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梅蘭芳『舞台生活四十年』訳注(十一)

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(1)

梅蘭芳『舞台生活四十年』訳注(十一)

著者

土屋 育子

雑誌名

文化

84

3,4

ページ

13-32

発行年

2021-03-31

URL

http://hdl.handle.net/10097/00131304

(2)

令和 3 年 3 月 31 日発行

梅蘭芳『舞台生活四十年』訳注(十一)

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梅蘭芳『舞台生活四十年』訳注(十一)

土 屋 育 子

 本訳注は、『舞台生活四十年』(梅蘭芳述 許姫伝・許源来・朱家溍記 中国 戯劇出版社 1987 年)を底本とする。該書は、中国戯劇出版社が 1961 年刊行の 第一集・第二集、1981 年刊行の第三集を合刊したものである。第一集は 1952 年、 第二集は 1954 年にいずれも平明出版社から、第三集は 1981 年に中国戯劇出版 社から刊行されている。二〇世紀初頭に活躍した京劇の名優梅蘭芳による、当 時の京劇界とそれを取り巻く状況を知りうる貴重な口述記録である。記録者に は、第一集・第二集は許姫伝、第三集は許姫伝に加え、許源来・朱家溍が名を 連ねている。 本文中の注は、原注を〔 〕、訳者注を( )で示す。脚注はすべて訳者注 である。本稿では、第一集第十一章二から五(第一集末尾)までを訳出する。 二 「翊文社」に加わる 「私が上海に行く以前に参加していたのは、田際雲さん〔すなわち響九霄の こと〕1が組織した「玉成班(「班」は劇団の意)」で、いつも天楽園2で公演を していました。私の演目は、だいたい後ろから2番目か3番目に配置されてい ました。同じ劇団の老生(中年以上の男性役)は孟小茹さんで、彼の演目は私 の後でした。私たち二人も常に主役二人の演目で共演しました。」 「私と鳳二爺さん3は上海で一時期共演したわけですが、北京に戻ってきて 1 田際雲(1864-1925):河北省の生まれ。河北梆子(河北省周辺の地方劇)の花旦 俳優(活発な女性役)。芸名は「響九霄」または「想九霄」。玉成班は彼が二十歳 のときに立ち上げた劇団。 2 天楽園:清・嘉慶年間 (1796-1820)の創建された劇場。北京の前門外鮮魚口内路 南にあった。のちに大衆劇場と改名。 3 王鳳卿(1883-1959):京劇の老生俳優(男性役)。名は祥臻、一名奉卿、字は仁 斎。北京の人。原籍は江蘇清江。王瑶卿の弟で、鳳二爺とも呼ばれる。

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からは、また分かれてそれぞれ元の劇団に戻りました。私が家に戻ったのはす でに旧暦の十二月初めで、劇場は年末の片付けをしたばかりで、私は玉成班と 来年の出演継続の契約を結んで、しばらくお休みしました。」 「その年の年末、役所から、あらゆる「班」という名称は、一律「社」に変 えよとの通知がありました。「玉成班」も旧暦甲寅の年正月一日から「翊文社」 に改名しました。」 「北京では毎年元旦の日は、劇場の恒例で早朝九時に始まって、午後三時に 芝居がはねました。開場にさきだって跳霊官吏、加官が一緒に「天官賜福」、 「卸甲封王」といった吉祥劇を上演しました。私がその日「天楽園」で公演し たのは「打金枝」4 別名「七子八婿」です。新年の各劇場でかかるのはすべて 大団円の喜劇で、死、殺、傷、刑が出てくる演目は極力さけるようしていまし た。私が演じる青衣(若年∼中年の貞淑な女性役)の演目でいうと、「彩楼配」 5、「大登殿」6、「金榜楽」の場面の入った「御碑亭」7、「回荊州」8、「貴妃酔酒」9 4 打金枝:唐代、郭子儀は功績により、息子郭曖の妻に代宗の娘昇平公主を賜っ た。ところが、昇平公主は皇族であることを笠に着て無礼をくり返したので、郭 曖はついに公主に手を挙げた。公主は父の皇帝に訴え、郭子儀は郭曖を捕らえて 罪を請うた。代宗は郭曖を許し、公主には夫婦仲良くするよう諭した。 5 彩楼配:「紅鬃烈馬」の一段。唐の丞相王允の三女宝釧は、たまたま薛平貴と知り合 う。彼を見込んだ宝釧は彼に銀子を渡し、二月二日の壻選びの時に必ず来るように言 う。当日、宝釧は彩楼からくす玉を薛平貴に向かって投げ、自らの壻に選ぶ。 6 大登殿:「紅鬃烈馬」の最後の一段。西涼の王となった薛平貴は、前西涼王の娘で 妻の代戦公主らの助けを得て長安に入城する。唐の帝位を簒奪した王允らを捕らえ ると、自ら帝位に即く。論功行賞の後、王允らを処刑しようとするが、王宝釧が取 りなす。王宝釧を正妻、代戦公主を側室として、みなが揃って大団円となる。 7 御碑亭:王有道は科挙受験のため都へ上る。妻の孟月華は実家からの帰り道、上 京途中の柳生春と御碑亭で雨宿りすることになったが、一晩中一言も交わさず、 雨が止むとすぐに別れた。帰宅した王有道はこのことを知り、妻の不貞を疑い離 縁を迫る。及第した王は柳から真相を聞き、妻に許しを請い、柳と妹の淑英とを 婚約させる。「王有道休妻」とも。 8 回荊州:劉備は呉にやって来て孫権の妹と結婚したが、なかなか荊州に帰ろうとし なかった。趙雲は諸葛亮の計に従い、曹操が荊州を攻撃したとウソの報告をした。 劉備は孫夫人を連れて戻ることを決断した。周瑜が兵を率いて追いかけてきたが、 諸葛亮はすでに船を手配しており、迎えにきた張飛に守られて、劉備は呉を去った。

