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劉裕と陶淵明

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Academic year: 2021

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(1)Title. 劉裕と陶淵明. Author(s). 石田, 公道. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. A, 人文科学編, 21(2): 57-71. Issue Date. 1971-02. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/3987. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 第 21 巻 第 2・号. 北海道教育大学紀要 (第一部A). 劉. 格 右. と 田. 陶 公. 淵. 昭和46年2月. 明. 道. 北海道教育大学札幌分校国語国文学研究室. K6d6 1s日1DA ; Ry員ya and T6enmel. 0) 6月のこと 劉格が東晋の恭帝を廃して自ら帝位につき国号を宋と改めたのは, 永初元年 (42 である, 長い年月をかけて慎重に計画せられ, おしすすめられてきた纂奪の陰謀はここに完成し, 東晋の元帝が, 主導・王敦等張邪の名族の援助によっ て, 江南の地に新王朝を開いてから103年目 を以て東晋王朝は最後の頁を閉じることになる. 東晋最後の天子となった恭帝, 司馬徳女は劉格の腹心としてこの禅譲工作を推進した中書令樽 亮の作成した退位の大詔を静 かに1字1字書き写していった, 「桓玄の反乱の折に, 天命は既に 0年も延 ばすことができたのは, ひとえに劉裕閣下の わが王朝を去っていたのです. それを更に2 おかげです. 今日のことは覚悟していたことです」 というのが, その退位の際の感想として伝え られ て い る,. 陶淵明は時に56歳, 劉格はそれより2歳年長の58歳で, その死に先立つこと2年である, 陶淵 明はそれより更に7年間来王朝の世を生きて, 元嘉4年 (427) , 63歳の生涯を終ることになる. 陶淵明は一介の農民であり, 劉格は時の最高権力者にまでのし上った人物であり, 両者は いわ ば互に路傍の人にすぎない, 事実, 劉格にとって陶淵明は確かに路傍の人に過ぎなかった, しか し陶淵明にとっ て劉格は決して路傍の人ではなく, 彼の思想や生活に対し大きな影響を与えて い ることを見逃すこと ができない, それは劉裕個人というよりも, 劉格のような人間が社会の上層部にのし上っ て行く社会の変動 期に際し, 陶淵明のような旧い時代の教養や伝統に支えられている人間の生きて行く 路はけわし く苦しかったことを示しており, これは旧い道徳に支えられた人間の強烈 な意志を以て生き抜い た1つの典型とも言うこと が できよう. 六朝の社 会は俗に貴族社会といわれている. 殊にこの東晋という王朝は, 山東貴族群の協力に よって樹立された王朝であったから特にこの傾向が強く, 政権樹立の功労者であっ た王導や王敦 といった王氏の 一族, それと並ぶ名門である謝氏の一族, それに皇族である司馬氏 一門の連合派 閥人事によって中央政府は構成せられており, それ以外の者 が政治の中枢にのし上るという機会 は 全 く なか っ た,. 六朝時代の官吏任用の方法としては, 九品中正と呼ばれる制度があり, 地方の優秀な人材が抜 擢せられ, 中央の政局に登場する機会が設けられてはいたが, それによっ て昇進し得る地位には 限界があり, 地方出身の官吏は 『寒門』 という言葉によって区別せられ, いささか軽 蔑の眼を以 一5 7一.

(3) . vol .21 NO .2. ion I A) i id。 Uni i l d l 頒 日0 t Journa on (Se ct くa ver s y of Bducat. Feb , ,1971. てみ られ て い た.. 蛍の光で本をょみ, 後世に名を残した車胤という人もこの時代の人物であるが, 彼は宰 相謝安 の特別の引き立てによ って吏部尚書にまで立身することができたのであり, ただ本を読んでいた だ け で は, どう に も な ら な い 時 代 で あ っ た の で あ る,. わが平安朝時代が藤原政権の独裁下にあったことは一般に知られているが, それでも同じ藤 原 氏の一門であっ た藤原定家は, その残した日記の中に自分の昇進の遅いことを 嘆き, 愚痴をこぼ して いる ところがあるが, これなどはまだよ い方で, 陶淵明の場合は, どう転んでも, 如何に有 能であっ ても, 立身栄達などは思い もよらない星の下に生れてきたわけである, このような社会では有能な為政者が上にいれば, まだ異数の抜擢というのもおこり得るであろ うが, 無能な権力者によっ て政権がろう断されていれを , 彼等にうまくとり入っ て昇進を計った り, 彼等の走狗として, 彼等 が最も苦手とした 雑用 を処理してやり, 巧みに財を作るようなもの が政府の中に入り乱れ, 互に権力の争奪に明け暮れるという有様で, その中に伍して生き抜いて 行く能力のない者や, そのことを潔しとしない人物はこのような社会から逃避して行くような気 持になるのも自然の成り行きであろう, 陶淵明の家は, 東晋の王朝が江南の地に亡命して来る以前から滞陽の郊外に土着していた小地 主のように思われるので, 陶淵明のような立場にある者からみれ ば, 東晋の新王朝は北方から勝 手に亡命して来て, 自分達の上に君臨した侵略者に過ぎないのだ。 おまけに彼等のお かげで立身 栄達の機会まで封 じられてしまうとあっ ては, その不当に対して敵傷心を 抱くようになるのも当 然のなりゆきであろう. 陶淵明が反束晋的な軍閥にいくたびか仕えるようになるのもそのような 環境上の理由にもと づいていると考えられる. 尋陽で当時の士族一般の学問 しかし陶淵明は成長して現実の大きい壁につき当るま で, 故郷の7 と教養を身につけていたのである. 当時一般士大夫の教養としては, 老荘の学問が貴 ばれ, 滝談 の素養があることがイ ンテリの条件であったが, 陶淵明の場合は必ずしも撲を一にしてはいない, むしろ正統的な儒学の教養が彼の精神の骨格をなしたものの如くである. 彼が19歳の時に粥水の戦があっ た. このことは直接には陶淵明とは関係の ない事件ではあるが, 後の中国の政局には大きな変動をもたらす契機と なり, 陶淵明の環 境にも重大な影響を及ぼすよ うになっ た重要な大事件であっ た. これは華北の平原を統一して強力な国家を作りあげた 前秦の符堅という豪傑が, 統一の余勢を かりて一挙に南方に進出し, 東晋王朝 を餅呑しようと計り, 30万と号する大軍を率いて南下して 来たのである. 東晋の宰相であった謝安は, 彼の従弟謝玄を大将として, 8万の軍勢を以て之を 毒したのである. 迎え討たしめた, そして両軍は准水と縦水の合流点 寿春というところで対= 戦いの結果は, 当初劣勢を予想されていた東晋の軍勢が, 圧倒的な勝利を収め, 前秦の軍を打 ち破り, その勢力を准水以北に追いやることに成功したのである, 東晋の王朝は辛うじて危機を 脱することができたが, これを機会として今日まで東晋王朝の護衛軍と して, 貴族の 額使に甘ん じてきた功労のあっ た軍人たちが, 自らの武力に確信を持つようになり, 今後は却っ て東晋の王 朝をゆすぶる大 きな勢力にまで発展して行くようになる. 縦水の 戦に際して大功を立てたのは, 建康の南方京口という町に置かれていた北府と称する護 衛軍団であったが, この長官は鎮北将軍と称し, わが国の征夷大将軍のような地位を持ち, その 司令官には, 歴代, 王・謝の名族が任ぜられるのが慣例であっ たが, 当時の鎮北将軍は謝安の従 弟謝玄であった. -5 8-.

