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間主体的な道徳教育の創造 : 生活世界の再構成による「いじめ問題」克服の試み

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Academic year: 2021

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(1)学位論文. 間主体的な道徳教育の創造 一生活世界の再構成による「いじめ問題」克服の試み一. 学校教育研究科. 学校教育専攻. 生徒指導コ∼ス. 相模 昇. M94165E.

(2) 目 次 ページ 1. はじめに 序章 第1節 第2節 第3節 第4節. 現代社会と教育. 第1章. 意識論から言語論へ. 第1節 第2節 1 2. 第3節 1 2 3. 第2章 第1節 1 2 3 4. 第2節 1 2 3 4. 現代社会におけるシステム合理性. 3. 価値相対化の現代 教育の落とし穴(存在感を求めて). 4. 学校における自明性と共同性の喪失. 教育モデルの転回(「主体一主体」関係の意義) 意識論的な間主観性 モナドとしての主体 現象学における生活世界概念の限界 言語論的なパラダイム転換 言語ゲームが意味するもの 言語ゲームにおける間主体性 規則に従うことの意味. 6. 10. 13. 15 16. 17 17 19. コミュニケーション的行為論と生活世界 コミュニケーション的行為 目的合理性とコミュニケーション的合理性 成果志向的行為と了解志向的行為. 22 23. 言語行為論. 24. 形式的語用論 意味共有化のための生活世界 「資源」としての生活世界 生活世界とシステムの分離 生活世界の危機的現象 システムと生活世界の連関. 25. 28 31. 33 36. 第3章. 学校における公共性の再生. 第1節. システム化された学校 学校というシステムの存在意義. 40. 社会力・ら孤立する教師の意識. 40. 教師という存在の可能性 教師間の連帯の形成. 42. 1 2 3 4. 44.

(3) 5. 第2節 1. 2 3 4 5. システムに規定された教師と子どもの関係性 教師のパラダイム転換 子ども達の判断力再生の契機 知識観の転換 情報量の増大に伴う弊害 教育的行為における情報伝達 間主体的な知識の再構成. 46 48 50 51. 52. 54. 第4章 「いじめ問題」克服に向けた道徳教育のパラダイム転換 第1節. 「いじめ問題」 一パースペクティブの転換. 1 いじめとは何か (1)いじめに対する基本的認識 (2)いじめの構造 (3)学校全体の構造化されたいじめ 2 今求められる「関係性」創造の場 (1)大人の論理 (2)教室社会における共同性の創出 第2節 道徳教育のパラダイム転換 1 ディスクルス倫理学の構想 (1)定言命法から相互承認へ (2)定言命法と相互承認の止揚 (3)討議の意味 (4)実践的ディスクルス 2 生活世界の再構成 (1)伝達から価値創造へ (2)議論による連帯と自己の確立 第3節 授業実践 1 授業構想の視点 (1)身近な生活問題を扱う上での弊害 (2)モノローグ的な視点から関係性の視点へ (3)授業の特徴 2 資料及び指導案 3 授業実践における意義と課題 (1)意義 (2)課題. おわりに 一全体的考察一 資料. 60. 60 64 65 66 69 71. 73 75. 77 78. 80. 84 86 86 87 91. 92. 99 99. 104.

(4) はじめに 〈学校の荒廃〉、〈教育の病理〉が言われるようになって20年ほどになる。 この間、学校において様々な診断がくだされ、改革の努力がなされてきた。しか し、問題状況は依然として続いている。問題は解消されるのではなく、むしろ問 題に対処するための一方的な教師の権威を支える校則という制度づくりや、児童 ・生徒に対する抑圧を正当化する生徒指導部という組織づくりに解消されてきた といっても過言ではないであろう。学校が、学校の中だけで問題を把握し、対処 しようとすればするほど、悪化の一途をたどってきたとさえ思われる。今学校は、 社会との連関において、どのような教育の在り方を志向すべきなのだろうか。. 子どもをとりまく環境は、戦後大きく変化してきた。経済が高度成長を遂げ、 都市化が進行し、地域社会の変貌が進み、それと平行して学校教育も急速に拡大. した。ところが皮肉なことに、学校教育の整備・拡充が進んだかに見えた197 0年代半ばから、〈学校の荒廃〉という問題が顕著になってきた。全国的に校内. 暴力事件が多発するようになり、80年代の前後には、対教師暴力やいじめの問 題へと展開していった。さらに80年代以降は、不登校がクローズアップされ、 毎年数干人の増加を見るに至り、また、いじめ閻題は、過激化・陰湿化し犯罪の レベルまで達しつつある。. このような教育問題の推移は、現在の教育状況を考える土で非常に示唆的であ. る。なぜなら、1960年代までの中心的な教育問題は、青少年の非行や暴走族 といった、主として学校の外での問題であった。しかし、70年代に問題化して きたのは荒れる学校という学校の中での問題であった。さらに、80年代に入る と、不登校という学校教育の拒否という象徴的な問題が顕在化してきたのである。. つまり、マスコミなどによって派手に取り上げられてきた教育問題は、学校の外 から中へ、そして学校拒否へと移行したといえるであろう。これらの状況は学校 に対する神話が瓦解しつつあることを如実に物語るものだと考えられる。だが、. これですべてが語れるわけではない。教育問題の推移が、学校の外から中へ、そ して拒否だけにとどまらず、拒否することさえできなかった子どもを、いじめと いう問題が蝕みつつあるのである。子ども達にとって、 「学校に行くことを拒否 するか」、 「その中に踏み止まりながらもいじめという問題に耐え続けていくか」、. という二極化の選択を迫られているのが現在の子ども達を取りまく状況であろう。. もちろん、これらの病理的な現象だけが、教育に関わる主要な問題だというわ. 一1一.

(5) けではない。学歴社会や受験競争の問題、誰にとっても好ましく、必要だと考え られてきた学校が、しばしば抑圧的で疎外的な傾向を持つなど、様々な問題があ る。経済的に豊かになり、学校教育は整備され、物質的な環境は整えられてきた にも拘わらず、根本的な問題がいっこうに解決されていないとしたら、それはな ぜだろうか。これまでのようにその原因を子ども達に求め、対症療法的な対応を することでは状況の打開はありえないであろう。おそらく問われる必要があるの は、 「学校で行われる教育とはなにか」、 「教育の理想とはなにか」、 「学歴社. 会とはなにか」といった根本的な問いであろう。そして、問題への対処がさらな る問題を生むこの教育状況を克服するためにも、それらの問いを学校の中だけの 問題として捉えるのではなく、社会との連関の中で捉え直すことが必要であろう。. それは、こうした状況を生み出す社会を全面的に否定することではなく、社会の 急激な変化に、学校はどのように対応すべきなのか、その在り方を問うものでな くてはならないと考える。. そこで、本論文では、基礎理論としてドイヅの社会哲学者ユルゲン・ハーバー マスの提唱するコミュニケーション的行為論を射程に納めながら、教育のパラダ イム転換の方向性について考えていくことにする。. そして、それは従来のように、現実の社会を自明なものとして捉え、子どもが いかに効率的に適応することができるかを問う教育ではなく、 「自分たちが巣立 っていく社会がどのようなものであるべきなのか」、 「その中での各人の生き方. はどうあるべきなのか」という問いが見いだせるものでなくてはならないと考え る。教育の在り方をこのように捉えた上で、従来の教育のパラダイムに固執する ことなく、新たな教育モデルの創造を実現していくことが、本論文の研究目的で ある。. 一2一.

