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古代中央アジアの善善国における裁判制度について

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Academic year: 2021

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(1)Title. 古代中央アジアの善善国における裁判制度について. Author(s). 山本, 光朗. Citation. 北海道教育大学紀要. 人文科学・社会科学編, 56(2): 45-55. Issue Date. 2006-02. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/810. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) 北海道教育人学紀要(人文科学・社会科学編)第56巻 第2号 JournalofHokkaidoUniversityofEducation(HumanitiesandSocialSciences)Vol.56,No.2. 平成18年2月 February,2006. 古代中央アジアの都善国における裁判制度について. 山 本 光 朗. 北海道教育人学旭川校史学研究室. OnJudicialSystemoftheShan−ShanStateinAncientCentralAsia YAMAMOTO Mitsuo. DepartmentofHistory,AsahikawaCampus,HokkaidoUniversityofEducation. 概 要 小考は紀元4世紀の中央アジア都善国の裁判制度について,カロシュティー文書恥.593および恥.570を 使って明らかにすることを目的としたものである.両文書に記された案件は,都善王マヒリ治世の9年に都 善国のチャド一夕地方(ニヤ遺跡群)で,パルヴァタ国出身者によって引きおこされたラクダ強奪事件に端を. 発した案件であるが,この案件についてはマヒリ王11年,同17年の2度裁判が行われ,結審した.こうした 経緯から,都善国の裁判制度の一定の整備と共に,被告の刑罰に関して「寛刑」の状況を窺うことが出来, 後者については言えば,古代インド世界ときわめて類似するものがあり,中央アジア都善国の裁判制度がイ ンド世界に強く近縁したものであることを指摘したものである.. はじめに. 小者は,3∼4C中央アジアのオアシス領域国家,都善国の裁判制度の一面について,中華人民共和国新 彊ウイグル自治区のニヤ遺跡から出土したカロシュティー文書を使って明らかにしようとするものである. この国の裁判制度については,私は以前,この国の王が裁判の最高の「主宰者」で,ダルマ(dhaIfla,dharma,. 「(広義の)法」の意)の最高執行者であったこと等を指摘したことがある(1).そこで私がカロシュティー文 書恥.709等を使って明らかにしたことは,都善国において王自身により主宰された裁判の具体的な姿であっ て(2),クローラインナ(楼蘭)方面の主都において,王が裁判を聴いて主宰し,複数のオーグ(ogu,恐らく 都善国における最高位の官称号),スウェータ(su寸etha,他国への使節行に携わる官称号),主簿(cozbo, 地方政治の多くの局面に関わる官称号),コーリ(kori,王家の畜群を管理する官称号),チエワライナ (cu寸alayina,使節行に携わる官称号),タスチヤ(tasuca,不明)といった宮人達が審問し(3),判決を出す姿 であった.そしてこの主都での審判は,地方で行われた裁判に対して言わば上級の裁判であったと考えられ る.また恥.709文書自体について言えば,この文書は裁判の経緯・結果を文書として残す,証書のような役 割を果たしたと思われるのである.以上のような点を踏まえて,私は,都善国王が裁判の最高の「主宰者」. 45.

(3) 山 本 光 朗. で,ダルマの最高執行者であったこと等を指摘したわけであるが,こうした都善国の裁判制度自体が実際に どのような特徴を備えていたか等については,いまだ充分なイメージを得ることが出来たとは言えないと考 えている.それは例えば,以上のような主都での裁判に対して,地方での裁判はどのようにして行われたか,. そしてその特徴はどのようなところにあったのか,そこから判明するダルマの特色はどのような点にあった のか等の問題が多く残っているからである.′ト考はこのような点を踏まえて,4Cの都善国における地方で の裁判の特徴について分析し,そこから推定されるこの国のダルマの特色について考えてみようとするもの である.. 以下では都善国の領域から出土した恥.593文書と恥.570文書の2点のカロシュティー文書の内容を分析す ることよって,これらの点を明らかにする.なお付随的ながら,これら両文書が作成された時代,すなわち マヒリ(Mahiri)の治世の時代の特徴についても,若干言及するつもりである.. 1.No.593文書 (1)No.593文書の内容. カロシュティー文書No.593は,M.A.Stein氏が1906年10月25日にニヤ(Niya)遺跡群中西部のN.XXIV 遺址,その基部の,“′トさな隠された文書庫(asmal1hiddenarchive)’’と呼んだ場所から発見した多数の文 書中の1点で(4),後に検討するN。.570文書も同地点で発見されたものである.同道址は,St。