リチャード・ソラジ︶ の次の言明に満足するという。 ﹁我 々 は 時 間 が 存 在 す る と い う こ と に つ い て 何 も 知 ら な い。 そ の 存 在 を 否 定 す る こ と で 自 動 的 に 反 証 と な る こ と も あ る。 ︵中 略︶ 時 間 の 否 定 は、 あ ら ゆ る 考 え も 存 在 も 否 定 す る こ と と 同 様 に 自 動 的 に 反 証 さ れ る。 最 終 的 に、 そ の否定に対する自動的な反証はデカルトによってなされたが、別の視点に立てば、目的のために実行するものは誰 でも、現在と未来の間に横たわる初歩的な相違の考えを持たなければならない。つまり、そのような者はだれでも なにがしかの時間を自覚しているはずであり、また時間の存在を知覚することができる者はだれでも、目的のため
に実行する者になり得るの ︵ 4 ︶ だ ﹂。 この言明の前半部分は、時間の否定自体が時間の存在を証明するという解り易いことを述べているが、後半部分 は、 自 覚 す る ︵ avere consapevolezza di ︶ と 知 覚 す る ︵ avvertire / 予 告 す る︶ と 表 現 す る こ と で 現 在 と 未 来 の 相 違 を 認 識 し、結果を達成するという物事の推移を自身の行動の規準になし得ることを示していると解釈でき、ブレトーネも 同様に考えているのである。 こ の 点 を ブ レ ト ー ネ は さ ら に 次 の 様 に 言 い 換 え て い る。 す な わ ち、 ﹁実 際 的・ 経 験 的 な 時 間 は 時 計 や カ レ ン ダ ー の時間として見出すことができる。もし時間というものが、太陽や水、十四世紀以降の市民の塔や教会の鐘として 現れた精巧な機械であるとすれば、それはさして重要ではない。時間は有機体のように提示できるし、その効力で 単独のものを形成し得る。つまり﹃一方的に、誕生や成長、発展、衰退そして死滅のサイクルを貫いて﹄動くので あ ︵ 5 ︶ る ﹂。 こ の 言 説 は、 先 の 見 解 を 逆 説 的 に 説 明 し て い る。 つ ま り 時 間 と い う も の は、 人 間 と は 無 関 係 に 目 に 見 え る 形で存在し、その機能を一方的に発揮することで、人間は時間に従うのである。しかし先に述べたようにブレトー ネは時間をそのようなものと考えていないことは﹁重要ではない﹂と示していることからも明白である。 ここでブレトーネは法と時間に言及する。時間が人間内部に入り込んで作用するのと同様に、法と時間の関係に ついても、時間も法及びその原理構造の内部に作用するといい、例として﹁新法は旧法に優先する﹂という原則を 示 ︵ 6 ︶ し 、この規範間の衝突を解決する基準あるいは原則が時間というものを内包することによって成立しているとい う。この他にも、期間、時効取得等々、様々な時間の痕跡を法あるいは法原則の中に見出すことができる。そして ブ レ ト ー ネ は 自 身 の 関 心 を 次 の 様 に 表 現 す る。 ﹁法 に お け る 時 間 に つ い て、 そ の す べ て に 非 常 に 興 味 を 抱 い て い る。言い換えれば、時間は、単に経過するということだけで、場所に関する法規範の効力を、それらの遵守性や適
用 性 を、 そ れ ら の 権 能 を、 な ん ら か の 方 法 で 限 定 あ る い は 限 定 す る に 至 る の か ど う か で あ る﹂ 。 一 言 で い え ば﹁時 間に従属するのか否か、そして[時間は]どのような方法で法の能力 ︵ dynamis ︶ あるいは力 ︵ ischus ︶ であるのか﹂ であ ︵ 7 ︶ る 。 六.ブレトーネは次に理論の視点を提示する。法規範は空間と関係しているのと同様に時間とも関係している。こ れらに関する法規範の範囲を限定することは難しいが、規範が﹁確実な範囲と確実な時間内に含まれた行動﹂を規 律 す る 場 合 に は、 当 該 範 囲 を 有 し 得 る と い え よ う。 そ の ほ か に は ケ ル ゼ ン ︵ Hans Kelsen ︶ が 示 し た よ う に、 規 範 に 関する空間と時間とが同一の規範によって或いは異なる規範や上位規範によって限定される場合にも、範囲を有し ているといえよう。しかし、法と時間とは、立法行為や司法段階におけるよりも、事実の段階で様々な価値を有し て い る。 つ ま り 時 間 は、 ﹁慣 習 を 作 り 上 げ る 行 為 の 主 観 的 判 断﹂ が﹁存 在 し な け れ ば な ら な い﹂ と い う 姿 に 変 化 す る の で あ る。 ﹁単 に こ れ ら の 行 為 が﹃明 確 な 時 間 内 に﹄ 生 じ た 後 に、 社 会 の 構 成 員 が 慣 習 と し て 行 動 し て い た 通 り に行動しなければならないという見解、及び同じ方法で当該構成員は行動するという意思が発生する﹂のである。 し か し 同 時 に、 慣 習 的 な 行 動 に 関 す る 本 質 的 な 主 観 は、 客 観 的 な 義 務 ︵ Sollen ︶ の 様 に は 解 釈 さ れ 得 な い。 な ぜ な ら ば、 そ れ ︵主 観︶ は 変 化 す る も の で あ る が、 規 範 の 価 値 は 客 観 的 に 有 効 あ る い は 正 当 な も の で あ り、 上 位 規 範 は 量産される判例と同じように慣習を明確化するからである、ともい ︵ 8 ︶ う 。 この様なことを述べることによってブレトーネは徐々に議論の中心を、いわゆる慣習法を素材とした時間との関 係 に 導 き 始 め る。 こ こ で ケ ル ゼ ン と は 別 に ニ ク ラ ス・ ル ー マ ン ︵ N. Luhmann ︶ の 指 摘 を 補 強 的 に 用 い る。 す な わ ち、規範の強制力について検討する際に、規範の継続時間という点が看過されていることが多い。例えば旧法と新
