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キリスト教社会学による監視批判の可能性

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Academic year: 2021

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キリスト教社会学による監視批判の可能性

阿部 潔 書評対象:野尻洋平著『監視社会とライアンの社会学─プライバシーと自由の擁護 を超えて』(晃洋書房、2017年) 1 .ライアン理解に向けて 本書は、監視研究(surveillance studies)の第一人者デイビッド・ライアンの思想の核心 に迫ろうとする理論研究の成果である。ライアンの名は日本の学術界でも広く知られてお り、近年の監視化を批評する議論などでライアンへの言及がなされることも珍しくない。 だが、長年にわたり監視研究を牽引してきたライアンの理論と思想は必ずしも精確に理解 されていないのではないか。そうした疑問と不満を問題意識の出発点として、本書の議論 は始まる。 2 .「監視社会論」とは、どのような思想なのか 序章「問題としての監視社会」では、日本での監視をめぐる議論の問題点と限界への鋭 い指摘を通して、本書の目的が明示される。近年の監視の高まりを受けて議論が交わされ るとき、そこではとかく容認か反対かの安易な二項対立になりがちである。たとえそうし た討論でライアンへの言及がなされるとしても、「そもそもライアンがいかなる思想や理 論にもとづいて監視社会を論じていたのかが顧みられることはほとんどない」(5頁)の が実情だ。こうした動向に対して著者は、党派的な立場からではなく理論的に監視社会を 検討する必要を強調する。だがそれは、監視を是認することを意味しない。むしろ本書は 「監視社会のしくみが国家や資本と結びつきながら近代を制度的に形作ってきたことを把 握したうえで、監視をめぐって生じる諸問題をいかにして捉え、それに対処しうるのかに ついて理論的な手がかりを得る」(7頁)ことを目指すのである。 第1章「「監視社会」の発見」では、マイナンバー制度など日本での動向に触れたうえで、 監視社会と近代との関連についてこれまでギデンズのモダニティ論など社会学的研究がど のように論じてきたかが整理される。さらに「1960年代後半に日本独自の分析概念とし て確立した用語」(28頁)である「管理社会」をめぐり、当時どのような議論が繰り広げ られたのかを取り上げる。戦後日本において管理社会論が有したアクチュアリティ、なら びにそれらマルクス主義の影響を受けた社会論とその後の監視社会論との連続性と差異の 指摘は、管理・監視をめぐる日本での研究系譜を知るうえで興味深い。 管理や監視をめぐるこれまでの社会学的研究の検討を通して著者は、なにかしら特定の 主体や意図を想定し、それが発揮する権力を批判的に捉えようとするかつての管理社会論 のような発想では現在の監視を十分に理解できないことを明らかにする。端的に「監視と いう行為の背後に国家や資本主義企業という「権力」主体の意図を読み取ろうとする解釈 枠組みはすでに消費期限を迎えて」(35頁)いて、だからこそ今日的な監視と権力の様態 を的確に捉える理論視座が必要不可欠なのだ。そうした「理論」を求めて第2章「ライア ン『監視社会』の登場」へと議論は進む。

