「アラブの春」とベン・アリーの亡命 (特集 亡命
する政治指導者たち)
著者
ダルウィッシュ ホサム
権利
Copyrights 日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア
経済研究所 / Institute of Developing
Economies, Japan External Trade Organization
(IDE-JETRO) http://www.ide.go.jp
雑誌名
アジ研ワールド・トレンド
巻
209
ページ
5-8
発行年
2013-02
出版者
日本貿易振興機構アジア経済研究所
URL
http://hdl.handle.net/2344/00003770
一.チュニジアの民衆蜂起と
ベン・アリーの出口戦略
二〇一〇年一二月にチュニジア で始まった民衆蜂起は、翌年一月 にザイヌ ・ アル=アーブディーン ・ ベン・アリー政権を崩壊させ、ア ラブ世界の他の国々での民衆蜂起 発生の引き金となった。当時二六 歳だった無職の青年ムハンマド ・ ブアズィーズィーが、青果物を売 る荷車を警察に没収され暴行を受 けたことに抗議して、警察署の前 で焼身自殺を図った。ブアズィー ズィーの死を契機に、チュニジア 中で抗議運動が発生した。この事 件は、チュニジアの人々の政治的 自由や政治参加の機会の欠如に対 する不満だけでなく、失業、物価 上昇、政権の腐敗、特にベン・ア リー一族と夫人による汚職に対す る怒りに火をつけたのである ⑴ 。 抗議運動が全土に広まるにつれ 、 治安部隊はデモ隊を激しく弾圧 し、実弾を使用して五〇人以上を 殺害した ⑵ 。この暴力的な弾圧の 結果、抗議運動に参加する人々は チュニジア全土で数千人規模に膨 れあがり、首都チュニスの内務省 前で大規模なデモが行われた ⑶ 。 ベン・アリーは国外逃亡を図る 前に、事態を収拾しようと三回の 演説を行った。 これらの演説から、 民衆蜂起に対する強硬な姿勢が 徐々に変化する様子がうかがえ る。最初の演説では、雇用の拡大 を約束しつつ、一〇日に及ぶ抗議 運動を﹁過激派と傭兵からなる少 数派﹂の仕業だとし、抗議運動に 対し断固とした行動をとることを 強調した ⑷ 。二回目の演説では 、 失業問題への対策を具体的に取り 上げ、三〇万の新しい雇用を生み 出すことを約束すると同時に、抗 議運動に対しては、デモ参加者が ﹁テロ攻撃﹂をしているとして 、 より強硬な対策をとると宣言し た 。しかし 、三回目の演説では 、 懐柔的な調子に変わり、チュニジ アの大統領として初めて正則アラ ビア語ではなくチュニジア方言で 演説を行った ⑸ 。ベン ・ アリーは、 二〇一四年の大統領選挙に出馬し ないことを誓い、治安部隊に対し てデモ隊に実弾を使わないよう要 請したと訴えた。そして、チュニ ジアの混乱の責任は自分にあると しながら、 顧問たちに﹁欺かれた﹂ と訴えた。この三回目の演説と非 常事態令をもってしても事態を収 拾できないことが明らかになる と、翌日ベン・アリーはフランス に逃亡を図るが入国を拒否され 、 最終的にサウジアラビアに亡命し た。テレビで放映された三度目の 演説は、人々の記憶に残るものに なるだろう。ベン ・ アリーは、 ﹁私 は国民感情を理解している、そう とも、 理解している﹂と述べ、 ﹁ 報 道と全ての報道チャンネルの自由 を認め、インターネット上のサイ トの遮断はせず、インターネット のいかなる監視も行わないと決断 した﹂と宣言した。そして﹁終身 大統領に反対﹂という一九八七年 に無血クーデターで権力を握った 時と同じ誓いを繰り返した。 ベン ・ アリーは、大統領の座に留まるた め、これまで幾度も憲法を書き換 えてきたが、ここに至って憲法で 定められた七五歳という大統領の 年齢制限を引き上げることはしな いと誓い、二〇一四年に大統領に 再選される可能性を否定した。三 回の演説で少しずつ妥協していく 姿勢から、ベン・アリーが次の二 点を徐々に理解し始めたことを示 している。ひとつは、 体制がベン ・ アリーを守る意図が無いという点 であり、二つ目は勢いづく民衆蜂 起を止める力を失っているという 点である。 こうした約束や誓いをしても 、 民衆の怒りをなだめることが出来 ないと分かった時、独裁者は出口 戦略を考える。 ベン ・ アリーがチュ ニジアから逃亡した際、研究者た ちは次に逃亡を図るのは誰かと思特
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政治指導者たち
