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原始分法華経における般若波羅蜜

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Academic year: 2021

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(1)

原始分法華経における般若波羅蜜

j

大乗仏教は般若経に基盤をおき、そこから発展して来たとなされている。即ち、法華経に於ても般若経の影響が認 められる筈であり、それからの飛躍も存さなければならない。法辛経に見られる般若波雑蜜のあり方からして、この 点に関する考慮をしてみたい。 分別功徳品は如米寿命長遠法門叶

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百 件 、 凶

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自 己 創

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同 区 弓 仙

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の説示を闘いた衆生の功徳に就て言及さ れているが、この法門聴受の功徳は 共 有 一 一 衆 生 二 聞 ニ 仏 寿 命 長 述 如 − レ 日 巧 乃 至 能 生 二 念 信 解 一 。 所 得 功 徳 川 間 レ 有 ニ 限 量 一 。 若 有 一 一 善 男 子 善 女 人 一 。 為 三 阿 稿 ラ 羅三説三菩提一故於ニ八十万億那由他劫一。行ニ五波縦蛍一。檀波縦蛍。戸縦波維蜜。犀捉波維蜜。毘梨耶波縦質。禅 波 羅 蜜 。 除 ニ 般 若 波 羅 蜜 目 。 以 一 一 是 功 徳 一 比 二 前 功 徳 一 。 百 分 千 分 百 千 万 億 分 不 レ 及 ↓ 主 ハ 了 。 と記されている。これは菩薩の行である六波縦蜜のうち五波縦蛍の行と如米寿命法門聴受との優劣を論じたものであ るが、同時に六波維蛍の桜一回に般若、波維蛍が付し、般布、減維蛍が如米寿︵川法門を示唆するもとと考え得るようである - 49ー

(2)

即ち、如上の文章に続いて究文法華経は 日 自 己 吋 判

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笹 川 凶 ぬ 丘 、

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由 1 1 育 問 自 帥 信 回

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釦 口 同 ︵この如来の生命の量の説示の法門を聞いて化作し、解脱し、会得し、覚るであろう人はこれによって、より無限 の仏智に到るべき功徳の様相を生ずるであろう。︶ と語り、更に 日 自 白 昌 弘 同 信

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同 ︿ 岱 ︿ 同 号 店 内 同 司 凶 日 々

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甘 口 仲 良 山 召

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古 田 町 凶 呂 田 −

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官 WF 吋 弔 問

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︵この法門を受持せる者︵善男子善女人︶は布施・持戒・忍耐・精進・禅定・或は慧を成ぜしめるであろう。彼等 は仏智を発生すべき無量無限界なる、より多くの功徳の様相を生ずるであろう︶ 等と記している。この一自由昌弘町民自白司

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は詳くは

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ぬ 丘 、

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間 口 町 号 吉 右 己 居 片 岡 村

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也 知 円 河 川 凶 可 、 白 の ことであり、如来寿命法門を聴受するところの人は六波羅蜜を成ずる人であり、仏智に到達すべき功徳を有するもの マあることを説示したものであろう。即ち、分別功徳品の説相は、六波雑蜜中の般宗波羅蜜をもって乃至、六度をも って如来寿命法門に対する受持におき換えようとしているのではなかろうか、 ど推測することが出来る。この換質に 対する忠惣的基盤は何であったろうか。

(3)

2

-山山訳法華経に於ても智・慧或は智慧等の語は数多く使用せられており、此等の訳語に対する究文では吉凶ロ

P

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2

丘 鼠 回 岱 門 ︿ お ] 即 日 目 白 旦

3

仰を撰び出すことが出来る。而して、この三種の語の中で最も多く使用せられているのは] gDP で あり、智・智慧・智・慧等と漢訳せられ、

82

丘 町 帥 己 防 は 一 切 種 智 ・ 一 切 智 ・ 仏 慧 と 訳 さ れ 、 官 丘 町 仰 は 智 ・ 慧 ・ 智 持 一 0 ・ 般若と渓訳せられている 古 川 富 山 は ず \ 剖 叫 に

