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第二次鉱毒調査委員会

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第二次鉱毒調査委員会

三 浦顕一郎

はじめに 第一節 設置 第二節 調査 第三節報告書 おわりに

はじめに

 明治三五︵一九〇二︶年三月、政府は鉱毒調査委員会︵明治三〇年の鉱毒調査委員会との対照で第二次鉱毒調査委員 会と通称される︶を設置した。この調査委員会は、足尾鉱毒問題の最終的な解決策を提示し、その解決策を谷中村の遊 水池化に求め、それによって問題の収束をはかった点で、足尾鉱毒問題の歴史にとって決定的に重要である。  第二次鉱毒調査委員会について、主な鉱毒被害激甚地の一つであった栃木県の自治体史﹃栃木県史﹄は、﹁委員をみ ると被害民の期待を裏切るような人選が行われていた﹂と述べ、また委員会としての報告書の策定に当たっては﹁委員

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︵   号 36 第 巻 通 ︵ 号   巻 17 第 学 法 鴎 白 長奥田義人と鉱山局長で委員の田中隆三の意中にはすでに一定の方向が敷設されていた﹂として、﹁自ら一年間の尽力 を放棄するかのように十月二十九日、五か月ぶりに第六回の調査委員会を開い﹂て谷中村の遊水池化を決定し、﹁秘密 のうちに話し合われ、作成された報告書は、眼前にその内容が明らかにされた時、すでに如何ともなし難い強大な国家        ハ ロ 権力を背景に対洪水策としての遊水池化が厳然と現われたのである﹂と説明している。  また足尾鉱毒問題の通史として名高い﹃通史足尾鉱毒事件H・ 。ミーH㊤o 。出︵東海林吉郎・菅井益郎著︶は、委員の人選 について   ﹁なるほど、第一次の鉱業停止派の坂野初次郎や、かつて農民側の被害調査に協力した古在由直も新たに加わって   いた。しかしその中心メンバーは、法制局長官の奥田義人委員長をはじめとし、調査委員会発足以前から、鉱業停   止などありえぬと放言してはばからぬ鉱山局長の田中隆三、内務書記官の井上友一、大蔵書記官の若槻礼次郎ら新   進官僚に加えて、第一次のそれを牛耳った古河のお抱え学者渡辺渡、および御用学者の河喜多能達であった﹂        ハ レ として、結局、﹁古在や坂野らも政府側の遊水池化計画に誘導されていった﹂と述べている。  こうした通説的説明はどの程度正しいのだろうか。  本稿では、実際に第二次鉱毒調査委員会でどのような議論がなされ、どのようにして結論が下されたのか、また当時        パ レ の人々が第二次鉱毒調査委員会をどのように見ていたのかについて、先行研究と各種史料︵自治体史や政府資料、当時 の新聞報道や論説等︶を用いて確認していきたい。

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第一節 設置

 明治三五︵一九〇二︶年は鉱毒世論の盛り上がりの中で年を明けた。明治三三︵一九〇〇︶年二月に起きた川俣事件 の公判は、明治三四︵一九〇一︶年九月に群馬県前橋地方裁判所から東京控訴院に場所を移し、そのことによって在京 各紙によって詳しく報道されるようになった。また、この公判の過程で判事らが鉱毒被害地を臨検し、それに随行した 各新聞社の特派員によって被害地の惨状が世に伝えられた。さらに追い打ちをかけるように一二月に田中正造が天皇に 直訴を試み、衝撃をもって報じられるとともに、その是非が新聞紙上で論じられた。  こうした中、明治三四年六月に島田三郎らによって鉱毒調査有志会が結成され、一二月には潮田千勢子らにより鉱毒 地救済婦人会を結成されたほか、在京学生による鉱毒地視察旅行が行われた。この視察旅行には五二〇名の学生が参加       ハ ロ したといわれ、学生以外の参加者を含めると﹁総勢一千百有余﹂に達したといわれる。彼らは明治三五年の年明け早々 から東京市内で視察報告演説会や路傍演説を行い、鉱毒被害の惨状について訴えた。  また仏教徒の団体やキリスト教徒の団体も被害地に入り、彼らは競い合うように慈善活動を行った。新聞紙上では各 紙がたとえば﹁鉱毒彙報﹂といった形で連日のように足尾鉱毒問題の記事を掲載した。﹁鉱毒被害地幻灯映画﹂の上映 会も各地で行われた。       ゑ  こうした鉱毒世論の盛り上がりに、政府は硬軟両様の対策で対応した。すなわち、 鉱毒演説会を禁じたり、あるいは被害民に同情的な立場で鉱毒報道に熱心であった 一方では学生の被害地視察旅行や ﹃毎日新聞﹄を再三にわたって告

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2 ︵   号 36 第 巻 通 ︵ 号   巻 17 第 学 法 鴎 白      パ レ 発・起訴するなど強硬な対応で臨んだ。 鉱毒世論の鎮静化をはかったのである。 しかし、他方で政府は鉱毒調査委員会を設置して、問題の根本的解決によって  このときに設置された鉱毒調査委員会は、明治三〇︵一八九七︶年に設置された鉱毒調査会との関係で第二次鉱毒調 査委員会と通称される。  第二次鉱毒調査委員会の設置の議がどこから・どのように出てきたのかは、実はよく分らない。時の内閣総理大臣桂 太郎の自伝や伝記、関係文書を見ても、あるいは主管大臣である農商務大臣平田東助や内務大臣内海忠勝の伝記や関係        ハクロ 文書を見ても、それに関する記事は見当たらず、設置の議の出所や経緯は不明である。  明治三五年一月一四日、谷干城・三好退蔵・島田三郎の三名が足尾鉱毒問題につき桂首相を官邸に訪ねたところ、桂 首相は﹁該事件に就きては予て憂慮する所あり実は唯今も内務農商務両大臣とも協議中なりし﹂と述べてその場に両大 臣を招き、六者で三時問ほど会談、﹁互に胸襟を披きて﹂会談した結果、谷・三好・島田の三名は﹁満足の意を表﹂し    パ レ たという。このとき政府側から鉱毒調査委員会の設置が伝えられたかもしれない。  長州系の新聞で政府事情に詳しい﹃東京日日新聞﹄は、早くも一月一五日の記事﹁鉱毒問題と政府の意向﹂で、   ﹁足尾鉱毒問題に付ては⋮⋮近日同問題は又もや社会の注意を引くこととなりたれば政府に於て何とか善後の方法   を講ずべきは勿論なるも或は特に委員会を設立するの意向なきにあらずともいふ﹂ と調査委員会設置の可能性を伝えた。  こうして世間に鉱毒調査委員会設置の議が漏れ伝えられる中、政府では一月一七日の閣議で委員会の設置を正式決定

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した。このときの請議書は   ﹁⋮⋮近来鉱業の進歩に伴ひ鉱山所在地方人民の利害に関し往々紛議を生じ、殊に足尾銅山の如きは数年来の紛議   未だ止まず、近日益々熾ならんとするの傾あり。且別子銅山の如きも亦近来漸く同一の状勢を見んとするの徴あ   り。依て鉱毒の状況蛇に之が処置の方法を調査する為め内閣に調査委員会を設け、内閣及内務大蔵農商務三省の高       ハ レ   等官並に帝国大学教授中より委員を選定し調査を遂げしめらえ候様致度。右閣議に供す﹂ と述べており、第二次鉱毒調査委員会は︵第一次と違って︶足尾銅山だけでなく、別子銅山を含む鉱毒問題全般を調査 対象としていたこと、委員会設置の背景には足尾銅山の鉱毒問題をめぐって﹁数年来の紛議未だ止まず﹂という状況が あり、それゆえ委員会の設置に至ったこと、委員会の目的は﹁鉱毒の状況拉に之が処置の方法を調査﹂すること、委員 には﹁内閣及内務大蔵農商務三省の高等官並に帝国大学教授﹂が予定されていたことなどが知られる。  また、二月二〇日の議会︵衆議院︶で奥田義人法制局長官は、島田三郎議員の質問に答えて ﹁明治三十年に於て鉱毒調査会と云ふものを設けられて居るので、其当時に種々なる調査を致しました、調査を致 して而して其調査委員会の報告と云ふものを出して居りましたのであります、然る処が政府の一般の考では、其調 査会を以て十分此調査のことは、出来得て居るものであると考へて居ったのです、所が段々其調査の報告等を能く 取調べて見ますると云ふと、まだ調査会の報告に依って以て、此鉱毒問題と云ふものが、十分解決せられて居らぬ と云ふことが、発見をせられました、而して又一方に於て、当局よりして御承知の通、此足尾の銅山に対して相当 なる所の予防命令を下し、其命令に依って其銅山主は工事を為しましたけれども、其後果して其予防工事と云ふも のが、十分なる効果を奏して居るや否やと云ふことに、疑が存して居ると云ふことを、段々認めなければならぬや

