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恒川了廬旧蔵書(西尾市岩瀬文庫所蔵分)──貼紙「寛政九年山科貞松院七十七才改之」──

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全文

(1)

恒川了廬旧蔵書(西尾市岩瀬文庫所蔵分)──貼紙

「寛政九年山科貞松院七十七才改之」──

著者

松本 文子

雑誌名

鶴見大学紀要. 第1部, 日本語・日本文学編

58

ページ

113-198

発行年

2021-03

URL

http://doi.org/10.24791/00000932

Creative Commons : 表示 http://creativecommons.org/licenses/by/3.0/deed.ja

(2)

恒川了廬旧蔵書(西尾市岩瀬文庫所蔵分) 一一三

恒川了廬旧蔵書(西尾市岩瀬文庫所蔵分)

―貼紙「寛政九年山科貞松院七十七才改之」―

 

 

 

A Study of Tsunekawa Ryoro's Collection of Books in Iwase Bunko

Library, Nishio City:

Ex-Libris,

Verified by Yamashina Teishoin, 77 yrs old, Kansei Year 9

〟       … MATSUMOTO Ayako   西 三 河 を 代 表 す る 二 文 庫、 す な わ ち、 刈 谷 市 中 央 図 書 館 の 村 上 文 庫 と 西 尾 市 岩 瀬 文 庫 と は、 そ れ ぞ れ 村 上 忠 順 〈一八一二―一八八四〉 、岩瀬弥助〈一八六七―一九三〇〉の私文庫に由来する古典籍の宝庫である。その中には、尾 張徳川家の御小納戸支配下にあった古筆目利職、恒川了廬〈一七七五―一八六〇〉の旧蔵書がいくらかまとまって伝 わっている。   了 廬 旧 蔵 書 の 伝 存 に つ い て は、 昭 和 二 三 年〈 一 九 四 八 〉、 樋 口 芳 麻 呂「 刈 谷 尾 張 関 係 本 解 題 」( 『 郷 土 研 究 』 三・ 三、 昭 和 二 三 年〈 一 九 四 八 〉 八 月 ) に、 村 上 文 庫 の 野 口 道 直 旧 蔵 書 の 中 に、 「 蓼 露 」 の 蔵 本 数 部 が 含 ま れ る こ と が 指 摘されており、この点、拙稿でもふれたことがある( 『国文鶴見』四五号三三頁、四六号二四頁、等) 。樋口の執筆当 時、郷土文化会五月例会が刈谷市図書館で開かれ、野口道直旧蔵本(二八六部五六八冊、村上忠順旧蔵)の一部を展 観、その解説が会誌『郷土研究』に再録された。 「蓼露」とは、恒川了廬、晩年の名である。

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一一四   同 じ 西 三 河 の 西 尾 市 岩 瀬 文 庫 で、 了 廬 旧 蔵 書 を 調 査 し て、 目 に と ま る 痕 跡 の ひ と つ が 貼 紙「 寛 政 九 年 山 科 貞 松 院 七十七才改之」であった。これは山科貞松院の蔵書票である。 『長明海道記』 (一四〇・一二五) 、『全浙兵制日本風土 記 』( 一 四 五・ 四 〇 ) の 二 タ イ ト ル の 巻 末 に そ れ ぞ れ 貼 ら れ( 2】 )、 他 機 関 の 所 蔵 本 に も 確 認 さ れ る。 こ れを認めた人物はだれなのか。 「貞松院」を検索するだけでは知り得なかった。しかし、 「西尾市岩瀬文庫古典籍書誌 データベース」の記述を手がかりとして閲覧すると、恒川了廬旧蔵書の表紙補修に用いられた書状に同姓複数の人名 があり、医家山科家を調べたところ、貞松院周辺の群像が浮かび上がってきた。   本稿ではまず「   山科貞松院七十七才 」として、了廬旧蔵書の概要、関連人物、とくに医家山科家の人々につい て述べる。次に「   不染庵了廬の書架 」として、了廬旧蔵書の各本について、成立、伝来に関わる痕跡と筆跡に注 意して記す。尾張の古筆見、恒川了廬の足跡、教養を明らかにする上での端緒となろう。   今 回 は、 西 尾 市 岩 瀬 文 庫 蔵 書 の み を 調 査、 整 理 の 対 象 と す る。 村 上 文 庫 の 了 廬 旧 蔵 書 に つ い て は 別 の 機 会 を 得 た い。関連する史料もまた、漸次現れるに違いない。   山科貞松院七十七才   結果を先に書くのだが、貞松院の名を明らかにすることはできなかった。とはいえ、貞松院周辺と思われる、山科 家の人々を記す歴史的資料が多かったので、これまでの探索を記す。

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恒川了廬旧蔵書(西尾市岩瀬文庫所蔵分) 一一五 (一)私立図書館岩瀬文庫の『図書原帳』   西尾市岩瀬文庫の了廬旧蔵書を列挙した手順は左記の通りである。   文庫では、私立図書館当時からの函架番号によって閲覧を請求するのだが、旧蔵印「了廬蔵書」が押された本を複 数手にして、表紙右上に貼られたラベルの最上段、受入順に手書きされた登録番号の数字が近いのに気づいた。   そ こ で、 私 立 図 書 館 が 受 入 お よ び 売 却 を 記 録 し た 台 帳、 『 図 書 原 帳 』 も 閲 覧 し た。 こ れ は、 各 タ イ ト ル 一 行 あ て で、 「 領 収 年 月 日・ 登 録 番 号・ 図 書 名・ 冊 数・ 著 者 又 ハ 発 行 者・ 出 版 年 月・ 代 価・ 函・ 号・ 装 訂・ 大 小・ 備 考 」 の 項 があり、受入年月日順、登録番号順に逐次記載された原簿である。   『 図 書 原 帳 』 に よ れ ば、 了 廬 に 関 わ る 蔵 書 群 は、 登 録 番 号 一 四 六 一 四 ― 一 四 六 二 八 の 一 五 タ イ ト ル に 集 中 し、 大 正 八 年〈 一 九 一 九 〉 一 二 月 一 七 日 に 合 併 価 三 八 〇 円 で 購 入 さ れ、 松 下 見 林 旧 蔵 書 と し て 一 括 さ れ て い る( 1】 )。了廬旧蔵書とは記されていない。各本については後述するが、登録番号一四六二二の『和泉国日根郡鳥取郷波 多 宮 八 幡 宮 来 由 記 』( 一 四 五・ 九 〇 ) の み 了 廬 の 印 が 押 さ れ て い な い も の の、 岩 瀬 文 庫 に 帰 す る ま で の 伝 来 は 同 じ で あったと考える。   その後、WEB上で「西尾市岩瀬文庫古典籍書誌データベース」による全資料検索が可能になり、おもに旧蔵印で 検索して閲覧したところ、右の一五タイトル購入以前に三タイトル、以後に三タイトルの了廬旧蔵書が、他の本に混 じって一冊ずつ購入されていた。   『図書原帳』三・四により、これら二一タイトルの、 「領収年月日」 、「登録番号」 、「代価」を摘記する。 ・大正五年〈一九一六〉六月八日         一〇八〇四        〇、 七五円

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一一六 ・大正七年〈一九一八〉一二月一一日         一三四七六        二、 三〇円 ・大正八年〈一九一九〉一二月一一日         一四五八二        三、 五〇円 ・大正八年〈一九一九〉一二月一七日(一五タイトル)     一四六一四―一四六二八   合併価三八〇、 〇〇円 ・大正九年〈一九二〇〉一月五日         一四六五二        三、 五〇円 ・大正九年〈一九二〇〉五月五日         一四八六八        五、 〇〇円 ・大正九年〈一九二〇〉七月八日         一五〇〇〇        二、 三〇円   本 稿 末 尾 に、 「【 西 ―( )」 ( 二 一 タ イ ト ル ) と「 川了廬旧蔵書―西尾市岩瀬文庫所蔵分―(函架番号順) 」(登録番号と函架番号の対照表)とを付す。   稿 者 は 平 成 一 三 年 度・ 一 四 年 度〈 二 〇 〇 一・ 二 〇 〇 二 〉、 西 尾 市 岩 瀬 文 庫 資 料 調 査 会 の 調 査 員 の 一 人 と し て、 目 録 作 成 の 下 調 べ を し て 研 鑽 の 機 会 を い た だ い た。 当 初、 恒 川 了 廬 の 名 を 知 ら ず、 旧 蔵 印「 了 廬 蔵 書 」 の「 了 廬 」、 こ と に「了」字が読めなかった。 「廬」字は、印面の煩瑣になるのを避けて「 盧 ○ 」と刻され、印主不明であった。   これまでに手に取った本は、書庫に収められた内のわずかに過ぎないのだから、もしも「西尾市岩瀬文庫古典籍書 誌データベース」に、この旧蔵印の印文が採られていない本があるのならば、右以外にも、了廬旧蔵書が含まれてい る可能性がある。 (二)山科家前後の関係人物   了廬以前、山科貞松院以外に、了廬旧蔵書の内、一五タイトルに関わった人物は以下である。