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ライアンが2001年に記したSurveillance Society: Monitoring Everyday Lifeは世界的な注目 を集め、翌年には『監視社会』として日本でも翻訳が刊行された。ここで著者は、同書の 短い序文での「監視のふたつの顔─管理と配慮」の起源への言及に着目し、その含意の 解読を試みる。監視に「管理=見張り」と「配慮=見守り」の両面があることはごく当た り前に理解されるかもしれないが、その両義性の根源を「ベンサムのパノプティコン構想」 に遡って見てとれる「西洋文明の宗教的源泉」にライアンが見出している点に著者は注目 する。ライアンは「神のまなざし」にさらされる人間存在のあり方自体に監視の両義性が 潜むと理解したうえで、ベンサムの功利主義ならびにその後の近代社会の発展はまなざし の関係性における「管理」の側面を偏重した結果、他方の「配慮」は等閑視されたと鋭く 指摘している。ベンサムのパノプティコン構想を契機として、まなざしをめぐる管理と配 慮は決定的に分裂したのである。近代における両者の力関係をそう理解したうえで、近代 的な管理の高まりへの対抗手段としてライアンが提起するのが「イエスの倫理に由来する 「平和の存在論」である」(66 頁)ことを、著者は序文の精読を通して論証する。監視と いうテーマを取り上げた当初からライアンが唱える監視の両義性とは、功利的メリット/ デメリットの次元に還元されるものではなく、宗教的な観点に深く根ざしたものである。 この点を抜きにしてライアンによる監視論の真意を理解するとはできない。著者は「「序 文」に隠された意図」(63頁)をそう解釈したうえで、同書の三つの柱として1. 監視の両 義性テーゼ、2.「再身体化」という倫理、3. 社会変動としての「ポストモダニティ」を取 り上げ、順次検討していく。 第 3 章「「監視の両義性」テーゼ」では、序文の精読から明かされた「隠された意図」 を踏まえて、ライアンの監視社会論において「監視の両義性」が中心的な位置を占めるこ とが論じられる。キリスト教にもとづき宗教的な観点から「監視の二つの顔」を考えるラ イアンにとって、「神の全知」を想定するベンサムによるパノプティコンの構想にこそ監 視の両義性の起源は見て取れる。それゆえ彼の理論的照準は、今では多くの監視論が出発 点とする「フーコーのパノプティコン」ではなく「ベンサムのパノプティコン」に置かれ るのだ。むしろフーコー的なパノプティコン解釈では、ベンサムの構想にいまだ残存して いた宗教的源泉に根ざす両義性は、徹底的に世俗化されてしまっている。その結果、広く 流布した「フーコーのパノプティコン」として理解される近代社会像では、肯定するにせ よ否定するにせよ、もっぱら管理の側面のみが主題化される。だが「パノプティコンとい う監獄のなかで「神」の視線によって主体化/服従させられることそれ自体は、フーコー が権力の効果として論じたような批判すべき「管理」としての側面だけでなく、主体にた いする「配慮」としての側面を同時に備えている」(76頁)点が、ライアンが「監視の二 つの顔」を論じるうえでなによりも重要なのである。 ここで著者は、キリスト教的社会思想を背景として「両義性テーゼ」が展開されている ことに改めて注意を促す。初期作品である Christians and Sociology(1975)や The Silicon

Society(1986)を丁寧に検討しながらライアン独自のキリスト教的人間観ならびに技術観

を浮かび上がらせる作業は、監視研究の世界的第一人者のこれまであまり知られていな かった一面に光を当てた点で高く評価される。このキリスト教思想の重要性を踏まえれ ば、社会学/神学の領域で活躍したJ.エリュールの技術論が『監視社会』のなかで好意的 に言及される理由もおのずと明らかになるだろう。ライアンは「技術それ自体が社会に

