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谷崎潤一郎全集拾遺雑纂

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Academic year: 2021

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(1)(15). 谷 崎 潤 一郎 全集拾 遺雑 纂. 8号︶ ﹃ 第3 甲南 女 昨年 ま で に、 私 は、 ﹃ 甲 南国 文 ﹄ ︵. 。 ﹃懸 賞. 小 説 応 募 者 諸 君 へ﹄. 参 考 に供 す る事 と し た。 な お翻 刻 の際 には、誤植 はそ. し て、 片 々た る断 簡 零 墨 o談 話 o作 者 記 の類 を集 め、. 集 逸 文 紹 介 11 3﹄ を掲 載 し た。 今 回 は、 そ の補 遺 と. て いた谷崎 潤 一郎 ・鈴 木 三重 吉 ・小 山内 薫 の連 名 で掲. 雑 誌 ﹁女 性 ﹂ が 行 な った懸 賞 小 説 募 集 で、 選 者 と な っ. これ は、 関 東 大 震 災 直 後 の大 正 十 二年 十 月 号 から、. 懸賞 小説応 募者 諸 君 へ. 前 も 見 え る。. 者 の中 に は、 清 水 三十 六 ・高 群 逸 枝 。大 谷藤 子 ら の名. 載 さ れ たも のであ る。 実 際 の 筆 者 は 誰 か分 か ら な い. 最 初 に逸 文 の類 を紹 介 す る。. ︻逸 文 類 ︼. のま まと し、 ルビ は省 き 、 旧漢 字 は新漢 字 に改 め る事. 光. が 、 参 考 の為 に掲げ て おく 。 な お、 こ の時 の予選 合格. ﹁女 性 ﹂ 大 正十 三年 二月 号. 1. 江. を原 則 と し た。. 71 8号︶ に ﹃谷崎 潤 一郎 全 子 大 学 ・研 究 紀 要 ﹄ ︵ 第2 2. 細.

(2) せ ん。 規 定 通 り締 切 に期 限 はな い の です が 、   一先 づ 最. 想 外 に多 数 の応 募 を 得 て選 者 た る吾 々も 欣幸 に堪 へま. 震 災 後 本 誌 が 新 進 諸 君 の為 に募 集 し た懸 賞 小 説 は予. は、 ﹁杏実L に詳 し い。. の時 、 渡 辺 裕 の ﹃影﹄ を 一等 に選 んだ 経 緯 等 に ついて. 誰 か分 から な いが 、参 考 の為 に掲 げ て おく 。 な お、 こ. 山 内 薫 の連 名 で発 表 され たも の であ る。実 際 の筆 者 は. 谷   崎   潤 一郎. イ ル ムと な つて市 上 に現 はれ る のを待 つ。. る。自 分 等 は これ ら当 選 の スト オ リイが 一日も 早 く フ. 兎 に 角 こ の募 集 は 近 来 にな い 成 功 だ つたと 言 ひ 得. 十篇 を 採 る こと にし た。. しそ れ だ け で済 ます のは余 り に惜 し い ので、 更 に選 外. 選 ん で、 更 にそ の三篇 に 一二等 の等 級 を附 し た。 し か. ひ得 る。 選 者 はそ の内 最 も優 秀 だ と 信 ず るも のを 三篇. 現 今 日本 で行 はれ てゐ る映 画 劇 の水準 以 上 にあ ると言. れ も 相 当 価 値 のあ るも ので、 こ の内 少 く と も 三十篇 は. ら ぬも のを捨 て て、 予 選 六十 七篇 を得 た。 これ は いづ. 応 募 原 稿 は 三千 百 八十 九篇 に及 んだ 。 全 く 採 る に足. 散雑懸 賞 霧映 画 劇 駐 鰤 当 選 者 発 表. 初 に入手 し た 五百 余 篇 を第 一期 と し て、 これ の予 選 を 本 号 に発 表 し ま し た 。 こ の内 から更 に入賞 作 品 を厳 選 し て、 来 月 号 か ら 一篇 宛 発 表 す る こと に します 。 な ほ こ の募 集 は別 項 広 告 の通 り続 行 致 す 筈 です から、 続 々 御 寄 稿 を 願 ひま す 。. 崎   潤 一郎 木 一 二重 吉 内  薫. の当 選発表 の際 に、選者とな って いた谷崎潤 一郎と小. 苦楽﹂誌 上 で行 な った映画劇 ﹁ 性﹂ と ﹁ 筋﹂懸賞募集. これ は、プ ラト ン社が、大正十 三年 六月 に雑誌 ﹁ 女. ﹁ 女性﹂﹁ 苦楽﹂ 大 正十 三年 十 一月 号. 制 ︼ 当 選 者 発 表﹄ 2 。 ﹃散雑懸 賞 霧映 画 劇 一. 大正十二年十二月二十八日 谷 鈴. 小 山. (16) 谷崎潤一郎全集拾遺雑纂.

(3) 3 。菊 原 琴 治 碑 文. 小 山内       薫. これ は、 昭和 三十 一年 二月 、 故 菊 原 琴治検 校 の十 三. て いたと 云 う 。 こう し た体 験 が 、 ﹃蓼 喰 ふ虫 ﹄ コロロ物. 語 ﹄ 等 に影 響 を与 え た事 は、  周 知 の 事 実 であ る。 ま. た、 菊 原検 校 の ︽三味 線 には仕 掛 が し てあ ると 云 ふ暉. ま で生 じ た︾ と いう エピ ソ ード は、 春 琴 の エピ ソード. と し て用 いられ たも ので、 春 琴 の天才 芸 術 家 と し て の. 造 型 に、検 校 が モデ ルと し て用 いら れ た事 を 示唆 す る. 回 忌 に、 大 阪 四天 王寺 境 内 に建 てられ た ﹁ 検 校菊 原 琴 治 君 碑 ﹂ の傍 ら の石 碑 に刻 ま れ たも のであ る。谷崎 が. も のと 言 え る。. 谷 崎 が検 校 の人格 を 讃 え る に、 ︽人 と な り極 めて 明. こ の種 の仕 事 を引 き 受 け る事 は極 めて珍 しく 、 恐 らく 生 涯 を 通 じ て こ の 一度 だ け で は な か った かと 思 われ. 朗 快 活 で名 利 に疎 く  後 年 大検 校 の地位 に達 し てから. 値 観 が 窺 われ ると共 に、 谷 崎 が検 校 を芸 術 家 と し ても. な か った︾ と述 べ て いる所 か ら は、 谷 崎 の人 間 観 ・価. も 単 純 で無 邪気 であ った こと は小 児 と異 な ると ころが. る。 こ の事 は、 谷 崎 が 検 校 の恩 に いか に感 謝 し て いた 谷 崎 は、 昭和 二年 六月 頃 から数 年 間 、菊 原 琴治 に地. かを物 語 るも のと 言 え よう 。. 唄 を 習 った。菊 原 琴 治 の娘 初 子 氏 の ﹃地歌 ひとす じ﹄. 人 間 と し ても 、 いか に高 く 評価 し、 敬 愛 し て いた かが. いと 洩 ら し た所 、 松 阪 が 旧知 の菊 原 琴治 を谷崎 に紹 介. な お、 こ の碑 文 の紹 介 に ついて は、 菊 原 初 子 氏、 及. 偲 ば れ よう 。. し、 岡 本 へ教 え に行 く 事 にな った のだ と 云う 。 ま た、 松 阪 寅之 助 ︵ 青 渓 ︶ 著 ﹃青 い苔 ﹄ 所収 ﹁日本音 曲 の美 を語 る﹂ によれば 、 谷 崎 は、 カバ ンに入 る継 ぎ悼 の三 味 線 を買 って、 東 京 へ行 く 時 も携 帯 し、 地 唄 を稽 古 し. 検 校 菊 原 琴治 君 は明 治 十 一年 十 二月 二十 五日錨 商 播 磨. び 、 菊 原 光 治 氏 の御 許 し を得 た。 こ こ に感 謝 の意 を表 します 。. 朝 日新 聞 ﹂ の 松 阪 青 渓 に地 唄 を習 いた 唄 を聞 いて、 ﹁. ︵ な にわ塾 叢 書 2︶ によれ ば 、 谷 崎 が 京 都 の祗園 で地. 江. 光 細. (17).

(4) (18) 谷崎潤一郎全集拾遺雑纂. 徳 兵 衛 の長 男 と し て大 阪 北 堀 江 五 丁目 に生 れ 名 を徳 太. 曲 合 奏 の流 行 を促 し昭 和時 代 に入 って から は或 は等 曲. れ 時 に は中 尾都 山 氏 と 全国 各 地 に演 奏 旅 行 を試 み て 三. 会 の会 長 に選ば れ た り したが 同 十 一年 府 立 泉 尾高 等 女. 音 楽 学 校 を設 立 し て初 代 校 長 に任 じ或 は関 西 三曲 家 協. 郎 と 呼 んだ  君 に は弟 と 妹 が 一人 づ つあ ったが 二人 と ハ歳 も 早 死 を し  君 も 亦 四歳 の時 に両 眼 の明 を 失 ひ  一 で父 に  九 歳 で母 に死 別 し た  幼 少 に し て俄 に天 涯孤. て か ら も 単 純 で無 邪気 であ った こと は小 児 と 異 な ると. め て明 朗 快 活 で名 利 に疎 く  後 年 大検 校 の地位 に達 し. と が 薄 く 辛 苦 穀 難 の道 を 歩 んだ にも 拘 らず 人 と な り極. 南 所 を開 いた  粛 は 不幸 に し て両 親 の慈 愛 に浴 す る こ. こと を 許 さ れ 十 八歳 で早 く も東 区伏 見 町 に琴 三絃 の指. 稽 古 に耐 へて十 三歳 の時 に は 三代 目菊 原 琴 治 と称 す る. んだ   君 は天 賦 の才 に加 ふ る に克 く 当 年 の酷 烈 苛辣 な. 野 川 流 三絃 本 手 組 唄 は 二代 目菊 仲 繁 寿 一検 校 か ら学. 竹 の道 を志 す に至 り  地 唄 筆 三絃 は専 ら菊 植 検 校 から. 検 校 後 の菊 植 明 琴検 校 の養 子 と な って布 原 姓 を冒 し糸. な ほ君 は高 松 氏 の女 つね を要 り今 の菊 原 初 子 氏 を遺 し. 三月 二十 五 日享年 六十 七歳 を以 て浪 華 の地 に歿 し た. 情 誼 に篤 く 生 涯郷 土 を捨 て る こと を 欲 せず 昭 和 十 九年. は中 央 楽 壇 の夙 に認 めると ころ であ ったが 資 性 悟 淡 で. し てあ ると 云 ふ噂 ま で生 じ た程 で大 阪 にそ の人 あ りと. と し て の名 声 は東 京 にま で鳴 り君 の三味 線 には仕 掛 が. 寿 等 数 へき れ ぬ曲 を後 人 に伝 へた  君 の生 田流 琴 曲 家. か らず 摘 草 銀 世界 雲 の峰最中 の月 春 琴 抄 秋 風 の辞 菊 の. 友 会 を組織 し た  君 は又新 た に自 ら作 曲 し たも のも少. 年 を追 う て多 く既 に大 正 三年 の秋 に は 一門 が寄 って琴. 職 にあ った  されば 君 の芸 術 と 人格 と を敬 慕 す る者 は. 学 校 の邦 楽 部 講師 を嘱 され て か ら は逝 去 の年 ま でそ の. こ ろが な か った  さ う し て ただ 全精 神 を傾 け て芸 道 一. た ので幸 に君 の芸境 の 一半 は息 女 に依 って窺 ふ ことが. 独 の身 と な った君 はそ の年 即 ち明 治 十 九年 二代 目菊 原. 途 の精 進 を続 け た  而 も 一面 斯 道 の発 展 興 隆 のた め に. 出 来 る のであ る. 昭和 三十歳 次 乙未 五月. 力 を貸 し  自 宅 に於 て後 進 を教 へ導 く 傍 時 に は市 立盲 唖 学 校 の教 師 と な り時 に は当 道 音 楽 会 の本 部 長 に推 さ.