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恒川了廬旧蔵書(西尾市岩瀬文庫所蔵分) 一一七   松下見林・見櫟   高松藩儒医であり、京にあって国史の著作を遺した松下見林(慶摂、西峰散人〈一六三七―一七〇三〉 )、その門人 で女婿、養嗣子となった見櫟(慶績、真山堂人、松子節〈一六六七―一七四六〉 )。父子の伝は、東條琴台(耕子蔵) 〈一七九五―一八七八〉遺稿の『先哲叢談』続編巻之三(明治一六年〈一八八三〉版は漢文、 『先哲叢談』後編二・続 編一(大正五年〈一九一六〉 )には岡本行敏補訂の書き下し文を収載)の冒頭に見える。   見櫟男は元明(昌林、秀山)だが、見林旧蔵書に、その印が押された本は未見である。   古 田 良 一「 史 学 者 と し て の 松 下 見 林 」 に、 『 西 峰 松 下 先 生 遺 書 目 録 』 の 写 し が 京 都 帝 国 大 学 図 書 館 に あ る と さ れ て い た( 京 都 文 学 会『 藝 文 』 一 二・ 一、 大 正 一 〇 年〈 一 九 二 一 〉 一 月、 四 七 頁・ 五 二 頁 )。 こ れ を 京 都 大 学 附 属 図 書 館 で閲覧すると、 『目録集成   甲輯   第一』 (四―四九・モ・四)に、大正四年〈一九一五〉九月下旬、書肆、佐々木竹 苞 楼 に あ っ た『 西 峰 松 下 先 生 遺 書 目 録 』 が、 京 都 帝 国 大 学 図 書 館 に よ っ て 謄 写 さ れ た も の で、 四 九 件 そ れ ぞ れ に、 「書名、冊数、丁数」と、左記のような筆跡の判別が記されていた。 「見林翁著述草稿直筆」 ・「見林翁著述自筆草稿」 ・「見林翁撰并書朱印在」 「見林翁直筆」 ・「見林翁直筆朱印在」 ・「見林翁直筆并朱印在」 「見林翁直筆校正又再校在」 ・「見林翁著述、他人書入在」 「見林翁加筆在」 ・「見林翁加筆在、但三の巻あとより書〔き〕たしたるか、少し小本なり」 「 見 林 翁 加 筆 在 并 に 朱 印 在 」・ 「 見 林 翁 校 正 加 筆 在 」・ 「 見 林 翁 校 正 加 筆 并 に 朱 印 在 」・ 「 見 林 翁 加 筆 在 并 少 し 自 筆 の 所も在」 ・「見林翁著述中清書他筆、見林翁自筆押紙書入在、無表紙本」 「松子節書」 ・「真山松子節筆」 ・「見林門人真山松子節書」

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一一八   底本、佐々木竹苞楼にあった遺書目録は、見林の事跡、筆跡、蔵書群を熟知する人物、あるいは、その知見を確か に継承した人物が作成したと考えられる。   この見林遺書四九件の一部分が、複数の旧蔵者を経た後に、まとまって岩瀬文庫に入ったのは、前述のように謄写 の 四 年 後、 大 正 八 年〈 一 九 一 九 〉 一 二 月 一 七 日 で あ っ た。 岩 瀬 文 庫 が 一 括 購 入 し た 見 林 旧 蔵 書 一 五 タ イ ト ル の 内、 一四タイトルの同名書が遺書目録に含まれており、その丁数は目録の記載とほとんど一致する。遺書目録に含まれて い な い 一 タ イ ト ル は、 登 録 番 号 一 四 六 一 九 の『 豊 後 風 土 記 』( 一 四 〇・ 七 〇 ) だ が、 後 補 覆 表 紙 の 打 付 書 外 題 の 筆 跡 が、 一 五 タ イ ト ル の 見 林 旧 蔵 書 の 内、 七 冊 と 一 致 し(   4】 の 1)、 同 じ 蔵 書 群 に あ っ た と 考 え ら れ る。 この筆跡については後述する(稿末 「痕跡についての所見」 )。   以下、 『西峰松下先生遺書目録』の四九件に 通番号 (〈京□〉 )を仮に付し、各件の「 『書名』 (冊数・丁数) 」を摘記 す る。 「 ◎ 」 印 は「 見 林 直 筆 」 と 判 定 さ れ た 本、 ま た は 合 綴 本 の 一 部 分。 「 ★ 」 印 の 一 四 件 は 西 尾 市 岩 瀬 文 庫 蔵 で あ り、本稿後半「   不染庵了廬の書架 」において、各本について述べる。 『西峰松下先生遺書目録』より摘記 〉『 梁 塵 愚 案 抄 』( 一・ 六 一 ) / 〉『 太 神 宮 参 詣 記 』( 一・ 九 〇 ) / 〉『 別 所 記 』( 一・ 三 七 ) / ★ ◎『 吏 部 王 記 』( 一・ 一 八 ) / 〉『 相 国 寺 宝 塔 記 』( 一・ 三 一 ) / 〉『 畠 山 記 』・ 『 舟 岡 記 』・ 『 高 国 記 』( 一・ 五 四 ) / 〉『 新 撰 姓 氏 録 』( 一・ 五 六 ) / 〉『 五 代 帝 王 物 語 』( 一・ 四 〇 ) / 〉『 叡 岳 要 記』 (一・七八)/ 〈京一〇〉 『智証大師年譜』 (一・三四)/ 〈京一一〉 ★◎『東家秘伝』 (一・一六)/ 〈京一二〉 『 九 州 作 乱 記 』( 一・ 三 八 ) / ◎『 菅 家 後 草 』( 一・ 一 三 ) / 〉『 土 仏 法 印 伊 勢 参 詣 記 』( 一・

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恒川了廬旧蔵書(西尾市岩瀬文庫所蔵分) 一一九 四 一 ) / 〉『 船 岡 山 合 戦 記 』・ 『 佐 々 木 家 法 度 』( 一・ 三 一 ) / 〉『 感 身 学 正 記 』( 一・ 五 八 ) / ★『 建 仁 元 年 熊 野 御 幸 記 』・ 『 雲 井 の 春 』( 一・ 四 六 ) / ★『 鑑 真 和 上 東 征 伝 』( 一・ 二 三 ) / 一九〉 ★『天寿国曼陀羅銘文』 ・『寧一山秘密記』 ・『同(寧一山秘密記) 』・◎『高天寺并に金剛山縁起抄書』 ・『鷲峯山 記 』( 一・ 四 三 ) / ★『 天 徳 応 和 永 承 天 喜 詩 合 』( 一・ 二 九 ) / 〉『 永 正 記 』( 一・ 四 九 ) / 〉『 献 策 記   永 正 十 八 年 』( 一・ 一 六 ) / 〉『 鎌 倉 五 山 記 』( 一・ 二 二 ) / ★『 長 明 海 道 記 』 (一・四四)/ 〈京二五〉 『本所菅神縁起』 ・『渡唐天神記讃』 (一・一六)/ 〈京二六〉 ★◎『作文大体』 (一・一三) / 〉『 寛 平 御 遺 誡 』( 一・ 七 ) / ★ ◎『 有 馬 温 湯 記 』・ 『 古 代 鐘 銘 』( 一・ 二 七 ) / ★ 『世諺問答』 (一・二八) / 〈京三〇〉 ★ 『醍醐寺縁起』 ・『勧修寺記』 (一・三二) / 〈京三一〉 『本朝書籍目録』 (一・ 一 六 ) / 〉『 寛 永 十 三 年   朝 鮮 国 信 使 来 貢 目 録 』( 一・ 三 九 ) / 〉『 河 内 国 教 興 寺 縁 起 』・ 『 若 狭 国 羽 賀 寺 縁 起 』・ 『 大 応 国 師 塔 銘 』・ 『 大 燈 国 師 行 状 』( 一・ 二 五 ) / 〉『 癡 堂 詩 稿 』 堯 廷 親 王 述 作( 一・ 五 〇 ) / 〈京三五〉 『諸家々集』 ・『菅原系図   唐橋壬生等』 (一・四〇)/ 〈京三六〉 ◎『懐紙短冊寸法』 ・◎『螢玉集』 ・『毎月 抄 』( 一・ 三 五 ) / 〉『 譚 子 化 書 』( 一・ 四 〇 ) / 〉『 毛 利 家 記 』( 三・ 二 〇 〇 ) / ◎『 駒 宇 佐 八 幡 宮 縁 起 』・ 『 同 鐘 鋳 奉 加 帳 』・ 『 同 勧 進 牒 』・ 『 宝 満 宮 縁 起 』・ 『 藤 森 考 』・ 『 御 香 宮 勘 文 』( 一・ 三 三 ) / ★ ◎『 斎 院 御 在 位 次 第 』・ 『 年 中 例 宣 命 』( 一・ 一 一 ) / ★『 和 泉 国 日 根 郡 鳥 取 郷 波 多 宮 八 幡 宮 来 由 記 』( 一・ 不 記 ) / 〉『 懲 毖 録 』( 一・ 八 七 ) / ◎『 続 古 事 談 』( 三・ 一 三 七 ) / 〉『 類 聚 雑 要 抄 』( 四・ 一 三 三 ) / ◎『 前 王 廟 陵 記 』( 二・ 六 五 )( 原 本 は 関 東 大 震 災 の 際、 図 書 寮 で 焼 失 し た 旨 の 後 人 朱 書 あ り ) / 〉『 室 町 殿 日 記 』( 六・ 五 三 五 ) / ★『 全 淅 兵 制 之 内 日 本 風 土 記 』( 一・ 四 六 ) / 〈京四八〉 『日本後紀』 (一〇・五九五)/ 〈京四九〉 『小右記』 (三・二六八)