(4) . 第 21 巻 第 2 号. 北海道教育大学紀要 (第一部A). 昭和46年2月. 当時その部将に劉牢之と いう人物が いたが, 彼は肥水の戦に抜群の戦功を立て, 謝玄の死後は 名目上の司令官 であった王恭を裏切っ て, やがて北府の実権を掌握し, 京口軍団の統率者となる . そして朝廷で権勢をふるっ ていた司馬元顕をも裏切るようになる, この京口の 町に, 陶淵明よ りも2年前, 正しくは東晋の哀帝の興寧元年 (363) 3月, 後に東晋 の天下を纂奪して 自ら天子の位に即いた劉格, 宋の武帝は下級官吏の子として生まれる , 一説に は小商人の家 であったとも いわれている, 彼の母は難産のために死亡し, 父も劉格が10歳の折に は亡くなり, 幼ない劉格はわらじを背に負っ て京口の町を歩いて生計を立てたといわれている , 彼は身の丈7尺に余り, 瞥力は人に倍し, 幼少より無頼の徒と交わり, 賭博の腕前に至っ ては抜 群の不思議な才 能と度胸を備えていたといわれる. 1歳の時であるが, 劉格はこの時 に自分の将来の方針を軍人として立つことに 泥水の戦は彼が2 決心し, 劉牢之の部下として軍人生活への第1歩を踏み出すことを決意する. 賎しい 身分の者 で も実力次第で活躍の場を与えられるものは軍人以外に方途がなかったからであり, 劉格はそれ に ふさわしい資質と才能に恵まれていたのである, 劉格の活躍すべき時は間もなくやっ て来る, それは天師道と称する一種の熱狂的な宗教の信徒 を率い た孫恩という人物が暴動 を起し, 更に政府のやり方 に 不満を持っ た農民が蜂起して, 容易 ならぬ事態になっ てきた. 東晋王朝は劉牢之の率いる北府軍団 にその鎮圧を命じたが, その討伐戦に偉勲を立てたのが劉 格である, 北府軍団の中でも彼の率いる部隊は最も勇敢であった . 孫恩の大軍が長江を遡っ て京 口にまで迫っ て来た時に, 劉格は自ら先頭に立ち之を討ち京口の危機を救 い, 更に孫恩の軍を追 撃して南海の果 に追いやっ たのも劉格の功績によるものである. かくして劉格の北府軍団の中における地位は次第に向上して行き, やがて劉牢之の失脚した後 には, 北府軍団の統率者として東晋の王朝を左右する実力者にのL 上 っ て 行 く の で あ る, ところで, 劉格が劉牢之 の部将として活躍していた頃, 陶淵明もまた劉牢之の参軍として孫恩 暴動鎮圧のために参加したことが考証せられている. 始めて鎮軍参軍となり, 曲阿を経しとき作る 弱齢寄事外 弱齢より事外に寄せ 委懐在琴書 被褐欣自得. 懐いを委ねるは琴書に在り き 褐を被 て 欣 ん で 自得 し. 屡空常髪如. 屡しば空 しきも常に髪如たり. 時来荷冥 曾. 時来たりて荷くも冥会せば. 宛 轡 憩通 倦. 轡 (たずな) を宛げて通催に憩う. 投策 命農装. 策を投じて最装を命じ. 暫輿園田疎. 暫く園田と疎ざかる. 砂砂孤舟逝. 妙抄として孤舟逝き. ま. 綿綿蹄思肝. 綿綿として蹄思府 (まつわ) る. 我行貴不遥. 我が行. 登降千里徐. 登降すること千里鹸. 目倦川塗異. 目は川塗の異なるに倦み. 心念山雑居. 心は山運の居を念ぅ. あに遥かならざらんや. 一 59 一.

