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プラマーナ・ミーマーンサーの意味 -- Pm.1.1.5~1.1.27を中心にして --

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マーンサーの壼頤の寺 立場を検討したい。 この小論は、ジャイナ学僧へ−マチャンドラ︵国①日四○餌目国・P・ロ.呂用︲旨ご︶による論理学害勺国目目四日胃日か目困 を中心にして、ジャイナ論理学を明らかにするために発表した一連の拙稿︵印度学佛教学研究十四’二、十六’二・ 大谷学報四五’一、四八’一、四九’四︶に続くものである。︸﹂こでは、この論理学害の題名に用いられている、、、− マーンサーの語の意味とプラマーナ︵量︶の定義をとりあげ、この論理学書の性格及びヘーマチャンドラの論理学的 くわしく論ずる。 勺国目鯉口色白員国騨ョ鼠︵以下国己、︶第一経は、四津国甘沙日騨国勢白目国日出︵さて、量の考察︶という短い言葉から成り、 それに加えられた胃己畠則自沙︵論︶では、まず四昏騨を説明し、つづいて冒酌目曽“日日︺蝕昌函.という言葉の意味を まず、頁四目国目という言葉を①q日巳○閏によって、次のように分析する。︵冒呂×︶冒四︵優れたはたらきにょっ

プラマーナ・ミーマーンサーの意味

■ ■ ■ ■

l宅白.﹂﹄印I農岸目を中心にしてI

法潤

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て、すなわち箇昌殴冒疑惑、四口目ご抄ご閉葛四不決断、ぐぢ胃冒冒顛倒を断ずることによって︶+く日倒︵別する︶ 十︵呂鄙x︶四目道具。したがって、胃四目倒偲とは、﹁疑惑等を断ずることによって、ものの真理を識別する最も力 のある道具﹂である。胃騨日脚目の定義は、第二経でなされるので、ここではとりあえず①ご日○ざ四○己な意味のみ にとどめ、次に目H冒騨日出について述舎へる。 日﹄日脚目3とは、﹁標説へ定義、観察というかたちによって主題を考察すること﹂であり、この語のもつ審察、熟 考、研究の意味による解釈である。諭書を書く場合の進め方には三種あって、標説︵ロ&の蟹︶とは﹁名のみ挙げるこ とである。︵目日昌胃冨目鼻凰冨Hま四目山日︶﹂定義︵巨窃凹冨︶とは、﹁列挙されたものの特殊な性格を述令へることであ る。︵且昌淫閉颪の且厨国ロ四目胃日四ぐP3口四目︶﹂それには一般的な定義と特殊な定義とがある。観察令自民笛︶とは、 ﹁定義されたものにとって、これはかくの如くであり、さにあらず、と論理的に観察することである。︵匿爾詳塑遇四 己四目詳冨目ずぽ四ぐゅはロ①昏四白昼画蔚﹃鼻息も目鼻魁目日︶﹂と述寒へている。︲ ところで諭耆を書く場合の進め方にロ&の$︾匿厨目色︾冒国廓騨の三種を認めるのは、へIマチャンドラにかぎらず、 他の論理学害にも見出される伝統的な考え方であり、すでにz箇旦号目遇い色畠.巴に見られる。さらにZ制冒Ⅱ P ぐ胃詳時四白身ご色目餌ご四国や園①雷己伊日詠国の目四烏号目閏にも言及され、その内容は全く同じであるが、目肖冨Ⅱ J c 弓厨協に語られている定義︵]農囲冒︶の部分は、へIマチャンドラのそれに、一つ一つの言葉まで類似している。へ 1マチャンドラは、この部分の説明に関しては、正理学派の伝統によっていることは明らかである。したがって、ミ ーマーンサーとは、論理学の伝統的方法論による研究という意味になる。 以上は、本来もつ﹁審察・研究﹂の意味をふまえてミーマーンサーの意味を解釈したものであるが、次に、ミーマ ーンサーには、それだけではなく、独特の意味が含まれているために、あえてこの語を用いたことを明らかにする。 ﹁さらに、日割日脚目鼠の語は敬虚なる考察含暑菌ぐぢ胃璽︶の意味である。それによって、量︵冒曾日勤g︶のみの 16