(6) 序章 現代社会と教育. 第1節 現代社会におけるシステム合理性 近代の科学技術の進歩と経済の発展は、物質的に豊かな社会を作り出すととも に、社会の構造を根底から変えてしまうほど大きな変化をもたらしている。こう した科学や資本主義的経済の発展を支え、社会の構造的変革を可能とした概念が 目的合理性である。. 近代の啓蒙によって登場した主観性を中心におくこの合理性は、主観以外の一 切を物として客観化し、主観一客観関係の枠で理論的な操作をする。これは、個 人や集団の生存欲求を拡大するために有用性(手段の最適化)という目的のため に応用され、目的一手段の関係に織り込まれる。こうしたモノローグ的な目的合 理性は、主観以外の一切を物と化すだけでなく、主観自身さえも物象化された機 能連関の中に包み込むような機能を果たす。つまり、自己を取り巻く環境世界に 働きかけ、自己の生存のための条件を拡大するために、自然という環境や自己さ えも自己の目的を獲得するために手段として利用するということである。この合 理性こそ、近代資本主義社会の究極の価値理念であったのである。. 次にこの価値理念は、個人のレベル(主観一客観関係)を超えてシステムー環 境関係を生み出す。するとシステム内部の目的一手段関係も、複合した網の目を 織りなして環境に相対峙する関係を生み出す。システム内部では、個々の目的追 求の営みは、集団の自己保存のための機能連関に組み込まれて、システムの存続 を維持する機能とみなされる。こうして目的一手段関係は、環境の複合性を縮減 しつつシステム内部の複合性を増大させる関係に組み替えられ、システムが環境 への適応を配慮しつつその目標を達威する関係が成立するのである。. 現代の資本主義社会において、二三の目的合理性は、システムとしての目的合 理性に取り込まれているといっても過言ではないであろう。例えば、不況による 雇用調整である。年功序列や終身雇用に支えられた企業組織の論理さえ、景気の 変動によっては企業システム存続維持という問題から、希望退職、人員整理とい ったメカニズムを通じて雇用調整が実施される。また、企業は組織システムの維 持や拡大のために機能性を追求し、問題に応じた専門化を進める。あるいは反対 に機能しなくなった部門を整理縮小する。その結果働いていた人間が解雇される ことはあっても、組織システムの維持は達成されるのである。こうした実態は、. 日本においても数年前までいわれ続けた、企業戦士(企業の発展や利益が、自己. 一3一.

(7) の目的と同一視される。逆に企業としてのシステムは、企業の発展を支える上で、 個人としての労働者の生活を保護する)など、いい例である。. こうした社会において、個人レベルで目的合理性を志向するということは、個 別的に様々な思惑を持ちながら安定した生活(財)を求めることであるが、そう した生活はすべての人に保障されないがゆえに、個々人の間にそれを求める競争 と差異化を生み出していくことになる。この個々人における個別化と差異化がシ ステムとしての目的合理性の発展を支えている原動力となる。. 一方、システム合理性に基づく集合では、徹底的に機能的連関(有効性・効率 性)を追求するために、個人を分業システムに従属させ、更なる個人主義的傾向 を強めることになる。そして、個人は私的生活において貨幣化され商品化された ものを消費するという、システムが配慮し提供した枠組みの中で自由を享受して いるということである。それは、主体が完全にシステム合理性の網の目に囚われ ているということであり、同時に個人の私的傾向が強まれば強まるほど、システ ム合理性は進化していくということである。システムとしての社会はコンピュー ターシステムのようにさらなる自動運動を繰り返すことにより、様々な矛盾を処 理していくと考えられる。しかし、そのシステムの中で、人間はシステムの駒に しかすぎなくなる。人間が社会の中で生きるという意味そのものもシステムに吸 収され、人間のどんな行為もシステムの存在のためにという目的に収敏されてい くのである。. 第2節 価値相対化の現代 このよう.に社会をシステム論的な観点から分析すると、社会がどのような方向. に向かって進んでいくのか、誰も明確な展望は示すことができないであろう。あ くまでも矛盾に対するシステム自身の機能分化であり、その矛盾がどのようなも のであるかは誰にも分からないからである。こうした社会と人間の関係を第三者 的な立場から分析するこの考えが正当なものであるならば、現在人間が社会の中 で生きようとする限り、人間の目指すべき目標や意味をどこに見い出したらいい のだろうか。社会と人間の関係はどうあるべきなのかその展望が見えてこない。. しかし、筆者自身こうした社会的矛盾があることを否定することはできない。社 会は手の届かないものになりつつあり、ましてや社会システムの変革ということ を個々人のレベルでは考えることができないものとなっている。 こうした現代社会には、大人を含めて子どもも青年達も生きているのである。. 一4一.

(8) 社会システム自身が自律化し主体化することによって、それを操作するはずの自 律的な主体は何を目指し、どのように社会を自己の中に位置づけるべきなのだろ うか。 「社会と人間の調和などありはしない」と社会から逃避し、社会に対する. 積極的な意味づけをしないまま、孤独な主体としての自己に引きこもり懐疑主義. 的な考えを持つことしかできないのであろうか。日本において80年代ポスト・ モダン的な思想が流行したのも、こうした背景を持つ一つの現象であろう。. それは、社会が豊かで安定し、人々の生きていく目標も変わったことを意味し ているのかもしれない。つまり、個に先立つ絶対的なものを設定しないという特 徴を持っているがゆえに、個の活動や意味を超えた絶対的な真理や道徳、さらに は自己を抑圧する共同体そのものを否定することによって、社会的な問題よりも 個人的な問題を追求し、個人としての価値ある生き方を求めること、自己がどう ずれば社会から逃避しながら自由な生活を享受できるかを人々が追求するように なったということである。. しかし、社会から個を引き離した形で主体は生きていけるのであろうか。個と しての人間的価値を追求することは、人間をマスとして捉える捉え方をできるだ け排除し、一人ひとりの生存に極力眼差しを集中させることを意味する。つまり、. 個人は自分の存在の拠り所を自分以外の何かに全面的に委ねることができず、最 終的には自分自身にアイデンティティを求めざるをえないということである。だ が、現実に生活しているとき、人は家族、企業、国家どかいった具体的な共同体 から完全に離れた形で存在しえない。人は何らかの共同体の一員であるというこ とを常に意識しているわけではないにしても、意識の片隅で何らかの共同体を想 定しその一員としての役割を取得することによって、自己を見い出していくので ある。社会がシステム合理性に支配され、個人のレベルにおいて変革できるもの ではなくなったからといって、社会から逃避することはできない。いや、すべき ではない。あくまでも、人間は社会との関わりにおいてしか社会化されないので ある。そうした共同体の一員であることは、個人が「個」として社会に向き合う ことの危険から防護の役割を果たしているとも言えるのである。. ポスト・モダンの思想について西郊は「人々の実感が変化していく過渡期の意 識を表すもの」とし批判的に次のように述べている(D。. ポスト・モダニズムは、社会や集団は個々人の欲望を囲い込み・方向づけ縛 りつけるものとみなすから、徹底したアンチ〈共同体〉、アンチ〈ルール〉 の立場をとる。けれど、共同体やルールの存在を認めないならば、それは逆 にひどい不自由を抱え込むことになる、とぼくは思う。. 一5一.

