著者
下原 美保
雑誌名
鹿児島大学教育学部研究紀要. 人文・社会科学編
巻
61
ページ
29-41
発行年
2010
別言語のタイトル
The thirty-six poetic immortals that belonged
to the Atago Shrine
愛宕神社旧蔵「三十六歌仙絵扁額」について
下 原 美 保
(2009 年 10 月 27 日受理)
The thirty-six poetic immortals that belonged to the Atago Shrine SHIMOHARA , Miho
要約
愛宕神社旧蔵「三十六歌仙絵扁額」︵ 以下、愛宕本とする)は、その裏面の銘より、島津義虎 (1536-1585)が天正5年(1577)6 月 24 日に同社へ奉納したものであることがわかる。制作依頼、 発注の経緯などについては不明な部分が多いが、当時、薩摩と京都を往来し、天正 3 年(1575)、 同 5 年(1577)に出水の専修寺へ立ち寄っている近衛前久(1536-1612)が、島津義虎から依頼 を受け、制作させたのではないかと推測される。 絵画部分の作者については不明であるが、『高山大川神社仏閣産物名所旧跡帳』(天保 12 年・ 1841)には「狩野□□」と記されている。画風については、歌仙の容貌などに中世的な古拙さを 見いだすことができる。 天正年間以前に制作された三十六歌仙絵扁額は全国的にも非常に少なく、注目すべき作品とい える。 キーワード:三十六歌仙絵扁額・天正5年・近衛前久・尊朝法親王・島津義虎 * 鹿児島大学教育学部 准教授はじめに 三十六歌仙絵は、歌仙崇拝の風潮と似絵の流行により、鎌倉時代から盛んに制作されるように なる。これらの多くは、巻子形式のものであったが、室町時代に入ると扁額に描かれるものが増 え、神社に奉納されるようになった。「人の心のあわれを深くとどめる和歌は、神仏をなぐさめ る意味がかけられている」と考えられたからである(注 1)。 現在までに確認されている最も古い三十六歌仙絵扁額の例は、白山神社(長寿寺鎮守社蔵 以 後、白山本と称する)のもので、永享 8 年(1436)に奉納されている。また、同じく室町時代の 作例としては、常陸総社宮の例(文亀 2 年・1502)が確認されているが、その前後の作例は乏し く、全国的にみても数例を数えるに過ぎない(注2)。 九州の現存例としては、天正 18 年(1590)に奉納された宗像大社の例(以後、宗像本と称する) が殊に有名である。宗像本は、年代の古さはもとより、「州信」印を有し、作風からも永徳周辺 作が想定されるため、これまでにも度々注目されてきた。 本論で考察する愛宕神社旧蔵「三十六歌仙絵扁額」(以後、愛宕本と称する)は、昭和 46 年 7 月 10 日に出水市指定有形文化財となり、現在、出水市歴史民俗資料館に保管、展示されてい る。愛宕本は宗像本より 13 年早い天正 5 年(1577)に同社へ奉納されたことが確認されるため、 注目される機会も少なくなかった。古くは『高山大川神社仏閣産物名所旧跡帳』(天保 12 年・ 1841)や『出水風土誌』(中村一正著 大正 4 年 3 月)、近年では『出水郷土誌』(出水市郷土誌 編集委員会 昭和 43 年 9 月)や『出水の文化財 史跡と文化財 改』(出水市教育委員会編 平 成 6 年 10 月)等(注 3)に愛宕本についての見解が述べられ、伝承も含めた情報が少なからず提供 されている。しかしながら、絵師の特定など、解決し難い課題も多く、歌仙絵そのものについて の考察もあまり多くない。よって本論では、これら先学の研究を手がかりにしながら、愛宕本の 制作経緯及び画風についての考察を加えていくこととする。 1 愛宕神社旧蔵「三十六歌仙絵扁額」の現状 愛宕神社旧蔵「三十六歌仙絵扁額」(現 出水市蔵)(図 1-1~35)は、山部赤人を除く公任撰 の三十五人の歌仙(柿本人麿、凡河内躬恒、大伴家持、在原業平、素性、猿丸太夫、藤原兼輔、 藤原敦忠、源公忠、斎宮女御、藤原敦之、源宗于、藤原清正、藤原興風、坂上是則、小大君、大 中臣能宣、平兼盛、紀貫之、伊勢、遍照、紀友則、小野小町、藤原朝忠、藤原高光、壬生忠岑、 大中臣頼基、源重之、源信明、源順、清原元輔、藤原元真、藤原仲文、壬生忠見、中務)と、そ の和歌が記されている。