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『歎異抄』第三条考 ―「善人・悪人」概念をめぐって―

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『歎異抄』第三条考 ―「善人・悪人」概念をめぐ

って―

著者

華園 聰麿

雑誌名

論集

41

ページ

1-28

発行年

2014-12-31

URL

http://hdl.handle.net/10097/00130327

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「善人なほもつて往生をとぐ、 いはんや悪人をや」という『歎異抄』第一 云一条の文(八一テニ頁) は、 この書物の白眉と目さ れてきただけではなく、 浄土真宗の開祖親鸞の最も核心的な思想の―つを表すものとして人口に謄灸してきた。 これはいま 『歎異抄』第三条考 一、 はじめに キー ・ワード 親鸞 歎異抄 善人 悪人 凡夫 《要旨》「善人なほもつて往生をとぐ、 いはんや悪人をや」という『歎異抄』第三条の言葉は、 親鸞の悪人 正機の思想を端 的に表すものとして多くの人に注目され、 数限りなく言及されてきた。 しかしながら、 この言葉が師法然の「善人尚以往生、 況悪人乎」という口伝を受けたものであることは夙に指摘されながらも、 このことから当然問題にされるべきこの第三条の 史料性格についてはほとんど関心が寄せられてこなかった。 そのためにここで用いられている「善人・悪人]という概念が、 その思想的前提が考慮されることなし に、 時には厳密さを欠いたまま に、 時には恣意的に理解されてきた。 本論はこの概念 を理解する際の当然の道筋を、 法然と親鸞の末法観および仏教観ならびに信仰の立場の相違に着目し て、 明らかにすること を目的とする。 親鸞は自らの立場から「善人・悪人 l という表現を積極的に用いなかったというのが結論である。

|「善人・悪人

l

概念をめぐって

1

『歎異抄』

第三条考

麿

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のような研究動,旧を小唆し いる いう考えか出てきました 各 ) (IU 私たちは考えかたをあらためなければなりません, 叫侃殻の家放と門弟』 し L {」^ さらに今井雅貼も表,Ilって『法然l人伝叫』 に触れてはいないものの、「近作、 悪人什機説は親翌の専先牡叶ではないと 対して笞告を発するとともに 悲人IL機成の'日ぺ心息に辿ろうとした点が汀

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に値する。 几して『払然t人仏記」 兼びに 『lJ伝紗』 および盈贄共抄』 を詳細に比較し、 親憫のレ梨の扁理を見諜ることによる陥布に 同じく親冠の思和心の独自性を明らかにするごとにあ るか、 とくに第一条の冒頭を正の価仙と負の仙仙との論理的な椛沿に問 醍醐本 「法然t人伝記』 の前心の箇所および党如の1パ少」LL'A_^ へJ のー叫巾に触れてい る( . h貝以下)。 著者のH的は、 仏藤と また半 雅hもその苫上[『親 網騎 とその時代」 傾きがある」 "華園 隙脱 う\C キ 4し ) 一) , 瓦伶兵抄』 第二条の 「西人・悪人, の概念を考察する際に、 やはり さら言うまでもない周知のことである。 それとは別に、 汰然の伝記の つである醍醐本『払然卜人伝叫』の記述の中に 人尚以礼4祝北人平中此, (『昭和祈修怯然L人↑虹』、 四れ四頁)があることもすてに広く知られており、 液.又と和文との相述 はあるものの内容かほぽMしであること、 後者は飢者の訓訛とも受け取られ得ること、 したがって『恢札抄』の文言はもと もと法然の思想を親紐号がrlらの大現で4 .nい表したものと見なされ得ることなとが諭議されてきた(仏朦JL"央『牧柑抄論、門、 hじ四頁参照)。「恢既抄」そのものの研究に新たな▲ 11を投したと評してしかるべきと思われる佐藤IL侭はこの問題につい てこう述べている。「「"吉人なをもて行生をとぐ、 いはんや悪人をや, という捉言をそのまま,但ちに親翌独自の思想の現れと 解する ごとはできない。 それを読みとるとすれは、 この捉―ニロをめくって親翌が紅滋的にあるいは無意識押に営んだところの 思想的党為、 いいかえればこの提. 4-日に親憫が付与した意吐に求める他ないてあろう」(屈)。 しかるに親憫の

t

苫祉い行に証』 ならびにその他の述作および内愉にはこれに閃する論述が見出されず、 親翌の曾係党如の編集になる『11仏紗』の品事を除 けば、 親憫周辺の文献にも令く見受けられないとして、 仇藤はこの弟一一条を措いて親内の思想的悩為を窺い知るべきTかか りはないという立場を採っ

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いる。 佐藤によれは、「奇妙なこ とたか、 この瓜についてややもするとなおざりにされてきた (詞、.hじ0貞)という。 「苦

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佐藤正英は、 従来の研究や論議において「なおざりにされてきた 」ことの具体的な実態を指摘しながら、 また平 善人・悪人論の論理的構造に注意を払いながらも、 それぞれ比較に際して当該史料・文献が前提にしている「信仰」の立場、 さらには「仏教」そのものの理解の仕方の相違にほとんど関心を示していないと いうことに改めて気づかされるのである。 本論はその点に着目して『歎異抄』第一―一条の思想的意義および親鸞その人の浄士信仰の独創性を考察することを目的とする。 差し当たりの問題は法然と親鶯の思想的相違に関わるものであるが、 ここでは両者の時代認識、 すなわち「末法」の理解、 両者の信仰の原点とも言い得る「凡夫」観並びにその根拠をなす「仏教 l 観を取り上げることにする。 なお、 本論は親鸞の 思想の独自性を論じるのが主眼であるため、 親鸞の側から法然にアプローチするという姿勢を採ることをあらかじめ断って おきたい。 『歎異抄』第三条考 「善人尚以往生況悪人乎」 という文言が法然の 「口伝」 であるこ 二、 善人・悪人論の文脈の問題 『歎異抄』第三条の研究を振り返って「奇妙なこと」という印象を抱いた佐藤正英に倣って、 当人ならびに平 雅行およ び今井雅晴の考察に目を向けると き、 同じく_奇妙なこと l と感じざるを得ないことがある。 それは‘ -―一人とも『法然上人 伝記』の当該箇所にある「口伝有之」について一言半句も触れていないことである。 この口伝に早くに注目して、 法然と親 鸞との間にはその根本思想に関して相違はなかったとい うことを示す証拠の一っと見たのは増谷文 雄であ った(『歎異抄』、 昭和『一九年、『増谷文雄名著選集II』所収)。 ただ し、 そのことと絡めて「口伝であるということは、 (略)それが一対一の相対 坐のなかで、 はじめて、 口から口へ、 心から心へと伝えられるべき、 ぎりぎりの奥義であることを 意味する」(『増谷文雄名 著選II』三七0頁)と解釈している点に対しては、 本論で問題にする「私釈」を排除しかねないところから同意することが で きない。 これとは別に梯 賓園は「この教語は、 極めて誤解を受けやすく、 (略)造悪無碍の異端者の 口実になる可能性が 高かった。 そのために法然は真意を理解してくれるほどの弟子にだけ口授されたのであろう」(『法然教学の研究 』、一ニニニ頁) と推察している。 言われるような理由の当否は別にして、 雅行が

