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黒いベール : ディケンズ『ボズのスケッチ集』より

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(1)

デ ィ ケ ン ズ 『 ボ ズ の ス ケ ッ チ 集 』 よ り

-村

田 信 行

本稿はチ ャールズ ・デ ィケンズ (1812-70)の処女作品集 『ボズのス ケ ッチ集

』(

Sk

e

t

c

he

s

byBog,1836;底本は TheOxfordIllustratedDickens版 ,1957)の中から 「黒いベ ール

("TheBlackVeil")を和訳 した ものである。 従来, この作品集のほ とん どの作品は習作 と見 なされ,あま り評価 も検討 もされていなか った。 しか し,以後の多 くの傑作に見 られ るデ ィケンズらしさの多 くは,既に, この作品集 の中に,一 部は未熟 なが ら,示 され てい ると言え る。 ひ とつひ とつの作 品は,彼の後の長編 と比べれば,余 りに小 さ く取 るに足 らぬ印象を与え るが, まだほ とんどの人達がその実体に 触れていないのほ誠に残念なことに思われ る。 『ボズのス ケッチ集』は4部 56編から成 り,「我 らの教区」 (OurParish),「情 景 描 写」 (Scenes),「人物描写」(Characters),「物語」(Tales)の順に構成 され ている。 初めの 3部 の作品は, タイプこそ正に千差万別であるが,いずれ も小品 と呼べばすむほ どの長 さと内容 である。全体を通 して,デ ィケンズの観察眼の非凡な ところが遺憾 な く発揮 され てい る。 第 4部 「物語」だけが各 々にまとま りを持 ち,中には短編 と呼んで もよい作品が 含 ま れ て い る。概 して笑劇 (farce)仕立ての ものが多い中で,デ ィケンズが一生持 ち 続け た 興味の対 象 「異常心理」を追求 してい るとい う点でかな りの完成度 と印象度を看す る 「黒いベ ール」 は,特に異彩を放 っている。それだけ評価 も高 く, しば しば,以後の作品 との関連で言及 さ れ てい る。 しかし残念 なが ら,筆者の知 る限 り

,

「黒いベール」が和訳 された とは聞かない。そ こで, 『ポズのス ケ ッチ集』研究の一端 として,全訳を試みた。誤訳 または表現不十分 な点について 御教示いただければ幸いである。

(2)

「黒

ル」

チ ャ ー ル ズ ・デ ィケ ンズ あ る冬の夕方, ち ょうど

1

8

0

0

年かその 1

,2

年前後の年の暮れに,最近仕事 を始めたばか りの,ある若い開業医が,小 さな屈一問の燃え さか る暖炉 のそばにすわ って,風が雨粒をば ら ば らと窓 ガラスに打 ち当てた り,煙突の中で低 く陰気 な音を立 てた りす るのを聞いていた。 その夜 は湿気が多 く寒か ったO彼は一 日中ぬか るみの中を歩 き回 った後に, ようや く部屋着 とス リッパに着替え て心地 よく休息を と り,半分以上眠 って しまって も うろ う と し た 状態 で,定 まらぬ想像の うちに無数の事柄 を思い起 こしていた。初 め彼は,何 て風が強いんだろ ラ, もし家で こ うして気持 ち よくしてい られ なければ,今頃は冷た く鋭 い雨が顔 を激 しく打 っていただろ うと考 えた。 そ して彼 のJ山 ま毎年 ク T)スマスに故郷を訪れ親 しい友人達に会 う ことに向か っていた。彼 らは顔を見た らどんなに喜 んで くれ るだろ う,そ して ローズに こん なふ うに話す ことが できた ら彼女は どんなに喜ぶだろ うと考えた- や っと患者を迎え るこ とが できて, これ か らふえ て行 きそ うだ。何 ヶ月か した ら,戻 って来 て結婚 し よ う。そ うす れば淋 しか った炉端 も君 のおかげ で楽 し くな るだ ろ うし, 自分 も新たな気持 ちで頑張れ るだ ろ う, と。それか ら彼は,いつ最初 の患者が現われ るのだろ う,あ るいは天の特別 な配剤に よって自分は全 く患者の来 ない運命にあ るのだろ うか と考えた.そ してまた p-ズの ことを 考え眠 りに落 ち,彼女の夢 を見 て,優 し く暢気な彼女の声が耳 に こだ まし,柔か く小 さな手 が肩に置かれ るよ うな気が した。 手は確かに肩に置かれ ていた。が,それは柔か くも小 さ くもなか った。その持 ち主は太 っ た丸顔 の少年 で,遇 1シ リングと食事付 き とい う条件 で教区か ら派遣 され ,薬や伝言を運 ん し11 で くれ ていた。 しか し,薬 を届 けては しい とい う要請 も,伝 言の必要 もなか ったので,少年 は一 日平均14時間の手持 ち無沙汰 の時 間を,- ッカ入 りドロ ップを吸 った り,動 物の栄養入 り菓子を食べた り,あるいは眠 った りして過 ごしていた。 「ご婦人 です よ, ご婦人

.