案した。ベン・アリーに続き、二 〇一一年二月にはエジプトのム バーラクが失脚し、同年一〇月に はリビアのカダフィーが殺害さ れ、二〇一二年二月にはイエメン のサーレハが辞職した。バーレー ンの国王に対しても民衆蜂起が起 こったが、海外からの介入と米国 との強固な関係により、変革の動 きは今のところ止まったままであ る。シリアのアサド体制は、反政 府勢力との戦闘を続けており、崩 壊の瀬戸際にあるが、アサドは権 力を手放すことを拒絶し続けてい る。これらの全ての独裁者のなか で、国外への長期間の亡命を図っ た、もしくは亡命をすることが出 来たのは、ベン・アリーだけであ る 。﹁アラブの春﹂がこのような 違いをもたらした理由は何なのだ ろうか。 ベン・アリーのケースが異なる のは、第一に、軍や治安部隊がベ ン・アリーを擁護しないことを明 確にした点である。軍も治安部隊 も、大統領の側に立って民衆蜂起 に立ち向かうとベン・アリーに思 わせることはなかった 。第二に 、 ベン・アリーは早い段階から軍よ りチュニジアを出国する保証を得 ていたことがある。このため、ベ ン・アリーは国際刑事裁判所︵I CC︶で追訴されるような残虐行 為を行うことに弱腰となった。も しベン・アリーがICCで追訴さ れるような状況であれば、国際社 会は、ベン・アリーを平和的に亡 命させることはないと言っただろ う。その場合には、ベン・アリー は出口戦略を考え直したかもしれ ない。しかしベン・アリーは、自 らの行った行為に対する説明責任 を果たすことなしに、権力を手放 すチャンスがあったのだ。米国の 強い同盟国であり、ICCの加盟 国でないサウジアラビアに亡命す ることで、ベン・アリーは確実に 保護されることになった。ICC への加盟は選択制であり、中東ア ラブ世界に強い影響力を持つ米 国、ロシア、中国などの国連安全 保障理事会の常任理事国はICC に加盟していない。つまり、これ らの強国のパトロンがあれば、独 裁者が自国で刑事犯罪を犯して も、これらの国が拒否権を行使し ICCに追訴される可能性は極め て低いということだ。第三に、ベ ン・アリーは治安部隊のなかから の裏切り、特に大統領警護の長で あるアリー ・セリヤーティ ︵ Ali Seriati ︶によるクーデターを警 戒していた ⑹ 。ベン ・アリーは 、 治安部隊に対する不信感と軍の中 立姿勢によって孤立してしまった のである。 民衆蜂起に対するベン・アリー の対応に影響を与えた重要な要素 は、第一にベン・アリー政権と軍 の関係と治安部隊の忠誠の度合 い、そして第二に、処罰を受けず に逃亡できる可能性であった。つ まり、現代社会で独裁者が逃亡を 決意する時、彼らは長期間滞在出 来る安息の地と 、﹁国際社会﹂の 圧力のもと﹁法の裁き﹂を逃れら れるように保護を探し求める必要 があるのだ。
二.ベン・アリー体制と
軍の関係
中東・北アフリカ地域の国々で は、軍は体制の中枢を担うケース が多い。軍は、 支配者の側に立ち、 先立って支配者を守る機関である と広く認識されている。しかしア ラブ世界を駆け巡った﹁アラブの 春﹂は、全ての軍が支配者の側に 立つわけではないことを明らかに した。 二〇一〇年一二月に始まったア ラブの春の様々に展開のなかで 、 軍の立ち位置は極めて重要であ る。軍がどのように民衆蜂起に対 応したかによって、アラブ大変動 の展開と各体制の反応の方向性が 左右されてきた。軍を直接統制す る指導者たちは、抗議運動を鎮圧 するため、軍事力を行使すること も辞さなかった。チュニジアとエ ジプトでは、軍は体制の移行を促 進した 。リビアとイエメンでは 、 軍は分裂しつつも決定的な役割を 果たした。シリアでは、軍は体制 側と反体制側に分かれ、戦闘が続 いている。 チュニジアの転換点は、 軍参謀長のラシード・アンマール ︵ Rashid Ammar ︶将軍が 、抗議 運動参加者に対して発砲せよとい う大統領命令に従うことを拒絶し た時だ。数日後、チュニジアの軍 は総じてベン・アリー政権とその 治安部隊に対して背を向けること になる。ベン・アリーに反対の立 場を取り、ポスト・ベン・アリー 体制のチュニジアにおいて政治に 関与しないという軍の姿勢は、軍 が政治化された機関ではないこと を示している。言い換えれば、ベ ン・アリーはイデオロギー的にそ して強制的に自身の支配を確立す る目的で軍を利用しなかったとい うことだ。軍がコオプテーション ︵取り込み︶と国民の支配のツールとして政治的に利用されている 国では、軍は体制の側に立って戦 う可能性が高い。なぜなら、軍そ のものの存続が体制の存続に直結 しているからだ。チュニジアとエ ジプトでは、軍は政権の直接の統 制下になかった。両国の軍は、こ こ数十年の間、異なる理由で政治 から排除されていた。エジプトで は、軍は巨大な民間経済アクター になった一方、チュニジアにおい ては、ベン・アリーはクーデター を恐れ 、軍の規模を小さく抑え 、 経済的にも疲弊させた。エジプト の軍とは異なり、チュニジアの軍 は約三万五〇〇〇人と非常に小規 模で、実戦の経験がない軍であっ た ⑺ 。 ベ ン ・ アリーは、 軍ではなく、 良く訓練され装備された自身の治 安部隊を優遇した 。このことで 、 ベン・アリーは、軍を政治システ ムに取り込むことに失敗し、軍は 体制から自立した機関となったの である。このことが、チュニジア で民衆蜂起が起きた際、軍にはベ ン・アリーが築きあげた政治体制 を守るインセンティブがほとんど 無かったことを説明している。