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︵   号 36 第 巻 通 ︵ 号   巻 17 第 学 法 鴎 白   うな事実でありましたので、今度此鉱毒調査会と云ふものを持へ、更に十分なる調査を遂げて、而して此問題に関       パルロ   する所の事柄を解決をするの材料を、是で調査をすると云ふ政府の考でありまする⋮⋮調査会の委員の組織は、今   日の見込では農商務省、内務省、大蔵省、蛇に帝国大学、其外内閣、是等の在職者中より選択を致しまして、委員   を命ぜられて組織になる訳になって居ります﹂ と答弁し、明治三〇年の鉱毒調査委員会の調査では﹁鉱毒問題と云ふものが、十分解決せられて居らぬ﹂こと、また明 治三〇年の予防工事が﹁十分なる効果を奏して居るや否やと云ふことに、疑が存して居る﹂こと、それゆえこのたび鉱 毒調査委員会を設置するに至ったということ、また委目ハには農商務省・内務省・大蔵省の役人および帝国大学教授が予 定されていることなどを明らかにした。  さらに奥田法制局長官は三月七日に新聞社のインタビューに答えて   ﹁⋮・−調査の期間は約六ヶ月にて即はち遅くも本年九月にて終了する積なるが同時に解決を与ふ可し。其解決方法   は今日の処にては未だこれなりといふ確案なく銘々所思をいふ位にて くとも其調査の半以上に進みし後ならでは         パじロ   明言する能はず﹂ と述べ、調査期問は約六か月を見込んでおり本年九月に終了する予定であること、解決方法は未定であるこどなどを明 らかにしている。  さて、一月一七日の第二次鉱毒調査委員会設置の閣議決定を各紙は一斉に報じ、﹁現内閣に於ては足尾銅山鉱毒事件 に就き調査の議もありしが、愈よ内務農商務両省の主任者を調査委員となし最も公平に之を処置するの目的を以て昨

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日の閣議に付し種々協議の上遂に委員会を設くるに決し﹂︵一月一八日﹃東日﹄﹁鉱毒調査会﹂︶、﹁鉱毒問題に付内閣各 大臣も近き将来に於て極めて綿密なる調査を為し以て世人に満足を与へんとの決心を有し居れば議会閉会の後に至り各 専門家を以て調査委員会を組織すべしといふ﹂︵一月一八日﹃東朝﹄﹁鉱毒調査会組織の議﹂︶﹁鉱毒調査会組織のことは 一昨日の閣議にて決定し不日之れが官制を定むる筈なるが右調査委員は農商務、内務、大蔵の三省及び大学教授中より 選抜すべしとなり﹂︵一月一九日﹃報知﹄﹁鉱毒調査会﹂︶、﹁不日官制を定めらるべく調査委員は農商務、内務、大蔵の 三省中の人才を以て之に充て必要に応じては帝国大学教授中より一二の専門家を選抜すべしとの事なり﹂︵一月一九日 ﹁東朝﹄﹁鉱毒調査会﹂︶、﹁鉱毒調査会の官制は既に上奏の手続中なれば三五日内には発表を見るべし頗る簡単のものに て足尾其他一二の鉱山に対する現況を基礎として防毒の方法及び被害地善後策を講ずるに在り晩夏若くは初秋頃には調 査を完了することならんかと云ふ﹂︵一月≡二日﹃東朝﹄︶などと伝えた。  二月に入ると、鉱毒調査委員会の委員長に法制局長官の奥田義人が就任すること、鉱毒調査委員会のために明治三四       パむレ 年度追加予算が認められたことなどが報じられた。  そして三月一五日、勅令第四五号で﹁鉱毒調査委員会官制﹂が公布され、   第一条 鉱毒調査委員会は内閣総理大臣の監督に属し、鉱毒に関する実況及処分の方法を調査す   第二条鉱毒調査委員会は委員長一人、委員十五人以内を以て之を組織す   第三条 委員長及委員は内閣、内務省、大蔵省、農商務省の高等官及帝国大学教授の中より内閣総理大臣の奏請に   依り之を命ず   第四条 委員長は会務を処理し、調査の結果を内閣総理大臣に具申すべし

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2 ︵   号 36 第 巻 通 ︵ 号   巻 17 第 学 法 鴎 白   第五条 委員長は調査事項に関し、関係官庁に事実の説明及書類の提供を求むることを得   第六条 委員長は事項を指定し、関係官庁に其の調査を求むることを得   第七条 委員は委員長の指揮を承け調査に従事す   第八条 鉱毒調査委員会に主事一人を置く    主事は委員長の指揮を承け庶務を整理す   第九条 主事は委員長所属官庁高等官の中より内閣総理大臣の奏請に依り之を命ず        パおレ   第十条 鉱毒調査委員会に書記若干人を置き、委員長所属官庁判任官の中、又は其の他より委員長之を命ず と定められた。一七日には委員会の委員が発表され 委員長 委 員 法制局長官 東京帝国大学工科大学教授工学博士 土木監督署技師工学博士 農商務省鉱山局長 東京帝国大学理科大学教授理学博士 大蔵書記官 営林技師 東京帝国大学工科大学教授工学博士 東京帝国大学農科大学教授林学博士 奥田義人 渡辺 渡 日下部 二郎 田中隆三 神保小虎 若槻礼次郎 村田重治 河喜多能達 本多静六

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      内務技師       内務書記官       東京帝国大学工科大学教授工学博士       農商務省農事試験場技師       東京帝国大学農科大学教授農学博士 が委員となることが明らかにされた。 教授からの構成であった。        むロ が新たに委員に加えられた。  翌一八日、 野田忠広 井上友一 中山秀三郎 坂野初次郎 古在由直      かねて報道されていたように内務省・大蔵省・農商務省の役人と東京帝国大学の これに四月≡二日に田原良純︵衛生試験所技師︶と橋本節齋︵東京帝国大学医科大学教授︶     彼ら鉱毒調査委員会のメンバーは午後三時から内閣に参集し、桂太郎首相から挨拶を受けた。桂首相は ﹁此調査会は世問の問題となって居りまする足尾銅山、別子銅山等に於ける鉱毒に関する実況及び処分方法を調査 するが為めに設立したるものであります、就中足尾銅山のことに関しては御承知の通り政府は去る明治三十年に於 て特に調査委員会を設け其意見を徴し主務大臣より当業者に向て予防命令を発し特殊の設備を為さしめたのであり ますけれども、今日に至るも猶ほ世問物議の終局を見るを得ざるは誠に遺憾のことと存じます。  抑々此鉱毒問題を充分に解決することは固より容易のこととは思ひません、然しながら今にして之が方針を定め ざるに於ては其間には各種の錯綜したる事情の纏綿を来し今後益々困難に困難を加るに至るは明かなることと信じ まするが故に、此際十分に其調査を遂げ適当なる善後の計画を定め及ぶべき限り本件の終局を期する積りでありま ハおレ す﹂