」 と主人 を揺すぶ りなが ら少年は ささやいた。 「どの婦人だ って

?

」 ぎ ょっとしなが ら医者は叫 んだが, 見 ていた夢が幻だった とは十分 意識せず, その手が p-ズだ った らいいのに と半分思 っていた, 「どの婦人だ って ? どこ に

?」

「そ こです よ

.

」 実 に珍 しいお客 の出現に引 き起 こされた と 思われ る驚 きの表情 を見せ な が ら,少年は治療室へ続 くガラス戸 の方 を指 さして答えた。 外科医は ドアの方 を向き,予期 せぬ訪問者の姿を見 てほんの一瞬 ぎ ょっとしたD それは非常に背の高い婦人で,正式 な喪服 を着 ていて,あま りに ドアにぴ った りくっつい

(3)

て立 っていたの で,顔 がほ とん ど ガラスに触れんばか りだ ったO婦人 の上半身は, まるで隠 すのが 目的 と言わ んばか りに黒い シ ョールで注意深 くおおわれ,顔 の方は厚 い黒いベ ールに 包 まれ ていたO きちん と直立 し,見 るからに背筋が伸ば さjLていたO そ してベ ールの奥 の眼 は彼 に釘付けに され てい ると医者は感 じたが,婦人 は微動だにせず ,彼が婦人 の方に 向いた ことに僅か なが ら, 目に見え る動 きでは ないが,反応を見せた。 「私に診 てほ しいのですか」少 し とまどいなが ら, 手 で ドアを開け て彼は訊 いた。 ドアが 内側に開いたが,それ で もその人物の位置 は変わ らず, 同じ場所 に じっとしてい るままだ っ た。 彼女は黙認の しるLに頭 を少し下げた。 「ど うぞお入 り下 さい」 と医者が言 った。 この人物は一歩足 を進 めたOそ して少年の万 に顔 を 向けて (これに 少年はひ ど くおびえた が ), とまどってい るよ うに見えた。 「出ていなさい, トム」 と, この短 いや りと りの間, 大 き く丸 い眼を最大限に見開い てい た少年に 向か って若い医者は言 った

,

rカーテ ンを引いて, ドアを閉 めて」 少年 は ガラスの部分に付いてい る緑色の カ-テ ンを引いて,治療室に下が り, ドアを閉め て,そ してす ぐに大 きな眼を反対側か ら鍵穴に押 し当てた。 医者は椅子をひ とつ火に近づけて,座 る よ うに訪問者- 合図 した。 この奇妙 な人物はゆ っ く り椅子に近づ いた。炎 が黒 い服 の上 に輝 いて,彼は婦人 の裾が泥や雨でずぶぬ九にな って い るのがわか った。 「ずぶぬれですね」 と彼は言 った。 rええ」 とこの人物は小 さ く低い声 で言 ったO 「それにおかげんが悪いのでは」 と医者は,婦人 の声 の調子 が痛 みに 苦 しむ人の よ うだ っ たので,思 いや ってつけ加えた。 「ええ」 と答が あ り,「とて も悪 いんです,体 では な くて精神 的に.私の ことではな く, ま た私のためにで もないんです, こちらに伺 ったのは」と客は続 けた,「私が体 の病気 で苦 しん た でいた とすれば,独 りで こんな時間や こんな夜 に 出かけは しないでし ょう。 これか ら24時 間病気で苦 しむ んだ とした ら,神様 もご承知 の よ うに,私 は どんなに喜 んで床 に伏 し死 を望 む ことでし ょうか。 あなた様の力をお借 りしたいのは,他の人 のためなのです。 その人 のた めにお願いす るなんて自分は気が狂 ってい るのか も知れ ません- そ う思 います。 しか し, 来 る夜 も来 る夜 も何時問 もの間つ らい気持 ちで寝ずにいた り泣 いた りしてい ると,その考え が いつ も心 に起 こって来 るのです。そ して私に さえその人 のた めに誰 も手助 けを してや るこ とは叶わ ないのがわか ってはいて も,手助けをせずにその人 を墓 の車に納め る ことに な る と 考えただけで,体 中の血が凍 りついてしま うのです

.