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すなわち、ミーマーンサーの語は冨茸蟄凰8国︵敬虐なる考察︶の意味であると解釈しているが、何故にそのよ うな意味になるのであろうか。それは、プラマーナの考察のみならず、ナャの考察も含まれ、ウマースヴァーティが 目曾#ぐ胃昏邑冒悪日閉昇国で説くように、それら二者の認識方法によって証得︵且冨盟目塑︶が可能であるからであ る。証得とは、教授をまって→ジャイナの七諦すなわち活命︵弓幽︶∼非命︵各くい︶、漏︵剖国ぐ四︶、縛︵g且冨︶、 遮︵閏昌ぐ肖四︶、減︵ロ其凹風︶、解脱︵go厨四︶を認識することである。したがってミーマーンサーの語が目芦画風○胃四 の意味であるのは、まず第一に、プラマーナとナャとを考察することによって→ジャイナの真理の認識に結びつくた め、単なる考察ではなく、冨茸凹急3国であると理解することができる。 、、、−マーンサーが冨芦②くぎ胃四である理由を、さらに次のように記している。

③④

﹁さらに、全人類の目的において最上なるものである解脱︵目。肩曾︶I︵解脱への︶方法と︵その︶反対ととも にIの︹考察もこの論に言及されている。︺このように︵ミーマーンサーは︶敬戻なる考察である。けだし量 のみの考察は、反対主張を否定する結果になり、単なる論争になるであろう。それ︵量の考察のみ︶を論じよう ⑤ と意図するならば、︵冒閨目冒日日国日出のかわりに︶﹃さて量の観察︵塑曽色目騨目騨箇冨邑︽笛︶﹂ということが 正になされるであろう。﹂弓日皀・].e つまり、ミーマーンサーという語には、人間にとって量も重要な解脱の考察が含まれ、反対論者の主張を否定した り、他の学派との論争を目的とする冨邑容笛とは異質の意味を含む。そこで結論として、 考察がここにおいて︵この論害に︶言及されておらず、その︵量の︶一部となっていて、間違った旨皇国を減す る方法によって清められた道を具えた諸のロミ四︵部分的観察法︶の︵考察︶も︹この論において言及されてお ② り︺、﹃証得︵且巨盟昌四︶は胃色目煙園と冒畠四より︵生ずる︶﹄と尊く胃四富︵ご目閉く脚gが言う︹のがそれ で生める︺。﹂︹弔日.胃.]・臼 17

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﹁量とロミ色とによって、対象を認識する道と、︵解脱への︶方法、その反対︵輪廻︶とを含めて、解脱を語ろ うとするために、日割日画日出の語がアーチャールヤによって用いられたのである。﹂弓目.]巳&︺ と説いている。すなわち量とヤナとによって、どのようにジャイナの真理を認識するかという問題、解脱に至るべき 道、解脱を得ていない霊魂、すなわち輪廻の状態を論ずるとともに、解脱を明らかにするためにミーマーンサーの語 を用いたのである。したがって勺日.は、単に論理学害に終るのではなく、解脱の問題、それに至る道、ジャィナの 輪廻の世界を説く一大宗教書である、へきである。その場合、ウマースヴァーティの目鼻ざ胃昏目巨盟冒凹呂茸騨が、 解脱と、その至る道、輪廻を論じて、ジャイナの実践哲学を説いていることを、一つの例と考えていたのであろう。 ウマースヴァーティの学説と結びつけてミーマーンサーの語を解釈していることによって、充分に裏づけられうる。 ところで現存するも9.では、その目的が遂行されているであろうか。論理学の問題のみで終り、解脱の問題には 何も言及されていない。さらにへIマチャンドラのいだいていた輪廻の世界観についても述、へられていない。固日.の ⑥ 現存している部分は、構想した全体の三分の一程度である。おそらく現存しない部分で、この問題を論じようと考え ていたのであろう。残念ながらヘーマチャンドラが考えたミーマーンサーの意味が、現存するこの論害において、充 分に論じ尽されていないことになる。 ところでミーマーンサーの語を単なる考察とか研究の範囲をこえて、肩茸騨ぐ旨胃Pであると解釈したのは、へ1マ チャンドラの独創ではなく、すでにぐ帥○騨名胃﹄自陣餌が同じような解釈を与えているのが注目される。 ﹁目自画日出の語は敬戻なる考察︵冒茸沙凰o胃騨︶ということである。考察が敬度であるということは、人間の最 ⑦ 高の目的の原因となる、最も妙なる目的の決定を結果とするものである。﹂ 人間の最高の目的とは、言うまでもなく解脱であるが、それに結びつく、すぐれた目的の決定をもたらすものが 冨茸騨急o胃Pである。したがってヘーマチャンドラは、ヴァーチャス。︿ティのこの解釈をもとにして、自分の解釈 18