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一二〇   了廬に関わりのない見林旧蔵書に関して付け加える。   見林旧蔵書は宮内庁書陵部にもある。 『書陵部蔵書印譜』上(平成八年〈一九九六〉 )の、巻首および各印の解説に よれば、見林旧蔵書には見櫟の印が添い、一件を除いて桂宮本(明治四四年〈一九一一〉一月、宮内省に移管)に含 まれるとのことである。旧蔵印「松下見林」は、 ・『水左記』写本一冊(二五五・八八) ・『蒙求和歌』写本一冊(四〇五・一二一) ・『二水記』写本一冊(三五三・一九二) ・『年号勘文部類抄』写本五冊(三五三・二四一) にあり、松下見櫟の旧蔵印「真山図書」 、「真山堂人」 、「松子節印」を伴う。了廬旧蔵印はない。印譜によれば、 ・『大応国師塔銘』写本一冊(一一一・二五六) には見櫟印がある。   このほか、以下の諸機関にも見林旧蔵書が蔵される。 ・国立公文書館(和学講談所、浅草文庫、書籍館旧蔵) 『神鳳鈔』写本一冊(一四二・九一五) 覆 表 紙 の 中、 本 文 共 紙 原 表 紙 の 右 下 に 墨 書「 松 下 見 林 自 筆 」( 打 付 書 外 題 と 同 筆 ) と あ る が、 本 文 は 他 筆。 加 筆 が 見 林 か。 「 氏 経 」 が 延 文 五 年〈 一 三 六 〇 〉 本 を 底 本 に、 建 久 四 年〈 一 一 九 三 〉 本 に よ っ て 書 き 入 れ た 本 が 転 写 され、本文中約七箇所に朱で書入れがある。最初の朱書は「長重按二宮歟」 。巻末に見林、巻首に見櫟の朱印。

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恒川了廬旧蔵書(西尾市岩瀬文庫所蔵分) 一二一 ・国立公文書館(浅草文庫、書籍館旧蔵) 『和泉州大鳥五社大明神并府中惣社八幡宮縁起帳』写本一軸(特六〇・一六) 解 か れ た 複 数 の 冊 子 か ら 三 〇 紙 以 上 を 寄 せ て 巻 子 に 仕 立 て た 一 巻 で、 巻 首 部 分 の 元 原 表 紙 に「 松 下 見 林 自 筆 類 書」と記す。本文の筆跡は複数あり、第一三紙分が書名に相当する部分で、見林自筆を含む。見林蔵書印なし。 ・無窮会神習文庫(井上頼 囶 (斎号「神習舎」 )〈一八三九―一九一四〉旧蔵) 『関白詔勅集』写本一冊(神習七二九一) 『神習文庫図書目録』 (昭和一〇年〈一九三五〉刊、昭和五八年〈一九八三〉新訂)に「松下見林自筆」とあり、 覆表紙右下ラベルには「松下見林手沢」と判定される。本文は自筆ではない。本文中の藍色不審紙、朱の圏点・ 傍線・書入れは、西尾市岩瀬文庫の見林加筆本と同様。見林蔵書印なし。   佐々木春行   『図書原帳』によれば、佐々木春行〈一七六四―一八一九〉は、見林旧蔵書一冊に外題を認めている。   京都の老舗書肆、佐々木竹苞楼は、寛延四年〈一七五一〉に初代春重〈一七二三―一七九二〉が書林に加入、姉小 路 通 寺 町 西 入 北 側 に 店 を 構 え、 出 版 も 手 が け た。 六 代 当 主( 春 隆〈 一 九 〇 六 ― 一 九 七 八 〉) の 古 稀 記 念 に 編 ま れ た 『 若 竹 集   創 業 期 出 版 記 録 』 二 冊( 昭 和 五 〇 年〈 一 九 七 五 〉) の 下 冊 に「 家 系 譜 」 が あ る( 二 四 五 頁 )。 翌 年 の『 日 本 古書通信』三九〇(昭和五一年〈一九七六〉一〇月)には、八木福次郎と佐々木惣四郎(春隆)の対談「京都最古の 古本屋   竹苞楼主人に聞く」が載る(一六頁) 。   松 下 見 林 の 養 嗣 子 見 櫟 は 延 享 三 年〈 一 七 四 六 〉 に 他 界。 五 〇 年 を 経 た 寛 政 九 年〈 一 七 九 七 〉、 山 科 貞 松 院 が、 見 林

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一二二 旧蔵書を含む蔵書の整理をした当時、佐々木竹苞楼当主は二代春行であった。初代春重は山科貞松院の二歳下で、五 年前の寛政四年〈一七九二〉に他界している。天明八年〈一七八八〉に店が大火類焼、享和元年〈一八〇一〉に現在 地、寺町通姉小路上ル西側に地屋敷購入、四年後の文化二年〈一八〇五〉に開業する。春重の他界、見林旧蔵書整理 は、新規開店にいたる間であった。   見 林 旧 蔵 書 の 散 逸 に つ い て、 西 尾 市 岩 瀬 文 庫 蔵『 常 陸 国 風 土 記 』( 二 五・ 一 五 〇 ) 巻 末 に、 左 記 の よ う な 底 本 識 語 が証言している。京都の或家で複数の見林旧蔵書を買った内の一冊を借り、書入れまで丹念に写したという。 同学京人 上田百樹 、文化七年〈一八一〇〉のころ、都の或家にて 松下見林子 が蔵書ども買得たる中に、此書あり しよし也。同八年四月、京にのぼりたる時、 百樹 が手より借得て写せり。 夏目甕満   右は新規開店の五年後にあたり、見林の学問が広く受け継がれた例である。   私 立 図 書 館 当 時 の 岩 瀬 文 庫『 図 書 原 帳 』( 1】 ) に は、 後 述、 『 和 泉 国 日 根 郡 鳥 取 郷 波 多 宮八幡宮来由記』 (一四五・九〇)について、 「題簽佐々木春行」とする。この本に題簽は貼られていないし、剥落の 跡もないので、題簽とは、覆表紙左肩の打付書外題のことであろう。仮にこれを信じて、山科貞松院のほかに佐々木 春行が見林旧蔵書整理に関わったと考え、本稿後半「   不染庵了廬の書架 」で各本の調査、考察を進めた。   いったい、署名や識語がないのに、 「題簽佐々木春行」となぜわかったのか。 『図書原帳』には、佐々木竹苞楼かど う か は 不 明 だ が、 「 佐 々 木 書 店 」 の 名 が 所 々 に あ る。 購 入 す る 岩 瀬 弥 助 に、 書 肆 が 秘 伝 を 明 か し た の だ ろ う か。 了 廬 旧蔵の見林旧蔵書は、一旦佐々木竹苞楼にもどってから岩瀬文庫に来たのだろうか。   書肆符牒のあるなし、 『天徳闘詩』と『硯譜』にのみ「律庵清賞」印が押されることにも注意される。   佐々木春行著書を転写した本は、西尾市岩瀬文庫に『宋本鑑定記』 (四八・五三) 、『観氏春秋』 (一五二・一四三)

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恒川了廬旧蔵書(西尾市岩瀬文庫所蔵分) 一二三 がある。藤井隆『日本古典書誌学総説』 (平成三年〈一九九一〉 )によれば春行は、実見した宋版によって、日本でも 早くに欠筆避諱について論じた識者であった(一二頁) 。   内田蘭渚   一 括 購 入 さ れ た 一 五 タ イ ト ル の 内、 六 タ イ ト ル に は、 了 廬 以 前 の 旧 蔵 者、 内 田 蘭 渚( 駒 屋 源 兵 衛〈 ― 一 八 三 四 〉) の朱印「蘭渚室図書記」がある。この印は、刈谷市中央図書館村上文庫蔵の了廬旧蔵書にも押されている。尾張を代 表 す る 富 商 の 一 で、 京 大 坂 と の 交 流 が あ り、 画 家 中 林 竹 洞、 山 本 梅 逸 ら の 庇 護 者 と さ れ る。 岸 野 俊 彦 氏 に 左 記 が あ る。 ・「名古屋商人、内田蘭渚の文化世界」 (『尾張藩社会の文化・情報・学問』第三章、 〈二〇〇二〉 ) ・「 寛 政・ 享 和 期 の 名 古 屋・ 大 坂 文 化 交 流   内 田 蘭 渚 と 十 時 梅 厓・ 木 村 兼 葭 堂 の 交 流 を 中 心 に 」( 『 尾 張 藩 社 会 の 総 合研究』二、第一一章〈二〇〇四〉 ) ・ 史 料 紹 介「 内 田 蘭 渚 寛 政 十 午 暮 春 日 次 記   全 」・ 「 内 田 蘭 渚 享 和 元 年 日 次 記   全 」( 上・ 下 )・ 「 内 田 蘭 渚 享 和 四 年 甲子日黄録   全」 (上・下) (『名古屋芸術大学研究紀要』二五〈二〇〇四〉~二九〈二〇〇八〉 ) ・「 名 古 屋 商 人 内 田 蘭 渚 と 京 都 書 肆 竹 苞 楼   富 商 的 国 学 の 文 化 世 界 」( 『 尾 張 藩 社 会 の 総 合 研 究 』 四、 第 六 章 〈二〇〇九〉 )   日記の翻刻によれば、内田蘭渚と佐々木竹苞楼の文通が盛んになったのは享和四年〈一八〇四〉であり、この頃以 後、 『 西 峰 松 下 先 生 遺 書 目 録 』 に 記 さ れ た 見 林 旧 蔵 書 の 一 部 が、 佐 々 木 竹 苞 楼 か ら 尾 張 の 蘭 渚 の 許 に 届 い た も の と 想 像される。その蘭渚は天保四年〈一八三四〉に没した。天保三年〈一八三三〉に、尾州徳川家、市谷邸への将軍家斉