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いずれもよく上演される演目でした。それからコミカルな旦(女性役)の演目 は、もっぱら仕草や諧謔にみどころがあって、これも観客に歓迎されました。 初五(一月五日)以前は「起解」「玉堂春」10ですら進んで上演されることは ありませんでした。当時の習慣では、役者と観客はみな新年にめでたい言葉を 口にしなければならなかったのです。蘇三の手かせ首かせは観客に悪いイメー ジを引き起こしてしまうからです。元旦のお客は、通例満席になることはあり ません。観客の大半は大晦日の一晩寝ずに新年を迎え、翌日はまだ伝統的な行 事で忙しいので、芝居を見に来る時間などないのです。役者たちの家でも祖先 や神々をお祭りする古い習慣があります。夜によく眠らず、昼に舞台に立つの は、本当に雲の中に立っているような感覚です。それからただめでたい言葉を 並べる古い演目のことを、われわれは「歇工戯」(「歇工」は仕事を休む意)と 呼びます。ふだん上演しないのは、もともと精彩を欠く演目だからです。しか しきちんと組織された劇団は、元旦の日に必ず公演をしなくてはなりません。 しかも劇団に参加している役者は、やはり出演しないわけにはいかないので す。それは観客にこの劇団が今年契約したのはどんな役者なのか、お披露目す る性格を持っていたからです。」 「それぞれの劇団の規則で、その日はギャラが支払われませんでした。楽屋 9 貴妃酔酒:楊貴妃が玄宗のお出ましがないことを悲しみ、一人酒を飲むという話 だが、酒を飲むときのさまざまな所作が見どころ。具体的な所作については、第 三章 六「路三宝から「酔酒」を学ぶ」を参照。 10 「起解」「玉堂春」:妓女蘇三と書生王金龍との恋物語を中心とする演目。「起解」: 明代、売れっ子の妓女蘇三は吏部尚書の子王金龍と深い仲になり、玉堂春と改名 して、将来を約束する。王が金を使い果たしてやり手婆に追い出された後、蘇三 は王に金を与えて南京へ帰郷させる。その後、やり手婆は蘇三を騙して山西商人 の沈燕林の妾にする。蘇三は沈の本妻に沈を毒殺したと誣告され、死罪となる。 蘇三は戒めを掛けられて、洪洞県から太原へ護送されることになる。護送役人の 崇公道は、蘇三の身の上に同情する。実際の舞台では護送される道中のみが上演 され、二人のやりとりが見どころである。「玉堂春」(「三堂会審」とも):太原に 護送された蘇三は、裁判所で再度審議を受ける。裁判を担当する王金龍は、蘇三 の姿をみてびっくり仰天し、蘇三に気づかれないよう後ろ向きに跪かせ(客席に 向かって跪く)、陪審官潘必正と劉秉義とともに蘇三の話を聞く。蘇三の冤罪が 明らかとなり、晴れて王金龍と結ばれる。蘇三が王金龍とのなれそめを話すくだ りが見どころ。

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の支配人がご祝儀を分配して、紅い紙に銅貨二十枚、あるいは一毛元を包みま した。主役端役に関わらず、一律平等の待遇でした。」 「新年の儀礼は、当時広く盛んに行われていました。とりわけ私たち演劇界 の老先輩にとっては、格別の思い入れがありました。ですが実際は全く困った ことでした。譚先生11のような年配者は、私の祖父とつきあいがあるので、毎 年必ず二日と三日に特別に我が家へやって来て、母屋へ行って私の祖母に新年 の挨拶をしていました。お目にかかると、必ず腹ばいになって額を地に付けて 拝礼します。私の祖母も先を争うように返礼をします。私たちはそばに立ち、 慌ただしくお二人の老人を助けおこします。このような老先輩が一たび入って くると、家中の人がみな大わらわになるのでした。」 「民国三年、翊文社の陣容は、老生には孟小茹、賈洪林12、瑞徳宝13、高慶 奎14がいました。武生は田雨農〔彼は田際雲の息子で、みな若旦那と呼んでい た〕。旦に王惠芳、路三宝、胡素仙と私がいました。老旦は謝宝雲15、小生は張 宝昆でした。この劇団は、役者が揃っていたと言えるでしょう。」 三 別の舞台に駆けつけること 「私が上海から北京に帰ってきて、いくつかの刀馬旦16の新演目を増やしたの で、北京の観客は私が唱う場面がないのも、新鮮に感じたようです。だからとて も人気が出ました。ちょうど新年にあたり、劇場の売り上げも通例どおり悪くあ りませんでした。堂会17も数カ所増やし、しばしば一日に三、四カ所で唱いまし た。これもまた子どものころの養成所での様子を思い出し、再び別の舞台に駆け つける緊張感を味わいました。ここで二つエピソードを挙げてみましょう。」 「前に一日に三回連続で「樊江関」18を演じたことがあったと話しましたよ 11 譚鑫培(1847-1917):本名金福、字は鑫培。湖北江夏(今の武漢)の人。著名な 京劇の老生俳優。 12 賈洪林(1874-1917) :号は朴斎。本籍は江蘇無錫、北京に生まれる。京劇の老生俳優。 13 瑞徳宝(1877-1948) :京劇の武生俳優(立ち回りを専門とする男性役)。 14 高慶奎(1890-1942) :元の名は振山、字は子君。本籍は山西楡次、北京に生まれる。 清末の丑行俳優(道化役)高四保の子。京劇の老生俳優。 15 謝宝雲(1860-1917):字は月珊、北京の人。京劇の老旦俳優(老女役)。 16 刀馬旦:馬に乗って立ち回りを行う女性役。 17 堂会:個人の邸宅で行われる上演のこと。

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ね。あのときは午後にまず陸氏の邸宅での堂会で上演し、だいたい五時前に やっと終わりました。続いて天楽園に駆けつけて、天楽が終わったら、すでに 六時でした。慌てて帰宅して食事をしました。幸い天楽は鮮魚口にあり、我が 家の鞭子巷がある東珠市口三里河からさほど離れていませんでした。食事の後 また後門の徳泉茶園19に駆けつけて、その日三度目の「樊江関」を演じました。 このように駆けつけて演じるのは、実に不合理です。当時はもちろんお金を稼 ぐために、演じないわけにはいきませんでした。いま思い出すと、知らず知ら ずのうちに体がダメージをうけて、演技への影響も労多くして益無しでした。」 「覚えているのは次のできごとです。陸氏の邸宅で演じたとき、前半の「樊 江関」では体力が十分にありました。後半にさしかかって、天楽園からの電 話が何度もかかってきて、さらには人を送ってきて私を連れて行こうとしまし た。私はちょうど舞台にいて、道具係が私にそのことを伝えてくれ、私に「馬 前」と言いました〔業界用語で、舞台進行を速くするのを「馬前」、遅くする のを「馬後」と言う〕。私は急に不安になりました。考えてもみてください、 このあとの芝居を上手く演じられるでしょうか。楽屋に入ると、使いの人が私 に言いました。「劇場はあなたが間に合わないのを恐れて、“梅蘭芳は事情によ り休演”の告知を出しました。観客は納得せず、告知を破り捨てました。いま 謝〔宝雲〕さんが「吊金亀」20を代わりにやっています。」この謝さんは以前老 生を演じていて、後に老旦に改めた方です。声が清らかで明るく、発音は正 確、舞台姿はほっそりしていて、老旦という役柄にぴったりしており、観客か ら多大な人気を得ていました。ただ、ふだんあまり精を出そうとはせず、毎回 の芝居で一番いいのは一句だけというスタイルでした。観客はそれを「謝一 句」と呼んでいました。その日、彼は孟津河から始めて、一句一句真面目に演 目一つを歌い終えました。私たちが登場してから、彼はまた私と「樊江関」を 18 樊江関:「姑嫂英雄」とも。唐の太宗は薛仁貴を連れて西征に向かうが、陽関、白 馬関敵方に包囲される。薛の妻柳迎春は、樊江関を守る樊梨花に救援を求める。樊 が準備をしているところへ、薛の娘薛金蓮が到着して遅いことをなじるが、柳迎春 がとりなして仲良く出陣する。 19 徳泉茶園:北京市内の地安門付近にあった演芸場。 20 吊金亀:「釣金亀」とも。毎日魚を釣って母を養う張義という男が、ある日金の亀をつ り上げた。その後、人から兄が県令に任命されたと聞いたので、帰宅して母親に報告 する。母親は、張義に兄を訪ねて事実を確認するよう命じる。