」そ して医者には芸術 で さえ作 州 け ことので きない と思われ るよ うな震えが話 し手の全身に広が った。 この婦人の様子には必死 で熱心 な ものが あ り,それが彼 の心 を打 った。彼は まだ この仕事 の経験 も浅 く, 同僚た ちの眼に毎 口さらされ てい る様 々の悲惨 な出来事を まだ十分見 た こと

(4)

もな く,人間 の悩み苦 しみに比較 的無感覚 でい られ るよ うには な ってい なか った。 「もし」急 いで立 ち上 が りなが ら彼は言 った

,

「今 お話 しの人 がお っし ゃる よ うな絶 望的な 状態 に あ るのな ら,一瞬 た りと も遅 れ ては な りません。 す く、、に一緒 に参 りまし ょう。 ど うし て以前 に誰か医者の意見 を聞か なか った のですか」 「そ うした として も無 駄 だ った で し ょうか ら。 今 で も無 駄 なの です か ら」 と婦人は夢 1--で

手を ぎ ゅっ と合わ せ なが ら答 えた。 医者は一瞬黒 いベ ールの方 を,その奥 に隠れ てい る顔 の表 情 を確 かめ るよ うに, じ っと見 つ めたが , しか しベ ールが厚 か った の でそんな ことは不可能 だ った。 「あなたは病気 でい らっし ゃる」彼はおだやかに言 った

,

「お気づ きでは ないけれ どO穿き主の た めに却 ってあなたは, ここの ところ明 らかにた まっていた疲 労 を感ず る ことな く持 ち こた え る ことが 出来 たの ですが ,そ の熱が今 か らだの中 で高 くな ってい るのです。 こ れ を 飲 ん で」 と彼は一杯 の水 を注 ぎなが ら続 けた

,

「しば ら く心 を落 ち着 け て, そ してで きるだけ静 かに話 してみ な さい,その患者 の病気は どんな もので, どの くらい患 ってい るのか。私が そ の人 を実際 訪れ て有効 な診断 を してあげ られ る よ う必要 な情 報 を手 に入れた な ら,私 はいつ で もお伴 いた します よ」 この客 :ま,水の入 った グラスをベ ールをお ろ した まま 口へ持 って行 ったが, 口につ けずに また下 ろ し,そ して急 に泣 き出 した。 「ゎか ってい るんです」すす り泣 きなが ら婦人は 言った,「お話 してい る ことが ,熱 に よる うわ言の よ うにZilJこえ ることは。前 に もそ う言 われた ことが あ ります, あなたほ ど親 切にで は あ りませんが。私は も う若 くほ あ りませ ん。 そ して人は 言い ます ,人の一生 が終わ りに少 しず つ近づ くにつjtて,他 人には

偵の ない よ うに思 え るけれ ども,一生 の最後の ひ ととき は,その人 に とっては,それ までに過 ご した 全ての歳 月 よ りもい とお しい ものに な ります。そ の歳 月は,ず っと前 に死 んだ友 達や, ま るで も う死 んで しまった よ うにす っか り離れ て行 っ て しま った リ, こちらの ことを忘れ て しまった りした若 い人た ち (多分 日分 の子供 ですが) の思 い 出 と結 びついてい るのですが。私 の残 された一生 は も う長 い ものでは あ りませ ん し, それ ゆえに い とお しい ものか も知れ ませ ん。 しか し,私 の話 してい ることが 間違 いや空想 で あ りさえ した ら,私はため息 も忘 れ て,大 は し ゃぎで,大 喜 び で, 自分 の一生 を投 げJITちま し ょう。 明 日の朝,私 の話 してい る人は,わ か ってい るんです, そ うで ない と考 えた いんで すが ,人 の助 けの届 か ない と ころ-行 って しま うんです。 それ なのに,今晩 は,絶体絶 命の 危機 にあ りなが ら, あなたは そ の人 に会え ない し,手を貸 す ことも出来 ないの です」 「私 は あなたの悲 しみに 追 い打 ちをかけ るつ も りは あ りませ ん」 医者は ち ょっと間 をおい てか ら言 った,「です か ら,お っ しゃった ことに意見を加 えた り,それ ほ ど隠 そ うとしてお ら れ る ことを調べ てみた い な ど とい う素振 りを見せた りは しませ んo Lか しあなた のお話 の

には ど うして も論

上納得 で きない矛盾 が あ ります。 その人 は今夜 死 の うとしてい るO が, 私 の力が役立 ちそ うなのに 会 うこ とはで きない。 明 日では役 に立た ない とお考え なのに,明 口その人 を診 てほ しい とお っし ゃってい る よ うだ / あなたの言葉 や様子か らわ か る よ う

(5)

に,その人が実際 そんなに大切 な人 ならば,手遅れに なる前 に,病気 の進行が手 に負え な く な る前に, ど うして彼の命を助 け ようとされ ないのですか」 「神様お助 け下 さい

.