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とを示すこの 「口伝有之」 という注記を信用すれば、 梯 賓園が言うように、 おそらく師の口伝を授けられ た人物は、 この 伝記の著者と伝えられる 「法然に 常随給仕すること十八年といわれる源智」 (田村円澄『法然』、 二0一頁) の ほかにも存在し ていたであろう。 ところで当の『法然上人伝記』に は、 この口伝を受ける形で「私云 l という書き出しの源智による解釈、 いわゆる「私釈」 が書き記されている。 現在のところこのように明確な形で私釈が付されている他の門弟達の伝承史料は伝えられていないの で、 厳密な比較考察はできないが、 もしも口伝を授かった人物がそれに私釈を付けることが一種の定型もしくは伝統をなし ていたと想定してよければ、 改めて『歎異抄』と同様に親鸞の口伝を伝える覚如の 『口伝紗』の書式を検討してみる必要が あると思われる。 周知のようにそれは次のように書き出されている。 一 如 来の本願は、 もと凡夫のためにして、 聖人のためにあらざる事。 本願寺の聖人(親鸞)、 黒谷の先徳(源空)より御相承とて、 如信上人仰せられていはく、 世のひとつねにおもへらく、「悪 人なほもつて往生す。 いはんや善人をや」と(略)」 (九0七ー九0八頁) 。 見られるように、 ここには親鸞の孫に当る如信という人物が介在してい て、 その口を通じて親鸞が師の法然から「相承」し た「口伝 l が語られたという体裁になっている。 そして「世のひとつねにおも へらく」以下の文をこの口伝に対する「解釈」 と考えることができるとすれば、『口伝紗』のこの文章構成は、『法然上人伝記』のそ れと軌を一にしている。 そして祖父親 鸞の一口伝」を伝える如信を信頼してよければ、 この解釈は親鸞本人の私釈 (「自釈」) と見な して差し支えないであろう。 しかも、 すぐに気がつくのは、 この私釈の「悪人なほもつて往生す。 いはんや 善人をや」の部分が、「悪人 l および「善人」 という用語に関して何の説明もなしにいきなり言い出されてい て、 いかに も唐突な印象を与えることである。 おそらく条目 との関連で法然の口伝の部分が省かれて、 末尾のような文言に懺き換えられたのであろう。親 鸞が法然から相承したのは 「善 人尚以往生況悪人乎」という文言であったはずであ る。 この文言を受ける形で私釈が始ると読めば唐突さ は解消する。 その 際に親鸞は自らの立場 から「善人」を「聖人」 と、 また 「悪人]を 「凡夫」 という言い方に替えて如信に伝え た。 そして覚 華園 聰麿

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如は親鸞の「口伝」を記録するという主旨から、 この変更された表現を書き記し、 条目とした、 という経緯が想定され得る であろう。 覚如が彼が置かれていた立場から親鸞の口伝もしくは如信の伝言に手を加えたという可能性も考えられないでは ないが、 目下のところその点には立ち入る術がない。 このことを念頭において、 改めて『歎異抄』第三条の文章構成を眺めれば、 『法然上人伝記』および『口伝紗』との類似 性はもはや疑う余地がないであろう。 この第一一一条もまた法然の口伝で始っているのである。 佐藤正英もその部分を「や はり 法然の言葉をそのまま語り伝えたものと解されるべきであろう」(前掲書、 五六九頁)と見ている。 その理由として 「そもそ も親鸞は、 己れの抱く思想が己れ独自の法義であるといった意識を少しも持っていない。法然の祖述者をもって任じている」 (同)ことを想定しているが、 この点は本論の中心問題の―つである。 ともあれここでは差し 当たり『歎異抄』第――一条を理 解するための史料的な前提を提示するに留めて置 く。 確認すれば、 第三条は法然の思想を親鸞がその門下の一人として受け 継ぎ、 師の用語を自らの解釈のもとに伝えたものである、 というのがこの条の理解の前提になるということである。 それでは『口伝紗』が親鸞の「口伝」として「善人」の代わりに「聖人」という語を 、 ま た「悪人」と言わずに「凡夫」 という表現を伝えていることをどのように考えればよいのか。 如信および覚如の独自の意図もしくは解釈によるのか。 それ とも親翌自身の用語だったのか。 差し当たりここでは後者に着目することにするが、 それではなぜ親鸞は[善人●悪人」と いう師法然の表現を用いることを避けたのか。 それを考察するためには法然と親鸞の信仰および思想上の相違を検討してお かなければならないであろう。 増谷文雄は、 法然に対する親鸞の「絶対憑依の態度のすばらしさ」を強調するあまり、 「親 鸞はその思想において、 なんら法然の外にいでなかった」(前掲書、 四0八頁)というが、 逮に左担するわけにはいかない。 法然から親鸞への師資相承が「潟瓶」に終ったとはどうしても考えられないからである。 三、 法然および親鸞の末法観と凡夫観 改めて言うまでもなく、 法然も親鸞もともに末法という時代認識を共有してい た。 法然については、 『歎異抄』第三条考 『選択本願念仏集』

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がその勢頭に道綽の『安楽集』から「当今は未法、 現に これ五濁悪世なり」(八八頁)の文を引いて人々の注意を喚起し、 結 語では「浄士の教、 時機を叩いて行運に当れり」(-六二頁)と、 時代 の状況と人々の機根に相応する専修念 仏を勧めている。 その他法然の法語を伝える文献にも数多く見られるが、 とくに親意との関係において注目される のは、『法然上人絵伝』(第 四十五巻 )に見える「末法のなかには 持戒もなく、 破戒もなし。 たゞ名字の比丘のみあり。 伝教大師 の「末法燈明記」に、 そのむねあきらかなり。 このうへは持戒・破戒の沙汰あるべからず。 かくのごとくの凡夫 ヒラ凡夫(『十二の問答』、 石井 教道、 前掲書、 六三四頁) のために、 おこしたまふ本願なれば、 ただいそぎいそぎ/\ても名号を称すべし l( (下)二ニ六 頁)という記事である。 周知のように、 親鸞 もこの『末法燈明記』を重要視して、それを長文にわたって『教行信証』の「化 身土巻」に書き記している。 その上で末法にふさわしい仏教のあり方を問い、一聖道の諸 教は、 在世・正法のためにして、 まった<像末・法滅の時機にあらず。 すでに時を失し機に乖けるなり」(四ニニ頁)と断じ、「浄土の真宗は証道いま盛んなり」 (四七一頁)と自らの浄上信仰を宜揚した。 この一一人の末法観について、 その受け止め方の深刻さの度合いやそれに対する姿勢の違いを比較して論じることは容易な ことではない。ここでは差し当たり 両者の用語およびその理解を手がかりにして判明する点を述べることにする。法然にとっ ても親鸞にとっても、 末法が仏教滅尽の危機であるという認識は共通していたが、 法然があくまでも伝統的な仏教の枠組み の中で自らの信仰を確立し、 それに基づく浄土教学を構築したのに対して、 親鸞は伝統的な仏教と訣別して、 全く新しい視 点から、 より正しくは宗教的な欲求から自らの信仰のあり方を 模索し、 それを裏づける仏教思想を体系的に組み立てようと した、 という目論見を立てて考察を進めてみたい。 その際に、 慈円が『愚管抄』において「不思議ノ愚擬無智ノ尼入道ニョ ロコバレテ、 コノ事ノタゞ繁昌二世ニハンジャウシテツヨクヲコリ(略)」(二九四頁)と報じたように、 法然の浄土教が時 代に敏感であり、 当代の幅広い人々に訴えたという事実に鑑みて、 それを受容した人々に目を向けることが―つの糸口にな り得ると考える。 そのような人々は法然および親鸞により宗教的な意味で「凡夫」と総称されたが、 その含意は必ずしも同 じではないように思われる。 その相違の因って来る所以をも尋ねる必要がある。 華園 聰麿