in氏によると, 比較的人きなもので,残存部分だけで縦横25m前後あり,部屋は9以上で,氏は富裕な官吏の家と推定され たが(5),私はこの建築物は当地の役所であったものと考えている.同道址からは,以前私が扱ったNos.571, 580等の証書類が出土しているが(6),これらの文書が恥.593文書に登場する特定の人物と直接関係があった とは認められず,特定の富裕な官吏の家とは考えにくいからである.. 恥.593文書は長方形の2枚組文書で,大きさは約18cmx8cm,上下2枚の木簡を縛り封印した筈の縄が切. られ,開封された状態で発見された(7).遺物番号はN.XXIV.viii.96で,写真図版は,Stein,Serindia, Plate XXIIIに上板表側と下板表側とが収録され,また封印の写真も同書Plate XXに収録されている.本 文書のtransliterateはKharo5fh言1nscriptions(以下Kh・1・と略記する)Ⅲ,No・593に載せられ(8),. T.Burrow氏の訳例がAT7mlSlationqftheKharoぞthiDocumenisj>omChineseTuehesian(以下A T7unSr Jα≠ブ。〝.と略記する)に同番号で収録されている(9). 本2枚組文書の上板表側には,中央部の封印を挟んで上下に以下の(1ト(2)行の文言が記されている.. (1)itarrlCalihita如balaserrlnaku− この文書,バラセーンナと. (Z)p亨uta至aCaparidetreyavar亨iutil クプシュタからの三歳の雌ラクダ1頭. (3)praccsu亘uta至aSuhadaridavo. に関するもの,はスグタが適切に保持すべきである.. この部分は,この文書に記された判決に関連したキーワードと,文書を保持すべき者,その多くは原告側の 人物であるが,その人物スグタ(Su亘uta)の名を記した部分である.. (4)e亨amutra. 46.

(4) 占代中央アジアの鄭善国における裁判制度について. この封印は (5)cozboana亨amaSenapgOa至aCa 主簿の,シヤマセーナとプゴーアのもの.. ここは,当該案件を主として取り扱い,判決を出し,本文書にその記録を残して封印した官吏の名,主簿の シヤマセーナとプゴーアとの名を記した個所である.5gγブ〝dブαの写真図版ⅩⅩに収録された本文書の二個. の封印は,Stein氏によれば(10),鷲(私には中国の鳳風の図を連想させる)と,光輪を帯びたKubera(財富 の神)かと見られる像を表現したものというが,こうした図柄から彼らが担った文化の一面が窺われる. 本文書の本文は,下板表側から上板裏側にかけて,次のように記されている.. (1)sarrlVatSarelO43mahanuhavamaharayajiturrlghamahiriyadevaputra至ama至a4 人威力,人王,侍巾の,マヒリヤ天子の17年,6月 (2)2diva至a20,iSakhksunarrlmiasti・marrlnu畠aparvatikup亨utatreyaVar亨igarbheniuti1 20R,この時において.パルヴァタ人のクプシュタが,三歳の,学んだ雌ラクダ1頭を (3)畠arsena萱agrahida,Su亘uta萱adida.畠arsenauthita,Su亘uta萱aparidegrahida. シヤルセーナ(から)取り,スグタに与えた.シヤルセーナは立ち上がり,スグタからとった.. (4)ahunoi畠asu畠utakup?uta畠arsenaniputrabalaserrlnadajha畠rustin如至aCaga一 今ここに,スグタとクプシュタと,シヤルセーナの息子であるバラセーンナと,奴隷のシュルステインガとが, (5)rahitarrlti,treVar亨iyautipraceya・edahastamapruchita如,mahatvanaco一. 三歳の雌ラクダに関して告訴した.この争い(11)は間訊され,人人達である, (6)zboana亨arIlaきenapgOaCarapuru亨aOpgeyaきaCanieikidbya,ahuno 主簿の,シヤマセーナとプゴーアと,偵人のオブゲーヤとにより,確定され,今, (7)kup?utaSu畠utabalasena畠rustin如至aCaparOSf)ara至aVarrltinastidagrana・. クプシュタとスグタとバラセーナとシュルステインガとは,互いに対して貸し借りは無い.. (8)tatrasakhksiajhadejarrlnaCOZbodhamenasu亘ikuleya寸asu寸arpeyaapsu寸ua かの地における証人は,貴人達(12),主簿のダルメーナと,スギとクレーヤと,ワスのワルペーヤと,アブス のウアと(13). この続きである上板裏側の文言は,仔ゐ.∫Ⅲによれば次のようである.. SOtharrlghakuta如ari寸a如rutrayasu亘itasarrlmarya【h]suaiya至aCa ショータンガのクタガと,アリワガのルトラヤ(14)と,スギタとサンマリヤと,ウ(15)と,スギヤとである.. 恥.593文書の全文は以上である.. (2)No.593文書の内容の分析 上記の内容から,事件の経緯と裁判の経緯をまとめると以下のようになる.. 事件が起きたのは,鄭善国西部のチャド一夕州(rajaSkt.rajya−)(16)の,本文吾が発見されたN.XXIV遺 址を中心とした村(a寸ana−,その名はヤウェー(Ya寸e)村であったと思われる(17))か,あるいはこの村に近い 村においてであったと思われる.. 47.