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を付加した語であり官

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ぬ O を意味するが、これは

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口 問 の も つ 匂

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と 区別せられる

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古 川 凶 口 白 は

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+ザ\剖叫+口問であって接頭語ーには分離、分ける等の義が存するので、それは分別せら れるもの、理解せられるものの意義に於て使用せられる語で識と訳出せられる。 ﹄ 出 削 口 白 は 可 戸 m w w ロ 0 4 ︼ O m H m w u 目 色 。 H H H 等と訳すが、主門田町・仰の学識に対し需智とも称すべきものであり、宇宙の本体を認識するところの智を意味する。従つ て 、

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笹 川 紅 白 宮 古 川 山 口

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戸広島出|]思口問等の使用例が示すように、如来の所有する智、 一切をありのま﹄に知ること を 一 示 す 知 百 を 志 味 す る 。 即 ち 、 古 川 吉 川 H は覚者の所有する覚りの嘱性を示すところのものであり、後代の解釈に、知るは たらき、さとりの智となされるのは此の点に由来すると思われる。 即 位 円 ぐ と 民 創 出 凶 は 由 民 d p a 戸 、 \ 町 一 + ロ 凶 で あ り 同 門 首

0

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の 出 U 1日 ︺ 門 広 ∞ 出 口 吻 対 立 件 。 目 立 一 。 口 問 円 U 1 。 宮 口 町 立 O Z E O U H F m u 同 O 同 ∞ 戸 ︻

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と示されている如くに、 古 川 W H M H H と同じく如来の覚りの嘱性を示すもので、]自に

8 3

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を付加することによ って古川富山のもつ意を更に強化表現し、如来の吉凶ロ

ω

が伶大にして遍在せるものなるを示さんとする語であろう。 従 っ て 、 一切種智と融訳され、内外一切の存在の様相を知る叡智を意味する。大智度論巻十八には諸の菩薩は初発心

(4)

-51-より一切韓智を求め、その中間に於て諸法の実相を知る慧は般若波経蜜であり、これが仏心の中に於ては一切積智と なる、と記されており、苦北陸修行の目的となるものであり、完全なる智と称することが出来るであろう。 日 ︶ 円 丘 町 仰 は 古

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を付加したもので

1

古似口問と医別するために般若と表現せられる。接頭語

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は 同

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等 の 意 を 有 す る の で 、 日 ︶

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として力動的な生成修成を内包するといいうる。従って 人聞が真実の生命に限覚めたときにあらわれる根源的な叡智のことであり、更に如来に於てあらんと欲し修習するも のである点で実践的要素を示している。即ち、 胃丘町仰は客観的な智慧でなく、寧ろ主観的自覚的要素を有しておる といいうる。佐々木現順氏はその論文﹁智慧の概念﹂の中で、慧胃丘町釦と智古 U D と に 一 一 一 一 口 及 し 、 こ の 両 者 の 関 係 に つ いて知日と慧の白覚的区別がその実践論の基礎に横わっており、その実践論の原理は二様に考えられる。第一に慧が智 を目途するという意味に於てそれは向上的であり、第二に慧が智によって指導せられ規定せられることによってそれ は向下的である、となしている。慧の能動性とはか h る立味に於てである。この点に於て両者はその牲を異にしてい る と い い う る 。

3

右の様な一応の差別の上に於て法華経に於ける胃丘町仰の使用例を見ていくと次の如くである。 ⋮ 仔 晶 第 一 は の 三 日 出 店 内

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に集った菩薩等に対する説明の中で

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白 山 門 員 宮 内 凶

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自 己

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︶ 円 旦 宮 町 : : : H と記しているが、この田恒三百戸

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ー胃丘町仰に対する漠訳を見出すことは出来ない。

21

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は 田 ロ +

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+ ザ \ 割 引 の

(5)

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であるので解脱慧となすことを得る。この解脱慧は客体的に確立せられたものではなく、 自覚的におし進め、 到達せられたものとして理解すべきである。従って、それを確立された概念として把握することは危険であり、慧を 志向し努力の果に到達せられた匂