」激 し く泣 きじゃ く りなが ら婦人は叫 んだ。「私 に も信 じられそ うに ない ことを兄 も知 らぬ人が信 じて くれ るなんて ど うして思え まし ょう。 ではその人を診 て頂 けないのですか」 と突然立 ち上が って彼女は言葉を継 いだ。 「お断わ りします とは 申し上げ ていません」彼は答えた

,

「しか しご忠告 しますが, もしこ の よ うに法外 な遅延 をあ くまで主張 され てその方が な くなられた ら,恐 ろしい ことですが , その責任は あなたにかか って来 るのです よ」 r責任は どこかで誰かが しっか り負 うので し ょう」 とこの人物は苦 々しげに答えた

,

「どん な責任が私 にあろ うとも,喜 んで受け入れそれに応 え るつ も りです」 「ご要望 に従 って も何 の災いに もならない よ うですか ら」 と医者は続 けた

,

「住所 を残 して おいて頂ければ朝 その人 を診察 しまし ょう。何時 なら可能 ですか」 「9時 です」 と客は答えた。 「こんな質問をす る無 礼を許 して頂け ると思い ますが」 と医者は言 った

,

「その人は あなた が今世話を してい るのですか」 「してい ません」 との答え。 rでは,私が今夜 のために治療の指示を与えた として も,彼 の助 けには な りませんね」 婦人は激 し く泣 いていたが,答えた,「その通 りです」 話を延 ば して もそれ以上 の情報は得 られ そ うもない とわ か ったので,そ して最初は激 しい 努 力で抑え られ ていた婦人 の感情がその時 には も う抑え難 く,見 るも痛 々しいほ どに な って いて,そ っとしてお きたい と思 ったので,医者は翌朝約束 した時間に訪れ ることを再 び約束 (2) した。 この訪問者は, ウォル ワース地区 の人知れぬ場所-の道筋 を医者に教 え てか ら,入 っ て来 た ときと同じ奇妙 な物腰 で家を後に した。 容易にわ か ることだ ろ うが, こんなに も異常 な訪問は若い医者 の心 にかな りの 印 象 を 残 し,そ して彼は散 々この問題 の真相について可能 なか ぎ り考 えてみたが,ほ とん ど うま く行 か なか った。大 多数 の人 々に もあ るよ うに,彼 もしば しば,死 とい うものが特定 の 日あ るい は時刻に さえ予感 され,それが実 現 された とい う特殊 な例を聞いた り読 んだ りした ことが あ った。初 めは彼 も今 回の例はその うちのひ とつか も知れ ない と考えた く思 ったが,次には ,彼 が聞いたその種の話は どれ も, 自分 自身 の死 の前兆に悩み続けた人 間についての話 だ った と い うことに気づいた。しか しこの婦人は他の人問,つ ま りひ と りの男,につい て話 していた。単 な る夢や気 ま く、、れ の妄想 のために,婦人がその男の近づ きつつある死 についてあんなに も物 凄 い確信を持 って語れ るとは思 えなか った。 その男が翌朝殺 され ることに な ってい て, も と もと一味 であ り誓いに よって秘密を守 らねば ならない婦人が,なぜかJbを動 か して,そ の犠 牲者に何 らかの暴行が行 なわれ るのを防 く、'ことは できないけれ ど, もし可能 なら,適当な と きに医者の助 けを借 りて男の死 を防 ご うと決心 した, とい うことも考 え られ ないだ ろ うか。 そんな ことが この大都市 のわず か2マイル以内の所 で起 こってい るとい う考えは余 りに も途

(6)