三.亡命先の選択
︱サウジアラビア︱
アラブ人権情報ネットワーク ︵ ANHRI : The Arab Net-work for Human Rights Infor -mation ︶は 、サウジアラビアが ベン・アリーを匿うことを批判し た。サウジアラビアは、過去にも ウガンダのイディ・アミンとパキ スタンのナワーズ・シャリーフを 受け入れており 、 ANHRIは 、 サウジアラビアが﹁独裁者の避難 所﹂になっていると警告した。 アラブの部族の慣習として、救 済を必要とする者には、その背景 に関わらず避難所を提供するとい う伝統がある。 アラビア半島では、 ずっと以前からこの慣習が続いて おり、ムスリムの聖典であるコー ランにも、避難場所を求める人々 にどう対応すべきかについて明言 されている。しかし、サウジアラ ビアがなぜベン・アリーを匿った のかを、これらの点だけで理解す る こ と は で き な い 。 も し カ ダ フィーやアサドがサウジアラビア に亡命を図ろうとしたと考えた場 合、サウジアラビアがこれを受け 入れたかどうかは大きな疑問だ。 ベン・アリーを含め、これらの 全ての独裁者は、サウジアラビア に亡命するため、政治とメディア をシャットアウトするというサウ ジアラビア亡命の条件を受け入れ る必要があった。いかなる政治的 活動も行わず、もしも政治に復活 したい場合には、サウジアラビア を出国しなければならないのであ る。この例としては、パキスタン のナワーズ・シャリーフ元首相が 挙げられる。彼はペルベズ・ムー シャラフに失脚させられ、二〇〇 〇年に追放されてサウジアラビア に渡った。そして二〇〇七年に政 治の世界に戻ることを決めた時 、 サウジアラビアを去った。 サウジアラビアはベン・アリー にとって安息の地といえるかもし れない。サウジアラビアでは、全 ての海外預金口座へのアクセスが 可能であり、 さらに安心なことに、 サウジアラビアは、ベン・アリー を匿うことの国際的な波紋を心配 していない。なぜなら、アルジャ ジーラやアルアラビーヤのメディ ア・チャンネルと親密な関係があ るからだ 。これらの二つの巨大 チャンネルは、もちろんサウジア ラビアやバーレーンで起こったア ラブの春を報道することはなかっ た。西欧諸国のメディアも、サウ ジアラビアで起こった民衆蜂起を 報道することは無く、アラブの春 のなかの一部は強調して報道し 、 一部はあまり取り上げていないと いうのが実情である。ただし、こ の安息を維持するには重要な条件 がある。 ベン・アリーはサウジアラビア に逃れてから、テレビに一切登場 せず、一度も声明を出さず、チュ ニジアにいる忠実な家臣に連絡を 取ることも許されず、移行期にあ るチュニジアにおいて一切の影響 力を行使していない。サウジアラ ビアでの安全はこの条件を守って いられる限り、そして他国への亡 命を望んだり、チュニジアの経済 を牛耳っていたベン・アリーの妻 も同様のサウジアラビア亡命の条 件に従う限りにおいてのみ保証さ れている。これらの条件を良く考 えてみると、サウジアラビアに滞 在するベン・アリーは、亡命中の 指導者というよりも、まるで贅沢 な暮らしを送る拘束された政治犯 により近いともいえよう。 ベン・アリーはこれまでのとこ ろ、政権の座に居た間にチュニジ アの人々に行った数々の行為に対 する免責を手に入れ、サウジアラ ビアで長期間の亡命生活を送ると いうオプションをみつけた。サウ「アラブの春」と ベン・アリーの亡命
ジアラビアは、アラブの春を封じ 込めようとする﹁反革命﹂の一部 とみなされている。しかしサウジ アラビアは、ベン・アリーに亡命 先を提供することで、中東アラブ 地域におけるさらなる大虐殺を防 ぐことに貢献したと考えているの だ。ベン・アリーがチュニジアか ら逃亡したことで、ベン・アリー の治安部隊によるデモ隊への激し い弾圧に終止符を打ったのであ る。
四.おわりに