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︵   号 36 第 巻 通 ︵ 号   巻 17 第 学 法 鴎 白 と述べ、足尾銅山の鉱毒間題に関してなお世間に物議があるので鉱毒問題の実況および処分方法を調査して、十分な調 査のもとに﹁本件の終局を期する積り﹂であると委員に告げた。このあと第二次鉱毒調査委員会のメンバーは法制局に 移り、午後四時から第一回の会合を行うのであるが、それについては節を改めて見ていくことにする。  以上に見たように、前年来の鉱毒世論の盛り上がりの中で、第二次鉱毒調査委員会は発足した。その趣旨は、足尾鉱 毒問題をめぐって﹁数年来の紛議未だ止まず﹂という状況の中で﹁鉱毒の状況拉に之が処置の方法を調査﹂して﹁本件 の終局を期する﹂ためであった。また鉱毒調査会の委員には農商務省・内務省・大蔵省の役人と帝国大学教授が就任す る予定であることも一月の時点ですでに明らかにされた。こうした事柄は新聞報道等を通して国民も知るところであっ た。  ここで当時の新聞が第二次鉱毒調査会の設置をどう論じていたかを確認しておこう。まず長州系の新聞として著名な ﹃東京日日新聞﹄は一月一八日の記事﹁鉱毒調査会﹂で、調査委員会設置の目的を﹁最も公平に之︹足尾鉱毒問題︺を       パおロ 処置する﹂ためと述べる一方、一月二九日の社説﹁鉱毒調査会﹂で、   ﹁鉱業の為に放出すべき土砂響水其の他植物の生育を傷害すべき物質は之を処理して漏出せざらしむを得るは必ず        ママ    しも難しとせず又姻毒は其の被及する所自ら限りあるを以て其の最も接近せる場処の外に傷害を加ふることなく其   の傷害を少なくするの道も亦之なきにあらざるを以て之を推す時は鉱業必ず農業と両立せずと云ふの理由なし﹂ と鉱害防止が可能であることを強調して、農鉱両立が可能であると説明し、さらに   ﹁有益なる事業の発達は国家の利益を増進すると同時に其の地方人民を潤すこと甚大なり﹂

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と銅山事業の意義を強調して、鉱毒調査委員会に   ﹁吾曹は此の如き調査研究に依りて世人の誤謬を解き当業者と国民との為に安心を与ふるの処置を取らんことを切   望するものなり﹂ と足尾銅山と国民の双方に安心を与えることを期待する。  ﹃時事新報﹄は一月一九日の記事﹁鉱毒調査会に就て﹂で、まず   ﹁足尾銅山鉱毒事件は数年来議会及び世間有志者間の問題となり鉱毒の調査及び其取締方法等に就ても屡々政府に   迫り其実行を促して止まず是非政府当局者をして鉱毒救済の策を講ぜしめんとて引続き奔走尽力せる所なる﹂ とこれまでの経緯を略述したあと、しかし鉱毒問題に奔走する田中正造や被害民の   ﹁有志者等の声言する所は果して悉く事実の真相を得たるものなるや否は固より不明にして有志者等の語る所直に   同意を表し難く或は多少誇大に過ぎたるの嫌なしと云ふべからざる﹂ とその主張を素直に信じていいものかと疑念を呈し、とはいえ   ﹁従来之に対する政府の処置も亦其当を得たるものと云ふべからず鉱毒事件に就ては疾くに政府に於ても其事実有   無を調査して世上の疑を解くべき筈なるに兎角其処分を等閑に附し荏薄日を過して今日に至りたる﹂ と政府批判も行ったうえで、   ﹁今度政府は農商務、内務、大蔵の三省中より委員を選定して鉱毒の調査会を組織し十分に審査を遂げしむると共   に彼の有志者等の説にして採用すべきものは直に之を容れ又排斥すべきものは断然之を排して由来世上の一疑問た   りし鉱毒問題の解決を与ふる決心の由﹂

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2 ︵   号 36 第 巻 通 ︵ 号   巻 17 第 学 法 鴎 白 と鉱毒調査委員会に期待を寄せている。ここには報道新聞としての﹃時事﹄の被害民の立場にも政府にも立たない慎重 さと、問題の解決を﹁学術的﹂な調査委員会に期待するという﹃時事﹄伝統の態度があらわれている。  ﹃時事﹄は三月二二日の社説﹁鉱毒調査﹂でも鉱毒調査委員会を論じ、ここでも   ﹁鉱毒調査の事たる全く学理の範囲内に属するものにして政府が其委員を技術の専門家に取りたるも即ち之が為め   に外ならざれば其調査は一々学理の命ずる所に拠ること勿論にして其間に一点も素人の情実論を容る可からず﹂ と専門家の学術調査を尊重すべきことを説き、また   ﹁思ふに此事件たる単に足尾銅山のみに止まらず国中には更に幾多の銅山あるのみならず凡そ鉱山その他の工業の   経営に就ては事の大小は異なれども其趣は粗ぼ同様なるもの少なからざれば此問題の解決法如何に由りては将来に   関係する所甚だ大なる﹂ と足尾銅山にとどまらず広く鉱業一般に影響を与えるものであるがゆえに、﹁情実論﹂に惑わされることなく、専門家 による解決に期待すると述べた。  同じく報道新聞の﹃東京朝日新聞﹄は、社説等で第二次鉱毒調査委員会を正面から論じることはしなかったが、﹁東 朝﹄らしい特徴は記事の組み方にあらわれている。すなわち﹁東朝﹄は二月二四日に被害民に同情的な農学博士横井時 敏の談話を載せる一方、一週間後の三月一日には被害民に批判的な足尾鉱毒問題解決調査事務所長の中井栄次郎の談話 を載せている。両方の主張を載せることによってバランスをはかり、不偏不党・公正中立の外観を保とうとする報道新        パロレ 聞﹁東朝﹄らしい特徴があらわれているといえる。  ﹃萬朝報﹄は、二月二一日の社説﹁鉱毒調査会に対する希望﹂で鉱毒調査委員会を論じ、

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  ﹁吾人は従来の経験に徴し、此種の会に向って甚だ多きを望む能はずと雄も、而も為すは為さざるに勝れり﹂ と委員会設置を﹁多きを望む能はず﹂と突き放しつつも、﹁為すは為さざるに勝れり﹂と評価する。そのうえで   ﹁吾人は⋮⋮調査会組織の上に於て多くの注文勧告を為す所あるべし。而して其主なる者は、調査会委員の錐衡是   れ也、政府は此点に於て最も慎重ならざる可らず﹂ と注文をつける。調査会が﹁弥縫会﹂﹁ゴマカシ会﹂﹁被害民鎮圧会﹂﹁古河市兵衛擁護会﹂とならずに、﹁真個の調査 会﹂となるためには﹁委員其人を撰ぶに於て、又極めて公平ならざる可らず﹂。それでは誰が適任か、   ﹁民間人士の才学識量ありて、多年此問題を講究し之が解決に尽捧せる者の選任の如きは、最も急要ならずんばあ   らず、吾人を以て之れを見る、島田三郎君の如き、安部磯雄君の如き、田中正造君の如き、実に此の種の人に属   す﹂ というのが﹃萬朝﹄の主張であった。  また、鉱毒被害民の機関紙ともいうべき様相を呈していた﹁毎日新聞﹄は、連載中の社説﹁足尾鉱毒処分﹂の第七回 ︵一月二五日︶で   ﹁吾人は当局に向ひて、調査とは何を調査する乎を問はざる可からず、鉱毒の残害は既に確定せり、除害工事は殆   ど無効なり⋮⋮此点に関しては最早調査の必要なし、其調査を要するは、将来鉱山を稼行するも、公益を害する無   き防禦を為し得るや否やに在り、既に荒廃せる土地河川山林を回復するに如何の方法を以てすべきやに在り、被害   の人民を、如何に救済すべきやに在り⋮⋮直ちに実行すべきは、日々に毒姻毒水を吐出する稼行を停止すべき一事   にして、此切迫なる政府の職分は、最早調査の要あらざるなり﹂