扁額の材質については、木目の特徴より楠材と推測される。また、寸法 については表 1 に、和歌については表2に掲載したのでご参照いただきたい。 先に述べた通り、この三十六歌仙絵扁額は、かつて愛宕神社(出水市)の所蔵であった。同社 は、応永年間(1394-1428)に亀ヶ城初代の薩州家島津用久(1401-1459)により建立された神社で、 愛宕本を奉納した第 6 代当主義虎(1536-1585)も厚く崇敬していたという。
現在は木箱に収められているが、箱裏書に「従前ノ物紛失付き 明治四十二年 閏二月/□四 月 改之」とあり、箱自体はこの時作成されたことがわかる。 2 制作背景 (1)奉納の経緯と絵画・和歌の筆者について 愛宕本の紀貫之、柿本人麿以外の裏面には、奉納された年と奉納者を記した裏書が残る。例えば、 中務の裏面には「奉寄進愛宕山大権現御寶前 藤原義虎 天正五年丁丑六月廿四日」(図 2)とあり、 愛宕本が先の島津義虎(1536-1585)により、天正 5 年(1577)6 月 24 日に同社へ奉納されたこ とがわかる。 また、紀貫之の裏面には「天正第 暦夷則朔日遺堂上藝無品親王(花押)記之」(図 3)と、 柿本人麿の裏面には「天正四年七月一日 臨池末流親王(花押)記之」(図 4)とある。「藝無品 親王」(注 4)及び「臨池末流親王」が具体的に誰を指すのか不明である。しかしながら、花押その ものの形状(図 5)は、伏見宮邦輔親王の第六皇子尊朝法親王(1552-1597)のそれに近く、「尊 朝法親王書状」(東北大学付属図書館蔵)に記された花押と比較しても(注 5)、筆の打ち込み部分 や筆運びなど、両者の特徴は近似している。同親王は、能書の聞えが高く、『墨池掌譜』や『手 習十三ヶ条記』などの著作もあり、また、狩野光信筆橋弁慶の絵馬に脇書を記した記事(注 6)も『華 頂要略』巻第十三「龍池院二品法親王」の項に見出せる。 しかし、この花押に関しては一考を要する部分もある。それは、花押の下に「記之」と記した 点である。このような表記自体あまり多くの例をみない。よって、花押筆者の断定については、 今しばらく保留にしておきたい。 次に、愛宕本の制作背景について考察してみたい。天保 12 年(1841)に記された『高山大川 神社仏閣産物名所旧跡帳』愛宕神社の項には、下記のような記事が見いだせる。 一愛宕 上鯖淵 大田 (中略) 一愛宕山之儀ハ義虎別て被成御崇敬御堂之由候、其故ハ義虎為御寄進被成御造立、狩野□□筆、 近衛様御自筆ニて歌仙三拾六枚、天正五年丁丑六月廿四日被成御寄進候、尤近衛様御銘書天 正四年七月一日臨池末流親王ト御判形迄御座候、 ここでは、愛宕本が 1)島津義虎によって天正 5 年 6 月 24 日に寄進されたこと、2)絵画は狩 野□□が手がけ、3)(和歌は)近衛様が揮毫したこと、4)天正 4 年 7 月 1 日に近衛様が銘を記し、5) 臨池末流親王の御判形があることが記載されている。1)の義虎寄進と 4)の天正 4 年 7 月 1 日の銘、 5)の臨池末流親王の御判形については、愛宕本紀貫之・柿本人麿の裏書と一致する。 2)の絵画を手がけた狩野□□なる絵師については、現在のところ不明であるが、同書の武本 村山崎の住吉(社)の項に、 天神絵像一幅