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ところで、、、−マーンサーなる語を冒冒騨昌o胃四敬度なる考察、すなわち宗教的な考察であると解釈するに至った 理由を明らかにする前に、この語の用法について述、へておきたい。この語は、すでにブラーフマナで用いられ、祭式 の実行についての論議を意味した。ブラーフマナの祭事篇︵冒篇目色︲厨且P︶に記す祭祀に関する規定が、時代ととも に矛盾や相違が生じ、不明瞭となったので、その規定を整理し、明らかにする専門的な研究が行なわれ、これをミー マーンサーと呼んでいた。したがって、祭事篇の研究を属目目色︲目目昌幽冒閏︸甸胃く段‘目]昌劉日出という。同様に、ブ ラーフマナの知篇︵官目P︲厨且秒︶の研究も行なわれ、それを百圏四︲口巨自習菌四国倖四国︲目]日曽冨困とか国肖昌昌四︲ 胃冒冒曽ご閏という。このようにミーマーンサーは、討究→研究、審察を意味する語であり、畠ご囚とか3尉冨と同 義に用いられていたが、次第に後世のミーマーンサー学派の基礎となる祭式の研究に用いられるようになった。 本来ミーマーンサーの語は、審察とか熟考の意味であるが、属目目四︲日﹄目倒日出とか百胄国︲目白脚日出と呼ばれる 段階においては、少なくとも世俗的な討究とか審察ではなく、宗教的色彩をおびた審察を意味したはずである。祭式 の研究にもっぱら用いられるにしたがって、その語は、宗教的審察に用いられる傾向が強まったのではなかろうか。 ちなみに、目日曽儲脚は、パーリ語ではぐ日日四目の脚であり、単独で使用されている場合もく目5日の四︲罠&]巷乱騨︵観 ⑧ 神足︶、臼白煙日田︲$目且旨︵観三味︶などの合成語の場合も、世間的な審察の意味では用いられていない。時代がさ ⑨ がるが、出目g凰国の曾曾留冨︲冒曾富国目には、ジャイナにおけるヨーガの実修について論じている。まずヨー ガ実修の過程において次第に除かれるべき心の諸作用について述べ、最終的に真理を体得するために必要な八つの智 ︵且ぐ①麗々三国儲騨︾2閏巨吻騨︾の国ぐ眉四︾ず8豈騨︾日日︺解目留﹀己閏]皆目曰四宮呉巷胃冨冒煙ぐ胃らを教えている。これらの 11l、、I!、 智は、ヨーガの実修によって煩悩を減したところにひらける清浄な智ともいうべきものであり、ミー一、1ンサーもそ の中に含まれている。したがって、ミーマーンサーの語は、一方では世間的な審察とか研究の意味にも用いられたの を行なったことが明らかである。 19