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2 ︵   号 36 第 巻 通 ︵ 号   巻 17 第 学 法 鴎 白 と論じ、もはや鉱毒の有無については調査の必要はないとして、足尾銅山の操業停止を求める一方、調査すべきは予防 工事の可能性、鉱毒により荒廃した土地・河川・山林の回復方法、被害民の救済方法であるとした。また二月七日の社 説﹁誠意なき調査は効力﹂では   ﹁若し調査に托言して、現在日々に増加する毒害を看過せば、変或は意外に起らんとす、誠意あるの調査は、吾人   其利あるを見認むべきも誠意なきの調査は、不測の禍害を他日に胎すべし﹂ と調査の実施が鉱害処分を遅らせる危険を指摘し、さらに二月二六日の社説﹁調査に籍口して急務を怠る勿れ︵一︶﹂ でも   ﹁鉱毒事件は最早問題に非ずして事実なりとは、吾人同志が久しく唱道して、世人の深夢を破りたる所なり、遅鈍   なる政府亦国民の正議に耳を塞ぐに由なく、調査会を設立するに至れり⋮⋮鉱毒の有無は最早問題に非ず、被害の   激甚除害工事の無効、皆確定の事実にして、此点は調査を要せざるなり、調査すべきは処分間題是なり﹂ と調査を口実に処分が遅らせられることのないように求めた。  以上に見たように、当時の新聞各紙はいずれも鉱毒調査委員会の設置自体を否定しておらず、各紙なりに積極的ない し消極的に肯定したうえで、それぞれの立場から鉱毒調査委員会に注文をつけている。﹃東日﹄は鉱毒の防止が可能で あることを強調したうえで、銅山側も国民も安心できる解決策を提示することを調査委員会に求めていた。﹃時事﹄は        ヤ  ヤ 銅山と被害民のどちらの立場にも与することを回避しながらも、広く鉱業一般に与える影響を考慮して素人の情実論に 流されることのない、専門家による﹁学理的な﹂調査に期待した。﹃毎日﹄は銅山の操業停止を当然行われるべきこと とし、調査会には荒廃した土地河川山林の回復方法や被害民の救済などの﹁処分問題﹂の調査・研究を望んだ。﹃萬朝﹄

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は鉱毒調査委員会の設置を﹁為すは為さざるに勝れり﹂と消極的に肯定したうえで、同会が単なる﹁ゴマカシ会﹂にな らぬよう﹁委員其人を撰ぶに於て、又極めて公平﹂なることを要望したが、それは政府の委員選定の方針が報じられた ︵まだ確定はしていない︶一月の時点でなく、二月︵衆議院における奥田法制局長官の答弁を受けて︶という、失当で はないにせよ格好とは言い難い時点においてであった。被害民が委員の選定に不満を表明したという事実の報道は、管 見の限りでは発見されなかった。  この間も被害民の上京陳情は行われていた。二月には被害地の女性たちが上京して、川俣事件を担当する判事に面会       ハ レ を求めたり、農商務省や首相官邸を訪れた。三月に入ると被害民は五日に谷干城と面会したほか、六日には平田東助農       パむロ 商務大臣と面会、七日には貴衆両院議長と面会を果たし、鉱毒問題の解決を訴えた。  こうした被害民の上京請願は、治安当局の警戒をかいくぐって行われたもので、﹃萬朝報﹄三月七日の社説﹁鉱毒被 害民の請願﹂は   ﹁彼等数千の人民は、身に寸鉄を帯る者に非ざる也、一語の危激に渉る者に非ざる也、彼等は実に餓えつつあり、   唯だ其食を請はんとするのみ、彼等は実に病みつつあり、唯だ其生命の救助を得んと希ふのみ、量に他あらんや、   而も有司の之を待つ恰も罪人の如し、之を叱咤し駆逐し、甚しきは即ち終日警衙に留置して之を懲さんとするに至   る、何の心ぞや﹂ と当局の態度を批判し、九日の社説﹁言論の自由、請願権の躁躍﹂でも   ﹁国民は旅行の自由を有す、請願権を有す、政府者にして若し之を妨害し阻止し制縛するが如きことあらば、是れ

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︵   号 36 第 巻 通 ︵ 号   巻 17 第 学 法 鴎 白   圧制者也、暴虐者也⋮⋮鉱毒被害民が他数上京せんとするも、素唯だ政府当路に請願せん為めに外ならざるべし、   寸毫も暴行し騒動する意思あらざるべし⋮⋮然るに彼等多数集合したりとて直ちに警察官をして之れに干渉せし   め、甚だしきは其の解散を命じ、其の已に出発するや、途上之を制止し抑留し、警察力を以て之を圧せんとするが   如きは、是れ直ちに国民旅行の自由を奪ふに斉し、国民の請願権を躁躍するに斉し、警察力の濫用も蘇に至って極   まれりと謂べし﹂ と批判した。また﹃毎日新聞﹄は三月九日の社説﹁臆病なる政府﹂で   ﹁渡良瀬沿岸の人民を指して﹃一団の乱民﹄と謳ゆる者は、今や只だ頑迷なる中央政府の数輩のみ、彼の被害地人   民は坐して空しく死を待つよりは寧ろ進で一條の活路を開んが為めに、上京請願の窮策を採る者なり﹂ と政府を非難した。  ところで、この時期、足尾鉱毒問題の解決をめぐっては、被害民の運動、政府の鉱毒調査委員会設置という動きのほ かに、鉱毒問題解決調査事務所という組織が独自の調査と解決策の提案を行っている。        ハハレ  この鉱毒問題解決調査事務所について、山本武利氏は鉱山側が中立を装って設立したものと説明し、五十嵐暁郎氏は       パハロ 政友会が党員の小手川豊次郎・小久保城南を使って組織したものと説明しており、正確なところは分からないが、いず れにせよ銅山側に好意的で被害民に批判的な組織であった。主なメンバーは小手川豊次郎・中井栄次郎・若山由五郎・        ハぬロ 小久保喜七・久保田恭三・柳田義之進で、一月一四日から実地調査を行い、二月二一日に﹃足尾鉱毒問題解決処分﹄と       パみレ 題する意見書を公刊した。その要領は

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  一 足尾鉱山除害工事は多少改善を要する点あるも大体の設備は完全なるものと認む   一 鉱毒激甚は重に除害工事以前河底に沈澱せし鉱津等の洪水氾濫に依り地上に害毒を及ぼせしものと認む   一 被害激甚地と称する処は最早不毛地と看倣すも不可なし随て往日の如く肥田沃野と為すことは望むべからざる   ものと認む   一 被害地に対しては政府をして適当の保護の下に被害人民をして東北若くは北海道へ移住せしむることを計らし   むる事   一 被害人民にして移住を為さんとするものには政府をして積極的保護を与へしむる事   一 足尾鉱山鉱山主古河氏をして被害民救済の為め応分の義掲をせしむる事   一 被害地復旧の見込なき連、足尾鉱業を停止せんと言ふが如きは徒らに鉱業の発達を害する而已にして何等の益   なき愚論と認むる事︹以下、略︺ というもので、足尾銅山の除害工事は大体において完全なものであるとし、現在の鉱毒被害は明治三〇年除害工事以前 の残存物が洪水等によって流出したことによるものであるとし、また被害激甚地はもはや不毛地で元の状態に戻すこと は不可能であるとし、被害民を政府の保護のもとに東北または北海道に移住させることを勧める。また被害民の行動に ついては   ﹁仔細に被害民の行動形跡を観察すれば徒に社会の同情を招くを勉め不知不識多少虚偽矯飾の弊なき能はず余等   が被害各村を巡回するに当り軒傾き雨漏るが如き破屋は各村少くも四五戸は見受けたり而して如斯軒傾き雨漏る   破屋の毎村到る処に散在するは実際修復の道なくして然る乎余等は悉く其の然るものなることを信ずる能はず蓋

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2 ︵   号 36 第 巻 通 ︵ 号   巻 17 第 学 法 鴎 白   し村々の要処要処に被害の事理等を列記せる板又之れを支ふる木材決して 少にあらず此の材料を以て破屋数戸   の修復は確に出来得るなり中には多少の修復を加へなば立派の住家を荒廃に帰せしめ殊更に汚薇なる便所の傍側   に起臥する者杯も見受たり⋮⋮彼等は被害の為め家屋を失ひ已むことを得ず穴居をするが如く装ふに至りては其   心事の卑屈嘔吐に堪へたり﹂ と手厳しく批判した。こうした見方は鉱毒問題解決調査事務所だけでなく、当時の県庁や郡役所などの行政官庁の文書 にも見られるほか、たとえば﹃東京朝日新聞﹄のコラム﹁随感随筆﹂が   ﹁︹政府が鉱毒問題に冷淡である︺原因は一つは被害民の芝居根性である被害民が真実に其の窮状を訴へて正直に   世間に其の事情を訴へれば世間の同情を買ひ得たであらうに或ひは土地の上へ硫酸銅を撒いて此の通り毒があるな   どと人に見せ虚泣の上手な者を連れて嘆願に出掛させ態と作物を作らないで肥料を与へないで土地が荒れた証拠だ   と云ふ杯視察員を隔しに掛って居るとの評判である⋮⋮余力のあるに拘はらず態と櫨棲を着て泣声などをして狂言   を行るから其の言ふ所が政府の傾聴を買ふに足らないのだ﹂ と書くなど、大手新聞の一部にも見られた。  以上を要するに、第二次鉱毒調査委員会は、前年来の鉱毒世論の盛り上がりの中で﹁本件の終局を期する﹂ために設 置された。明治三五年一月の閣議決定の時点で鉱毒調査委員会の設置は当時の新聞報道によって報じられ、委員選定の 大まかな方針︵農商務省・内務省・大蔵省の役人および帝国大学教授︶も新聞報道を通じて伝えられた。三月に委員会 が正式発足した際も、事実その通りの人選となった。この間、被害民が委員の人選について不満や反対を表明する集会