(5) . vo l ,21 No ,2. i i ido Un i l of Hokka t Journa t on I A) s ver y of Eduq辻i○n (Sec. 望雲櫛高島 臨水悦瀞魚. 雲を望みては高鳥に断じ. 真想初在襟 誰謂形逃拘 卿且悪化遷 終返班生瞳. 真想は初より襟に在り. Feb , ,1971. 水に臨みては瀞魚に悦ず むね. 誰か謂う. 形遂に拘せらると. しばらくは化に懲りて遣り 終には班生の鷹に返らん. この鎮軍というのは実は前述の劉牢之であるとするのが, 中華民国の文学史家古直氏の説であ る, 曲阿とい うのは, 北府軍の駐屯していた京口 (鎮江) 附近にある丹陽のことで, 当時劉牢之 は京口にいたのであるから, 陶淵明は劉牢之の参軍となっ たことが明らかである. 時に陶淵明は 36歳, 劉格は歳38の働き盛りで, 両者は劉牢之の幕僚として席を同じくする機会もあっ たのでは ないかと思われるので, 両者は全くの路傍の人ではない. 古来従軍に際して詠ぜられた作品は, 必ずしも少しとしないけれども, 多くの場合戦場に臨む 者の悲壮な抱負や決意が述べられることが多い, ところがここに述 べ られてい る陶淵明の心境は, とても職場に臨んで 武勲をあげようと気負い立つ者の心境ではない. 戦争などに従軍することは 自分の意志ではないということを繰り返し, 繰り返し述懐している。 要するにいやいや ながら従 軍したことがはっ きりしている, 陶淵明が軍人としての素質があるかどうかは, 言わずして明瞭 で あ る.. ところが陶淵明が いやでいやでたまらな かった軍人という職業は, 劉格にとっ ては水を得た魚 にも等しかっ た, 学問もいらな ければ, 門閥も必要ではない, 当時の流行であった清談の素養も 必要としない, 統率者としての指導能力と, いくさに対する適確な勘があればよ い. 宋書の武帝 本紀は, 劉格の素性をもっ ともらしく立派 に修飾して書いてはあるが, 勿論す べてを信用するこ とはできない, 劉格は天子になっても, まともに文章を書く能力もなかったといわれてい るが, 陶淵明の時代はこのような人間が社会の第1線にのし上っ て行く, いわば社会の転換期でもあっ た の で あ る.. わが国でも平安朝 の末期に, これまで貴族の護衛者としてそ の使役に甘んじていた源氏や平氏 が, 武力によ って政権の座にのし上 ってゆくが, 六朝時代は貴 族時代とは言うものの, 既にこの 頃から社会の基盤 は少しずつ揺れ動いていたのである. 劉牢之はその新興軍閥の代表者である, 陶淵明の立場から言えを, 劉牢之や劉格は, 彼の培われて育った異質の存在であり, そ の よ う な人物の下係となったり, 同僚となったりすることは, 気持としてやり切れぬものがあったろう し, また彼の活躍す べき分野をこのような方面に期待するのが無理であろう. 陶淵明が直接劉格と席を同じくする場面があったかどうか, 今日ではそれを証する何物もない, しかし陶淵明が劉格の存在を知っ たのは確実であろう. 彼はその後に作った 『飲酒』 と いう連作 の中で当時を追懐して 次のように詠 じている, 飲. 酒. 在昔舎遠遊 直至東海隅 道路廻且長 風波阻中塗. メ ビ の10 . 舎って遠く遊び ′ 直ちに東海の 隅に至りぬ 在昔. 道路 風波. はる. 廻 かにして且つ長く 中塗を阻む - 60 -.

(6) . 北海道教育大学紀要 (第一部A). 第 21 巻 第 2 号. 昭和46年2月. 誰か然らしめしや. 此行誰便然. 此の行. 似為飢所躯. 飢えの服する所となすに似たり. 傾身奮ー飽. 身を傾けて一飽を営むも. 少許便有像. 少許にして便ち鹸あらん. 恐此非名計. これ名計にあらざるを恐れ. 息駕婦間居. 駕を息めて間居に帰れり. 『飲酒』 と題する作品は, 全体が20首より成る連作で, これはその第10首目に当 っ ている, 陶 淵明の作品は全部で130首余りにすぎないが, この連作は作品中で最大の比重を占めている, 陶淵 明がこ の作品を作っ たのは田園に隠れてから, 農民生活の余暇に作ったものと思われるが, 恐ら く40歳以後15年位の間に折にふれての感懐を述べ たもののように思われる, 彼にとっ て数年前に劉牢之の鎮軍参軍として仕進した思い出は, 忘れようとして忘れることの 出来ない 思い出ではあるが, 決して懐かしい 思い出ではなく, むしろにがにがしい 思い出として 彼の記憶の中に在ったらしいことがこの詩の内容からは察せられる. この頃までの陶淵明にとって劉格は意識せられた不気味な存在ではあっても, 全く別の世界の 人間にす ぎなかっ たのである. 2 劉牢之の許を辞去した陶淵明は, その後いくばくもなくして, 揚子江の上流江陵に根拠をも つ 大軍閥桓玄の下に出かけて行く. しかし 桓玄にも失望したのか, 再び郷里に引きあげて農耕生活 に従事する, その後桓玄は次第に勢力をつよめ, その勢いに乗じて大挙して建康に迫り, 東晋の王朝を 打倒 して自ら帝位につ き, 国号を楚と改め, 東晋の安帝を陶淵明の郷里の沸陽に幽閉してしまう. こ の事件も 陶淵明にとってはかなりなツョックであったに違いない. かつて自分がその将来に期待 一方, 劉格は劉牢之の部将と していた桓玄が天子を幽閉するという大逆を敢てしたからである, ‐ して孫恩暴動の 鎮定に努力し, 国都建廉近くまで迫った孫恩の軍を撃退して, 建威将軍下部の大 守となり, 一躍して京口軍団の領袖となる, 桓玄が江陵に勢力を確立して建康に迫ろうとする動きがあった際に, 宰相の司馬元顕は劉牢之 に命じて桓玄を討伐させようとするが, 劉牢之は却 って 桓玄の軍門に降るが, 更に反逆を企て揚 子江の河畔で自殺 してしまう, 劉牢之の後には桓玄の従弟に当る桓修が長官として 赴任して来る が, 劉格はしばらくその部下として雌伏 して時節を待つ, 桓玄は東晋の王朝を打倒して自ら帝位に即いても, 抱負もなければ政策の持ち合わせもなく, 蒐集した書画や服飾の類を小舟に積んで万一の場合に運搬する手配を定める位で, 従来の東晋王 朝の執政たちと何等異なることはなく, 忽ちにして人望を失っ てしまう, 時機を伺 っていた劉格は, 何無忌・劉毅・檀悪之・醜詠之等27名の同志たちと共に, 安帝の復 位を名目として挙兵し国都建康に迫る, 従来まで桓玄の下に平伏している司徒の王註らは豹変し て 劉 格 の下 に 駈 せ 参 じて そ の ク ー デ タ ー を 助 け る こ と に な る,. 王説は劉格が 若い頃, 賭博に敗けて30万金の借りができて困った時に, その金を貸して援助し てくれたという人物で, 劉格は彼を揚州刺史・録尚書事として中央の政局に居らせ, 自らは使持 節都督揚徐寛予青翼幽弁八州諸軍事・徐州刺史となり, 領軍将軍として中央の政局を左右するよ - 61 -.