5

8

g

に着目しなければならないと思われる。即ち、これは悟りを聞いたことを意 味するのであるが、如来智に到るまでには修習が必要であり、修習した果の悲であり、#誌が修習を本質に於て蔵して おることを示すものであるとなしうる。方便品には J 1 H 円 U 1 0 印 ︻ 同 町 一 ﹃ 仙 ロ O 口 白 W 4 4 けh w 門 同

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円 削 守 H V

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精進禅智等種々修福誓 -53ー

精進一心修善勇猛於此経典遵奉智慧 とされ、この匂

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吉山は六波羅蜜に於けるものであることは明白である。薬草聡品には

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岱昌吉

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今世後世実知之我是一切知者

於 是 世 及 後 世 所 知 而 審 為 諸 通 晶 一 容 臼 能 並 日 見 と あ る 。

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古仰は正慧と訳すべきであろう。目・丘四以が如来智に到る中間で諸法実相を知る慧である限 り、それは諸法実相を諦観し得る慧であるといいうる。即ち、正慧は一切を U 1 m H V M 同 i l σ E M 5 5 と見る慧でなければな らない。妙法華経の実知之、正法撃の所知経市審の文章は慧をもって諸法実相を知ることを示している。林凡文も亦、

(6)

日 ︶ 吋 旬 、 古

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と 山 口 弘 司 ロ

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−を使用することによって明白である。従地涌出品は

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門同日比田忠君似自白

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ロ 片 山 W ﹂ 刊 日 。 白 日 向 田 M W D M W 何 回 I>:> o

co と示されておる。このうち前者に対する渓訳文は意訳されており見出すことは出来ない。後者の文章に対しては次の 如 く で あ る 。 ⑮ 如是諸菩薩 神通大智力 四方地震裂 比 白 従 中 踊

並 日 従 四 方 来 因明白神足 大慧忽然現 即 ち 、 .

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冒と思を妙法華経は大智力、正法華経は大慧と訳しており、

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と同一性格の如くであるが、しか しこの自己岡山買と思は菩磁の属怪として語られていることに着目せねばならない。前者の文章ではず O E H 2 E Z 仰 と 自己

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冒と

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とは同格であり、後者の文章と共に大慧が菩薩の性格であることを示しているに更に同品は 吋仏門

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門 店 訟 の m w 古 川 W H M O 問 。 回

︵阿逸汝当知是諸大菩薩︶従無数劫来修習仏智慧

殖桔神足博問智慧 と詰っている。これは神通力、慧、聞の三者をもって]思ロ白︵智︶に於て無量万億劫に行なわれたる、となし得る の で 、 吉 山 口

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仰とには相異の存する事を認めることが出来る。妙法華経が修習仏智慧と訳したのは、 菩薩が

(7)

叫 内 同 門 出 比

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古 仰 い

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をもって古帥口白を求め修得することを示すものと忠われる。従って、こ L でも智と慧の取扱いに 於ては相異を認めうる。更に亦

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山田ヨペ片山

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志念力堅固 常恕求智慧

常行勤修 立於慧力 一 切 意 堅 而無限量 と 訳 し て い る が 、 同 ︶

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帥 ll ぴ 色 白 明 白 一 口 の ヴ 色 白 田 宮 古 は

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であるので、於慧力の正法華経の訳語となるがこ れを常行勤修 立一於慧力、常恕求智慧の訳文は吉凶ロ也、を求めて修習する事が考慮におかれであったものと想像出来 一 回 一 う る 。 以上例記したものが法華経に於ける買白首脳の使用例であるが、これらに見られ得る共通な点は、

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は 古 川 同 ロ 釦 の 如くに完成せられたものを示すものであるよりは古似ロ釦に至る階悌として修習するもの、能動的働を内蔵するものの 意をもたされ、使用せられておるといい得る。即ち、それは

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古仰が菩薩の属性として使用せられておることである 併し、法華経中の買丘町仰が凡てか L る意味に於て使用されておるとは云い得ない。即ち、

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吉富宮守山伸一色沼ゴ問。ロ芯

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等の文章を見ることが出来る。この

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語、冒と日は︺出回口出の使用法と同一であると云わなければならない従

(8)

づ て 、 法 華 経 中 に は ℃ 吋 丘 四 聞 と 古 附 ロ

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の二日開の語の使用法の反別は必ずしも明白ではなく、一応の区別にすぎないと云 内 ノ 事 で あ ろ う 。