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や陳情を行っ夜という事実は、新聞報道を通して確認することができなかった。  第二次鉱毒調査委員会の設置について、当時の新聞各紙は消極的ないし積極的に評価したうえで、それぞれの立場か ら調査委員会に注文をつけていた。調査委員会の設置自体に反対する新聞は見当たらなかった。  被害激甚地の回復は不可能であり、被害民を政府の保護の下に東北や北海道に移住させよという意見も、鉱毒問題解 決調査事務所の意見書に見られるように、すでにこの時期から存在した。また、被害民の行動に同情的な意見も見られ る︵﹃萬朝﹄﹃毎日﹄︶一方、批判的な意見も鉱毒問題解決調査事務所や新聞報道の中に見られた。

第二節 調査

三月一八日午後四時から鉱毒調査委員会は法制局で第一回会合を開いた。この日の会合では、委員会の調査事項とし て ﹁足尾鉱毒事件調査事項 一 鉱毒  一 性質、程度 二 原由 三 被害︵人、動物、植物︶ 四 被害の区域、程度

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︵   号 36 第 巻 通 ︵ 号   巻 17 第 学 法 鴎 白    五 鉱毒と混合せらるる他の毒源の有無   一 足尾銅山に関するもの    一 予防設備の情況    二 渡良瀬川水源たる山林経営の状況     右両項に付監督官庁の発したる命令の適否及其の実行の状況     右の命令以外に鉱業人の行ひたる事あらば其の状況    三 現在の設備の外予防上尚ほ必要とする事項   一 鉱毒地の救済に関するもの    一 将来に於ける除害方法    二 被害土地に関する処分    三 被害地人民に関する処分    四 被害者の損害の補償﹂ という一覧表が委員に配布され、これについてまず概括的な調査を行うため   ﹁奥田委員長、神保、古在、坂野、野田、井上の各委員    右本月二十六日頃足尾へ   渡辺、河喜多、日下部、村田、若槻、本多、中山の各委員    右四月一日頃足尾へ﹂ ︵本格的な実地調査は次回以降とされた︶、

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     ハ レ と決定された。  しかしこの実地調査は天候不順のため予定通りに実行できず、三月三一日の第二回会合で   ﹁第一組を日下部、渡辺、神保、河喜多、中山   第二組を奥田、田中、若槻、井上、野田、坂野、古在とし   第一組は四月三日東京発︵上野発車午前十時四十五分︶足利泊、四月四日足利発桐生附近実査の上足利泊、四月五   日足利発佐野、館林間実査の上館林泊、四月六日館林発海老瀬附近実査の上古河泊、四月七日古河埜中、藤岡、赤   麻沼附近実査の上古河泊、四月八日古河発足尾泊、四月九日十日足尾泊、四月十一日帰京   第二組は其逆順とし   四月三日東京発古河泊、四月四日古河発館林泊、四月五日館林発足利泊、四月六日同上、四月七日足利発日光泊、   四月八日日光発足尾泊、四月九日、四月十日、足尾泊、四月十一日帰京すること﹂      ハおロ と変更された。  調査委員の現地視察に当っては次のような依頼が委員長名で被害地の各知事当てに発せられた。   ﹁今回鉱毒調査委員別紙の予定を以て、鉱毒被害地概況視察の為め貴県下へ出張致候筈に付ては、概略左記の御含   みを以て、可然御配慮煩わし度、此段特に御依頼致し候也   一 委員出張の節には、官民送迎等は却て紛擾を来すの虞有之候に付、右は必ず御見合せのことに御注意相願度事   一 本件に付ては、地方庁の御責任重大なる義に付、何れ御意見のある所拝承致度候え共、此度被害地視察に際し   ては、特に御依頼致候場合の外、御案内御説明等御見合せ相願度事

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2 ︵   号 36 第 巻 通 ︵ 号   巻 17 第 学 法 鴎 白   一 被害地人民多人数集合し、自然視察の妨害と相成候ては不都合に付、   一 委員旅館等へ被害地人民多人数押寄せ候ては、面会も難出来義に付、        ハガロ   も選みて、之れに面会致候見込に付、御含み相願度事﹂ また各種の調査依頼も鉱毒調査委員長から各県知事に発せられ、﹃群馬県史﹄        パぴロ からの回答が数多く収録されている。 其辺は警察上可然御取締相願度事 陳情のことあるときは、少数の総代にて 資料編二〇にはこうした調査依頼や知事  第二回会合で決定した現地視察は四月三日から二日にかけて予定通り実施された。新聞各社は特派員を出して随行       パみロ 記を掲載したが、大まかな視察のみであったため、それほど興味深い記事とはならなかった。ただ﹃東朝﹄の特派員が   ﹁今日の沈澱池濾過池等を有害無益なりと論ずるものは事実を知らない暴論でめる次で現在の沈澱池及び濾過池、   堆積場の位置を見たが其設備は頗る完全で其水や其砂が河流に流れ込み若しくは滑り落つる様な事のあるべき筈が    パぬロ   ない﹂ と﹁其設備は頗る完全﹂と述べていることは、他紙と比べて異色である。  ﹃東朝﹄は一四日に巡視随行の総括として﹁鉱毒地及び銅山視察の所感﹂と題する記事を掲載、そこでも﹁責任ある 人々の言に聞き且は自分で実見して常識の上から判断して相当の工事が施設してあって効果も奏し居ると信じて疑はざ るものである﹂と述べている。  そのような﹃東朝﹄は調査委員巡視中の四月二日に社説﹁鉱毒被害民移住策﹂を掲載し、   ﹁如何なる調査も方案も到底急速に被害地を無害地に一変せしめ一事に河川の竣漢、堤防の改築を完成するの底力

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  を有せざること明かなれば、⋮⋮被害激甚地にして到底復旧の見込なき地方は、其の人民を他地方に移住せしむる   の方策を定むるに過ぎざるべし﹂ と、被害地に復旧の見込み無きことを指摘し   ﹁吾人は被害民殊に其の指導者たる人々に対して、敢て一勧告を提供せざるを得ざるものあり。曰く被害民をして   被害の旧地に恋々せしめず、他地方に移住して、新なる産業を興さしむるの策を講ずること是れなり﹂﹁仮に河川   の竣深、堤防の改築等の為に今後三五年の年月を費し、而して後被害地始めて復旧するとするも、被害民にして能   く勤勉努力せば、此の歳月中には裕に新移住地に於て新田畑を開拓するを得ん﹂ と、被害民の移住を勧めた。  また三月二二日の﹃読売﹄の記事﹁鉱毒調査会解決方針﹂も、﹁鉱毒調査会の意見は大体に於て該問題を解決するに は是非共被害民を悉く北海道に移転せしむるに一致し﹂ている、それというのも﹁仮令古河氏に命じて鉱業を停止せし むるも鉱毒は深く地層に浸染し渡良瀬川沿岸の田野は容易に耕作地と為すべき見込なきが故に寧ろ北海道の沃野を貸与 して耕作に従事せしむること彼等にとりて利益なりと云ふ﹂ためであり、﹁先づ被害民に相当の補助金を与へて其移住 を奨励するも応ぜざる時は政府の権力を以て之を強ゆる成算なり﹂と報じている。  これらの指摘・提案は、第三節に見る鉱毒調査委員会の報告書に近いものがあり、これらがこの時点でなされている ことは注目にあたいする。 さて、四月一四日午後一時から法制局で、鉱毒調査委員会の第三回会合が開かれた。この日の議題は、先の概括的な