法は同じ段階にあり、質的な相違はな ︵ 9 ︶ い 。この例では、質的な相違の無い同じレベルの法規範の相違自体が、経過 時間に依拠しているというのである。このことをルーマンの次の言葉で表している。 ﹁今 日 に お い て は、 法 と は、 昨 日 に お い て は 無 価 値 で あ り、 必 要・ 可 能 あ る い は 安 全 で あ れ ば 翌 日 に は 無 効 に な るという意味にも解することができる。要するに、時間的な分割は、矛盾する法の効力を矛盾なく可能にする。ま た こ の 有 効 性 は、 期 間 や 継 続 的 見 直 し に 従 属 さ せ ら れ 得 る。 ︵中 略︶ 小 さ な 修 正 は、 あ ら か じ め 実 行 さ れ る。 な ぜ な ら ば、 大 き な 修 正 は 早 急 で 一 律 な 決 定 を 為 さ れ 難 い か ら で あ る。 ﹃良 法﹄ は 過 去・ 現 在 に で は な く、 開 か れ た 未 来に存在す ︵ 10 ︶ る ﹂。 こ こ で ブ レ ト ー ネ は、 ゲ ル ハ ル ト・ フ ッ サ ー ル ︵ G. Husserl ︶ の 見 解 に 言 及 す る。 フ ッ サ ー ル に よ れ ば、 現 象 学 的 に、 法 は﹁時 間 構 造﹂ ︵ Zeitstruktur ︶ で あ る。 ﹁時 間 は 止 ま る こ と な く、 法 規 範 は 時 間 と 同 伴 す る﹂ 。 法 規 範 は﹁歴 史 の中で特定の場を有さない﹂︱それが生じるのは常に一回のみに限定されるという意味での場である︱、人間の存 在が誕生の瞬間から留まることがないのと同様にである。そうであれば法規範は﹁原理﹂のように時間の流れから 免 れ て い る よ う に 思 え る。 し か し、 時 間 は、 解 釈 と 適 用 を 解 し て 溢 れ か え る。 規 範 の 解 釈 は﹁現 在 に お け る 観 念 的﹂なものに転化するのであ ︵ 11 ︶ る 。 さらにブレトーネは、法と時間の関係について、ホッブズからベンサム並びにベーコンやサヴィニーを、中世を 起源とする延長線上に位置づける。その上で、単に古いからと言って無視するのではなく、古の伝統との比較は、 法と時間という問題に対して光を当てることに役立つ。古典的な伝統と近現代の思考との間にある、混乱しながら も 我 々 が 認 め て い る 相 反 性 あ る い は 対 極 性 は、 表 面 上 の こ と よ り も も っ と 先 に 進 む こ と を 強 く 求 め て い る、 と い ︵ 12 ︶ う 。つまり単なる比較ではなく、そこから何某かの見解を見つけるように努力するというのである。このような考
え方の中には、ルーマンが述べた﹁新旧には質の相違はない﹂という発想と同じものが潜在しているように思料し 得る。 七. こ こ で ブ レ ト ー ネ は﹁並 行 の 道﹂ と し て、 ホ ッ ブ ズ ︵ Hobbes ︶ に 多 く 言 及 し 始 め る。 な ぜ な ら ば、 こ こ か ら ﹁国家﹂を前提とした論述に移るからである。 古 代 の 思 考 に お い て は、 国 家 ︵あ る い は こ こ で は 政 治 的 存 在、 何 ら か の 専 門 用 語 と し て 無 理 に 解 釈 す れ ば、 こ の 国 家 と い う 名 称 を 与 え る こ と に な る の だ が︶ は、 国 家 を 構 成 す る 個 人 や 市 民 社 会 と 切 り 離 す こ と は で き ず、 そ れ ら と 共 に ひ とつの﹁実体﹂を形作る。しかしホッブズにとっては、一七世紀中ごろ国家は個人に対して観念上および実際上の 自主独立性を尊重しながら、彼らの上方に屹立している﹁至高の権力﹂であり、ある種の﹁目に見える神﹂であっ ︵ 13 ︶ た 。そしてブレトーネは国家を検討するにあたって﹁時計﹂を例示し、現在でいう分析主義では個々の機能を解明 できず、機能主義によることを提示している。 さらにホッブズは﹁人間は歴史の推移や実際の生活の中で決して孤立して現れたことはないことを充分に解って いた﹂として、次の様に言及する。自然状態における闘争の条件に関して、どこが暴力と恐怖を支配するかを示さ なければならない。政治的共同体が形成されたことから、個々人は、人々のため或いは集団のために、他の者に対 す る 自 分 自 身 の ル ー ル を 断 念 し つ つ、 危 険 に 満 ち た 孤 立 化 を 捨 て 去 る こ と を 必 要 と し た。 そ の こ と は つ ま り﹁至 高﹂ に成長することであり、 社会契約は服従契約 ︵ pactum subjectionis ︶ となる。 共同体における生活、 正義にかなっ た生活は、支配権との関係を創設することなしには存在し得なかったであろうし、それは前提であり必要なことで も あ る。 ホ ッ ブ ズ が 定 義 し た よ う な 国 家 は、 ﹁人 工 的 人 間﹂ で あ る。 も し こ れ が 正 し い と す る な ら ば、 衡 平 と 法 律
は﹁理性と人為的意思﹂となる。国家と国家による命令無しに法律は存在しない。つまり、衡平と正義は国家によ る命令無しには存在しないのである。衡平と正義の双方とも同じ位置づけになり、人間の生活を安全なものにでき る。なぜならば、それらは人間の自然の感情と対照をなすものであり、感情はそれらに勝てないからである。もし 死 ん だ よ う な 条 文 を 保 ち 続 け た い の で あ れ ば、 ﹁遵 守 を 押 し 付 け る 権 力 の 恐 怖﹂ を 必 要 と す る。 国 家 の 意 思 に よ っ て﹁書 か れ た 或 い は 書 か れ て い な い 法 令 は、 権 限 と 効 力 を 与 え ら れ る﹂ 。 そ の と き 個 人 は 取 り 除 か れ、 慣 行 あ る い は行動規範の様なものは効力を失 ︵ 14 ︶ う 。法律・平等・正義の源である憲法を知らなければ、人間は自分自身の勝手な ルールのように、慣行や前例を受け入れやすくなる。つまり、慣行が罰を課し続けているゆえに不当というものを 感じ、刑罰の免除や承認を申し立てることを正当と信じ、法律家は単に正義の誤った基準と手続きを用いると考え るのだ。換言すれば、両親や先生による修正を受けなければ、多くの人は幼児と同様に善悪のルールを持たないの である。大人たちが知らない間に子供たちが勝手にルールを作り、それに不都合な法律や慣習が現れたときは、自 分たちにとって都合の良い法律や慣習を盾に取るのである。このことが、法や法理論に関する論争の原因であり、 人間の関心であり、野心・利益・熱望が交わり合うところなのであ ︵ 15 ︶ る 。ある慣習は、疑いなく、法規範としての権 威 を 有 す る。 そ の 根 拠 は 時 間 の 経 過 の 中 に あ る の で な く、 ﹁暗 黙 裡 に 示 さ れ た 君 主 の 意 思﹂ に あ る の だ。 慣 行 は、 君主の暗黙裡の意思として継続する。ここまで述べた後、ブレトーネはホッブズと対立するエドワード・コークに よる慣習の定義、すなわち﹁長期の研究と、長期の観察ならびに経験によって巧妙に完成された道 ︵ 16 ︶ 理 ﹂並びに他の 人物たちを持ち出すのである。 し か し ブ レ ト ー ネ は、 ホ ッ ブ ズ も 時 間 と い う カ テ ゴ リ ー を 無 視 は し て い な い と い う。 そ れ は 彼 の 著 書 The Elements of Law , Natural and Politic ︵ 1640 ︶ の 中 に も 見 出 さ れ 得 ︵ 17 ︶ る と い う。 つ ま り、 複 数 の 人 間 が い る 中 で、 あ る 者