4

か L る ︼ ︶ 円 丘 町 高 の 特 色 は そ れ が 百 円 虫 色 R H と結びついて使用されるに至ってその意義を発揮する。

3

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の語源構 成には古来各種の説がなされている。その中で、二一枝充思氏は大智度論の波羅蜜は℃岱

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︹ 自 ︺ + 一 片 山 の 宮

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一 位 で あ り 真諦訳旧訳の倶合論では匂

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← 宮 円 山

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? ? 仲 間 で あ る と な し て お る 。 干 潟 竜 祥 氏 は 官 、

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を略したも の で ﹁ 彼 岸 に へ ℃ 凶

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石 ︶ 到 達 せ る ︵ 円 片 山 ︶ こ と ︵ 仲 間 ︶ ﹂ の 立 で あ り 、 ﹁ 仏 陀 に な ﹁彼岸に到達せること﹂であるから っ た そ の 行 ﹂ の ・ 怠 で 、 ﹁これを行じて仏陀になった所のその行﹂である。故にこれを行ぜば必ず彼岸に到達し仏陀に なること必定、となしている。更に、宮

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。 口 。 ロ の 仏 教 辞 典 に は 切 符

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+ ︷ +

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であることが明記され、榊氏の文典 も同様である。これは

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︵ 百 ・ ロ ︶ の ﹀

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言 。 、 日 は 動 詞 の 語 根 、

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は過去分詞を訳す接尾辞であるとし てなされたものと忠われる。過去分詞はその動詞の完結、或はその結果として生じた状態、時、理由、目的、条件等 を表わすので宮門出向回一話は彼岸に到達した状態を示すことを云わんとしたものであろう。最近刊行の中村元、紀野一 義氏の般若心経の註はこの点に触れて、これを智慧の完成と訳出している。 従 っ て 、 同 ︶ 円 丘 四 間 百 月 間 吉 山 仲 間 は 慧 の 彼 岸 に 到 達 し た こ と ︵ 状 態 ︶ を 示 す 処 の 一 一 一 一 口 葉 、 更 に 慧 の 彼 岸 に 到 達 す る 道 を 示 し た言葉であるといえよう。警職文学から大乗の菩躍思想があらわれ、菩薩の実践道としてこの買丘町凶匂同日日目仲間は説 示せられだしたのであるが、附件前般若波羅蜜経一には 5 6

(9)

-仏 告 ニ 舎 利 弗 一 。 詳 薩 摩 詞 時 欲 下 以 二 切 積 智 一 知 申 一 切 法 上 。 当 レ 習 コ 行 般 若 波 経 蜜 一 。 大智度論は 此 六 波 羅 蜜 能 令 下 人 渡 − 一 極 食 等 煩 悩 梁 著 大 海 一 到 中 於 彼 岸 へ 以 レ 是 故 名 一 一 波 羅 蜜 一 。 と説明している。亦、阿見達磨倶舎論は 斉レ此定慧波羅蜜多修胃円満。能到一一白所往円徳彼岸一。故比六名目ニ波羅蛍多一。 と、般若波羅蜜は慧の彼岸に到るものを示すと共に、修習・修行されるべきものであることを示している υ 従 っ て H V 円 丘 町 m w 旬間話日目仲間は﹁これを行じて仏陀になった処のその行﹂を示すことから更に、荘一品を究克して行く状態を示すも のとして積極的内容をも意味するものと思われる。即ち、匂円丘

