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統一商事法典創設者の法思想

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統一商事法典創設者の法思想

野 口 明 宏

はじめに

法現実主義は、もはやアメリカ法学の優位な学派といえないものの、な おも合衆国の法的伝統において有意な役割を果たす。今日、アメリカ法現 実主義の共同創設者といわれるのは、カール・ルウェリンとジェローム・ フランクである。統一商事法典の創始者として知られるルウェリンのアメ リカ法への貢献がわずかであれば、彼の著作が実際に重要な影響を与えた ことの説明は困難になる。これまでルウェリンの学問と作品は、誰から影 響を受けたのかについて議論があった。なかでも、ルドルフ・フォン・イ ェーリングの役割は、とくに考察する意味があると思われる1 )。 本稿の目的は、統一商事法典の編纂を指導したルウェリンの法学と、そ の法思想に対するイェーリングの影響を考察することにある。ルウェリン の学問、法学を概観した上で2 )、イェーリングの法哲学を明らかにする。 アメリカ法学の理論と思想に対するドイツ法学の影響だけでなく、とくに 統一商事法典を創設した、ルウェリンの学問と著作に対するイェーリング の影響を含む、ドイツ法学の役割を検討することにしよう3 )。

1.カール・ルウェリンの法学

カール・ルウェリンがライプツィヒ大学の客員教授として4 )、「アメリカ の判例法制度」というテーマで一連の講義を行ったのは、1928年から翌29 年の間である5 )。この時期、ルウェリンがドイツへ帰還したことは、彼の 法学に対する関心を進展させる契機になったといわれる6 )。ルウェリンの 関心は、その序文に明示されており、一連の講義でアメリカ判例法の機能

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について、際立って洗練された理由を提示したと述べた。その関心は、判 決の手続と技術だけでなく、そこから抽出しうる理論に向けられた。彼は 一般的な法学の作品が、日常の訴訟手続の事実に反する前提の規則的な検 討よりも、どれくらい選択的な事例の活用にもとづいているのかを理解し ていた7 )。 ルウェリンは最初のドイツでの客員教授としての任務を成功させ、それ は彼がドイツの大学文化と生活を受容しえたことを意味する。さらに、ル ウェリンは1931年、再度ライプツィヒ大学で客員教授として講義を行うよ う求められた。この滞在期間に、ルウェリンはRecht, Rechtsleben und Gesellschaft(法、法の命、そして社会)というタイトルの作品に取り組 み始めた。この作品は、彼がドイツへの最初の訪問の間、十分に読む機会 のあった、エールリッヒの方法論を用いており、法の社会学理論を発展さ せようとするルウェリンの最初の試みが記述された。 ルウェリンのドイツへの帰還は、疑いなく彼の研究者としての職歴を前 進させ、その学問と法哲学を発展させる契機となった。ルウェリンはライ プツィヒ滞在の間、著名なドイツの研究者と緊密に接触し、その中にカン トロビッツも含まれていた8 )。また、ドイツの多くの大学で講義を行う過 程で、その講義はドイツの研究者におおむね好評であったといわれる9 )。 ルウェリンがコロンビア大学に復職すると、法学に従来の形式主義の方 法をほとんど用いなくなった。ルウェリンとフランクは、法学について社 会学的方法を主張した10 )。1929年に出版されたルウェリンの主要作品には、 現実主義哲学のより洗練された統合を促す、著名な力作が存在した。それ らは、Bramble Bush、判例・資料売買法、そして現実主義に関する若干 の論文である。このようなルウェリン法学の全体的変化は、発表された文 献と結びつき、彼をアメリカ現実主義運動の共同代表者として、また法学 界に生じた現実主義議論の重要な担い手として、その地位を強固なものと した11 )。