が 他 者 に 服 従 を 命 令 す る と い う こ と は、 ﹁理 性 に 反 す る の み な ら ず 経 験 に も 反 す る﹂ の で あ る。 法 に 関 す る 限 り ホッブズは、時間は規範の外部にとどまり、その構造の中に入り込まないという。また十七世紀終わり近くのジェ レミー・ベンサムとホッブズとはそれほどの相違はないという。ベンサムによる法と時間の分析が、ケルゼン学派 の発想を準備するという。法律要件のすべて、特に一般性という要件を有する法律は継続性を有するが、立法者の 明 白 な 意 志 と い う 限 界 も 有 す る。 つ ま り 法 律 と は﹁制 度 上 の 理 由 で﹂ 限 定 的 な も の で あ る。 し か し 法 律 は﹁限 時 性﹂ の よ う に も 出 現 す る。 こ の こ と は、 法 律 が、 一 定 期 間 を 包 含 す る と い う 事 実 に 関 係 し て い る 場 合 に 生 じ る。 ﹁英国における狼の虐殺に関連する法律﹂は、ベンサムが言うには、 ﹁数世紀前の最後の狼と共に消滅し﹂ ︵ 18 ︶ た 。 ベ ン サ ム に と っ て も、 外 見 上、 時 間 は 規 範 の 上 で 機 能 す る。 し か し 彼 は、 世 界 の 異 な る 諸 国 家 の 法 制 度 に お い て、一定の範囲が慣習法の分野であることに気づいていない。彼にとって慣習法は、ぎくしゃくし、複雑で迷路の ような法であり、実定法の単なる﹁不安定で期待外れの代用品﹂として現れている。それゆえに法は、法典という 方法によって論理的な実定法という形態をとらねばならず、そこでは規則的で幾何学的な基準に基づいて各部分が 他 の 部 分 と 統 合 さ れ る の で あ る。 慣 行 の 意 思 は そ こ で は 消 滅 す る。 ま る で お と ぎ 話 の 古 い 王 様 の よ う に、 ﹁躍 動 的 に見事に自身の衰えたゆがみ﹂を交換するようにである。この意味において、法制度も﹁メカニズム﹂の性質を有 す る。 彼 は こ の メ カ ニ ズ ム と い う 性 質 と 時 計 ︵ orologio ︶ と を 重 ね 合 わ せ る。 つ ま り 法 が 立 法 権 を 有 す る 組 織 に お い て 企 図 さ れ た も の で、 ひ と つ の メ カ ニ ズ ム あ る い は 一 つ の﹁時 計﹂ で あ る な ら ば、 部 分 の 交 換 も 修 繕 も 可 能 で あ り、解体や再生も可能となる。換言すれば、メカニズムのあらゆる部品と同じように法も、その大部分は、手直し や修正がなされ、バラバラにされ、集められ得る容易さを有してい ︵ 19 ︶ る 。さらに、彼は法を時計になぞらえて、法の 性質を理解するためには、時計をすべて解体するように法令をすべて解体しなければならないとい ︵ 20 ︶ う 。
ブレトーネは、ベンサムの様な言説に対して、法と時間の関係がどのように繋がっているのかという点には言及 していない。そして次にサヴィニーに移るのである。 サヴィニーによる理解では、法制度において時間は構造上の役割を展開する。 ﹁時 間 は、 一 般 的 な 見 方 か ら す れ ば、 法 の 根 源 的 基 礎 で あ り、 あ る い は そ の 根 源 に 位 置 付 け ら れ る も の で あ ろ う か。それは次の様に仮定することができよう。法は、物事や人間の気まぐれな意志の、熟考の、そして賢明さの影 響に比べて、完全に異質の根源を有している。しかしこの仮説では、明白な事実が対立している。その事実とは、 制度に関係する事項が至る所に直感的に現れ、そして問題を有しており、長い時を経てそのためのルールが存在す る と い う こ と な の だ。 つ ま り 最 初 の 段 階 で 時 を 創 る 必 要 も な け れ ば 可 能 で も な い と い う こ と な の ︵ 21 ︶ だ ﹂。 ま た サ ヴ ィ ニーはキケロの言説を次の様に敷衍している。 ﹁諸 君 た ち に は 人 生 の ル ー ル が 存 在 す る ⋮ ︵中 略︶ ⋮ そ れ は、 個 人 の 見 解 に 由 来 す る も の で な く、 我 々 の 自 然 の 倫理に生まれつき備わっている必要性に由来するのだ。このルールは、共に生きることを模索する人間社会に於い ては、ある部分を見れば、当初は方向性の定まらない中でより限定された形式が、より広範に、安定した慣行とし て固定化するのであ ︵ 22 ︶ る ﹂。 筆 者 に よ れ ば サ ヴ ィ ニ ー は こ の 様 な 言 明 を 引 用 す る こ と で、 時 間 の 経 過 と 慣 行 を つ な ぎ 合 わ せ、 そ れ が 規 範 ︵ル ー ル︶ に な る と い う 見 解 を 抽 出 し て い る。 ブ レ ト ー ネ は さ ら に サ ヴ ィ ニ ー の 見 解 を 用 い る。 す な わ ち、 時 間 の ﹁回復力﹂は確実である。 ﹁どれほどの長さをかけてか、人々の中に法的信念が入り込み、諸君の心底深く根を下ろ す﹂ 。 時 間 は 法 的 信 念 に 定 着 し、 そ の 持 続 ︱ 発 展 や 転 換 を 否 定 せ ず、 言 語 の よ う に 徐 々 に そ し て 内 面 的 に 浸 透 す る ︱は最終的には現実に残留する。このモデルはローマ法に見出すことができる。この新規性を古典、古代、固定化