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とって負の作用をもたらすと考えているわけではなく、むしろ技術は社会関係を有意義な ものにするために活用することができる」(84頁)との見解に立つ。だがそれは、技術の 作り手/使い手として個人の主体性を素朴に想定するものではない。なぜならライアンの 技術論では、従来の科学技術の社会学などが前提とした「社会学的人間像」とは異なる独 自な「キリスト教的人間像」が想定されているからである(85頁)。キリスト教の教義の ひとつであるイマゴデイによれば、「人間」は「神の似姿」として創造された。この教え に従うならば、近代的人間観のように精神と身体に分けて人間をとらえる立場は受け入れ がたい。ライアンに見て取れる独自の人間像は、こうしたキリスト教思想に支えられた 「分割しえない人間の「全体性」」(92頁)に根ざしたものにほかならない。さまざまに分 割されたデータとして個人を捕捉し分類する近年の監視技術の高度化は、キリスト教的人 間像に依って立つライアンにとって倫理的に受け入れがたいものなのである。 この独自の人間観にもとづきライアンは、『監視社会』の最終章で「監視の倫理」とし て「個人の再身体化」と「他者への配慮」の必要性を提唱する。ここで著者は原語の re-embodying persons の訳にあえてこだわり、従来の訳語である「個人の再身体化」よりも「人 間の再身体化」が適切だと主張する。その理由は、そこで「再身体化」の対象とされるの は近代的な個人ではなく「キリスト教的な規範的価値をまとった、理念的に構築された人 間」(94頁)だからである。 第 4章「「再身体化」の射程」では、監視をめぐる近年の日本での議論との対比を通し てライアンによる「再身体化」の思想的意味が検討される。近年の監視の高まりをテーマ に大屋雄裕と安藤馨はそれぞれ、法哲学の立場から自論を展開している。著者によれば、 二人の議論はいずれも功利主義的リベラリズムの立場を前提としたうえで「リベラルな主 体=自律的な近代的個人」の可否をめぐる問いだてのもとで展開される。そのため監視を めぐる探究の帰結は、あくまで「主体の論理」の擁護を唱えるか(大屋)、それを失効さ せる「アーキテクチャ」を甘んじて受け入れるか(安藤)の二者択一になりがちである。 一見すると対極的に映る「主体かアーキテクチャか」をめぐる法哲学の論争は、実のとこ ろ近代的な個人という同一の人間像を共有したうえで交わされている。それに対して主体 =身体と監視との関係をめぐるライアンの議論は、キリスト教的倫理に照らして課題を検 討したうえで「再身体化」の必要を論じる。そこで想定される「人間像」には宗教的な倫 理が託されている点で、リベラルな近代的主体ときわめて対照的である。この点について 著者は「ライアンにおいて「監視の倫理」を担うとされる「キリスト教的人格」とは、科 学技術への信仰を抱く近代的な人間観や、それが生み出す「管理」としての監視の膨張に 対抗するために理論的に構成された人間像」(109 頁)であることに注意を促す。倫理と して提起される再身体化は、個人の主体性の回復やアーキテクチャによる代替といったリ ベラリズム/功利主義的な立場からの問題設定をはるかに超えて、近代的個人という人間 のあり方それ自体を問い直そうとする。著者は法哲学での議論動向との対比を通して、主 体=身体をめぐるライアン独自の思想の射程を鮮やかに描き出す。 さらに著者は「人間の再身体化」の倫理としての意義をより的確に理解するうえで、「「コ ミュニケーション」という地平」(120頁)に目を向ける必要があると訴える。なぜなら、 監視を「見る/見られることの相互性」として理解することで「ライアンは監視を個人の 主体性や自由を切り崩すもの(監視は個人にとって是か非か)として捉えるのではなく、