(5) 山 本 光 朗. 発端は,パルヴァタ人のクプシュタ(kup?uta)なる者が,シヤルセーナ(白arsena)なる者から,仔を宿し た三歳の雌ラクダを奪って,別の人物スグタ(su亘uta)に与えたことであった.事件を起こしたクプシュタ の出身地,パルヴァタ(Parvata=Skt.‘山’の意)については,以前,私はその場所について検討したことが. あり(18),チャド一夕州=ニヤ遺跡群の南方,アルトウンタグの山間地を指す呼称で,より厳密に言うとエ ンデレ河上流のカラサイ(KaraSai)を中心とする地域と推定される.この地名及び同地出身者の名は,都善 (楼蘭)国出土のカロシュティー文書に比較的多く登場しており,本文書もその一つであるが,このことによ り都善国が当時,南方の山間地城と密接な交渉を持っていたことが分かる. さて上記事件の後,当然シヤルセーナはスグタから自分の雌ラクダを取り返した.そしてその結果は,4 ∼5行目に,. 今ここに,スグタとクプシュタと,シヤルセーナの息子であるバラセーンナと,奴隷のシュルステインガとが, 三歳の雌ラクダに関して告訴した.. とあるように,この事件に関する訴訟となったわけである.ただここで奇異に思われる点は,この文書では,. 原告・被告の双方が告訴したように記されていること,および,事件の一方の当事者であるシヤルセーナは 出て来ず,その代理としてか,息子のバラセーンナ(Balasemna)と奴隷のシェルステインガ(Srustin如)と が登場していること,などである.こうした問題については,次章以下で検討する.. さて,この訴訟は,人人(mahtva)と呼ばれた,主簿のシヤマセーナとプゴーア,そして偵人(carapurusa) のオブゲーヤらにより調査され確定された.ここで,後者の「偵人(carapuru亨a<Skt.carapurusa)」が出 ているのは若干奇妙であるが,このcarapuru亨aなる語については,burrow氏が説明するように(19)spy の意と見るのが普通であるが,他の用例を見ると(20),他国(人)との問で何らかの事件が起こった際に出か けて調査するような任務を帯びていたものと思われ,ここで言えば外国人であるパルヴァタ人クプシュタを 探し出す役目を果たしたものかとも考えられる.. 判決の本文自体は,本文書には記されていないが,6行∼7行臼に,. 今,クプシュタとスグタとバラセーナとシュルステインガとは,互いに対して貸し借りは無い.. とあることから,原告側・被告側にとって,互いに納得する形で判決が出され,それに沿って補償がなされ たことが分かる.ただここでも,若干奇異に思われる点がある.それは,この事件に関して,被告のパルヴァ. タ人クプシュタに何ら罰則が科された形跡が認められない点であって,それが何故なのか極めて不思議であ る.上述の疑問点と共に,この点についても後章で検討するであろう.. 本文書の最後には,本件に関する証人達,主簿ダルメーナ以下の人物11名の名が記されている.こうした 記述から,この国の裁判において証人が重要な働きをしたこと,そしてこれでもって本裁判が正に確定した ことが分かる.. 本件が解決した時期は,この文書が作成された時期でもあるが,本文書の第1行∼2行目に善かれた日付,. 人威力,人王,侍巾の,マヒリヤ天子の17年,6月20R. がそれであって,「大威力,大王,侍中」のマヒリヤ(Mahiriya)天子,すなわち都善王マヒリヤ(マヒリあ るいはマイリとも呼ばれた),の17年6月20日のことであった.この都善国王マヒリヤ(Mahiriya)の治世の. 48.