(9) 社会は手に負えない、だから社会から逃避する形で個人の欲求を満足させようと する。しかし、社会を完全に否定することができない。そうした価値相対的な社 会であったとしても個として向き合い、独自の意志決定をしなければならない状 況があるからである。現代社会で暴力や安易な妥協に頼らず一人の人間として、. かつ自律的な主体として共同生活をするためには何が必要なのか、それを考える 上で示唆的な出来事を以下において考察してみたい。. 第3節 教育の落とし穴(存在感を求めて) オウム真理教が、日本社会の根底を揺さぶった。長野県松本市と東京の地下鉄 で起きた無差別殺傷事件にからみ、同教団への疑惑が浮上、捜査と裁判が進むに つれ、教団独特の意識や行動様式も明らかになりつつある。彼らの世界認識や終 末観、組織論は異様であるが、どこかで現在の日本社会の病を映しているように 思われる。事件の内容について詳しく触れるつもりはないが、オウム真理教の高 学歴の幹部集団の存在、いわゆるエリート大学の理系学部や大学院を出た、近代 科学の先端をいく研究をしてきた人達が、およそ対極にあるはずの神秘主義にな んの迷いもなくのめり込んでいるといった実態には少なからず関心がある。その 疑問に対し、最近の若者はオウムに限らず、超能力や霊的なものに対する抵抗が 少なく、簡単に引きつけられやすいという意識調査の報告がある(2)。では、な. ぜ、彼らは超越的で大きくゆがんだ「物語」を必要としたのか。そして、外から 見たら判断を停止しているとしか思えないほど、その中に自己を没入させていっ たのはどうしてかということを考えてみたい。. これまでの節で述べた社会的関連で述べるならば、現代社会がヴェーバーが絶 望的に観測したように「意味喪失としての合理化」、 「自由喪失としての合理化」 を推し進めることにより主体にとって「鉄のee 」(3)につながるものであり、否. 定的に作用するため、非合理的な側面を否定しきれなくなっているのではないか ということである。さらに、システム化にともな一って個人の関係性は希薄化し、. 個人主義的な生き方を肯定するという風潮は、社会における価値観を相対化して しまう。それまで受験システムの中で偏差値によって序列がつけられる世界で育 ち、自分のアイデンティティを証明するもののない虚無感に悩んでいた秀才達に とって、生きることの意味や未来の予言という近代科学が与えることのできない ものを提示され方向付けてくれると思われる人間の存在は、大きな入信の契機と なるだろう。そして、ホーリーネームによって序列化を与えられることによって、. 一6一.

(10) 他者との差異の序列が明確化し、存在感をえることができたのかもしれない。. しかし、価値も自分という存在の位置も見えない時代だからといって、社会に は「最低限必要なもの」があるということを忘れてはならない。何らかの規範を 持つ共同体に自分が属していることを否定してしまうことはできない。西は、 <共同体のルールは、人を束縛するだけのものなのか。ルールには積極的な意 味があるのではないか。 「共同体に属する」とは、共同体のルールをすべて認 め、そこに同化し、共同体への「貢献・献身」を誓うことを意味するのか〉一 つまり、共同体とルールの本質を考えること。さらに、<社会的批判の流儀は いかなるものでなければならないのか〉を考えることが必要なのだ。 と述べている(4)。懐疑主義的になっている彼らにとって、社会の現実は否定的. であり、なんら社会組織を維持するための規範を柔い出すことができなかったの かもしれない。そして、あのような形で社会批判を実行したのかもしれないが、 その社会批判の在り方はまさに彼らの独善である。 「日本人はすべて腐っている。. オウムが日本を、いや世界を作り替えるのだ」という主張は、社会に対する彼ら なりの正義感の現れであろうが、その批判は社会を構成する他の人々に届くもの でも、共感できるものでもなかった。. ただし、こうした若者を「そらみたことか、どうしょうもない奴等だ」と責め ることもできない。ある意味では彼らも現代社会が生んだ被害者であろう。閉塞 化した小集団の中で教義だけを盲信し、それが社会変革につながるという幻想の 中でしか、自分の存在の確証を求めることができなかったのである。そして、潜 在的に彼らと同じような意識構造を持った若者達が膨大な広がりを持って存在す る可能性もあるのである。今本当に問題なのは、社会とはどのようなものである べきなのか、西が述べるように「社会的批判の流儀」を社会全体で考えることで ある。だが、それは過去において全くなされてこなかったのではないだろうか。. それがなされていれば、彼らを現実の社会にうまく復帰させる可能性もあった はずである。しかし、先行世代も、また彼らの世代自体も、互いに関わり合うた めの言葉自体を紡いでこなかったといえるであろう。先行世代と彼らの世代によ る相互行為において、 「何を考えているのか分からない」という前提のもとで 「正しさ」について了解する期待も失われた状態に陥っていたのではないだろう. か。それならば、当然予想される無意味な対立を避けようとして、道徳的な正し さについての話題は避けられ続け、機械的な多数決や妥協に終始するような状況 があったのでないかと考えられる。こうした世代間の確執によるディスコミュニ ケーション状況のつけはあまりにも重い。そのことを如実に示す記事がある。. 一7一.

(11) それは、 「言葉は死んだのか」という連載記事であり、 「なぜ、ふつうの言葉 が通じなくなったのか」で始まる。 (1995.4.30 朝日新聞連載記事) ”−」V−”−”−綱V−」一−」Vノ”−一ノー7−一7ノーV−8−」騨−」Vf」nv.」一−eノ”ノ」V川一rf−−」WX−−A「ノー−」Vノ」Vノ繭7ノ」V−一ノa−V−一/」一−”−一Vノ冨−繍”」V−」’「t”’4nv「ノ■. 尊 オウム真理教に入信しようとする若者を両親や家庭教師が説得しようとする。亀 1 かし、その場では言葉が飛び交うが、会話が成立する共通の世界にその若者は1 藝 なかった・乱合いは何時聞にも及んだが・結局その若者は「人類を救う目標1 向かって頑張っている.楽しい.曝している、と・・う諜を残して去ってしi. 唾 つた。説得しようとした家庭教師は、彼との付き合いを振り返って、心の奥に1 唾 る悩みや思いを打ち明けられたことがあったか、肝心なことは何も聞いていなl. i. たのではないかという思いに至る。お互いに理解し合っている、と思っていたl l. 篇ξ警ζ=欝欝難饗嘉ll響鑓雛翻二1 だと信じて.(筆者要約). 幽. {. 霜. 」r/nV−]■7!N−nrx−−」V!」r−」Vt一ノ」Vノ網7−」V!nV−」V−」“r/n−」V!御V−」V!膨t」r−”,」V!”ノ繍r■」7,禰7−」rノー7〃幽7−」7!」V!灘−」Vf”−」V,一−一r−”!幽7−凋7ノ▲. この記事を読む限りでは、この若者は自分という存在の拠り所を、社会と隔絶 された小集団の中で、そこでしか通じない言葉と思考によってアイデンティティ を確立しようとしている。その若者にとって、オウム真理教の教義が全てであっ て、麻原代表が言うことが全てだからである。これは、宗教というものを前面に. 出すとすれば「形而上学的」であり、麻原代表を出すならば、H.アーレントが 批判した「全体主義的」とも言える。アーレントは「全体主義運動」について次 のように述べている(5)。. 全体主義運動は、一貫性の虚偽の世界をつくり出す。その虚偽の世界は現実 の世界そのものより人間的要求に適っている。その中で根なし草の大衆は、 全くの想像力を助けにしてくつろいだように感じ、現実の生活と現実の経験 が人集と人間に加える決して終わることのない衝撃から免れることができた。 自らが積極的に依拠すべき共同体や、他人とのつながりを奪われ、自分がこの社 会の中で何者であるのか、どのような役割を持っているのか分からないという不 安に陥ったとき、人間は全体主義的傾向を強める。そして、そうした不安に苛ま れている人間にとって、超越的な支配による一元化はむしろ人々を安心させると 同時に望ましものとなっていくということである。. このような状況に追い込まれている彼と、共通の社会を前提とした了解を目指 した話し合いをすることは、今となってはできない。もちろん判断力を働かせて 合理的に判断させることもできない。社会をア・プリオリな前提と考えている私. 一8一.