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一二四 御成の盛事を終え、尾張住の古筆目利職として知られるようになったのが恒川了廬であるから、年次は不明だが、蘭 渚から了廬へ、見林旧蔵書が移ったのではないだろうか( 『国文鶴見』四六に既述) 。 (三)山科家の人々   山科貞松院の貼紙   見林、見櫟の没後、旧蔵書のひとまとまりが山科家に守られ、寛政九年〈一七九七〉に整理された。それを示すの が、西尾市岩瀬文庫蔵『鴨長明海道記』 (一四〇・一二五) 、巻末の朱印「松下見林」の対面写りの朱を覆う位置に貼 られた、左記の紙片である。 「寛政九年山科貞松院七十七才改之」   『 全 浙 兵 制 日 本 風 土 記 』( 一 四 五・ 四 〇 ) に も、 巻 末 に 同 文 の 貼 紙 が あ る( 2】 )。 さ か の ぼ っ て 享 保 六 年 〈 一 七 二 一 〉 に 生 ま れ た「 山 科 貞 松 院 」 が 蔵 書 を 整 理 し、 貼 紙 を 残 し た。 右 の 二 タ イ ト ル と も、 見 林 の 朱 印 は あ る が、自筆本ではない。ひとまとまりの見林旧蔵書の内に、貼紙のある本とない本が混じる理由はわからない。   西尾市岩瀬文庫所蔵本と同じ貼紙のある本を、WEB上に公開される画像と、国文学研究資料館「日本古典資料調 査記録データベース」で確認した。宮内庁書陵部には桂宮本に左記四件があるのだが、これらには、見林が成立に関 わり、あるいは所持した痕跡がない。貼紙は、見林旧蔵書を含めた、山科貞松院自身の蔵書票と考えられる。 ・『連歌新式今案』写本一冊(三五三・五三、表紙右上ラベルに「桂宮本/歌書」 ) ・『文鳳鈔』写本一冊(三五三・五四、表紙右上ラベルに「桂宮本/地理」 )

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恒川了廬旧蔵書(西尾市岩瀬文庫所蔵分) 一二五 ・『明魏書   両聖記』写本一冊(三五三・八二) ・『駿牛絵詞』写本一冊(三五三・二五五、表紙右上ラベルに「桂宮本/政書」 )   寛政九年〈一七九七〉の貼紙のある本が桂宮本に含まれる。ただし、京極宮(桂宮)公仁親王は、桃園天皇の猶子 となって親王宣下を受け、明和七年〈一七七〇〉薨去、三八歳。当主となった寿子妃が寛政元年〈一七八九〉に亡く なり、宮家は空主となっている。   そ の ほ か、 京 都 大 学 附 属 図 書 館 蔵『 西 峰 筆 記 』( 四 ― 〇 三・ セ・ 九、 巻 末 に『 赤 穂 義 士 ノ 論 』 二 丁 半 を 合 綴 ) は 転 写 本 だ が、 山 科 貞 松 院 の 貼 紙 も、 本 文 同 筆 で 写 さ れ て い る。 『 西 峰 筆 記 』 は 元 禄 四 年〈 一 六 九 一 〉 正 月 の「 赴 讃 岐 」 とする七律に始まり、儒医であった見林が高松に赴いたときの詩作である。この底本として、見林旧蔵書を山科貞松 院が持した本を想定することができる。   さて、 「山科貞松院」とは何者なのか。   書状による補修   「 西 尾 市 岩 瀬 文 庫 古 典 籍 書 誌 デ ー タ ベ ー ス 」 の 記 述 に よ れ ば、 見 林 旧 蔵 書 の 内、 『 唐 大 和 上 東 征 伝 』( 一 四 〇・ 五三) 、『豊後風土記』 (一四〇・七〇)の覆表紙紙背に反古紙が使われており、前者は「 (山)科一安」あて、玉屋九 郎左衛門常因の書状、後者は「山科岱安/山科杏安/山科里安」あて、人見将曹の書状とのことであった。   本稿、以下の調査は、右を知ったのを転機として進めることができた。   冒頭( (一)私立図書館岩瀬文庫の『図書原帳』 )に挙げた了廬旧蔵書、二一タイトルを閲覧すると、右の二タイト ル を 含 め て 一 〇 タ イ ト ル に、 書 状 に よ る 補 修 が 確 か め ら れ る。 デ ー タ ベ ー ス に 記 述 さ れ る 以 外 に も、 『 醍 醐 寺 縁 起 /

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一二六 勧 修 寺 記 』 合 綴 本( 一 四 〇・ 三 六 ) 紙 背 の 書 状 に も、 「 山 科 一 安 様 」 と あ る。 こ の 蔵 書 群 が、 さ ら に は 表 紙 の 補 修 が、山科家に関わりがあることを伝えている。   なぜなら、書状を紙背に使うことができたのは、あて名の本人または後継者、あるいは蔵書と書状を一括して買い 取 っ て 整 え た 書 肆 で あ る。 山 科 家、 あ る い は 佐 々 木 春 行 の 元 で 補 修 が な さ れ た と 考 え ら れ、 貼 紙 の「 改 之 」 と は、 「山科貞松院」が後世に残すために整え、そのとき確かに自分の本であると証明したことを意味する。 書状によって補修された見林旧蔵書一〇タイトル ・〈岩四〉五   『摂州有馬温湯記/鐘銘   古代』合綴本(一三六・二九) ・〈岩六〉二   『斎院御在任次第/年中行事宣命』合綴本(九五・一〇一) ・〈岩八〉二〇   『吏部王記』 (一四五・五八) ・〈岩九〉一〇   『豊後風土記』 (一四〇・七〇)         ※【写真 岩瀬3】・〈岩一〇〉六   『醍醐寺縁起/勧修寺記』合綴本(一四〇・三六)        ※【写真 岩瀬3】・〈岩一一〉一三   『世諺問答』 (一四〇・一一五) ・〈岩一二〉二一   『和泉国日根郡鳥取郷波多宮八幡宮来由記』 (一四五・九〇)       ※ ・〈岩一六〉七   『天寿国曼陀羅銘文』他四編合綴本(一四〇・四三) ・〈岩一四〉九   『唐大和上東征伝』 (一四〇・五三)         ※【写真 岩瀬3】・〈岩一八〉一九   『全浙兵制日本風土記』 (一四五・四〇)   この中には、表紙・裏表紙に遊紙全面が貼り付けられた本もあるが、綴じ糸を切れば紙背の書状を開いて見られそ

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恒川了廬旧蔵書(西尾市岩瀬文庫所蔵分) 一二七 うな本もあった。本稿のために申請し、撮影許可を受け、 「※」印、四冊の書状を撮影していただいた。   そ の 中 で 最 も 注 目 さ れ た の は、 『 豊 後 風 土 記 』( 一 四 〇・ 七 〇 ) の 表 紙・ 裏 表 紙 の 補 修 に 使 わ れ た 書 状 で あ り、 「 御 老 父 様 」( 山 科 一 安 ) の「 寿 山 之 御 祝 」( 百 歳 ) の 進 物 に 対 し て の、 返 礼 を 受 け 取 っ た 文 面 で あ る。 こ の 後 に 述 べ る が、 『 加 賀 藩 史 料 』 に よ れ ば、 一 安 は 安 永 八 年〈 一 七 七 九 〉 に 七 十 九 歳 で あ っ た。 め で た く 一 〇 〇 歳 を 迎 え た の は 二一年後の寛政一二年〈一八〇〇〉であり、その三年前、 「山科貞松院」が蔵書に貼紙を残した寛政九年〈一七九七〉 に、一安は九七歳、夫妻で在世していたこと、この三兄弟もその当時、山科家の人であったことが知られる。   表紙・裏表紙の中に、半裁にした二通の書状が、裏打ちしないで折り込まれていた。あたかも、慶事が記された書 状を書物という舟に乗せて、流れ着く先で後人が開き見る日を待つかのように。山科貞松院が貼紙を残した後、寛政 一二年〈一八〇〇〉の書状を補修に使ったのは、四〇歳前後の佐々木春行なのか。想像ではあるけれど、二〇〇年以 上前のこの書肆が、ただ活計だけのために書物を扱ったとは思われない。   加賀藩の侍医、山科家 ○『加賀藩史料』 、『袖裏雑記』   書状に名のある山科一安、岱安、杏安、里安の四名は、貼紙を残した山科貞松院と同時代で、近しい人々のようで あ る。 東 京 大 学 史 料 編 纂 所 の デ ー タ ベ ー ス の「 横 断 検 索 」 を 使 う と、 「 近 世 編 年 デ ー タ ベ ー ス 」 に『 加 賀 藩 史 料 』 の 綱 文 が 採 ら れ て お り、 右 の 四 人 の 内、 杏 安 が、 『 加 賀 藩 史 料 』 九 の、 安 永 八 年〈 一 七 七 九 〉 三 月 の 条 に 記 さ れ る の を 知る。すなわち、 三月廿四日。 山科杏安 を 前田斉敬 の侍医と定む。