狩野□□入道嘉吉筆、右願主田野伊与守藤原祐乗 天正十六年戊子八月吉日 とあり、同一人物と推測される絵師の名前が見出せる。奉納から 11 年後(1588)、同地に天神像 を描いたというものである。また、『出水風土誌』の山崎天神の項にも「官公繪像一幅」とあり、 筆者を「狩野入道永吉」としている。本書には同じ名前の絵師「永吉」が、上出水村の箱﨑八幡 宮の棟札写しにも見出せる。この棟札は永禄 5 年(1562)に記されたもので、扉絵の絵師として 「狩野縫殿助藤原永吉」の名が記されている。『高山大川神社仏閣産物名所旧跡帳』のように、狩 野入道「嘉吉」を名乗ったのか、あるいは『出水風土誌』のように「永吉」なのか、さらには、 同地を中心に活動していた絵師なのか、あるいは中央の絵師なのか、今のところ手がかりがつか めない。しかしながら、同地において、愛宕本奉納の前後に狩野を名乗る絵師の存在が確認され ることは非常に興味深い。 ところで、和歌を担当した 3)4)の近衛様とは誰を指すのであろうか。最もその可能性が高 いのが、当時、薩摩へ下向した近衛前久(1536-1612)である。 前久は、五摂家筆頭の近衛家に稙家(1502-1566)の長男として生まれている。しかしながら、 上杉謙信(1530-78)と盟約を結んで関東へ下り、織田信長(1534-82)の意を受けて石山寺本願 寺との講話に貢献、また、豊臣秀吉(1536-98)の関白就任にあたっては自分の猶子とするなど、 武家社会にも大きく関わった貴族である。島津家とも関係が深く、薩摩にも下向している。天正 3 年(1575)からの下向では、12 月 25 日から翌4年(1576)3 月 17 日まで出水の専修寺へ滞在 しており、帰国の際の同年 7 月 2 日から 8 月 22 日にもやはり同寺に立ち寄っている(注 7)。前久 の九州下向の目的については、織田信長の要請により、大友氏、伊東氏、島津氏の和議をはかる ためであったと推測されている(注 8)。 専修寺滞在時に近衛前久を遇したのは、当地を領し、愛宕本を奉納した島津義虎であったと考 えられる。前久は専修寺での接待に満足し、天正 4 年 3 月 3 日に当寺を「勅願所」として定めて いる(注 9)。 以上のことより、愛宕本が奉納された天正5年(1577)6 月には、両者はすでに旧知の間柄であっ たと考えられる。 愛宕本がどのような経緯で奉納されたのかについては未だ不明であるが、島津義虎が三十六歌 仙絵扁額の制作依頼を直接中央の絵師や能筆家に行ったとは考えにくいため、近衛前久が義虎の 依頼を受け、制作者との仲介役になったと推測されよう(注 10)。 (2)歌仙絵の画風について 愛宕本では背景に黄土色の顔料が塗られ、画面上部に和歌を記した色紙が二枚、下方には上畳 に座ったそれぞれの歌仙が描かれている。これらは剥落が激しいため、一見すると古拙な表現に も見える。確かに輪郭線や衣紋線は肥痩に乏しく繊細さに欠けている。しかしながら、顔面部に 注目すると、朱の下線の上から墨線による描きおこし線が引かれ、眼窩や鼻の脇、顎の輪郭など
は朱で立体的にぼかされている。女性の上瞼を描く際は一筆で描かず、何本かを引き重ねて睫を 表現し、男性の眉や髭も淡墨の細線で比較的丁寧に描き込まれている。衣装に注目すると、烏帽 子や黒い直衣の衣紋線、文様などには薄墨による堀塗りが施され、愛宕本を描いた絵師が伝統的 な描法を学んでいたことが伺える。 また、衣装の文様も大柄ではあるが丁寧に描かれ、部分的には金泥が用いられている。構図に ついては、通常の歌仙絵に比べ、縦に長い画面であるため(縦 44.4㎝~ 45.0㎝横 26.3㎝~ 26.9㎝)、 小大君や小野小町、伊勢などの十二単の裾は画面上方に不自然に跳ね上がっており、画面処理に おいては丁寧さを欠いている。 歌仙、特に女性のプロポーションに注目すると、体躯に比して頭部の割合が大きい点が目立つ。 近世の歌仙絵は、より小顔で体躯のバランスがとれているのに対し、先に触れた白山本(永享 8 年〔1436〕)奉納)や、大生郷天満宮の「三十六歌仙絵扁額」(天正 4 年〔1576〕)10 月奉納)など、 中世末の歌仙絵では愛宕本と同じ特徴が指摘できる。 また、神社に奉納された歌仙絵ではないが、愛宕本の画風に近い作品として、「詠歌之大概 歌仙図」(作者不詳 陽明文庫蔵)(注 11)が挙げられる。本図は掛幅に、人麿、貫之、忠岑、定 家、小町、伊勢の六歌仙が描かれ、画面上方には賛が記されている。着賛したのは、三条西実隆 (1455-1537)の嗣子公條(1487-1563)である。