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であろうが$他方では出世間的な審察とか宗教的考察という意味に用いられたことが明らかである。ヴァーチャス・ハ ティは、後者の意味を冒茸ma33と解釈したのである。ヘーマチャンドラは、世間的なミーマーンサーの意味を 最初に述べ、次に出世間的なミーマーンサーは、ヴァーチャスパティの解釈を採用し、思想的には、ウマースヴァー ティの所説によりながら、ジャイナの解脱の研究であると解釈した。 すでに国ご畠皇&では、量の語源による定義がなされたが︲インド論理学者がそれぞれその学派の立場に立っ て量の定義をしてきたように、ヘーマチャンドラもその定義を与える。 ﹁量とは対象の正しい決定知︵函・日冨冨吋昏画三﹃g冒︶である。﹂弓ョ.m・日 ⑨ ③ ⑦ ⑥ ⑤ ④ ③ ② ① 訂 一 拙稿ン望畠罰・昌馬胃自煙・”日目四目”鯉Iど昌国8.5]: 勺H,P目自漏名騨国一ぷ脚や]. 輪廻の状態を意味する。 冒胃目号冨幽時3は﹁頭に灌頂を施せる﹂という意味であるが、ここでは﹁最上なるもの﹂という和訳を試みた。 目湧#ご画再毎脚Q巨函餉日凹め。茸、一房つ 魚且肉号ロ脚箇ず﹃嵐①殴昇﹃自己小国︼&・ず冒冨z白ハロ房閏ロ勗○1の回曾]国○○丙鈩鴨口目、弓○○国四︾ら認︾も.]・ 国︸勧冒P画︵つい己 のz弓.腸Ppz胃目.弓.隠騨シz]・篭︶陪司局員.召.置會ぐ.腱、g︺い路①首. 、昼農、身騨︲冒・④歸胃四コ四a国曽●号岸59.騨君]計彦田鼠︹舌戸且︼●秒・の庁房劉﹄菅己貝侭四吋︵詞い乞縄︶〆昇昌匡 三 君○房・目盲旨璽田○四Cl︵印度学佛教学研究第十四巻第二 20

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︵四国伊ロロ田ゆくゆめ脚︼ご︶の語 釈している。すなわち、 この量の定義における決定知︵巳目色富ゞ︶という語を解釈してゞ次のように言う。 ﹁決定知とは、疑惑︵8日留意︶、不決断︵震Ra耳が乏搦ご煙︶、無分別︵煙く房己冨冨︶なる性格を離れた知︵言目騨︶ である。だから決定知という語によって、知を本質としない、根の接触︵旨骨ご騨笛目︺房肖豊︶等の︹量である ことが否定され︺、知を本質としていても、疑惑等の量であることが否定されている。﹂弓昌自.]・巴 ところで決定知とは、﹁無分別なる性格を離れた知﹂であるとは、どのような意味を含むのであろうか。さらに﹁知 を本質としない、根の接触等の︹量であることが否定され︺﹂とは、具体的に何を指すのであろうか。言うまでもな く、前者は佛教の量に対し、後者は正理学派の量に向けられた批判である。ところが、同目鼻巳.岳では不決断 ︵四国色ごゆく閉倒ご︶の語を﹁ものの特殊な性格が明らかでないことである﹂と言い、無分別も不決断にすぎないと解 ﹁他の者にとって、第一刹那に生ずる無分別なるものは現量︵冒騨葛四篇四︶という量であると考えられているが、 そのものも不決断にすぎない。そこにおいても特殊な性格を明らかにすることがないからである。﹂︹勺目皀息.ご︺ ここで﹁他の者にとって︵冨周①笛且﹂とは、明らかに佛教徒をさしている。周知の如く、佛教では、たとえば陳 那が﹁現量とは分別を離れたものである︵冒騨ご鳥麗目冨巷凹冒愚○曾騨目︶﹂と定義し、法称は﹁分別を離れ、かつ誤 りのないものである︵厨壱四国営○合四目号冑自国目︶﹂と規定しているように、現量とは分別を離れたものである。こ のような無分別なる現量がヘーマチャンドラによって批判されたのである。 以上によって明らかなように、﹁量とは対象の正しい決定知である﹂というヘーマチャンドラの定義は、正理学派 と佛教の量に対する批判の上になされたと言える。それでは、両学派に対するヘーマチャンドラの論破の仕方を見る ︸﹂L﹂た﹂’し贈生窄︽ノ| 団員︶.﹄.﹄﹄ 韻では︲﹁量とは対象の知覚の因である︵閏昏○冨巨︺昏昏鼻烏官四目動箇皀︶﹂という正理学派の定義を皿