(6) 占代中央アジアの鄭善国における裁判制度について. 時期については,現在まで数種の見解が出されているが,代表的な見解として以下の2氏の見解を紹介し, 同王17年の言わば絶対年代がいつになるかを提示しておく.まず榎一雄氏は,マヒリヤ王の治世の時期を303. ∼330(あるいは305∼332)年とされたので(21),その17年というと319(または321)年になる.また中国の研 究者林梅村氏は,マヒリ(ヤ)王の治世は少なくとも30年間あり,294∼323年の問にわたると考えているよう. で,氏の見解によるとその17年は310年ということになる(22).両氏の見解はきわめて近似的な年代を示し ており,この時期は東方の中国で言うと,華北の動乱の時期,西晋末から五胡十六国の時代に該当する. 以上,恥.593文書の内容に関して分析を加えたが,ここから窺える中央アジア古代の都善国の裁判制度に ついてまとめると以下のようになる. 1.裁判は,争い(hastama)に係わる原告と被告とが共に,(役所に)告訴するという形で始まる. 2.裁判では,「大人(mahatva)」呼ばれた役人,ここでは主簿と偵人とが,間訊(pruch−<Skt.prach−) する.この過程で,証人(sakhk亨i)の喚問も行われたものと思われる. 3.「大人」達が「確定(niei)する」,すなわち判決を出す. 4.原告と被告の間で,「互いに対して貸し借り(dagrana)が無い」状態,すなわち賠償がなされる. 5.その経緯を文書に記し,担当役人が封印する. 6.原告にその文書が交付さる. 恥.593文書から見た都善国の裁判制度は,以上のようなものであるが,他の例を見ると,直接,原告が都善 王の許に訴える場合もあり,その際,王が当該地方の役人に王命文書を出して,「解決」方を指示する場合と, 都善王が直接裁判を主宰する場合とがあったようである(23). さて,以上が恥.593文書から分かる都善国の裁判制度の概略であるが,実はこの文書と同一の事件を記し た別のカロシュティー文書が,同じN.XXIV遺址から出土している.次に,その文書恥.570について見てゆく.. 2.No.570文書について (1)No.570文書の内容. カロシュティー文書恥.570は,先に扱った恥.593文書と全く同一の,N.XXIV遺址中の“′トさな隠され. た文書庫,’から,同じ1906年10月25日に発見されたものである(24).遺物番号はN.xxiv.viii.73で,その後 仔ゐ.∫,Ⅲに恥.570の番号を付して収録された(25).文書自体の説明は5gγブ〝dブαにあり,同書のPl.XXIIIに 文書上部からの写真のみ掲載されている(26).なお本文書はSt。in氏が指摘されたように(27),封印後,一 度封印を解き(開き),その後再度,封をした形跡を持つ文書である.その意味については,後に触れる.本 文書の訳例はBurrow,A T7unShItion”P.113にある. 本文書の内容は,仔ゐ.エ,Ⅲによれば以下のようである. まず上板表側には例によって,. (1)c亨alihida如Sara至Cna至aparidc この文書,シヤラセーナからの. (2)utipracesu畠utasu如acadha一 雌ラクダに関するもの,はスグタとスギとが (3)ridavo. 保持すべきである.. 49.

(7) 山 本 光 朗 という,文書内容の概略等に関する記述があり,封印の下部には,. (4)e亨amurrltra この封印は,. (5)oguanadhapaya畠ama革ena革aCa. オーグの,ダパヤとシヤマセーナのもの.. と封印をした担当役人の名が記されている.上の文書内容の概略等に関する記述を,先の恥.593文書の場合 と比べてみる以下のようになる.. 【恥.570】 この文書,シヤラセーナからの雌ラクダに関するもの,はスグタとスギとが保持すべきである. 【恥.593】 この文書,バラセー. ンナとクプシュタからの三歳の雌ラクダ1頭に関するもの,はスグタが適. 切に保持すべきである.. これを見ると,恥.593文書では冒頭に出ていない,バラセー. ンナの父で最初に雌ラクダを奪われた,シヤラ. セーナ(畠ara§ena,No.593文書ではシヤルセーナ(畠arsena)と記している)の名が,文書の最初に出ているこ. とが注目される.また,事件の担当者で封印をした宮人の名が恥.570文書と恥.593文書とで異なっている点 も注意すべきで,これら2点についてはこの文書の本文を検討する際に説明を加える. 恥.570文書の本文は,仔ゐ.∫,Ⅲによれば,下板表側から上板裏側に次のように記されている.. (1)sarrlVatSarelOlma至e2diva至almahanuavamaharayajitughamairidevaputra至akhksu一 人威力,人王,侍巾の,マイリ天子の11年2月1Rの時 (2)narrlmi・etaVivataoguanadhapayaSama至enakorito畠a5acozbobimma至ena至aCa において.この争いは,オーグのダパヤとシヤマセーナと,コーリのトーガジャと,主簿のビンマセーナとが, 7■・ (3)pruchitarrlti・Sarsenasu畠utasugl至aCagarahitarrltiutalpraceya・至aCa 調べた.. シヤルセーナとスグタとスギとが,一頭のラクダに関して告訴した.すなわち. (4)bhutakup?utauthita,畠ara革ena声autilbalakarenanita,SuEutasu亘i一 事実のこと,クプシュタが立ち上がり,シヤラセーナの雌ラクダ1頭を力づくで連れ去り,スグタとスギ (5)きaCautadharalTlna女enaviyo亨ita・Sautidvivar亨amisuEutasu亘i− とに,ラクダの債務により渡した(28).かの雌ラクダは2年,スグタとスギ (6)至aCaVarrltihuati・tadepaeaSara至enauthita, との許にいる(いた).その後,シヤラセーナは立ち上がり,. この後,記述はさらに上板裏側に続く.. 7■・ (1)su畠utasugl至aCaparideutigrahita・Si如tarrlmimarita・ityarthavi−. スグタとスギから雌ラクダを取った.砂漠で死なせた,と.このため(29) (2)bhaktama・garbhiniutibha女enakirso声autitativar亨iSara声ena革a. われらは熟知した.学んだ雌ラクダの代わりに,同じ歳のキルソーサ(30)雌ラクダを,シヤラセーナは (3)viyo亨idavo,SuautaSu亘i§aCanidavo.yo畠ara§ena§aVivatasiyati,. 50.