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このような知的変革の刺激の中で、ルウェリンは1930年代に驚異的量の 作品を発表した。彼は1931年から翌年にかけて、再度ライプツィヒに戻る 機会を得て、その機会をドイツ国内の旅行に用いただけでなく、自らを当 時の法学の発展と最新の知的議論にさらしたことは疑いない12 )。彼の知的 能力の範囲は、1930年代を迎えて真に際立ち始める。 1930年代のルウェリンは、売買法に関する一連の論文を発表し、アメリ カの州上訴裁判所の講義を行った。充実した彼の経験と、売買法に関する 統一法起草の要請があったため、1940年代までにルウェリンの努力は、主 として統一商事法典(U.C.C.)に向けられたのも不思議ではない13 )。統一 商事法典の起草という壮大な事業は、その首席報告者を務めた彼にとって、 記念すべき任務となった14 )。それでも、この間のルウェリンは、法学、法 学教育、法律専門職、そして商法に関する論文を公表し続けた。 米国現実主義運動の主要な担い手であるルウェリンは、裁判過程に対す る懐疑論者であったことに言及する価値がある。それは、彼が法をルール の制度とみなす見解に賛成しなかったからである。現実主義哲学者として のルウェリンの全盛期に、彼は事件に対してルールによって判決を下すと いう理論を拒絶した。しかし、ルウェリンルの研究生活の後半に、彼は自 己の考えを極端化することはなく、法の支配は法律制度において重要な役 割を果たすと主張した15 )。ルウェリンは1951年から1962年に死亡するまで、 シカゴ大学法学部の教授を勤めた。 彼の学問的・個人的強靱さについては、つぎのように解説される。すな わち、ルウェリンの多面性は、シカゴ大学における彼の活動範囲に反映さ れた。彼の影響は、起草技術の指示について強力であった。彼の起草技術 の指示に関する懸念は、彼の支援方針を生みだした。彼の法学教授の晩年 は、最高のものであったといわれる。教授・学生間の障壁は低くなり、教 育の独創力も大きかった。ただし、彼は自分の活動が完成したとは考えな かった。かつて有していた研究テーマ、社会における法を、その後も継続

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して自己のテーマにした16 )。ルウェリンは死亡する前に、最後の作品を出 版した17 )。しかし、予定したドイツへ戻る旅行は、実現できなかった。

2.法現実主義とカール・ルウェリン

1920、30年代の米国法現実主義の問題は、今日でも議論され、実質的、 形式的にも矛盾に満ちている。カール・ルウェリンが法現実主義者であっ たことに、ほぼ異論はない。1920年代から30年代の法現実主義は、知的な 運動ではなかった。法現実主義は、特別の方法論を示さず、体系的法学も 取り入れていなかった18 )。 そのかわり、法現実主義は、その社会科学性を強調し、これは第一次大 戦前の革新主義による法社会学の延長といいうるであろう。法社会学は、 二十世紀初期の伝統的法思想に直接挑戦した。このような連続性にもかか わらず、法現実主義を明白に知的見解と考えるには、かなりの差違が存在 する19 )。 ところが、取組み方は違っても、すべての法現実主義者は、現実を知ら ずに成立するのが法律と理解する、一つの基本的前提を共有した20 )。伝統 的法思想への攻撃は、法現実主義から矛盾した反応を生みだした。これら 矛盾の結果として、法現実主義の二つの要素、一方で批判主義、他方で改 革主義が生じた21 )。 法現実主義の一連の批判は、法に関する伝統的法思想の概念と法理論に 対する挑戦であった22 )。伝統的法思想は、法と政策の厳格な区別を引き出 し、法を自律的であるものと扱った。法現実主義者は、自由市場の組織的 解体と、財産権と契約上の権利の形態をとる純粋な私法の統一性に挑戦し て、社会における権利と財産の創設と分配の偏った状態を暴露した23 )。こ のように、法現実主義者は、法が中立不偏、自然で非政治的という古い法 秩序の主張を明らかにし、伝統的法思想の志向する政治的保守性を暴露し ようとした24 )。それゆえ、法現実主義の一連の批評は、ある程度権力の批