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のもっている習修せられる慧の志は百円自己仲間と結び つく時に、慧を修習して彼岸に到るべき実践道となる。彼岸は一切法を知ることであり、 一切積知を得ることである 一 回 一 K L は こ 、 711 大智度論は次の如く示している。 諸 苦 一 陪 従 一 一 初 発 心 一 。 求 一 二 切 積 智 一 。 於 ニ 其 中 間 一 知 エ 諸 法 実 相 一 慧 是 般 若 波 雑 蜜 。 間 日 。 若 隔 者 不 レ 応 ゴ 一 名 為 ニ 波 羅 蜜 一 。 何以故。未レ到一一智慧辺一故。仏所得智慧是笑波羅蜜一。閃ニ是波羅蜜一故。菩一階所行亦名ニ波維蜜一。因中説レ果故。是 般 若 波 縦 蛍 。 在 ニ 仏 心 中 一 郁 夫 レ 名 為 一 二 切 種 智 一 。 菩 一 随 行 ニ 智 慧 一 求 レ 皮 ニ 彼 岸 一 故 名 一 一 一 波 縦 蜜 一 。 仏 己 度 一 一 彼 岸 一 故 。 名 一 二 切 種 智 一 。 即ち、菩薩は仏を求めて実践する人々のことであり、その仏の特性は一切種智に於て一切法を見得ることであり、 切種智に到る修行道として般若波縦蜜が存する。従って、分別功徳品説示による般若波縦蛍を除く修行は一切桔智に 到る方法ではない故に、か L る修行の功徳は甚少であるといいうる。金口一一憾の実践道としての般若波羅蜜は欠くべから ざるものであって、この点では法華経も般若粧の忠恕を基盤として成立している経典であるといいうる。 併し、 法

(10)

華経では冒と自の使用されたのは三十数箇所を算することが出来るけれども、この中 H V H

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酬 の 語 が 説 か れ るのは二ケ所だけのことであり、それも切

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宮山門口一

52

一昨日の内容の説明について触れてはおらない。恐らくこれは法 い華経が般若に対してとった態度を示しているもののように思われる。 法華経序品第一は 自 巴

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富 山 町

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町 自 由 冨

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百円片岡 ! i m 式 n H B l m ω R t H ︵慈悲によって生じられた身心をもって、如来の智、方便化身、大慧、慧ハラミツの門に行けり︶ と記している。これは釈尊が者間脇山に住し許降降詞薩八万人が釈尊の回りに集ったとする冒頭の筒所で見られるが 以 レ 慈 修 レ 身 。 善 ユ 入 仏 慧 一 。 通 達 大 智 。 到 ニ 於 彼 岸 一 。 名 称 普 闘 。 との時の菩薩等のことを説明したものである。これに対する漢訳諸経では妙法華経の に対し、正法華経は 身常行慈入如来慧。菩権最日至大知度無極。従無数劫多所博問。名達十方。 と訳している。即ち、妙法華経は通達大智到於彼岸となしているが、これは

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同 区

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冒 と 富 山 3 ℃ ご 即 同 l H 悶 門 向 同 回 日 時 間 − − m m t A M 関与巴円を一句として訳したものであろう。正法華経は普至大智度無極となして、妙法華経と同二塁院で臨 んでおり、両者共に℃円丘町帥の訳出を一ケのみに留めていることがわかる。これは恐らく、この文章の前文に於て

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日 出 向

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3

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一広に於て買旦自の省略が党文に見られるために買丘町広を省略し訳出したものであろう。更に

(11)

妙・正両経共に冒と

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一仲間を般若経の訳出通りに般若波羅蜜と音訳しなかったことは注意を要すると云わなけ れ ば な ら な い 。 分別功徳品では 宮 内 同

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︵それは次の如し。市施波羅蜜、持戒波羅蜜、忍辱波羅蜜、精進いが羅蜜、禅定波羅蜜なり。慧波羅蜜をもって除 く 。 ︶ と、仏寿命長遠法門を聞き一念信解する人の功徳と、八十万億那由位劫に於て五波羅蜜を行ずる人の功徳とが比較に 行ニ五波羅蜜一。檀波羅蜜。戸経波羅蜜。麗提波羅蜜。毘梨耶波羅蜜。禅波羅蜜。除ニ般若波羅蜜−。 ~

59-ならないことを示したものである。妙法華経は と、党文法華経の説示と全く同一である。正法華経は 奉行布施持戒忍辱精進一心五度無極。であり、除般若波経蜜の文が欠除されている。これは除般若波経蜜の文が補 助的説明であるために省略されたからであろう。 法華経に於ては以上の外に℃

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円 台 同 の 語 が 使 用 さ れ る 筒 処 を 見 出 し 得 な い 。 更 に 、 ℃ 円 丘 町