(8) 占代中央アジアの鄭善国における裁判制度について. 渡すべきで,スグタとスギとに運ぶべきである.シヤラセーナに訴えごとがあれば, (4)kup亨utenaSadhagarahidavo・Sautitrevarsidadavo・ クプシュタと共に告訴すべきである.かの3歳の雌ラクダ(に代わるもの)が与えられるべきである.. 以上で本文の記述は終わる.なお仔ゐ.∫Ⅲによれば下板の裏側にさらに次のような記述がある.. (1)e亨a…如…… この(文書?)は……. (2)...ヨaCOZbo...... …,主簿の…… (3)bima【至ena至aCa】 ビマ(セーナとの). 下板裏側には,普通は本文の案件に関わる主要人物名等がメモのように記されることが多いが,ここは, 事件を審理した人物,主簿ビ(ン)マセーナ等の名が記されているようである.. (2)No.570文書の内容の分析. 上記本文を一読すると,先の恥.593文書で検討したラクダ事件を扱った文書であることは一目瞭然であろ う.この点を踏まえて,本文吾が作成された時期について見てみると,本文の第1∼2行目に,恥.593文書 の日付(マヒリヤ天子の17年6月20日)より6年前の,「マイリ(Mairi<Mahiri,Mahiriyaマヒリヤ)天子」 の11年2月1日の日付が記されていることが分かる.すなわち同事件の発端は,6年前のこの時期頃まで遡 ることが分かる.そしてさらに,本文の5∼6行目を見ると,(パルヴァタ人の)クプシュタがシヤルセーナ (シヤラセーナ)から雌ラクダを奪いスグタとスギにそれを渡した後,. かの雌ラクダは2年,スグタとスギとの許にいる(いた).. とあるので,さらにそれまでに既に2年間が経過していたことが分かり,恥.570文書の作成時期よりさらに 2年前の,マイリ(マヒリヤ)王の9年に,問題の事件が起きたことが分かる.. また問題の事件は,本文書の4∼5行目を見ると,パルヴァタ人クプシュタによって「力づくで (balakarena)」なされ,この者が奪ったラクダをスグタ(とスギと)に渡した理由は,この者が後者に負って いた「ラクダの債務(utadharalTlnaga−)」を返済するためであったことが判明する.. このように恥.570文書によってこの事件の詳細がより明らかになるのであるが,ここでこの事件の当初の 推移を再度整理すると,以下のようになる. マイリ(=マヒリヤ)王9年に,チャド一夕州(=ニヤ遺跡群)南方の山間地帯パルヴァタ出身のクプシュタ. が,チャド一夕州ヤウェー村かその近辺の村において,シヤルセーナ(シヤラセーナ)から1頭の雌ラクダを 暴力でもって奪う事件が起こった.クプシュタはその雌ラクダををスグタとスギに,かつて借用したラクダ の弁済のため渡した.一方,被害者のシヤルセーナ(シヤラセーナ)は,その後2年間は訴えを起こさなかっ た.その理由は恐らく,クプシュタが逃亡し当該ラクダの居場所が判明しなかったためかと思われる.いず れにしても事件後2年を経た後になって今度は,恥.570文書の下板表側第6行から上板裏側の1行目にかけ てに,. 51.