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一二八 とあり、 『袖裏雑記』二六が引用され、本文には山科父子の当時の年齢が書かれる。里安の名はない。   左記は、金沢市立玉川図書館近世史料館蔵の稿本(原本)による『加賀藩史料』二二三(安永八年、加越能文庫、 16.28/88 、枝番 223 、【写真 玉川1】 )の本文である。 〔朱書〕袖裏雑記   二十六之抄   安永七年五月より八年五月迄 〔上部欄外に朱書〕 教千代様 御病気に付 前( 〔左傍に朱書〕右)に記す( 〔右傍に〕七十六丁)小児科之事、 重 かさねて 而 京都詰人より 山科一安 次男 杏安 事を( 〔右 傍に〕三月廿四日)申越、則被為召診被仰付候也。 一安 は禁裏御用勤、今年七十九才、嫡子 岱安 も禁裏御用勤、 今年五十五才、 杏安 は右御用未勤由也。今年四十三才。 一安 祖父は 山科理安法印 、 松雲院様 御代被召抱、六百俵 被下、御国江引越御用勤、御墨付も于今所持之由、 一安 申候旨。   教 千 代( 後 の 斉 敬 ) は、 こ の と き 数 え で 二 歳。 加 賀 家 一 〇 代 重 教( 〈 一 七 四 一 ― 一 七 八 六 〉、 在 位〈 一 七 五 四 ― 一 七 七 一 〉) が 隠 居 し た 後、 安 永 七 年〈 一 七 七 八 〉 に 金 沢 で 生 ま れ た 長 男 で あ り、 叔 父、 一 一 代 治 脩( 〈 一 七 四 五 ― 一八一〇〉 、在位〈一七七一―一八〇二〉 )の養子となったものの、襲封前に一八歳で亡くなった。   右の『袖裏雑記』により、杏安の父一安と兄岱安は禁裏御用の医師であり、杏安は、曽祖父の理安と同じく加賀藩 に召抱えられて、教千代を診たのを知る。 『加賀藩史料』のこれ以前の部分には、 「二月十五日。前田斉敬の為に、侍 医を銓衡せしむ。 」、 「三月廿二日。前田斉敬眼疾に罹る。 」とある。左記のように、候補者九名に金沢移住を断られ、 侍医選びが捗らなかった報告もある。 〔朱書〕袖裏雑記   二十六之抄   安永七年五月より八年五月迄 〔上部欄外に朱書〕 教千代様 御病気に付

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恒川了廬旧蔵書(西尾市岩瀬文庫所蔵分) 一二九 前 に 記 す 京 都 等 小 児 科 之 事、 京 都 よ り の 返 書 に、 当 時 発 行 の 小 児 科、 武 川 幸 順 (「 幸 」 右 傍 に「 孝 イ 」) 、 大 津 賀 仲安 (右傍に「四十三才」 )、 白水田良 、 松下昌哲 、 児玉立策 、 石川洞庵 (右傍に「四十八才」 )、 小野元安 、 三宅 宗達 、 井上玄庵 、皆御国へ引越は御断申旨申候由等、返書あり。 (〔小字〕又後七十七丁〔 「後」の左傍に〕左)   禁 裏 と 加 賀 家 に 仕 え た 医 家 の 山 科 家 は 古 く に も あ る が、 「 山 科 貞 松 院 」 が 貼 紙 を 残 し た 寛 政 九 年〈 一 七 九 七 〉 に 七 七 歳、 つ ま り 享 保 六 年〈 一 七 二 一 〉 生、 京 都 在 住 で あ っ た 人 物 を 探 す と き、 『 袖 裏 雑 記 』 に 記 さ れ る 杏 安 の 兄、 山 科岱安の年齢が近いのだが、四歳の開きがある。 山科理安 ― ○ ― 一安〈一七〇一〉生 杏安〈一七三七〉生 岱安〈一七二五〉生   『 加 賀 藩 史 料 』 稿 本 と、 こ こ に 引 用 さ れ る『 袖 裏 雑 記 』 二 六 の 原 本( 金 沢 市 立 玉 川 図 書 館 近 世 史 料 館 蔵、 奥 村 文 庫、 0940/73 、 枝番 25 、 四六ウ・四七オ、 【写真 玉川2】 )、 同じく明治の謄写本( 16.28/20 、 枝番 26 、 七七オ・ウ) 、 いずれも閲覧したのだが、刊本『加賀藩史料』に記される父子の年齢は、 『袖裏雑記』稿本・原本と同じであった。   安永八年〈一七七九〉の金沢に届いた、京都詰人の返書の「五十九才」が、実は「五十五才」の誤りであった可能 性 も な い わ け で は な い が、 そ の 証 拠 は 得 が た い。 一 安 の「 保 寿 院 」 を 継 ぐ べ き 嗣 子、 岱 安 は、 「 貞 松 院 」 と は 別 人 で はないのだろうか、と仮定し、別の史料を求めることにした。   松雲院、すなわち五代綱紀( 〈一六四三―一七二四〉 、在位一六四五―一七二三)が召抱えた山科理安については、 『 古 事 類 苑 』 方 技 部 一 〇、 医 術 一( 七 三 五 頁 ) に 引 か れ る『 基 長 卿 記 』 の 記 事 に、 先 例 と し て、 法 印 仰 付 の 経 緯 が 書 か れ る。 『 基 長 卿 記 』 は、 東 ひがし 園 ぞの 基 もと 雅 まさ 〈 一 六 七 五 ― 一 七 二 八 〉 の 日 記 で あ り、 東 京 大 学 史 料 編 纂 所 に 明 治 の 謄 写 本

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一三〇 (二〇七三・一四二)が蔵される。 享保元年〈一七一六〉四月七日 林丘寺宮 、御願に候。此度、御疱瘡御療治御全快に付、 石川仲安 法印之事、被仰付候様に御願候。先例、宮方御 療治之賞に、 女一宮 御疱瘡御療治仕、御全快後、 山科理安 法印に被成下候。又先 大聖寺宮 御疱瘡御療治仕、御全 快 後、 村 上 友 詮 法 印 に 被 成 下 候。 両 人 と も 同 時 分 候。 此 例 も 御 座 候 間、 無 有 御 沙 汰 度 思 召 候。 …( 全 六 二 冊 の 内、三一、 三七オ)   加賀藩の医家、山科三家 ○『諸士系譜』   加賀藩士の系譜をまとめた基本的な史料として、津田信成編『諸士系譜』全二〇巻(天保三年〈一八三二〉 、『石川 県 史 資 料 』 近 世 篇 八 ― 一 三 に 影 印 所 載。 原 本 は 金 沢 市 立 玉 川 図 書 館 近 世 史 料 館( 加 越 能 文 庫、 16.31/49 ) お よ び 石 川 県立図書館蔵)がある。津田は文政九年〈一八二六〉家督、禄百五十石、組外。天保三年〈一八三二〉に御馬廻、以 後、 定 検 地 奉 行、 御 近 習 番、 御 武 具 奉 行 等 に 任 ぜ ら れ、 弘 化 元 年〈 一 八 四 四 〉 没、 四 二 歳( 日 置 謙 編『 加 能 郷 土 辞 彙』による) 。   「 や 」 は 影 印 本 の 近 世 編 一 一 所 収( 原 本 の 巻 一 三、 石 川 県 立 図 書 館 蔵、 K288/2/13 )。 「 山 科 」 三 家 の 部 分 は 左 記 で あり、理安の家は一代のみ、その後継や、杏安の名は記されない。杏安の召抱えが、さほど長くは続かなかったのを 意味するのではないか。

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恒川了廬旧蔵書(西尾市岩瀬文庫所蔵分) 一三一   ○『先祖由緒并一類附帳 』   明 治 三 年〈 一 八 七 〇 〉 頃、 士 族・ 卒 族、 各 戸 の 当 主 か ら 金 沢 藩 庁 に 提 出 さ れ た の が『 先 祖 由 緒 并 一 類 附 帳 』( 加 越 能 文 庫、 16.31/65 、 一 一 七 六 一 点、 各 冊 に 当 主 略 歴・ 先 祖 の 系 譜 と 略 歴・ 当 主 の 四 親 等 ま で の 親 族 等 を 記 す ) で あ 娶浅加十郎右エ門女 『諸士系譜』より山科三家 ・ 了安 京着 六百俵 正徳五死 ・ 長安 延宝九 六百俵 旨被仰出 元禄元死 元禄二被召出 二百石 ・理安 補安 五十口   娶高桑玄春女 享保十九   七二   新知三百 五十石   寛保元   死四十五才 教安 五十口   享保十四   百五十石 享保十   死 女   浅加作左エ門養女 萬次郎   七口   早世断絶 女   養女   佐垣八郎左エ門 萬吉   享保十一俸二十口   同年早世 同   十二   十   廿九   跡目無御貪着 岡田十右エ門后妻