(12) たちにとって、この若者の考えを筆者を含めて一般の大人は理解することはでき ないであろう。では、こうした若者を生み出してきたのはなにか。それは、社会 であるとも言えるし、教育であるとも言える。. 現在の社会をすべて肯定することはできない。かといって、社会を全面的に否 定することも間違っている。社会はあくまでも我々の意識が支えているのであり、. また逆に社会は我々の意識を規定している。ならば、我々は何らかの形で、社会 と批判的にコミヅトしていなければシステム社会をありのままに受け入れること しかできなくなってしまい、再びこうした事件を引き起こす可能性を残していく ことになるのである。彼らの意識を規定してきた社会とはどのようなものであっ たのか反省を込めて再確認すると同時に、彼らにとって教育がどのような意味を 持っていたのか問い続ける必要があろう。そして、問題はむしろ今後どのように あるべきなのかその方向性を考えることである。それがなされなければ、この事 件は裁判が終了し、彼らが犯罪者として裁かれることによって「悪」は払われた ということになり、人々の意識から忘れ去られ、風化したものになっていくだろ う。時代の「つけ」は払ったと「こわさん」にすることができないほど、この事 件が教育を考えていく土で提起した問題は大きい。. 社会と人間との関わりはどのようにあるべきか、そしてそれを支えるための主 体間の関わりとはどのようなものを必要とするのだろうか。その方向性を考える 上で、M.ホルクハイマーの主張が重要な示唆を与えてくれる(6)。. 〈個人の解放〉とは社会から解き放たれることではなく、むしろ社会をアト ム化から、つまり主体の孤立化から救うことである。. つまり価値相対主義、個人主義という自己の生の意味を神や伝統も究極的な根拠 となりえない現代人は、超越的な権威に自らを委ねることなく、自己決定し、行 為するために、自らの内に社会的規範性を作り出さねばならない。しかし、それ は社会から解放された一人になるということを意味しない。本当の意味での「個 人の解放」とは、 「主体の孤立化」を避けコミュニケーションによる社会的連帯 の形成、そして、それに基づく規範の創出を行う必要があるということである。. この課題の持つ意味はあまりにも大きい。しかし、この課題を実現させるための 教育の在り方は重要である。今こそ、現在行われている教育の問題点はどのよう なものか、これからの在り方を問う時期に来ているのではないだろうか。. 一9一.

(13) 第4節 学校における自明性と共同性の喪失 以上のような社会的観点とオウム真理教という事件を踏まえた土で改めて捉え 返すとき、学校というシステムは、主体としての子ども達や教師にとって存在感 を確認し、社会的連帯を作り出す公共性のある共同体となりえているのだろうか。 「はじめに」で述べたように不登校、いじめという現象の増加は、子ども達にと. って学校という場がアイデンティティ確立の場になりえていないということを示 していないだろうか。 「いや、そんなことはない」と否定しても、そうなるかも. しれないという可能性を完全に否定することはできないであろう。. そうした学校であったとしても、親や子どもは学校を休むのはよくないと考え てしまう。なぜなら、子どもにとって18歳までの生活の中心は学校生活であり、 どのような教育を受けたかは、その後の人生に様々な影響を及ぼすと考えられて きたからである。こうして、学校教育は子どもの現在及び将来の生活を支える基 盤をなすものとして重要視されるようになった。. しかし、ここで注意しておかなくてはならないのは、この学校の重要性はあく までも消極的なものであり、積極的なものではないということである。高度経済 成長が進み、高学歴化が進むにつれて、教育の積極的で個人的な価値は次第に拡 散してきた。また、物質的生活が豊かになり、流行という現象に左右されると、. 個々入の主体性・積極的な意味付与が希薄になってくる。流行は個々人の主体的 な選択範囲を狭め、しかも実際の選択に際して自分なりの積極的な意味を自分の 選択に付与する契機を奪う傾向がある。周りがみんなそうしているからという事 実が、自分もそうするという選択の十分な根拠になるからである。. こうして、子どもだけでなく、親も判断基準が曖昧となってくる。こうした状 況において、多くの子ども達にとっては、立身出世は切実なものではなくなり、 また、どのような職業に就くにも「せめて高校を出ておかないと・… 」と考える ようになってきた。つまり、学校教育は、目標達成の積極的手段としてよりも、. むしろ、逸脱者・落伍者のレッテルを貼られないための、あるいはまた、将来の 機会を失わないための必要条件として、その重要性を増してきたと考えることが できるのである。. かつて社会全体に物質的貧しさがあふれていた時期、または、教育が確かに個 人的価値を持つと感じられる限りにおいては、学校で要求され教授される諸々の 知識や技能を習得することに疑問が生じる余地はなかった。先生の言うことには 従わなければならないと感じるであろうし、厳しい訓練にも耐えなくてはならな. 一10一.

(14) いと感じるであろう。しかし今日、そうした学校に対する積極的重要性は拡散し、. 逆に落伍者にならないためという消極的重要性が増大してきた。しかも、その消. 極的重要性を感じながらも、18歳までの長い日々を学校教育を受けて過ごす子 どもが多くなっている。この子どもたちが、 「自分はどうして学校に来ているの. だろう、何のために来ているのだろう」といった疑問を抱いたとしても何の不思 議もない。つまり、学校教育を支える子ども達にとっての自明性が失われている のである。. また、一歩目を転じて、子ども達が生活している地域に視線を向けたとき地域 社会の共同性の崩壊という問題もあげられる。かつて、地域共同体(コミュニテ ィ)が厳然として存在していたころ、共同体の構成員の生活を秩序づける規範と モラルの体系があり、教育とはその体系を教え、その共同体の構成員にふさわし い一人前の社会人を育成することであった。ところが、産業化・都市化が進展し、. 社会移動が増大するにつれて、共同体の境界が曖昧となり、規範の拘束力が弱ま り、一人前の社会人というイメージも拡散してきた。子供は生まれ育った共同体 からやがて出ていくかも知れず、古いしきたりや慣習は必ずしも守る必要のない ことであり、どういう職業に就くか、どういう生活をするかは個人が自由に選ぶ べきことである、と考えられるようになってきている。こうした社会的な状況を 踏まえて、個性化が強調され前面に押し出されるにつれて、共同性は教育におい ても背後に退くようになったのである。. このようにして子ども達を取り巻く状況は、教育の困難性を様々な面で増して いるといえる。しかし、重要なことは、学校教育がかつてと同じ、伝統的なパラ ダイムのままで、学校教育の自明性や子ども達のアイデンティティを確保する共 同性を回復することはきわめて困難になっているということである。 以下の章において、 「学校教育の自明性回復」のためには、学校(教師)はど. のような視点を持つべきなのか、パラダイム転換の視座をハーバーマスのコミュ. ニケーション的行為論に依拠して述べてみたい(1,2,3章)。さらに、教室 という社会に現実の社会がはらんでいる矛盾を反映した形で現れているいじめと いう現象がどのような構造を持っているのか分析し、価値相対主義的な社会状況 を乗り越え、子ども達の「共同性を回復」するための道徳教育の在り方について 考えてみたい(4章)。. 一11一.