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2 ︵   号 36 第 巻 通 ︵ 号   巻 17 第 学 法 鴎 白 実地調査を受けて、専門調査の分担事項の決定であった。協議の結果、   一 渡良瀬川流域に於ける所謂鉱毒の根原、種類、性質、程度及び流出の原因等︵神保、河喜多、中山委員︶   二 足尾銅山現在に於ける予防設備の完否及び其改良又は新設の要否等︵渡辺、田中、河喜多、本多、中山、坂   野、古在委員︶   三 足尾銅山附近其他渡良瀬川水源に関係する森林荒廃の原因、状況、結果、現在経営の適否、将来経営に要すべ   き場所及び方法、其他土砂防止の設備等︵日下部、本多、村田委員︶ 四 五 六 七 八 九   尾銅山鉱業の経済的関係等   十 と決められ、 渡良瀬川沿岸地に於ける農作地の被害原因、区域、程度、回復又は改良の方法等︵日下部、坂野、古在委員︶ 渡良瀬川現在の状況及び将来に於ける治水経営の方法等︵日下部、村田、中山委員︶ 渡良瀬川沿岸被害地に於ける所謂毒土の使用処分の方法等︵日下部、中山、坂野、古在委員︶ 足利、桐生附近に於ける鉱業と河水との関係、鉱業上排泄する有害物料の有無等︵河喜多、坂野、古在委員︶ 被害地に於ける住民の衛生及び其衛生と所謂鉱毒との関係等︵野田委員︶ 鉱毒事件の沿革及び現在の状態、免租処分の標準及び免租地価格の変動、被害地住民及び地方行政の状況、足       ︵田中、若槻、井上委員︶ 前各号の外鉱毒調査委員会に於て調査を必要と認めたる事項に関する委員の分担は随時之を定む       ハリロ   ﹁右各事項の調査終了を待て鉱毒事件の処分方法を議す﹂こととされた。 この役割分担に従って、各委員の専門調査が行われた。その調査の跡を当時の新聞報道をもとに摘録しておくと、四

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      ハおロ 月二六日本多委員と村田委員が足尾銅山と古河近辺および栗橋堤外を調査、五月には田原委員と橋本委員が群馬県渡瀬        レ      レ 村および栃木県足利町で被害民の身体検査を行ったほか、奥田委員長自ら足尾銅山を実地視察した。  五月二三日からは栃木県足利郡や安蘇郡などで橋本委員らが身体検査を行う一方、田原委員たちは水質検査を行っ ハ レ た。その途中経過が二五日の﹃東日﹄に掲載されたが、それによると、   ﹁橋本医学士が水質と病者との関係に就て語る所を聞くに鉱毒地の井水は一般に水質不良にして飲料に適するもの   少なし是れ該地方は概ね低地なるを以て洪水氾濫の際沈澱したる汚物の降雨等により漸次地中に浸透して井中に流   潴し又下水に近接し居るため井水澗濁し往々茶褐色を呈するものさへあり然かも尚多年竣諜したることなきため無   数の有機物発生するに至りしなり是等不良の飲用水と一般湿地なるとは鉱毒の衛生を害するよりも尚甚しかるべし   多数の病者が十二支腸轟間歓熱回轟等の諸症なるを見ても之を知るを得べし﹂        ハみロ と、鉱毒地の病気は井水の水質不良によるもの、言い換えれば必ずしも鉱毒によるものでないという見方が示された。  ﹃東日﹄は二八日、今度は水質検査に当たった野田委員の談話を載せ、   ﹁余は先づ鉱毒被害の最も激甚と称せらるる土地の飲用水及河水に就て一々検査を行ふ筈にて各所に於て徽菌の有   無を検し尚分析の為め之を壕詰となし衛生試験所に送致せしもの三百有余本の多きに及び目下同所に於て分析中に   属すれば其結果は未だ知るに大体同地方は低地にして湿気多く井水の如きも茶褐色を帯び飲用水としては不良なる   こと言ふ迄もなし﹂       レ と、被害地の井水が飲用水として不良であるとの調査結果を紹介した。       ハリロ      ハ  みロ  六月には麦作調査・桑樹調査が行われたほか、古在委員が被害地の土壌調査を行った。

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2 ︵   号 36 第 巻 通 ︵ 号   巻 17 第 学 法 鴎 白  七月も引き続き調査委員会委員や関係各省による調査が行われたほか、明治三〇年の予防工事命令で足尾銅山の煙毒 を防止するため設けられた脱硫塔の不備が問題となり、   ﹁元来足尾銅山に於ける煙突即ち脱硫塔の工事は当局者に於ても頗る苦心し鉱業者も比較的大金を投じたるものな   れども其結果は完全にして欠くる処なしと断言し能はざる点もある由に付今回は一層進で調査を為し居れりと云   ふ﹂ と報じられた︵﹃東朝﹄七月七日﹁鉱山局の姻毒調査﹂、﹃東朝﹄七月二五日﹁足尾銅山の姻毒調査﹂︶。  委員たちは概して真剣・綿密に調査に当たっていたようであり、六月二〇日の﹃東朝﹄は、   ﹁各委員共に本問題の解決を促すに付ては愈々緻密なる取調を為し毫も遺憾なからんことを期し居れるを以て衛生   受持の委員は被害の実地に臨て健康診断を施し既に一千名に近き人々を診断し銅分の人体に及ぼす影響鉱毒地人民   の食する銅分と一般人民の食する銅分の比例若くは地形と住民の関係等詳細に調査し又農業部に於ては麦、桑、稲   其他一般植物と銅の関係等各別に調査する由なるが目下麦秋の時期なるを以て銅毒の麦に及ぼす影響を調査し居れ   り且つ数百種の植物を鉱毒地より持ち来り鉢其の他の器物に植ゑて銅分を施し其の結果を試験する都合にて夫々用   意中なり﹂   ﹁又前年政府に於て二万町歩余の減免租を断行したる際には田畑の土壌を調査したる所三百余ヶ所に過ぎざりしが   今回は右減免租地の全部を碁盤割に測定し五町若くは十町毎に其の土壌を取りて一々分析する見込なり﹂      ハ ロ と報じている。

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 六月壬二日の﹃東朝﹄には、被害地の土壌調査に当たっていた古在委員の談話が載っているが、それによると   ﹁自分等の一行は委員助手人夫で殆ど六七十名許りで五丁目位に最小量一升最大量五六十貫位宛の土壌を採集して   居る。既に採集した土壌すら数千貫の多きに達した此等に就ては一は分析し一は種々の植物を植ゑ付け試験を為す     パれレ   積りだ﹂ という念の入った調査ぶりであった。  八月には﹃報知﹄の記者が古在を取材しているが、古在の調査は   ﹁稲作 大学の温室にて毒土を千余個の鉢に盛り分けて稲作を為し居れり而して十年免租の土壌は矢張り稲茎一尺   に充たず而も一株二三茎より成りて痛ましく思はれ同じく六年のものに至ては多少稲茎の長じたるを見るも尚鉱毒   地のものと差別する所なし然れども同じく十年のものと六年のものと肥料を適度に為したるものは意外に好結果を   得たるものあり同じ年限の免租地と錐ども確かに其土壌に差異あるを示せり又無害の土壌に銅分を入れて稲作せし   ものは銅分の多量なるものは一尺に垂んたる痩茎赤く枯れ居れり﹂   ﹁毒水の試験 渡良瀬の水を沢山なる壕に盛り分けて中に生藻を養へり而して毒あるものは枯死し、然らざるもの   は生色あり毒水は主として銅山附近の水なれども下流濁れるときは又同様の結果を見る﹂   ﹁土壌の分析 分析したる土壌を盛れる壕亦実に二千の多きを越えたり而も其土壌は大雨の時或は日射の甚だしき   時に技手を馳せて採土し来りたるもの多し﹂ というもので、記者は﹁其手数実に驚く可きものあり﹂と述べている︵﹃報知﹄九月一八日﹁鉱毒土壌植物分析決了﹂︶。  こうした調査委員の精励ぶりに、かつて調査委員会の設置に最も批判的であった︵否定はしていないが︶﹃毎日新聞﹄