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ラは、量の定義﹄ 釈したのである。 ﹁この場合においても、め且富国秒︵因︶なる語によって、主格、目的格を除き、作具が量であることが確立される。 そうであっても、︵因は︶果と不離であることによって、知そのものが最上の有効因である。だからそれ︵知︶のみ が量であると認められる寺へきである。﹂弓目白◆]・閉︺ 以上によって正理学派の量に対する論破は、根とか根と対象の接触という物質的なものが量とはなりえないことに 向けられ、それは知そのものでなければならないと述べている。したがって、すでに述ぺたように、ヘーマチャンド ラは、量の定義にある決定知という語によって、﹁知を本質としない根の接触等の︹量であることが否定され︺﹂と解 張する。 J @ 次にヘーマチャンドラは、﹁量とは斉合性のある知である︵胃、白︺習畠目沙言め沙昌く且二副口角日︶・﹂という法称の定義を とりあげ、﹁斉合的な知﹂という点を批判する。 とりあげ、次のように批判する。 ﹁主格、目的格等と異った具格が因舎①目︶なる語によって表現されているならば、それは知︵言曽国︶そのものが 適当である。根、あるいは︵根と対象との︶接触等はそうではない。実に、それがあるとき、対象が知覚されて いるならば、それがそれ︵対象の知覚︶の作具である。根、接触という原因の総体等が存在しても、知がなけれ ばそれ︵対象の知覚︶が存在しない。作具とは最上の有効因︵の且冨冨冨白砂︶であり、それは果と不離なもので あると考えられる。﹂弓白白.].閉︺ これによって明らかなように、根、あるいは根と対象との接触を量であるとする立場を批判し、知を除いては量た るものはないことを主張している。同じく呵日農場gでは、﹁量とは正しい覚受︵留日昌肖︲四目号冨ごゅ︶の因 ︵の且冒目少︶である﹂︹z冨冨の習幽も.己という団扇の胃ぐ旦目の定義をとりあげているが、その場合も次のように主 ワワ 営 一

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﹁この場合も、もし知が無分別知であるならば、それは世間的はたらきを生じえない。さらに汝等が、それは世 間的はたらきをもった量の定義であるとするならば、その︵無分別知の︶妥当性は、どのように︹確定するか。︺ 後に生ずる世間的はたらきを生じうる有分別知によって、その︵無分別知の︶妥当性が考えられる場合、借りも のによる装飾の格言︹の通り︺である。むしろ世間的はたらきの因である有分別知の妥当性が認められるべきで ある。このようにして、まわりまわった労力が除かれる。さらに有分別知に妥当性がない場合、それに条件づけ られた世間的はたらきが、どうして斉合性をもつか。眼病の人の認識のように、見られ、分別されたものと対象 とが一つであるということによって、斉合性が認められるならば、斉合性とは仮設されたもの︵巨冒8日勤︶とな るであろう。それ故︵佛教徒が︶量の定義として$仮設されたものではない斉合性を望むならば→︹斉合性とい う語をやめ、︺量とは決定知︵昌目昌騨︶であることが認められる寺へきである。﹂弓日皀.].閏︺ 佛教徒に対するこの論破の論点は、次のように要約できる。世間的はたらきをもたない無分別知には妥当性が認め られない。したがって正しい認識手段にはなりえない。むしろ有分別知にだけ妥当性が認められる。へきである。次に 斉合性という点をとりあげ、有分別知に妥当性がない場合、世間的はたらきとの間に一貫性がありうるか。分別され たものと対象との一貫性という意味に斉合性を用いるとするならば、眼病の人がものを認識する場合のように、全く 虚構の斉合性と言える。斉合性という言葉は→以上のような意味を含みうるから、不適当である。それを避けるため に、量の定義として斉合性という言葉を用いず、ヘーマチャンドラの定義のように→量とは決定知であると言う、へき ところでヘーマチャンドラは、斉合性という意味を﹁見られ、分別されたものと対象とが一つであるということ﹂ と解釈しているが、それは分別されたもの、すなわち対象の知識と対象の本性との一貫性を意味する。そのように理 解するならば、眼病の人の認識にも、正しい認識ではないにもかかわらず、その知識と対象の本性の間の斉合性があ 子、渋のづっ。 淀に、三里一 ワ q』