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︷ 仲 間 の ど ちらかの語のみが使用されており、且つ内容上から℃円巳

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を意味すると忠われるものは、前記の℃

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(12)

定・智慧を成ぜしめるであろう。︶とに於て見られうる。前者は胃丘四仰が省略され後者では H U 個 目 白 山 口 酬 が 省 略 せ ら れ て い る 。 而 し て 、

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闘をもって般荒波羅蜜と音訳したのは秒法華経分別功徳品一・ケ所だけであり、

HMH 旦留をもって般若と訳出した例も亦非常に少ない。 法華経が般若経の影響下に成立したことを否定し得ないが、般若から抜け出し法華の独自性を主張することのため に、般若波羅蜜に言及しその実践により仏智に参入するとなす立場を忌避したためであろうと思われる。併し、それ は般若の思想の拒否ではなく、般若波羅蜜の思想を他の何物かで語っていこうとするものでなければならない。 道生の法華経疏は分別功徳品の右の箇所を説明して、 今既聞説寿即是服深般若故那由他劫行五波羅蜜功徳所不及一也。 -60

として、如来寿命長遠法門を聴受することは深般若に服することであるとなしている。大智度論七二は 般若波羅蜜中、或時分コ別諸法空一是浅、或時説三世間法即同=浬般市一是深、色等諸法即是仏法 と、般若波羅蜜中に諸法空と世間法即仏法の浅深両般若のあることを述べておるが、羅什の大品般若経訳出が四

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四 年大智度論の訳出完成は四

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五年であり、妙法華訳出は四

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六年である処からすると、羅什門下道生は般若経及至大 智度論の思想的影響の上で法華経を訳出したものと考えうるし、前掲の道生引用文もそこに現われたものと思われる 換言すれば、大智度論の深般若の説をもって道生は、如来寿命長遠法門の一念信解の功徳を解釈せんとしたものであ ろ う 。 個師ち、法華経の如来寿景品の説一不を聴受し一念信解する人の功徳が、般若波羅蜜を除いた五波羅蜜を八十万億那由位 劫に行ずる功徳より造に優れたものであるとなす時、それは般若波羅蜜を一念信解におき換えることによって法華経

(13)

の特性を示さんとしたものと思われる。従って、 一念信解が、般若経における般若波羅蜜の役割をになっているよう に 山 仙 わ れ る 。

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ける論理であるといいうる。従って、諸法実相は主観の確立なしには存在の意義を失なう。同︼

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一 釘 は そ れ が生成の義を有する限り、彼岸に行くことを内包する限り主観となすことが出来る。換言すれば、 同 々 と

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は諸法実相を見極めるところの主観でありうる。主観は客観である諸法実相を見極め得た時客観の通りに存すること を余儀なくされる、諸法実相の通りに主観も亦存在しなければならない。こ L においてなし得られた主客合一の場面 が彼岸でなければならない。大智度論の諸法実相は般若波羅蜜なりの語はこ L において可能であろう。即ち話法実相 は ﹂ 可 目 。

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に於て分析・判断すべきものでなく、それを求める道程においてのみ実現可能である筈である。この法は示 すべからず、ニ一一口辞の相寂滅せりの妙法華経の文はこの間の事情を物語ると思われる。それは判断すべきものでなく、 実践において求めること、 一切は諸法実相においてあり、それを体得すること、亦、それが法華経の主題でなければ

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官 民 む2 aJ ︵舎利弗よ、かの諸仏世尊は一乗を始めとして、衆生に法を知らしめる。即ち、これが仏乗であり、 一切智の究寛 である。即ち、これ、如来の智見安立である。︶ と、過去、現在、未来の三時にわたり諸仏は衆生をして如来の智見を獲得せしめるべく努力する事を示している。如 来の智見は仏智見であり、諸法実相を見究めることに外ならない。故に