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48 ︶ 01 02 ︵   号 36 第 巻 通 ︵ 号   巻 17 第 学 法 鴎 白 でさえ、   ﹁役目と云ひながら、豊永学士一行十一名は、既に五六十日も被害地の土壌採集をやって居るが、去月来の大雨   で、洪水氾濫して不便極まるにも拘らず、唯だの一日も休暇することなく、風雨の間で何の厭もなく土壌の採集を       ハぬレ   して、先頃は少々疲労されたさうだが、少しも休まず、早朝から夕暮までやって居る﹂ と伝えている。  ﹃毎日﹄は一〇月一〇日にも社説﹁鉱毒調査会は更に精査の労を取るべし﹂で、﹁専門学術の人は⋮⋮其学科に対す る忠実の心あり、吾人は⋮⋮調査委員の精査に一点の望を属する者なり﹂﹁委員の或者が、炎熱に曝され森雨を冒し、 非常の熱心を以て調査せしことは、失望せし被害民すら目撃して窃に感謝する所なり﹂と述べ、その上で﹁更に一層の 精査を要す﹂と要望している。  こうして調査を重ねているうちに、時問が足りないということも明らかになってきた。四月二七日の﹃東朝﹄は       ハおレ ﹁各委員は其の専門の学科に依り夫々取調中なるが⋮⋮六ヶ月以内にては或は満了に至らざるべしと云ふ﹂と報じ、 四月三〇日の﹃報知﹄は﹁鉱毒調査会結了の期日は来る九月にして同月までには右報告も出来上がる予算なるも之れ        パゆレ が処置に就ては目下議論噴出内部不統一のために九月までには完了せざるべしといふ﹂と報じている。また五月二一 日の﹃東日﹄は   ﹁何分関係の複雑なる丈けに解決も容易ならず現に足尾方面に於ては凡そ一千人の健康診断を行ひつつあれば此れ   等専門家の意見を漏れなく徴し其れより夫々法規に稽へ行政処分を施すに付て協議する手順なるべければ連も急速

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  に終結を見ることは難べし﹂ と伝えており、六月四日の﹃報知﹄も   ﹁各委員は悉く立証的に査了せし上完全なる成案を定む可き結構なれば随って種々の問題等起るのみか⋮⋮其範囲   頗る広く今は言明し得べき成案を見ず且つ到底予定の六ヶ月を以て終了する能はずして成案確定迄には今後少くも   五ヶ月を要すべしとなり﹂ と伝えていた。  この問、鉱毒調査委員会は五月一九日に第四回、五月三〇日に第五回の会合を開いている。第四回の会合では別子銅 山について論じられたが、第五回の会合では﹁全体に付何時決了を告ぐることを得べきや﹂について一一月までに決了          ハあ  ロ することと決定された。すなわち鉱毒調査委員会の調査の遅れは、鉱毒問題を治水問題にすり替えるために九月の洪水 を待つべく意図的に行われたものでなく、調査に時間がかかったことの帰結であり、すでに五月三〇日の時点で調査決 了期の延長は決定されていたのである。  八月・九月も引き続き調査委員の調査は行われたが、八月九日と九月二八日に大雨が被害地を襲い、八月の大雨で       パびレ は渡良瀬川が氾濫して谷中村の堤防が決壊し、九月の大雨では関東一円が洪水となった。﹃東日﹄は銅山側に立って 被害を少なめに報じたが、﹃報知﹄は        ハ レ   ﹁這回の暴風雨は足尾銅山及び鉱毒地を水葬せしものの如く﹂

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10 2 ︵   号 36 第 巻 通 ︵ 号   巻 17 第 学 法 鴎 白   ﹁同地︹足尾銅山︺を通ずる渡良瀬川の上流たる浸水の氾濫したるため此被害を見るに至りたるなり⋮⋮工夫の長   屋及び河岸に建ちたる足尾住民の草屋推流さるもの三十余棟にて死体の数も亦 からざる模様なるが昨日迄に発見       パのロ   せられたるものは三十四名又行方不明となりたるもの百七十余名にして負傷者は六七十余名なるべし﹂   ﹁足尾銅山の各山岳も亦暴風雨の為め諸山の土砂雨水と共に崩落して銅山の各役場飯宅及び足尾町各家屋の大半何          パみレ   も土中に埋没した﹂ と足尾銅山付近の洪水による惨状を余すところなく報じ、﹃東朝﹄は   ﹁去月廿八日の暴風雨にて渡良瀬川沿岸の各村落には激甚なる水害を受けたる者あり特に群馬県桐生附近は去る   二十九年の洪水に勝される出水⋮⋮又栃木県下都賀郡谷中村埼玉県北埼玉郡川辺村利島村等は低地なるを以て本年        ハのロ   は既に三回の水害を受け頗る惨状を極め居り﹂ と被害状況を比較的冷静に描写した。  この間、鉱毒調査委員会委員長で法制局長官の奥田義人が九月二六日に辞任し︵表向きの理由は持病の胃腸カタルの        のロ 療養のため、本当の理由は奥田が委員長を兼任していた行政整理委員会の整理案が閣議で却下されたため︶、九月三〇 日に一木喜徳郎が法制局長官に就任した。それに伴い鉱毒調査委員会委員長は奥田から一木に交代している。  ところで、九月の洪水の後、一〇月三日に埼玉県北埼玉郡川辺・利島両村の代表一〇〇名ほどが、利島村役場二階で 緊急集会を開いた。それというのも、八月初旬に浦和の県議会事務局を訪ねた両村の陳情団に対し、川越出身の県会議 員綾部惣兵衛が両村の遊水池化計画を知らせたため、それについて対策を協議するためであった。結果、一〇月一六日

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に利島・川辺合同村民大会を開催することに決定し、当日の村民大会で   一、国が利根川堤の復旧工事をしないのなら、村民の手で堤防を築く。   二、その代り日本国民としての兵役・納税の二大義務を負わない。両村は日本政府と関係なく独立村として自立す   る。 との決議を採択した。この決議を携えて両村の有志は県内外の関係筋に請願を行い、その結果、内務・農商務両省と埼 玉県は両村の遊水池化を断念し、同年末の埼玉県議会で県知事木下周一が両村の遊水池化計画の断念を発表して、この 計画は中止に至った。こうした近隣村の動きがありながら、同じく洪水被害の激甚地で県当局から﹁厄介村﹂と目され て久しかった谷中村が自村の遊水池化の可能性について全く無関心であったとすれば、あまりにも自己の運命に無頓着 なものと言わざるを得ない。谷中村は九月の洪水で、﹁栃木県下都賀郡谷中村埼玉県北埼玉郡川辺村利島村等は低地な るを以て本年は既に三回の水害を受け頗る惨状を極め居り﹂︵﹃東朝﹄一〇月四日﹁渡良瀬川沿岸の水害﹂︶と川辺利島 両村と並んで記される洪水被害の激甚地だったのである。  なお、一〇月四日の﹃東朝﹄﹁読売﹄等の報道によれば、前日の三日、渡辺委員が桂首相を訪ねており、桂首相は一 木委員長をはじめ田中委員・田辺委員を臨時召集して﹁種々審議する処ありたり﹂という。彼らの間で何らかの密談が なされていたとの憶測が可能であろう。  翌五日の﹃東朝﹄のインタビュー﹁渡辺博士の足尾銅山被害談﹂で、渡辺委員は﹁私が彼方に居る中分ったのは死人 が三十八負傷が六十六誠に少いです⋮⋮三十年に除害工事として命じたのは今度意外の功を奏したのです﹂と、被害の