された法制度や新しい創造の形と結びつけることにおいて、その成熟性に疑いを抱く者は誰もいない。サヴィニー が見るに、法典は、常に﹁有効な伝統的法源に対する最大の心遣い﹂を前提とする。すなわち﹁適用できるゆえに そ れ ら す べ て﹂ の 方 向 に 再 び 向 か わ な け れ ば な ら ず、 ﹁そ れ ら は 全 体 と し て、 保 持 さ れ、 決 定 さ れ 続 け な け れ ば な らない﹂ということである。この見解はフランチェスコ・ベーコンによって導き出された。フランスにおいては、 啓 蒙 主 義 ︵特 に ボ ル テ ー ル や ル ソ ー で あ る が︶ が 大 い に 振 る 舞 い、 英 国 の 哲 学 者 も 一 七 〇 〇 年 か ら 一 八 〇 〇 年 の 間 は、ドイツ文化、つまりレッシングと同様にサヴィニーあるいはハーバーやゲーテの外縁にいることはなかっ ︵ 23 ︶ た 。 ベ ー コ ン に つ い て 言 え ば、 ﹁一 般 的 な 法 の 或 い は 法 源 に 関 す る 合 意 の 例﹂ を 提 示 し 始 め た。 彼 は、 新 し い 法 律 に お い て は﹁旧 法 や 古 代 法 の 産 物 の 全 文 及 び 文 言 を 正 確 に 保 存 す る こ と が 必 要 で あ る﹂ と 提 唱 し た。 な ぜ な ら ば、 ﹁法 に お い て は、 様 式 や 概 略 を そ れ ほ ど 充 分 に 注 意 し て は い け な い が、 古 さ は 権 威 の 最 大 の 擁 護 者 で あ る﹂ か ら で あ る。サヴィニーにとっては、法令はいつも役に立たず、時々有害でもあり、形式あるいは方法の単なる一問題に過 ぎないのであ ︵ 24 ︶ る 。 このようにブレトーネは、ヨーロッパにおける様々な先達の研究から時間と関連すると思われる必要な部分を取 り 出 し、 実 定 法 と し て の 法 律 よ り も 不 文 法 た る 慣 習 法 に 引 き 付 け る こ と で、 時 間 と の 関 係 性 を 見 出 そ う と し て い る。そして、彼の記述は次の﹁規範﹂と﹁時間﹂に入るのである。 八. ﹁規範﹂と﹁時間﹂ 今までのブレトーネなりの引用と検討を経て、彼は規範と時間に関して以下のように論じる。 近現代の法思想は、その源においても或いはその発展過程においても、典型的な伝統における比較ならびに公然
あるいは非公然の要素を有している。この伝統は、統一的な塊として、あるいは現れ、あるいは縺れた糸を解きほ ぐす組み合わせのように、瞬く間に結束あるいは争い合いながら進行するという形で現れる。我々は外面に現れる ものだけを明瞭に見るが、典型的な伝統の中で法と時間との関係はいかに形成されるのであろう ︵ 25 ︶ か 。 我々は最初にアリストテレス学説の原文に注目する。 ﹃政治学﹄の第二版において、アリストテレスは、 ﹁制度﹂ の検討後すぐに、いかなる基準で現存の法律を修正あるいは変更するか、可能で適切であるか否かを問う。この問 題 は 単 純 で は な く、 大 変 に 議 論 の 余 地 の あ る も の で あ る。 我 々 は そ の こ と を、 ピ タ ゴ ラ ス 学 派 の 伝 統 あ る い は ソ フ ィ ス ト 派 の 中 に 再 発 見 す る。 ソ フ ィ ス ト 派 の 見 解 に お い て は、 法 律 ︵ nomo ︵ 26 ︶ i ︶は 偶 然 の 事 象 で あ り、 そ れ 自 身 で 正 当化するものである。ソフィスト派のひとりであるプロタゴラスによれば、正義と不正義は﹁生来の固有の本質と して存在しているのでなく、一般に有されている見解であり、それは受け入れられ、そして継続するその時に正し い見解となる﹂のである。正義と不正義はまた﹁実際に各都市にとって存在が信じられるものであり、法律でそれ ら を 承 認 す る の と 同 様 で あ る﹂ 。 自 然 法 へ の 言 及 に よ っ て 一 般 に 知 ら れ て い る よ う に、 根 拠 に な る も の が あ れ ば、 あ る 種 の﹁社 会 契 約﹂ の 様 な も の で あ る と い え よ う。 一 方 で ヒ ッ ピ ア ス の 立 場 は、 こ の 点 に お い て は、 ま っ た く もって明瞭でない。彼にとって不文法とはどのような意味を有するのか、そして規範とあるがままの姿がいかに相 互関連性を有するのか、明言することは困難であ ︵ 27 ︶ る 。 アリストテレスもプラトンと決着をつけなければならなかった。プラトン学派の視点からは、実定法においては 世界の合理的な秩序が反映されなければならない。当該秩序︱力でもなく約束でもない︱は、最も根源的なものを 形 成 す る。 世 界 の 合 理 的 な 秩 序 に お い て は、 人 間 と 都 市 ︵国 家︶ が 組 み 込 ま れ る。 法 律 は、 日 々 の 義 務 の 中 に 姿 を 移 す が、 賢 人 政 治 家 は 法 律 に 関 し て 如 何 な る 関 係 を 有 す る の で あ ろ う か。 プ ラ ト ン は﹃国 家﹄ の 中 で、 ﹁誕 生 と 死
が連続するものでもさ迷わず、継続する何某かの現実を明らかにする科学﹂を愛する者に委ねられなければならな い、 と い う が、 こ の 科 学 を 熟 知 し﹁王 の 所 業﹂ ︵立 法 に 参 加 す る こ と で も あ る︶ に そ の 科 学 を 移 管 す る 者 は、 当 該 統 治に従事するために法律という手段に訴える必要があるのであろうか、と問う。これは政治に関する重大な問いか けである。法律の確固たる性質は、そして﹁人間に関することの無限性、不安、変わりやすさ﹂は、賢人政治家を どちらかというとこの最後の部分に順応するように導いているといえよう。立法は抽象的であるが、法律に訴える 場合は法律上の要件によって具体的に決定される。すなわち﹁諸国家において、国王は生まれず、その反対に、ミ ツバチの巣の中で自然に発生するように、肉体や魂を超えて直ぐに現れるものである故に、より正しい基本法を書 き留めようと努めながら、制定法を記述することに共に集中することが必要なのであ ︵ 28 ︶ る ﹂。 こ の よ う に ブ レ ト ー ネ は、 偉 大 な 先 達 の 研 究 の 一 部 を 切 り 取 り な が ら 自 己 の 見 解 に 合 う よ う に 述 べ て い る が、 我々が理解するには非常に困難性が伴う。そこで、彼は、段落を変えて次の様により分かりやすい表現で述べてい る。 ﹁法 律 は、 人 間 が 創 造 し た が、 変 わ り や す い も の で あ る。 つ ま り 賢 人 政 治 家 が 唯 一 の 解 釈 者 で あ る 全 世 界 の 合 理 性 に つ い て、 合 目 的 性 に 継 続 的 に 従 う つ も り で あ る な ら ば、 ︵中 略︶ 適 切 と 判 断 し た 場 合 に は 治 療 措 置 を 修 正 す る こ と を 躊 躇 わ な い 医 者 の よ う に 行 動 す る と い う こ と が 理 解 で き よ う。 法 律 が 変 化 し や す い も の で あ る と し た な ら ば、その変化から新しい問題を発見することができ ︵ 29 ︶ る ﹂。 ブレトーネ曰く、これはプラトンが彼の対話の最後で直面した問題である。立法に関していうならば、継続ある い は 変 更 に は、 ﹁遠 い 過 去 か ら 我 々 に 伝 え ら れ た 来 た 祖 先 の 慣 習﹂ と い う 価 値 が ど の よ う に 存 在 し て い る の で あ ろ うか。それは、既に記述された法令と未来における法令との間の中間の位置に見いだされる。つまり多様な形態に