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炉A ︿法眼常に存し、法性常にあらわれ、諸仏両足尊は最勝を知り、この一乗を説くであろう。法住と法位と世間に於 て動かない常住と仏の悟りを国土の道場に於て巧みなる方便で説示するであろう。︶ 第一期成立の法華経はこの一仏乗の説示に終始しており、 一仏乗を説く経典であるが故に、仏の出世の本懐である - 63ー はか L る一仏乗が諸法実相の論理の上においてこそ成立しうるものであることを示したものと思われる。 となされ、この態度が次の如く語らせるものと忠われる。 薬王よ。如何なる人にでも、如来の浬繋ののちにこの法門を聴かん人、少くとも一歌を聴き一心の提義にでも喜び をおこすならば、私は彼等善男子善女人に無上等正覚を明示せん。 国

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] 切 削 阿 川 町 凶 司 自 己 一 昨 仰 を 行 ず る こ と が 仏 に 到 達 す る 方 法 で あ っ た 。 そ の 手 段

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として般若の十地が説示されたのに対して、空・諸法実相をもって示し、これを仏の慈悲の中に摂入せしめることに よって一仏乗を展開し更に法華経経典︵この法門︶とおき換えることに依って、五種法師が説示されるに至っている 従って、法華経は般若波羅蜜を主体とする説示ではなく経巻を主体とする如説修行が仏に到達しうる方法であること を提示する。胃丘町凶百一言自コ仰が法華経において説示されず、般ザポの訳語を見出し得ない理由も、 か L る法華経のあ り方に存するといいうる。 而して、経巻の如説修行を強張することによって一切大衆を救済しようとするには、説示の中に時間性が展開され なければならない。諸法実相の思想は存在するもののありのま L の姿を示すものであるのでそれは存在するものがあ る限り認められる考えでなければならない。即ち、 一仏乗の世界は一刺那のものである筈はなく、永遠の時間にわた る処の考えであるといいうる。阿合経の仏の出世未出世にか L わらずこの法は常住なり、におけるこの法は仏陀の教 説を示すものであろう。仏陀の教説は仏陀が覚者となったにしろ、或はなり得なかったにしろ常住のものであり、常 住の姿を仏陀は悟り教説となし展開したものとなしうる。そして、法華経教説の諸法実相・一仏乗は仏陀の教説の発 展的姿である故、法華経教説も亦常住であらねばならない。第二期成立の法華経はこの点を更に発展させるべくして 製作されたものであろう。即ち、多宝如来の法身仏と釈迦牟尼仏の応身仏との合一をもって、仏のあり方を象徴的に 表現せんとしている。仏の悟りの円容たる縁起・諸法実相等を人格化した法身とこの理法を体得した人である応身を 並座することに依り、教説と教説体得者との合一、過去と現在との合一を果さんとしている。この二者合一は過去の 中に現在が存し、現在の山中に過去の存することを示すが、それが永遠の未来に続くためには未来を象徴する何物かが 必要である。この役割を負ったものが涌出品の成立である。しかし、涌出品は行動者||法華経弘通者||の説示で

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あるために、そこでは説法場面の転換がなされなければならない。 ︵仏陀の悟りを平面的に論述することではなく、 行動の中に於て教説の把握が必要である。︶ 序品からの法華経説法舞台は老日間掘山を中心とした場面であったが、泊出品以後は仏の悟りの世界を舞台とした虚 空出向山岡宮の場面に移動せしめられている。仏陀の悟りは現実をありのま h に見ることであり、ありのま L に見た通り に行動することであるので、仏の悟りの世界を舞台とすることは仏の行動の説示の世界であるとい L う る 。 そ れ 故 、 行動者・未来の弘通者として示された地涌の菩薩は成空を住処とする。それは仏の悟りの内容であり、仏の意の通り に実践するものである。そして、この労作が過去・現在・未来にわたる久遠の開制に発達する。 如来によって三界は実の如く、生ぜず、死せず、消滅せず、発生せず、行かず、吹も消さず、存在に非ず、非存在 に非ず、真に非ず、非真に非ず、如に非ず、非如に非ず、虚妄に非ず、非虚妄に非ずと見られたり。 の如来寿量品の文章がか L る仏のあり方を説明したところのものであろう。仏は一切をありのま﹄に見るものであり そのような態度が永遠なるものでなければならない。換言すれば、そのような生き方は仏における生き方であろう。 それ故伽耶始成が否定されうる理由はなりたちうると思われる。従って仏の慈悲は広大無辺であり、且つ、 ︶ 切 衆 生 は本来仏の中において住しておらねばならない。分別功徳口聞が一念信解を強制する点もこのような法華経のあり方に 存するといいうる。 6 - 65ー