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の私釈よって「邪見」 いと戒められている。 法然が、 先に引いた『法然上人絵伝』(第四十五)において「凡夫 」 もしくは『十二の問答』では「ヒラ凡夫」という呼び 方を用いたとされているが、 そこにはこの呼称に関して、 末法 において「持戒・破戒の沙汰 」 の埒外にある者という以上の 説明は見当たらない。 一方、 『選択本願念仏集』においては、 凡夫は、 たとえば「凡夫は智浅く、 惑障処深し」 (―二四頁). と認定され、 また「一切の罪障の凡夫」(同)あるいは「罪悪生死の凡夫 」 (―ニニ頁)として認識されている。 いずれも善 導の『観経疏』に拠っており、「凡聖 」 という名辞によって括られた概念である。 言い換えれば、 この「凡夫」は「聖人 l あるいは「賢聖 l と対置された相対概念である。 さらに「智」の浅さの理由は、「理は深く解は微なる 」 ことが避け難い末 法の宿命だとする『安楽集』の説に帰せられている (八八頁)。 これらがあくまでも伝統的な視点から理解されていることは 言うまでもない。 また「罪障」あ るいは「罪悪 」 という概念も、 基本的に伝統的な「戒律 」 の範疇のもとで理解されている。 たとえば、「下品下生はこれ五逆重罪の人なり。 しかもよく逆罪を除滅すること、 余行の堪へざるところなり。 ただ念仏の みあって、 よく重罪を滅するに堪へたり。 故に極悪最下の人のために、 極善最上の法を説くところなり 」 (ニニ九頁)とある のはその一例である。 また 「黒田の聖人へつかはす御文」としても伝えられる『法然上人絵伝』(第廿一)の記事に、「罪は 十悪•五逆の者も生ずと信じて、 少罪をも犯せしと思ふべし。 罪人猶生る、 況や善人乎 」 (上、 ニニ八頁)とあるのを見れば、 法然が善悪の立息味を伝統的な規範のもとで理解していたことは明瞭であろ う。 もちろん戒律には、たとえば「五戒」には「不 楡盗 」 や 「 不妄語」 、 また 「五逆」には「殺 父・殺母」などといった世間の道徳や掟と重 なるものが あり、 その理解も重複 していたであろうが、 叙上のことを仏教の脈絡において論じる場合に は、 やはり戒律を念頭に置 くのが妥当であろう。 『選択本願念仏集」に引かれた新羅の華厳僧元暁著『遊心安楽道』の「浄土宗の意はもと凡夫のためなり、 兼ねては聖 人 のためなり 」 (九0頁)という思想( 著者に関する異論については平 雅行、 前掲書、 ニニ六頁を参照されたい)は、 おそらく前 者 にある「念仏また九品に通ずべし」(―-四頁)という理念に拠ったもの か、 『法然上人伝記』においては 源智による「口伝」 と見なされ 、「凡夫のためにして兼ねて聖人のためなり」というようにその主旨を領解してはならな 「弥陀本願ハ自カヲ以生死ヲ離可方便有善人ノ為ニヲコシ給ハ ス。 極重 悪人無他方便輩ヲ哀テヲコシ 『歎異抄』第三条考

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給ヘリ。 然ルヲ菩薩賢聖モ之付テ往生 求、 凡夫ノ善人モ此願二帰テ往生ヲ得。 況罪悪ノ凡夫尤此他カヲ憑可シト云也」(石 井教道、 前掲書、 四五四頁)という理由によるのであるが、 この「之付 テ」および「此願二帰テ」というところが法然その人 にあってはさらに深く突き詰められた。 すなわち遺言とも伝えられる 『 一枚起請文』において、 自ら主張してきた一念仏」 を次のように規定したからである 。「たゞ往生極楽のためニハ、 南無阿弥陀仏と申て、 疑なく往生スルゾト思とりテ、 申二 ハ別ノ子さい候ハず。 但一―一心四修と申事ノ候ハ、 皆決定して南無阿弥陀仏にて往生スル ゾト思フ内二籠リ候也。 (略)念仏 ヲ信ゼン人ハ、 たとひ一代ノ法ヲ能々学ストモ、 一文不知ノ愚とんの身ニナシテ、 尼入道ノ無ちノともがら二同しテ、 ちし やノふるまいヲせずして、 只一かうに念仏すべし」(一六四頁)。 ここでは智者および学者 が「 一文不知の愚鈍の身」になる ことが要請され、「尼入道の無智のともがら」が往生の正機とされている。 周知のように 、 親 鸞も乗信房宛の消息で、 法然 が「ものもおぼえぬあさましきひとびと」を見ては「往生必定すべし」と言い、 智者ぶった「 さかさかしきひと」に対して は「往生 はいかがあらんずらん」と首をかしげていた、 と書き送っている (七七一頁) 。『 歎異抄』に言われている「自力の こころをひるがへして」というところに通じるものであ るが、 ただし、 ここで要請されている「無智」はあくまでも「智」 の範囲内のものであり、「器」に対す る「非器」の立場にとどま っていて、 その限りにおいて往生の可否の究極の根拠は念 仏者の側に置かれている。 また「尼入道」という概念も旧来の仏教の範囲を出るものではない。 要する に、 法然の浄上教は 伝統的な仏教の枠組みを抜本的に見直すことなく、 その中で時機相応の道を選択したと言っ てよいであろう。 おそらく法然 その人の原点とも言 うべき挫折の体験に由来する発想であったと思われる。『法然上人絵伝』に よれば、 法然が専修念仏に 回心したのは従来の仏教の教行に堪え得ないことを自覚したことによるとされて いる 。その絶望感を同書はこう伝えている。 、 、 、 、 、 「かなしきかな、かなしきかな、いかゞせん、いかゞせん。 こAに我等ごときはすでに戒 定恵の三学の器にあらず」(第六 、(上) 五六頁)。 そし て経蔵に篭もり聖教を渉猟するうちに善導の 『 観経疏』に遭遇し、 その中に「一 心に専ら弥陀の名号を念じて、 行住坐臥、 時節の久近を問わず、 念々に捨てざるもの、 これを正定の業と名づく、 か の仏の願に順ずるが故に」(同)とい う文を見出して、 これが「ふかく魂にそみ、 心にとゞめ」て、「我等がごとくの無智の身 は偏にこの文をあふぎ、 専このこ 華園 聰麿

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『歎異抄』第一_一条考 「今のよの鉢をあた とはりをたのみて、 念々不捨の称名を修して、 決定往生の業因に備べし l (同、 石七頁)と新たな決意を固めたとされる。 経 に「仏の願に順ずる」とあることを根拠にして「念仏」を選択したという点に法 然の基本的姿勢が窺われるであろう。 増谷 文雄は、『歎異抄』第九条における唯円と同類の疑問に対して法然は「経のことばをその支柱として」、「教学の用語」をもっ て答えたと述べて、 法然 が伝統的な「人師」の立場を堅持していたことを示唆している (前掲薔、一二八八頁) 。 同時代者の一人天台僧の慈円は 時代の流れを「保元以後ノコトハミナ乱世ニテ侍レバ」( 『愚管抄』‘ ―二九頁)と悲観的に 捉え、「コノ世ノカハリノ継目二生レアイテ」、 世の移り行く様を目にすることをば「世ニアハレニモアサマシクモヲボユレ」 (=一五0頁)と慨嘆し、 そのような眼で法然浄土教の流行にも眉を蟹め、「不思議ノ愚擬無智ノ尼入 道」たちに喜ばれるよう になった仏教の現状を、「「コノ行者二成ヌレバ、 女犯ヲコノムモ魚鳥ヲ食 モ。 阿弥陀仏ハスコシモトガメ玉ハズ。 一向専修 ニイリテ念仏バカリヲ信ジツレバ、 一定最後ニムカヘ玉フゾ」卜云テ、 京田舎サナガラコノヤウニナリケ ル(略)」(二九四頁) と呆れたように書き記した。『愚管抄』を文字通りに読む限り、 法然に対する慈 円の態度は冷たく、 法然の最期についても、 「往生々々 卜云ナシテ人アツマリケレド、 サルタシカナル事モナシ。 臨終行儀モ増賀上人ナドノヤウニイワルヽ事モナシ」 (二九五頁)と、 人々が期 待した瑞相が現れなかったと素っ気なく報じている。 もとより慈円によって認識された[世ノカハリノ継目」 はヽ 立場によつてさまざまに受け取られた o たとえぱ同時代の「平 治物語』が「昔より今にい たるまで王者の人臣を賞するに、 和漢の両国をとぶらふに、 文武の二道を先と す。 文を以 ては万 機の政を助け、 武を以ては四夷の乱を定む。 されば天下を保ち国土を治る謀こと、 文を左に武を右にすとこそみえたれ。 縦 ば人の手のごとし。 二つもかけてはあるべからず」(上、 (信頼・信西不快の事)、 日本古典文学大系、 一八九頁)と書いた のは、 言うまでもなく、 従来の王王法仏法牛角」の国家体制が転換したことを指したものである。 しかもそれは同時に、「それ末 代の流に及び、 人奢ては朝威を蔑如し、 民武しては野心を悴む。 能用意あるべきか」(同)と同じ『平治物語』が言う ように、 末世において頼るべきは何か、 を各人が自身で考えなければならない時代の到来を告げるものでもあった。 また文学の分野においても、 たとえば鴨長明は当代の和歌に関する随想を綴った『無名抄』の中で、