おいて、慣習は二面性という特質を示す。一つは、基盤となる役割を展開することであり、他方は最高の評価基準 からの逃避や判断を回避することはできないということである。したがってプラトン学派の視点においては、法制 度は修正可能であるが、明白な変更可能性は伝統の根深い意義を排除はしないのである。この点はアリストテレス の﹃政治学﹄においても現れている。彼は﹁選択に値する﹂と記述した。統治者たちは法律を従属させる必要があ り、 そ の 管 理 人 に な ら な け れ ば な ら な い。 法 律 は﹁命 令﹂ で あ り、 ﹁順 序﹂ あ る い は﹁感 情 を 除 い た 知 性﹂ で あ る。 法 律 に お い て の み、 ﹁衡 平 な 基 準﹂ が 存 在 す る。 法 律 は﹁現 象 の 全 て を 明 確 に す る こ と は で き な い。 ま し て 人 間 は そ れ を 知 り 得 な い﹂ 。 そ の た め 法 律 は 判 事 に﹁彼 ら の 限 界 以 上 の、 よ り 正 義 の 判 断 に 基 づ い た 評 価 及 び 統 治 と いう﹂役割をゆだねるのだ。しかし、それを修正したり変更したりすることはできるのであろうか。この問題は単 純ではないが、変更あるいは修正することは可能であろう。アリストテレスによれば、医学から運動科学に至る知 識と経験のあらゆる分野において、新規性を求めることは疑いなく有益なのであ ︵ 30 ︶ る 。人間というものは、何かの中 にある伝統ではなく﹁善﹂を探求する。したがって、既に存在する文書や慣行、法律を無理やりに変更しないでお くことは、まったくあり得ないことである。だが、当該変化は非常に慎重でありながらも、自由についても慎重な 検 討 を 求 め る。 つ ま り﹁メ カ ニ ズ ム﹂ を 簡 単 に 分 解 し て 作 り 直 す よ う な こ と は 行 わ な い。 ﹁得 ら れ る 利 益 が 最 小 で あるとき﹂ 、法令の廃止は避けられなければならない。アリストテレスは次の言葉を残している。 ﹁法 律 は、 も し 慣 習 に 従 わ な い の で あ れ ば、 い か な る 他 の 力 も 有 し て い な い。 つ ま り、 慣 習 は、 長 期 に わ た っ て 形成されるゆえに、無頓着に現実の法律から新しい法律に向かうことは、法律の効力のある種の弱体化を意味する のであ ︵ 31 ︶ る ﹂。 し か し ア リ ス ト テ レ ス 学 派 の 見 解 は、 実 際 に は 異 な る。 つ ま り、 ど の よ う な 法 律 で あ ろ う と も、 新 規 の 法 律 で
も、 慣 習 に 移 行 す る 固 有 の 力 を 有 し て い る は ず で あ る。 精 神 ︵ ethos ︶ は 法 律 の 強 さ で あ り、 長 期 間 を 経 て も 単 独 で 存在し得る。そのため、安易な変化・修正は如何なる利益も生じさせないのだ。そのような変化や修正は法律から 信用を失わせ、法律から誠実性を奪うのである。別の視点においても、プラトンの﹁祖先からの慣習﹂におけるよ うに、時間は内面の規範に働き、規範の創設に寄与するのであ ︵ 32 ︶ る 。 こ の 様 に ブ レ ト ー ネ は、 規 範 と 時 間 の 関 係 を、 法 律 の 継 続・ 改 廃 及 び 慣 習 ︵法︶ と の 関 係 の 中 に 見 出 そ う と し て いる。特に実証的な調査結果からではなく、アリストテレスやプラトンといったヨーロッパ文化の源流となる思想 か ら 導 き 出 そ う と し て い る。 ブ レ ト ー ネ の 著 書 名 に あ る﹁ヨ ー ロ ッ パ の 伝 統 に お け る ︵ nella tradizione europea ︶ ﹂ の 伝統が、先達の研究を意味するものである点では、タイトルと内容に齟齬を見出すことは出来ないが、それでは哲 学的思惟から法と時間の関係を検討するという方法論の範囲内を出ないものとなろう。それでもブレトーネは、次 項でもう少し古代、すなわちローマ時代に言及する。 九.古典古代の偏見 プ ラ ト ン 学 派 と ア リ ス ト テ レ ス 学 派 の 教 え は、 そ の 過 程 を 含 め て、 か つ て の ロ ー マ 文 化 に お い て は 聴 く こ と は あっても残ってはいない。法制度に関する概括的な表現は、憲法上の機関と慣習法とを通して市民社会の規範、す なわち法 ︵ leges ︶ と法則 ︵ iura ︶ を区別し且つ結びつける。 法は政治 ﹁体﹂ としての都市の精神 ︵ mens ︶ と心 ︵ animus ︶ である。都市は、ドイツの法史学者であるフランツ・ヴィーアッカーが言うように、自身の出自を見出す。一方で 法律は、それ自身の性質によって、法制度を固定・修正することができる行為あるいは仕掛けである。このような 法律の革新的な能力は、 いかなる方法をもってしても、 認められるものなのであり、 古代における最初の国 ︵公国︶