(7) . VOL 21 No,2. l of Hokka ido Un i ion I A) journa i i t ver s on (Secヒ y of Bducat. Feb . ,1971. う に な っ て 行 く.. 劉格の袷頭は旧来の貴族偏重の社会機構に 1つの大きな転機をもたらすことになる. 今日まで 何等門閥のない 武人が, 東晋王朝第1の功臣として内外に武功を立て, 自分と結托する貴族をそ れぞれ重要な地位につけ, 桓温が手を つけて果さなかっ た, 土断法などの豪族統制と財政政策, 地方行政刷新の方策を実施すると共に, 将来の天子候補者として の自分の地位を着々と固めて行 く. これまでの武人は, 貴族の下にその走狗として甘んじていた時代であった, ところが今度は 文弱な貴族が軍人の領袖に保護を乞うて, 自分の地位の保全を計らなけれ ばならなくなっ てきた, 劉格が 桓玄を打倒した後, 陶淵明の郷里の澱陽に, 江州の刺史として赴任して来たのは, 彼が かつて仕えた劉牢之の子供である劉敬宣であるが, どうやら陶淵明は彼の参軍としても仕えたら しい. それは義閣元年 (405) 3月の作に 『建威参軍となり, 都に使して銭渓を経』 と題する作品 があることによって知ることができる. この旅行は劉毅と意見が合わず辞任しようとする劉敬宣 の辞表を建康にとどけるのがその使命であっ たと考証せられているので, 陶淵明も劉敬宣と共に 職を辞したことが想像される. 要するに陶淵明は桓玄の纂奪, 劉格の拾頭, 100年も続いた東晋王朝のあっ けな い 崩壊, それを 支持していた貴族群の没落とその変動を眼のあたりに体験して, 人の世のはかなさ, むなしさを 切実に感じて いたに違いない, ところで彼は間もなく彰沢の令として再び就職する, しかしこれ も80日余で辞めてしまう, その折に書かれた作品が 『帰去来号辞』 である, これによっ て前半生 の生活態度を清算して, 以後一介の農民として生きて行くことを心に誓い宣言する. その後に作 られた 『園田の居に帰る』 5首 『飲酒』 20首等の作品は更にその心境を表明したものとして 理解 す べきであろう. これらの諸作品は多くは陶淵明が田園生活に入ってから10数年の間に作られたものを集めてあ ると推定されるが, その中の1つに次の作品がある, 飲. 酒. そ の19. 噂昔苦長飢. 噂昔. 長に飢うるに苦しみ. 投来去学仕. 来を投じて去りて 学仕す. 将養不得節. 将養. 節を得ずして. 凍俵固纏己. 凍鋲. 固より己に纏わる なんな. 是時向立年. 是 の時. 志意多所恥. 志意. 遂議介然分. 遂に介然たろ分を議し. 灘衣蹄田里 再再星気流. 衣を払って田里に帰る 再再として星気流る. 亭亭復ー紀. 亭亭として復た一紀. 世路廓悠悠. 世路は廓として悠悠たり. 立年 に 向 んと し. 恥ずる所多し. 楊朱所以止. 楊朱の止まりし所以なり. 雌無揮金事. 金 を揮うの事なしと雌も. 濁酒柳可惨. 濁酒. いささカ¥時む べ し. -紀」 とある. この詩の中に 「衣を払って田里に帰る, 再再として星気流れ, 亭亭として復た-. - 62 -.

(8) . 北海道教育大学紀要 (第一部A). 第 21 巻 第 2 号. 6年2月 昭和4. これは彼が郷里に帰って農耕生活に入ってから既に12年位の歳月が流れたことを意味してい る, この12年位の間に劉格の地位は重 きを加える. 義購6年 (4 10) 劉格は遠く北方に 遠征し, 南燕を討ち, その王である慕容超を捕え, 建康の市 で首を切り, 建康市人をあっといわせる離れわざをやってのける, その頃, 再び天師道の膚循が再 び兵をあげて建康に迫ると いう兵乱が勃発し, 劉格の腹心の部 下である何無忌・ 孟味が敗死するというような事件もあり, 縁陽はこれらの主戦場となったので, 陶淵明にとっ ても他人事ではなかったに違いない. 義際7年 (4 11) に劉格は大 尉の地位に就き, ついでこれまで 義兄弟として苦楽を共にした, 劉 毅を攻撃して自殺せしめ, 謝混を謙し, 更に諸葛長民を殺し, すべての競争者を打倒して政権奪 取の態勢をととのえる. 一介の無頼漢が時を得て 風雲に乗じて天下の大権を奪取して帝王の地位 を獲得しようとしているのだ. 旧き時代の伝統的教養を身につけ, 誠実に生き抜こうとする陶淵 明 と して は や り き れ な い 気 持 で あ っ た に 違 い な い,. 飲. 酒. 幽蘭生前庭 含薫待清風 清風脱然至 見別謂女中 行行失故路 或任道能通 覚悟富念還 鳥粛廃良弓. そ の17. 幽蘭. 前庭に生じ. 薫りを含んで清風を待つ 清風. 脱然として至らば. 繭女の中より別たる 行き行きて故路を失なうも 道に任さば或はよく通ぜん 覚悟して当に選るを念うべ し 鳥尽くれ ば良弓は廃てらる. この詩は, 劉格がその盟友であっ た旧い仲間をつぎつぎに 殺して行った事を癒した作品である. 「鳥尽くれば良弓廃てらる」 という語がそれを示 している. 劉毅にしても諸葛長民にしても, 劉 格からみれば文字通り苦楽を共にした 盟友である, 劉毅に対しては大軍を派して之を攻撃して自 殺せしめ, 諸葛長民に対しては, 油断をさせて之を暗殺してしまう. このような陰険な方法は, 教養ある英雄豪傑の土の敢て用いなかった方法で, このように陰謀と暗殺にようて天下を得た例 は劉格が勿論はじめてである. 6) 頃, 江州の“ 司史, 檀部は周続之・祖企・謝景 夷の3人を招いて, 城北で礼を講 義購12年 (41 ぜしめた, この年の8月, 劉格は後秦国を討伐のため北へ向ったが, その頃周続之は劉格の子供 に学問を講じている, 陶淵明の次の詩もおそらくその頃作られたものであろう, 周続之・祖企 ・謝景夷の三郎に示す 痢 (やまい) を負う頗暦の下 負痢頗警下 終日 一の欣ぶべ きものなし 終日無 一欣 時ありて間なり. 薬石有時間. 薬石. 念我意中人. 我が意中の人を意う. 相去不尋常. 相去ること尋常ならず. 道路遡何因. 道路の逝かなるは何によるか - 63 -.