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判であった。つまり、法、表面的には自由な市場、そして社会全体に組み 込まれて表面には現れない権力の批判であった。 法現実主義の一連の改革論者は、生ける法を確定する、つまり法の個人 や団体に対する影響について、社会における実際の機能の仕方を見いだそ うとした25 )。法現実主義者は、法を現実と接触する状態に戻すために、法 に社会との関係を正しく反映させることが必要と考えた。法現実主義者は、 この任務を果たすために、自然主義を採用した。これは、自然科学の実証 的方法を用いて、確実かつ継続的ならしめるための法理論の構成を要求す る方法論である26 )。 法現実主義者は、この方法に従って、社会の現実を正確に説明する一連 の社会科学の研究を発展させ、まとめようとした。こうして法制度は、よ り複雑な社会の現実をうまく反映するだけでなく、それにうまく対処しう ることになる27 )。この企ては本質的に、非規範的であった。換言すれば、 「ある」は、意識的に「あるべき」から区別された28 )。それゆえ、法理論 の目的は、事実を特定して説明するだけであり、発見された社会の現実を 正当化するものではなかった。 ルウェリンは、議論はあるものの、法現実主義の重要人物であろう。歴 史上の実際の地位に関係なく、ルウェリンが生ける法を探究し、もしくは 一連の改革主義者であったことは、間違いないようである29 )。このことを 最もよく反映するのは、ルウェリン自身の作品であろう。この点を明らか にするため、いくつか事例を示さねばならない。 たとえば、ルウェリンは、すべての法的状況の研究の焦点が、関係する 問題のより明確な視覚化で、言葉の強調を減少させる方向へ、または観察 できる行為の強調を増加させる方向へ移動するように、変動しているとし た30 )。つぎにルウェリンは、法のある部分について、将来行わねばならな いことの判断は、法のその部分が現在効力を有することを、できるだけ客 観的に理解しなければ、知的に行いえないという。効力のない法は、その

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重要性が皆無に近づくであろうとルウェリンは続けた。法の効力を知らな いことは、その重要性を知らないことを意味する。法の効力の及ぶ者を研 究せずに、その効力を理解することは、不可能であるとした31 )。 このように、ルウェリンを法現実主義の範囲内に位置づけるのが素直と いわれる。統一商事法典は、アメリカ法における法現実主義運動の開花で あると評され32 )、同法典の首席報告者としてのルウェリンは、その主要な 創設者であった33 )。統一商事法典の起草全体に対するルウェリンの貢献に もかかわらず、彼を最も有名にしたのは、おそらく商品の売買に適用され る同法典第二編の起草であろう。ルウェリンによる生ける法の探究は、統 一商事法典第二編全体にわたって示された34 )。

3.ドイツ法学のアメリカによる継受

自由法運動に関係したイェーリングを含むドイツ法学者は、アメリカ法 学と、現実主義学派に重大な影響を与えた。これは、19世紀の法学上の発 見すべてが、ドイツでなされ、またドイツがヨーロッパ諸国ですぐれた法 学者を輩出してきたことを認めれば、意外とはいえない35 )。 イェーリングが自らの法哲学を発展させていたとき、米国とドイツの法 的事情は、かなり類似していた。そのため、アメリカによるドイツ法学の 継受は、著しく容易であった36 )。まず、合衆国がイギリスのコモン・ロー を、民主主義にもとづき次第に工業化する国の必要に適合させる方法を模 索していた時、ドイツではローマ法を新しい統一国家に適用することに苦 慮していた。この時期のドイツ法学は、歴史法学派に支配されていた。他 方のアメリカ法学を特徴づけていたのは、かすかに立憲主義に偽装された、 17、18世紀の自然権の哲学である。 結局アメリカも、法的概念の厳格さと戦いながら、現実を無視し、また 疑似理論的解釈の方法によって抽象的概念を適用し、巨大な社会的、政治 的、そして経済的利益に関係する問題を解決することを重視した。このこ