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2 ︵   号 36 第 巻 通 ︵ 号   巻 17 第 学 法 鴎 白 少なさと除害工事の有効性を述べている。        ハみロ  さて、一〇月二九日、鉱毒調査委員会は久しぶりに第六回会合を開いた。この日は一木喜徳郎委員長の新任の挨拶の 後、﹁是より足尾に関する状況に付分担事項の順序に従ひ御報告を承りたし﹂として、各委員の報告が行われた。  まず神保委員︵渡良瀬川流域における鉱毒の根源・種類・性質・程度・流出の原因等を担当︶は、渡良瀬川を流れる 土砂の中に足尾銅山の鉱石が存在するかを試験した結果として、﹁上流には発見したるも下流に至りては発見せず﹂と 報告した。  次に渡辺委員︵足尾銅山現在における予防設備の完否及びその改良または新設の要否等を担当︶は、明治三〇年の予 防工事の現在における完否を調べたところ﹁成蹟不良と認むるものは瓦斯﹂であり、その改良方法について実験中であ ると報告した。  河喜多委員︵複数の項目を担当︶は、自分の仕事は各種の材料を科学的に試験することであると述べ、第一に煙突の ガス、第二に脱硫塔の排水、第三に坑内の水、第四に選鉱の水、第五に堆積場の土砂からの水、第六に河川とその支流 の水、第七に濾過池の坑水、第八に河川の土砂、第九に出水時の浮遊物を試験した結果、第一から第四までは銅山側の 言うように予防工事の効果が見られ、第六については濾過池から悪水が流れ出ていることが確認され、第八については 九月の大雨により堆積場が破壊したため正確な試験ができず、第九についても上流と下流で同一という不自然な結果が 出たため、現在攻究中であると報告した。  村田委員︵足尾銅山付近その他渡良瀬川水源に関係する森林荒廃の原因を担当︶は、﹁森林荒廃は森林者の不注意よ

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りして濫伐に至りたることを認め﹂る一方、﹁予防工事命令后の殖林事業を評せば先づ良成蹟と云ふべし﹂と報告した。  この後、日下部委員︵治水を担当︶は、﹁治水に関する事項は村田委員の調査せられたる結果を標準とする外なき﹂ としてこの日の報告を見合わせ、中山委員も﹁村田委員の報告を得ざれば方針を立つる能はざるなり﹂と報告を見合わ せた。  古在委員は、﹁本員が担当は一般農業に関する事項なれば調査事項も各種に渉り概括して陳じ難し﹂と述べ、すでに 時間も遅くなったことであるから次回に譲りたいと提案し、午後六時二〇分にこの日の会合は終了した。        ハ ロ  第七回会合は一〇月三一日に午後一時から開かれた。はじめ別子銅山について議論したあと、一木委員長が﹁之れよ り前回に引続き足尾に関する御報告を承りたし﹂と述べて足尾銅山に関する話題に移った。  まず田原委員が説明に立ち、﹁本員は衛生に関する事項中直接衛生に関係する飲料水︵渡良瀬川の水を含む︶食物に 付銅分の含有量を試験したり﹂として、   ﹁渡良瀬川の水は銅分の外砒素を発見せず﹂   ﹁出水当時の濁水は﹃O・二一三﹄平常水は﹃O・一四三﹄其七十六回に対する平均﹃O・一七ζ﹂   ﹁井戸水に於ても銅分あり。米、麦、大豆、芋、菜に付ても⋮⋮銅分あり。其比例は米八合水一升一合に対し   ﹃○・三〇﹄にて平均﹃○・五﹄以下の銅分含有物は日常の食物となり居る訳なり﹂   ﹁要するに被害地のみならず一般人民は皆な幾分かの銅を食用し居るなり﹂   ﹁銅に慢性中毒なしとは一般の学説にして欧州にては平均﹃二〇ミリグラム﹄を食用するとの説さへあるなり。之

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2 ︵   号 36 第 巻 通 ︵ 号   巻 17 第 学 法 鴎 白   れに比するときは被害地の量は少数なり。然れば銅の為めに衛生に害ありとは信じ難し﹂ と述べ、被害地における銅による健康被害について否定的な見解を示した。  次に野田委員︵被害地における住民の衛生及び衛生と鉱毒との関係を担当︶は、コ般飲料水の不良なること甚しき﹂ こと、また被害地には十二指腸虫病と眼病のトラホームが多いが、これは﹁不潔なる生活に基因する﹂こと、被害地で 死亡者が多かったのは﹁赤痢流行の当時﹂のことであるとして、   ﹁約言すれば水質の不良、水害の為めに不潔物を氾濫すること等生活上不利益なる地に生活せるものと判断するを   揮らず﹂   コも二も彼等は鉱毒の結果なりと云ふも此等の迷信は何卒して氷解する様安全の計を与へたしと考ふるなり﹂   ﹁要するに銅の為めに害せられたるにあらずして地方病と証すべき他数者、銅毒病の名を利用して現出したるもの   と断定するの外なし﹂ と、被害地における病気は鉱毒によるものでなく衛生不良によるもので、鉱毒病なるものは迷信であると報告した。  古在委員は﹁本員の担当事項は其数多きを以て一々説明を尽すことは連も短時間に能はざるべし﹂と前置きしたうえ で、所感を手短かに述べるとして、   ﹁農業上損害の原因をなすものは即ち渡良瀬川の水を使用すること及び其灌概水井に泥土にして不作の原因は之に   銅分の存在すること、粘土混入して土地の□□面を綿密ならしめ従て空気吸収せざること、硫酸あること、等な   り﹂ と、被害地における農作物不作の原因は銅分であること、また銅は溶解しないときは全くの無害、溶解するときは有害

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となるが、被害地は﹁不溶解に保つこと能はざるを以て所謂鉱毒を呼称するに至りたるなり﹂と被害地における銅毒を 存在も認める報告を行った。最後に古在は被害地の種別について、﹁︹明治︺三十年になしたる免租地の三分の二は鉱毒 地と称して可なり。少量の銅分ある地は格別損害なし。一般水害地は銅分なしとするも不作地なること勿論なり﹂と分 類した。  この後、古在委員が﹁本会が終局に攻究すべき所謂解決方法に付き一応大体の考案を取纏め、仮に断案を作ることと なしては如何。各自報告書を作成するに付ても頗る利便なればなり﹂と提案、一木委員長が次回会合の日程は追って通 知すると述べ、この日の会合は午後七時に終了した。       ハめロ  第八回会合は二月二五日午後一時から開かれた。この日はまず、まだ調査報告を行っていなかった日下部委員と中 山委員、および前回欠席だった坂野委員がそれぞれ調査報告を行った。  治水を担当した日下部委員と中山委員︵主に日下部委員が発言︶は﹁種々渡良瀬川、利根川に就き水量を測りたる結 果治水上二個の方法を案出したり﹂として、   ﹁第一の方法は渡良瀬川の氾濫個所に堤防を作り其水を利根川に疎通すること即ち新川を開墾して利根に水を落す   ことなり﹂   ﹁第二の方法は渡良瀬川の沿岸に水溜を作り以て之を利根川に流出すること之れなり﹂ の二つを挙げ、   ﹁第一法を仮に実行せむとせば目下為しつつある利根川の経営を変更せざるべからざる大事業を惹起するの困難を

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2 ︵   号 36 第 巻 通 ︵ 号   巻 17 第 学 法 鴎 白   免れず、然らば不得止第二法を実行するの外なかるべし﹂ として、第二の﹁渡良瀬川の沿岸に水溜を作り以て之を利根川に流出すること﹂を提案した。これは後の谷中村遊水池 化につながる重要な提案であった。  次に坂野委員は、﹁足尾にては其煙煤の付近植物に害を及ぼすの程度にあることを確むるを得たり﹂とする一方、明 治三〇年の予防工事以前と比べて﹁河水中の銅分減少したることは明か﹂であると報告した。  この後、処分方法の協議に移り、この日の協議で﹁要するに諸君の言明せられたる所に依り所謂銅毒の存在するが為 めに害を与ふること、而して其害は設備を完成せば尚ほ防禦し得ることを認められたり﹂とされた。すなわち、鉱毒は 存在すること、それによる害があることが確認され、しかしその害は設備を完全にすれば防げるとされたのである。ま たこの議論の過程で、古在委員の発言により﹁︹被害激甚地は︺之れを回復せしめんとならば非常なる費用を要し結局 之れが利益なし﹂と確認された。  次に﹁予防工事なるものは実際に実行せられ居るや否﹂に議題が移り、これについては実行されていることが確認さ れた。この日の会合は午後六時三〇分に終了した。       ハみロ  第九回会合は一一月二七日午前九時から開かれた。この日は、前回の会合で明治三〇年の予防命令は実行されている ことが確認されたので、これに関連して﹁九月二十八日の水害に付ては其命令は効験ありしものと云ふことを得るや 否﹂が議論された。調査嘱託員の報告書紹介と渡辺委員の視察談のあと、予防工事の効果について中山委員が﹁十分の 効能ありしと云ふ報告を受けたり﹂と述べ、日下部委員も﹁従来の設備丈けは其鋼状工の目的を十分に達したるものな

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