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らしくいできたるやうに 思へるは ひが事にて侍るか」という質問に対する答えの形でこう書いている。_このなん[難]は いはれぬ事なり。 たとひあたらしくいできたりとてもかならずしも、 わろかるべからず。 もろこしには、 限りある文林だに もよA[世々]にあらたまるなり。 この国の小国にて人の心ばせおろかなるによりて、 諸の事を、 昔にたがへじとするにて こそ侍れ。 まして歌は心ざしをのべ、 みAを悦ばしむるためなれば、 時の人の駈び好まんに過ぎたる事やは侍るべき」(『鴨 長明全集』、 八四頁) 。 こ の歌論の是非はともかく、 長明が中国を引き合いに出して日本の伝統主義あるいは尚古主義の批判を 試みている点も見逃せない。 これを見る限り、 長明は一種の閉塞感からの脱却を求めているようにも思われる。 しかしこの ような批判的精神はひとり長明だけに見られたものではなかった。 因みに、 伝統への背反を第一の理由として立教開宗を阻 もうとする『興福寺奏状』を提出せしめた法然の勇気も、 おそらくこのような時代の趨勢に鼓舞されたものと思われる。 そ して親鸞は師の英断に対して全幅の信頼を寄せていった。 「釈迦如来かくれましまして 二千余年になりたまふ 正像の二時はをはりにき 如来の遺弟悲泣せよ」(『正像末和讃』、 六00頁)と詠んだ親鸞も「末法」を、 多くの同時代者たちとともに悲観的に受け止めていた。 とりわけ伝統 的な仏教の規 範に照らして自らを省みたときに、「正法の時機とおもへども 底下の凡愚となれる身は 清浄真実のこころなし 発菩提 心いかがせん」(同、 六0三頁)とそもそも仏門の入口のところで蹟いたことを認めざるを得なかった。 しかし師の法然と同 様に自らの限界を感じた親鸞はそこから翻転して、「像末五濁の世とな りて 釈迦の遺教かくれしむ 弥陀の悲願ひろまり て 念 仏往生さかりな り」(同)と新たな希望 とその拠所を「弥陀の悲願」そのものに求める方 向に踏み出した。 親鸞が自 らを言い表した「底下の凡愚」という用語は、 おそらく『教行信証』信巻に引かれた宋代の元照律師の『阿弥陀経義疏』で 使われた「具縛の凡愚」によるものと思われる 。 親 鸞は本書から「念仏の法門は、 愚智豪賎をえらばず、 久近善悪を論ぜず、 たゞ決誓猛信をとれば、 臨終悪相なれども、 十念に往生す。 これすなはち具縛の凡愚、 屠泊の下類、 刹那に成仏の法を超越 す、 世間甚難信といふべきなり」(二四七ーニ四八頁)の部分を引いているのであるが、ここにある「具縛の凡愚」および「屠 泊の下類」という表現は親鸞にとってきわめて重要なものとなったと見え て、 周知のように『唯信紗文意』でも取り上げて 華園 聰麿

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いる。 この著作は、 法然に厚く信頼された天台僧聖覚の『唯信紗』についてその題と引証された経釈の要文に注解を施した ものであり、 元照の『五会法事讃』の「但使回心多念仏、 能令瓦礫変成金」の箇所を解説する際にこの二つの表現を取り上 げている。 親鸞はそのために『教行信証』の先のところに引いた、 元照の門弟であった戒度の『阿弥陀経聞持記』の注解、 すなわち「屠はいはく、 殺を宰る。 泊は醒売」を援用して、「具縛はよろ づの煩悩にしばられたるわれらなり。 煩は身をわ づらはす、 悩はこころをなやますといふ。 屠はよろづのいきたるものをころし、 ほふるものなり、 これはれふしといふもの なり。 泊はよろづのものをうりかふものなり、 これはあき人なり。 これらを下類 といふなり」(七0七ー七0八頁)と解説し ている。 さらに「能令瓦礫変成金」をば「かはら ・ つぶてをこがねにかへなさしめんがごとしとたとへたまへるなり。 れふ 、 、 、 し•あき人、 さまざまのものはみな、 いし・かはら・ つぶてのごとくなるわれらなり。 如来の御ちかひをふたごころ なく信 楽すれば、 摂取のひかりのなかにをさめとられまゐら せて、 かならず大涅槃のさとりをひらか しめたまふは、 すなはちれふ し•あき人などは、 いし ・かはら・つぶてなんどをよくこがねとなさしめんがごとしとたと へたまへるなり」(同、 七0八頁) と解釈して、 阿弥陀仏の誓願不思議を強調した。 親鸞は「屠泊下類」を云れふし•あき人・ さまざまのもの」という現実の 生活者と等置し、 そういう人々をそのまま阿弥陀仏の救済の対象と見なしたのみならず、 自らをも「われらなり」とそれと 同定した。 この著作は、 その結語によれば親鸞の眼から見て「文字のこころもしらず、 あさましき愚痴きはまりなき」一ゐ なかのひとびと」が「こころへやすからん l (七一七頁)ように工夫して書かれたものであるの で、 そのような人々にとって 卑近な例や表現が選ばれていることに注意が必要であろうが、 内容から判断すれば、 おそらくこれが親鸞の立場の言わば原 点と称されてよいであろう。 これはもはや従来の「大小凡聖」、 すなわち大乗および小乗の凡 夫ならびに聖人という範疇に は拘泥しない、 全く新しい発想に基づく「機」の規定であると理解されるからである。 しかしこの機は、「如来の御ちかひ をふたごころなく信楽すれば、 そのひかりのなかにおさめとられまゐらせて」 いるのであるから、 その限りにおいてその置 かれている立場はすでに一非僧非俗」なのであ る。 親鸞は流罪を機会に名乗った自称の境位を末法における仏教徒一般、 す なわち凡夫のそれにまで普遍化したと言えるであろう。 しかしながら、 その一方でこの境位は「如来の御ちかひをふたごこ 『歎異抄』第三条考