(9) 山 本 光 朗 その後,シヤラセーナは立ち上がり,スグタとスギとから雌ラクダを取った.砂漠で死なせた,. とあるように,スグタとスギから自己の雌ラクダを取り返し,それを砂漠で死なせてしまうのである.. この事件はその後,上記の経過からしてある程度は想像されるように,スグタとスギが訴えを起こし,同時 にシヤルセーナ(シヤラセーナ)の側にも当然言い分があったわけで,下板表側第3行目の記述,. シヤルセーナとスグタとスギとが,一頭のラクダに関して告訴した.. という事態になったのである. 事件の裁判は,オーグ(ogu)のダパヤとシヤマセーナ,コーリ(kori)のトーガジャ,そして主簿のビンマセー. ナ等によって行われ,そして上板裏側の2∼3行目にかけてに記された,. 学んだ雌ラクダの代わりに,同じ歳のキルソーサ雌ラクダを,シヤラセーナは渡すべきで,スグタとスギとに 運ぶべきである.. という判決が下された.そして当然のことながら,この判決はシヤルセーナ(シヤラセーナ)側にとってはきわ めて不満の残るものであった筈である.. ただここで注意すべきは,本判決にきわめて重要な付帯条項が付けられていたことで,上板裏側の3∼4行 目にかけて,. シヤラセーナに訴えごとがあれば,クプシュタと共に告訴すべきである.かの3歳の雌ラクダ(にあたるもの) が与えられるべきである.. とあるような一項が付加されていたのである.そしてこの条項は事件の張本人であるクプシュタが出頭したと きに,まさ効果を発揮するものであった筈である.. 以上のような裁判の経緯を見れば,この後,それがいつであれ,パルヴァタ人クプシュタが出頭すれば,再 度この事件が審理されたことは十分予想されるところで,事実,この事件は6年後のマヒリヤ王の17年に,パ ルヴァタ人クプシュタが出頭した時,再度審理され,そして結審したのである.先の恥.593文書は,その経緯 を簡潔に記した証拠の文書と言うべきものである.. 3.小 結 以上,カロシュティー文書恥.593文書および恥.570文書を使って,マヒリ(=マヒリヤ,. マイリ)王9年(榎. 説では311年,林説では302年前後(31))に都善国チャド一夕州で起こったラクダ強奪事件の裁判の経緯を見てき たが,最後に,これまでの記述に若干補足を加え,この事件について時間的経緯を追いながらまとめ,そこか ら判明する紀元4世紀の都善国の裁判制度の特色等について言及して,′ト考の結論としたい. 事件の発端はマヒリ王9年に,パルヴァタ人クプシュタなる者が,チャド一夕州ヤウェー村付近でシヤルセー ナ(シヤラセーナ)から仔を宿した雌ラクダを強奪し,借用したラクダの弁済のためスグタとスギなる人物に渡 したことであった.その2年後,シヤラセーナ(シヤルセーナ)はスグタとスギから(自分の)雌ラクダを取り返 し,何らかの理由で砂漠で死なせた.その結果,スグタとスギから訴えが起こされ,シヤラセーナの側も受け. 52.

(10) 占代中央アジアの鄭善国における裁判制度について. て立ち裁判が行われ,都善国の宮人により, 1.シヤラセーナ(シヤルセーナ)は同じ歳のキルソーサ雌ラクダを,スグタとスギとに渡すこと. 2.クプシュタが出頭した際に,シヤラセーナ(シヤルセーナ)には同種のラクダが,クプシュタから与 えられるべきこと. という判決が出され,その次第はマヒリ王11年2月1日付けの恥.570文書に記録され,スグタとスギとに交 付された.. その6年後,マヒリ王17年に,再度この事件は審理された.今度は,問題の被告であるパルヴァタ人クプ シュタがどのような経緯を経てか出頭しており,一方,もともとの被害者シヤルセーナ(シヤラセーナ)は6 年の問に恐らく死亡したか何かで出頭しておらず,息子のバラセーンナと奴隷のシェルステインガとが出頭 したのである.この再審の際に重視された証拠は,かつての判決を記したマヒリ王11年2月1日付け恥.570 文書だった筈で,スグタ側はそれを役所に提出したに相違ない.そしてその際に恥.570文書は封印が解かれ た笥で,恥.570文書に一度封印が切られた形跡があったのはそのためと解すべきである.この再審の核心と なった点は,パルヴァタ人クプシュタとシヤルセーナ(シヤラセーナ)との間の事件の,事実関係の確認であっ. たことは容易に想像できるが,それが確認され,恥.570文書の判決の第2項,「シヤラセーナに訴えごとが あれば,クプシュタと共に告訴すべきである.かの3歳の雌ラクダ(にあたるもの)が与えられるべきである」 という条項が適用され,即座にクプシュタからシヤラセーナ(シヤルセーナ)側(実際には息子のバラセーン. ナ)に同種のラクダを渡すことが実行されたものであろう.そして正にこの時に同時に,恥.570文書の判決 の第1項である,シヤラセーナ(実際には息子のバラセーンナ)側からスグタ側へのラクダの「賠償」が実行 されたものと思われる.なぜなら,そうでなければ恥.593文書の上板表側に,. この文書,バラセー. ンナとクプシュタからの三歳の雌ラクダ1頭に関するもの,はスグタが適切に保持すべ. きである.. と書き,文書の下板表側の5∼7行巨=こ,. この争いは間訊され,人人達である,主簿の,シヤマセーナとプゴーアと,偵人のオブゲーヤとにより,確 定され,今,クプシュタとスグタとバラセーナとシュルステインガとは,互いに対して貸し借りは無い.. と記す筈はないからである.