独裁者がいつ、どのような条件 で亡命を選択するかは、一般論と して議論することはできない。な ぜなら、これまで説明してきたよ うに、これは独裁者個人の選択で はなく、体制の構造、軍と体制の 関係、エリートとの信頼関係の有 無、独裁者の側近が体制を守るた めに闘う用意があるかどうかな ど、 様々な要素が影響するからだ。 ベン・アリーの事例から学び取れ るのは、亡命の決断は早ければ早 いほど独裁者にとって都合が良い ということだ。どの段階で体制に 見放されるか、ICCに追訴され るような虐殺行為を行っている か、そして西側諸国や強国のパト ロンがあるかどうかが、亡命を考 える際の要点となるのである。 ︵ Darwisheh Housam /アジア経済 研究所 中東研究グループ︶ ︽注︾ ⑴ . R o u la K h a -la f, “ Lo o ter s s tr ip homes of B e n A li rela tiv e s,” J a n u a ry 1 6 , 20 1 1 ; T h e N e w Yo rk T im e s. DA V ID D . K IR K P A T R IC K , “B e hind T unisia Unre st , R a g e Ove r W e a lth o f R u lin g F a m i-ly .” J a n 1 3 , 2 0 1 1 . h ttp :/ /www . n y ti mes .com /2 0 1 1 /0 1 /1 4 / w o r ld /a fr ica /1 4 tunisia . ht m l? p age w ant e d = al l& _r = 0 (a ccessed M a rch 1 1 , 2 0 1 1 ). ⑵ (BBC). “ Dozens killed' in T unisia's protests. ” 1 1 January 2011. http://www . bbc.co.uk/news/world-afri-ca-12162096 (accessed F eb 17 2011). ⑶ Al A ra b iy a . J a n u a ry 1 4 , 2 0 1 1 . h tt p :/ /www .a la ra b iy a .n e t/ a rt i-c le s/ 2 01 1 /01 /1 3 /13 3 4 13 .h tm l (a ccessed F ebr u a r y 2 6 , 20 1 1 ). ⑷ ( B B C) . “ T unisia closes sc h o o ls an d u n ive rs it ie s fo l-lo w ing riots .” J a n u a r y 1 0 , 2 0 1 1 . h tt p :/ /www .b b c .c o .u k / ne w s/ w or ld-a fr ica-1 2 1 5 5 6 7 0 (a c c e ss e d F e b 1 8, 2 0 1 1) . ⑸ . Y a sm in R y a n , “T u n is ia p re sid e n t n o t to r u n agai n” J a n u a r y 1 4 , 2 0 1 1 . h tt p :/ /w w w .a lj a z e e r a .c o m / n e w s /a fr ic a /2 0 11 /0 1 /2 0 1111 3 1 9 2 1 1 057 0350 .h tm l (a c -cessed F eb 2 nd , 2 0 1 1 ). ⑹ . Borzou Daragani, “ Ben Ali feared betrayal by inner circle ” January 12, 2011. ⑺ . “ T unisian army emerges strong from people's revolt ” January 20, 2011. http://eng lish.ahram. org.eg/News/4420.aspx (ac-cessed 16 January , 2011). ︽参考文献︾ ① Michael J. Willis 2012. ② 酒井啓子 ︵編︶ ﹃中東政治学﹄ 有斐閣。 ③ Beatrice Hibou 2011. T he F orce of Obedience. The P olitical Economy Of Re-pression In T unisia. UK: P olity Press. ④ Muriel Mirak-weissbach 2012. Madmen at the Helm: P a tholog y and P o litics inthe Arab Spring. UK: Ithaca.
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