方 もな く乱暴 な ことで,次の瞬間には考え られ なか った。それか ら再 び, この婦人 の知性は 混乱を来た していたのだ とい う初めの印象に立 ち返 った。そ してそ う考え ることが多少な り とも満足の行 く問題解答の方法だ ったので,彼は婦人は狂 っていた と信 じることに しよ うと 頑 なに決心 した。 しか し, この点につい て疑心暗鬼はす ぐに彼の・山 こ忍び寄 り,長 くぼんや りした眠れぬ夜 の閉 じ ゅ う繰返 し姿 を現わすのだ った。その間,彼はそ うす まい とす る努 力 に もかかわ らず ,あの黒 いベ ールを混沌 とした頭 の中か ら消 し去 ることが 出来 なか った0 ウォル ワースの奥 の地域 は,その地区の車で も最 も街中か ら離れ てい るが,今 日で も十分 人里離れたみ じめな場所 である。 しか し35年前はその大 部分が陰 うつ な荒地 も同然 で,そ こ には胡散臭い人間が まば らに少 しばか り住 んでいたが,貧 しさのた糾 こそのあた りに住む し かな く,その仕事や生活ぶ りはあた りの淋 しさに誠にふ さわ しい ものだ った。 以来 この地域 一帯には非常 にた くさんの家が建 て られ る よ うになったのだが, この出来事か ら数年 の間に は まだそれ も始 まっていなか った。 そ して当時建 っていた家の大 部分 も不規,賄 こ散 らば って い て,ひ ど く粗末でみ じめた らしい代物だ った。 その朝歩いて行 った場所 の様子は,若 い医者 の元3(ほ 引 き出した り, これか らし よ うとし てい る奇妙 な訪問を前 に抱 いている不安や憂 うつ とい った感情を追 い払 って くれ る よ うな も のではなか った。道は幹線 か らそれ,沼 の よ うな公有地 を横切 った り,い ろんな小道 にな っ て,あち こちで顧み られず に朽 ち果 て今 に も崩れ落 ちてしまいそ うな荒れた小屋 を見た りし なが ら続いていた。発育不全 の木 や,前 の晩 の大雨 でに ご り淀 んだ水た ま りが時 々道 の脇に あ った。そ してある時は,みすぼ らしい庭 の一画にはあず まやを建 て よ うと古 い坂 が何枚か 寄 せて打 ちつけてあ った り,近所 の生垣か ら盗 んで きた杭で と りあえず修理 した古 い柵 があ った り,た ちまちあた りの住人 の貧 しさや,他人 の所有物をほ とん どため らいな く自分たち の物に して楽 しんでい る様子 までが知れ るのだ った。 あるいは,汚 な らしい格好 の女が うす よごれた家の戸 口か ら姿 を現わ して,何 か料理 の道具か ら前 の どぶ-中身 をあけた り,かか との減 った靴 をはいた少女が 自分 の大 きさ程 もある顔色の悪 い幼児を背 負 って戸 口か ら数 ヤ ー ドの ところを よろめ きなが ら何 とか歩いてい るのを見 て,後 ろか ら金 切 り声 をあげた りす る こともあるo Lか し,ほ とん ど何 も動いてい る ものはない。 あた りに重 くたれ こめてい る 冷た く湿 った霧の中かすかにわ か る風景 のほ とん どは, これ まで描写 してきたい ろんな物 と 完全に調和す る ような淋 し く荒涼 とした様子であ った。 泥 とぬかるみの中を とぼ とぼ と歩 き,指定 された場所 を何度 も人にたず ね,それ と同じ回 数 だけ辻複 の合わ なか った り不満足だ った りす る応答を され なが ら,若 い医者 は よ うや くの ことで, 目的地 として指示 され ていた家の前 に着 いた。それは小 さ く屋根 の低い二 階屋 で, 今通 り抜けて釆 た どの家 よ りも淋 し くて期待 のかけ ようが ない有様 の家だ った。古 い黄色い カーテ ンが2階 の窓に しっか り引いてあ り, 居 間 の 鎧戸 も閉 じてあ ったが留め ては なか っ た。 その家ほ どの家 とも離れ ていて,狭 い小路 と直角の位置にあ ったので,周 りにはひ とつ の家 も見えなか ったO 医者はため らい,その家 を数歩通 り過 ぎてか らや っとノ ッカーを持 ち上 げ る気 に な っ た

(7)

が,それを見 て読者は どんなに大胆 な人 で も,彼 を小心 だ と苦笑す る ことは 出来 ないだ ろ う。 当時 の ロン ドン警察は今 とは非常 に違 うものだ ったO建築 ブームやい ろんな技術 の進歩が ロ ン ドンの中心 部や周辺部 とこ うした地区をまだつな ぎ始 め てはい ない時期 だ った ので,地理 的に郊外 に離れ てい るがゆえに, こ うした地区 の多 くは (特に この地区は)最悪 で極貧 の人 間た ちの住 み家に な っていた. 当時 は ロン ドンの一番賑やか な通 りで さえ十分 な灯 りほなか った し, この よ うな郊外 では もっぱ ら月や星明か りに頼 っていた。そ うい うわけで,命知 ら ず の連中を見つけた り,彼 らの住み家をつ きとめた りす るチ ャンスは非常に少 な く,連中の 傍若無人 の行動 も,毎 1_l経験 を重 ねては 自分た ちほ比較的安 全だ とい う意識 を身 につけてし ま うので, 自然に大胆 さを増す のだ った。 こ うい う考 えに加 えて, この若い医者が大 都市 ロ ン ドンの公立病院に しば らくの問身を置いていた とい う点 も忘れ てはな らない。 当時 は まだ メ -クも ビシ ョップもその恐 しい悪名を とどろかせ てはいなか ったけれ ど,彼 自身の経験 か ら,以来/;-クにちなんで命名 され てい るよ うな極悪非道 の行 為 もいかにたやす くロン ドン (3) では行 なわれ るかわか っていたか も知れ ない。それが どんな ものであろ うと,全 ての思 いや 考 えが彼をため らあせたし,実 際彼はため らったのだ。 しか し,強い精神 と大 した勇気 の持 ち主だ った ので,それ も一瞬 の ことだ った。彼は睦 を返す と,戸 口に立 って静かに ノ ックし た。 その後す ぐに低い ささや き声 が聞 こえた。 まるで廊下 の 向こ うの端にい る誰 かが上 の踊 り 場 にいる誰 か とひそひそ話 してい る ようだ った。それに引続 き,重 い ブーツが何 も敷 い てい ない床 の上 で音を立 てるのが聞 こえた。 ドアの鎖が静かに外 された。 ドアが開いた。そ して 背 の高い,不快 な感 じのす る男- 髪は黒 く,後 で医者が何度 も言 っていた よ うに,今 まで彼 が見 てきた いろいろの死体 の顔 と同じ くらい青 白 くやつれた顔 をしていた- が現われたo rお入 り下 さい」男が低 い声 で言 ったO 医者がそ うす る と,男は鎖をかけ ドアを確かめて,廊下 の突 き当た りにある小 さな奥 の居 間 まで案内 した。 「間に合 い ましたか」 「早す ぎました !」 と男が答 えた。 医者は,警戒 の色 もまじった驚 きの素振 りを見 せ てあ わ てて振 り向いたが,それは抑 え ようのない もの とわか っていた。 「ここにお入 りになれば」 と男はその様子に明 らかに気づ いて 言った