つまり恥.570文書に記されたマヒリ王11年の判決の第1項は当初は執行されず, その後6年間ペンディングの状態が続いたわけで,その執行は,恥.593文書に記された,マヒリ王17年の再 審の時だったのである.こうして本事件は発生後,約8年を経過して結審したわけである. さて,最後にこうした経緯から判明する都善(楼蘭)国の裁判制度の特徴ということについて2点指摘して おく.. 第1点目は,中央アジア古代の都善(楼蘭)国における,裁判制度の一定程度の整備ということである.小 考が扱ったマヒリ王9年のラクダ強奪事件に関して言えば,同11年2月1日付けの判決が最初に出されたが, 事件の張本人が出頭していないということで,再度マヒリ王17年に原告・被告の(関係者)全てが出頭して再 度裁判が行われ,6月20日付けで,事件発生後8年を経過して結審に到るという経過を経ている.そして2 度の裁判ではいずれもがその結果を文書として残し,原告に交付する手続きが存在したことも注目される.. こうした,原告・被告双方の出頭とその結果として証言の重視ということ,および長期に及んでも再審を実 行する裁判の在り方等は,都善国の裁判制度が,地方レヴュルにおいてもかなりの程度整備されていたこと. 53.

(11) 山 本 光 朗. を示すものと見て良いと思う.そしてこのような姿こそ,都善国においてダルマ(法)による統治が一定程度 貫徹していた証と言うことが出来るであろう.. 第2点目は,それにも拘わらず,これまで見てきた強奪事件の裁判の経緯から見て,都善国の裁判制度が 必ずしも厳密なものであったとは言いにくい点も認められる.たとえば,この種の強奪事件の審判に際して,. パルヴァタ人クプシュタが強奪した件のラクダを,不正の財物たる臓物と見なしていないこと,そしてさら に奇妙に思われるのは,強奪物の賠償はさせるが,刑罰は科したようには思われない点などである.これら は,中央アジア古代の都善国において,裁判あるいは法制度が必ずしも厳刻に傾くものではなかったことを 示しているように思う.この点を考える時参考になるのは,5世紀初めに,中部インドの裁判・刑罰に関す. る報告を残した,中国僧法顕の次のような記述である(32) 王治は刑岡を用いず.罪ある者は但その銭を罰し,事の軽重に随う.複謀りて悪逆を為すも,右手を載るのみ.. また7世紀のインドの状況を報じた,玄実の次のような報告も参考になろう(33) 礼義を犯傷し,忠孝に惇通すれば,則ち鼻を則り,耳を載り,手を断ち,足を刷る.或いは駆りて国を出し, 或いは荒裔に放つ.獄を理するに辞を占り,荊朴を加えず.間に随い款対すれば,事に拠て平科す.. これらの記述によれば,古代インドの裁判による刑罰は比較的軽い傾向にあったこと,さらに裁判に際して 証言が重視されていたこと等が分かるが,こうした傾向はこれまで検討してきた都善国の場合にも当てはま る.水谷真成氏は上掲の記事などから,中国世界とは違ったインド世界の寛刑の状況ということを指摘され たが(34). ,こうしたことは,古代中央アジアの都善国の場合にも言えそうである.「ダルマ(法)」の語の共. 有からある程度推定されるところではあるが,都善国における裁判ひいてはダルマ(法)の執行の際に推定さ. れる寛刑の状況は,この国の文化がインド世界のそれにきわめて近接したものであったことを,改めて強く 意識させるものである.. 〔注〕. (1)拙稿「郭善(楼蘭)国の王権について」,『西南アジア研究』,恥.57,2002年,910頁. (2)同上,69頁. (3)これらの官称号に関する諸説・解釈等ついては,拙稿「郭善(楼蘭)国の王権について」78頁を参照. (4)M.A.Stein,Serindhl,0Ⅹford,1921,p.227. (5)才み才d.p.226,Plan.14. (6)拙稿「カロシュティー文書恥.571について」(『北海道教育大学紀要(第1部A)』第47巻第1号,1996年),101頁,同「カ ロシュティー文書恥.580について」(『北海道教育大学紀要(第1部A)ご 第48巻第1号,1997年),97頁. (7)Stein,Serindia.,p.262,N.XXIV,Viii.96.. (8)A・M・Boyer,E・J・RapsonandE・Senart,Kharoぞth言InscriptionsdiscoveredbySirAurelSteininChineseTurkestan,(以後 Kh.1.t略記する),partⅡ,0Ⅹford,1927,pp.224225. (9)T・Burrow,A777ulSlationdthemaro?thiDocumentsjhmChineseTuekesian,London,1940,p・127・ (10)Stein,Serindia.,p.262,N.XXIV,Viii.96. (11)「争い(hastama)」の語義について,Burrow氏はイラン語系<*ha(m)−Stambaと見て,“quarrel”又は“dispute”の. 語義を与え,インド語系のvivadaと同義とされた・今はこれに従っておく・V・Burrow,IranianWordsintheKharo亨thi DocumentsfromChineseTurkestanⅡ,BSOS・,Ⅶ,1935,p・788・Do・,TheLanguageq[theKharo?thiDocumentsjケom. 54.