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共演し、この演目はいつも通り一句だけがよく、あとはまあまあでした。その 「吊金亀」も観客にとっては思いがけない収穫でした。その日の三回の「樊江 関」は、陸氏の邸宅では慌てていて、天楽園では緊張し、徳泉茶園では疲れ果 てていました。結局、三箇所のうち一箇所としてきちんと演じられたところは なかったのです。」 「また別の日、私は劇場から堂会に駆けつけ、演じたのは「穆河寨」21でした。 金〔秀山〕22さんが孟良を演じていました。これもまた、彼とのこの演目での初 共演だったように思います。彼は私を見て、「今日はもう三箇所行ったよ」と言 いました。私はそれを聞いて、内心慌てました。今日のこの演目は、上手く演 じられないだろうと思ったのです。劇場に駆けつけるのは、役者がどうしても 寄せ集めになるからです。しかし、彼は舞台に着いたとき、悠揚迫らず、三箇 所で演じてきたことを少しもあらわにしていませんでした。楽屋に入ると、彼 の様子は変わらずゆったりと落ち着いていました。私はこの老芸人の劇場に駆 けつける技量に、まったく五体投地したくなるほど敬服しました。のちに彼は 劇場に駆けつける際の秘訣を教えてくれました。彼が言うにはこうです。」 「我々の業界では、正月は、チケットの売り上げは好くなるし、堂会は数カ 所多くなるし、忙しくなると劇場に駆けつけることは避けられない。その日 は数カ所行かなければならないというときは、腹づもりをしておかなくてはな らない。自分の体力を均等に分けて演じる。どの場所も、力んだりぼんやりし たりできない。疲れてこっそり手を抜くとか、いい加減なことはできない。そ れから劇場に間に合わなくても、役者が舞台でやることってのは、本来余韻を 残さねばならんものだ。もしいつも変に力んででたらめに叫んでいたら、聴く 人は聴き飽きてしまうし、どの句があなたの売りなのかわからなくなってしま 21 穆河寨:楊延昭の部将焦賛は五台山へ登り、出家していた五郎(楊延昭の兄)に 下山を請うた。五郎は降龍木が手元にないから下山できないと断る。穆河寨に降 龍木があると聞いた楊延昭は、焦賛に取りに行くように命じる。焦賛は途中で出 会った孟良とともに穆河寨に向かうが、穆河寨の首領の娘穆桂英にさんざんに打 ち負かされる。延昭の子宗保が加勢したところが、穆桂英は宗保を生け捕りにし てしまう。孟良は穆河寨に放火し、降龍木を盗み出す。 22 金秀山(1855-1915):号は金麻子、北京の人。京劇の浄の俳優(隈取りをする役)。か つて清朝の昇平署の俳優に選ばれたことがあった。民国以後は、北京のみならず、上 海で上演することもあった。

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う、それじゃあむだな骨折りってことにならないかい。どの役者にも長所があ り、また確実に短所がある。自分の短所を避けるようにし、観客に気づかせて はならない。例えば自分の立ち回りがよくないと思ったら、立ち回りを数回減 らす。のどが不十分なら、唱中心の演目を減らす。ほかの人がある点で人気を 取っていたら、自分は別の見せ場を探す。見せ場を見つけても、しょっちゅう それを使うことはできない。以前愛好家の方で、みな彼を「灯籠王」と呼んで いたが、その方は程大先生23に特別に学んでいた。ある日「文昭関」24を演じる ことになり、大先生の節回しを使ったところ、観客席からは満場の喝采が飛び、 みなまるで大先生が歌っているようだと褒めそやした。彼は舞台の上で嬉しくな り、しばらくその節回しを使っていたが、観客はすぐにうんざりしてしまった。 彼は鈍感だったから、三回目もこの節回しを使ったんだが、観客はここで我慢で きなくなり、大笑いして言ったんだ。「大先生のいい節回しを使うのは、上演一 回につき一回だけだ。」そう言い終わると、次々と席を離れ、終幕を待たずに 退場した〔劇が終わるのを待たずに、観客が大勢引き上げることを、業界では 「開閘」という〕。およそ上手くいったものは二度やってはならないというの は、喝采するのにも限度があるということだ。もしこの道理がわからず、こん なふうに観客の好みに迎合できると思ってしまったら、結局、客の歓心を買う ことは出来ないものだ。」私は彼の大きな経験談を聞いて、役者は舞台におい て、「その長所を用いても、やりすぎてはいけない」ということを理解しなく てはならないと思い知らされました。数箇所の劇場に駆けつけることを経験し ましたが、まず先に自分の体力をコントロールするすべを身につけなければな らないと思いました。 〔注〕 「灯籠王」のエピソードは、陳彦衡25先生の『旧劇叢談』に取り上げら れている。だいたいこういうことは、当時すでに笑い話として伝わっ 23 程長庚(1811-80):原名は椿、字は玉珊、安徽潜山の人。創成期の京劇を支えた 老生俳優で、余三勝、張二奎とともに“前三傑”“三鼎甲”などと並び称される。 24 文昭関:伍子胥は、父と兄を楚の懐王に殺され、呉へ逃げようとする。文昭関に来る と、手配の人相書のため、通ることができない。隠士の東皐公によって家に匿われる が、心労のあまり伍子胥の髪は一晩で真っ白になった。翌日、東皐公の作戦が功を奏 し、混乱に乗じて伍子胥は文昭関を通過する。 25 陳彦衡(1868-1933):四川宜賓の出身、長く北京に暮らした。官僚の家に生まれ たが、京劇を好み、京胡や太鼓の楽師となった。

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ていて、知っている人が多いものだ。 「北京の劇団では、どうして恒常的にこのような劇場に駆けつける経験をし なければならないのでしょう。これは当時の交通手段と交通管理と密接な関 係があります。役者が劇場に駆けつけるときには、ラバ車〔のちには人力車を 用いた〕に頼っていました。街の内外を行き来し、加えて途中の交通状況があ り、時間を予測することができません。北京の通りは広さが一定しておらず、 ラバ車の動きは敏捷でありません。交通管理上の、適切な分散方法が考えられ ていないのです。ラバ車や人力車が大柵欄、鮮魚口一帯のにぎやかな場所にさ しかかると、たちまち混雑します。しばしば両方向が混み合って、通るのに長 い時間がかかるのです。劇場もまたこの一帯に集中しているので、すぐに通る ことができそうになく、車を降りて歩くしかなかったこともありました。時間 的に非常に不経済でした。これまでの劇場の習慣では、銅鑼の知らせで終演で した。楽隊は演奏を停めて休憩することはできませんでした。劇団の管理人 は、役者がこのような状況で出演不可になると、いい加減に処理してはまずい と、いつも臨時につなぎの出し物で衝突を避ける方法を考え出します。観客は つなぎの出し物をみて、その役者が間に合わないことを知ります。さながら暗 黙の了解のようなもので、厳しい追及はなされませんでした。私の劇場に駆け つける経験はこのように蓄積されていったのです。」 「上海に公演に行って、南方の役者を見ると、このような劇場に駆けつけるこ とはありませんでした。劇場側の人も、つなぎの出し物があるということを聞 いたことがありませんでした。これには二つの理由があります。(一)上海の役 者たちは、みな契約を交わしていて、稼ぎは一年を通じた出演料で、一人につ き一つの劇団に所属していました。(二)堂会の公演も北京のように頻繁にある わけではありませんでした。だから彼らの仕事はかなり規律的でした。彼らに 劇場に駆けつける経験があるか聞いても、それはあるはずがないでしょう。」 四 譚鑫培との「四郎探母」26共演 「私が譚先生と一緒に演じたのは、民国以後のことです。前に話したのは段氏 の邸宅で上演した「汾河湾」27ですが、これは私たちの初共演ではありません。 私が初めて劇場で彼と共演したのは「桑園寄子」28で、陳喜星が子役だったよ うに思います。民国六年以前、私たちは劇団に属していませんでした。私が彼 と共演したのは、だいたいがチャリティー公演、堂会戯で、夜の舞台、毎回