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華園 聰麿 「悪性について五種 ろなく信楽すれば」 という関門に立たされているこ とにもなる。 そしてここに立つときには じめて 、「金」に対して自らが 「い し・かはら・つぶ て」 にほかならない 、 という機の自覚が抗い難く生じてくる。 ただし 、 この自覚は優劣の差に基づくので はなくし て 、 言う なれば「距離」のそれに由来すると見なければな らない。 如来に対して最も遠い存在であるとの意識であ り、 如来に対する「機」の意識であり、 如来から見られたそれである。「凡夫」はもはや単なる人間相互の人格的比較にお ける「非器」や_劣機」を意味するのではない。 正法に対する「 末法」という比較もすでにその意義が失われてい る。 飛躍 して言えば 、「浄土真宗は 、 在 世正法 、 像末法滅、 濁悪の群朋をひとしく悲引したまふをや」 (化身土、 四――二頁) と親鸞が仏 教における自らの立場の正統性を主張する所以であ る。 この点では「在世の比丘必ずしも皆すぐれた るにあらず。(略)人 人皆な仏法の器なり 。 かならず非器なり と思ふことなかれ」 (『正法眼蔵随聞記』、 岩波文庫、 一00頁) という道元の確信とは 好対照である。 言うまでもなく、 親鸞の場合、「距離」の差はあくまでも一自覚」におけるそれであ り、 それゆえにその遠 近は逆転することが可 能である。 もと より それを可能ならしめるのは「弥陀の誓願不思議」(『歎異抄』ほか) であり、「具縛 の凡愚·屠泊下類」たる者がそれを信楽するそのときに「摂取」という逆転は生起し、 一気に「正定の緊」に加わり、 「弥 勒便同」および「如来等同」という境涯が現成するのであ るが 、 後にやや詳しく触れることにする。 このような理解に 立て ば 、 親鸞が著作や消息文で用いる語彙、 たとえば「凡小」(『教行信証』、 行)、一垢障の凡愚」(同、 化 身土)、「具縛の凡衆」(『高僧和讃』、 「曇鸞」)、「五濁の凡愚」 (『浄上和讃』)、「煩悩具足の凡夫」(『尊号真像銘文』)、「煩悩成就の 凡夫」(『消息』、 慶信坊宛返書) などはいずれも如上のような意味に解されるべきであろう。 それのみならず 、 同 様の文脈に おいて使われる語彙、 たとえば「極悪深重の衆生」(『教行信証』、 信および『高僧和讃』)、「一切善悪大小凡愚」(同、 行)、「濁 世の庶類 、 穣悪の群生」(同、 化身土)、「祓濁悪の衆生」(『入出二門偶』)、「五濁の群生」(『高僧和讃』)、「煩悩悪業の衆生」(『­ 念多念証文』)などにも同類の意味が与えられていると理解してよいであろう。 これ らにおける「悪」 がもはや直接 には 「戒律」 との関連を持っていないことは判然としている。 そしておそらく は当時の社会道徳を直接に念頭に懺いているのでないこと も明らかであろう。 あえて言えば 、 人格性をそのものとして指し示しており、 たとえば『愚禿紗』上で

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一には悪性、 二には邪性‘ -―一には虚 性、 四には非性、 五には偽性な り」(五―二頁)と言われていることに連なるもの と考えられる。 これは善・正・実・是・真に対比されたものであり、 言うまでもなく親鵞においては後者は如来の本願の属 性と見なされている。 したがって「悪」の自覚は、 たとえば「浄土真宗に帰すれども 真実 の信はありがたし」(『愚禿悲歎 述懐』)と告白されているよう に、 阿弥陀仏に対 する信心の結果であって、 単なる自らの過去に 対する反省の域のものでは ない。 いわゆる「二種深信」の己証に属するものと見るべきであり 、「邪見僑慢の悪衆 生]『正信偶』、 ―10四頁)の「悪性] の自覚に属する事柄である。 それは、「邪見・僑慢」や「貪愛・瞑憎」によって曇らされていた「無碍光・不可思議光」に 照らし出されてはじめて、 自らの悪性が隠しようも なく暴き出されたことを自覚した「衆生」の本質的且つ本来的な心境の あり方を意味している。 したがってその自覚は決して自虐的なものに留まるのではな く、 おそらくは親鸞が「光明は名づけ て智慧とす」と説く『涅槃経』に着目し (真仏上、一二四―二頁) 、さらにはとりわけ天親の『浄土論』の「如来光明智相」を「仏 の光明はこれ智慧の相なり」と受取って、 称名の本義に即する「如実修行相応」を「かの無擬光如来の名号 は、 よく衆生の 一切の無明を破す」と看破した曇鸞の煽眼(『論託』 、信ニ―四頁)に導かれて自得した一機の深信」と解されなければなら ないであろう。 序でながら、『歎異抄』には鎌倉時代の「悪」の観念が反映しており、「悪とは人間以外の存在に動かされて 行うもの」(今井雅晴、 前掲書、 一五二頁)を意味し、 この場合には「前世からの因縁 」によって抗い難く行ってしまう行動を 表すと解釈する今井雅晴の歴史学的な見方 は、 さらに人間学的な追究へ 、 そ して究極的には宗教性と非宗教性を峻別する宗 教学的な見解へと接続されなければならないであろう。 このような内省に基づいて親鸞は、 戒律が無効となった末法においてなおかつ存在意義 を有する仏教徒を一凡夫」と規定 し、 これをもって阿弥陀仏の「対機」とした。 その上で自らの概念規定を正統化するために 、 親 君は「善導ひとり仏の正意 をあきらかにせり」(『正信偶 』、 同)の文に窺われるように、 浄土門の高祖たちの中でも一目置 いていた善導に倣って「一切 善悪凡夫(人)」(『観経疏』、『正信偶』)という用語で概括し、 その『観経疏』(散善義) に従って「 「凡夫」といふ は、 無明煩 悩われらが身にみちみちて、 欲おほく、 いかり、 はらだち、 そねみ、 ねたむこころおほくひまなくして、 臨終の一念にいた あり 。 『歎異抄』第三条考

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るまで、 とどまらず、 きえず、 たえず」(『一念多念証文』 、 六九三頁)という定義を与えた。 因みに、 覚如の『口伝紗』の先に 引いた条目が善導との関連を明記しており、 そこでは法然の口伝における「善人・悪人」の語が「善凡夫・悪凡 夫」という 語に置き換えられている。 この点について先に課題として残しておいたことに戻れば、 親鸞は まず 「善人」 を 「聖人」 に、「悪 人」を「凡夫」に置き換えて、 口伝の主旨を他力浄士門から聖人、 言い換えれば『歎異抄』の「自力作善のひと」を除外す るものと解釈した。 そしてその理由を「五劫思惟の勒労、 六度万行の堪忍、 しかしながら凡 夫出要のためなり、 まった<聖 人のためにあらず」(九0八頁)とみた。 その上でさらに「凡夫」の概念を、 善導の 「一切善悪凡夫」という表現を援用して 「善凡夫」と「悪凡夫」に分類した。 その上で改めて法然の口伝にある「善人」を「善凡 夫」に、また「悪人」を「悪凡夫」 に比定して、 悪凡夫を「正機」、 善凡夫を一傍機」と捉え直した。「かるがゆゑに傍機たる善凡夫、 なほ往生せば、 もっぱら 正機たる悪凡夫、 いかでか往生せざらん」というのが親鸞による師の口伝の理解で あった。 そのことを重ねて師の言葉によっ て裏づけたのが、「しかれば、 善人なほもつて往生す。 いかにいはんや悪人をやといふべし」という結びになったと想定さ れるのである。『口伝紗』では善人および悪人の概念がこのように二重に意味転換されている点に注意が必要であろう。 た だし、 次に述べるいわゆる「三願転入」をこ れに結びつけると、 さらにこれには もう一段の展開が想像されるが、 後に再び 述べることにする。 要するに、『口伝紗』における親鸞の口伝はあくまでも法然の口 伝 の私釈を伝えるものに過ぎないとい う点を見逃してはならないということである。『歎異抄』第三条の理解のた めに『口伝紗』はやはり不可欠だと言わなけれ ばならない。 序でに言えば、『口伝紗』は「おほよそ凡夫の報土に入ることをば、 諸宗ゆるさざるところなり。 しかるに浄 士真宗において善導家の御こころ、 安養浄士をば報仏報土と定め、 入るところの機をば凡夫と談ず」(同、 八八二頁)として、 法然の「偏依善導」とは違った立場で、 親鸞が「善導家」の伝灯を掲げたとしているが、 この伝灯は、 たとえば曽我量深の 「自力作善も凡 夫、 善の凡夫悪の凡夫、 みな凡夫である。 九品唯凡夫である。 善も悪も悉く宿業である」(『歎異抄聴記』、『曽 我量深選集』 、 第 六巻、 一五二頁)という現代の宗学者の透徹した思想にまで受け継がれている。 『教行信証』の私釈 (「自釈 J) の部分に「悪人」という語が、「行巻」および「化身土巻」の三箇所を除いて見られないの 華園 聰麿