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とは、法律専門書とリステイトメントに明らかであった。これがドイツ民 法典(BGB)のような機能を果たす際の、極端な形態の実証主義的法哲学 の実例であった37 )。 このように類似するドイツと米国の法的事情から、ドイツの法学者が明 瞭に表現した革命的概念を、アメリカの法律専門家が熱心に受容し、かつ 推進することになった。当時の法体系に対する反感の多くは、イェーリン グに影響を与えた。その影響は、著名な法学者の間に広まっていく。たと えば、オリバー・ホームズ38 )、ロスコー・パウンド、その他現実主義者に 属する人々に拡大した。このような状況は、ルウェリンがイェーリングと ドイツ法学から大いに影響を受けたことを示唆する。

4.ドイツの自由法運動

ドイツ自由法運動の背後にある考えを理解することは、その運動の米国 現実主義運動への影響を明らかするために意味がある。自由法運動は主に、 指導的な法学派の無力と、裁判官が指針を得ようとする問題に適切に取り 組むべき民法典の懈怠から発生する。それはとくに実定法が不明確か、も しくは事件が提起する問題を扱うように見えない場合の反応であった39 )。 法典編纂時に、支配的学派の主要な法学者は、ローマ法について裁判官が 知る必要のあるすべては、民法典に含まれる、もしくは民法典から直ちに、 あるいは民法典の術語にもとづく黙示の概念から、導き出しうることで満 足していた。イェーリングは、裁判官に提起される可能性のある事件に、 法律がその組織的統一性によって、回答を提供することに懐疑的な、自由 法運動の最初の法学者であった40 )。 自由法学者として著名なフランスのジェニーは、イェーリングの懐疑論 を解説して、フランスにおけるドイツ法理論の実際的影響を評価すること は難しいと結論づけた41 )。それはむしろ、客観的な社会のデータ、つまり 社会の現実、社会の必要性、社会的価値、そして事物の本性から得られる。

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また彼は、このような意思決定方法が何ら新しいものでないことを認めた。 裁判所は常にそれを実行してきた。これは法学が、判決の創造的側面を認 める場合であった42 )。 社会的要因を重視する他の事例は、エールリッヒによる自由な法の発見 と自由法学である43 )。エールリッヒの著作は、行われた幅広い法典編纂を 非難して、法律家の専門的方法を攻撃した。そして法学はその注意を概念 を駆使した曲芸から、社会的場面における法の施行の研究へと向けるべき ことを提唱した。その上、カントロヴィッツは、「法学のための闘い」44 )に おいて、妥当な法律上の思考に関する支配的概念を攻撃し、古い哲学的分 析形態を打ち壊すための新しい運動を要求し、正義に貢献する急進的方法 を構築した。その研究は、自由法運動の多くのテーマに取り組み、その運 動に名称も付与した。 カントロヴィッツによれば、自由法運動の主要な見解は、つぎのことを 要求する。法制度には、論理構成の構築者でなく、心理学、および社会学 的要因を認識する訓練を受けて、人々の法的意識を共有する裁判官が必要 である。法の執行は、自由に法を発動する用意があり、その教育が職務に 適合する、裁判官の手中に置かれねばならない。裁判官の教育には、政治 学、経済学、応用心理学、哲学、そして犯罪学が包含されるであろう45 )。 ロスコー・パウンドは、その米国現実主義に対する影響に着目しつつ、 自由法運動の観念をアメリカ法学に導入することに熱心であった46 )。パウ ンドは、自由法学の文献を研究して、書かれた法と実際の法を区別し、生 ける法の概念をさらに詳述した。パウンドは、法が作成されるのか、見い だされるのかの議論を取り入れながら、目的のための手段としてイェーリ ングの法の概念に頼る場合に、パウンドに対するイェーリングの直接の影 響について、若干の証拠をあげることができる47 )。 合衆国の現実主義は、1927年のハーマン・オリファントの講演が発端と いわれる。この講演は、法学研究者が形式主義のバリケードを襲撃し、そ