であっても同様であ ︵ 33 ︶ る 。 近 現 代 の 社 会 学 の 用 語 を も っ て し て、 次 の 様 に 表 現 す る こ と が 出 来 よ う。 法 の 文 書 主 義 と い う 考 え は 法 律 の 固 有・生来のものである。しかし、ローマ時代では、現代ヨーロッパにおけるほど単純ではなかった。当初、少なく と も 二 つ の 経 験 が 共 同 体 の 中 で 一 定 の 部 分 を 占 め て い た。 キ ケ ロ あ る い は テ ィ ト ゥ ス・ リ ウ ィ ウ ス さ ら に は タ キ ト ゥ ス の 時 代 の 市 民 ︵人 民︶ は 誰 で も、 市 民 に よ っ て 可 決 さ れ た 法 律 が﹁絶 対 無 欠 の 多 数﹂ で あ る こ と を 疑 っ た り はしなかった。法律は﹁老巧化し得た﹂ 、そして﹁終末を迎え得た﹂のであり、新しい法律に取って代わられ得た。 一方、慣習法の変化は立法に影響する。政治的支配の拡大、環境や文化との関係、私的あるいは公的な財産の増 大、 こ れ ら は 新 し い 規 範 を ︵人 々 に︶ 課 す こ と に な ︵ 34 ︶ る 。 ま た 豪 華 な 現 象 は、 ︵人 々 の︶ 反 感 を 伴 う。 そ う な る と、 ま ず最初に食卓に関して贅沢さを制限しようと努める。この場合、過去に対する単純な敬意は存在せず、新しさを拒 絶する頑迷さ、つまり実際には世襲財産との均衡を保ちつつ、社会的地位や責任者グループの政治的役割を変化さ せないという意思が存在したのだ。それでも、短期間或いは紀元前一世紀の間に繰り返し出現した規制法はやがて 死 文 化 し た。 ロ ー マ 時 代 の 歴 史 家 ソ ウ ィ ウ ス の 叙 述 が、 劇 的 な こ と を 記 し て い る。 そ れ は オ ッ ピ ア 法 ︵ Oppia ︶ の 推移である。当該法律は、半オンス以上の財産を所有する女性に対して、鮮やかな服を見せびらかすこと、及び馬 車でローマの道や一マイル以内を動き回ることを禁止したの ︵ 35 ︶ だ 。この法律は紀元前二一五年に承認され、二十年後 に部族の満場一致で廃止された。節約に関する立法︱﹁明白な消費﹂に対する立法︱の弱点は、共通の場所に似て おり、古い時代においては合意の対象ではなかった。一六〇〇年代のイタリアにおける貴族の家族と新興の金持ち は︱一〇〇年先のミラノ、ローマ、フィレンツェそしてヴェネツィアにおいても︱贅沢に関して最低限の聴く耳さ え も 持 た ず、 虚 飾 と 豪 奢 に 満 ち た 生 活 を 続 け た。 こ の 事 態 に 対 す る 立 法 は ロ ー マ 的 社 会 に 於 い て は ︵そ し て そ の 時
間 内 に︶ 、 単 に 法 の 可 変 性 を 示 し た の み な ら ず、 実 際 に、 い わ ゆ る﹁法 制 度 の 形﹂ が﹁一 千 回 も 変 更 さ れ た﹂ の で ある。ローマの十二表法も、時間による消耗から逃れられなかった。十二表法が公布されたのち一〇〇〇年の半ば 以降、その規範の少なからずが﹁不活性と遺棄のために﹂消滅したが、その傾向はより早期に始まっていた。結局 は、 ﹁すべての事象は﹂ ﹁それぞれの経過 ︵時間︶ を有している﹂ 。この見解はその後、幾たびも繰り返され ︵ 36 ︶ た 。 こ の 様 な こ と か ら、 そ れ ぞ れ の 法 律 は、 具 体 的 適 用 の 試 練 を 受 け 入 れ な け れ ば な ら ず、 ﹁適 用 に 関 す る 批 判﹂ の 前に自身をさらけ出さなければならない。この過程によって、法律は自身が有用であることを示すことができる一 方で、廃案の決断をも発生させるのである。その廃棄の案をいかにして阻止するのか。ルソーが述べているはずで あるが、そこに﹁偏見﹂が作用するのであ ︵ 37 ︶ る 。 法律の改廃案に対しては、可能な限り早期に当該案が無意味であることを示す必要がある。如何なる法律であっ ても、特別の事情がない限りは、古いものになると推測し得る。同時に法律の継続は、権威を増大させ、より多く の崇敬を発生させる。十二表法においても、唯一の例ではないとしても、当該状況についての典型例を見出すこと ができる。このことから、法律における時間の効力は、忘却と終末を確定し得ること、及び当該効力を増強するこ ともできるという二面性を有するのである。 この第二の側面について取り上げるならば、法律は時間を貫く慣習のうちに変化する。これはアリストテレスが 幾度となく主張したことであるが、法務官布告などを見れば間接的に理解できるであろう。モンテスキューが述べ ていることだが、当該布告は、法律のように﹁人を拘束する﹂ものではない。それゆえに、法律がそうではないも の で あ る た め、 法 学 の 考 え 方 に 合 っ て い る の で あ る。 法 規 範 は、 法 律 の 規 範 性 と 異 な ら な い と し て も、 ﹁古 式 或 い は祖先由来の﹂に変化する傾向を有する。つまり形式的な一時性あるいは断絶性は、漸進的、効果的な安定と調和
するということであ ︵ 38 ︶ る 。誇張なく言えば、当該布告の規範的継続性は、時間とともに、明白な慣習につていの効力 を獲得するのであ ︵ 39 ︶ る 。 法律に関して、時間の積極的な影響は、ほかの形でも表れてくる。文化においては﹁共和政﹂にもとづいた古の 仕 来 り ︵ mores antiqui ︶ を 提 示 し、 プ ラ ト ン 学 派 の よ う に﹁世 紀 あ る い は 世 代 に 沿 っ て﹂ 再 編 さ れ た 有 機 体 の よ う に、 そ の 最 終 点 を 想 像 す る。 法 律 は、 常 に 自 身 を 考 慮 し、 慣 習 法 を 包 含 す る。 キ ケ ロ 学 派 に お い て は 自 問 形 式 に 則 っ て、 法 の 様 々 な 部 分 を 列 挙 す る。 法 律 は そ れ ら の 間 に 位 置 付 け ら れ る。 そ の 根 源 が 有 用 性 ︵ utilitas ︶ で あ る こ とは疑いない。しかし法律は、慣習法の一つの道具というだけであり、すでに受け入れた規範をさらに強化するた めの媒介物としてのみ存在し得るのであ ︵ 40 ︶ る 。 時 間 に お け る 法 の 継 続 は、 つ ま り 慣 習 の 側 面 で あ る が、 成 文 テ キ ス ト に 翻 訳 す る 必 要 性 を 放 逐 す る。 キ ケ ロ の 三 〇 〇 年 後 に パ オ ロ は 非 常 に 明 白 に そ の ︵成 文 化 の︶ 必 要 性 を 肯 定 し た。 彼 の 主 張 を 認 め な い も の は 誰 も い な い で あ ろ う。 そ う は 言 っ て も、 ﹁公 正﹂ の よ う に 時 間 を か け て 現 れ る﹁法﹂ を 軽 々 に 修 正 す る こ と は よ ろ し く な い と 自 覚 す る。 す な わ ち 有 用 性 ︵ utilitas ︶ は﹁明 確 で な け れ ば な ら な い﹂ の で あ り、 い か な る 場 合 で あ ろ う と も、 慣 習 は 常に﹁法律の最高の解釈者﹂であり続けるのであ ︵ 41 ︶ る 。 ブレトーネは様々な表現を借りながら慣習を時間と重複させて検討していることが理解できる。それを収斂させ たものとして次項で全歴史に言及する。 十.記録としての﹁全歴史﹂ ブレトーネは、最初にユスティニアヌスの法典化を、古代の法による経験についての壮大な転換であると云い、