(15) (註). (1)西研『ヘーゲル・大人のなりかた』日本放送出版協会1995P.12 (2)月刊 『子ども論』 クレヨンハウス 1995 7月号 P.21 東京夕刊 福岡市内の大学生192人が回答。 「人だま、幽霊の存在」は48%が肯定、 「死後. の世界」は33%が肯定したという。更に、オウム真理教に入信した理由につい ては、受験競争のひずみをあげるものが多く、今の社会は子どもにとって生き やすいものではなく、 「孤独」だという回答もあったと調査報告がなされてい る。 (3)ヴェーバーが考えている合理化の過程は、 「精神、知、道徳の消滅につながる. 陰欝な道であるとともに合理化の過程をおしすすめていくのは、今では国家と 経済の機能的な命令なのである。・… それは、本来の倫理的な、宗教的な、文 化的な動機づけが純粋な功利主義へと解体されていく過程である」とマイケル ・ピュージは指摘している。 マイケル・ピュージ 山本二二 『ユルゲン・ハーバマス』 岩波書店 1993P.83. (4)西研前掲書1995P.12 (5)M.カノヴァン 寺島俊穂訳 『ハンナ・アレントの政治思想』 未来社 1981 P.84 (6)大貫敦子 「批判的理性の可能性への問い一ホルクハイマーとハーバーマスー」 藤原、三島、木前編著 『ハーバーマスと現代』 新評論 1987 P.76. (参考文献). 『ウエーバーからハバーマスへ』 世界書院 1986 ・佐藤慶幸 ・高橋 勝 『子どもの自己形成空間』 川島書店 1992 ・竹田青嗣 『現代思想の冒険』 ちくま学芸文庫 1992 ・竹田青嗣 『ニーチェ入門』 ちくま新書 1994 佐藤和夫訳 『精神の生活』(上)(下) 岩波書店 1994 ・ハンナ・アーレント 『子ども・学校・社会 「豊かさ」のアイロニーのなかで』東京大学出版会 1991 ・藤田英典 ・保坂展人 r学校は変わったか こころの居場所を求めて』 集英社 1994 山本啓訳 『ユルゲン・ハーバマス』 岩波書店 1993 ・マイケル・ピュージ ・森田、藤田、 黒崎、片桐、佐藤編 『個性という幻想』 二二書房 1995 ・丸山圭三郎 『文化のフェティシズム』 頸回書房 1984 ・丸山高司 『現代哲学を学ぶ人のために』 世界思想社 1992 ・山崎正和 『近代の擁護』 PHP研究所 1994. 一12一.

(16) 第1章. 意識論から言語論へ. 序章で述べたように、人間は世界の複雑性を縮減するためにシステム合理性を 高め、目的合理的に効率性を優先させてきたという現実がある。しかし、こうし た合理性の追求は、自然だけでなく、人間に対しても適用されることにより、予 測不可能な事態まで生み出しつつあるといえるであろう。確かに伝統的社会に比 べれば、行為選択の可能性は開かれた世界にいるように思われるが、システムが 自立化しつつある現在、一見複雑に見える世界はシステム合理性によって制御さ れておりシステム化・制度化された中での選択を強いられようとしているのであ る。それは、消費にせよ医療、福祉、レジャーにせよ例外ではありえず、まして や教育的行為を実践する学校とそれを支えている教師、子ども、保護者もシステ ム合理性によって専門的に制度化された枠内での選択しか許されていないと考え ることもできる。つまり、システムの自立性や自由度を高めていくことは、ハー バーマスの文脈でいえばシステムによる「生活世界の植民地化」を意味し、地域 社会や集団において育まれてきた人々の連帯関係を消滅させ、個々人が孤立した 人間としてシステムの複雑な網の目にとらわれていくことを意味しているのであ る。そして、行為選択は目的合理性あるいはシステム合理性に支えられ、単独の 主体にとっての意識と、志向された対象という「主体一客体」の関係が維持され るようになるのである。. 以下では、人間自身が目的合理性の価値理念によってつくり出してきたシステ ム世界をコントロールするための対抗的なパラダイムー「主体一主体」一は、人 間らしい豊かさを追求する教育的行為においてどのような意義を持ち、どうずれ ば可能なのかを述べることにする。. 第1節 教育モデルの転回(「主体一主体」関係の意義) 1995年1月4日付けの朝日新聞に、 「画一的な人材、産業界にも一因」の 見出しがあり、 「個性を伸ばす教育」を提言するために、近く経済人や学識経験. 者からなる懇談会を設置する意向であるとの記事が掲載されている。それによる と、 「産業界は大量生産を支える人材を求めてきたが、その一方で個性なき学歴. 社会、企業社会をつくった」との反省に立って、これからは「創造性や個性に富 む人材」育成のための教育が求められるとしている。このように、今や産業界も 期待するほどに「創造性」や「個性」の教育は時代にもてはやされるようになつ. 一13一.

(17) たといえる。. そして教育界においても「個を生かす教育」が叫ばれ、教育現場の研究会では それを受けてスローガンに「自己実現」、 「自ら学ぶ」、 「一人一人を大切にし. た」という言葉が多く盛り込まれるようになっている。ここにも経済発展を支え る産業システムの要請が反映されており、個を生かすとはどういうことなのか、. その原理的な部分が吟味されることなく、教育現場で実践に移されるという実態 を見ることができる。. 確かに、個を生かす教育とは、一人ひとりの子どもに固有の思考や問題解決の プロセスに即した教育を言い表しているのかもしれない。だがこれはともすれば、 現場において教育方法に限定されて、一定の教科内容を早く伝達する方法として、. 子どもの能力や適性に応じた個別指導が必要だと解釈されることがある。そうな った場合、個性を生かすということは、学力差に対応した個別指導に還元される ことになる。. そして、教師と子どもの関係は啓蒙する側と啓蒙される側という従来の「主体 一客体」関係のままとなってしまい、従来の教育学が抱えてきたパラダイムに依 拠することになる。まさに、教育が教師から子どもへの一方的な影響付与であり、. 教師から子どもへの一方的な伝達行為であるということを肯定してしまうことに なるのである。しかし、子ども達は教師から加工されたり治療されたりする客体 ではあり得ない。むしろ、教育は子どもも一人の主体として捉え、 「主体一主体」. の相互行為であると考えるべきであろう。このことについて渡邉は、次のように 述べている(D。 これからの教育モデルは、「大人(教師)一『子ども(生徒)一対象(世界)』」という、 「大人(教師)一対象(世界)」と「子ども(生徒)一対象(世界)」の並行的な図式の総. 合として捉えるのではなく、「『大人(教師)一子ども(生徒)』一対象(世界)」ある いは、「[大人(教師)一『子ども(生徒)一子ども(生徒)』]一対象(世界)」という大人. と子どもの関係性を重視した教育モデルこそこれからの教育を考える上で重 要である。. これは、主体にとっての他者(教師・子ども)との関係性がなければ、自我は 形成されず、自分の優れた特性や、長所を見い出すこともできないということを 意味する。従って、個性を生かす教育のための必要条件とは、主体にとっての他 者、自分を映すためのもう一人の主体であるといえる。 では、 「主体一客体」モデルでは、主体の目的論的な意識(教師という主体か. ら見た場合、客体となる子どもをどのように指導すれば効果が上がるか)だけが. 一14一.