(5) 4。無       題. 旧 門 人  谷 崎 潤 一郎 撰 炭 山南 木  書. 昭 和 三十年 八月 二十 五 日発 行 ﹁文 芸臨 時 増 刊   武 者 小 路 実 篤 読 本 ﹂ 所 収 ア ン ケ ー ト 回答 質 問 は、  企 、 あ な た は武 者 小 路 実篤 の 愛 読 者 です か?・ 二、 武 者 小路 実 篤 の作 品 で何 が 一番 好 き です か 、 ,o 三 武 者 小 路実 篤 から あ な た の学 んだ も のはP︾ であ った 。 谷 崎 が 武者 小 路 実 篤 に好意 を持 って いた こ と は、 ﹃ き のふけ ふ﹄ 等 から も 分 か る。. 谷   崎   潤 一郎. P ︶ の大 映 映 画 ﹃新 ・平 家 物 語 ﹄ パ 昭 和 三十年 九 月 ︵ ン フ レ ツト. こ のパ ソ フ レ ット は、 二十 ペ ージ ほど のも ので、 奥. 付 はな いが 、 内 容 から見 て、 九 月 二十 一日 の映 画 封 切. り直 前 に発 行 さ れ たも のと推定 さ れ る。 他 に、 吉 川 英. 治 ・勅 使 河 原 蒼 風 o猪 熊弦 一郎 ・石 垣綾 子 ・徳 川 夢 声. ・鈴 木 茂 三郎 ・浦 松 佐 美 太郎 ・坂 西志 保 ・神 近 市 子 ・. 中 島 健 蔵 ・官 田重 雄 が 言葉 を寄 せ て いる。  な お、 ﹃ 新. ・平 家 物 語 ﹄ は、 溝 口健 二監督 ・市 川 雷 蔵 主演 で、 谷. 崎 の願 い通 り、 翌年 一月、 十 一月 に続 篇 ・続 々篇 が 封 切 ら れ た。. 近 来 の快 挙. 作 家 谷 崎 潤 一郎 氏. 小 生 は武 者 小 路 君 の人間 全 体 が 好 き な ので、 愛 読 者 で も あ り ます が 、 そ んな に多 く を読 ん でゐ ま せ んから 二. 大 映 が 吉 川 英 治 氏 の新 ・平家 物 語 を 総 天 然 色 を 以. ふ。. が 、 私 はむ し ろそ の企 画 の遅 か った こと を 不思 議 に思. て 映 画 化 す ると 云 ふ。 これ は 真 に 近 来 の 快 挙 であ る. に ついて は今 俄 に は答 へら れ ま せ ん。 三 に ついても簡. ﹃近来 の快 挙﹄. 単 に云 へる言 葉 が あ りま せ ん か ら差 ひか へます 。. 5. 光 江 細. (19).

(6) (20) 谷崎潤一郎全集拾遺雑纂. た時 代 はな いから であ る。 そ こ に は優 雅 な平 安 朝 と 剛. 代 く ら ゐ 起 伏 に富 んだ、絢 爛 で豪 壮 な色 彩 映 画 に適 し. と 云 ふ訳 は、 凡 そ 日本 の歴 史 を顧 み て、 平家 物 語 の時. ね て送 った書 簡 であ る。. に ついて、 谷崎 が 手 紙 で 指 摘 し、 ﹁あ ま カ ラ﹂ 編 集 人. 載 さ れ た ﹃幼 少時 代 の食 べ物 の思 ひ出 ﹄ の ルビ の誤 り. これ は、 昭和 三十 四年 十 二月 号 の ﹁あ ま カ ラ﹂ に掲. 。 の で ﹁高 利 ガ シ﹂ にな つた のではあ り ま せ ん ﹁カ ウ. たも の です 。金 色 夜 叉 の貫 一は ﹁高 利 カ シ﹂ にな つた. 近 頃 は東 京 人 でも無 闇 に濁 つて読 む癖 が あ る のは困 つ. 筈 です 。. む の で は 田舎 者 です 。 江 戸 つ子 な ら オ ホ サ カ町と読 む. で而 も 東 京 生 れ の人 だ さ う ですが 、 大 坂 町 を濁 つて読. は溜 り ま せ ん。 お手 紙 に依 ると校 正 を し た のは専 門 家. が 、 お ま け にそれ が 間 違 つた読 み方 を さ れ てゐ る ので. し て な い のに 勝 手 に ルビ を 施 し た こと も 不都 合 です. た こと を甚 だ 不愉 快 に感 じ る のです 。 原 文 に ルビが 施. ざ か﹂ と ルビ を ふられ な い ので、 大 坂 町 の ﹁坂 ﹂ に ﹁. 私 と し ま し て は ﹁元﹂ の字 の有 無 はさ う 問 題 にし てゐ. 唯 今 お詫 状 拝 見致 しま し た。. の水 野 多 津 子が詑 び状 を出 した のに対 し て、 谷崎 が 重. 健 な武 家 政 治 と が 持 つ美 し いも の、 勇 し いも の、 悲 し 。 いも の、 醜 し いも の ゝ殆ど す べ てが 結 集 さ れ てゐ る 此 の両 面 を備 へた時 代 は、 平 家 物 語 の時 代 を除 いて は 後 にも 前 にも な い のであ る。 今 や吉 川 氏 が 此 の物 語 を 現 代 に生 か し て 一大絵 巻 を 繰 り ひ ろげ つゝあ る際 に、 色 彩 映 画 に常 に特 技 を発揮 す る大 映 が そ の原 作 に恥 ぢ な いや う な作 品 を成就 し てく れ る こと を、 私 は大 いに 期 待 す る。 尤 も今 回 は若 き 清 盛 の登 場 す る最 初 の部 分 に止 ま る さ う であ るが 、 願 はく は つゞけ て続 篇 続 々篇 を 作 り、 日本 人 だ け でなく 、 世 界 の人 々に、 日本 の過 去 の此 の時 代 の、 貴 族 や庶 民 の生 活 の種 々相 を 知 って 貰 ひ た いと 思 ふ。 6 .書       簡 ﹁あ ま カ ラ﹂ 昭 和 三十 五年 一月 号 編 集 後 記 欄 に 全 文 が 引 用紹 介 さ れ た。.

(7) し う 江 細. (21). に火 が ついた や う だ ﹂ と 云 ひ ます が ﹁油が み﹂ で は感. ﹁油 ツか み﹂ で ﹁油 が み﹂ で はあ り ま せ ん。 ﹁油 ツか み. リ ガ シ﹂ と 云 へば アイ スケ ーキ の こと です 。 油 紙 は. く筆 者 自 身 の責 任 であ り ます 。. の字 を 一字 落 し ま し た。 これ は校 正係 の誤 り で はな. と あ る のは ﹁牛 な べ の鍋 のは﹂ と あ る べき で、 ﹁の﹂. 牛 な べ の鍋 は. 河出 書 房 新 社 ﹃現 代 の文 学﹄ 全 四十 三巻 内 容 見 本. 7 。 ﹃自 分 の 好 き な 作 品 を ﹄. じが 出 ま せ ん。 駒 形 ﹂ を ﹁コ 昨 夜 テ レビ で落 語 を聞 いてゐ ま し たら ﹁ マガ タ﹂ と 云 つてゐ る ので び つく り しま し た。 ﹁君 は 今 コマガ タあ た り﹂ では ほと ゝぎ す も晴 き さ う も あ り. 昭和 三十 八年 五月 から 配 本 され た ﹃現代 の文 学 ﹄ の内. 房創 業 七 十 七周年 記念 出 版 と し て、 これ は、河 出書 一. 容 見 本 に掲 載 さ れ た推 薦 文 であ る。 ちな み に、 こ の時. ま せ ん。若 輩 の落 語 家 のやう で し たが 、落 語 家 ま でが これ です から 他 は推 し て知 る べ し です 。. の編 集 者 は、 川 端 康 成 ・丹 羽文 雄 ・円 地 文 子 ・井 上靖 o松 本 清 張 ・三島 由 紀 夫 であ った。. 以 上 、 黙 つてゐ ら れ なく な り ま し た か ら 又書 き ま し た。雑 誌 の余 白 へお載 せ下 さ れば 幸 甚 です 。 十 二月 三 日. 作 家 ば か り の編 集 で、 小 説 ら し いおも し ろ い小説 をあ. 自 分 の好 き な作 品 を. つめ ると 云 ふ こと には、 大 いに賛 成 であ る。 選 ば れ た. 谷 崎   生. 追伸. 作 家 の顔 ぶ れ も多 彩 で、 い い作 品が 収 載 さ れ ると 云 ふ. 水 野多 津 子 様. な ほも う 一つ、 前 号掲載 の拙 稿 に脱 漏 が あ る のを発. ので、 た のし いも のが 出 来 ると期待 し てゐ る。自 分 の. 作 家 谷 崎潤 一郎. り 五行 日 に. 見 し ま し た か ら こ の機 会 に訂 正致 します 。 即 ち終 よ.