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ただ一日二日演じるだけでした。ただこの種のチャリティーの名を借りた公演 は、しょっちゅう行われていました。あるとき彼とともに天楽園で演じた「探 母」では、本当にひどく慌てました。この事件は今に至るまで四十年経ちます が、当時の舞台や楽屋での様子を、私はまだはっきりと憶えています。」 「私たちが共演する「探母」の広告がすでに張り出されてしまったその日の朝 早く、彼は体にだるさを感じていました。食事後に発声練習をしましたが、あ まり力が出ないので、休演しようと考えました。人をやって劇場に聞くと、そ の人は戻ってきて彼に、劇場は満員で、休演にはできないと伝えました。彼は ため息をついて、「まったく老いぼれの命を取ろうとするのか」と言いました。」 〔注〕 陳彦衡先生の語るところでは、譚鑫培の晩年、多くの人が彼の取り巻 きとなり、彼が舞台に立つとギャラを散財するのを待っていた。彼が 演じ続けなければならなかったのには、さまざまな複雑な要因を含ん でいたのだ。表向きには、この老芸人の晩年は、限りなく荒涼とした ものであったと想像できる。 「その日の晩劇場に着くと、彼の調子が悪そうに見えたので、彼にリハーサ ルを申し出ました〔役者が舞台に上がる前、互いの学んだ演じ方が違うといけ ないので、しばしば先に台詞あわせをし、しぐさのチェックをすることを、業 界では「対戯」という〕。彼が言うには、これは有名な演目だから、リハーサ ルをする必要はないと。私は何度もお願いして、舞台で私をサポートしてくだ 26 四郎探母:「探母」とも。京劇の演目。楊四郎は遼に捕らわれた後、名前を変え て、遼の鉄鏡公主と結婚した。四郎の母佘 ( しゃ ) 太君が遼討伐のため、宋軍を 率いてきた。四郎は妻の鉄鏡公主の協力を得て、母と再会を果たす。四郎と鉄鏡 公主のやりとりがみどころ。「楊家将」ものの演目。 27 汾河湾:薛仁貴は軍功を立て、妻の柳迎春に会いに帰郷する。家に男の靴がある のを見て薛は妻の不貞を疑うが、それは息子の薛丁山のものであった。やがて、 途中の汾河湾で誤って射殺した少年が息子であることがわかり、夫婦二人は悲し みに暮れる。 28 桑園寄子:晋末、鄧伯倹は亡くなる直前、妻子を兄の鄧伯道に託した。おりしも 戦さが起こり、伯道は家族を連れて逃げたが、途中、弟の妻とはぐれてしまっ た。伯道は桑畑に逃げ込んだが、疲労困憊していたので、弟との約束を守るた め、自分の子を桑の木に縛りつけ、弟の子を連れて逃げることにした。その後、 弟の妻が伯道の子を見つけて、助け出した。潼関まで来たところで、一家はよう やく再会することができた。

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さいとお願いしました。彼は、「うむ、任せておけ。すべて私が請け負う」と 言いました。彼は舞台に上がって、聞かせどころの西皮慢板を歌いましたが、 観客の反応はふだんよりよくありませんでした。私の演じる妻の公主が誓いを述 べて、交代して彼が「いまだ口開かぬうちに、思わず知らず、涙かんばせに流 る」という倒板を唱うとき、なんてことでしょう、彼の喉に突然異変が起こり、 一言も声が出なくなったのです。私は彼の向かいに座り、気をもんでいました が、助けようがありませんでした。掛け合いの一段である快板は、さらに骨の折 れる歌です。ただ彼の唇が動くのが見えるだけで、歌詞ははっきりと聞き取れま せん。この「坐宮」はいい加減にお茶を濁して終わりました。関所を出て捕らわ れる場面まで演じたところで、彼は力を奮いおこし、とんぼ返りをしましたが、 小綺麗で、きびきびした動きで、実に見栄えがして、ここでようやく満場の喝采 を浴びました。弟の六郎に面会する場面から後は、打ち切りになりました。」 「譚先生の人付き合いは、もともとよいほうでした。その日の観客は、だい たいが彼に対して同情と理解の気持ちを抱き、彼らの反感があからさまに示 されることはありませんでした。しかし、その場にひそひそ話す声が響きまし た。彼はこれまで“圧堂”の力量を持っていました〔役者が舞台に立つや、た ちまち場内が静まりかえることを、業界では「圧堂」という〕。彼の役者人生 において、あの日のようなことは、おそらく空前絶無のことだったでしょう。」 「私は楽屋に彼が入ってくるのを見て、非常につらい気持ちでしたが、このご 老人を慰める言葉が見つからず、ただ表情に彼への同情を表すしかありませんで した。彼も私が彼のためにつらい気持ちでいることを見て、舞台衣裳を脱ぐと私 の肩を叩いて言いました。「きみ、大丈夫だ。数日休んだら、またこの芝居をや ろう」。彼のきっぱりとした口ぶりから、彼が今回の失敗を挽回する決意をした ことをしりました。彼は声に突然不調を感じ、演技上の間違いとまではいえなく とも、彼はずっと観客に対して責任を感じ、まもなく終止符を打とうとする彼の 舞台生活の前に、観客によくない印象を残すことを望んでいませんでした。」 「譚先生は一ヶ月以上休息して、舞台に立ちませんでした。ある日彼は執事 を介して、すでに某日丹桂茶園で「探母」を再演することが決まったと、私に 知らせてきました。私はこの知らせを聞くや、胸が高鳴りました。公演のその 日、劇場は早くも満席でした。なじみの観客はみな、ご老人が負けず嫌いなの を知っていて、このにぎやかな会にはせ参じたのです。私が早めに劇場に到着 して、ちょうど化粧をしていると、譚先生が入ってきました。」