(9) . Vo l ,21 N0 ,2. 周生述孔業 祖謝響然擦 道喪向千載 今朝復斯聞 馬隊非講津 校書亦巳勤 老夫有所愛 思与爾為郷 願言誠諸子 従我穎水浜. lof 日0 i i l d id。 Uni journa i t vers on (Se くa on I A) ct y of Educat. Febリ ー971. 周生は孔業を述 べ 祖謝. 響然として競る. 今朝. またここに聞く. な 道喪びて千載 声高んとし 馬隊は講庫にあらざるに 校書もまた巳に勤む 老夫. 愛する所あり. 爾と鄭たらんことを思う 願わくばここに諸子に誘えん 我に従え. 穎水の浜. 檀部は劉格の腹心の1人であるが, 当時一流の大家として有名であった周続之のような人物が, 劉格の傘下に集まって, 而も周公・孔子の道を講ずるということに対し, 精神主義者の陶淵明に と っ て は, な んと して も や り 切 れ な い 思 い が し た に 違 い な い, 「相 去 る こ と 尋 常 な ら ず,. 道路の. 趨 か な る は 何 に よ る か」 (互 に 近 くマニ住 ん で い る の に, 千 里 も 距 っ て い る よ う に 思 わ れ る の は ど う. したことであろうか) といっているのは, 両者 の立場のちがいと, それぞれ異っ た世界に住んで いる ことを示 して, 暗に時世に流され迎合して行く彼等の態度をきびしく非難しているとみる. 彼等が儒学の講 義をしたところは, どうやら軍隊の馬小屋を改造したところであったらしい, そんなところで校書と講学に努力している3人の態度を冷笑している陶淵明の姿がある, 陶淵明 には劉格に対するよりも, 時世に流されて行く彼等の姿勢にはげしい反感を覚えたに違いない. 「願わくは, ここに諸子に誘えん, われに従え, 頴水の浜」(穎水の浜で耳を洗っ た許由の精神に 従って, 生きて行く道を教えてやろう) というのがそれを証明する, 許由は古代の隠者で, 尭か ら天下を譲りたいといわれても受諾せず, 酒水の水で, 汚ない話しをきいたというので耳を洗い, 箕山のふもとに隠遁したという伝説上の人物である. また劉格やその徒党が, 孔子や孟子の精神 を 講 究 す る と い う こ と が, そ ら ぞ ら しく, ナ ンセ ンス に 見 え た の で あ る.. 陶淵明がこのような態度を表明するのは, 必ずしもここだけではない, 股晋安と別る 遊好非久長. 遊好は久長にあらざるも. 一過尽股勤 信宿酬清話. 一たび遇いて股勤を尽くす 信宿して清話を酎 Hし. 益復知為親. ま ますます親た るを知る. 去歳家南里. 去歳. 薄作少時郷. 薄く少時の郷となる 2. 負杖嘩瀦従. 杖を負いて畔ままに遊従し. 掩留忘 宵展. 南里に家してより ほしい. 語黙目殊勢. 港流して宵展を忘る 7 語黙 自ら勢を殊にす. 亦知当罪分. また知る ま. 末調事己及 興言在披春. 未だ謂わざりき 興言. かい. まさに諦分す べきを 事すでに及び. この春にあらんとは - 64 -.

(10) . 第 21 ′巻. 第2号. 北海道教育大学紀要 (第一部A). 瓢瓢西来風. 瓢躯たり. 西より来る風. 悠悠東去雲. 悠悠たり. 東へ去るの雲. 山川千里外. 山川. 言笑難為因. 言笑. 良才不隠世. 良才は世に隠れざるも. 千里の外 よしか. 因となし難し. 江湖多腐貧. 江湖には騰貧多し. 脱有経過便. もし経過の便あらば. 念来存故 人. 昭和46年2月. たず 念い 来 りて 故 人 を 存 ねょ. 股景仁は晋安南府長史の橡として, 添陽に住んでいたが, 劉格に抜擢せられて, 大尉参軍 とし て赴任することになったのである. こ の作品はその送別の詩であるが, この詩の中頃に 「私とあ なたとは, この世の中に対する姿勢が異っ ているので, いずれ別れなければならな いとは判っ て い ま した」 と は っ き り 述 べ て い る.. 股景仁は劉格に抜擢せられ, その腹心として次第に権力の座にのぼっ て行き, 劉格殺後も依然 として建国の元勲として次の王朝に重きをなし, 功成り, 名遂げて, その一生を終っ た要領のよ い世渡り上手な人物であったので, 陶淵明のように, いわゆる 「固窮の節」 を堅持して自己 の信 念を貫き通そうとい うという人間とは, 全く肌合い を異にしてい たわけである, 陶淵明としては, 劉裕個人に対する反感もさることながら, 劉格のような最も軽蔑に価する人 物に対しても, 世の知識人と称せられていた貴族や土大夫が, つぎつぎに迎合したり, 屈服した りする有様 が情なく思われ, やりきれない 思いにかられたものと思われる. さて北伐を敢行した劉格は, その年の10月には洛陽を陥落せしめ, その翌年の8月には長安を 攻略して後秦国を滅ぼしてしま う. 頃はよしと劉格は左長史の王弘を使者として建康に向け出発 せしめ, 朝廷に対し劉格に 『九錫』 を与えんことを要請す る. 『九錫』 とは天子が 元勲に与 える栄 典であり, 次期王朝の天子候補者としての適任証書である. 漢王朝を奪った王葬以来, 禅譲とい う美名におおわれた王朝纂奪の前奏劇として, 訓晋の王朝交替の折にも踏襲せられたおさだまり の型 で あ る,. 折返 し建康からは, 劉格のこれまでの功績を讃美したうえ, 『九錫』 を授与し, 宋公に封じ, 相 国揚州の牧に任命するという詔 を伝える使者が到着する, これらすべては劉裕みずからが仕組ん だ筋書きであり, 劉格の腹心簿亮の手によってこれらの文書はあらかじめ起 草せられていたとい う.. ところが劉格は丁重にこれを辞退する, 謙譲の美徳を備えた, 天子になるにふさわしい人柄で あることを天下の人々に示す為には一度はふまなければならない形式であった. この頃には帰趨 は決定したも同然で, 貴族権門は競って劉格にうまくとり入っ て自己の家名を維持するような傾 向 に な っ て い た,. 義無14年 (41 創史として赴任して来たが, その年の冬, 都に帰任する 8) 王弘が撫軍将軍江州 の“ 庚登之と, 予章に赴任する謝膳のために送別の宴を張った. その際に陶淵明も招かれて1詩を題 した.. 王撫軍の座において客を送る 秋日 豪 且 属. さむ はげ 秋 の日 は 凄く して 且つ 属 し - 65 一.