(18) 問題となるが、 「主体一主体」モデルでは、主体と主体はある事柄や対象につい. て、どのようにして合意することが可能になるのであろうか。以下において、主 体において背景として機能する知識、すなわち間主体的な合意の形成がどのよう になされるのか理論的な展開をハーバーマスの思想土の流れを追って考えてみた い。. 第2節 意識論的な間主観性 1 モナドとしての主体 現象学を創始したE.フッサールは、人間の事物に対する認識が、部分を見な がら全体を見る以上可疑的な側面を持っており、本質的にドクサを含んでいると いう。だからこそ、主体において完全な認識が可能かではなく、主体が確信する ための条件とは何かを考える。そして出された確信成立の条件とは他者の承認で ある。では、その他者と認識が一致し、相互了解を得る可能性とは何なのか。こ れに答えるためにフヅサールは後期思想の中でモナドを基点として認識を説明す る考え方から、生活世界概念を基点とした説明によって認識の一致を説明しよう とする。. しかし、この考え方に対しても様々な批判をフヅサールは引き受けることにな る。対面関係において意識の同時性や構造的同一性という仮定の形成を可能にし てくれるような経験は、何ゆえに可能であるのかという問題である。フヅサール の間主観性の基礎付けでは、他者は常に私による被構成物に還元されてしまって いる。これでは、他者は私によって仮構され、自我の側から措定された一般定位 にとどまっており、こうした一般定位が他者の構成する世界観とどのようにして 共通の意味連関をなしていくのか説明することはできない。従って世界の間主観 的構成といっても、実際にはそれは世界の主観的構成にとどまっており、エゴに 支えられた自我中心的構成という構図をとっているといえる。. ハーバーマスは、間主観性を現象学によって根拠づけようとするフッサールの 試みを考察する中で、次のような指摘をしている(2)。. 私は、どのようにして超越論的に作用する自我として、別の自我を構成する のか、また同時に、私の中に構成されたものを、それでもなお別の自我とし て経験することができるのかという問題がある。一つのモナドとして省察し ていく複数の自我が構成作用を始めていく意識論という前提条件のもとでは、 こうした問題設定は、明らかにパラドックスである。. 一15一.

(19) このようなハーバーマスの指摘で明らかなように、独我論的な構図では社会を 構成することに無理がある。なぜなら、私達はより包括的な共同社会を自らの中 に取り込み、それとの関係を意識的に調整しながら、他者と共通の世界を構成し たり、その中における自己の位置を確認したりしているわけではないからである。. 特に、今日のような個人の主観的な意図と社会の客観的な意味連関との間に調停 不可能な断絶や緊張状態が存在しているようでは、共同世界の可能性を行為者間 の相互志向関係によって基礎づけることは不可能であろう。. 2 現象学における生活世界概念の限界 このように、自我こそ意味の発生源とする考え方では、他の同列者の存在を認 めてはいるものの、それ自体としては、モナドのような行為者なのであり、社会 的な世界の構成はこうしたモナドとしての個人と個入との出会いから成り立つも のとして解釈できる。. しかし、人と人が出会うというのは、決して相互に共通の基盤のないモナドと しての個人と個人が没地平的に出会うことによって生じるものではない。逆に他 者との出会いは常に一定の地平の存在を前提にしており、その中でのみ生じると いえる。. フヅサール自身、それに気づきながらも、問主観的な世界、すなわち生活世界 概念を、モナド的な志向性を優先させたために、根拠づけることができなかった といえる。しかし、モナドとモナドをつなぐ、共通の基盤として出された生活世 界を無から構成するのではなく、すでに構成されている存在として捉えるなら、. 私たちはどのようにその生活世界を内面化させていくのかが問われなくてはなら ないのではないか。. ただし、この生活世界への私達の帰属は、それがすでに所与のものであるとい う理由で、制約性という意味だけで捉えるわけにはいかない。なぜなら、そうし た所与の世界に帰属することによってのみ、私達が何が正しく何が悪いのか、そ の時々の意味や現実を他者と共に共通理解が図れ、そしてそれをより普遍的なも のに結びつける媒介の役割を果たしてくれるものだからである。そういった意味 では、生活世界は制約する原理として機能しながらも、当事者にとっては完全に 意識されたり主題化されたりすることはない。しかしながら、この世界は、その 構成に参加する当事者にとって、いつも了解されている。つまり、新しく意味を 構成するといってもそれは常に間主観的な先行了解に支えられているといえる。. 一16一.

(20) 以上の指摘から明らかなように、こうした現象学的な立場(意味の発生源とし て自我を世界の中心に置く)をとる限り私達の間で、ア・プリオリとして、匿名 的な間主体性の働きに気づくことはできない。そして、ある行為者の思考は、私 的な考えには還元され得ない、公的で共通の意味連関によって支えられているこ とが見落とされてしまう。. では、私達はどのようにして、先所与的で匿名的に働く生活世界においてどの ように社会化され、間主体的な関係を築き上げていくのかを考えてみたい。. 第3節 言語論的なパラダイム転換 1 言語ゲームが意味するもの 意識の能動的な働きを通して私達が間主体的に世界を構成する以前に、私達は すでに構成されたものとして存在する生活世界に受動的に投げ入れられていると いうことを、ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」という考えに基づき考察し てみたい。ハーバーマス自身も、フヅサールの生活世界概念を導入する上で、意 識論的な限界を感じとり言語論的転回を目指す過程で、ウィトゲンシュタインの 影響は大きなものがあるからである。. ウィトゲンシュタインは、言葉を知っている、または分かるということは、言 葉のやりとりで意志疎通ができることを意味していることから、言葉の理解をゲ ームすることになぞらえる。ゲームについて考えてみると、それぞれのゲームに は様々な特性があるとはいえ、それらすべてに共通するゲームの本質などといっ たものは存在しないことがわかる。これは「ゲーム」という言葉だけに限ったこ とではない。私達が日常使用している言葉のほとんどが明確な規定を欠いている。 しかし、言葉の意味する範囲が不正確であり、ピントがぼけているからといって、 その言葉が意味をなさないということではない。. ウィトゲンシュタインの言語論が注目されるのは、言語の意味、または、要求 される正確さが、多かれ少なかれ伝統的なものであり、言葉がどのような文脈な いしは状況の下で使用されるかによって規定されるという考え方を打ち出したか らである。つまり、言語の意味を言語という記号が本質的に持っている性質だと 捉えるのではなく、話すことによって意味が生じるということである。. 2 言語ゲームにおける間主体性 こうした主張は、間主体性の理論にとってどのような意義を持つのであろうか。. 一17一.