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「私は起ち上がって「お祖父さま」と声をかけました〔譚鑫培と梅巧玲(梅 蘭芳の祖父)は同輩なので、このように呼ぶ〕。彼は笑みを浮かべ、いつもの ように私の肩を叩きながら、「あいさつはいらん。いい芝居をしよう。」と言い ました。私は彼の目が鋭く光り、気力が非常に充実しているのを見て、彼が精 神面で十分な準備をしてきたことを理解しました。しばらくして、舞台で小ド ラが打ち鳴らされ、彼が登場したばかりなのに、すぐに客席からどっと声が上 がり、満場一致して登場の喝采が巻き起こったのです。続いてしんと静まりか えりました。最初の一段の西皮慢板は、精神を集中させ、きっちりと歌いまし た。彼が数十年蓄積した精華を、一気に使ったのです。その日私はとても興奮 して、慢板の一段もとても落ち着いていて心地よく感じました。「いまだ言わ ぬうちから…」の倒板の一句にさしかかると、このご老人は本当に負けず嫌い で、前回ここで失敗したと思いますが、今回は元手を取り返しました。全身で 腕前を見せつけるように、以前とは全く異なって、鋭い勢いを持った歌い方に 変わっていました。鷹揚でもあり、美しくもあり、加えて、雲が月を隠したよ うであった彼の声は、歌えば歌うほどますます輝きを増し、まるで月が雲の中 から出てきたようでした。「余音 梁を繞り、三日絶えず」(歌声や演奏がすば らしいことのたとえ。『列子』湯問)という形容は、ここに用いるのでなけれ ば、他にこれ以上ぴったりした場面はないとすら思われました。芝居の熱烈な 愛好者はもちろん、私のような共演者さえも聞き惚れてしまいました。続いて 「ふり返って部下を呼べば」の高い調子で歌う一句は、一息で歌い終え、最後 まで気を抜くことなく進みました。終始観客は興奮状態のまま、この「探母」 は終わりました。」 「彼は楽屋に戻ると、かなり疲れているように見えました。しかし顔には、 いつもと異なる満足感が表れていました。役者一人一人が、彼が充実してこの 得意の演目を演じ終えたことに心地よさを感じていましたが、形容するのにふ さわしい言葉が見つかりませんでした。」 「私は彼の晩年に演じられた「探母」を何度も見、彼とともに何度も演じま したが、ただこの一回が最も優れていたと言えると思います。」 五 「翊文社」の同僚たち 今回の梅劇団の北上は、北京、天津の二箇所で、五ヶ月間滞在した。旧暦の 年末が近づいていたので、上海の団員は帰省で気もそぞろ、みな旧暦の年越

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しに思いを馳せていた。同じとき、梅先生夫妻は彼らの子供葆琛29の病気を心 配していて〔葆琛は外科的な病気で、手術を受けていた〕、家に帰り、ついで に家のことも片付けておきたいと考えていた。そこで私たちは、一九五一年二 月二日〔旧暦十二月二十六日〕の午後、京滬直行列車に乗って南下した。列車 が天津を通ると、多くの友人たちが、駅まで会いに来た。話したり笑ったりし て、大変にぎやかだった。天津を出ると、みんな晩ご飯を食べ終えた。また梅 先生のコンパートメントに集まっておしゃべりをし、私が彼の「舞台生活」に 話題を振ると、梅先生は翊文社で一緒に共演したなじみの同僚数人について 語ってくれた。 「孟小茹さんは翊文社トップの老生です。私が彼と共演した演目には、「探 母」、「汾河湾」、「武家坡」30、「趕三関」31などがあります。彼の「汾河湾」は かなり緻密な演技で、譚、王お二方の先生と比べても、やや度を越していたと 言わざるをえません。「趕三関」の薛平貴は、うた・しぐさともに重くなく、 現在は準主役格の老生が演じることになっていますが、民国初年の北京の劇場 では、通例通りトップの老生が演じていました。ここでの代戦公主も、見得を 切るのが一回と数句の京白(北京語のせりふ)があるだけです。私は青衣から 刀馬旦の演目にも手を広げて、観客の歓迎を受けたので、この種の演目を演じ るためにつねに稽古をしています。」 「賈洪林さんは私が初期に共演したなじみの同僚です。私たちは「桑園寄 子」、「浣紗計」32で共演しました。……彼は演技の天才でしたが、残念なこと に壮年で声が出なくなってしまい、準主役格老生の地位から退くしかありませ んでした。私が孟小茹さんと演じた「朱砂痣」33では、いつも彼が呉大哥を演 29 梅葆琛(1925-2008):梅蘭芳の子。若いころは京劇とは関係のない技師の仕事を していたが、退職後、京劇の伴奏奏者となった。 30 武家坡:「紅鬃烈馬」の一段。薛平貴は十八年に帰郷し、武家坡で妻の王宝釧に 出会うが、妻は彼が夫であると気づかない。薛はわざと道を尋ねて妻の心変わり を試す。妻は家に逃げ帰って扉を開けようとしないので、薛は扉ごしにこれまで の苦労を話す。最後に互いに夫婦であることを認め合って幕となる。 31 趕三関:「紅鬃烈馬」の一段。王宝釧と再会した後、薛平貴は西涼に戻った。あ る日、雁を射落とすと、王宝釧からの血書をくくり付けられていた。薛平貴は密 かに長安に向けて出立する。妻の代戦公主は夫の手紙を読み、大軍を率いて三関 に向かった。

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じました。これは重要な役ではありませんが、彼は生き生きと演じることがで きました。のどの調子が悪くても、劇中人物の身分や性格の理解について、彼 は独得の解釈を持っていました。彼が譚先生と共演した「捜孤救孤」34、譚先 生の程嬰、彼の公孫杵臼を見たことがあります。程嬰が公堂で「皮鞭を手にな んじを打つ」の一句を歌い終えると、いつも通り公孫杵臼を三回鞭打たねばな りません。一回鞭打つごとに、彼は「屁股座子」を一回して倒れます〔この しぐさは全身を使って飛び上がり、両股で座る〕。彼の体は鞭の動きによって 立ったり崩れたりし、それはじつにすばらしいものでした。幼年時代の所作の 基礎が身についていなければできないことです。この所作は「状元譜」35の程 伯愚が程大官を打つ調子と比べても、ずっと難易度が高いものです。打つ人と 打たれる人二人が、息が合い、技量が同程度であって、初めてこのような緊張 した場面を作り出すことができます。どちらかの技術が劣っていると、使い物 になりません。彼らお二人のほかに、私は他の人がこのようにできるのを見た 32 浣紗計:「子胥投呉」「蘆中人」とも。伍子胥は逃避行の途中、川のほとりで年老 いた漁師に出会い、向こう岸に渡してくれるよう頼む。向こう岸に着き、伍子胥 はお礼に剣を与えようとするが、漁師は断った。伍子胥が自分がここのことを秘 密にしてほしいと頼むと、漁師は疑われたことを恥じ、川に身を投じた。伍子胥 がさらに行くと、洗濯女に出会った。洗濯女は伍子胥を憐れんで、一飯を与え た。伍子胥が自分のことを秘密にしてほしいと頼むと、洗濯女は伍子胥を助ける ために未婚の身で異性と会話したにも関わらず、伍子胥に疑われたことを恥じ て、川に身を投げた。 33 朱砂痣:「行善得子」とも。韓旦那は、昔、金軍が攻めてきたとき、妻が死に、 子どもとは生き別れていた。仲人婆の取り持ちで妻を迎えることにしたが、新婦 がずっと涙を流している。韓旦那がわけを尋ねると、新婦は夫とともに旅をして いたが、夫が病気になり薬代が払えないので、自分を売ることにしたのだとい う。韓旦那は憐れに思ってこの結婚を反故にし、新婦には金を与えて去らせた。 一方、旅の夫婦は韓旦那の金のおかげで病気を治し、四川にやってきた。夫婦は たまたま老婆が子どもを売ろうとしているのを見かけ、子どもを買い取ることに する。夫婦は韓旦那の家にやってきて、以前のお礼にその子どもを韓旦那に贈っ た。韓旦那は子どもから身の上を聞くうちに、生き別れた自分の子ではないかと 思い、左足をみると、たしかに赤いあざがあった。 34 捜孤救孤:『趙氏孤児』の一場面。悪役の屠岸賈は、趙氏一族を皆殺しにした 後、唯一の生き残りである孤児が公孫杵臼に匿われていると聞き、捜索にやって くる。孤児を守るために、公孫杵臼と身替わりの程嬰の子が犠牲となる。