,

「ここにお入 りに な れば, き っと5分 とお引 き留 めしない と思 います よ」 医者は即座 に部屋に入 った。 男は ドアを閉め,彼 を残 して姿 を消 した。 それは小 さ くて冷え冷え とした部屋 で, もみの木 の椅子2脚 と同じ くもみのテーブルが1 台 の他は何 もなか った。何 の囲い もないほんのひ と握 りの火が火床に燃えていて,何 の快適 さの役に も立 っていない らし く,湿気をあぶ 州 ル ていた。 とい うの も,健康 に悪 そ うな水 分 がナメクジの這 った跡 の よ うに壁を伝 って落 ちていた か らだ。窓は壊れ ていて至 る所 つ ぎ が当て られ ていたが,そ こか らほ,ほ とん ど水 に浸 ってい る小 さな囲 まれた土地 だけが見え た。家 の内に も外 に も物音ひ とつ聞 こえなか った。若 い医者 は炉端にすわ って,医者 にな っ

(8)

て初 め ての往 診 の成 り行 きを待 った。 こ うして何分 もしない うちに,何 か乗 り物 の よ うな ものが近づ いて来 る音 が彼 の耳 を とら えた。 それが止 まる と,通 りに画 した ドアが開 いた。低 い話 し声 が続 き,廊下 と階段 の とこ ろで ゴソゴソと足音が聞 こえたが,それは ま るで2, 3人 の男が何 か重 い人間 の体 か何 かを 上 の部屋 まで運 んでい るか の よ うだ った。何秒 か して階段 が き しみ,今来た連 中が, ど うい う仕事 であれ ,それ を きちん と済 ませ この家 7h'上は うとしている とわ か った。 ドアが閉 じら れ ,以前 の よ うな静 け さに戻 った。 さらに

5

分 が過 ぎて,医者 は 自分 の用 向きを知 らせ る ことの出来 そ うな人 物を探 しに家 の 中 を見 て回 る決心 を固め よ うとしていた矢先, ドアが開 いて, 昨夜彼 をたず ねて 来 た 人物 が,全 く同じ身 な りで同じ よ うにベ ールを垂 らして いて,来 る よ うに と合図 を した。見 た と ころ奇妙 に背 が高 く, また 口を きか ない とい うことも重 な って, ほん の一瞬 彼 の 頭 には, ひ ょっとした ら女性 の服 を着 て変装 した男 では ないか とい う考 えが よぎった。 し か し, ベ ール の奥か ら洩れ るひ きつけ る よ うなすす り泣 きや,悲 しみ で体中 をふ るわ せ てい る様

f

-か ら,す く、、にそ の疑 いがばかげてい るとわか った。彼 は あわた だ し く後 に続いた。 女 は二 階へ上 が って正面 の部屋 まで案内 し, ドアの ところに立 ち止 ま って彼 を先 に人 らせ た。 そ こにはほ とん ど家具が な く,古 い もみ製 の箱 と椅 子2, 3脚 ,そ してテ ン ト形 の天蓋 の付いたベ ッ ドが あ るだけで,そ のベ ッ ドには カーテ ンや横木 もな く,つ ぎは ぎの布 でで き た ベ ッ ド・カノミ-がかけ てあ った。ぼ んや りした光 が,先 ほ ど彼 が外 か ら見かけた カーテ ン 越 しに射 してい るばか りで, 部屋 の中にあ る物は明瞭 には見 えず , また 全てが 同じ色 合いに 染 ま っていたので,彼は,女が狂 った よ うに急 に彼 の脇 を抜け てそ の体 を投 げ 出 しベ ッ ドの そば にひざ まづ いた際 に,す く、、さま彼の 目に留 ま った物が一体何 であ るのか最初気づ か なか った。 ベ ッ ドの上 には, リンネル の布 で し っか りくるまれ ,毛布が掛 け られ て,人 間の形 を した ものが, こわば り動 か ない ままで横 たわ っていた。顔 と頭 (それ は男 の ものだ った) 紘,戻 か らあ ごの下 にかけての包帯 を除 い ては何 もおおわれ ていなか った。 眼 は閉 じていた。 左腕 がベ ッ ドの上 に く・、った りと伸 びてい て,女 はその動 か ない腕 を 手に取 った。 医者 は優 し く女 を脇 にや って,そ の手 を 自分 の手 に取 った。 「これ は