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の学問に新しい息吹と現実主義を吹き込む行為を要請するものであった48 )。 ところが、米国法学研究者の多くは、ドイツ語に熟達していなかった。そ の上、ドイツの学説の引用は、すでにその理論がパウンドやルウェリンの 作品に取り込まれていたことから、回避された49 )。のみならず、当時パウ ンドの引用は、頻繁に行われなかった。なぜなら、同時代の人の目には、 パウウドを反現実主義者の配役に置いて、即時の効果を発揮させ、ルウェ リンとの学問的議論は、その運動が合衆国で流行する頃には、パウンド自 身の思想が現実主義以上に進展したからである50 )。

5.ドイツ法学からの撤退

アメリカ現実主義に関する解説は、現実主義理論が他の米国現実主義者 に起因すると考えていた。これは、当時の反ドイツ気運の反映か、もしく はその考えの米国現実主義への受容であろう51 )。 イェーリングへの尊敬の欠如は、とくにルウェリンルの後期の著作に見 られる。その知的発展に関する自伝的記述は、ルウェリンのドイツとの関 係にほとんど重点を置いていない。このことは、アメリカ法社会学の多く が、19世紀のドイツ法学者の思想を理解していたことを示している52 )。ル ウェリンルによるドイツ法の受容と、ドイツ法学者の作品の理解は、彼が ドイツの強い影響を認識していた証拠の役割を果たすといえよう。 1930年代までのルウェリンがドイツの学問の影響を受けなかったのは、 疑わしい。メクレンブルクでのルウェリンルの年月は、充実して、活気に 満ちていた。その場所で、思考を発展させる多くの機会を得たであろう。 ルウェリンの法学者としての若い時代に、イェーリングの影響を受けな かったと提唱してみても、ルウェリンルの行った大きい貢献を高めない。 おそらく、ルウェリンルは潜在的に、ドイツの影響を否定するであろう。 なぜなら彼は、ドイツ法学がどの程度自己の学問に組み込まれたのかを意 識しなかったからである。またはおそらく、ルウェリンルは、彼の経歴に

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対するマイナスの影響を恐れて、意識的にドイツの影響を排除したであろ う。 その上、ルウェリンルが当時の主要なドイツの状況、とくにイェーリン グの法理論に関係する状況から、遮断されていたと考える余地はほとんど ない。まず、ルウェリンは、概念法学に対するイェーリングの改革運動の 影響を受けた。ルウェリンの概念法学に対する反感は、伝説になっており、 実際の問題を解決するための絶妙な概念の使用に反対する彼の運動は、イ ェーリングの闘いを想起させる。イェーリングは彼の法学上の作業を、見 えない概念でなく、目的によって行われる、錬金術師の作業に類似すると みた。そのため、法律の生命は経験と論理であると指摘して、法律は機能 的でなければならないとイェーリングは主張した53 )。 つぎに、ルウェリンは、イェーリングと類似した考え、つまり目的にか なった解釈の促進を詳述した。ルウェリンは、目的法学の代表的提唱者で あるイェーリングに関する彼の研究を通じて、目的にかなった解釈につい て学んだ。その結果、法律の文言は相対的で絶対的でないので、その場面 に応じて文言を解釈しなければならない、とルウェリンは考えた。法学者 は、社会生活の結果をあらかじめ選択するための手段が法律で、それは通 常の意味と語法との関係だけでは適切に解釈しえないという見解を支持し た54 )。 第三に、裁判の機能に関するルウェリンの見解は、イェーリングの哲学 と同じであった。ルウェリンの著作は、法律を裁判所が実際に行うことの 予測にすぎないと強調した。そのかわり、法律行為はより科学的にルール を適用し、裁判官の法創造過程は法学者によって研究されるべきであると した。これらの結論を引き出すために、ルウェリンは、潜在的な法的ルー ルと法的擬制の範囲に関するイェーリングの見解に依存した55 )。 最後に、イェーリングの発想は、大陸法の知識を有する法律家にはその 特性を理解しうるものであり、ほとんど統一商事法典の中に見られる。そ