﹁古 代 に 対 す る 敬 意﹂ は 人 定 法 の 持 つ 不 安 定 性 を あ る 程 度 緩 和 し 得 る が、 人 定 法 に は 多 く の﹁暗 雲﹂ や﹁暗 黒﹂ が 群がるものであり、学説彙簒などはその典型であると評価す ︵ 42 ︶ る 。そして次の様に続ける。ゆっくりとなされた古代 の法典化は、それ故に時間を排除しない。膨大な寄せ集めの個々の断片は、その起源の示すかのように。規範の継 続は信望を集め、規範を共に支える記録への信望にもつながる。法典化された合成物は、いつでものその価値を受 け 入 れ る こ と が で き る の で あ る。 ロ ー マ 帝 国 の イ デ オ ロ ギ ー は ユ ス テ ィ ア ヌ ス の 時 代 以 後 に そ の 傾 向 を 変 化 さ せ た。 そ れ は、 過 去 に お い て 最 も 頻 繁 に 設 け ら れ た 法 の 復 位 の 様 で あ ︵ 43 ︶ る 。 最 後 に 次 の 言 葉 で 閉 め て い る。 ﹁古 い 法 は 常に最善であ ︵ 44 ︶ る ﹂。 十一.以上がブレトーネにおける﹁時間と規範﹂の項目の概要である。ここから窺い知れるのは、ブレトーネが時 間と法あるいは規範を検討する場合、両者を切り離すような純粋な哲学的思考でもなければ、市民生活の実態を調 査して﹁生ける法﹂あるいは﹁生ける時間﹂との関係を考察するような法社会学的な方法に依拠しているわけでも な く、 法 ︵規 範︶ の 生 成 と 耐 用 性 及 び そ の 結 果 と し て の 有 効 性 あ る い は 人 民 に よ る 受 容 可 能 性 を 成 り 立 た し め る の が時間であるという点を、第一に先人の言説から、第二に歴史から論証しようとしているといえよう。 この様な論述方法は、法学者が無意識のうちに或いは経験に基づいて用いるものであるが、他の分野の方法と照 らし合わせるならば、例えば社会学における質的調査法におけるアンケートあるいはインタビューが先人の言説に 当たるということに該当するであろう ︵ 45 ︶ し 、歴史のある事象に対して因果関係のみならず当該事象の有する意味を現 代或いは研究者の特定の視点から評価することは歴史解釈という方法に該当すると考えられる。 前者の方法は、法学分野においても、敢えて社会学を意識せずに、判決文や学説の検討においてほぼ同様の作業
が行われているとも考えられるが、後者の歴史解釈については、一種の社会実態に対する評価の側面も有するゆえ に、歴史学の因果関係を含めた法社会学の手法を意識して導入することがより一層の論証の精緻化につながると考 えられる。 しかし、ブレトーネ及びこれまでの千葉と小林の先行研究を通観して判明することは、自然科学上の時間と社会 科学上の時間は異なるという点であろう。自然科学上の時間は、人間の存在とは無関係に存在していると考えられ ているが、社会科学上の時間は、実はそれぞれの社会によって異なるということが千葉などの法社会学の先行研究 からも明らかになっている。換言すれば時間は唯一でなくても人間の生活には支障は生じない、唯一でなくてもよ いという事実である。この点が、おそらく自然科学上の時間との明確な相違であろう。時間の統一化は、時間自体 の性質或いは存在から発生することではなく、強い社会による弱小社会への影響あるいは吸収合併といった時間以 外の人間活動の結果として、勝利した社会が有する時間が他の社会に植え付けられる或いは受容されるということ であり、碧海純一の云う﹁法とは、言説によって表されたフォーマルな社会統治の技術であ ︵ 46 ︶ る ﹂という意味におい て、法に付随して拡大するということになろう。そして法とは、何処の社会に於いても同様の機能を有していると いえるが、その内容自体は固有性を持っていることから、ある種の社会の特殊性あるいは独自性をその根源に包含 していると考えられる。この点はヘーゲルやサヴィニーの主張と同一線上あるとも考えられ ︵ 47 ︶ る 。そのうえで時間は 当 該 法 ︵規 範︶ と 一 体 不 可 分 で あ る ゆ え に、 時 間 自 体 も そ れ ぞ れ の 社 会 が 作 り 出 し た 独 自 性 を 有 し て い る と 推 測 し 得る。この点で、時間の機能自体には共通性があるといえども、唯一の時間というものは存在しないことになる。 そうであれば、時間は人間或いは人間集団が創造した産物であり、換言すれば一種の思想であるとも言い得 ︵ 48 ︶ る 。時 間が思想であるならば、同じような人間の想像の産物である法との融和性は高く、それを扱う人間の考え方次第で
注 ︵ 1︶ 拙稿﹁時間と法に関する研究序説︵一︶︱邦語文献の整理と課題︵その一︶︱﹂東洋大学法学会﹃東洋法学﹄第五十七巻第二 号︵二 〇 一 四 年 一 月︶ 一 ∼ 十 八 頁。 同﹁時 間 と 法︵二︶ ︱ 邦 語 文 献 の 整 理 と 課 題︵二︶ ︱﹂ 同﹃東 洋 法 学﹄ 第 五 十 八 巻 第 二 号 ︵二 〇 一 四 年 一 二 月︶ 一 ∼ 二 十 頁。 同﹁時 間 と 法 に 関 す る 研 究 序 説︵三︶ ︱ 邦 語 文 献 の 整 理 と 課 題︵三︶ ︱﹂ 同﹃東 洋 法 学﹄ 第 五十九巻第二号︵二〇一六年一月︶一∼十四頁。 ︵ 2︶ Mario Bretone,
Diritto e tempo nella tradizione eur
opea , Editori Laterza,1994, 105p. ︵ 3︶ Ibid ., p.33. ︵ 4︶ Ibid ., p.34. ︵ 5︶ Ibid . ︵ 6︶ Ibid . ︵ 7︶ Ibid ., p.35. ︵ 8︶ Ibid ., pp.35-36. ケ ル ゼ ン﹃純 粋 法 学﹄ 横 田 喜 三 郎 訳︵岩 波 書 店、 一 九 八 八 年︶ 十 四 頁、 二 十 一 ∼ 二 十 四 頁 参 考。 Cf ., Hans Kelsen, Rein Rechtslehr e,
Verlag Franz Deuticke