(11) . Vo l ,21 NO 之. ion I A) i id。 Un i d lof 日0 i l t ty of Bducat Journa ▽er on (Sec s く a. 百井具己緋. 百鼻 具にすでに形転ぼ. 髪以履霜節. 麦に霜を履むの節を以て. 登高銭将帰. 高きに登りてまさに帰らんとするに銭けす. 寒気冒山沢. 寒気. 山沢を冒し・. 瀞雲修無依. 済雲. 儀として依ることなし. 洲渚思緬適. ”渚 汐. 思いは緬として趨かなり. 風水互黍達. 風水. 互 いに泰れ違う. 膳タ欣良謙. 夕を膳ては良謙を欣ぶも. 離鎧率云悲. Feb , ,1971. はな. み. ゴ )か. 離れの鮭は率に云に悲し. 農鳥暮来還. 長島. 幕に来り還り. 懸車鰍余陣. 懸車. 余陣を飲む. 逝止判殊路. 逝くと止まると殊路を判っ. 旋駕帳運遅 目送図舟遠. 駕を旋らせば帳として遅遅たり 回舟の遠ざかるを目送すれば. 情随万化移. 情 (おもい) は万化に随っ て移る. この詩の中にも, 「逝くと止まると殊路を判っ, 駕を旋らせば帳として遅遅たり, 回舟の遠ざ かるを目送すれば, 情は万化に随っ て移る」 と詠ぜられている, 王弘は劉裕 傘下の有力な腹 心で あり, 招待された陶淵明 も, 疎略な態度は許されなかったわけであるが, その表現には一種沈痛 な空気が漂ってい る, 上述の3名は共に劉格の腹 心として大 活躍をした知識人である。 くしくも彼等 は澱陽にやって 来て陶淵明と交を結んでいる, 陶淵明もさり げない 態度をもっ て彼等と応待している, しかし陶 淵明の心の中には, 彼等のやり方 や心術に同調できない点があり, それだけはなんとしてもはっ きりさせ ておかなけれ ばならなかったのである. どんなに貧しく苦しい生活であっ ても頑張り通 さなければならない 彼の心情が, いわゆる 「固窮の節」 なのである, 3 8)12月, 劉格は部下を遣わして東晋の安帝を樋殺 Lてしまう. 殺したのは中書待 義無14年 (41 即の王都之で ある, この日のことはあらかじめ予知せられていたので, 弟に当る司馬徳女は常に 警戒して兄の傍 を離れなかったが, たまたま別室で静養中の出来事であった. 安帝の後には司馬徳女が天子に立てられるが, これが束晋最後の天子となる恭帝である, 劉格 が直ちに天子とならな かったのは, 「昌明の後になお 2帝あり」 という神秘説によるものといわ れる, 昌明とは孝 武帝の字である, 恭帝を以て東晋王朝の命運が尽きることをあまねく天下に知 らせなけれ ばならない. 天子となるためには禅譲という形式をふまな ければならぬが, 腹心の鱒亮はす べての手はずを ととのえ, 恭帝に 退位の大詔を書かせる, 劉格はいくた びか辞退の後, やむを得ず万人の歎願を 受け入れて天子の 位に即き, 新らしい王朝来を開く. なんと馬鹿馬鹿しい茶番劇であろう, これ に対して一刻も早く劉格にとり入っ て地位を保全しようとする知識人たちの姿を 彼はなんと眺め た で あ ろ う か,. 帝位を追われた恭帝は, 零陵王の称号を与えられて, 張邪王第から蘇陵宮に移され, 幽閉同様 - 66 -.

(12) . 第 21 巻 第 2 号. 北海道教育大学紀要 (第一部A). 昭和46年2月. の生活を送るが, 劉格は敢てこの廃帝, 司馬徳女を暗殺する. 廃帝は予めこのことあるを考え, その妃と2人だけで自ら炊事をして飲食をとるようにしていたが, 妃が別の部屋で来客と応接中 に, 闇入者は廃帝に毒楽をすすめたという, 廃帝がそれを拒絶すると, 今度は布団を以て これを 圧殺したと史書は伝えている. これまでの歴史では, 禅譲をした最後の天子は, せめて余生だけは不自由なく送ることが出来 得た. このような卑劣な手段によっ て無力な廃帝を暗殺することは, 前代にも例 のない暴挙であ り, 劉格が帝王であっても, 人間としては一介の無頼漢に過ぎなかったことを物語っ ている. 殺 した張本人の劉格は前帝の計報をきいて, 文武百官を堂に参集せしめ, 3日間の喪に 服し, 天下 万民は劉格の前帝追慕の心情を賞讃するという駄目おしの演出も行なわれて, この纂奪 の大事業 は完了する. 世の中の 真 なるもの, 偽りなき真実の姿を求める陶淵明がこのような, 卑劣で欺臓にみち た方法に対しては何等かの意見を表明せずには いられなかったのであろう, 陶淵明に 『述酒』 と 題する詩があるのは, 直接これに対する抗議であると思われる. 述. 酒. 重離照南陸. 重難. 南陸を照らし. 鳴島馨相聞. 鳴島の声. 秋草雌未黄. 秋草. 融風久己 分. 副{風. 相聞こゆ. 未だ黄ばまずといえ ども き 久 しく 己 に 分 え ぬ. 素膜畠修渚. 素牒は修渚に畠らかにして. 南獄無余雲. 南獄は余雲なし. 予章抗高門. 予章は高門に抗し. 重華固霊墳. 重華はただ霊墳のみ. 流涙抱中歎. 涙を流して中歎を抱き. 傾耳聴司最. 耳を傾けて司長を聴く. 神州献嘉粟. 神州. 嘉粟を献じ. ” 西霊為我恩. 四霊. わがために馴らす. 諸梁董師旅. 諸架. ぉさ 師 旅 を 董む るや. 芋勝. そ の 身を 喪 ば す. 芋勝喪其身. ぴ. 山陽帰下国. 山陽. 下国に帰り. 成名猶不動. 成名. なお勤めず. ト生善斯牧. ト生は斯牧を善しとず. 安楽不為君. 安楽は君とならず. 平主去旧京. 平王は 旧京を去り. 峡中納遺薫. 峡中に遺薫を納る. 双陵甫云育. 双陵. 甫めてここに育せんとせしも. 三魁顕奇女. 三蹴. 奇女を顕わす. 王子愛清吹. 王子は清吹を愛し. 日中潮河粉. 日中に河粉を捌けぬ. 朱公練九歯. 朱公は九歯を練り 一 67 -.