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は以上の理由によると考えられる。 しかも「行巻」のうちの一箇所は『選択本願念仏集』の「正定の業」に関わる文を引 い たあとで、一大小の聖人・重軽の悪人、 みな同 じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし」(-八六頁)と記さ れたと ころにあって、 罪の軽重に関わるその文脈からして親鸞固有の用語ではない。 また行巻の『正信偶』の「極重の悪人はただ 仏を称すべし」(二0七頁)は、 実は「化身土巻」に一悪人往生の機」(三八二頁)とある箇所と関連するもので、 ともに『観 無量寿経』の「下下品」の取意と解される『往生要集』の「極重の悪人は、 他の方便なし。 ただ念仏を称念して、 極楽に生 ずることを得 l (岩波文庫、 下、 一―二頁、 なお補注、 二五四頁を参照した)を受けたものであっ て、 「悪 人」は源信の用語である。 いずれにしても親鸞はこの語を自らの思想を表す積極的な用語としては使わなかった、 むしろ使うことができなかったと言 うべきであろう。 それは法然や源信といった高祖の用語であったからという理由よりもむし ろ、 そもそもその語を使う前提 ないし根拠が異なり、 したがってその意味内容も違わざるを得 ないことによると考 えなければなら ない。 平 雅行が「しか し困ったことに、 親鸞の著作には「疑心の善人」(略)に対応する悪人概念が登場し ません。 ペアの片割れが出てこない の です。 これが研究を混乱させた最大の理由です」(前掲啓、 一五二頁)と断じて、 ペアと想定する「この「他力の悪人」が登 場する史料が一っだけあります。『歎異抄』です。『歎異抄』第一―一条に「他力をたのみたてまつる 悪人、 もとも往生の正因な り」と出てきます」(同、 一五ニー一五一二頁)と自説を唱えているが、 先に見たように、 この条が法然の「口伝」を親鸞が私 釈したという文脈で書かれており、 この「悪人」という語もそれを受けて用い られていることを見過ごしてはならない であ ろう。 それに、 言われている「疑心の善人」は、 次に述べるいわゆるニニ願転入」を経験した親鸞に よって「真門のなかの 方便」(化身土、 三九七頁)あるいは「方便の真門」(同、 四一三頁)に留まるも のとして克服されていく概念であり、 法然の ロ伝との関連を外せばあえてその対概念を立てる必然性はなかっ たと考えるべきではなかろう か。 第十八願に拠って真実報 土に往生することができる機は、 如来の唯一の「対機」としてすでに善悪の彼方にあるのであって (『歎異抄』、 第一条) 、 む しろ親鸞は善人・悪人という表記および意味をめぐる混乱あるいは誤解を回避しようとしたとさえ推察されるのである。『歎 異抄』が伝える親鸞の言葉、 すな わち「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、 ひとへに親鸞一 人のためなりけり。 され 『歎異抄』第三条考

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ばそれほどの業をも ちける身にてありけ るを、 まさしくこの たすけ んとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」(八百一言一頁)こそが、 「対機」たることの唯一にして真実の己証にほかならないであろう。 四、 三願転入による信仰の転回 先に「具縛の凡夫 l および「屠浩下類」と自己自身との同定を親鸞の原点と見なしたが、 それをもたらしたのは、 言うま でもなく、 いわゆる「三願転入」と称されてきた親鸞の信仰の 歴程もしくは転回であ る。 これによ って阿弥陀仏の西方極楽 浄上との十万億の仏土(『阿弥陀経』、 一三六頁)もしくは「十万億刹」(『無量寿 経』、 一六 九頁)を隔てた極遠の距離差も、 また 「 弥陀成仏のこのかたは いまに十劫へたまへり」(『浄上和證』、五五七頁、『無量寿経』、 一六九頁)と言われる極長の時間差も すべて、 「 無量寿如来に帰命し、 不可思議光に南無したてまつる」(『正信偶』、 二0三頁)ことが、 即時に「念仏申さんとおも ひたつ こころ」(『歎異抄』、八三一頁)となるその時の阿弥陀仏との最直近の対面関係に向かって短縮もしくは極小化する。 この質的に飛躍的な関係の生起の特徴を親鸞が 「 横超」と名づけ、「竪超」 、 た とえば即身成仏などのそれと区別し、 それを もって「願成就一実円満の真教、真宗これなり」(『教行信証』、 信、 一七九頁) としたことは周知の通りである。 「 一念須庚の頃」 (同)に実現する この関係は『無量寿経』が描く「仏仏相念」(『浄土―二部経』上、 一四六頁、『教行信証』 、教、 一三六頁)の時、 そして衆生にあっては「信心決定」の時において以外では成立し得ない。 因みに、 先に触れた 「 弥陀の五劫思惟の願をよく よく案ずれば、 ひと へに親鸞一人がためなりけり(略ごという親鸞の一述懐」(『歎異抄』、八五三頁)は、 この横超の己証と 理解されてよいであろう。 改めて指摘するまでもなく、 三願転入は親鸞が『教行信証』化身土巻において自らを顧みて、 信仰の足跡、 より正しく言 えば、 浄上の真宗に至る歩みを述べたことを名づけて言われたものである。 周知の文言であろうが、 一応挙げておくことに する。 「 ここをもつて愚禿釈の鸞、 論主の解義を仰ぎ、 宗師の勧化によりて、 久しく万行諸善の仮門を出で て、 永く双樹林 下の往生を離る。 善本徳本の真門に回入して、 ひとへに難思往生の心を発しき。 しかるにいまことに方便の真門を出でて、 華園 聰麿

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選択の願海に転入せり。 すみやかに難思往生の心を離れて、 難思議往生を遂げんと欲す。 果遂の誓 (第二十願)、 まことに由 あるかな。 ここに久しく願海に入りて、 深く仏恩を知れ り」 (四ニニ頁)。 言うまでもなく、 親鸞 が比叡山において 「堂僧」(『恵 信尼消息』、 八一四頁)を勤めながら諸行往生を目指したのちに、 下山して法然のもとに参じ、 専修念仏の道を選択し、 しか しついにはそこ を去って自らの浄土真宗を確立するに到った過程を述べたもので、 各々の立場の根拠を阿弥陀仏の四十八願 のうちの第十九願なら びに第一―十願および第十八願の主旨にそれぞれ割り当てて理解することが通例になっている。 本論の 文脈において差し当たり注目されるのは、 原理的に言えば、 第十九願か ら第一一十願への転入が親鶯自身の「選択」であった もしくは法然の勧奨であったのに引き換え、 第一―十願から第十八願へのそれは阿弥陀如来の「選択」によるものであった、 ということである。 要するに、 第一の転入と第二のそれとは「質」を異にして おり、 両者の間には断絶があるということで ある。 親鸞による 「末法」の理解も「凡夫」の解釈も、 そして「非僧非俗」という自称もこの質の違いおよび断絶の経験を 侯ってはじめて可能になったということを改めて確認しておかなければな らない。 このようにして獲得された新しい根拠お よびそこからの出発について、 親鸞は『教行信証』の五序」において、「まことなるかな摂取不捨の真 言、 超世希有の正法、 聞思して遅慮することなかれ」 ( -三二頁)と記している。 以上の考察は『歎異抄』第三条の解釈のために必要な前提を確認することを目的とし てきたが、 さらに絞って言えば、「他 力をたのみたてまつる悪人、 もっとも往生の正因なり」 (八三四頁)と言い得た根拠を確かめることであっ た。 その結果、「他 力をたのみたてまつる悪人」とは、 親鸞の目からみれば「具縛の凡愚」および「屠泊の下類]と呼ばれるほかないものであ り、 このものは阿弥陀仏の誓願を信楽するという関門の前に立つと きに、 誓願を仰げば仰ぐほど自らの邪見や騒僑あるいは 煩悩のゆえにそれを聞き信ずることのできないことを悟らされる「悪衆生」(『正信偶 』) や「極悪深重の衆生」 (『教行信証』、 信、 二――頁)のことを指していることが確かめられた。『歎異抄』のこの 文は、 如来の「衿哀」によりこのような「悪人」 、 親 鸞の言葉で言えば一悪凡夫」(『口伝紗』) こそが、 あたかも「いし・ かはら・つぶて」が 「金」に変えられるように、 真実報 土へと往生せしめられる「正因」となるという信念を表してい る。 この「因」もすでに「罪福因果」の範疇を越えた彼方か 『歎異抄』第三条考