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一三二 り、 「山科」には左の五家があるが(帙 620 、枝番 12332 ~ 12336 )、右の医家三家はすでに絶えており、一致しない。 山 科 源 吉( 良 之、 清 左 衛 門 )、 山 科 佐 一 郎( 政 勝、 小 左 衛 門 )、 山 科 治 作( 信 一、 佐 助 )、 山 科 友 吉( 祐 美、 久 左 衛門) 、山科吉男(邑一、吉之丞) ○『前田貞親手記』   加賀藩社会における医療については、池田仁子氏が、金沢に伝わる史料に広くあたって述べて来られた。 ・A『近世金沢の医療と医家』 (『近世史研究叢書』四二、平成二七年〈二〇一五〉 )、 「【山科理安】 」(四四頁) ・B『加賀藩社会の医療と暮らし』 (令和元年〈二〇一九〉 )「第三章   藩主前田家の医療と医家」 (一五〇頁)   右のAにおいて池田氏は、 『前田貞親手記』全六五巻(貞享三年〈一六八六〉―元禄一五年〈一七〇二〉 、加越能文 庫、 16,41/82 、 前 田 家 編 輯 方 に よ る 謄 写 本、 第 四・ 五 冊、 枝 番 21 ~ 31 部 分 ) を 典 拠 と し て、 理 安 に つ い て 左 記 を 紹 介する。 ・元禄元年〈一六八八〉 九 月   朔 日   二 ノ 丸 表 御 居 間 、 御 焼 火 ノ 間 縁 辺 で 御 目 見 、 扇 子 献 上 。 挨 拶 の 後 、 金 谷 へ 。 ・    〃         九月   七日   白銀・羽織拝領御礼のため、登城を上申。 ・    〃         一二月一八日   綱紀は、 一三日付、 京都在の理安から奏者番・寺社奉行あての来書を見る。 ・元禄二年〈一六八九〉二月二九日   二三日付、京都在の理安から書状。金沢下向を禁裏へ断り、追付罷り下る とのこと。藩は、姫様方誕生され小児科医が必要、参勤前に到着するように申渡す。 ・    〃         三月   五日   理安、金沢到着。 ・    〃         三月   八日   広敷へ。姫様の診察を拝命。

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恒川了廬旧蔵書(西尾市岩瀬文庫所蔵分) 一三三 ・    〃         三月一〇日   表御居間、御焼火ノ間縁辺で鳥目一〇〇疋拝領、御目見。広敷へ参上、両 姫を拝診。二の丸へ誘引される。 ・    〃         三月一九日   御判物頂戴に参上。 ・    〃         三月二五日   御能拝見。奥書院、二ノ間西ノ御縁辺にて料理拝領。翌日、御礼に参上。 ・元禄三年〈一六九〇〉六月一八日※御留守居中精勤。広敷へ参上、姫方に薬調進、御回復。銀子・時服拝領。 ・元禄八年〈一六九五〉五月   九日   富五郎らの観音院参詣御供の慰労として、晒布二疋下賜。   このように、元禄元年〈一六八八〉以後、綱紀が、禁裏の小児科医であった理安を金沢に呼び、子女の診察にあた ら せ た。 『 袖 裏 雑 記 零 余 別 録 』 二 / 全 四 冊( 094.0 / 69 、 枝 番 2 、 七 六 オ・ ウ ) に も、 右 の「 ※ 」 印、 元 禄 三 年 〈一六九〇〉六月一八日の記事が確認される。   前田貞親は藩臣。父貞里のとき、四五〇〇石から加増され、禄七〇〇〇石。貞享三年〈一六八六〉若年寄、元禄四 年〈一六九一〉御家老、一〇年〈一六九七〉小松城代、宝永二年〈一七〇五〉逝去、五三歳(日置謙編『加能郷土辞 彙』による) 。   ○侍帳   『 諸 士 系 譜 』 に 載 る、 山 科 三 家 の 医 師 の 名 は「 了 安、 補 安、 萬 次 郎 」、 「 理 安 」、 「 長 安、 教 安、 萬 吉 」 で あ っ た。 文 献に紹介され、あるいは金沢市立玉川図書館近世史料館に所蔵される侍帳の原本で、年次順に山科家の記載を見る。 〈一六一五・一六一六〉   まず、太田敬太郎校訂『加賀藩初期の侍帳』 (翻刻)収載の『元和之侍帳』 (元和元・二年〈一六一五・一六一六〉

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一三四 頃)には、 「御薬師」として「理庵」が載る。   原本を求めると、 『元和之侍帳』の謄写本は複数あるが、 『慶長侍帳』 ( 090/208 、後補封筒の表書き「慶長之侍帳/ 元 和 之 始 金 沢 侍 帳 」) に 二 種 類 謄 写 さ れ る 内 の 後 半、 『 元 和 之 始 金 沢 侍 帳   元 二 年 ノ 頃 』( 享 保 二 年〈 一 七 一 七 〉 五 月、藤田安勝蔵本の写し)では、 「無役衆」六一名の内、三九番目に「理庵」が載る。   『 慶 長 元 和 寛 永 侍 帳 』( 090/205 ) は、 天 保 一 四 年〈 一 八 四 三 〉 一 〇 月、 森 田 良 見 に よ る 湯 浅 氏 蔵 本 の 写 し で あ り、 六種類写される四番目に『元和元二年金沢侍帳』があり、 「理庵」が同様に記される。 一   弐百石     同〔御薬師〕   理庵   この「理庵」が「理安」の誤写ではなく、縁ある人物であることを解明する考究が森田良見によって残されている ので、後述する。 〈一六七〇〉   『 加 賀 藩 侍 帳 』 上( 『 金 沢 市 図 書 館 叢 書 』 一 一、 翻 刻 ) 収 載 の『 松 雲 院 様 御 初 代 侍 帳 』( 内 題・ 後 補 封 筒 表 書 き・ 登 録 書 名 は『 綱 利 御 領 国 侍 帳 』、 金 沢 市 立 玉 川 図 書 館 近 世 史 料 館 蔵、 大 島 文 庫、 10.0/75 、【 3】 、「 綱 利 」 は 綱 紀 の 初 名 ) に は、 「 理 安 」 が 載 る。 「 解 説 」 に よ れ ば、 寛 文 一 〇 年〈 一 六 七 〇 〉 頃 成 立。 組 分 の 侍 帳 で、 「 組 外 」 を 七二名記した後に七名を書入れた最初が理安である。理安の死去後、正徳五年〈一七一五〉に了安が死去する以前に 加筆されたと見られる。 六百俵   大坂着   山科理安 法印   保寿院 (死去)     〔三名略〕 六百俵   大坂着   山科了安        〔二名略〕 〔朱〕以上七人原書書込に有之

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恒川了廬旧蔵書(西尾市岩瀬文庫所蔵分) 一三五 〈一六八八〉   『 元 禄 元 年〈 一 六 八 八 〉 侍 帳 』( 16.30/41 ) は、 天 保 一 五 年〈 一 八 四 四 〉 二 月、 森 田 良 見 に よ る 湯 浅 氏 蔵 本 の 謄 写 本 であり、山科長安が載る。 一   六百俵   山科長安 〈一七二四〉   前 掲『 加 賀 藩 侍 帳 』 上 に『 享 保 九 年〈 一 七 二 四 〉 士 帳 』( 加 越 能 文 庫、 16.30/43 ) が あ り、 「 御 医 師   寺 社 奉 行 支 配 」 二 〇 名、 「 御 外 科 」 一 五 名( 内、 「 御 針 七 名 」) が 載 る。 「 御 医 師 」 の 一 一・ 一 二 番 目 が 教 安、 補 安 で あ り、 「 彦 三 壱 」 は 所 付、 「 彦 三 一 番 丁 」 の こ と で あ る。 「 解 説 」 に よ れ ば、 森 田 柿 園 が 弘 化 元 年〈 一 八 四 四 〉 に 写 し た『 享 保 侍 帳』 (石川県立図書館蔵、森田文庫)を底本とする。      一   五拾人扶持   山科教庵 彦三壱   一   五拾人扶持   山科補安 〈一七八三〉   『 天 明 三 年 士 帳 』 二 冊( 〈 一 七 八 三 〉、 加 越 能 文 庫、 16.30/46 、 内 題「 飛 鳥 川 記 」、 後 補 封 筒 の 表 書 き「 天 明 三 年 侍 帳」 、謄写本、原本森田氏蔵)は組分の侍帳で、下冊には「御医師」二八名、 「外科」六名、 「鍼医師」六名が載る。   杏安召抱は、安永八年〈一七七九〉三月であったが、四年後のこの侍帳に、その名は記されない。   令和二年〈二〇二〇〉八月一八日―一〇月一八日、金沢市立玉川図書館近世史料館で秋季展「加賀藩侍帳」開催、 WEB上に図録が掲載され、右のような侍帳の概要を知ることができる。