(21) まず第一点は、言葉の意味が伝統的なものであるということから、言語の意味ま たは用法も問主体的な了解関係の上に成立しているということである。つまり、. 私達の日常的な言語活動やコミュニケーションは、必ずしも当事者によって自覚 されていないこうした間主体的な了解関係によって支えられているのである。. 第二点は、言語を使用することによって意味が生じるのであれば、そこには言 語規則が恣意的に変えられる可能性がある。しかし、これこそ言語によって相互 了解を可能にする前提条件ともいえる。なぜなら、言語規則が恣意的なものであ るから、他者が自分を理解してくれたかどうかを確認するために、相互了解を必 要とするし、他者が自分の反応に対して一定の反応を示すことができるからこそ 相互了解が可能となるからである。. この言語ゲームへの参加を通じて私達は、自己の内部に様々な状況や文脈にお ける問主体的な解釈の基盤を形成し、この基盤を他者との相互了解を可能とする ア・プリオリな規定として超越論的に活用しているのである。このようにある命 題の真理について了解が成立するのも、私達が言語ゲームに参加し、共通の解釈 基盤(パラダイム)が命題の真偽基準として隠れて機能しているからである。 ハーバーマスは、それについて、ゲームには妥当な規則に基づいてプレーヤー 間に存在しなくてはならない合意があると主張し、ウィトゲンシュタインの考え 方を次のように分析している(3)。. コミュニケーションにうまく参加することが、彼の理解に十分な根拠がある ことの唯一の基準となる。仮説が誤っていたとしたら、暗黙のうちに行為を 導いてきた合意は崩壊する。ある言語ゲームが、考えたようには機能してい ないという経験は、合意が損なわれているという経験である。 「だから意見. の一致ではなく、生活形式の一致である」。こうした特徴を備えた拘束性は、 コミュニケーションを行っている集団のために相互主観的に妥当しているこ とや、あるいはコミュニケーションを行っている集団によって承認されてい るということにある。. この主張は様々な指摘を含んでいるように考えられる。言語表現が言語ゲームで ある限り、相互行為である。そして、その相互行為を結びつける共通性は、習熟 した規則に基づいた集団における間主体的な合意であるということである。. この考えを子ども達の生活実践に置き換えてみるならば、子どもは日常の言語 活動やコミュニケーションを遂行している場合、自分固有の伝統に由来し、合意 されてきたと信じる先入観に基づいて、観察した相互作用に、ある一定の規則を 仮定する。そして、言語ゲームにうまく参加することによって、自分が暗黙裡に. 一18一.

(22) 行為を導いてきた合意が正当なものであるという根拠を得る。従って、言語ゲー ムを遂行しても、うまく噛み合わないのは言語上の表面的な意見が一致しないと いうことではなく、これまで暗黙の内に正しいと自分自身が信じてきた合意(ウ ィトゲンシュタインの言葉でいうなら生活形式)が一致していないのである。子 ども達がコミュニケーションを遂行しながら、絶えず了解することができるのは この合意が妥当する背:景として働いているからだといえる。. しかし、これまで出会ったことのない未知の概念や複雑なコンテクズトに直面 すると、その概念や状況が従来の合意に依存していないことを知り、それを解釈 するための新たな合意を創造する必要に迫られる。学習という子ども達の日常実 践をこの意味連関で捉え直してみると、授業時間の中で様々な問題提起がなされ、. それへの働きかけを通して、その問題をより合理的に解釈するための合意を、き め細かに、より濃密なものにしていく営みであると考えることができる。. 3 規則に従うことの意味 では、次に問主体的な関係において、背景となる合意が存在すればその中に含 まれる規則を、正しく運用しているか、恣意的に解釈していないかを主体の中で 独我論的に判断することが可能かという問題が提起される。. 主体は世界の内にある事物やそこで生起する諸現象を自らの関心に従っていわ ば切り取ってゆくことになる。従って、語るということは、主体がどのように世 界と関わってきたかの表明に他ならない。そこでは当然のこととして、主体間に 解釈のずれや不一致が生ずることになる。また、他者に対して「戦略的な行為」 が遂行されたり、コミュニケーション自体が、何らかの外的な強制力によって無 意識のうちに歪められている可能性もある。そうした中で、単独の主体が、一人 だけで規則に従う可能性はないとウィトゲンシュタインは次のように主張する(4)。. 規則に従っていると信じることは、 (実際に)規則に従っていることではな. い。だから、人は規則に〈私的に〉従うことができない。さもなければ、規 則に従っていると思うことが、規則に従うことと同じになってしまうからで ある。. ハーバーマスも同様に次のように指摘している(5)。. 主体は、規則から逸脱し、系統誤差を生む状況にあり、同時に他者は、この 逸脱を系統誤差として認識し批判することができる。この両方の条件が満た されることによって規則に表せる指示が同一となる。. 一19一.

(23) こうした考察の要点は、自分が自分の行動を他者の批判にさらし、この行動に 関して、一つの同意を得ることのできる状況が存在しないとしたら、自己が規則 に従っているのかどうかを、自己一入だけでは確信することができないというこ とである。つまり、規則に従うということは、規則に従っているかどうかを他者 がコントロールできるということであり、規則に従っていると単に信じていたり、. それを解釈するだけでは、規則に従っていることにはならない。言語行為を通し て他者の評価を経ることによって、初めて規則に従っているかどうかは判断され るのである。. 以上の考察から明らかなように、現象学的な独我論では自我の意識、それ自体 を規定している背:景的な合意をそれ以上遡って説明することはできない。それは、. あるものに関心を示し、意識を志向する以前に間主体的に共有している合意が前 提となっているからである。つまり、意識論では説明することができず、言語論 的なパラダイム転換が必要であるということである。なぜなら、知覚というもの は、常に言語によって導かれて成立するからである。認識はいかにして可能なの か、また、私たちがあるものを見て同じように感じていると考えることができる のはなぜか。この認識の基本的枠組みを構成しているのが、言語ゲームの申で匿 名的に機能しているのが生活世界である。これによって人は、意味を共有化し、 同時に認識の同型化をもたらしているといえる。. 序章で述べたように、学校を取りまく社会および、学校がシステム化されてい る現在、その中で生活している教師、子どもの意識は独我論的で目的合理的なも のになっているといっても過言ではないであろう。教師と子ども、子どもと子ど もの関係は「主体一客体」で、自己にとって他者は目的を達成するための手段に なってしまうのである。個性を生かす教育は、自己の意識だけを問題にすればす るほど、他者と合意することが不可能となり、関係性の喪失という悪循環をもた らすのは明白である。. つまり、目的合理性・システム合理性という独我論的な意識によって行為を選 択するのではなく、コミュニケーション的合理性に支えられることにより、はじ めて間主体的な共同行為を形成することができるのである。間主体的な共同性と は、目的合理性という価値によって形成されている現代社会や、学校に対して教 師はもちろん、子どもも自己を対自化することを通して、他者に語りかけ他者と ともに現在自分達の置かれている状況を客観的に認識し、その状況に対していか にしたら自分たちの間主体的な世界を構成することができるかをコミュニケーシ. 一20一.

(24) ヨンによって了解し合うことが必要である。それは、独我論的な主観性を軸とし た「主体一客体」 (目的一手段)パラダイムに沿った考えから、 「主体一主体」. の構成的な間主体性を基軸とする言語論的な転回が必要不可欠なものとなるので ある。. これこそまさに、ハーバーマスの主張するコミュニケーション的行為理論であ る。コミュニケーション的行為が生活世界概念と接合され、さらにシステム概念 と対抗的に補完されることにより、現在、教育が抱えている関係性喪失という危 機的状況を分析し、それを克服しうる現実的なパラダイムが提示されていると考 える。そして、各個人によって自明視された生活世界を、押し寄せてくるシステ ム統合の力から防衛し、公共性を確保するための学校(=教師)の在り方(これ は、学校が大規模校から小規模校へ変革すればいいという単純なものではなく、. 教育が目指すべきものは何かといった、原理的なことである)について、重要な 示唆を含んでいるといえる。. 次章において、ハーバーマスの主張するコミュニケーション的行為論について 概略を述べる。. (註). (1)渡邉満. 「コミュニケーション的行為理論による道徳教育基礎理論の探求(1)」. 『兵庫教育大学研究紀要』 第14巻第1冊分 1994.2 (2)J.ハーバマス 森・干川訳 r意識論から言語論へ』 マルジュ社1990P.65 (3)同上 PP.102∼103 (4)同上 PP.92∼93 (5)同上 P.93 (参考文献). ・岡田雅勝 『ウィトゲンシュタイン』 清水書院 1986 ・木田元 『現象学』 岩波新書 1970 ・竹田青嗣 『現象学入門』 日本放送出版協会 1989 ・竹田青嗣 『現代思想の冒険』 ちくま学芸文庫 1992 ・竹田青嗣 『はじめての現象学』 海鳥社 1993 ・長井和雄 『言語力形成の論理』 玉川大学出版部 1993 ・橋爪大三郎 『言語ゲームと社会理論 ヴィトゲンシュタイン・ハート・ルーマン』 頸草書房 1985. 岩倉他門 『コミュニケイション的行為の理論』 ・J・ハーバーマス 藤沢、 (中) 未来社 1985 第5章(3)補論 「規則に従う」ことについてのヴィト ゲンシュタインの考え方に基づくミードの意味理論の精密化 ’ J.Masschelein.Kommunikatives Handeln und Padagogtsches Handeln,1991. (渡邉満管『コミュニケーション的行為と教育的行為』 未発表). 一21一.