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以上、正理学派及び佛教の論破を通じ、へ1マチャンドラは、量とは決定知であることを主張する。したがって、 ﹁量とは、対象の正しい決定知である﹂というヘーマチャンドラの定義は、正理学派と佛教批判の上になされたこと が明らかである。 斉合性をこのように解釈するのはヘーマチャンドラばかりでなく、アカランカもそのように解し聯﹁眼病の害をう ② けた認識は、月等に対しては、斉合性のある量である﹂と述べている。もちろんアカランカの場合には、法称の影響 をうけて、量とは斉合性のある知であることを認めて、このように述、へているわけであるが、ヘーマチャンドラはこ れを過失と見ていたことは明らかである。つまり、斉合性という言葉に対して、このような解釈も成立するから、こ の言葉を量の定義に用いるのは不適当であると論破したのである。 ③ アヵランヵは、ジャィナの伝統に従って量を定義するとともに、法称の影響をうけて、﹁量とは斉合性のある知で ④ ある。以前に知られていない対象を得る相を有するからである。﹂と記している。へIマチャンドラは、アカランカ のこの定義に対して何も言及していないが、アヵランカの暖昧な態度に対する批判も、法称批判の中に含まれている のではなかろう/か。 hノ︾つる。 ④ ③ ② ① 訂 ﹄ロ︺︵︷・画で.]司 毎里秒の騨昌へ一 B■ 〆 勺HP目自民弓脚鼻は斥騨い鍔 疹炭の旨画弄四mH閏昇底鼻H④︺四命昼哩蝕票声冒四.○尺四国斤豈四日”国﹀届︾堤〆宮口①aゆず四口in巴︵旨詐四﹄g$︶ロ韓 ︵シ岸︶冨冒員︺働昌出君津﹄︼少の庁四恥妙国自己シめ黛扉鼻蚤鞭昌﹀z−H,旨皇国め騨唄員︾団○昌一慰己﹄︶ ■固 ●■ ニコー 岸へ○ 24

(11)

結論を先に述寺へれば、へIマチャンドラは、この伝統的な量の定義も間違いではない、と言う。なぜならば、、ぐ煙︲ 冒昌畠四はすゞへての知識になければならないものであるからである。それでのく煙冒目煙冒を証明するために勺日皇. 号届において詳しく論じているが、その要約を記せば次のようになる。 ﹁私は瓶を知る﹂という認識における主観︵冨禺目︶と客観︵冨周日騨︶とのように、知識言壱gもまた照らされ ているからである。知識自身が知られていない者には、対象が知られているということはおこらない。それとは別の 知識によって自己の決定知がおこる可能性もない。別の知識はまた、それ自体知覚されていないから、問題の最初 の知識を知るものではない。さらに別の第三番目の知識を予想する場合、第四、第五∼第六と無限に遡及する無窮 ︵巴︺“ぐ儲昏倒︶となる。したがって知識に自己の決定知がなければならない。さらに、対象を知ることから、自己の 決定知が知られる場合、相互依存︵四目○国鼠欝畠幽︶の過失におちいる。 さらに、﹁対象の知識がなければ、対象があるということはありえないであろう﹂という義準量によっても自己決 ヘーマチャンドラが﹁対象の正しい決定知﹂と量を定義したのに対し、彼以前のジャイナの学僧は、そのような定 ① 義をなしていない。望目冨、①口勤は、﹁量とは自体を照らす知である。︵官煙自習四目のく四冒国冒閑こ倒昌騨目︶﹂と定義 ② し、アヵランヵは、前述したように、この伝統的な定義を否定していない。さらに劃身目色目色も﹁量とは自他の ③ 確定を本質とする知である。︵のぐ閏昏四ぐ窟ぐ尉昌騨目騨冨日言が目色日目色日脚億日︶﹂と言い、ぐ倒昌ロ①く尉胃﹄も﹁量と e は自他の確定知である。︵のく四冨国昌四ぐ閉昌こ員目色昌官勢冒圏四目︶﹂という定義を与えている。つまり、これらの伝 統的な定義では、自己の決定知︵いくP日日畠四︶も量の定義に加えられている。ヘーマチャンドラはこの点に関し$ど のように考えているであろうか。 聖! 25