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一三六   ○『続漸得雑記』 ・『名家由緒伝』   侍帳のほかに、幕末から明治にかけて、森田良郷、良見父子による考究が残されている。   ま ず、 『 続 漸 得 雑 記 』 三 七 / 全 四 二( 加 越 能 文 庫、 16.05/6 、 枝 番 37 、 扉 題・ 目 録 に 付 さ れ る 底 本 の 通 番 号 は「 四 拾 五 」) に「 山 科 之 考 」( 巻 首 の 目 録 で は「 山 科 氏 ノ 考 」) と 題 す る 約 二 丁 分 は、 加 賀 藩 の 医 家、 山 科 家 に つ い て の 考 察 である。この雑記は森田良郷〈一七九〇―一八五七〉が、家祖、盛昌の『漸得雑記』に倣って編纂したもので、前田 家編輯方による謄写本が伝わる。全四二の内、三一以後は子の良見の増補と見られている。 一   初代 了安 、京着俵下さる( 〔割書〕今按るに、 松雲公 御印物の面に、大坂着米六百石、元禄三年〈一六九〇〉 八月廿三日の御日付下さるれば、被召年月□本被下とあれども、誤なる事、明と知也) 、正徳五年〈一七一五〉 死去、其子 補安 へ五拾人扶持を給ふ、乃父の嗣たるべし( 〔割書〕年月未詳) 、享保十九年〈一七三四〉七月二 日、新知三百五拾石を賜はる( 〔割書〕今按に御印物の表と年月等符合せり) 、寛保元年〈一七四一〉四十五歳 にて死去、妻は 高桑玄春 女也、其子 萬次郎 相続、七口を賜ひ早世、家断絶す( 〔割書〕其年月しらず) 。 一   長安 、延宝九年〈一六八一〉 、六百俵を給ひ、元禄元年〈一六八八〉死去、其子 教安 、月 捧 〔ママ〕 五十口を給ふ、 是 又 父 の 跡 目 相 続 た る べ し、 享 保 十 年〈 一 七 二 五 〉、 新 知 四 百 五 拾 石 を 下 さ れ、 同 年 病 死 す、 其 子 萬 吉 へ 翌 十一年、俸禄二十口を賜はる処、其年蚤世、同十二年〈一七二七〉十二月廿九日、跡目御貪着無之旨被仰出、 教安 妻 浅加作右衛門 養女とし、 沢田十兵衛 へ嫁す、或は 堅田十右衛門 後妻と成となり。 一   理安 、元禄二年〈一六八九〉三月十一日、召出され、弐百石を賜ふ、此後の事、一切不知、右諸士譜等を以 て考定し、記しぬ。

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恒川了廬旧蔵書(西尾市岩瀬文庫所蔵分) 一三七   斯 の 如 く、 同 姓 三 家 な れ ど も、 本 末 の 訳 竪、 其 続 柄 の 事 見 え ず、 さ れ ど も 必 同 族 な る べ し、 『 燕 台 風 雅 』 に も 纔に履歴見えたり、別に記しぬ。 安政戊年之季秋         湯浅祇庸   『 燕 台 風 雅 』 云、 山 科 元 徳 、 見 義 人 録 後 語、 又 有 山 科 淑 慎 宗 子 儀、 並 以 医 業、 今 失 其 伝、 此 編 中、 各 収 一 首、 按又 山科 氏有 了安 (〔割書〕秩六百石) 、 又有 理安 (〔割書〕二百石) 、 又有 長安 (〔割書〕六百俵) 、 其子 教安 (〔割 書〕月俸五ヶ口) 、疑 元徳淑 此諸医中之人耶、今皆不存後昆。 御印物之写并由緒抜書 大坂着米之内、六百石――       元禄三年〈一六九〇〉八月廿三日   御印          山科了安 以領国之内、三百五拾石――      享保十九年〈一七三四〉七月二日         山科補按 保寿院法印天室理安居士 妻同国侍士   浅加十郎左衛門 女 末子、美濃国長屋に住す、姓 安藤 と改、 安藤了貞 門人、加州侯医師   丸山了悦    同   見伯   按に、 保寿院 は 補安 の戒名にては非ざるか、導号 理安 にあらでは、 理安 之通名をもて加へたるべし、 十郎右衛 門 と系譜に載す、左右の字違ひし、猶其家に就て糺申すべし。 享保九年〈一七二四〉士帳         一   五拾人扶持         山科教庵         彦三一番丁   一   同〔五拾人扶持〕          山科補安

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一三八 同十六年〈一七三一〉士帳           小児    一   五拾人扶持         山科補安 法橋   右 を 受 け、 森 田 良 見 編『 名 家 由 緒 伝 』( 金 沢 市 立 玉 川 図 書 館 近 世 史 料 館 蔵、 加 越 能 文 庫、 16.31/51 、【 4】 )があり(森田良見自筆、明治一九年〈一八八六〉成立) 、延宝九年〈一六八一〉七月二〇日付の「山科長安由緒 書」を写し、良郷の謎が解明される。 山科長安 由緒書 一   大阪着米   三百石        四拾歳   山科長安 私義、延宝九年〈一六八一〉七月被召出候。 一   曽祖父         岸本宗右衛門 佐 々 木 承 禎 に 罷 在 、 其 後 山 科 に 隠 居 仕 、 姓 名 を 改 、 岸 見 了 意 と 申 、 先 年 死 去 仕 候 。 此 後 、 子 孫 山 科 に 居 住 仕 候 。 一   祖父        山科理斎 山科より初て京都へ罷出、為医、小児の一家を□□、先年死去仕申候。 一   父         山科理庵 理斎 跡を継、小児医にて、先年死去仕申候。 一   養父        山科理安 法印 実は伯父 冨田五郎左衛門 せがれ、私従弟に御座候。私六歳の時、父 理庵 并母相果申候故、 理安 家業を継、則 理 安 娘と私、嫁娶仕申候。 一   子舅         京都に罷在候         山科順安

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恒川了廬旧蔵書(西尾市岩瀬文庫所蔵分) 一三九 一   同〔子舅〕         同断〔京都に罷在候〕     山科市安 一   同〔子舅〕         同断〔京都に罷在候〕    山科七十郎        自餘略之 一   せがれ         四歳   山科長十郎 右の外、御国他国共、従弟より近親類縁者、無御座候。以上。    延宝九年〈一六八一〉七月廿日        山科長安   判       不破彦三 殿       冨田治郎左衛門 殿 山科 氏は、 綱紀卿 抱玉ひし小児科の医師なり。元禄元年〈一六八八〉の士帳に六百俵 山科長安 とあれば、三百 石 は 現 米 六 百 俵 賜 り し と 聞 ゆ。 長 安 は 医 師 な れ ど、 漢 学 に も 長 じ た り け ん、 『 日 本 人 物 史 』 の 序 は 長 安 が 撰 な り。 其 文 に 云、 「 頃 有 人 物 史 幾 巻、 刻 梓 不 知 何 人 之 撰 也、 剞 厥 氏 因 某 人 之 紹 介、 請 書 一 語 云 々。 寛 文 八 歳 仲 春 朔、 医 生 山 科 長 安 、 執 筆 於 求 仁 斎 」 と あ り。 予 が 祖 先 盛 昌 、 人 物 史 帙 の 書 付 に、 「 人 物 史 は 延 宝 年 中 に 故 あ り 滅板す。其頃序の作者山科長安も蟄居し、其外書肆等悉く罪せらる。斯時板も焼れたり。是 中川瀬兵衛清秀 の 伝 に 誤 聞 あ る 故 な り。 山 科 長 安 、 後 京 都 を 牢 々 し て、 加 陽 に 来 り 居 住 す。 」 と、 享 保 十 三 年〈 一 七 二 八 〉 記 し 置たり。さて 長安 は元禄元年〈一六八八〉没し、其子 教安 と称す。 教安 死後、其子 萬吉 遺跡を継ぎ、享保十一 年〈一七二六〉早世して、遂に山科家断炊すと云。

(29)

一四〇   以 上 に よ り、 長 安 と 理 安 の 関 係 が 明 ら か に な っ た。 「 山 科 」 の 姓 は、 長 安 の 曽 祖 父 が 山 科 に 隠 居 し た こ と に 由 来 す 山科長庵▲慶長〜寛永分限帳 澄庵 近衛家侍医 岸本宗右衛門 山科理斎 山科理庵 山科理安△▲ 山科長安▲ 京へ 保寿院 求仁斎 元信 理安女婿 山科長十郎 教安▲? 山科萬吉▲ 広安 長安養子 仙寿院   元憲 李蹊 宗安 仙寿院   元富 山科順安 山科市安   ? (理安孫)山科一安△ (一安兄) … 理安 山科七十郎 保寿院 元由 山科に隠居 ▲加賀藩侍医 △禁裏御用 岸見了意 冨田五郎左衛門 長安の伯父 保寿院 大津住 山科泰安△ 尊寿院 山科岱安△ 山科杏安▲ 山科里安 元勝

(30)

恒川了廬旧蔵書(西尾市岩瀬文庫所蔵分) 一四一 るのだろう。理斎の孫、理庵の子が六歳で父母を亡くし、従弟にあたる理安の家業を継いで女婿となったのが山科長 安であった。長安が没した翌年、理安が召抱えられた。ここに「子舅」とされる京住まいの三名、すなわち、山科順 安・山科市安・山科七十郎いずれかの子、またはここに書かれていない姉妹の子が理安の孫にあたる。その内の一人 が、一安ということになろう。山科長安は理安の女婿だが、その系譜に一安は書かれていない。   禁裏御用の山科家 ○『兼胤記』   次いで、山科家が禁裏御用を勤めていた記録を読む。   東 京 大 学 史 料 編 纂 所 デ ー タ ベ ー ス の「 横 断 検 索 」 を 使 っ た 結 果 を 手 が か り と し て、 広 橋 兼 胤〈 一 七 一 五 ― 一 七 八  一〉が、長く武家伝奏役として公武を往復した記録『兼胤記』六三冊(原題「公武御用日記」 、寛延三年〈一七五〇〉 六月(武家伝奏に補任)―安永六年〈一七七七〉二月、辞任の二ヶ月後まで)の中に、山科一安の動向が逐次書き残 されるのを知った。   以下は、 刊行中の翻刻『大日本近世史料』の内、 『廣橋兼胤公武御用日記』 (一―一三既刊、 宝暦一三年〈一七六三〉 正月分まで)と、未刊行分は東京大学史料編纂所蔵の『兼胤記』謄写本(二〇七三・一〇二)を繰って、一安と周辺 人物に関する記載を摘記したものである。 『兼胤記』に記された山科一安父子 ・寛延   三年〈一七五〇〉七月一八日・一九日   摂政殿 ( 一條道香 )、関東より心付の百俵を、 一安 へ。