W ien, 1960, S. 12, S. 213. ︵ 9︶ Bretone, op. cit ., p.36. ︵ 10︶ Ibid ., p.37. ニ ク ラ ス・ ル ー マ ン﹃ [改 訂 版] 法 と 社 会 シ ス テ ム ︱ 社 会 学 的 啓 蒙﹄ 上 田 昭 訳︵新 泉 社、 一 九 九 三 年︶ 一 〇 一 ∼ 一〇四頁参考。同﹃社会システムと時間論︱社会学的啓蒙﹄上田昭訳︵新泉社、一九九三年︶一〇四∼一五一頁参考。 ︵ 11︶ Bretone, op. cit ., p.37. 内容に変化を生じることも理解できる。例えば法解釈や死の時期の問題などはその典型であろう。ここに至って、 時間とは思想であるという新たな仮説を提示することができ ︵ 49 ︶ る のである。 以上
︵ 12︶ Ibid ., p.38. ︵ 13︶ Ibid ., p.39. ︵ 14︶ Ibid ., p.40. ︵ 15︶ Ibid ., p.41. ︵ 16︶ Ibid . ︵ 17︶ Ibid ., p.42. Cf ., Thomas Hobbes,
The Elements of Law
, Natural and Politic
, 1640, p.1 18. ︿ http://www .constitution.or g/th/elements.htm ﹀ ︵ 18︶ Bretone, op. cit ., p.43. Cf ., H.L.A.Hart, ed,
Of Laws in General: The Collected W
orks of Jer emy Bentham , University of London, The Athlone Press, 1970, pp.74-75. ︵ 19︶ Bretone, op. cit ., p.44. Cf ., Hart, op. cit ., p.235-236. ︵ 20︶ Cf ., ibid ., p.236. Bretone, op. cit ., p.45. ︵ 21︶ Ibid ., p.46. ︵ 22︶ Ibid ., 耳 野 健 二﹃サ ヴ ィ ニ ー の 法 思 考 ︱ ド イ ツ 近 代 法 に お け る 体 系 の 概 念 ︱﹄ ︵未 来 社、 一 九 九 八 年︶ 一 七 〇 ∼ 二 三 七 頁︵第 五 章︶参考。 ︵ 23︶ Bretone, op. cit ., p.46. 耳野、前掲書、八〇七頁、二〇九∼二一五頁参考。 ︵ 24︶ Bretone, op. cit ., p.47. ︵ 25︶ Ibid . ︵ 26︶ 松坂佐一﹃プラトンと法律﹄ ︵名古屋大学出版会、一九八七年︶ ﹁はしがき﹂ⅰの訳語を使用。 ︵ 27︶ Bretone, op. cit ., p.48. ︵ 28︶ Ibid ., p.49. 松坂、前掲書、九十∼一〇九頁参考。 ︵ 29︶ Bretone, op. cit ., p.50. ︵ 30︶ Ibid .
︵ 31︶ Ibid ., p.51. ︵ 32︶ Ibid ., p.52. ︵ 33︶ Ibid . ︵ 34︶ Ibid ., p.53. ︵ 35︶ Ibid ., p.54. ︵ 36︶ Ibid ., p.55. ︵ 37︶ Ibid . ︵ 38︶ Ibid ., p.56. ︵ 39︶ Ibid ., p.57. ︵ 40︶ Ibid ., p.58. ︵ 41︶ Ibid ., p.59. ︵ 42︶ Ibid ., p.60. Cf ., Hart, op. cit ., p.187. ︵ 43︶ Bretone, op. cit ., p.60. ︵ 44︶ Ibid ., p.61. ︵ 45︶ 岸正彦・石岡丈昇・丸山里美﹃質的社会調査の方法︱他者理解の合理性の理解社会学︱﹄ ︵有斐閣、二〇一八年︶参考。 ︵ 46︶ 碧海純一﹃法哲学概論﹄ [全訂第二版補正版] ︵弘文堂、二〇〇〇年︶九〇三∼九〇四頁。 ︵ 47︶ Cf ., P hili pp e No ne t, Tim e a nd L aw , T he ore tica l I nq uir ie s in L aw , V ol. 8-1 , T el A viv U niv ers ity , 2007, pp.31 1-332. ︵ 48︶ 福 田 恆 存﹃人 間 の 生 き 方、 も の の 考 え 方 ︱ 学 生 た ち へ の 特 別 講 義 ︱﹄ ︵文 藝 春 秋、 二 〇 一 五 年︶ 参 考。 ま た 次 の 言 及 が 非 常 に 参 考 と な る。 金 原 典 子︻報 告︼ UTCP 日 本 思 想 セ ミ ナ ー﹁東 ア ジ ア に お け る 時 間 と 歴 史 の 境 界 画 定﹂ ︵二 〇 一 〇 年 七 月 六 日︶ The University of T
okyo Center for Philosophy
︿
http://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/blog/2010/07/report-utcp-lecture-time-and-t/#anchor_more
﹀ accessed 12
︵ 49︶ 社会科学においては﹁時間は思想である﹂という視点はあまり見いだせないが、いわゆる人文科学においてはむしろ当該観念 が中心であるといえよう。例えば吉原裕一﹁倫理思想としての﹃時間﹄をめぐる考察﹂ ﹃国士舘哲学﹄第十二号︵二〇〇九年三月︶ 五〇六∼六〇八頁、実松克義﹃マヤ文明︱文化の根源としての時間思想と民族の歴史︱﹄ ︵現代書館、二〇一六年︶ 、藤本忠﹃時間 の思想史︱相対性としてのフィジカ・メタフィジカ︱﹄ ︵晃洋書房、二〇一七年三月︶ 、瀬戸一夫﹃時間の思想史︱アンセルムスの 進 学 と 政 治﹄ ︵勁 草 書 房、 二 〇 〇 八 年 一 月︶ 、 村 田 敦 郎﹁バ リ の 人 々 の 魂 の 行 方 ︱ 自 己・ 身 体・ 時 間 ︱﹂ ﹃死 生 学 研 究﹄ 第 十 号 ︵二 〇 〇 八 年 九 月︶ 、 和 田 康﹁ジ ョ ル ジ ュ・ バ タ イ ユ に お け る 時 間 思 想 の 研 究 ︱ 歴 史 と 瞬 間 ︱﹂ ︵博 士 学 位 論 文 の 要 約︶ TOUR ︵
Tohoku University Repository
︶ ︿ http:llhdl.handle.net/10097/36857 ﹀ accessed 14 January 2019. など、文化人類学や哲学基礎科学などの関 連で論及されることが多い。本稿に関連して考察するならば、当該研究成果を社会科学の一つである法学と如何に連結させるかと いう点にあり、今後の研究課題である。 ︱さいとう ひろし・東洋大学法学部教授︱