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ことがありません。程継仙さんは以前私に話してくれたことがあります。役者 たちは舞台では、闘蟀(コオロギを戦わせる娯楽の一つ)のように、一方の技 能があまりにかけはなれていると、戦いにならないのだと。これは本当に経験 からのお話しです。何人かの老先輩は配役を決めることについて非常に厳格で したが、それはこのような理由からでした。」 「当時ある人が、賈洪林さんの演技に対して、“「洒狗血」好きだ”と評しま した〔業界では俳優に対して、舞台での演技が度を越して観客のご機嫌を取る ことを、「洒狗血(犬の血を撒く)」と言う〕。私はかなり長い間、彼と同じ舞 台で演じましたが、彼がいかなる役を演じても、どれも真に迫っており、いず れも理にかない、やり過ぎだと感じませんでしたが、ただ観客の心理を捉えて いたと思います。しかも彼は自分が喝采を欲しがっていても、同時に共演者た ちのことも配慮していて、他の人の利点を引き立てることが出来ました。本当 に愛すべき同僚でした。彼が亡くなってすでに三十年以上になりますが、今で も彼を懐かしく思い出します。」 「翊文社の老旦謝宝雲について。私が演じた「探母」、「探窯」36「孝義節」37「樊 江関」は、すべて彼が私と共演してくれました。彼の声は清らかで明るく、あ る字を高くする歌い方もとりわけすぐれていました。演目ごと、さわりの一句 には彼独自の唱い方があり、一時の興に乗ってでたらめに唱うようなことは決 してしませんでした。いくつかの演目では、彼の絶技が節回しや台詞回しに使 35 状元譜:「打侄上墳」とも。陳伯愚夫婦は亡兄の子大官を引き取って育てたが、大官 は放蕩三昧の生活をしていた。悪友に唆された大官は、伯愚に分家を迫り、半分の 財産を手に入れたが、あっという間に使い果たしてしまった。大官は再び伯愚に金 をせびりにきたが、怒った伯愚に打たれて半死半生にされた。伯愚の妻が大官を憐 れんで銀を与えたが、大官が寝ているうちに盗まれてしまった。清明節の日、大官 が両親の墓参りをしているところへ、伯愚夫婦もやってきて、大官がまだ良心を失 っていないのを見て連れ帰った。大官は前非を悔い、猛勉強の末、状元で科挙に合 格したのだった。 36 探窯:「紅鬃烈馬」の一段。「探寒窯」とも。薛平貴が出立したあと、王允は娘の王 宝釧に再婚を迫るが、王宝釧は節を守って断る。 37 孝義節:劉備の死後、孫夫人は後を追って川に身を投げる。天界の玉帝は孫夫人を 神に封じたが、廟がないので、母親の呉国太の夢に現れて廟を建てて祭りを行うよ うに告げる。呉国太は目覚めると、玉帝の託宣に従った。

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われました。とにかく、彼のその一句は、ストーリーにぴったりしていて、ま た観客の気分を盛りあげるものでした。彼が胡素仙と共演した「牧羊巻」で は、舞台袖での倒板「月は反り返り天下を照らす(原文:月児彎彎照九州)」句 で、「州」字を高い声で唱うので、心地よく十分に堪能でき、彼がどんな苦労を しているのかなど微塵も感じさせません。これは彼の天賦の才と不断の努力が 一つになっているからこそ、このような境地に達しうるのでしょう。私が彼と 「樊江関」を演じたとき、彼は柳迎春に扮して唱う「彼ら二人が顔色を変じた のを見て(原文:見他二人変了臉)」句の「臉」字、「探母」では彼の扮する佘 太君が唱う「わが子を一目見れば涙がほおにあふれる(原文:一見嬌児泪満 腮)」句の「腮」字、いずれも神憑って気力が充実し、高らかに唱って雲に入 らんばかりでした。観客が聴いて心地よくなるだけでなく、楽屋の同業者たち も、みな彼のその一句を聴くのを心待ちにしていたのです。」 「彼は譚先生演じる「罵曹」38では、伝令官に扮しました。禰衡は「打鼓」の 場面で、登場の前に、いつも伝令官がまず「太鼓係よ幕舎に入れ(原文:鼓吏 進帳。鼓吏とは、本演目中で太鼓を叩く禰衡を指す)」の台詞をとなえます。 彼は「帳」字の後に「啊」字の音を加えるのですが、となえ方がさっぱりし ていて、また明るく響かせます。観客からは一度も満場の喝采が飛んだことは ないのですが。譚先生の禰衡が舞台袖で「参ります」と一声答えると、倒板の 「奸臣が権力を牛耳り漢朝を狙う(原文:讒臣当道謀漢朝)」を続けて唱い、 「朝」字で引き延ばす歌い方を使い、唱いながら舞台袖から登場すると、観客 からまた満場の喝采を浴びます。このようなちっぽけな端役なんてと思わない でください、彼の一句の台詞によって、観客の気分を盛りあげることができれ ば、主役が登場したら、容易に喝采が受けられるのではありませんか。だから 譚先生の「罵曹」では、いつも彼は喜んで伝令官をつとめたのです。」 「謝宝雲さんは崑曲の旦の出身で、後に京劇の老旦に改め、老生も演じまし た。彼は晩年、「二進宮」39の楊波を演じるのを最も好んでいました。彼が陳老 先生40、裘桂仙さん41といつもこの演目を演じるのを見たことがありますが、 学ばれた汪派の演技には先人の風格が漂っていました。」 38 罵曹:「打鼓罵曹」または「撃鼓罵曹」とも。曹操は名士の禰衡を呼びつけ、自分に 従わせようと、禰衡が得意な太鼓を叩くことを所望する。禰衡は見事な太鼓の演奏 を披露して、逆に曹操を辱めたという