(13) . ▽0 1 .2 ,2. NO. do Uni i f Educat ion (Sec i Journa 1 一 日okka t i t ver s on I A) yo. 閑居轍世紛. 閑居して世の紛れを蹴る. 我我西嶺内. 装裳たろ西嶺の内. 恒息常所親. 優息して常に親しむところなり. 天容目永固. 天容. 自ら永しえに固く. 彰残非等倫. 彰蕩. 倫を等しうするものにあらず. Feb , ,1971. 陶淵明の詩は, 一般的に難解な語句を使用せず, 一読してその意義を理解できるものが多い, ところがこの詩に至っ ては充分にその内容を理解することができない, 三国時代, 雛の玩籍は, 当時屈指 の名門の貴族として生まれ, 一流の知識人として, その言論は世人の注目するところで あった. 彼はとっくに醜の権臣司馬氏の野望を見抜いていたので, 彼の行動はたえず司 馬氏に監 視せられて いたという. そこで彼は毎日のように酒にひたり, 狂態を演 じ, 儒教の教えである道 徳や礼教を無視, 世人を煙にまいてその生涯を終っ た. 彼の名前は竹林の七賢として後世に伝えられたが, 彼の真意は後世に伝えられなかっ た. 残さ ′ こ残されているが, 象徴的な語句が多く, 充分にその れた彼の作品は 「詠懐詩」82首として今日i 内容を理解することができない. しかしながらその作品の大部分は, 彼の奇矯な行動とは反対に, 冷ややかで静かな響きを伝えている, 詩の中にこめられた悲痛・孤高な心情は, 殆んど理解され な い ま ま に 今 日 に 残 さ れ て い る,. 陶淵明のこの作品も, 正確にその内容を理解することはできないけれども, 蓮らねられた語句 は, ほぼ確実に, 東晋王朝滅亡に関する一軒の事件に触発されたものとみるべきである, 彼はも とより, 東晋の王朝の縁につながる者ではなく, むしろ本質的には反東晋的立場におかれた人間 である, しかしながらそれにもま して, 彼の心をゆすぶったのは, そのような立場を超えて野獣 のような権力 者の非人間的な行為に対して 許すことのできない憤慨の念にかられたに違いない. 陶淵明が心の中に描いていた理 想の社会が崩壊して行く, そのことが 陶淵明にとってはやりきれ ぬ こ と で あ っ た の で あ る,. 陶淵明に 『桃花源記井序』 とい う文章があるが, これは現実の世相に絶望した陶淵明が, 理想 とする社会を 描いたもので, 後世 『桃源境』 という熟語によ っても知られるような美しい平和な 生活と自然の姿が描写せられている, また 『山海経を読む』 と題する作品の最後の1首も, 次のように詠ぜられている. 山海経を読む 巌巌顕朝市. その17. 巌巌として朝市に顕わるるも. 帝者慎用才. 帝者は用才を慎む. 何以魔共熱. 何を以て共餅を廃し. 重華 鴬之来. 重華. これを為けしや. 仲父献誠言. 仲父. 誠言を献ずるも. 妻公乃見猪. 妻公に乃ち精わる. 臨末告飢渇. 末に臨んで飢渇を告ぐるも. 富復何及 哉. 当にまた何 ぞ及ぶべけんや. たす. うたが. この詩は, 斉の桓公の故事を引用 して, 現代をそれとなく癒したものとみなけれ ばならない. - 68 -.

(14) . 第 21 巻 第 2 号. 一部A) 北海道教育大学紀要 (第一部A. 6年2月 昭和4. そうでなけれ ば, 陶淵明がこのような詩を作ることは異様に感じられるのである. 更に 『荊嗣を 詠ず』 という作品を作って, 決死の覚悟で秦の始皇を暗殺しようとして失敗した荊胴の悲槍な行 動を描写して 「惜しいかな, 剣術うとく, 奇功, 遂に成らず, その人己に没すといえども, 千載, 余情あり」 と痛嘆しているのは, 必ずや劉格に対する憤慨の情にかられたものと思う, 陶淵明が残した のは, 宋の女帝の元嘉4年 (42 7年) 丁卵の歳に当っている, 彼の残後, 彼につ て最も早く書かれた文章は 同じ時代の文学者で ある顔延之による 『陶徴士訣井序』 である, い , これは彼の死後あまり遠くない 時機に書かれたもので, 直接, 陶淵明と交渉のあった人物である から, 記述は真実に近いものであろう. 顔延之は孝武帝の太乙9年に生まれており, 陶淵明より19歳の年少であり, 同じ時代の詩人, 謝霊運よりは1歳の年長である, 謝霊運は陶淵明の死後, 6年目に殺されているが, 顔延之は更 に29年間を生 き抜 いた, 顔延之が陶淵明にはじめて対面したのは, 義澱11年で, 陶淵明は51歳, 顔延之はまだ32歳の青 年であった, 彼が 澱陽を去っ たのは, その翌年 義購12年で, その間両者は親しく交際して互に深 くその人柄を理解しあったものであろう. 顔延之が再度津陽を訪れたのは, 元嘉元年で陶淵明は既に60歳にもなっ ており, 身体も次第に 衰弱しており, 貧窮の程度も更に深刻なものがあっ たろうと想像される. 顔延之はこの時, 始安 郡の長官として赴任する途上にあったが, 9年振りに再会した両者は, 互に酒を酌み交わして再 会を喜んだと 『宋書』 の中には述べられている, 当時陶淵明の生活があまりにも窮迫してい たので, 顔延之は別れる際に, 2万銭を銭として贈 ったところ, 陶淵明はその全額をすべて酒屋にあずけてその支払に当てたという. J その翌年, 檀道済が江州のd リ史として津陽にやっ て来た, 檀道済は旧くからの劉格の同志であ た檀悪之の従弟の子で檀部の弟に当り っ , 京口で挙兵 して以来の仲間でもある, 義際12年に後秦 王国遠征の際には, 王猛の孫に当る王鎮悪と共に先遣部隊として活躍し, 一挙に洛陽を席捲し, 更に長安に迫って後秦国を滅亡に至らしめた勇将である, 彼は陶淵明の声望を知っ て, 莫大な食糧や金品を持参して詩人に贈り, 彼に出仕するように勧 めた, 「天下に道なければ隠 れ, 天下に道あれば現われるというのが, 賢者の世に処する道であ るといわれています, 現在は天下泰平, 文明の世の中ではありませんか‘ どうしてそのように身 を 苦 し め ら れ て い る の で す か」. 之に対し陶淵明はこう答えている 「私などが聖賢などとはとんでもないことです. 私は聖賢に な ろ う と は 思 い ま せ ん し, か り に 思 っ た っ て 及 び も つ か な い こ と で す」. そして彼は, 檀道済が持参した贈り物をどうしても 受け取らなかったのである. 1年前に顔延之から2万銭を贈られた際には, 喜んでこれを受け取り, 全部を酒屋の支払いに 当てたという彼が, 出世の手づ るにもなろうかという檀道済の贈り物をさりげなく断っているの で あ る,. 当時の陶淵明の環境は更に悪化しており, 貧窮と老病とは一層すすんでおり, 檀道済の贈り物 は 溺 れ る者 の わ ら に も 比 す べ き も の で あ っ た か も 知 れ な い, そ れ を あ っ さ り 断 っ て し ま っ た の は,. 彼が単に無欲情淡で物事に執着しなかったからではなく, 受けてよいものと, 受く べからざるも のに対して, 断乎たる信念を持っ ていたからだとみなければならぬ. そしてそれは 陶淵明が, 物欲に超然として身を世間の外におく老荘の人生観に基盤をおくもの ではなく, 取与の区別と限界をは っ きり区別しようとする, 正統的儒家の思想を代表する人物で - 69 一.