公條が着賛した年は不明であるが、その生没年 より愛宕本とほぼ同時代に制作されたと考えられる。 両者の類似点は、体躯に比して頭部が大きい点、特に女性の歌仙に特有なのっぺりとした顔貌 表現である。例えば、伊勢や小野小町といった女性の歌仙の場合、ポーズや衣装は異なるものの、 額が長く豊頬である点などに共通部分をもつ。周知の通り、陽明文庫は近衛家の古典籍や古文書 を蔵する文庫であるため、「詠歌之大概歌仙図」も近衛家の依頼によって制作された可能性が高い。 ただし、両者を比較した場合、愛宕本の描写は「詠歌之大概歌仙図」より略筆で描かれ、衣紋 線に堅さが残る。扁額と掛軸という形状の違いも関係するが、衣装における文様へのこだわりも、 本歌仙図の方が強いといえる。 尚、同時代の狩野派の絵師としては、狩野松栄(1519-1592)や、その長男永徳(1543-90)、 また次子である宗秀(1551/52-1601/02)等が挙げられる。先述した「州信」印をもつ「三十六歌 仙絵扁額」(宗像大社像)と愛宕本とを比較した場合、画面全体に対する人物比が異なり(愛宕 本の方が画面に対する人物比が大きい)、顔貌表現、細部の描き込みや、仕上がりの丁寧さにお いて、「州信」印本の方が優れており、両者を結びつけて考えることは困難である。
小括 本論では、愛宕本の裏書を手がかりに、制作背景及び絵画を手がけた絵師、その画風について 考察を加えた。制作背景については、島津家と近衛家との交流に着目し、近衛前久が島津義虎か らの制作依頼を受け、その仲介役になったのではないかと推測した。また、画風については、古 拙な描写や頭部が大きく描かれる点、のっぺりとした表情など、近世より中世の歌仙絵に画風が 近いことを指摘した。愛宕本を手がけた絵師については、未だ位置づけが難しいが、同地におい て、永禄年間から天正年間にかけて、狩野を名乗る絵師が、愛宕本だけでなく、天神像や扉絵な どの制作活動に携わっていたことをいくつかの文献より確認した。 しかしながら、本論では詞書の筆者の検討など未着手な部分も多く、また、尊朝法親王の花押 についても表記方法に疑問が残り、これらの点を明確にしなければ今後の研究は進まないと思わ れる。この2点はこれからの検討課題として、ひとまず本論を括ることとする。 〔附記〕 本論は、『鹿児島県文化財調査報告書第 55 集』(鹿児島県教育委員会 平成 21 年 3 月)に掲載 した「愛宕神社旧蔵〔三十六歌仙絵額〕」に一部加筆、訂正したものである。 また、本論をまとめるにあたっては、出水市歴史資料館の学芸員であった八重尾哲朗氏にご協 力、ご助言をいただいた。最後になったが、ここに感謝の意を記しておきたい。 注 注 1 『日本の美術 5 歌仙絵』No.96(白畑よし編 文化庁・東京国立博物館・京都国立博物館・奈良国立博物館 監修 至文堂 昭和 49 年 5 月 15 日)p83 の上段 6 行目から 7 行目より引用 注 2 この他、文亀 3 年(1503)の年記をもつ小村神社の例、永禄 12 年(1569)の年記をもつ多賀神社の例(現 在は六曲一双の屏風に表装されて保存)、天正 4 年(1576)に奉納された大生郷天満宮の例、本論で注目す る愛宕本等が確認されている。 注 3 この他、愛宕本については、『鹿児島歴史探訪』(松尾千歳著 高城書店 2005 年 10 月)や出水市立歴史民俗 資料館のパンフレット「展示資料解説シリーズ 三十六歌仙絵扁額 愛宕神社蔵歌仙絵扁額」でも紹介さ れている。 注 4 無品親王とは品位を受けていない、あるいは剥奪された親王のこと。 注 5 http://www2.library.tohoku.ac.jp/akitake/akt-dtl.php?sqno=22013 参照 注 6 『華頂要略』巻第十三「門主傳第二十四」「龍池院二品法親王」(龍池院は尊朝法親王の諡) (天正 16 年・1547 9 月) 同廿九日行于城。繪馬船辨慶脇書今日書之 奉掛御寶前 天正十六年晦日 繪工 狩野右京亮藤原光信 注 7 「出水専修寺文書先住覚書也」(『後編 舊記雑録 巻八』) 関白殿様御下向之事 天正三年 乙亥 拾二月廿五日 御名乗前久と申奉る (中略) 天正四年三月拾七日ニ鹿児島へ御下向候、同年七月二日ニ、從鹿児嶋御上候而、同年八月