(8) (22) 谷崎潤一郎全集拾遺雑纂. 作 品 も 、 戦 前 の ﹁卍 ﹂ ﹁ 武 州 公 秘 話 ﹂ と 戦 後 の ﹁鍵 ﹂. 義 から古 賀 廉造 に変 わ って いた。. 次 西園 寺 内 閣 に変 わ り、 警 保 局 長 も 九 月 四 日、 有 松 英. こ の談 話 を取 った のは小 野 賢 一郎 と推定 さ れ る。 こ の. も し、 飲 みも し、 食 つても歩 いた 。 ︾ と あ る事 か ら、. 訪 問 し た のが 、 そ の皮 切 り で ︵ 中 略 ︶ 二人 で よく 遊 び. 小 説 が 発 売 禁 止 にな つた ので、 私 が 向島 の笹 沼別 荘 に. 中 略 ︶ 谷 崎 氏 の三 田文 学 の 郎 氏 と 交 際 の始 つた のは ︵. 小 野 賢 一郎 の ﹃明治 ・大 正 ・昭 和 ﹄ に、 ︽谷 崎 潤 一. ﹁痕頻 老 人 日記 ﹂ と 云 った、  な か な か おも し ろ い選 び 方 を し てゐ る し、 ど れ も自 分 の好 き な も のば か り な の で、 よ ろ こ ん で参 加 し た。. ︻談 話 類 ︼ 以 下 、 談 話 の類 を紹 介 す る。. 後 谷崎 が 、 ﹁ 東 京 日 日新 聞 ﹂ に ﹃あ くび ﹄ を 執筆 し た. の談 話 で、 向 島 の笹 沼 別 荘 で語 ったも の であ る。 明 里. 文 壇 の彗 星 谷崎 潤 一郎 ﹂ と題 し た 記 事 中 これ は、 ﹁. 谷 崎 が ﹃伊 香保 よ り﹄ を寄 稿 し た のも、 こう し た交 遊. 賢 一郎 が 創 刊 し た雑 誌 ﹁ 草 汁 ﹂ の大 正七年 六月 号 に、. ﹃ 新 聞 記 者 の手帳 ﹄ に谷 崎 が 序 文 を寄 せた のも 、  小 野.  国目春 物 語 ﹄ によれば 、 のも、  小 野賢 一郎 の推 挽 と 依. 千章 氏が 、 ﹁ 初 期 谷 崎 に於 け る ﹃腱 風 ﹄の位 置 ﹂翁 三 田. 関 係 あ って の事 であ る。 二人 の交 遊 関 係 が 、 何 時 頃 ま. l .無       題. 文 学 の系 譜 ﹄ 所 収 ︶ で 紹 介 さ れ た 。 ﹁大 阪 毎 日新 聞 ﹂. で 続 いて いたか は 定 か でな いが 、  小 野賢 一郎 の 句 集. 嘱 の結 果 で あ った。 大 正 三年 七月 に、 小 野 賢 一郎 の. に は記 事 が な い。 本 来 、 こ の年 七 月 で卒 業 の筈 の谷 崎. ﹃ 雲 煙 供 養 ﹄ に、 昭 和 六年 高 野 山 で、 ﹁ 親 王院 に谷 崎 君. ﹁東 京 日 日新 聞 ﹂ 明 治 四十 四年 十 月 十 一日 ︵五︶ 面. が 、 国 文 科 二年 在 学 と 書 かれ て いる所 から見 ると 、 谷. の来 訪 を受 け 共 に盆踊 を 見 にゆ く ︵四句 と と いう 詞. 書 のあ る ﹁踊 ると て谷 崎 潤 一郎 踊 らざ り﹂ など の句 が. 崎 は留 年 し て いた の であ ろう。 内 閣 は、 こ の年 八月 三十 日、 第 二次桂 内 閣 から第 二.

(9) 江. 光 細. (23). は、 ﹃ 熱 風 に吹 かれ て﹄ の春 江 の ■ アルかと 想 像 さ れ. い る。 こ の記 事 は、 必ず しも信 用 でき な いが 、 お加 代. は亀 戸 で芸 者 を続 け た 。 ﹂ と いう 意 味 の事 が 童日かれ て. に京 都 へ旅 立 た せ た。 旅 先 で 二人 の恋 は冷 め、 お か よ. 日新 聞 ﹂ 社 長 に 二百 円 出 さ せて、 二人 を 気 分転 換 の為. る事 を迫 ら れ た時 、 遊 び 友 達 の小 野賢 一郎 が ﹁東京 日. 喜 楽 ﹂ に 多 額 の借金 を作 り、 心中 と 深 い仲 と な り、 ﹁ か、 前 橋 で芸 者 を し て いる お かよ の姉 の元 へ駆 落 ちす. 喜 楽 ﹂ のお か よと いう 同 い年 の芸 者 ﹁谷 崎 が 向 島 の ﹁. れ た町 の蛮 人 の ﹁女 難 の谷 崎潤 一郎 ﹂と いう文章 には、. と こ ろ で、 大 正 四年 十 月 号 の ﹁女 の世 界 ﹂ に掲載 さ.  女 の眼前 で 自 殺 す る事 ﹃ 捨 てられ る迄 ﹄ の主 人 公 は、.   こ の年 十 一月 に 執筆 し た ると伝 え て いる。 そ し て、. の早 川 で、 自 殺 未 遂 か心中 未 遂 事件 を起 こし た事 が あ. 郎﹄ の中 で、 土 地 の古 老 の談 によれば 、 谷 崎 は小 田原. 伝 記 谷崎潤 一  野村 尚 吾 は、 ﹃ 語 って いたと 云 う し、. 訪 ね た時 、 谷 崎 は、 近 い内 に 一人 でか 二人 でか死 ぬと. 郎 ﹂ によれば 、 大 正 三年 の夏 、 辰 野が 小 田原 に谷 崎 を. 者 が いた こと は事 実 であ る。辰 野隆 の ﹁旧友 谷崎 潤 一. 際 し て、 谷 崎 の馴 染 み の芸 者 が 、 白木 屋 で絹 セ ルの袷.  京 都 行 き に  コロ春 物 語 ﹄ には、 にも 出 てく る。 ま た、.  国目春 物 語 ﹄ の上 司 の松 内 則 信 が 斡 旋 し た 事 など が 、. こ の希 望 が 実 現 し た明 治 四十 四年 の時 は、 旅 費 を ﹁東. る。 C熱 風 に吹 かれ て﹄ の斎 藤 は恒 川 陽 一郎 が 或 る程.   これ ら の 情 報 を総 合 し て 考 え て み る を夢 見 て いる。. あ る事 から 、 少 なく と も 昭和 六年 ま では続 いて いた事. 度 ま で モデ ルで はな いかと思 う。︶ 中河 与 一の ﹃耽 美.  不 正確 であ る に と、 ﹁ 女 難 の谷 崎 潤 一郎 ﹂ の記 述 は、. 京 日 日新 聞 ﹂ が 出 し た事 、 こ の旅 行 を小 野 賢 一郎 と そ. の夜 ﹄ も 、 向 島 の ﹁喜 楽 ﹂ から亀 戸 に住 み替 え る お加. せよ、幾 ら か似 た事 実 が あ った事 は、 十 分考 え られ る. が 分 か る。. 代 と いう芸 者 を 登 場 さ せ て、 それ を谷崎 の最 初 の妻 で. のであ る。. を見 立 て てく れ た事 が 出 てく る ので、当 時 馴 染 み の芸. あ る千 代 子 の姉 初 の事 と し て いるが 、 ど う だ ろう か。 こ の談 話 で は、 来 月 京 都 へ行 き た いと言 って いるが 、.

(10) (24) 谷崎潤一郎全集拾遺雑纂. ▲ 舞 台 は 今 春 友 人 と  旅 行 し た 東 北 地 方 に し た の で. す 、 モデ ルも 何 も な か つた ので. ね 、 之 れ か ら は大 に 恐 縮 し て 又変 つた 方 面 を 書 き ま. 判 つた方 と いふ の で書 き ま し たが 不 可 な か つた ん です. 文 学 の人 々に お気 の毒 です 内 閣 も変 つた し警 保 局 長 も. ﹁私 も 危 いと は思 ひ ま し たが 遂 々やら れ ま し た、 三 田. いと 思 つてゐ ます ﹂. つも り です 、 来 月 は京 都 へい つて彼 の辺 を材 料 にし た. な夢 の様 な も のぢ や なく て実 世 間 に触 れ たも のを書 く. ▲脚本 を 盛 に書 い て  見 る考 へで劇 でも今 流 行 る や う. 縮 し てゐ ま す来年 は. 分 酷 いのが あ ります が ネ、 気 焔 も 何 も あ り ま せ ん唯 恐. ま すが マア当 分 は其 筋 で許 し ます ま い、外 国物 に は随. ﹁ 七︶面 大阪朝 日新聞﹂大正七年 十月十 一日 ︵. 2 .無       題. す 、 未 だ 長 く 書 き た か つた のだ が締 切 の都 合 で彼 座 も の に な つて了 ひま し た、 私 は是 迄名 高 い作 家 の許 へも 行 かず 書 て はゐ たが 公 に せず にヂ ツと し てゐ ま し た、 国敲躙え年︶ の 之 れ か ら は 一生懸 命 で や り ます 、 大 学 ︵ 一. 中 の談話 で、九日午後 四時 の汽車 で東京駅を発 つ直前. 谷崎潤 一郎氏 の支那行き﹂と題 した 記事 これ は、 ﹁. ▲断 然 退 校 し て作 家   と し て立 つ心算 です 、 大 学 も創. 方 も 長 ら く 行 き ま せ んが モウ. 作 家 と し て よ い人が 出 ぬ よ うぢ や困 り ます ネ、 ま ア当. に語 ったも のであ る。 ﹁ 東京朝 日新聞﹂ には記事が な い。. 分 は此 の見 込 はな い で せう 、 酒 です か酒 は や り ます 、. 見 たが 醒 め て読 む と 矢 張 り拙 いです 、﹁ 腱 風﹂のや う な. ▲ 日本 酒 を 欠 か さ ず   や る計 り です 、 酔 つて書 いて は. ん ネ 、鴻 の巣 へよく 飲 み に行 き ま し たが 近 頃 は此 家 で. 話 の上 産 で も あ れ ば い ゝ です が ⋮ ⋮ ﹂. す 南 京 に は 是 非 行 か う か と 思 つて 居 ま す 、 何 か 面 白 い. 予 定 で京 城 へ行 つて か ら 奉 天 夫 か ら 北 京 漢 日 の順 序 で.   ざ つと 一一 ﹁ナ ー ニ遊 び に出 掛 け る ん です 、 月ば か り の. 然 し私 は人 に は負 け ぬ方 です が 小 山内 君 に は叶 ひ ま せ. も の は私 の知 つた人 で 四 五人書 いて見 た いと 云 つてゐ.

(11) 光. 田 温1 糸. (25). 3。無       題. ﹁ 北京 から 九 江 への汽 車 は 成 る可く支 那 人ば か り の. み を抜 出 し たも のであ る。 中 国 旅 行 から 、 妻 子 を 父 に. と いふ﹂ と題 し た記 事 の中 から、 谷崎 の談 話 の部 分 の. を し な が ら ﹃何 れ其 中 / ◇ 旅 行 記 でも出 版 し ま せう﹄. 那 旅 行 し た/ 小 説 家 谷 崎 潤 一郎 氏 帰 る/ ◇ 気 のな い顔. これ は、 ﹁● 生 活 の革 命 を 図 る為 に/ 二箇 月 余 り 支. ゐ る時 に休 戦 の報 が 来 た此 処 に は独 逸 人が 沢 山 逃 げ て. 人 の避 暑 地 に し た処 だ さ う で恰 度 私 が此 処 に滞 在 し て. ▲廿 数年前   に英 国 人 のリ ツト ルと いふ人が 拓 いて外. 中 に描 嶺 と いふ所 が あ つて此 処 は今 から. か ゝ つて了 つた、 慮 山 に は大 分 長 く 滞在 し た此 の山 の. と いふ ので夜 は危 険 な所 を走 ら な いから九 江 迄 二日も. 車 を選 んだ ので言 葉 が 判 ら なく て困 つた、 馬賊 が 出 る. 預 け て いた 日本 橋 蛎 殻 町 一丁目 の米穀仲 買 店 令商 店 に. 来 て何 でも 百 七 十 人 も 居 ると いふ事 だ つたが 英 米 人 も. ﹁ 東 京 朝 日新 聞 ﹂ 大 正 七年 十 二月 十 二日 ︵五︶ 面. 帰 宅 し た十 一日昼 過 ぎ に、 記 者 に語 った談 話 であ る。. ンノヽ 鳴 らす や ら 大 騒ぎ だ つた、 私 も晩 八時 頃 出 て行. 二百 人ば かり居 て其 の晩 は黒 いあ の山 の中 で爆 竹 をポ.  十 一月 十 一日 にド イ ツと 連 合国 が ︽休 戦 の報 ︾ は、. ﹁大 阪朝 日﹂ には記 事 が な い。. 休 戦 協 定 に調 印 し、 第 一次 世 界 大 戦が終 わ ったと いう. ▲合 唱 し て  祝 はう と いう談 だ 、 遂 々私 も 西 洋 人 の出. ﹁君が 代 ﹂ を. 木 下 杢 太 郎 ︶や描 牛嶺 への言 及 も あ る。 り、 大 田 正 雄 ︵. 鱈 目 な楽 器 に合 せ て唱 ひ大 騒ぎ を や つた﹂. く と リ ツト ル の家 の庭 で 日本 人 が 四 五人 居 て 一緒 に. ﹃慮 山 日記 ﹄ で は、 第 一日目 は十 一月十 日 ︵日曜 ︶ だ. 翁此 の旅 行 で貴 方 は生 活 の革 命 を や る んだ と いふ噂 で. ニ ュー スであ る。 な お、 谷 崎 に は、 ﹃慮 山 日記 ﹄ が あ. が 、 二日目 ・三 日目 は何 故 か十月 十 一、 十 二日 にな っ. し たが し. ﹁そ んな事 は ⋮ ⋮﹂ ﹁何 れ旅 行 記 でも出版 し て見 ま せ. て いる。 し か し、 こ の新 聞 記 事 からも 、 十 一月 が 正 し い事 が 分 か る。. う﹂.