(15) . Vol .21 No .2. ido Un l of Hokka Journa i i i i t ty of Educa t ver s on (Sec on I A). Feb . ,1971. あ っ た か ら に 外 な ら な い,. 顔延之の人柄は極めて 剛直にして反骨精神の旺盛な人柄 であったことは, 彼の伝記を記した『宋 書』 の本伝によっ ても推察す ることができる. 彼が陶淵明に会っ た時は, 義照11年で, 陶淵明は 5 1歳, 顔延之は年少気鋭の32歳であっ た, 陶淵明はその才を愛し, また, 気の鋭なるを心配して, 腸をあげて歓談しなが らも, 次の言葉 の忠告をしている, 「独り正しきものは危うく, 至っ てかどばれるは, さまたげらる」 <自分ばかり正しいとして, 他人と妥協しない者はあ.ぶない し, あまり四角四面でむずかしく 主張すれば, たとえ正 しくても, 自分の意見は邪魔されてしまう> 両者は余程意気投合したものと見えて, 顔延之は陶淵明のすく 隣りに住みついて, 互に相往来 するというように, 正に親類以上の交際をつ づけた, このょな密接な間柄であったから, 陶淵明 の段後, 祭文を書く人は彼をおいて適任者はなかっ たのであろう. 顔延之もまた, 陶淵明の段後, 非業の最後を遂げるというようなこともなく, 更に29年の歳月を生き抜くことが出来得たのは, 彼の忠言も預っ て いるかも知れない. 檀道済は劉格の若い時代か らの相棒の1人で, 檀悪之が戦死 してより後は, 劉格の腹心として 大活躍する. しかしながら, 劉格が永初3年に毅すると, 彼はいつの間にか次の天子となった少 帝劉義符をはなれて, 第3子の女帝劉義隆の謀に荷担して, 少帝を廃して女帝を擁立するに至っ た人物である. 彼が江州の刺史として意気 揚々として赴任して来たのは, それから2年目のことであるが, 陶 淵明にとっ てはこのような種類 の人間は, 最も軽蔑すべき人間であっ たというよりも, 彼の全生 涯を通 じてこのような無頼 漢あがりの武人どもによっ て 支配される社会に生きることがやりきれ ない気持になっ ていたのである. 『桃花源記』 などを作っ た心境もこのように見てきてよく理解す る こ と が で き る で あ ろ う.. 陶淵明の謙を書いた顔延之は, 彼の呼称を陶淵明とだけ述べて, 淵明が本名であるが, 字であ るかを示 していない, 沈約によっ て書かれたという 『宋書』 の隠逸伝は, 「陶潜字は淵明」 とい い, 別に1説として 「淵明字は元亮」 という説をあげている. これに対して最初に陶淵明の伝記を書 いた詣統は, 「陶淵明, 字は元亮」 と い い, 1 説 と して 「潜, 字 は 淵 明」 と い っ て い る, ま た, 鍾 蝶 の 『詩 品』 に は, 「宋 の 徴 士 潜」 と い っ て い る 更 に . 彼の全集を出した陽休之も, 「陶潜」 とい っ ている, こ の よ う に 彼 の 名 前 は, 『淵 明』 と い っ た り 『潜』 と い っ た り して 一 定 し な い. 『晋書』 の 隠 逸. 伝も, 『南史』 の隠逸伝も共に 「陶潜」 といっ ているが, 『晋書』 では, 「字を元亮」 といい, 『南 史』 は, 「字は淵明」 と述 べて いる. 陶淵明と直接交際のあった顔延之が 『陶淵明』 と書いているから, これは正 しいと思われるが, 後世の史書には 『陶潜』 と書かれてし ・る. これは一般には 『陶淵明』 と称していたものであるが, 『 陶潜 後に 』 と改めたものであろうと思われ る. 而も改めたのは, 最晩年, 劉格が東晋の2人の 天子を最も卑劣な方法を以て死へ追いやっ て自ら天子の位についてからであろうと思う. 陶淵明は必ずしも東晋王朝の忠臣と い うわけではなし・ . 否, む しろ束晋の天下を窺う野心を抱 いていたといわれる陶例の曽孫といわれており, 桓温や 桓玄のように東晋の王室を脅かした人物 にすら仕えたのである. 更に彼の外曽父孟嘉も反逆者として歴史の上にその名を残している, しかしながら桓玄らは, やはり陶淵明と同じ社会的基盤に属す る一流の貴族であり, 陶淵明と 同じ文芸を愛し, 芸術を好む階級のグルー プに届して いたのであり, 劉格のような無頼漢あがり - 70 -.

(16) . 第 21 巻 第 2 号. 北海道教育大学紀要 (第一部A). 昭和4 6年2月. 、 フ 口 るような世の中に生きることはどうにもやりきれな ょ ょ…の に′ ′ る こ と は フ に の無教養な非人道的な人間が, 天下に君臨するよう. か っ た の で ある.. この偉大なる詩人は, ついにこの世の中にすら住むことを欲せずして<潜>と改名して一生を ひそんです ごす 決心をしたのである, 老齢多病の詩人がなし得た, それは最後の抗議であったの で あ る,. -7 1-.

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参照

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ともわからず,この世のものともあの世のものとも鼠り知れないwitchesの出

その詳細については各報文に譲るとして、何と言っても最大の成果は、植物質の自然・人工遺

関係委員会のお力で次第に盛り上がりを見せ ているが,その時だけのお祭りで終わらせて

〃o''7,-種のみ’であり、‘分類に大きな問題の無い,グループとして見なされてきた二と力判った。しかし,半

点から見たときに、 債務者に、 複数債権者の有する債権額を考慮することなく弁済することを可能にしているものとしては、

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