(18)

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吋 片 山 戸 ︵ 一 心 を 生 じ 解 脱 を 生 じ 、 信 心 をなす︶の訳である。従って、心のあり方、が、ありのま L に一切を見るものの見方が主題とならなければならないし 且つ、経巻が絶対なものであるところから出発しなければならない。 即ち、それは法門を聴くことによって行なわれなければならない行為についてであり、それが一心と解脱と信心で あろう。解脱は仏教の根本的思想であり、諸法実相を知ることであろう。併し、解脱には一心や信心がともなわなけ れば実践的機運を生ずることはあり得ない。即ち、こ﹂において経巻供養の立場が発展すると忠われる。同じく一念 随喜を説く法師品第十は 多 有 レ 人 在 家 出 家 行 三 誓 躍 道 一 。 余 不 レ 能 レ 得 六 見 − 一 間 読 三 一 論 書 四 持 供 五 養 是 法 華 経 一 者 。 当 レ 知 是 人 未 三 善 行 ニ 菩 薩 道 一 。 6 6 -と述べて経巻の受持、読・一一調等を主張している。是法華経は党文の日目白

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おの訳文でこの法門の意で あるが、実際には此の法門は法華経であるために法華経と訳出したものであろう。分別功徳品はこの法門について、 山 口

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如 来 滅 后 。 若 有 下 受 持 読 諭 為 ニ 他 人 一 説 。 自 若 書 若 教 レ 人 書 供 申 養 衆 僧 主 。 不 須 τ 復 起 ニ 塔 寺 一 及 造 ニ 僧 坊 − 供 申 養 衆 僧 ι 。 等と妙法華経は示している。即ち、法華経は一念信解をおし進めると共に、法門に対する五種法師を主張するに至 q ていることを認めうる。五種法師は成立している経巻を予測しなければ出来得ない主張であり、経巻がそのま h 仏身 であらねばならない。従って、これ等の文中に於て、経巻供養をなすものは如来を肩に負い如来と共に歩むものであ るとなされ、経巻を牧めるための寺の巴

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を建立すペきことを説示している。換言すれば、法華経に見られる実践法 規は、経巻に対するものに昇華されていることを知るべきであろう。換言すれば、法華経が般若経の影響下に成立し ながらも、般若についての説示説明、般若波羅蜜の訳語すらも記しておらないのは、般若波羅蜜をもって、より積極 的実践体系に於て表現せんとしたからであり、その実践体系として取り上げられたものが、五種法師であり、 一 念 信

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67-解経巻供養であったと考えうると思われるのである。法華経の如説修行の考えはか h る背景に於て成立せしめられ得 なければならない。従って、

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似 国 回 同 志 似 合 M10 巳 ︵この法門を受持せる人は︵善男子善女人︶布施・持戒・忍耐・精進・禅定・智慧を成ぜしめるであろう︶ と、法華経経巻を受持する人はそのま﹄で六度を行ずる人であることを知ることが出来る。この文章を妙法華経では 況復有 ν 人能持ニ是経−。兼行ニ布施持戒忍辱精進一心智慧一。其徳最勝無最無辺。 と語って、これが、註釈者等によって兼行六度と称せられているところである。併し、法華経を受持する功徳が無量無 辺であるとしてこれを強調する経典が、再び兼行六度を主張することは解しかねる処である。更に、同品の内容は法

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問場受の功徳が般若波羅蜜の行であることを示し、 一念信解をもって般若波羅蜜におきかえ、次で、 一 念 信 解 が 法 華 経経典に対するものであることを示し、経巻に対する五種法師の行を主張するのである故に、兼行六度、正行六度を 改めて主張することは解し兼ねる処であるといわなければならない。即ち、換言すれば般若経の法華経に対する影響 は強いものであり、法華経は般若波羅蜜をもって、 一念信解とおきかえ、五種法師、如説修行を説き、経巻に対する 信仰をもって実践的に解釈せんとしたものとの考察が出来うるといいうる。

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