(12) 横 浜 へ引 返 し焼 跡 に行 つて見 ると家 族 の立退 先が 立 札. 。無    題. 4. と 元 ゐ た家 の附 近 の或 外 国 人 の尼 さ んが 身 を以 て遁 れ. に書 いてあ つた、 そ れ を辿 つて附 近 の家 に行 つて見 る. これ は、 須 藤 鐘 一撮 影 の写 真 入 り記 事 中 の会 話 であ. て私 の家 族達 をも引 取 り 二三 日前 ま で世 話 を し て呉 れ. ﹁ 七︶ 面 読 売 新 聞 ﹂ 大 正 十年 八月 二十 六 日 ︵. る。 谷 崎 は、 こ の後 間 も な く 、 横 浜 市 本 牧 宮 原 八 八 三. て ゐ た のだが、 更 に東 京 の私 の親 戚 の家 へ送 り届 け た. 戸 へ﹂ と 題 し た記 事 中 の談 話 であ る。 二十 日午 前 十 一. 々出 発 し た いと 思 ふ家 族 を連 れ て行 く こと は未 だ 決 め. ﹁ 未 だ確 実 に何 日と 決定 し たわけ で はな いが 明 年 勿. 氏 ﹂ と題 し た記 事 中 の談 話 であ る。. 明春 四月 フラ ンス ヘ/旅 立 つ 谷崎 潤 一郎 これ は、 ﹁. ﹁ 読 売 新 聞 ﹂大 正 十 三年 十 二月 十 四 日 ︵四︶ 面. 6 .無    題. の家 族 と 再 会 し た 次第 であ る. 中 大 森 で 一泊 し て や つと 山 の手 の親 戚 に辿 り ついて私. と の こと で、私 はそ の場 から東 京 に向 け 出発 し た、 途. に転 居 し た 。. 翁小 田原 の住 み 心 地 はど う です かし  も う 此 地 も 近 々引 き 上げ よう ﹁悪 はく な いです が 、 と 思 つて ゐ ます 、 移 転 先 は横 浜 で、 も う家 も 借 り てあ りま す よ ﹂ 5.無       題 ﹁大 阪 朝 日新 聞 ﹂ 大 正 十 二年 九 月 二十 一日夕 刊 含 し 面. 時 半 、 郵 船 上 海 丸 で神 戸 に着 いた際 に語 った も ので、. てゐ な い、 たぶ ん 一緒 に行 く こと にな るだ らう﹂. 無 事 の家 族 を連 れ/ 谷 崎 、  小 山 内 氏 等 神 これ は、 ﹁. 東 小 山 内 薫 ・岡 田 八千 代 の談 話 も 掲載 さ れ て いる。 ﹁ 京 朝 日新 聞 ﹂ に は記 事 が な い。. 7 。無. 題. (26) 谷崎潤一郎全集拾遺雑纂.

(13) 光 江 細. (27). ﹁ 神 戸 又新 日報 ﹂ 大 正 十 五年 七 月 二十四 日 ︵ 九︶ 面 これ は、 ﹁芝 居 に少 し/ 地 震 の事 を/ 谷崎 氏 の来 着 ﹂ と題 し た記 事 の中 か ら、 谷 崎 の談 話 の部 分 のみ を 抜 き 出 し たも ので、 二十 三 日午 前 十 時 、 パ ナ マ帽 に背 広 姿 で、 神 戸 市 栄 町 の神 戸 又新 日報 本 社 を訪 れ 、 重 役 室 で. な お谷 崎 は、 二十 三 日 の夕 方 には、 岡 成志 の縁 で、. ﹁ 神 戸 又新 日報 ﹂ の有 坂 忠 平 宅 で の 文 芸 漫談 会 に招 か. れ た事が 、 コ 一つの場 合 ﹄ に出 て いる。. ︵マ マ︶. ﹁こ のご ろ 毎 日岡 山 の 梅 林 の上 の方 に 一軒 か り て仕. も 夜 が おそく な り、 午 前 五時 ご ろ寝 床 には いる こと も. 事 し てゐ るが た い へん涼 しく て よく書 け る。ど う し て. ︽岡 山︾ と あ る のは、 ︽岡 本 ︾ の誤植 であ る。 市 居 義. あ る。 それ で午 前 中 の来 訪 者 諸 君 には よく御 迷 惑 を か. 語 ったも のであ る。. 彬 氏 は、 そ の著 ﹃谷 崎 潤 一郎 の阪 神時代﹄ の中 で、 谷. け てゐ る﹂ ︵ 村 税 に ついて︶. 崎 は、 後 に買 い取 って建 て増 し をす る事 にな る岡 本 梅 ケ谷 の農 家 井 上 と み方 を、 仕 事 場 と して昭 和 二年 秋 か. ﹁ 私 のと こも 今 年 は昨 年 よ りず つと多 いが 村 に悪 い. 師 か何 か の家 にゐ た ので無 心者 を帰 ら せる呼 吸 を 心得. ﹁私 のう ち に は 元気 な 女 中 が ゐ る 前 にど こか の受 負. 病 気 が 流 行 つてゐ る から だ ら う﹂. ら借 り て いた と考 証 され たが 、 実 際 には、 さ ら に 一年. 判 明 す る のであ る。 大 正 十 五年 九 月号 の ﹁映 画 時 代 ﹂. 前 の大 正 十 五年 夏 から借 り て いた事が、 こ の記 事 か ら. に掲載 さ れ た岡 田嘉 子 と の対 談 ﹃一間 一答 録 ﹄ が 、 七. てゐ る。 それ を う ち の来 客 中 、 私 の面 会 し たく な い人. 々 に応 用 し てゐ るら し い。 三、 四人づ れ で談 じ込 む連. 月 二十 一日 に、 岡 本 の山 の中 腹 にあ る谷崎 の山 荘 でな され たと いう古 川 緑 波 の ﹁ 編 輯 日記﹂ から も 、 こ の事. 中 を台所 のと な り か、 ど つか に入れ て お いて、自 分 は. 客 が 乱 暴 し出 し たら 逃げ 出 す のに都 合が い ヽのだ さ う. 窓 の外 に立 ち、部 屋 の中 の客 に猛烈 に毒づ く、中 のお. 墜 異付 け ら れ よ う。 谷崎 が 、 地 震 の事 を 入れ よう と した芝居 は、 ﹃白 日 夢﹄ かと 思 わ れ るが 、 実 際 に は 入れ な か った。.

(14) (28) 谷崎潤一郎全集拾遺雑纂. な 、 お客 も 相 手 が 女 中 な の で た いて い 口喧嘩 を切 り上 げ て引 き 上げ る ら し い﹂ ︵ 神 戸 測 侯 所 見 学 に ついて︶  参 考 に見 ﹁芝 居 に少 し 地 震 の こと を 入 れ た い ので、. ﹁一時 は 十 一びき ど ころぢ や な い も つと ゐ た ん です が 人 にや つたり. 入 院 さ せ たり   し て、 今 はそ んな にゐ ま せ ん、猫 つ. て実 に繁 殖 力 の強 い動 物 で し てね、 春 秋 二度 に子 を は. ら ん で、 六週間ぐ ら ゐ で産 を します が 、 時 によ ると、. 8 .無       題.  それ に 雄 の方 が ペ ル シヤと ド イ ツ の 混 血 も 何 だ し、. てを れ ば 、 手 にを へぬ ほど ふえ て来 る。 あ ま り多 く て. た いと思 つて ⋮ ⋮﹂. ﹁ 十 一︶ 大阪朝日新聞﹂ 大正十五年十 一月 二十三日 ︵. で、 あ ま り たちが よく な い ので、  去 勢 し て や りま し. 秋 に 二度 も 生む こと が あ る。 だ から、 五 六びき も飼 つ. 回 一. 子 専 門 学 校 英 文 科 第 一期 生 の仲 良 しグ ループ が 、 本 山. て、 隅野 滋 子 o武 市 遊 亀 子 ・白 髭 ふき ら、 大 阪 府 立 女. 京 朝 日新 聞 ﹂ に は 記 事 が な い。 恐 ら く こ の記 事 を 見. 東 趣 味 談 を聴 く ︱ ﹂ と題 し た記 事 中 の 談 話 であ る。 ﹁. 眼 が 銀 色 に光 つて⋮ ⋮性 質 は幾 分 のろま で、 チ ヨツと. ペ ル シヤが 一等 です 。毛 が 長 く つて雪 のや う に自 く、. 猫 は悧 巧 で俊敏 だが 愛 玩 用 と し てな ら何 と い つた つて. し雌 は み んな外国 種 の純 粋 な のば か り です、 イ ギ リ ス. 花 婿 の い ヽの  を買 つてあ てが つてや ります 。 し か. た、 近 いう ちに. 村 北 畑 の家 に猫 を見 に来 た のが 切 っ掛 け と な り、 古 川. 亡 国 的 な やうなと ころも あ るが 、 姿 態 の優 美 で崇 高 な. これ は、 ﹁猫 の家 ﹄ を訪 ね て︱ 谷 崎 潤 一郎 氏 の猫 の. 丁未 子 と の結 婚 へと 繋 が って行 った事 は、 高 木 治 江 著. と こ ろ は何 と い つても. 猫 族 中 の王様   で せう ネ 鼠 を取 ら せ る のな ら、 ス マ. ﹃谷 崎 家 の思 い出 ﹄ の後 書 き と し て書 かれ た 山 下滋 子 氏 の ﹁思 い出 の人 々﹂ 等 か ら 推 定 さ れ る。. ー ト で慄 憚 な のが い ヽかも 知 れ ま せ んが 観 て楽 しむ た.