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の上、州際通商委員会から労働関係委員会まで、審議会や委員会のような、 現代アメリカの行政機関の発展は、その多くをイェーリングの目的と利益 に関する理論に負っている。ルウェリンは、ある意味で特定の社会目的を 達成する、もしくは特定の社会的濫用を是正する統一商事法典を考案した。 しかし、統一商事法典はこれらの任務を、従来の法制度の技術と手続すべ てを遵守せずに実現することを目的とする56 )。 たとえば、統一商事法典2-615条が定める前提条件欠缺の理論は、イェ ーリングの述べた場面にもとづいている。統一商事法典を起草した時、ル ウェリンはこの前提を知っていたと結論づけることができよう。なぜなら 彼は、その理論が活発に議論されていた当時のドイツで、客員教授の地位 にあったからである57 )。

むすび

ルドルフ・フォン・イェーリングは、米国の法現実主義を直接促進する 自由法運動を刺激した、最初のドイツ法学者である。カール・ルウェリン は、法現実主義運動のリーダーとして、法を解釈する可能な方法を定義し 直す上で、重要な役割を果たした。上述したアメリカの法現実主義運動に 対するイェーリングとルウェリンの影響は、重要で意義深いものがある。 ドイツの法学者、なかでもイェーリングのルウェリンに対する影響は、と くに大きいものであった。なぜなら、ルウェリンは個人的に、ドイツとそ の文化に緊密なつながりを有していたからである。ルウェリンの著した法 学の作品と、ドイツとの不断の交流は、彼のドイツ法社会の容認を助長し た。 アメリカとドイツの法現実主義運動は、アドルフ・ヒトラーと国家社会 主義の台頭による反ドイツ気運の高揚にもかかわらず、類似性を共有して いた。このような展開は、ドイツ法学と米国法現実主義の関連性に意図的 な遮断をもたらした。しかし、イェーリングと他のドイツ法学者は、疑い

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なく今日の米国法現実主義と称されるものを具体化し、それを刺激する役 割を果たしたといえよう。 1)ルドルフ・フォン・イェーリングの作品は、カール・ルウェリンを始め、 オリバー・ホームズJr.とロスコー・パウンドのような、米国の法学者に読ま れており、イェーリングはアメリカの現実主義法学にかなり貢献した。1881 年、イェーリングは友人に、つぎのような書簡を送った。その内容は、私の 作品が合衆国においてさえ広く読まれている。私の著書「法における目的」 の批評は、これまで私の作品に書かれた中で、最もすばらしいものとした。 ホームズが法の生命は理論でなく経験であると述べた時、彼は部分的にイェ ーリングの作品の影響を受けていた。イェーリングが法の概念は、生命を要 求しないと書いたが、それよりも、生命が法の概念を作り上げたのである。 法は論理、まさに生命、取引、正しい要求の感覚を反映せねばならないと、 イェーリングは断言した。See R. SUMMERS, ESSAYS IN LEGAL THEORY 21 (2000).

2)カール・ルウェリンの法哲学を特徴づけたのは、つぎの三つの革新である。 ①裁判官の意見以外の資料を考慮するための、判例集の焦点拡大、法学部の 主要な教育方法、②社会の政策を決定する、裁判官を含む、法的機関が判決 を行う範囲の強調、そして③個々の事件と、法的分析の一般理論との関係の 転換である。See G. WHITE, TORTLAW IN AMERICA: AN INTELLECTUAL

HISTORY72(2003).

3)See W. TWINING, KARL LLEWELLYN AND THE REALIST MOVEMENT 302 (1985).統一商事法典とアメリカ法律協会編纂のリステイトメントは、ドイ ツ法学の所産であったとされる。See Whitman, Commercial Law and the American Volk: A Note on Llewellyn,s German Sources for the Uniform Commercial Code, 97 YALEL. J. 156(1987).

4)See B. LEITER, NATURALIZINGJURISPRUDENCE31, 34(2007).しかし、ルウ ェリンと現実主義者が自然科学を法学と結びつけたという主張には、疑問も 提起される。See W. TWINING,supra note 3, at 140.

5)この講義 Prajudizienrecht und Rechtsprechung in Amerikaは、五年後に 出版され、1989年にTHE CASE LAW SYSTEM IN AMERICAというタイトルで 英語にも翻訳された。

6)See W. TWINING,supra note 3, at 106. 7)See Id.