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「謝宝雲さんと同時期だったのが龔雲甫さん42で、名声がさらに高い方でし た。有名になった条件は異なっていました。老旦という役柄で、上海で一番先 頭に名札が掛けられて、大トリを演じるというのは、過去に彼のほかにはいな いのです。私は彼と双慶社で一緒に演じたことがあります。彼の声、舞台姿、 しぐさ、表情、それぞれみな素晴らしいものでした。彼の顔は化粧をする必要 がなく、そのままで老婦人のようでした。彼が表現する劇中人物の身分や性格 は、みなほどよく合わせられていました。彼が演じる「探母」の佘太君をあな たは見たことがあると思いますが、一目見れば、太夫人の身分であることがわ かります。「吊金亀」の張義の母を演じれば、旧時代民間でのごく普通の老婦 人の様子でした。これは両演目の衣裳にもともと貧富の区別がないからだと言 う人もいます。それもそうとはかぎりません。さらにもう一つ例を挙げれば、 彼の演じる「断太后」43の太后は、「吊金亀」タイプの扮装とは違っていますよ ね。しかし彼の包拯との対話における表情や態度には、厳粛な重々しさがある 39 二進宮:「大保国」「探皇陵」「二進宮」という連続劇の一。「大保国」:明の穆宗の死 後、太子が幼いため、李艶妃が垂簾政治を行っている。李妃の父李良は簒奪を狙い、 李艶妃に大臣らの悪口を吹き込む。定国公徐彦昭と兵部侍郎楊波が参内して諫言する が、李艶妃は聞き入れない。「探皇陵」:徐彦昭は先帝の陵墓に参り、諫言が聞き入れ られなかったことを哭しつつ報告する。楊波が兵を率いてやってきて、徐彦昭と合流 する。「二進宮」:李良は簒奪を謀り、李艶妃を昭陽院に幽閉する。李艶妃はようやく 事態を悟り、後悔して嘆く。徐彦昭と楊波が兵とともに再び宮殿に入り、李艶妃は国 事を二人に託した。李艶妃の命を承け、楊波は兵を率いて李良を斬る。 40 陳徳霖(1862-1930):名は鋆璋、字は麓畊。「老夫子」と呼ばれた。原籍は山東黄 県、北京に生まれる。京劇の旦行俳優(女性役)。 41 裘桂仙(1878-1933):別名茘栄、北京の人。京劇の浄行俳優。 42 龔雲甫(1862-1932):名は瑗、別名は世祥。京劇の老旦俳優。湖南常徳に生まれ、 12 歳の時、祖父と伯父にしたがって北京に移り、玉加工の職人となった。しかし、 京劇に惹かれて、京劇俳優に弟子入りしてプロになったという経歴を持つ。最初は 老生の演技を学んだが、のちに老旦に鞍替えした。 43 断太后:「遇皇后」とも。舞台は北宋の始め。包拯(宋代の実在の人物で、中国に 於ける名裁判官として有名)は天斉廟に出かけた折、盲目の老婆に出会った。老婆 は自分がかつての李后で、赤子を産み落とした後、嫉妬深い劉皇后によって赤子を 奪われ、宮中を追われたことを話す。包拯が試みに宮中のしきたりについて老婆に 尋ねると、ことごとく老婆のいうとおりであった。包拯は老婆が李后であると確信 し、当時のことを調べ直して、老婆の名誉を回復する。

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でしょうか。彼はふつうの市井の婦人だと言えると思います。だから彼の衣裳 はありきたりですが、仕草や表情はいきいきとしています。ここにそれぞれの 演技と修養をみるべきでしょう。」 「龔雲甫さんは唱としぐさのどちらも一生懸命努力していましたが、一つの 欠点は、彼には喉の調子のよいとき悪いときがあり、それが予測不能だった ことです。彼の芝居は運に左右されていました。登場して第一句を歌っただけ で、なじみの観客は今日の喉の調子がわかるのでした。彼の喉の調子が絶好調 であれば、観客は本当に大喜びですし、みな龔雲甫さんの今日の喉は在宅中だ と言い、絶えず喝采をあげて彼を鼓舞しました。もしその日の喉が悪くても、 彼は人当たりがいいので、観客は彼を許していました。彼はこうやって数十年 名声を得ていました。」 「田雨農さんは田際雲さんの息子です。彼は武生であり、舞台姿がかっこよ く、立ち回りの技術も熟練していて、兪五さん〔兪振庭〕44の流派を学んでい ました。勇ましさが先に立ち、穏やかな老練さが不足していました。芝居の冒 頭しばしば張り切りすぎて武器を手から落としてしまうことがありました。こ れも兪五さんのいつもの欠点でした。だから冗談好きな人が田雨農さんを批評 して、彼は兪五さんに学んで本当に自家薬籠中のものにした、この技さえもマ スターしたのだからと言っていました。私は彼と「長坂坡」45で共演し、賈洪 林さんが劉備、郝寿臣さんが曹操、王惠芳さんが甘夫人、私が糜夫人を演じま した。糜夫人の「跳井」の演目では、彼は大変真面目に演じ、少しも手加減す るようなことはありませんでした。しかし表情では楊先生の生き趙雲と比べる と、かなり劣っていました。彼の腕前なら、もし早世しなかったら、晩年、 きっと大きな成果があったはずです。」 「瑞徳宝さんの武生の技術は、黄派〔月山〕46の正統を学んだものです。彼の 44 兪振庭(1879-1939):京劇の武生俳優(立ち回りを専門にする男性役)。 45 長坂坡:新野に駐屯していた劉備は曹操軍の攻撃を受け、慌ただしく南下する。趙 雲は乱戦のさなか、劉備の妻子を見失ってしまう。趙雲が探しに戻ると、糜夫人が 阿斗を抱いて座り込んでいた。糜夫人は阿斗を趙雲に託し、井戸に身を投げた。趙 雲が長坂坡まで逃げてくると、張飛が曹操軍に向かって一喝し、それ以上の追撃を 許さなかった。 46 黄月山(1850-1900):天津の人。豊満でたくましい体つきだったので、みな「黄胖」 と呼んだ。京劇の武生における三大流派の一つ、「黄派」の創始者。

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技術は李吉瑞47の下にあるものではありませんでした。舞台上では規範的な方 法を研究し、決して犬の血を撒いて観客にこびを売るようなことはしませんで した。彼は清朝の宮廷で演じたとき、やはり「落馬湖」48「刺巴傑」49「下河東」 50、「百涼楼」51などの黄派の武生劇を主に披露しました。のちにはよく譚先生と 共演し、譚さんの影響を受けて、老生の劇も演じました。「打棍出箱」52「売馬」 53、「打漁殺家」54などです。彼が翊文社に所属したとき、すでに武生・老生を 兼任して演じていました。私も彼と「長坂坡」で共演したことがあります。彼 が割を食ったのは舞台姿が平凡で、英雄の気概に欠け、喉にも柔軟性が足りな かったことです。天賦の才能に限界があって、ついにスターになることはな く、晩年は上海で教師になりました。彼は非常に篤実な方で、彼に師事して芝 居を学べば、彼は倦むことなく、強い責任感を持って教えました。」 私たちがまさに興に乗って話していると、列車の乗務員が寝具を整えに入っ てきた。そして懇ろに私たちに教えてくれた。「この車両の暖房に不具合が生 47 李吉瑞(1868-1938):京劇の武生俳優。 48 落馬湖:『施公案』に基づく演目。落馬湖の首領李佩は施仕倫を捕らえて殺そうとし たが、配下の李大成は施仕倫を救いたいと考え、ひとまず止めさせた。李大成は黄天 覇に事情を話した。黄天覇は李大成らの協力を得て、李佩を捕らえ、施仕倫を救い出 す。 49 刺巴傑:明代小説『緑牡丹伝奇』の一節。駱宏勛は旅の途中、妻を奪いに来た巴傑 と言い争いの末、誤って巴傑を刺し殺してしまう。駱宏勛は同窓の胡璉・胡理の営 む宿屋にかくまってもらう。そこへ、息子の死を知った馬金定が、仇を探して胡璉 の宿屋にやってくるが、なんとか駱宏勛を隠し通した。 50 下河東:『楊家将演義』の一節。北宋のはじめ、宰相の欧陽方は帝位簒奪をもくろ み、ひそかに河東の劉崇と手を組んでいた。劉崇がその子白龍に宋を攻撃させたの で、宋の皇帝趙匡胤は親征するとともに、呼延寿廷を先鋒として向かわせた。欧陽 方はもともと呼延寿廷と不仲であったので、呼延寿廷が謀反を企んでいると誣告し て、趙匡胤に呼延寿廷を斬らせた。かくして欧陽方は権力を握ったが、趙匡胤が武 芸に優れるがゆえに、手を出せないのであった。 51 百涼楼:反乱軍の首領郭子興が亡くなり、朱元璋がその後継者となった。劉福通は そのことに不満を持ち、朱元璋を宴に招き、その場で殺害する計略を立てた。朱元 璋が配下の呉禎を伴い、百涼楼の宴に現れた。劉福通は部下に命じて剣舞を披露さ せたが、しばしば朱元璋に迫ったので、呉禎が劉福通の部下の殺害した。朱元璋ら はその場から逃げ出し、配下の蒋忠と常遇春が劉福通の追っ手を防いだ(https:// scripts.xikao.com/play/01023007 2021 年 1 月 22 日閲覧)。