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定知があることがわかる。すなわち、ものは知識によってのみ知られ、それ以外のものによるのではない。したがっ て、知るということは、知識があることを意味する。このように考えられるとしても、義準量自身令知として認めら れていない。そこで義準量が他の義準量によって知られるというように、別の知識を立てるならば、無窮になる。し たがって、知識には、対象を知るということと同様に;自己決定知がそなわっていなければならない。 さて、知識には自己決定というはたらきがあることによって、知識自身が知られるもの、すなわち知識の対象であ ると言える。その場合、知識は瓶などの対象のように、知識ではなくなるではないか、という疑問が当然出てくる。 しかし知識は知識としてのみあるのであって、自己認識において知られるもの、すなわち知識の対象となるとしても、 それは知識の一面であって、瓶等のような対象物にはなりえない。対象に関係することによって、それは知識であり、 知識自身に関係することによって、それは知られるもの、すなわち知識の対象となるのである。このことは、あたか も自分の父親と自分の子供との関係において明らかである。同一人物でありながら、自分の父親との関係においては 自分は子供であるし、自分の子供との関係においては、自分は親となりうるようなものである。 さらに比量によっても自己認識︵男らの色目ご&沙口騨︶の存在を証明することができる。それを諭式で示せば次のように なる さ (因)(宗)ら に ÷ F L 一 、 j

宗知識は、︵自己を︶照ら

く j

因照らしめるものであるか

く j 職灯火の如し。 く 対象の知識であるから 知識は自己を照らすものである 照らしている場合のみ、対象を照らす るから今雨昌肉詠昌︻胃くぎ︶ 26

(13)

﹁感官知の自己認識は感官現量に、意より生ずる楽等の自己認識は意現量に、ヨーガ行者の現量の自己認識はヨ ーガ行者の現量に含まれている。それに対し、記憶等の自己認識は意知覚にすぎない。だから別に自己認識とい う名の現量はないから、︹現量の種類として︺分けて語られるべきでない。﹂忌日自皀.認︺ すなわち佛教のように現量の種類とする立場に反対し、自己認識はそれぞれの知誠に含まれているとする。これは 自己の決定知すなわち自己認識はす、へての知識に存在するという考えに立てば、当然自己認識という名の現量はない この第三スートラに続くも自虐﹂・園では、自己の決定知は疑惑等の量ではないものにも存在すると記し、す調へ ての知識にあるから、量の定義中に加える必要がないことを明らかにしている。さらに彼の先輩諸学者がそれを定義 中に入れたのは、初心者のためを思ってのことであると、自派の定義を守る態度をとっているが、批判していること ⑥ 周知の如く佛教では現量を四種に分け、その中にmごm勗胃目①3国画が含まれているが、この点へ1マチャンドラは どのように見ているであろうか。 には間違いない j ⑤ 職凡そ自己を照らすことのないものは、対象の知識ではない。瓶の如し。 く 以上によって知識に自己の決定知があることが証明された。この証明の過程において注目されることは、比量によ る証明を語るところで、、く畠︺員箇冒という語のかわりにのく幽圏ョく①§邑騨︵自証、自己認識︶を用いていることてあ る。したがって、ぐ四目目昌創とは自己認識にすぎない。 それではヘーマチャンドラは何故に伝統的な量の定義に従って、量の定義中にぬぐ四日目騨冒を入れなかったのであ ろうか。これに対して次のように語る。 ﹁自己の決定知は、たとえあっても、定義に入れるものではない。︹それは︺量にあらざるものにもあるからであ つ︵哩○﹂︹勺国︺・のo胃目胃 27

(14)