(12) 占代中央アジアの鄭善国における裁判制度について. Chinese Tu祓estan,Cambridge,1937(以下m.D.と略記する),p.133. (12)「貴人達(ajhadejaqlna)」のajhadeは,Burrow氏が指摘されたように,イラン語系の,たとえばPahl・aZad“noble”に 対応する語として解すべきであろう・V・Burrow,IranianWordsintheKharo郎hiDocumentsfromChineseTurkestan, BSOS.,Ⅶ,1935,p.509,ajhate−. (13)官称号のワス(寸asu)とアプス(apsu)の語義については,とりあえずBurrow,Kh.D.,pp.75,120,apSu−,VaSu−を参照. (14)ショータンガ(sothaqlgha)=“税徴集人”に関する諸説については,前掲拙稿「カロシュティー文書No・580について」を. 参照.またアリワガ(ari寸a畠a)については,とりあえずBurrow,m.D.,pp.7677を参照. (15)人名と見られる「ウ(寸u)」については,Kh.1”Ⅱはhuと読み,注で寸uの読みも提示しているが,私は1行上の人名「寸ua」 の例から,「寸u」の読みを選択したが(双方の本来の字形は極めて相似の筈である),当否は不明である. (16)榎氏はraja<Skt.rajya−を「州」と訳された(榎一雄「中央アジア・オアシス都市国家の性格」1971年,『榎一雄著作集』 第1巻(汲古書院,1992年)所収,31頁)・郭善国内の一地域であるチャド一夕はカロシュティー文書ではca¢6tarajaと記 される.この場合「チャド一夕国」と訳すのは不適で,榎氏のように「郭善国のチャド一夕州」と訳すのがより適切と思わ れる.. (17)二たとえば,N.XXIV遺址山土の恥.581二丈書はブドウ園売買文書で,その売り手はダマシヤなる者で,買い手はラムショー ツアであるが,この両人について,同文書の下板表側の3∼4行目に, edeubheyayaく7eyaa寸aqln叩一mikilmeci・ かの両人はヤウェー(ヤ)村のキルメーチ(=属人)である.. とあり,N.XXIV遣址がヤウェー村の中心となった役所であることを推定させる.Ⅴ.Kh.Ⅰ.,Ⅱ,216217. ㈹拙稿「パルヴァタ考」(『東洋史研究ご 第46巻第4号,1988年),5556頁参照. (19)Burrow,m・D・,p・89,Carapuru?a−・ (2〔カ たとえば,カロシュティー文書Nos.322,637等に見られる用例を参照. (21)榎一雄「法顕の通過した鄭善国について」1967年,『榎一雄著作集』第1巻所収,121125頁. (2訝 林梅村「住居文時代郭善王朝的世系研究」1991年,『西域文明』(1995年,東方山販社)所収,333340頁. (2却 たとえば,前者の例としてはカロシュティー文書恥.33等がその例で,後者の例としては,私が以前扱った恥.709をその 例として挙げることが山来る(cf.拙稿「郭善(楼蘭)国の王権について」). (24)Stein,Serindia,pp.227,260. (2尋 ガ滋.J,Ⅱ,p.210.. (26)Stein,Serindia.,p.260,N.XXIV,Viii,73の項目,及びPlate XX. (27)Steill,5gγわ7d才α.,p.260.. (28)「渡した(viyo亨ita)」の訳は,ここでは暫くBurrow,ガ滋・D・,p・12122,Viyo予ita一に拠ったものである・. (29)Burrow氏はityarthaをreportedspeechの末尾におく語と解されたが(Burrow,m.D.,pp.6667),私は,Skt.の語義 “hence”のまま解す方がより適切と思う. 鋤 キルソーサ(kirsoきa)の語義は全く不明である. (31)注(21)及び(2Z)を参照.. (3訝 『法顕伝(仏国記)』,摩頭羅国条. (33)『大店西域記』巻2. (34)水谷共成訳注『大店西域記ご(平凡社中国古典文学大系22,1971),6869頁,注(一).. (旭川校教授). 55.

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参照

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