.

」思 わず その手 を取 落 として彼 は声 を上 げた

,

「この男は 死んでい る

!」

女は ぎ ょっと して立 ち上 が り, 両 手を打 ち合わ せた。 「ああ,そん な ことを 言わ ない で下 さい」 ほ とん ど狂 知 こ至 らんばか りに感情 を爆発 させ て彼女 は叫 んだ

,

「ああ, そ んな こと を言わ ないで下 さい。耐え られ ない。何人 もの人間が これ まで生 き返 ったの です,能 力のな い人 々が も うダ メだ と諦 めた時 に。 そ して何人 もの人 間が死 んで しま った のです, 適 切な処 置 が取 られ ていれば ひ ょっとした ら助か ったか も知れ ない ものを。助 け ようと もしない で, そ こに寝 かせた ままに しておか ない で下 さい .′ この瞬 間 に も命 が消えかか ってい るか も知 れ ない んです。 さあお願 い します , さあ後生 だか ら

.

」そ して訴え なが ら,女 はせ きた てら れ る よ うに, 目の前 に横 たわ る感 覚 の ない体 の, まず糖 を,次に胸 を こす った。 それ か らそ

(9)

の冷たい左右 の手を激 し くたたいたが,握 りをゆ るめ る とそれは力な くぐった りとベ ッ ド・ カバ ーの上 に落 ちた. 「無駄 です よ,奥 さんJ男の胸 か ら手を離 しなが ら, なだめる よ うに医者は言 った

,

「ち ょ っと待 って- その カ-テ ンを開けて

/」

「ど うして

?

」立 ち上 が りなが ら女は言 った。 「その カーテ ンを開けなさい

/

」激 しい 口調 で彼は繰 り返 し言 った。 「私 はわ ざ と部屋を暗 くしてい るんです」 開け よ うとして立ち上 が る彼の 前 に身を投げ

して女 は言 った

,

「おお, ど うか私に哀れみを / 何 を しても無駄 なら, 本 当に彼が死 んで い るのなら,私以外 の人 の眼 にそ の姿 を さらさないで

.

′」

「この男の死に方 は 自然で単純 な もの じゃない」と医者は言 った

,

「死体 を調べ な くては

.

′」

動 きが とて も急だ ったので,女がほ とん ど気づ かない うちに,医者は女 のそばか らす り抜 け て行 って, カーテ ンを引 き裂 くよ うに開け, 白昼 の光をい っぱいに入れ て,ベ ッ ドの ところ -戻 って来 た。 「ここで何 か 暴力沙汰があ ったのです」 と死体 を指 さしなが ら彼は言 うと, この時 に な っ て初めて黒 いベ ールの外 された婦人 の顔 を じっと見つめた。ほんの一瞬前 の立 ち 回 りの 中 で, この女性は帽 了.とベ ールを脱 いでしまい,今 や立 ち尽 して,眼は死体 に釘付 けに され て いた。女 の預 だちを見れば50歳 くらいで,かつ ては美 しか ったに違 い ない。悲 しみや数 々の 涙 がその痕跡 を顔 に残 していたが,それは年齢 だけではで きるはず の ものでは なか った。顔 は死 んだ よ うに青 白 く,唇は緊張 してゆがみ,眼 には不 自然 な輝 きがみ られ たが,それ らを 見れば余 りに もは っき りと,彼女の肉体 的そ して精神 的な力が長年 に及ぶ悲惨 な経験 のため にほ とん ど失 くな りかけてい ることがわ か った。 「ここで何 か暴力沙汰があ ったのです」 と彼は探求す る よ うな眼 差 しを続 けなが ら言 った。 「そ うなんです

!

」 と婦人は答えた。 「この男は殺 されたのです

「神 も間違 い な くご存知 なはず ですが,彼は」 と婦人は激 して言 った

,

「無慈悲 に,非人 間 的に殺 され て しまったのです !