⑦ ことになり、感官現量、意現量、ヨーガ行者の現量にそれぞれ自己認識があることになる。 アカランカは法称の影響をうけて、﹁量とは斉合性のある知である。以前に知られていない対象を得る相を有する からである﹂と定義したが、ジャイナ僧筥幽昌ごpロ四目旨も﹁自己及び前に知られない対象の決定を本質とする知が ① 量である。︵⑳ぐ砦胃ぐ胃昏四ぐ冠四ぐ患ご騨日沙冨昌言PpP日冒自鼠冨日︶﹂と記している。そこで量とは、以前に知られな い対象を知る知のみに限られるであろうか。 ヘーマチャンドラの立場は次のように答えられる。 ﹁︹未来に︺把捉されるものを把捉するように、すでに把捉されたものを把捉するのも量でないことはない。﹂ ①z乱乱ぐゅ3国]. 註 くく ②楊冨盲目國唱巴邑︺騨笥畠騨﹄や弓. ③目鼻耳目昏鼠旨冨&昌冨、具ぐ昼圃匡幽己含曾、四日目﹄a、毘岳屍︶]・己.弓. ④国P冒昌]四︲]︺豊四︲国茸乱旨圃匿冒圃目.具ごロ島ロ⑦ぐ騨些目︵国︺︺弓畠ゞ己亀︶胃. ⑤以上が甸日自虐.后の要旨である。 ⑥z箇箇豆且ロ門司1国.国.困四ご四目餌“睡渥冒首○目鼻]○ロ庁。国巨且冒牌甸巨冒印○哩喝︵旨の目○﹄晶○津胃屏↑o巳ご○旨L①芹①風. 尻ぐC8口昌ぐ①刷拝詞z○.己﹄ご霞︶や﹄刃 t ⑦なお集量論の自証説に関しては、山口益博士の﹁佛教における無と有との対論﹂︵弘文堂書房︶二七三’三六二に詳しく論じ られている。 ︹勺日◇の閨く︺ 五 28

(15)

続く弓目白鼻届では、把捉されたものを把捉する認識も正しい認識手段であることを、ジャイナ教で言う号四ぐ冒 ︵実体︶と富ご騨冒︵様態︶という点から逆説的に証明しようとする。ジャイナ教の哲学によれば、号騨ぐ葛とはも のの本性であり、その真の相においては永遠不滅である。それに対してEご倒置とは、現実に現われている号騨ぐ苫 ② の姿であり、それは減する。そこで、すでに把捉したものを把捉する連続的認識が冨q身騨に関係する場合、それは すでに把捉せるものを把捉するものであることは成立しなくなる。なぜならば、勺包曼身騨は刹那減であるから、認識 した同じ対象を認識することはありえない。それでは連続的認識が実体を認識するとするならばどうであろうか。そ れも不適当である。なぜならば、実体は常住であり、同一性であるために、すでに認識されたものと未来に認識される ものの状態との間には全く区別がない。したがって、前に知られていないものを知る認識が量であり、すでに知られ たものを知る認識が、どのような条件によって量とはならないのであろうか、と述べ、すでに知られたものを知る認 識も正しい認識手段であることを明らかにする。 さらに色ぐ品目冒等は、前の知によって把捉したものを後の知が把捉するとはいえ、量である。餌ぐ晶国宮︵漠然 たる知覚︶、号四︵認識の意欲︶、騨冨菌︵判断︶、昏倒“園︵意識の保持︶とは、認識の過程であるが、これら四つの 知はそれぞれ異なった対象をとるわけではない。以上により未来に把捉するものを把捉する認祇と同様に、すでに把 ③ 捉されたものを把捉する認識も正しい認識手段である。 ② ① 註

②金倉円照

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③哨日皀皀

勺、肖房凱冒旨室︺韓︲圏可騨へ国言匡弓讐のoP冒昌g︺z①君mの国︵出︺Z︵︶.届g︾○己2ばゅgs︶岸声 〆 金倉円照﹁印度精神文化の研究﹂二三八頁の・旨○○冨骨①︾、目の言冒②国邑cmg身︵誌z○コ︲診言︹︶冒爵目︵国颪罵言昌塑颪︲ ﹄ぐ塾、昌口吋巨z月蝕は○巨叩.﹁ゆ旨四の①嵐①のzo.ごロ届P扇・]割の鳶.弔日.岸房ごい

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参照

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