(15) 光 江 細. (29). き ます 、前 夜 鼠 を 追 つかけ た かど う かは、 翌朝 顔 を ち. 物 です 、 鼠 を 追 は せ ると てき め ん顔 の相 が悪 く な つて. め に飼 つて置 く 猫 に鼠 を捕 せ る な んて こと は絶 対 に禁. す り つけ に来 る。猫 族 に のみ恵 まれ たあ のしな や かな. つてく る、 膝 の上 にかき 上 る、 袖 にから み つく 。毛 を. ば か り、 眼 を糸 のや う にし て ペ チ ヤノヽ 頼 を な め にや. と声 でも かけ てや ると 、 猫 の奴 、 待 ち兼 ね たと いは ん. 肢 体 と、柔 か い毛︱︱ 技 巧 の限 り を つく し て、懐 ろ に. 。 です. よ つと 見 た ゞけ で直 ぐ わ か るぐ ら ゐ です から ネ から な るべく. し てゐ ると、 そ の瞬 間 だ け でも 気 も ちが スー ツと し て. 実 に 可愛 い ヽ  そ い つを あ や し た り、 から か つた り. 飛 び こん でく ると ころ は. に置 いてや ら な いと 性 質 が わ るく な り、 従 つて表 情 も. 気 分 を 平静 に   し てや つて、 な ご やか な環 境 のう ち. 悪 化 します 、 僕 の方 で は毛 並 を つやノヽ しう す る た め. 格 好 のペ ツトです よ﹂ 疲 れが 一時 に ケ シ飛 ん で し ま ふ。. 改 造 し にも 言 及が あ る。 月 ﹁. 昭和 三年 八 饒 舌 録﹄ ︵ な お、 こ の上演 に ついて は、 ﹃. 阪 朝 日﹂ を採 った。.  大 阪 の方 が 長 い ので、 ﹁大 朝 日﹂ にも談話 はあ るが 、. 東京 岡 本 の自 宅 を訪 ね た記 者 に 語 ったも のであ る。 ﹁. 崎 氏 の ﹁愛 すれば こそL と 題 し た記 事 中 の 談 話 で、. これ は、 ﹁日本 で は 上 演 禁 止/ 仏 国 で は大 好 評/ 谷. ﹁ 大 阪 朝 日新 聞﹂ 昭 和 二年 一月 二十 九 日 ︵五︶ 面. 9。無      題. に、 毎 朝 生 卵 を や つて ゐます が 、 と ても贅 沢 な奴 で し てネ、 地卵 だ つた ら食 ふが 上 海 卵 だ と匂 ひを嗅 いだ ゝ け で寄 り つか な い。魚 も 下魚 だ と 口にしま せ ん、 で ん ぶ でも鯛 な ら鯛 、 鰹 な ら 鰹 と チ ヤ ンと  可な り 世 話 です 。 食 ひ分 け る と   い つた 調 子 で、. ﹁ 夜 遅 う ま で原 稿 に熱 中 し て、 ほ つと息づ いた時 な. が 、 可愛 が り出 す と 実 に可愛 いも のです よ﹂. ど ス ト ー ヴ の 側   で猫 が ゴ ロノヽ 喉 を鳴 ら し な が ら 円 う な つて う づ く ま つて ゐ る のを 見 ると 、 何 か な し に か ら か つて見 た い や う な 軽 い気 持 ち に な る 。 ﹁ど う だ い﹂.

(16) (30) 谷崎潤一郎全集拾遺雑纂. いう 見 出 し の下 に、 他 に、 高 島 米 峰 o仲 人 だ った 日本. 勧 業 銀 行 理 事杉浦倹 一 ・山 田 わ か o柳 兼 子 ・綾 子 の父. で東 京 府 知 事中 川健 蔵 の談 話 が 掲 載 さ れ て いる。 ﹁ 東. ﹁そ の こと に ついて は数 日前 ︵二十 一、 二日ご ろ︶ 突 然 外 務 省 から簡 単 な問 合 せが あ つた ので差 支 へはな い. 京 日 日﹂ に は谷崎 の談 話 はな い。. 女らしい. 谷 崎潤 一郎 氏 談. が 上 演 し たら舞 台 の写 真 をと つて送 る やう取 は から つ てく れ と の返 事 を 出 し て お いた、 ド イ ツで上演 す ると い ふ のだ から多 分 ベ ルリ ン辺 り の劇 場 だ ら うと は思 ふ が 、 訳者 はも ち ろ ん劇 場 の名 も 俳 優 の名 も 判 ら な い の. 女 ら し い死 に方 だ 。 だ が 恋 愛 観 や時 代 の新 ら し い古 い. と いふ問 題 でなく 、い つの世 にも かう いふ こと が あ る。. で今 のと ころ乗 気 にな るも な ら ぬも な い、 多 分 私 の学 生 時 代 同 じ大 学 で親 交 のあ つた 元 ロシ ア人 で目 下 フラ. 勿 論 さ う 沢 山あ るわけ で はな い。特 殊 の場 合 であ らう. H .無     題. て問 題 にす るほど の こと はな い. から 騒ぐ のであ らうが 率 直 に い へば 個 人 の こと で大 し. た ゞ悪 いと いふ感 じ はし な いが 、 有 名 な家 庭 の ことだ. 惑 を かけ ると いふ点 から い つてもあ ま り感 心 しな い。. 供 など が あ れば 子供 のた め か ら い つても ま た近 親 へ迷. が愛 す る人 を失 つて死 ぬと いふ のも よ から う 。 た ゞ子. ン スに帰 化 し て ゐ る エリ セー フ君 の仏 訳 を更 に誰 か ゞ 重 訳 し て上演 す る のだ ら う、 う ま く ゆ けば よ いが と 思 つてゐ る﹂ 0。 1 ﹃女 ら し い﹄ ﹁大 阪 毎 日新 聞 ﹂ 昭 和 四年 八月 十 九 日 ︵ 七︶ 面 これ は十 七 日 に、 寺 内 正毅 の次 男 陸 軍歩 兵 大尉 寺 内. 人 の綾 子 二十 八歳 が ピ スト ルで後 追 い自 殺 を遂げ た事. ﹁ 大阪朝日新聞﹂昭和五年 二月十 一日 ︵二︶面. 毅 雄 が 、 三十 八歳 で盲 腸 炎 で病 死 し た通夜 の席 上 、 夫 に ついて の談 話 であ る。 ﹁ 夫 人 の殉 死 を 何 と観 る﹂ と.

(17) これ は、﹁ 省 線 夙 川 踏 切 で/ 自 動 車 、列車 と衝突/ 博 文 館 ﹁新 青年 ﹂ 編 輯 員 渡 辺温 氏/ キネ マ評論家 ら 四名. 2。無     題 ・. ﹁ 大 阪 毎 日新 聞 ﹂ ﹁ 東 京 日 日新 聞 ﹂ 昭 和 五年 八月 十 九 日. ったも のであ る。 檜 原 は、 長 谷 川 修 二と いう ペ ンネ ー. の檜 原 茂 二と渡 辺 温 を 西宮 回生病 院 に見 舞 った際 に語. 日新 聞 ﹂ の方 に依 った。 な お、 同 紙 に掲 載 さ れ た諸 氏. のだ が 、 念 の為 に こ こ に掲 げ て おく 。談 話 は ﹁大 阪毎. これ は、 所 謂細 君 譲 渡 事 件 の際 の談 話 で、 有 名 なも. ︵ 七︶ 面. 東京 朝 ムで ﹁新 青 年﹂など に しば しば 寄 稿 し て いた。 ﹁. の コメ ント の中 に は、松 子 の夫 根 津 清 太 郎 のも のも含. 死 傷 す ﹂ と題 し た記 事 中 の談 話 で、 事故 に遭 った友 人. 日新 聞 ﹂に は記 事 はあ るが 、谷崎 の談話 はな い。な お、. まれ て いて、 ︽本 月 の四 日 か 五 日 に 谷 崎 君夫 婦 に佐藤. に抗 議 す べき だ ね ⋮ ⋮運 転 手 に聞 いて見 ると 列車 の ヘ. ト は い つも暗 く な つて ゐ る のは よく な い こと で鉄 道 省. に は僕 は い つも 用 心 し てゐ る、貨 物 列車 の ヘツド ライ. 渡 す こと にし てゐ た の に⋮ ⋮誠 に気 の毒 だ 、 あ の踏 切. から来 たと いふ の で少 し は書 かう と今 日そ れ を書 いて. 原 稿 を取 り に来 た のだ が 忙 し い ので こと わ つたが 東 京. ゐ た 佐 藤 君 に伴 はれ て こ の 十 五 日 に 東 京 へ 行 き ま し. 佐 藤 君 の元 に行 く こと にな り過 日来 私 のと こ ろ に来 て. のも と に行 つたも ので、 娘 の鮎 子 も ス ツカ リ納 得 し て. 今 度 前 の家 内 、 親戚 そ の他 関 係 者 一切 と き れ いに諒解. た し前 の家 内 も佐 藤 君が 好 き であ つた のです 、 そ こで. 千代 子夫 人 ︶をす いてゐ と で 佐 藤 君 は私 の前 の家 内 ︵. 知 つてゐ るも のもあ り ま せ う、 何 し ろ 十 年 来 の こ. ﹁ま アそ の通 り ⋮ ⋮ 理由 です か、   そ れ や 文 壇 方 面 では. て いる のは興味 深 い。. 君 を交 へ、 谷 崎 君方 で色 々と 話 し合 ひま し た︾ と語 っ. 春 寒 ﹄に詳 し い。 こ の事 故 に つい て は、先 にも 挙げ た ﹃. 渡 辺 君 が 僕 の原 稿 を取 り に来 て死 んだ のは実 際 気 の. ツド ライ トが暗 い上 ガ ラ スが 曇 つてゐ た ゝめか光 が よ. 九 日︶ 昼僕 のと ころ にわざ ノヽ 毒 であ る、 実 は昨 日 ︵. く 見 え な か つた と いふ こと だ. 江. 光 細. (31).

(18) そ の芸 妓が ひと の妾 を してゐた のですが 旦那が駄目 に. 万生 馴橋 の芸妓 です ヨ、 七年 同 棲 し てゐ ま し た 、 一. にしま した、さう です ネ前 の家内と は か れ こ れ十 六. 鮎 子 の学校 の都合もあ る ので当分佐藤 君等 に貸す こと. な い の で何 処 か へ小 さ な 家 で も 借 り て この家 は. で す か ? 一人 で こ ん な 広 い 家 に ゐ て も 仕 方 が. た、多 分 廿 四 日 ご ろ に は こ ゝ へ来 る で せ う 、私. ゝ今小出檜重君 ︵ 洋画家︶が来てゐるこれから散歩を. ﹂ゝろぐ んでゐる ⋮⋮ あ 旅 に出 て気分をか へようと ン. のも あ る ので無 論 内 地 です が ⋮ ⋮ど こか. つた のです 、 こ の月 の末 に でも な つた ら ま た執筆 のも. ま し た、 未 練 と い へば 未練 で せうが 皆 諒 解 のも と にや. 家 内 と し ても幸 福 になれ る こと だ か らと 思 つて決 行 し. いと いふ のぢ や な し私 も時 折 は世 話 にも なれ る し前 の. 友 人 の佐 藤 君 にだ から安 心 し て や れ る殊 にも う会 へな. 3 。無     題 ・. し よ う﹂. し よ う と い つて ゐ る んだ 、 ま ア話 は これ く ら ゐ で失 敬. なり姉 のと ころに出 入 してゐました、そ の姉と いふの が待 合 をして私と知 り合 になり姉 の世話 で 一しよにな り、 ま ア ﹂ルこ な いのです 家 庭 の 妻 と しては 別段どう いふ ン が何 う も 性 が 合 は な い 、 佐藤君も 好き な人が 別 に そ の後 わかれ て独身 でゐ た、私もそ の時分好きな人が. が、念 の為 にここに掲げ ておく。﹁ 東京朝 日新聞六七︶. これも 細君譲渡事件 の 際 の 談話 で、 有名 なも のだ. ﹁ 大阪朝 日新聞﹂昭和 五年 八月十九 日 ︵五︶面. あ つたりして いろノヽ と面倒 に思 つた、前 の家内 は佐. 面 にも談話 はあ るが、  大阪 の方が長 いので、 ﹁ 大阪朝. 出来 て 一時同棲 したが これが面白くな か つたと見えて. 藤 君が好き であ つたが最近 は佐藤君 の方が非常 に熱 心. 日﹂ を採 った。. 十 六年 間 つれ そ つた妻 です 、. でもあ つた のでいよノヽ 話 をき めたま で、十 六七年も 同棲 した ことだ からそれ や多少 の思出も な いこと はな いが ま る つき り知 ら ぬ人 にゆづ つてしま ふ のではなく. *. ふ欠. 女 と し て ま ヤ こ ■ オ と い. (32) 谷崎潤一郎全集拾遺雑纂.