「誰に です ?」婦人 の腕 を取 りなが ら医者 は言 った。 「その人殺 しの しるLを見 てか ら,私に聞 いて下 さい !」 と彼女は答えた。 医者はベ ッ ドの方へ顔を向け ると,今や 白 目の もとに さらされ て横 たわ ってい る死体 の上 にかがんだ。喉元はふ くらみ,鉛色の しるLが首の周 りにあ った。真相が突然彼 の頭 にひ ら 姥)いた。 ;一二の男:三今朝絞首刑 に され た人間のひ と りなんだ

.

」 と彼は

n

帰 二と, 震 え なが ら顔 をそ むけた。 「その通 りです」 と婦人は冷た く無表情 な眼を して答えた。 r一体誰 なのですか」医者はたずねたO 「私の息子です」婦人は応答 した。そ して彼 の足 もとに気を失 って倒れた。

(10)

そ の通 りであ った。 ひ と りの仲間 は,彼 と同 じ く罪 を犯 した のだが ,証拠 不十 分 で放 免 さ れ てい た。 そ して この男は死刑 と宣 告 され ,処 刑 され た。 この事 件 の い きさつ を詳 し く話 す こ とは こん なに時 が た ってい る今 無用 な こ とで あ るに違 い ない し, また , まだ生存 してい る 何 人 か の人 間 に とっては苦痛 に な ろ う。 これ は よ くあ る話 だ った のだ。 母親 は友 人 も金 もな い未 亡人 で ,父親 の ないわ が 子 に与 え よ うと自分 に必 要 な もの まで我 慢 してい た。 当 の少年 は ,母親 の切 な る思 いを気 に も留 めず , 自分 のた め に数 々の苦難 を耐 え忍 んで くれ た- 母 親 は心 では絶 え間 な く気遣 い ,体 も進 ん で節食 しては や せた- こ とも忘 れ て,放 蕩 と犯 罪 の生 活 に飛 び込 ん で しま う。 そ して こん な結果 とな って しま った。息 子は絞 苫刑執 行人 の手 に よ り死亡 ,母親 は恥 辱 の余 りに ,取 り返 しのつ か な い狂 気 に陥 い る。 この事 件 以後何 年 もの間 , そ して儲 けが よ くで 首の折 れ る職 業 を していれ ば ,多 くの人 の 場 合, この よ うな悲 惨 な事 が実 際 に あ る こ とさえ 忘れ て しま ってい る時 に な って も, この若 い外 科 医は,他 人 に無 害 で気 の狂 った この婦人 の も とを毎 日訪れ てい た。 や って来 ては 優 し くす る こ とで婦人 を ただ慰 め るば か りでは な く,安 心 や支 え に と決 して ケチ ケチせず にお金 を与 え ては生 活条 件 の厳 し さを軽減 してや った。 彼 女 が息 を引 き取 る前 に束 の間 の き らめ き の如 く過 去 を回想 し意 識 を取 り戻 した ときに, この世 に生 を受 け た どん な人 間 に も劣 らぬ熱 烈 な祈 りが,彼 の幸福 と神 の恵 み のため に, この貧 し く友人 の なか った人 間 の 唇か ら唱 え ら れ た。 そ の祈 りは天 に まで届 き, 聞 き入れ られ た。 彼 が人 の ため に成 した行 ないは千 倍 もの 祝 福 とな って彼 に返 され た けれ ど,生涯 の うちに彼 の も とに績 み 重 ね られ た り自ら勝 ち得 た 地 位 や身分 な ど数 多 くの名誉 の中 で も,彼 の心 に満 足 を与 え る ものは , あの 「黒 い ベ ール」 に まつわ る思 い 出をお い て他 には考 え られ なか った。 注

(1) この少年は教会(parish)の救

,lJi(workhouse)に収容 されていた。救貧院 とは貧尺法(PoorLaw) に よって定め られた貧民収容所だが, ここで10歳 くらいに成l三すると, このように奉公のような形 で出所することが多かった。

(2) 本来 ロン ドンの一部ではな く,181朋己まではただ沼の多く排 ,'Jlの悪い地域で しかなかったが,19 日周己に入 り鉄道網の急速な広が りと共に郊外の垂要地のひ とつ となった。 サマース ・タウンJPキ ャ ム:)-1ン ・タウンと渡んで大規模なニュータウンのひ とつo

(3) バーク, ビショノ-/(Burke,Bishop)ともに19t1増加台めのイギ リスを恐 怖に巻き込んだ犯罪人。 いずれも解剖用の死体として売るために殺人を重ねた。バークは窒息, ビショップは溺死を手11と

したが,1829年 と1831年にそれぞれ処刑 されたo以来,人を窒息死 させること,また比職 的な意味 で,だまらせた りうやむやに葬ることを `burke'(動詞) と言 うようになった。

参照

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