(25) 第2章 コミュニケーション的行為と生活世界 第1章で、 「主体一主体」関係において、了解を形成するためには、意識論で はなく、 「言語論的転回」が必要であるということを述べた。そして、ハーバー. マスは、コミュニケーションの本来の目的を、生活世界において伝統的に蓄積さ れてきた知識を背景として相互の「了解」一「言語能力と行為能力を備えた主体 の間で一致が達成される過程」(1)を構成することであると捉える。さらに、了. 解志向性こそが優れた意味での主体間の行為調整メカニズムであると判断する。 では、 「言語的な了解」がどのような意味で、間主体的な行為の調整メカニズ. ムとして導入されるのかという問題を克服する必要がある。これを解明するため には、言語を媒介としたコミュニケーション自体の分析を通して、秩序の形成を 目指す了解志向的な行為の構造を明示する必要がある。すなわち、 「生活世界」. を唯一の理論基盤に据えた「行為論」を設定する作業として表れるのである。そ れによって、その行為論は、外在的な原理に依拠することなく、同時に、問主体 的な了解志向の構造が把握できない意識論的な難点の克服を可能とするのである。. 第1節 コミュニケーション的行為 1 目的合理性とコミュニケーション的合理性 従来の行為論は、モナドとしての行為者による目的一手段関係の合理的追求を 軸として行為への接近をはかるというものであった。ハーバーマスはそうしたヴ ェーバーの行為類型を批判検討し問主体性を基軸とする行為論を展開する(2)。. その中でハーバーマスは、ヴェーバーの行為概念を、行為者の「主観的な意味」 と結びつくことのみが強調されていること、すなわち「独話的」に理解された行 為モデルから出発していると次のように批判する(3)。. 孤立的に考えられた行為主体の思念や意図に「意味」を関係づけている。こ の第一の転轍によって、ヴェーバーはコミュニケイション的行為の理論から 分かれる。つまり、基礎的であると考えられているのは、言語能力と行為能 力をそなえた少なくとも二人の主体の問での、言語による了解を目指す相互 人格的関係ではなくて、一人の孤立した行為主体の目的活動なのである。言 語的了解は、’意向主義的意味論の場合と同様に、目的論的に行為する主体が 相互に影響を及ぼし合う、という事態をひな型にして考えられる。. 一22一.

(26) つまり、ヴェーバーは、少なくとも二人の言語一行為能力を備えた間主体的な関 係を行為の基盤とみなしていないということである(4)。それに対し、ハーバー. マスは孤独な行為主体の目的活動性に依拠した目的論的行為を、様々な社会的行 為にあって最高の合理性を保持する形態とみなすことに反対するのである。確か に、 「目的合理性」という原理が、社会的行為の中で重要な役割を果たすことは. 否定できない。しかし、必要とあれば、他者を説得し、それによって究極的には 了解を達成することを可能なものとする意味連関を度外視しては、いかなる行為 の合理性も成立しないことになるのである。そこで、ハーバーマスによって新た に導入されたのが、行為者相互の言語的了解に基づいて、行為の聞主体的な調整 を図るための合理性「コミュニケーション的合理性」である(5)。このコミュニ. ケーション的合理性に貫かれた社会的行為は、行為主体が言語を媒介として獲得 した相互了解に基づいて遂行される対話的に構成された行為である。そして、ハ ーバーマスは、. 参加している行為者の行為計画が、自己中心的な成果の計算を経過してでは なく、了解という行為を経て調整される場合である。 と「コミュニケーション的行為」を定義する(6)。. 2 成果志向的行為と了解志向的行為 次にハーバーマスは、社会的行為を二つの合理性一の側面に対応する形で、 「目. 的合理性」には「成果志向的行為」を「コミュニケーション的合理性」には「了 解志向的行為」という新たな行為類型を設定する。表1のように、 表1 ハーバーマスによる行為類型(7). 行為志向. s為状況. 成果志向. 了解志向. 非一社会的. 道具的行為. 一. 社 会 的. 戦略的行為. コミュニケイ. Vョン的行為. 従来の「目的合理的行為」は「成果志向的行為」に分類され、それが、非一社会 的な状況において遂行された場合を「道具的行為」 (独話的)、社会的な状況に おいて遂行される場合を「戦略的行為」という。 「戦略的行為」は社会的、すな. わち「対話的」に構成されているものの、行為者を相互了解へ導くのではない。. 一23一.

(27) 言語を操作的に用いることにより他者を暗黙の内に特定の目標へと方向づける力 として作用するからである。. こうしたハーバーyスの「成果志向」及び「了解志向」をメルクマールとした 行為論では、他者との対話的、了解志向的行為が重要な位置を占めるため、既成 秩序を維持し、その規範を遵守する側面のみに切り詰められるという難点を克服 することができるのである。そして、了解に志向した言語使用こそが「本源的話 法」(8)であるということを、L.オースティンの言語行為論における発語内行 為と発語媒介行為の区別において説明するのである。. 3 言語行為論 オースティンの考え方は、文が発話されるとき、それは単に言葉の意味以上の 意味(発語内効力)を持ち、行為を形成しているというものである。そして、発 話行為を最終的に次のように分類するのであるくg)。 (a)発語行為・・・・… 話し手は事態を表現する、何事かを語る行為. (b)発語内行為・・…何事かを語ることによって遂行される行為. (c)発語媒介行為…何かを語ることにおいて行為することを通じて何かを結果 として引き起こす行為 この考え方を説明すると、 「明日君の家に行くよ」という発話は、有意味な音を. 発するかきりで発語行為であり、そのことがく約束〉としての効力を持つかきり で発語内行為であり、ごのことを通して、聞き手に次の日には家にいなくてはな らないと思わせるかぎりで発語媒介行為であるというものである。 ハーバーマスはオースティンの(b),(c)に注目する。発語内行為は、発語内効力. に関する相互了解(約束は約束、命令は命令といった)がなければ発話は成立し ない。しかし、発語媒介行為の場合は、話し手の目標は聞き手が理解した発話の 意味内容を超えたところに設定されており、話し手の意図は隠されている。つま り、発話を手段として、聞き手の意志決定を暗黙裡に操作し、自らの目的を達成 するのである。従って、発語媒介行為の核心は、話し手によって目的論的に設定 された目標の達成におかれている。だが、発語媒介行為においても、聞き手がそ の発話を了解するということが前提となっており、話し手と聞き手の双方を一定 の行為に方向付ける「発語内効力」が不可欠となる(10)。その意味で、相互了解. に基礎をおいている発語内行為は発語媒介行為に比べて、 「自足的な行為」と捉. え、より根元的な位置を与えることによって発語媒介行為と対置させているので. 一24一.

参照

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