(19) 光 江 細. (33). に は ま だ 僕 も そ こま で の決 心 は つき かね た のと、 そ の. シ ツプ 子 の 日の端 に のぼ つた こと があ つたが 、 そ の時. 少 し合 は ぬと こ ろも あ り ま し た、 六、 七年 前 に 一度 ゴ. 点 も あ り ま せ んが 、 僕 が こ んな性格 だ から性格 的 には. 退 学 し、 東 京 の文 化学 院 に転 校 す る事 にな った。. け 、 結 局 、 通 学 し て いた阪 急 沿 線 仁 川 の聖 心女 学 院 を. が な い。 鮎 子 は 所 謂細 君譲 渡 事 件 の と ば っちり を 受. し た記 事 中 の談 話 であ る。 ﹁ 東 京 朝 日新 聞 ﹂ に は記事. 緒 に行 つて貰 ふ こと に し ま し た、 僕 は こ の家 にゐ る の. 藤 な ら 気 心も 知 つてゐ る し子 供 も ゐ な いからあ れ と 一. の間 に はど う せよそ に か たづ け ねば な ら な い、幸 ひ佐. た、 次 は鮎 子 の問 題 です が 、 あ れ もも う 十 五だ し数年. た ので千 代 の気 持 も聞 いた上 で かうす る こと にしま し. 忘 れ てゐ た やう です 、 こ んど は佐 藤 の方 から話が あ つ. る ので はな いかと 思 ふ、 何 れ に せ よ親 達 の事 件 で子供. い て鮎 子 の籍 ま で佐藤 にく れ て や る や う に誤解 し てゐ. ば ど ち ら に か定 ると思 ふ、 学 校 の方 で は今 度 の件 に つ. 可哀 相 な ので困 つてゐ ると こ ろだ 、 こ ゝ 一両 日も す れ. が 弱 いし、 片 親 に離 れ たも のを寄 宿 舎 に入 れ る こと も. 入 れ てく れ と いはれ てゐ る のだ が 鮎 子 は腺 病 質 で身 体. ﹁実 は学 校 の方 から 転 校 さ せ る か さ も な くば 寄 宿 舎 に. 後 生 活 の場所 が 違 つた り し てあ れ の気持 も そ のこと を. も 少 し変 だ から綺 麗 さ つば り旅 に出 る こと にしま した. ま で世 間 から拒 まれ るやう で は可哀 相 で は な いか﹂. ﹁ 大阪朝 日新聞﹂昭和 六年 一月 二十 四日 ︵五︶面. 5 。無       題 ︲. が 、 住 む のはや はり関 西 に し ます 、武 林 は外遊 を勧 め るが 今 のと ころそ んな 気 はあ り ま せ ん. 4 。無       題 ・. 本 で同棲P﹂と題 した記事中 の談話 で、古川 丁未子と. これ は、﹁ 谷崎氏が/ 婦人記者と結婚/ 来月上旬岡. これ は、﹁ 谷崎鮎子さ ん/学校 から突放さる/﹁ そん. の結婚 に ついて、 二十三日午後、滞在 して いた東京 目. ﹁ 大阪朝 日新聞﹂昭和 五年 九月九 日 ︵五︶面. な家庭 の子 は困 る/転校す るか 寄宿舎 に入れL と 題.

(20) (34) 谷崎潤一郎全集拾遺雑纂. 日﹂ を採 った。. が 出 て いるが 、 談 話 は大 阪 の方 が 長 い ので、 ﹁大 阪 朝. 七 ︶面 にも 、 同 様 の記 事 る。 同 日 の ﹁東 京 朝 日新 聞 ﹂︵. 本 橋 茅 場 町 の 東 洋 ホ テ ル の サ ロンで 語 った も のであ. ル の サ ロンで語 ったも のであ る。 同 日 の ﹁東 京 日 日新. 話 で、 や はり古 川 丁未 子と の結婚 に ついて、 東 洋 ホ テ. これ は、 ﹁結婚 を語 る谷崎 氏﹂ と 題 し た 記 事 中 の 談. 工、 ど う し て判 り ま し た か、 私ど も と し て の話 は結 婚. 聞﹂ ︵ 七 ︶ 面 にも 同様 の記 事 が 出 て いるが 、 談 話 は大 大 阪毎 日﹂ を採 った。 阪 の方 が 長 いので、 ﹁.   一月 二十 五日 の鳥 取 の ﹁因 伯 時 報 ﹂ にも 、古 な お、 川 丁未 子 と の結 婚 が 報 道 さ れ 、 丁未 子 の父憲 の談 話 が. ち夫 婦 と の友 情 はそ の後 少 しも 変 り はな い、 僕 と し て. 幸 ひ本 人 は来 てく れ る と い ふ ので喜 ん でゐ る、 佐 藤 た. ゐ た、 前 か ら好 き で はあ つたが 年 が 違 ふ ので遠慮 し て、. け た い、 先 方 の親達 に対 す る遠 慮 も あ る か ら な 、 僕 は. ま だ 正式 に決 つてゐ な いか ら僕 の 口から い ふ こと は避. の十 五 日上京後 話 を 具体 的 に進 め た の です 、 た ゞ古 川. ど う かと 思 つた のですが、 世 話 す る人 が あ つた ので こ. 社 に入れ て貰 つた のです、 私 と し て は最 初 年 も違 ふ し. 寛 ︶ 君 に話 し て文 芸 春 秋 者 に推 薦 し、昨年 八月菊 池 ︵. 師 弟 関 係 が あ り ます そ の後 私 から関 西 中 央 新 聞 へ記. 門 を 出 た人 で卒 業 前 から友 達 と私 の家 に出 入 り し. と いふと ころ にも進 ん でゐ ます、 古 川 は大 阪 の女 子専. も 古 い感 情 の 一切 を清 算 し て朗 か に結 婚 す る ことが 出. の父 が 一応 辞 退 す ると いふ手 紙 を寄 越 し た ので私 から. 掲 載 さ れ て いる。. 来 る、 あ ゆ 子 はや はり佐 藤 た ち の方 で見 ても ら ふ こと. ど う かう 申 す こと は今 のと ころ出 来 な い のです が 私 と. と知合 つたのは前申す通り三年来 の知合 で私 の前 の妻. 、 直 憾一古川 の父に面会して話をする つもりです 古川. し ても 何 れ. にす る. 6。 ︲ 無   題 七︶面 ﹁ 大阪毎日新聞﹂昭和 六年 一月 二十四日 ︵.

(21) 光 江 細. (35). で挙 げ た いと 思 つてを り ます 、 実 は昨 日 ︵ 十 二日︶ 初. が済 ん で から に し たらと 思 つてゐ ます、 式 は勿 論 大阪. す が佐 藤 ︵ 春 夫 ︶ 君 の方 が まだ 式 を挙げ な い のでそ れ. 婚 す る から に は相 当 の媒 酌 人 を 立 て ヽし た いと思 ひま. や子供 達 も よく 知 つてゐ ま す 、 私 と し て は勿 論 いざ 結. だ し、 世 間 で はま た何 か変 に考 へる で せう が これ はや. いて下 さ い、 弟 子 と し て引 取 ると いふ こと も 私 が 独身. す が そ れ はど う かう と 私 の 日から い へな い、 誰 か に聞. 女 房 に し た いと 思 ふ位 だ から 好 き な のは好 き な ので. そ れ は 困 つた ナ ア、 も ち ろ ん. 7.無       題 ・. り た いと 思 つてゐ る. はまだ ン ﹂の話 は知 ら な い で せう、 私 と し て はま. め て菊 池 君 に話 を し て春 秋 社 の方 の暇 を貰 ふ こと にし ま した 佐藤. 上 結 婚 と いふ こと にした いと 思 つてを り ます 、 古 川 と. と 題 し た記 事 中 の談 話 で、 や は り古 川 丁未 子 と の結婚. これ は、 ﹁婦 人 サ ロンの記者 と/ 結 婚 す る谷 崎 さ ん﹂. ﹁ 報 知 新 聞 ﹂ 昭 和 六年 一月 二十 四 日  ︵ 七︶ 面. は上京 以 来 も よく会 つてゐ ます 、 本 人も 結 婚 に は賛 成. に つい て、 東 洋 ホ テ ルのサ ロンで語 ったも のであ る。. づ 弟 子 と し て私 の家 に引 取 り、 よく 双方 で理解 を し た. し てく れ ま し た. 翁あ な たと し て古 川 さ ん のど こ に魅 惑 を感 じ られ た の. しさ う な ら ナ ンで私 から推 薦 し て東 京 によ こしま せう. つたが そ こま で つき つめ て は考 へて はゐ な か つた、 も. いや決 し てそ んな こと はな い、 前 から好 き は好 き であ. ではな い のです かし. 書 の形 でゐ ても ら ふ つも りだ﹂. 式 をあ げ るま で は披 露 せ ぬ積 りだ、 まあ そ れ ま で は秘. 知 つてゐ る、 結婚 し ても佐 藤 が ︵ 春 夫 氏 の こと ︶ 結婚. 未 子 さ ん は以 前 から僕 の家 へ時 々来 た りす る ので よく. だ 、 し か しま だ は つき り決 つたと いふ訳 で はな い、 丁. ﹁おれ も 一人者 だ し まあ 結婚 す るやう な 気 にな つた の. 翁今 度 の結 婚 は例 の夫 人 離 婚 事 件 の起 る前 から の筋 書. です かし.