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ら見られた ものであることは言うまでもなく、 それはあくまでも如来の側の「浄因」の働きに発するのである 。 三願転入を経験して「非僧非俗 」の自覚に 立った親鸞が取り組ん だのは、 転回された立場から「如来興世の正説」(『教行 信証』、 教、 一三八頁)をいかに正しく領解し、 それに正しい論理と体系を施す か、 ということであった。 それは、 具体的には、 経典および論疏、 さらに外典さえもの読み直しという作業によってなされた。 ここではその詳細を考察することはできない し、 また それを試みる場でもない (『日本の名著6親鸞』石田瑞麿編、 中央公論社の「補注」に詳しい)。 ただ当面の目的に沿う点 のみを摘記する だけにとどめなければならない 。 法然のもとで「専修念仏」を修 めた親鸞は、 自身の信仰の深まり とそれに促された厳しい 自己凝視によって「念仏 」の意 義および性格を再検討することを余儀なくされた。 すなわちこれを従来のような、 往生のために積み上げるべき功徳として の「行」の意義から切り離し て、 別の角度から捉え直し、 弥陀の四十八願中第十七願に「十方世界の無量の諸仏、 ことごと <吝晩して、わが名を称えずんば、 正覚を取らじ」(『浄上一孟一部経』上、 一五七頁)とあることおよび同じ内容の「願成就の文」 を根拠として、 諸仏が阿弥陀仏を称賛する一行」と理解し直し、 それを「大行」と規定した。 その上で「この行 は大悲の願 (第十七願)より いでた り」とその由来を明らかにし、 阿弥 陀仏が衆生に与えた ものと受止めて (『教行 信証』、 行、 一四一頁) 、 これを凡夫を浄土に導く如来の_往相廻向」と解釈した(証、 三0七頁)。 これによって同時に念仏は滅罪の手段という功利 的性格からも解放され、 また 「父母の孝養のため」(『歎異抄』、 第五条)という死者供養や先祖祭祀の習 俗とも無縁になった のである 。 しかし諸仏と同等の念仏を唱えることができるためには、 諸仏と同等の境涯に住 していなけれ ばならない 。こ のことを裏 づけるために、 親鸞は第十一願に「国中の人・天、 (正)定緊に住し、 必ず滅度に至らずんば、 正覚を 取らじ」(『浄上=一部経』 上、 一五六頁)とあるのを拠所として、 如来の「往相廻向の心行を獲れば、 即の時に大乗正定緊の数に入るなり。 正定察に 住するがゆゑに、 かならず滅度に至る 。かならず滅度に至るはすなはちこれ常楽な り。 常楽はすなはちこれ畢寛寂滅なり。 寂滅はすなはちこれ無上涅槃なり。 無上涅槃はすなはちこれ無為法身なり。 無為法身はすなはちこれ実相な り。 実相はすな 華園 聰麿

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はちこれ法性なり。法性はすなはちこれ真如なり。真如はすなはちこれ一如なり。しかれ ば、 弥陀如来は如より束生して、 報・ 応・化、 種々の身を現じたまふなり 」(証、 三0七頁)と、ミ念仏」をもって涅槃、 さらには実相、 そして真如·一如の究極 の真理に通じる直道と見なした。 親鸞が理解する仏身論は措くとして、 取りあえず必要なことは、「念仏]とは、 衆生を「正 定緊」 、 すなわち阿弥陀如来本来の仏国土である真実報土に往生することが正しく決定した者たちの仲間に加えるものとい う意義を持つと親鸞が確信したことを確かめることである。 親鸞はこ こからさらに一歩踏み出して、_正定漿」に住する者 はすでに「弥勒便同」であり、 「如来等同」であると見なし た。 すなわちすでに仏と「等正覚」 を成就した弥勒菩薩は当来 仏であり、 如来等同であり、 正定緊に住する者もまたすで に真実報土への 往生が決定しているのであるから、 その境位に お いて弥勒に「便同」、 つまり「すなわち同じ」であり、 その限りにおいて「如来に等しく同じ」であるという論法である。 この破格とも思える思想を親冠はとくに晩年に強く打ち出して、 たとえば慶西御坊宛の書状には「まことの信心あるひとは、 等正覚の弥勒とひとしければ、 如来とひとしとも諸仏のほめさせたまひたりとこそきこえて候へ」(七七六頁 ) と書き認めて おり、 ほかにも『一念多念証文』(六八一ー六八二頁)や消息(「笠問の念仏者の疑ひとはれたる事 」、 七四八頁および「性 信御房宛、 正嘉元年十月十日」、 七五八頁など ) にも同様のことが言われている。 いずれにせよ、 この思 想によって親鸞は念仏を唯仏与仏 の世界へと導く「大行」と して確信するとともに、「往生」を臨終を期とする従来の理解から訣別して、「即得往生」として 現世における生き方へと転換したのであった。 これが「自然法爾」という独特の解脱観に導くことになるのである。 このように、 一_一願転入は「仏教」の主体を戒定恵を学習・実践し、 悟りを求める修行僧尼から猛願仏としての阿弥陀如来 へと転換し、 往生の根拠を行 者の器量や功徳から筐願に対する信心に求め直す契機 となった。 その結果として経典の読み方 も見直された。 たとえばよく引き合いに出されるのは、 親鸞が『 無量寿経』に説かれた第十八願の成就の文を訓み替えたこ とである。 すなわち『無量寿経』に「あらゆる衆生、 その(無量寿仏の)名号を聞きて、 信心歓喜し、 ないし一念せん。 至 心に廻向して、 かの国に生れんと 願わば、 すなわち往生することえて、 不退転(の位)に住す (略)」(『浄土=一部経』上、 一八六頁)とあるのを、玉あらゆる衆 生、 その名号を聞きて信心歓喜せんこと、 乃至一念せん。 至心に廻向したまへり。 かの 『歎異抄』第三条考