廿二日ニ、如八代之御上候 (後略) 注 8 『近世公家社会の研究』(橋本政宣著 吉川弘文館 2002 年 12 月)「第三章 近衛前久の薩摩下向」(pp73-109) 参照 注 9 「薩州家義虎譜中」「正文在出水専修寺」(『後編 舊記雑録 巻八』) 今度寄宿之處、種ゝ馳走神妙候、然者當寺之儀、向後相定勅願所、可為家來之狀如件、 「天正四年」 三月三日 「近衛前久」 専修寺上人 (花押) 注 10 『出水風土誌』(中村一正著 大正 4 年 3 月)では、春日大明神の項に下記のような興味深い記事が掲載さ れている。 春日大明神 武本に在り大野原に隣る。 (中略) 當社は昔時出水五社の一にて別して崇敬せられ、近衛前久出水下向中には屢参詣ありたり。公の奉納に係 る三十六歌仙の額を蔵せしも、今神職の許に収護せらる。畫は土佐流の彩色畫にして公の自讃自筆なり、(後 略) この「三十六歌仙の額」が愛宕本を指すのか、他の歌仙絵扁額を指すのかは、現在のところ不明である。 注 11 「『名月記』からわかる藤原定家の人となり」(名児耶明 『なごみ』 淡交社 2006 年 1 月)に掲載 参考文献 『鹿児島県史料 旧記雑録後編1』(鹿児島県維新史料編さん所 鹿児島県 昭和 56 年 1 月) 『三国名勝図會 第二巻』(五代秀尭ほか編 青潮社 昭和 57 年 8 月) 『出水の文化財 史跡と文化財 改』(出水市教育委員会教育課 平成 6 年 10 月) 『出水風土誌』(中村一正著 大正 4 年 3 月) 『出水郷土誌』(出水郷土誌編纂委員会 昭和 43 年 9 月) 『流浪の戦国貴族 近衛前久 天下統一に翻弄された生涯』中公新書 1213 (谷口研語著 中央公論社 1994 年 10 月) 『新潮 世界美術辞典』(新潮社 昭和 60 年 2 月) 『日本の美術 5 歌仙絵』No.96 (白畑よし編 文化庁・東京国立博物館・京都国立博物館・奈良国立博物館監修 至文堂 昭和 49 年 5 月 15 日) 「『名月記』からわかる藤原定家の人となり」(名児耶明 『なごみ』 淡交社 2006 年 1 月) 「宗像大社の「州信」印三十六歌仙図扁額」(黒田泰三 『美術史』37(2) 1988 年 4 月)
表1 愛宕神社旧蔵「三十六歌仙絵扁額」寸法(cm) 歌仙 縦 横 左一 柿本人麿 44.5 26.5 左二 凡河内躬恒 44.5 26.4 左三 中納言家持 44.5 26.2 左四 在原業平 44.5 26.5 左五 素性法師 44.5 26.5 左六 猿丸太夫 44.8 26.4 左七 中納言兼輔 44.5 26.5 左八 権中納言敦忠 44.4 26.4 左九 源公忠朝臣 44.5 26.3 左十 斎宮女御 44.9 26.6 左十一 藤原敦之朝臣 44.5 26.3 左十二 源宗于 44.5 26.5 左十三 藤原清正 44.7 26.8 左十四 藤原興風 44.5 26.5 左十五 坂上是則 44.4 26.5 左十六 小大君 44.5 26.5 左十七 大中臣能宣朝臣 44.5 26.5 左十八 平兼盛 44.7 26.8 右一 紀貫之 44.6 26.8 右二 伊勢 44.5 26.5 右四 僧正遍昭 44.5 26.5 右五 紀友則 44.9 26.7 右六 小野小町 44.9 26.7 右七 中納言朝忠 44.8 26.9 右八 藤原高光 44.8 26.9 右九 壬生忠岑 45.0 26.9 右十 大中臣頼基朝臣 44.9 26.8 右十一 源重之 44.7 26.8 右十二 源信明 44.9 26.8 右十三 源順 44.9 26.8 右十四 清原元輔 44.8 26.7 右十五 藤原元真 44.5 26.5 右十六 藤原仲文 44.8 26.8 右十七 壬生忠見 44.5 26.5 右十八 中務 44.5 26.5