(22) (36) 谷崎潤一郎全集拾遺雑纂. 8 。無       題 ︲ 七︶ 面 ﹁大 阪 毎 日新 聞 ﹂ 昭 和 六年 五月 十 九 日 ︵ これ は、 ﹁谷 崎 氏 夫 妻 /高 野 山 へ/ 密 教 の 研 究 に﹂ と 題 し た記 事 中 の談 話 で高 野 山 へ出 掛 け る前 日 の十 八. ら古 寂 な寺 が 好き だ、 震 災後 京 都 の東 山 三条 で無 住 の. 寺 を 一人 で借 て住 ん でゐ た こと も あ る、 こんど も 静 か. な 山 寺 の書 院 で鐘 の音 でも 聞 き なが ら少 し纏 ま つた仕. 事 を し た いから で密 教 の研 究 は従 だ. あ ろう 。 事 実 、 谷 崎 は、 高 野 山 を降 り た後 、 昭 和 六年. 西 宮 市 外 大 社 村 森 具北 蓮 毛 八 四 七 に住 ん で いた か ら で. し た い︾ と 言 って いるが 、 これ は、 当 時 、 根 津 夫 妻 が. であ る。 谷 崎 は、 ︽西宮 あ た り の小 さ いと こ ろ へ引 越. 払 つて西 宮 あ たり の小 さ いと ころ へ引 越 し た いんだ が. 族 も へつた し、 こんな大 き な家 は不経 済 だ か ら早 く 売. 女 を呼 ん で自 炊 生 活 を し ても よ いと思 つて る、 僕 も 家. け ま と め十 日位 の予定 で出 かけ る、 気 持 が よけ れば 下. ︱ ︱ 一緒 に行 く よ、 明 日と りあ へず 身 の廻 り のも のだ. ︱ ︱ 奥 さ ん はP ︶ ︵. 十 一月 上 旬 か ら 七年 二月 四 日 ま で、 西宮 市 外 森 具 の根. 不景 気 で買 手 が なく弱 つて る んだ ⋮ ⋮君 高 野 でも 牛 肉. 日午 後 、 岡 本 梅 ケ谷 の自 宅 で記 者 の質 問 に答 え たも の.   た だ し、   そ の頃 こ の別 荘 津 家 別 荘 別 棟 に 移 り住 む。. が 食 へる かね. 9 .無     題 ︲ 大 七︶面、﹁ ﹁ 東京 日日新聞﹂昭和十 三年九月十 一日 ︵. は、 既 にお金 に困 った根 津 清 太 郎 が ︽整 理 のた め に売 り物 に出 し︾ 翁初 昔 し 空家 にな って いたと 言 う 。 な お 、 ﹁東 京 日 日﹂ には、 三 ケ 月 滞 在 の 予 定 とす る. ︱ ︱ 高 野 山 で密 教 を少 し調 べ た いと 思 つて る、 し か し. 版/谷崎潤 一郎氏が 五年 の精進/ 三千 四百枚 の長篇 成. 源氏物語 ﹄ の現代 古典 の寂びを生 かし/﹃ これ は、﹁. 記 事 はあ るが 、談 話 はな い。. 僕 のは信 仰 で は な く 骨 董 いぢ り と 同 じ だ よ、 大 体 僕 は. る﹂と題 した記事中 の談話 で、十 日午後、滞在 して い. 十 一︶面 阪毎 日新聞﹂ ︵. 人 が 想 像 し てゐ る やう な官 能 的 な雰 囲 気 は嫌 ひ で昔 か.

(23) 光 江 細. (37). た渋 谷 区 大 和 田町 九 二 いと う旅 館 で記者 に語 ったも の であ る。 こ こ に は ﹁東 京 日 日新 聞 ﹂ の談 話 を掲げ た。   こ の 源 氏物 語 を書 き はじ め て か ら ザ ツ ﹁さ う です ね 、 と 五 ケ年 の日子 が た ちま した、 はじ め準 備 に 二年 、 本. 十 一︶面 ﹁ 東京朝 日新聞﹂昭和十 三年九月十 一日 ︵. 0。無       題 2. ﹁も の ゝ哀 れ ﹂ の精 神 を そ のま ゝ生 かす と いふ こと は. 大阪朝 日新聞﹂ には 旅館 で語 ったも のと思われ る。 ﹁.  同じ 東京 日日新聞﹂ のも のと同じ日に、 話 であ る。 ﹁. 訳を脱稿/谷崎氏 五年 の難事業﹂と題した記事中 の談. これ は、 ﹁源氏物語﹄昭和 に再生/千四百枚 の 国語. 生 や さ し い努 力 でな い、 と つくづ く悟 り、 かね て尊 敬. 小さな記事 はあ るが、談話 はな い。. 源氏物語 の妙味 は言葉少な の点 にあ る、作者が女性な. し てゐ た東 北 帝 大 教 授 山 田孝 雄 博 士 に校 閲 を ねが ひ全. 記 さ し ても ら ふ つも り です. し ま し た、 こ んど 出 版 に当 つても ﹁山 田博 士校 閲 ﹂ と. く 親 切 な御 助 力 指 導 に預 かり こ の難 かし い事 業 を完 成. 薦 めら れ ま し たが 古 文 の香 を失 はず に新 ら し い文章 で. いた のです が ほ か の仕 事 はな ん にも 出来 ま せ ん でし た. の 人 に 理 解 し て. 当 に書 き 出 し て か ら 三年 、 そ の間 一切 の仕 事 を拗 つて. L数. 情 熱 を打 ち こみ ま し た﹂ ﹁な にし ろ 三千 三百 九 十 一枚 と い ふ厖大 なも のにな り 自 分 でも よく これ だ け のも のを書 き つゞけ たも のだ と. こ れ を 毎 月 二 冊 宛 干J 行 し て 全 部 で 廿 七. はじ め好 き な源 氏 を 現 代 文 に直 し て見 な いかと友 人 に. 驚 いてゐ ま す 、 ズ ツと住 吉 の宅 で殆 ど毎 日 か ゝさず 書. 源 氏 五 十 四 帖`. 冊 と し 一 頁 は 原 稿 紙 一 枚 と し て 百 五 十 頁 く ら ゐ の も の. に し て 一 ケ 年 に 出 版 し て 貰 ひ た い と 考 へ 西 洋 綴 の 和 本. す` と い し ふ か 落 し つ 読 い み た 返 感 し じ て の ゐ も る の う に ち し に た ま い ヤ き と つ 願 と つ 意 て に ゐ 充 る た ん な で. い と こ ろ が 出 る だ ら う と 思 ひ そ れ ま ヤ 機 会 が あ る た び に. 改 め て 一 生 か ゝ つ て も 完 壁 な も の こ ン な る や う 努 力 し 世. 界 に 誇 る 源 氏 の 内 容 を わ が 国 民 の 多. 貰 ひ た い と そ れ ボ ヤ か り 願 つ て ゐ ま す.

(24) (38) 谷崎潤一郎全集拾遺雑纂. た山 田博 士 に お礼 芳 々種 々打 合 せ に仙 台 へ行 く 心算 だ. だ つた、 仕 事 も 一段 落 し た ので数 日中 に お世 話 にな つ. 作 と し て こ の文 学 的 な魅 力 の再 現 が 僕 の 国語 訳 の主 眼. す こと にも な る、 意 味 よ りも 文 学 的 な味 を、   一つの創. す る こと は困 難 な こと であ り 、 し かも 文 学 的価 値 を落. 力 が あ ると 思 ふ、 だ か ら 口語 訳 と い つても 源 氏 を 講 釈. の で露 骨 に説 明 せず 描 写 も暗 示 的 だ 、 こ こに文 学 的魅. つたが 夫 人 と 一緒 に訪 ね て来 た ので君 一人 な ら来 て ほ. うが 、 こ のご ろは会 つて いな い、 離 婚後 のこと で はあ. で は地 理 的 にも近 いし、 私 を 一番 頼 り にし て いるだ ろ. ら川 田君 と 結婚 と いう こと にな つて いた はず だ 、 京 都. 子 さ ん は夏 ご ろ離 婚 し、 博 士 が あ とぞ いをも ら つた な. 遺 書 と か手 紙 と か いう も のはま だ 手 にし て いな い、 俊. ﹁ 熱 海 へは先 月 二十 六 日か ら 来 て いるが 川 田君 か ら の. し いけ れ ど 一緒 に来 る のは見 合 せ てく れ と い つた ので. 遠慮 し て いる のだ ろう、 俊 子 さ ん に ついて はあ ま り言. .無     題. 2.. いたく はな いが 歌 の弟 子 だ 、京 都 では、社 会 的 にも 非. 難 を受 け 、 友 達 も 遠ざ か つて いた よう であ つた、 子供. ﹁ 朝 日新 聞﹂︵ 大 阪 版 ︶昭 和 二十 三年 十 二月 四 日 公 じ 面 これ は、  川 田順 の 所 謂老 らく の 恋 事 件 の際 の 談 話. が あ り、 子供 に対 す る愛 情 や 主 人 に対 す る複 雑 な感 情. も あ ろう し、 川 田君 にし ても 同様 の ことが いえ る ので. で、 三 日夜 、 熱 海 市 山 王 ホ テ ル別 荘 で語 ったも の であ  大 阪 版 の方 が 長 い の る。 東 京 版 にも 談 話 はあ るが 、. 二人 の心境 如 何 で は情 死 行 など と いう ことも な いと は. 2。 2 無     題. ら京 都 に帰 る﹂. いえ ぬ、 友 人 の安 否 に関 す る こと だ から場 合 によ つた. で、 大 阪版 を採 った 。 な お、川 田順 の ﹃孤 悶録 ﹄ ﹁ち ゑ な し の記 ﹂公 〓 し に よ る と 、谷 崎 は 、 こ の時 、熱 海 から ツキ ナ カ ゴ ロカ ヘ リ オ メ ニカ カリ マス﹂ ユウキ ア レ﹂タ ニザ キ ト打 電 し、 十 九 日 に帰 洛 、 二十 日午 後 、川 田 を 見舞 った と いう。. ﹁ 毎日新聞﹂︵ 大阪版︶昭和 二十四年 一月三日 ︵ 四︶面.

(25) 光 江 細. (39). 滋 幹 の母/ 描 く 平 安 朝 の 二女性/ 豊 艶 の筆 す す む潤 一. 谷 崎 源 氏   少将 これ は、 大 阪 版 だ け に掲載 され た ﹁. つたが 最 近 はず つと筆 です よ、 そ れ も以 前 は筆 でも つ. ます が 、 そ れ で午 後 二時 ご ろま で続 け ます昔 は ペ ンだ. ︱︱ 朝 です か、 大 体 八時 ご ろ からも つと早 い時 も あ り. 間だ け おく れ る勘 定 です が 元来 遅筆 の方 です から ペ ン. 郎 氏 ﹂ と 題 す る記 事 中 か ら、 記者 と の問 答 のみを抜 き. でも筆 でも スピ ード は変 り ま せ んね、 え え 一日 三枚 く. て いき な り原 稿 紙 に書 いた のです が最 近 は 一た んペ ン. 塔 頭 真 乗 院 ︶で、 記 者 の質 問 に答 え たも のであ る。﹃ 少. ら い⋮ ⋮. で下書 き を し て お いて筆 で清書 す る のです 、 清 書 の時. 将 滋 幹 の母﹄ が 終 わ った ら、現 代 も の o戦後 も の ・没. ︵ 恐 ら く は、 こ の頃 よく 仕 事 場 に使 って いた南 禅 寺 の. 落 階 級 の乱 脈 な崩 れ 方 など も書 いてみた いと 言 って い. 出 し たも のであ る。 昭 和 二十 三年 末 に、 南 禅 寺 の寓 居. 鴨東綺 謂﹄ ﹃ 鍵﹄﹃ 癒願 老 人 日記 ﹄ など の、 る事 は、 ﹃. も 一人 の方 は実 在 し て いた こと に間違 いな いが よく わ. など にも 出 て い て比 較 的 よく わ か つて いる のです が 、.   一人 は今 昔 物 語 ︱︱ 女 は主 なも のは 二人 出 て来 ます 、. ︵ ︱︱ こんど の 小 説 に現 れ る女 はど う いう 女 で し よう か、 作 者 の好 み の型 です か︶. 最 初 の萌 芽 と も 見 られ る。 な お、 全 集 に収 録 さ れ て いる ﹃少将 滋 幹 の母  作 者 四︶面 に掲 載 さ れ の言 葉 ﹄は、東 京 版 で は 一月 一日 の ︵. ︵ ︱ ︱ 一日平均 ど のく ら い進 まれ ま す か︶. ︱ ︱ え え 十 回分 ぐ ら い. ︵ ︱ ︱ 大 分 は かど り ま し た か︶. ︱ ︱ 昔 の女 は実 際 にはど の記 録 を見 ても み な同 じ よう. ︵ ︱ ︱ 現代 的 な解 釈 を施 す と いう意 図 はな いん です か︶. 個 人 的 な好 悪 を 出 さ な い つも り にし て いる のです が. あ る好 み の型 と い つても 元来 私 は作中 の人物 にあ ま り. から な い、 そ こ に多 少 作 者 の想 像 が 加 え ら れ る余 地 が. ︱ ︱ ま ア三枚 と いう と こ ろ でし よう、昔 から変 りま せ. で名 前 さ え残 ら な いも のが 多 く ボ ンヤリ し て います 、. て いるが 、大 阪 版 で は こ の記 事 の隣 に掲 載 さ れ て いる。. ん.