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8)ルウェリンは、とくにカントロヴィツが1899年に書いたジェニーの方法論 について、フランス法の伝統に対するコモン・ローの重要性を強調している ことを理由に、賞賛した。See K. LLEWELLYN, THECOMMONLAWTRADITION: DECIDINGAPPEALS422(1960).

9)See W. TWINING,supra note 3, at 108.

10)米国現実主義を代表するのは、カール・ルウェリンとジェローム・フラン クである。彼らは法を社会科学と捉えた。社会学、経済学、心理学、そして 哲学は彼らの指針であろう。現実の社会が彼らの実験室であった。実用主義 が彼らの哲学であった。See D. MILOVANOVIC, AN INTRODUCTION TO THE

SOCIOLOGY OFLAW109(2002).

11)See W. TWINING,supra note 3, at 108-109. 12)Id., at 110. 13)この起草事業は、売買法を改正し、契約事項を効果的に考慮しうるように、 同法を契約法と統合して、それを州全体で統一させる統一商事法典の制定を 意図した。 14)ルウェリンは、アメリカの法律家が商法の法典化をほとんど不可能と考え ているのを知っていた。それゆえ、出来のよい法典を起草する役割、もしく は棚の上のホコリを集めない役割は、起草者が立法機関におけるその役割と、 裁判所と立法府の立法との適切なバランスを、理解しなければならないこと を意味した。See Herman, The Fate and the Future of Codification in America, 40 AM. J. LEGAL. HIST. 407, 429(1996).

15)See K. LLEWELLYN AND S. SHEPPARD, THE BRANBLE BUSH: THECLASSIC

LECTURES ONTHELAW ANDLAWSCHOOL20(2008). 16)W. TWINING,supra note 3, at 113.

17)最後の作品、THECOMMON LAW TRADITION: DECIDING APPEALSの中心テ ーマは、つぎのようである。つまりアメリカ法制度の合理的観察者は、上訴 事件を判決する過程が、唯一の正解を求める問題にすぎないことを示唆して いない。それでも、裁判手続が、二つ以上の可能な結果の選択可能性に関係 するという認識は、さらなる窮屈な審理の原因となる。時に唯一の正解が存 在せず、そのため、裁判の創造性を受け入れねばならないとすれば、法律家 のかつての不変の事実の規準、先例の拘束力はどうなるのか。その場合、法 律家は予測性について、何を提供できるのかであった。

18)See M. HORWITZ, THETRANSFORMATION OFAMERICANLAW,1870-1960, at 169, 170(1992).

19)たとえば、法現実主義の課題は、法律、行政の変更に集中したのに対して、 進歩的改革主義者はその課題を、裁判に集中させた。M. HORWITZ, id., at 170.

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21)See Id., at 209.

22)See N. DUXBURY, PATTERNS OFAMERICANJURISPRUDENCE3, 10-32(1995). 法現実主義者は法形式主義について、法を形式上相互に関係する一連の基礎 理論と理解する。

23)See Hale, Law Making By Unofficial Minorities, 20 COLUM. L. REV. 451 (1920).

24)See M. HORWITZ, supra note 18, at 201. 19世紀の裁判所がその中心に置い ていたのは、自由競争という世界観への忠誠であったという。

25)Id., at 210.

26)現実主義法学は、適切に機能主義と呼ばれる。しかし、生ける法の問題に 取組むには、反対の見解や異なる方法も存在した。See N. DUXBURY, supra note 22, at 80-81.

27)法現実主義のこの側面を、リーターは実用主義と呼んでいる。See B. LEITER, supra note 4, at 30-31, 52; M. HORWITZ,supra note 18, at 209.

28)ホーウィッツは、ルウェリンが「ある」を「あるべき」から分離する意図を 有していたことを強調する。See Id., at 209.

29)See Wiseman, The Limits of Vision: Karl Llewellyn and the Merchant Rules, 100 HARV. L. REV. 465, 470, 471, 493(1987).