(31)

一四二 ・    〃          七月二〇日   医師宿番の四医( 一安 他)に受名書切紙を授ける。 ・宝暦   二年〈一七五二〉六月二六日   一安 、倅 泰安 と不和、離縁を届出、 泰安 の法橋辞退を 一安 願出。 ・    〃          六  月二八日   右の位階返上の罪状について 一安 に尋問。 泰安 は元 一安 兄 理安 (大津居住) の養子、 一安 方に又養子、離縁すれば 理安 方に差返すべきところ、 泰安 不同意、大津に 帰らず京都での独立を望む。 一安 は、 泰安 が独立するのならば 山科 一流療治は差止、法 橋も辞退させたいとの意向。 ・    〃          六月三〇日   藤木土佐守 ( 成敬 )・ 山科厚安 の仲介で、父子和解斡旋。 ・    〃          七  月一四日―一八日   一安 が、 泰安 との和順は勅命に依ると称す。勅命とは甚だ重く不届 であり、 土佐守 ・ 厚安 に吟味を命じ、 一安 に呵責を加える。 ・    〃          七月二一日   一安 、請書を指出、御覧に入れる。 ・    〃          七月二四日   一安 へ申渡、謹んで承伏。 ・    〃          一二月二八日   関東より進献の薬種一箱、 一安 へ下賜。 ・宝暦   四年〈一七五四〉一〇月二八日   主上 ( 桃園天皇 )成長に付、 一安 等三人、来年は法印に推叙。 ・宝暦   五年〈一七五五〉五月一四日・一九日   一安 等三医、法眼から法印へ推叙の内慮を、関東へ申達。 ・    〃          六月一五日・一八日   一安 等の推叙、内慮について関東から返答。推叙の仰せを申渡。 ・    〃          一二月二七日   幕府進献の薬種、 一安 へ下賜。 ・宝暦   六年〈一七五六〉正月一三日   医師天脈拝診の輩、 法印一安 (六名の内、四番目) 、対面例の如し。 ・宝暦   七年〈一七五七〉正月一三日   診天脈、 法印一安 (六名の内、四番目) 、小御所にて天顔例の如し。

(32)

恒川了廬旧蔵書(西尾市岩瀬文庫所蔵分) 一四三 ・宝暦   八年〈一七五八〉正月十三日   法印一安 (診天脈、七名の内、四番目) 、小御所にて天顔例の如し。 ・    〃          八月二一日   生駒元説 に御匙仰付、宿番に 山科一安 (三名の内、二番目) 。 ・    〃          八月二四日   上田元三 へ 一安 と同じく十人扶持を下さる。 ・    〃          一二月二八日   関東より進献の薬種、 一安 へ下さること例の如し。 ・宝暦   九年〈一七五九〉正月一三日   診天脈、 法印一安 (六名の内、三番目) 、小御所にて対面。     〃          一二月二四日   尊寿院法眼山科泰安 (他一名) 、来春諸礼の願、 殿下 ( 近衛内前 )へ内覧。 ・宝暦一〇年〈一七六〇〉四  月 九 日・ 一 二 日   宿 番 は 是 ま で 通 り、 山 科 一 安 ( 四 名 の 内、 二 番 目 )。 一 安 ( 他 二 名 ) へ内儀より褒美(銀廿枚、巻物) 。 ・宝暦一一年〈一七六一〉正月一三日   法印一安 ( 山科元由 、七名の内、三番目) 、天脈拝診。小御所で年礼。 ・宝暦一二年〈一七六二〉正  月 一 三 日   諸 礼 例 の 如 し。 小 御 所 に 医 師 一 六 名。 診 天 脈 法 印 一 安 ( 六 番 目 )、 法 眼 泰 安 ( 山科 、一五番目) 。 ・    〃          正  月二一日   主上 、左手の逆むけをむしり、痛む。 山本恕哲 が 一安 ( 山科元由 )を同伴し て診察。 ・    〃          七  月一一日   主上 、七日より 痞 つか えがあり、 一安 、薬(香砂、養栄湯)を調進。腹、足に腫 あり。 ・    〃          一  〇月二日   諸礼、 後桜町天皇 践祚の祝儀。医師、 法印一安 ( 山科元由 、二二名の内、六 番目) 、 法眼泰安 ( 山科 、一七番目) ・宝暦一三年〈一七六三〉正  月 一 三 日   諸 礼、 対 面 な し。 医 師、 法 印 一 安 ( 山 科 元 由 、 一 五 名 の 内、 五 番 目 )、 法 眼

(33)

一四四 泰  安 ( 山科 、一二番目) 。        ※ここまで翻刻既刊 ・宝暦一四年〈一七六四〉正月一三日   天脈拝診の医師六名の名があるが、 山科一安 なし。 ・明和   二年〈一七六五〉正月一三日   天脈拝診の医師六名の名があるが、 山科一安 なし。 ・    〃          九  月一三日   山科泰安 、 武川幸順 の 親王 拝診について、 大御乳人 を通じて仰出あり。 泰安 は 一安 の倅であり、明日、神文を申付ける。 幸順 は町医であり、武辺に吟味させる。 ・    〃          九  月一四日   山科泰安 を私邸へ召寄せ、 親王 拝診の仰付を申渡す。神文は済み、血証は追 って申付ける。いつでもお召しになれると、 大御乳人 へ申入れた。 ・    〃          一  〇月八日   山科泰安 に五人扶持について申渡す。父 一安 が長年勤め、去年今年は 親王 の 眼疾に薬を調進、平癒した。父の労をねぎらい、亡くなった 上田玄三 に代わり、御匙を 仰付ける。扶持のことは 御附 へ相談し、差支えないとのこと。 ・明和   三年〈一七六六〉正月一三日   諸礼の医師、名を記さない。 ・    〃          九月二一日   山科泰安 への加増拾人扶持を、 長田越中守 へ相談し、差支えないとのこと。 ・    〃          九  月二二日   親王 の機嫌がよくなり、今日から休薬。褒美に御匙 山科泰安 へ拾人扶持加増 を仰付、休薬により 泰安 を法眼から法印にしようとしたが、父 一安 が法印で、父子同位 の先例はない。 ・明和   四年〈一七六七〉正月一三日   諸礼。医師、 泰安 (二〇名の内、九番目) 、 山科一安 なし。 ・    〃          閏  九 月 廿 八 日   山 科 一 安 は、 藤 堂 和 泉 守 娘( 清 水 谷 故 中 将 後 室 ) 病 気 の た め、 御 暇 を 願 い、明日発足、来月十日帰京予定。

(34)

恒川了廬旧蔵書(西尾市岩瀬文庫所蔵分) 一四五 ・明和   五年〈一七六八〉正  月一三日   諸礼。医師、 泰安 (朱で「春」を「泰」と正す、二五名の内、一二番目、 山 科一安 なし) 。 ・    〃          九  月一四日   山科泰安 の療治で 東宮 は全快し、元服。法印推叙は、父子同位になるため難 し く、 飛 騨 守 か ら、 関 東 よ り の 心 付 の 取 計 ら い を 求 め る と の こ と。 年 頭、 兼 胤 は 関 東 へ。 ・明和   六年〈一七六九〉正月一三日   諸礼。医師、 法眼泰安 (二四名の内、一一番目) 、 山科一安 なし。 ・    〃          二  月一七日   飛騨守 から、 山科泰安 に関東より心付百俵下されることについて申来り、書 付は 摂政殿 の御覧に入れた。 ・    〃          二月一八日   山科泰安 に、心付百俵下されることについて申渡。 ・明和   七年〈一七七〇〉正月一三日   諸礼。医師、 法眼泰安 (二三名の内、九番目) 、 山科一安 なし。 ・    〃          五  月二八日   明和二年九月一四日、 山科泰安 は 一安 の息男であり、前例もあるので、急に 拝 診 を 仰 付 け た が、 そ の 後 序 で が な く、 今 日、 請 書 の 差 出 し を 申 付 け た。 翌 二 九 日 差 出。 ・    〃          六  月八日   御扶持医師一統が、 町奉行 、 御附 役宅会釈同格について、 生駒玄珉 、 山科泰安 と同様にしてほしいと願う書付。 ・    〃          一  〇月二六日   山科辰丸 (児科)弐拾人扶持、関東より申来る。 大炊頭 から 摂政殿 へ申入 れ、大原言上。今日は忌日であり、明日、申渡す。翌二七日、父子召寄せ、申渡。 ・    〃          一  一月七日   禁裏 、 女院 、 東宮 、 准后 拝診の医師を私邸に呼び、申渡。近日、譲位、受禅

図 書 原 帳 』 に よ れ ば、 了 廬 に 関 わ る 蔵 書 群 は、 登 録 番 号 一 四 六 一 四 ― 一 四 六 二 八 の 一 五 タ イ ト ル に 集 中 し、 大 正八年〈一九一九〉一二月一七日に合併価三八〇円で購入され、松下見林旧蔵書として一括されている(【写真岩 瀬1】)。了廬旧蔵書とは記されていない。各本については後述するが、登録番号一四六二二の『和泉国日根郡鳥取郷波多宮八幡宮来由記』(一四五・九〇)のみ了廬の印が押されていないものの、岩瀬文庫に帰するまでの伝来は同じであった

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