(26) (40) 谷崎潤一郎全集拾遺雑纂. これ を あ んま リ ハツキ リ個 性 を出 し て し ま う と かえ つ. つた︾ と 言 って いる所 が 、特 に注 目 さ れ る。. 伏 のな い、 主観 を 全 く 出 さ ぬ東 洋流 のも のを書 き た か. ︵ ︱ ︱ こ の小 説 が 終 つて後 の御 腹案 はP ︶. ら中 央 公 論 に連載 の つも りだ つたが 、 二回き り で載 せ. ﹁ 細 雪﹂ は昭和 十 七年 に書 き はじ め て翌十 八年 正 月 か. 細 雪 に つい て. て昔 の女 の特 徴 が な く な る んじ や な いです かね、 だ か ら あ る程 度 個 性 つけ ても 近 代 化 は しな い つも り です 、 も つと も これ はも く ろ み であ つて書 いて行 く と ど う な. ︱ ︱ いろノヽ あ り ま す よ、 今 後 十年 生 き た ら 何 と 何 と. ら れ な い こと にな つた 、戦 時 中 の圧 迫 が いろ いろと私. 談. 何 と を や り た いと いう も く ろみ は立 つて いる のです 、. の上 にも おそ つて来 た から であ る、 も つと も最 初 は直. 氏. 例 え ば 源 氏 物 語 を も う 一度 訳 し直 す こと 、 も ち ろ ん現. 接 私 に干渉 があ つた ので はな か つたが 、 私 はむ し ろ中. 崎. 代 も の の構 想 も あ り ま す 、 戦後 も の、 没 落 階 級 の乱 脈. 央 公論 の編 集者 よ りも弱 気 だ つた、し かし、こ の作 は、. 谷. な崩 れ か た など も書 いて見 た いん ですが 何 し ろそ う い. そ の数 年 前 から 書 こう と 腹案 を 立 て ヽいた も のだ か. る か そ れ はわ か ら な い. う も のは東 京 で し よ う、 京 都 に いると ど う も ⋮ ⋮. ら、 こんな こと で筆 を折 る気 に はな れ な か つた. 績 / 美 し い風俗 絵 巻 / 七 ケ年 の 労作 ﹁細 雪 L と 題 す. 朝 日賞 に輝 く業 これ は、 大 阪 版 だ け に掲 載 され た ﹁. ﹁朝 日新 聞 ﹂ ︵ 大 阪 版 ︶ 昭 和 二十 四年 一月 三 日 ︵四︶ 面. さ な いと いう始 末 書 を要 求 さ れ た のだ つたが 、 そ れ は. が 、 た ちま ちおと が めを こう む つた、 あ と は決 し て出. つた、当 時 、出版 は許 可制 でなく 、 届 出 れば よ か つた. け まと ま つたと こ ろ で、自 費 出 版 と し て 二百部 だ け作. そ のま ゝ発表 のあ ても な し に書 き 続 け、 上巻 の分 だ. 細 雪 ﹄に対 し て昭 和 二十 三年 度 朝 る記 事 中 の談 話 で、﹃. 遂 に出 さず にしま つた、強 いて出 そ う と す れば 用 紙 の. 3 。 ﹃細 雪 に つ い て ﹄ 2. 日賞 を授 与 され た際 に語 ったも のであ る。 ︽全編 に起.

(27) 光 江 細. (41). 疎 開 騒ぎ で筆 は進 ま な か つたが 、 中絶 さ せな か つた の. から執 筆 を 放 棄 す る気 は全 く な く 、そ の後 も 、 空 襲 や. 私 と し て は自 費 出版 し た作 は これ 一つし かな い、 だ. が 、 ま た推薦 し てく れ る人 も あ つて、 こ のよう な賞 に.   いろ い ろ 批 評 も 受 け ても いる よう だ い 人 た ち から、. が 、 さ いわ い、 よく読 ま れ て いる ようだ、 ま た、 新 し. う だ れ も 読 む人 が な い ので は な いかとも 考 え て いた. つか り時勢 が変 つて し ま って、 あ のよう なも のは、 も. であ る、 戦 後 にな つて中 巻 も 出 し、下巻 の分 は婦 人 公. 預 る こと にな つた のを、 た い へん光 栄 に思 つて いる. 方 で押 え ら れ た ゞ ろう. 論 に連 載 し て、 十 三年 春 に 書 き 上げ た のが 秋 に 完 結 し、 下 巻 も 出 版 さ れ 、 七年 目 に完 成 した のであ る. 4.無     題 2. ﹁ 東 京 版 ︶ 昭 和 二十 五年 六月 三十 日 公 じ面 朝 日新 聞 ﹂ ︵. そ の間 、 これば つか り に か ゝ つて いた わ け で はな い が 、 私 と し て は 一ば ん長 く か ゝ つた作 であ る、 源 氏物. これ は、東 京 版 だ け に掲載 され た﹁源 氏物 語 ﹂ を完. ﹁源 氏 ﹂ は宮中 の不始 末 や乱 倫 な行 為 を題 材 と し たも. 崎 ら し い コメ ントと 言 え よう 。. 熱 海 の ﹁雪後 庵 ﹂ で語 ったも のであ る。皇室 崇 拝 の谷. 訳 に/ 谷崎 氏 が 再 び 執 筆 ﹂ と題 す る記 事中 の談 話 で、. 語 の現 代 訳 は、 あ れ で四年 し か か ゝらな か つた、 人 か らも いわ れ て いる よう に、 源 氏物 語 に手 を かけ た こと が、 こ の作 に役 だ つて いる こと は否定 し得 な い 全 編 に起 伏 のな い、 主 観 を 全 く 出 さ ぬ東 洋 流 のも の   し か し 戦時 で あ つた ゞけ を 書 き た か つた のであ る、 に、 自 然 つま ら な いこと に遠 慮 せざ るを得 な か つた、 出 し て、 退 廃 的 な面 も書 く つも りだ つたが 、 あ のよう. と を昔 か ら理解 し て お ら れ 、 歴 代 の帝 王 の中 には こ の. な い、 皇 室御 自 身 も こ の書 が優 れ た芸 術 作 品 であ る こ. のであ るけ れど も 、 ど こま でも 小 説 であ つて事 実 で は. な甘 いも の にな つてし ま つた のを いさ ゝか 不満 に思 つ. 書 を愛 読 され た方 が 何 人 も あ る、 し たが つて これ を完. あ のよう に明 る い面 ば か り でな く 、 不良 マダ ムなど も. て いる、 し か し、 そ れ よ り も 心配 した のは、 戦 後 にす.

(28) (42) し た いと 思 う. 時 期 が 来 た の であ れ を初 め か ら 訳 し直 し完 全 な も のに. 々が 不快 を 感 じ ら れ ると は思 わ れ な い、 いま や適 当 な. 全 に現 代 語 に訳 し た から と い つて、 いまさ ら 皇 室 の方. 平 記 ﹂ を書 いた。. 局 ど ち らも 書 かず 、 ﹁週 刊 新 潮 ﹂ に は ﹃鴨 東 綺 諏﹄、. 西 を舞 台 にしたも のを書 き た いと 言 って いる。 が 、 結. 主 に し た東 京 の事 、 ﹁サ ンデ ー毎 日﹂ に 大 阪 を 主 に関. ﹁文 芸 ﹂ の ﹃二 つの小 説 ﹄ でも 、 ﹁週 刊 新 潮 ﹂ に浅草 を. ◇ 早 いも ので京都 に住 み ついても う 十年 、 老 来 、京 都. ﹁サ ンデ ー毎 日﹂ に は昭 和 三十 七年 にな って、 ﹁口所 太. 5 。無       題 2 ﹁ 京 都 新 聞 ﹂ 昭 和 三十 一年 十 二月 二日 ︵ 七︶面 これ は、 ﹁谷 崎 氏京 を去 る﹂ と 題 し た 記 事 中 の談 話. 亭 ・五位 庵 と あ と 一つの中 から 、 田中 軽 次 郎 氏 が 選 ん. 氏 の﹃聞 書 谷 崎 潤 一郎 ﹄に よれ ば 、谷 崎 が提 示 し た 石村. 寮 と な り、 翌 年 春 、 石 村 亭 と 名 付 け られ た 。 稲 沢 秀 夫. の専 務 田中 鞭 次郎 氏 の夫 人 だ った関 係 で、 日新 電 機 の. 漏 渡 亭 は、 松 子 夫 人 の女 学 校 時 代 の友 人 が 日新 電機. と いえば 、新村出 先 生 、 吉 井 勇 君ぐ ら い。 さき ご ろ、. 都 で は余 り外 へ出 な い の で、 知 友 も少 な か つた。友 人. い の で や め る こと にな り私 が 名 前 を頼 まれ て いる。京. て いかな い。寮 の名 前 にと いう話 も あ ったが字 が難 し. 電 機 に買 っても ら え た。  〃 滉 渡 亭 〃 の名 は熱 海 へも っ. か ら し て いた。幸 いに家 も家 内 の知 合 い の関 係 で日新. の気 候 が 合 わなく な ってき た ので去 る決 心 を さき ご ろ. だ と いう 。 ま た、 伊 吹 和 子 氏 の ﹃文豪 の日 々﹄ に よれ. 新 村 先 生 の文化勲 章 拝 受 のお祝 いに行 ったが 、 今 さ ら. で、 十 二月 一日 に下鴨 渥 渡 亭 で語 ったも の であ る。. ば 、 石 村 亭 は、 庭 に大 陸 渡 来 ら し い石 の像 が 幾 つかあ. 芸 術 と 近 ご ろと み に東 京 中 心 主義 の弊 が あ る。 芸術 院. 遅 き にす ぎ る。僕 ら よ り先 にも ら って い い人 だ。文 化 、. ︽来年 の仕 事︾ に ついて は、 永 栄啓 伸 氏 が ﹃谷 崎 潤. 会 員 にし ても市川 寿 海 丈 、 井 上 八千 代 さ んら関 西 から. った所 か ら思 い ついたも の であ る。. 一郎 ︱ 資 料 と 動 向 ﹄ で紹 介 さ れ た昭 和 三十 二年 一月 号.

参照

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