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じております。お客様には夜間風邪を引かぬようお気をつけ下さい。」そんな 遅い時間になっていたので、みなそれぞれ部屋に戻って休んだ。 翌日の昼食のとき、食堂車が混んでいたので、私たちは交替で食べに行っ た。私と葆玖が食べ終わって戻ると、梅先生が交替で食べに行った。梅先生が 行ったあと、列車がちょうどある駅に入ったので、葆玖が下りて上海の新聞を 何部か買ってきて、梅夫人が読んでいた。私が向かいのベッドに寄りかかって いると、突然、梅夫人のまあという声が聞こえてきた。私はすぐに座りなおし てたずねた。「新聞になにかニュースでもありましたか。」彼女は「費穆さん55 が亡くなったって、本当に信じられないわ。」と言った。私はそれを聞いて、 しばらくなにも言うことができなくなった。費穆さんと私たちとは、十数年来 52 打棍出箱:「瓊林宴」「問樵鬧府」とも。范仲禹は科挙の後、帰郷したが、妻がいな くなっていた。土地神が木こりに変じて、范の妻が大臣の葛登雲にさらわれたこと を教えた。范仲禹は葛の邸宅に行ったが、葛登雲が否認し、范もそれを信じ、言わ れるまま葛の邸宅に泊まることにした。その夜、葛登雲は刺客を放ったが、煞神が 范を守って刺客を殺した。葛は范が人殺しをしたと誣告し、范を棒で叩いたのちに 半死半生の状態で箱の中に閉じ込め、小者に荒野に持って行って燃やすように命じ た。一方、范は状元で合格していたが、合格者を祝う瓊林宴に現れないので、使者 が探しに来ていた。使者は葛府の者が箱を担いでいるのを見て、箱を奪い取って開 けてみると、中から生き返った范が現れたが、すでに正気を失っていた。 53 売馬:「天堂州」「当鐗売馬」とも。秦瓊が罪人十八人を天堂州へ護送中、一人が死 んだために、護送先の役人は秦瓊に復命書を与えなかった。秦瓊は一年あまり宿に とどまっていたが、金が無くなり、やむなく愛馬を売ることにした。通りかかった 単雄信が馬を気に入り、宿の店主と秦瓊と話しているうちに、単は金を払わず馬に 乗って去ってしまった。秦瓊が困っているところ、知り合いの王伯当と謝映登に出 会い、二人の口添えで復命書を出してもらい、秦瓊は無事に戻ることができた。 54 打漁殺家:『水滸後伝』の一節。かつての梁山泊の頭領蕭恩(阮小五)は、娘の桂 英と、魚を捕って暮らしていた。土地の有力者丁旦那の手下が、漁業税を要求した が、蕭恩には払うすべがなく追い返した。丁は大教師を派遣して、さらに蕭恩を圧 迫したが、李俊らが加勢して追い返した。丁は役所に訴え出て、丁に袖の下をつか まされた県令は、蕭恩に厳しい処罰を加えた。蕭恩は策を講じ、娘の桂英とともに 丁の邸宅に入り込み、丁旦那と大教師を殺害したあと逃げ去った。 55 費穆(1906-1951):上海生まれの映画監督。1948 年、梅蘭芳の舞台を撮影した「生死 恨」を監督。これは中国初のカラー映画であった。代表作は同年の「小城之春」。香 港で心臓病により死去。

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の仲のよい友人であった。少し前に香港の友人から届いた手紙には、彼が心臓 病で入院して治療を受けることになったが、すでに快方に向かっているとあっ た。梅夫人は新聞を片付けることにした。梅先生に見せないようにするためで ある。彼はゆうべよく眠れていないからということだった。私たちが話をして いると、梅先生が食事し終えてコンパートメントに入ってきた。ベッドに腰掛 け、カップのお茶を手にして、ゆったりと飲んでいる。ついでに新聞を手に とって読み始めた。私は仕方なく言った。「不幸な知らせがありました。私た ちの友人が香港で亡くなりました。」彼は目を大きく見開いて、「費穆さんでは ありませんよね。」私が「彼です。」というと、梅先生はしばらくぼんやりとし て、ティーカップを置いて私に尋ねた。「あなたたちはどうしてそれを知った のですか。」「上海のいくつかの新聞に訃報が載っていて、それからニュースも あって、おそらく間違いないでしょう。」梅先生は新聞を手に取り、「費穆先生 葬儀場ご案内」を読み終えると、つらい気持ちを抑えきれず涙を流した。彼は 泣いた。みんな黙り込んだ。梅先生はむせび泣きながら言った。「こんな心の 熱い友人が、こんなにも早く我々に別れを告げるなんて、本当に悲しいことで す。新聞には、心臓病で亡くなったとありますが、おそらく過剰な仕事の疲れ のせいでしょう。」その日、梅先生はずっと打ちひしがれた様子で、はやばや部 屋にカギを掛けて寝てしまった。しかし私は隣のコンパートメントだったので、 彼の咳き込む声がずっと聞こえてきた。きっとまた一晩中よく眠ることができな かったのだろう。 参考文献: 『戯考大全』上海書店、1990 年(初版『戯考』全四十冊、1915-25 年) 陶君起『京劇劇目初探』中華書局、2008 年(上海文化出版社 1957 年初版、中国戯劇出 版社 1963 年増補訂正版) 『中国大百科全書 中国文学』中国大百科全書出版社、1988 年 王長発・劉華『梅蘭芳年譜』河海大学出版社、1994 年 『中国劇目辞典』河北教育出版社、1997 年 北京市/上海芸術研究所『中国京劇史』全六冊、中国戯劇出版社、2005 年

参照

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