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それを「コミュニケーション」において(「管理」かつ「配慮」として)捉えることによっ て、前者とは別の角度から監視社会を論じる地平を切り拓いている」(120 頁)からだ。 この地平に立つことで、管理の高まりのもとリベラルな近代的個人のあいだで繰り広げら れる相克的な対人関係に対抗する倫理として、両義性を備えたまなざしが生み出す「再身 体化」された人間同士による「他者への配慮」を構想することが可能となる。 リベラリズム/功利主義との比較を通して「再身体化」の射程を解釈すると、いわゆる プライバシー論に対してライアンが距離を取る思想的な根拠が明らかになるだろう。ライ アンは監視の問題点を論じるうえでプライバシー概念を用いる立場を一定程度評価しなが らも、それだけでは対抗/抵抗の根拠として不十分であることを繰り返し指摘してきた。 著者によればその理由は、倫理の礎となる「「キリスト教的人格」を理論的な前提」とし た「「コミュニケーション」という地平」は、近代のリベラルな個人を思想的柱とする「プ ライバシー擁護論において後景に追いやられてしまう」(123 頁)からである。プライバ シー論に対するライアンの留保は、監視を批判するうえでの政治戦略の違いではなく彼独 自のキリスト教倫理に根ざした思想の帰結なのである。ではライアンが重視する宗教的な 倫理は、現代世界でどのような条件に置かれているのだろうか。 第5章「ポストモダニティと倫理」では、90年代半ばの作品Postmodernity (1994)で展 開されたライアンの議論も参照しながら『監視社会』でのポストモダニティと監視との関 係の位置づけが検討される。一方で情報テクノロジーのさらなる発展が社会に及ぼす変化 と影響を主題とする情報社会論と、他方で顧客情報の収集・分析による巧みな販売戦略が 試みられる商品市場を分析する消費社会論において、近代とは異なる「ポスト近代」と呼 ばれる経済・社会状況が注目を集めてきた。こうした研究動向を踏まえてライアンは、 1980 年代以降の新自由主義政策のもとで加速化された監視テクノロジーの発展が引き起 こした社会の質的変容を「ポストモダニティ」として捉える。そのうえで、そこに立ち現 れる新たな現象は「情報技術の社会的側面を扱ってきた情報社会論と、企業のマーケティ ング部門における消費者にたいする個人情報収集の問題を指摘してきた消費社会論を理論 的に再構成した、監視社会という分析枠組み」(135頁)によって説明可能であると考える。 つまりライアンは、今日のポストモダンな時代状況をマクロ視座から統合的に捉える理論 として監視社会論を提唱しているのである。ここで著者は、ライアンはポストモダニティ を「脱近代」(近代とは断絶した新たな時代)でなく「後期近代」(近代を特徴づけた論理 がさらに発展/徹底した時代)と理解している点が重要だと指摘する。ライアンのポスト モダニティ解釈に従えば、彼がキリスト教倫理の観点から危惧する諸問題は現代世界で深 刻化しつつあると診断されるだろう。なぜなら、監視の高度化は各種データの収集・分 析・蓄積を通して「身体の消失」を加速化させ、その結果、互いの身体を根拠とする「他 者への配慮」としての倫理はますます成り立ち難くなるからだ。だが、ポストモダニティ という「意味喪失の時代」にライアンは両義性を見ている点に著者は注意を促す。ライア ンとLiquid Surveillance (2013)で長文の対話を交わしたZ.バウマンによれば、近代ではソ リッド(固体)だったものがことごとくリキッド(流動体)に転ずるポストモダンの世界 で、個人/社会をとりまく確たる意味やアイデンティティは危機に瀕する。その結果これ までの価値や意味の枯渇状態が生じるが、そこにライアンは宗教的な観点に照らして「探 求に値する何らかの新たな倫理的・政治的参加のはじまり」(Lyon 2001=2002、256 頁)

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を指摘する。ポストモダニティを両義性において捉えるライアンは、現代世界を「脱・脱 魔術化/再魔術化のプロセス」として描くバウマンと深く問題意識を共有したうえで、近 代が徹底/高度化する帰結として「宗教的なもの」への人々の関心やコミットメントが高 まる現象の中に倫理的潜在性を見いだせると考える。なぜなら「意味を喪失したポストモ ダニティとしての現代社会は、規範的な意味の源泉としての「倫理」を回復する契機」(150 頁)でもあるからだ。このようにライアンのポストモダニティ論は、監視という側面から それが引き起こす危機を冷徹に分析すると同時にそこに潜む宗教的倫理の可能性を評価す る点で、安易な賛成/反対を超えた独自な思想として評価される。 終章「監視社会を問う地平」では、ここまでの議論を踏まえ「ライアンの企て」の思想/ 宗教/倫理における意義が確認される。その要諦は現代思想の文脈で言えば「フーコーの 描いた「規律訓練的な社会」の変容を指摘し、それを「管理社会」として指し示したドゥ ルーズの問題提起にたいして、ライアンは「身体の喪失」という問題認識と「再身体化」 という倫理によって応えようとした」(155 頁)のであり、社会科学の領域からそれを唱 える根拠は「キリスト教的社会倫理という、近代社会の外部に存在する「超越的なもの」 であり、それはキリスト教社会学というきわめて特異な社会学的記述の方法によって導出 された」(155 頁)点である。このライアン独自の社会学を評価するにあたり著者は、キ リスト教の信念にたいする同意/不同意を問うのではなく「オルタナティブとして提出さ れている倫理の実践的な有効性それ自体を評価の対象とすべき」(156頁)ことを強調する。 つまり、宗教に根ざした価値観自体の可否ではなく、それに依拠することで提起可能とな る近代的なものとは別なる自己像や監視観から現在の諸問題へのどのような「対処の手が かり」が得られるか、を問うべきだとする。序章で宣言された「理論」にこだわる著者の 研究スタンスは「監視という行為や技術、そして消失しつつある「身体」について、その 社会的な意味づけをていねいに記述し、局所ごとに部分的な改良をほどこしながら漸進す る」(158 頁)ものならば、ライアン評価の基準がその思想から導かれる「倫理の実践的 な有効性」に置かれるのは至極当然であろう。ライアンの監視社会論を仔細に検討した本 書は、否定や批判の対象ではなくあくまで「探求課題」として監視を再定位する作業に取 り組んだ労作である。 3 .慈悲深き「配慮」の限界? テクストの精読を通してライアンの思想的背景、とりわけキリスト教社会学に根ざした 「監視の倫理」が占める中心的な位置を明らかにした点で、本書は監視研究に貴重な貢献 をもたらした。著者が嘆くように日本でのライアン理解がきわめて表層的であった点を踏 まえれば、本書が描き出したライアン/監視社会論の全体像は、当該研究領域にとって大 きな財産になるだろう。さらに著者は、現実の監視状況を正確に理解し、それに対処する ことを目指してテクスト解読に取り組んだ。その研究指向からは、理論に根ざした実証研 究への今後の展開がおおいに期待できる。 日本での監視研究に対する有益な業績として評価できる本書だが、いくつか疑問もわい てくる。著者は、ライアンが宗教的観点から論じる「監視の二つの顔」に潜む「倫理の実 践的な有効性」を評価していると思われる。だが、付論「後期近代における監視社会と個 人化」での具体事例分析は、必ずしもその「有効性」を感じさせる内容ではない。たしか