30)Llewellyn, A Realistic Jurisprudence-The Next Step, 30 COLUM. L. REV. 431, 464(1930).

31)Llewellyn, Some Realism about Realism-Responding to Dean Pound, 44 HARV. L. REV. 1222, 1249(1930).

32)See Maggs, Karl Llewellyn,s Fading Imprint on the Jurisprudence of the Uniform Commercial Code, 71 U COL. L REV. 541, 542-44(2000).

33)See W. TWINING,supra note 3, at 367.

34)See Wiseman, supra note 29, at 493-94, 504, 509-19.

35)Herget & Wallace, The German Free Law Movement as the Source of American Legal Realism, 73 VA. L. REV. 399, 402(1987).

36)Seagle,Rudolf von Jhering: Or Law as a Means to an End, 13 CHI. L. REV. 71, 87(1945).

37)ドイツ民法典(BGB)は、1900年 1 月 1 日に効力を生じ、わが国など他の ローマ法域の指針の役目を果たした。See Herget & Wallace, supra note 35, at 429-30.

38)ホームズは、イェーリングとの共通認識、つまりつぎのような二つの顕著 な類似点を有していた。社会における絶え間ない闘いの結果としての法の理 解、社会学的な法理論の観察は、お互いに調和した。R. GORDON, THELEGACY OFOLIVERWENDELLHOLMES, JR. 102(1992).

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40)See Id. at 407.

41)ジェニーの法理論は、法学方法論の問題に取り組み、ヨーロッパ中の制定 法の発展に影響を与えた。See R. DAVID & J. BRIERLEY, MAJOR LEGAL

SYSTEMS INTHEWORLDTODAY107(1978). 42)Herget & Wallace,supra note 35, at 410-11.

43)ユージン・エールリッヒは、E. EHLRICH ET AL., FUNDAMENTALPRINCIPLES OF THE SOCIOLOGY OF LAW(2001)で、イギリスの法学について詳述し、 イギリスの法適用の方法は、実際上自由な法の発見であると結論づけた。本 書によってエールリッヒは、新しい事件が裁判所に持ち込まれると、事件の 事実関係は、法的資料と関係なく、それ自体判決に影響しうるとした。 44)ヘルマン・カントロビィッツの論文、Der Kampf um die

Rechtswissen-schaft は、正義を執行する際の、社会的事情を考慮する能力について、イギ リスの裁判所を理想的と評価する、急進的作品であった。これは、裁判所の 行動主義を促進することを意味した。なぜなら、裁判官は、その適用が彼に 不適切、もしくは不適当と思われる場合に、とにかく法律を適用しない権利、 実際上は義務を負ったからである。See M. CROSBY, THE MAKING OF A GERMANCONSTITUTION59(2008).

45)Herget & Wallace,supra note 35, at 414.

46)See N. HULL, ROSCOE POUND ANDKARLLLEWELLYN: SEARCHING FOR AN

AMERICANJURISPRUDENCE224(1997).

47)See R.VONJHERING ANDI. HUSIK, LAW ASA MEANS TOANEND(1913). 48)See Herget & Wallace, supra note 35, at 431.

49)See N. HULL,supra note 46.

50)See Herget & Wallace, supra note 35, at 433.

51)See Wynns and Whitman, Rudolf von Jhering,s Influence on Karl LLEWELLYN, SSRN Working Paper 2010, at 23.

52)See W. TWINING,supra note 3, at 108.

53)See Herman, Llewellyn the Civilian: Speculations on the Contribution of Continental Experience to the Uniform Commercial Code, 56 TUL. L. REV. 1162, 1163(1982).

54)See Wynns and Whitman, supra note 51, at 25.

55)Zweigert & Siehr,Jhering,s Influence on the Development of Comparative Legal Method, 19 AM. J. COMP. L. 215, 227(1971).

56)See Seagle, supra note 36, at 88.

57)See Riesenfeld, The Influence of German Legal Theory on American Law: The Heritage of Savigny and His Disciples, 37 AM. J. COMP. L. 1, 4 (1989).

参照

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