表2 愛宕神社旧蔵「三十六歌仙絵扁額」和歌 歌仙 和歌 左 1 柿本人麿 ほのほのとあかしのうらの朝きりにしまかくれ□□舟をしそおもふ 左 2 凡河内躬恒 □□□□のはなみかてらにくる人はちりなむ後そ恋しかるへき 左 3 大伴家持 □をしかのあきたつおのの□はきに玉とみるまてをけるしら露 左 4 在原業平 世中に□□□さくらのなかりせは春のこころはのとけからまし 左 5 素性 今こむといひしはかりになか月のありあけの□…□ 左 6 猿丸太夫 おく山にもみしふみわけなくしかの□ゑきくときそ秋はかな□き 左 7 藤原兼輔 人のおやのこころはやみにあらねとも子をおもふみちにまよひぬるかな 左 8 藤原敦忠 あひみてののちのこころにくらふれはむかしはものもおもはさりけり 左 9 源公忠 行やらて山ちくらしつほとときす□□一こゑのきかまほしさに 左 10 斎宮女御 ことのねにみねの松かせかよふら□いつれのをよりしらへそめけん 左 11 藤原敦之 秋きぬとめにはさやかにみえねとも風のお□…□ 左 12 源宗于 ときはなる□のみとりもはるくれはいまひとしほの色まさりけり 左 13 藤原清正 ねのひしにしめつる野へのひめこまつひかてやちよのかけをまた□□ 左 14 藤原興風 ちきりけむこころそつらきたなはたのとしに一たひ□…□ 左 15 坂上是則 みよしのの山の□□雪□□るらしふるさ□…□ 左 16 小大君 □ …□ぬへしあくるわひしきかつらきの神 左 17 大中臣能宣 千と世まてかきれる松もけふよりは君にひかれてよろつ代やへむ 左 18 平兼盛 深山いてて夜はにやきつるほとときすあかつきかけてこゑのきこゆる 右1 紀貫之 さくらちる木のした風はさむからて空にしられぬゆきそふりける 右2 伊勢 ちりちらすきかまほしきをふるさとのはなみてかへる人もあはなむ 右4 遍照 わかやとはみちもなきまてあれにけりつれなき人をまつとせし□□ 右5 紀友則 夕されはさほのかはらの河きりにともまとはせる千とりなくなり 右6 小野小町 □みえてうつろふものはよの中の人のこころのはなにそありける 右7 藤原朝忠 あふことのたえ□□なくは中々に人をも身をもうらみさらまし 右8 藤原高光 かくはかりへかたくみゆるよの中にうらやましくもすめる月かな 右9 壬生忠岑 春たつといふはかりにやみよしのの山もかすみてけさはみゆらん 右 10 大中臣頼基朝臣 ひとふしに千世をこめたるつえなれはつくともつきし□…□ 右 11 源重之 よし野やまみねのしら雪いつきえて今朝はかすみのたちかはるらん 右 12 源信明 恋いしさはおなしこころにあらすともこよひの月を君みさら□□ 右 13 源順 水のおもにてる月なみをかそふれはこよひそ秋のもなかなりける 右 14 清原元輔 秋の野のはきのにしきをわかやとに鹿のねなからうつしてしかな 右 15 藤原元真 □ ならはまてといはましほとときすふたこゑをたになかしゆくら□ 右 16 藤原仲文 有あけの月のひかりをまつほとにわかよのいたくふけにけるかな 右 17 壬生忠見 さゆふけてねさめさりせはほとときす人つてにこそきくへかりけれ 右 18 中務 うくひすのこゑなかりせは雪□えぬやまさといかてはるをし□ま□
図1-1 左1 柿本人麿 図1-2 左2 凡河内躬恒 図1-3 左3 大伴家持 図1-4 左4 在原業平
図1-5 左5 素性 図1-6 左6 猿丸太夫 図1-7 左7 藤原兼輔 図1-8 左8 藤原敦忠
図1-13 左13 藤原清正 図1-14 左14 藤原興風 図1-15 左15 坂上是則 図1-16 左16 小大君
図1-17 左17 大中臣能宣 図1-18 左18 平兼盛 図1-19 右1 紀貫之 図1-20 右2 伊勢
図1-25 右8 藤原高光 図1-26 右9 壬生忠岑 図1-27 右10 大中臣頼基 図1-28 右11 源重之
図1-29 右12 源信明 図1-30 右13 源順 図1-31 右14 清原元輔 図1-32 右15 藤原元真
図2 中務(裏面) 図3 紀貫之(裏面) 図4 柿本人麿(裏面)