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に「子どもの見守り」を親による管理として批判し退けるのではなく、現代日本での家族 関係をめぐる「探究課題」として位置づけ、「個人化」を鍵概念に分析する姿勢は本書の 趣旨にかなっていよう。だがそこに、倫理的な洞察はさほど感じられない。ライアンの監 視社会論における宗教的側面を明らかにする作業に取り組んだ本書の「付論」ならば、そ こから導き出された「有効性」を応用(あるいは再検討)した独自の分析が期待された。 著者は、ライアン評価において「倫理の実践的な有効性」とそれが依拠する「信念にた いする同意/不同意」を区別する必要を唱える。それは一見すると、きわめて穏当で現実 的な科学的態度のように思われる。だが、果たして信念と有効性との関係はそのようにし て片付けられるものだろうか。たしかに管理としての監視が高まる昨今の状況を踏まえれ ば、倫理としての配慮がその対抗策になりうるように思われるだろう。だが今世界で生じ ているのは、特定の社会集団内での慈愛にみちた気遣いがなんら良心の呵責を当事者たち に感じさせることなく、他者の排除や差別を引き起こすというグロテスクな事態ではない だろうか。たとえキリスト教社会学が慈悲深き配慮の対象とするのが「万人」であったと しても、それは現実には「特定の他者」にならざるをえない。宗教的な軋轢が深まる今日 の世界での管理と配慮の複雑に入り組んだ関係を念頭に置くとき、ライアンの監視社会論 に見て取れる倫理の有効性は彼が依って立つ信条の内実と切り離して評価することはでき ないように思われる。仲間内での「やさしさ」とそれ以外に向けた「おぞましさ」が同時 進行していくかに思えるポストモダンな監視社会を読み解くためには、ライアンが宗教に 託した「他者への配慮」自体に潜む暴力の契機を冷徹に見通すような「理論」が必要では ないだろうか。正鵠を得たテクスト解釈にもとづき、抑制された語り口で展開される珠玉 のライアン論を読んだ後、そうした疑問が浮かんだ。 【文献】

Bauman, Zygmunt and David Lyon, 2013, Liquid Surveillance, Cambridge: Polity Press.(=2013,伊藤茂訳,『私 たちが,すすんで監視し,監視される,この世界について』青土社.)

Lyon, David, 2001, Surveillance Society: Monitoring Everyday Life, Buckingham: Open University Press. (=2002, 河村一郎訳,『監視社会』青土社.)

参照

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