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華園 聰麿 「善人・悪人」の概念も俎上 一廻向」 五、『歎異抄』第三条の解釈 このように一二願転入 の経験を転機として従来の浄土門が批判的に再検討されていく過程で、 の主客を逆転させ、国も 国に生ぜんと願ずれば、 すなはち往生を得、 不退転に住せん」(『教行信証』、 信、 二五0頁)と しは行、 もしは信 、 一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふ ところにあらざることあることなし 」(同、 ニニ九 頁)と親鸞は純然たる他力の立場を鮮明にするのであ る。 こうして従前は 「廻向 l の主体であった願生 者の「わが国に生れ んと欲し て」(『無量寿経』)の「欲生」も、「欲生といふは、 すなはちこれ如来、 諸有の群生を招喚した まふの勅命なり 。 (略)」 (信、 二四一頁)と如来 の側に転ぜら れ、「微塵界の有情 l には「真実の廻向心なし 。 清 浄の廻向心なし」という理由によって、 「欲生すなはちこれ[如来巴廻向心なりo これすなはち大悲心なるがゆゑにヽ 疑蓋 まじはることなし」(同)と他力往生の 絶対的且つ究極的根拠と見なされたのであ る。 親鸞 においては「行」も「信 」も すべて如来より恵与されるとともに 、「 信」 は「信心歓喜」という形の「信楽」として受け止められ、 それに対する報恩として発せられる念仏は 、「帰命」という凡夫 の「信心」を載せた「 大行」として再び如来のもとへと送り返される。 如来は本願をもって衆生世界に向い、 衆生の 「帰命 無量寿如来南無不可思議光」(『正信偶 』) という信 心決定をもって自らの往相廻向を成就 し、 衆生が「正定 緊」 の位に入り、 「自 信教人信」の菩薩行を決意することを見届けることをもって「利他教化」の還相廻向を成就す る。 凡夫は如来のこのような 「浄因」の「浄果」と して「信心歓喜」を獲得することをもって自らの往相廻向を成就し、 また「利他教化地の益 l (証、 『二五頁)たる念仏を勧めることをもって還相廻向を成就し、「一生補処の菩薩」としてこの世界に踏みとどま る。 解釈的に は往還二廻向の構図が このように描けるように思われ る。 もちろんこの構図のもとでは凡夫の側に「はからひ」が 入り込む 余地は微塵もない 。「浄土宗安心起行の事、 義なきをもて義とし、 様なきを様と す」(法然「知恩院所蔵、 護念経奥書 l 、 石 井教 道編、 前掲書、 一―七九頁)という法然流の他力の信仰と「不廻向」の念 仏 (『選択本願念仏集』、 九八頁)はここまで徹底された のである。

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に載せられることになり、 『歎異抄』第一云一条に見られるように 法然の口伝が吟味され、 新しい解釈が施された。 すなわち口 伝に 言われている一善人」および「悪人」の語が、 おそらくは「世のひとつねにいはく」という当時の社会常識や通念と区 別されずに用いられることに起 因する誤解を危惧した結果でもあろう が、「自力作善のひと」が 善人、 _煩悩具足のわれ ら」 が悪人とそれぞれ一 義的に定義された。 そ して従来の伝統的な理解においては 「聖人」を指す前者は、「弥陀の本願にあらず」 という理由で他力門から除外され、 後者は「いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、 あはれみたまひて願 をおこしたまふ面来竺本意」にかなうという理由で、「もとも往生の正因」と 見なされた。 親鸞はこの区別の根拠を「本 願他力の意趣」に置き、 原則的に戒定恵から切り離した。『口伝紗』は親鸞のこのような新しい解釈を、 「如来の本願は、 も と凡夫のためにして、 聖人のためにあらざる事 」 という口伝として書き記した。 さらに『歎異抄』は、 親鸞がこの区別の上 に立って、「自力のこころをひるがへして、 他力をたのみたてまつれば、 真実報士の往 生をとぐるなり」と、 自覚体として の凡愚·凡夫が滅度・常楽・寂滅・無上涅槃・無為法身・実相·法性・真如·一如に至る直道を一元的に示したことを伝え ている。 このように『歎異抄』は「往生」を「真実報士 l へのそれに一元化して説いている。 これに対して『口伝紗』は、 先述のように、 親鸞が法然から伝授された「善人・悪人」を善導に倣って「善凡夫・悪凡夫」と言い換 え、 これにまた『愚 禿紗』上に窺われるような「傍正」の区別 (五――頁)を充てて、 善凡夫を一傍機」 、 悪凡夫を「正機」と規定したことを伝 えている。 言うまでもなく、 ここには一_一願転入が下敷きにされていて、 第十九願に基づいて_罪福信ずる行者」ならびに第 二十願によって名号を罪福の因果に絡めて往生を願う者が善凡夫であり、 第十八願を拠所にして「信心歓喜」する人が悪凡 夫であると見なされている。 前者は如来の本願を信じ切ることができずに、 自力作善 としての念仏を併せ憑むがゆえに「疑 心の善人」であり、 往生を果た しても 「方便化土にとまる」(『正像末和讃 』、 六――二頁) という理由により、 最終的には「傍機」 の位地に留め置かれるのである。 親鸞から見れば、_善人尚以往生」とは浄土の「胎生辺地にとどまれり」(『正像末和讃』、 同) という結果に終らざるを得ないものであ った。「疑惑の心」 (『無量寿経 』、 三ニ―頁)あるいは「疑悔」(『如来会』、 化身士引証、 三七九貞)を徹底的に払拭することに努め、 名号 を善本・徳本として憑むことすら「疑心」の働きと見なす親鸞の厳格主義 『歎異抄』第三条考

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が到達した結論であった。『口伝紗』はこのような親鸞の思考過程を示してお り、 末尾の 「しかれば、 善人なほもつて往生す。 いかにいはんや悪人をやといふべし」へと理路整然と筆が運ばれている。 一方、『歎異抄』は一切の自力作善を排除しながら、 末屋では一よって善人だにこそ往生すれ、 まして悪人は」と、 善人往生を認める形になっているが、 親鸞が善人と悪人の概 念を如上のように理解し直して、 それを師の「仰せご と」に重ねた自釈の文言と解されるべきであろう。 因みに、 この第三条の末尾の「仰せ候ひき」が誰の言かをめぐって従来は、 たとえば増谷文雄の法然説(増谷文雄、 前掲書、 三七一ー三七二頁)があり、 それに対する反論として親鸞説もあり、 いまだに決着を見ない状況が続いているようであるが、 本条があくまでも口伝の解釈であり、 口伝で始まり口伝で結ばれているという構文に照ら せば、 法然説に傾かざるを得ない。 一方『口伝紗』 では「しかれば、 善人なほもつて往生す。 いかにいはんや 悪人をやといふべしと仰せごとありき」と結ばれ ている。 ここ には「といふべし」という語が加えられているが、 これは先述のように親鸞が自らの私釈によって法然の口伝 を肯定したことを示すもので、 ただし自らの見解を師の口伝で言い表せば「法然上人の言う通りになるべきである」と親鸞 は言ったという文脈のもとで理解しておきた い。 佐藤正英は、 第三条の「しかるを、 世のひとつねにいはく」以下の文章全 体が作者唯円の「地の文」である という大胆な仮説を主張しているが(前掲書、 五四九頁以下)、 親鸞の発話の状況、 言い換 えれば、 どういう人もしくは人々に対し て、 どのような機会に、 またどのような意図のもとで師の口伝が語られた のか、 と いうことも考慮する必要があるように思われる。 それはまたそこに居合わせた人もしくは人々の受け取り方と書き留め方の 問題にもなる。 いずれにしても、 結語については『歎異抄』だけから結論を出すには問題があるということで あり、 この点 では、『歎異抄』全体の記述の仕方から、「第一段から第十段にいたるまでは、 親鸞の語録なのであって、 (略)第三段の結 句において、 突如として筆者(補、 唯円)が顔を出し、 だか ら親鸞はかように仰せられたというのは、 まことにおかしいの である」という理由を掲げる増谷文 雄の法然説(前掲書、一云一七一頁)も十分な説得力をもっているとは考えられない。 『歎異抄』 は「本願他力の意趣」に照らして「善悪」の意義を、「本願を信ぜんには、 他の善も要にあらず、 念仏にまさ る善なきゆゑに。 悪をもおそるべからず、 弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆゑに」 (第一条、 八三二頁)と、 本願と 華園 聰麿

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の関係のもとで領解した。 見方によっては、 弥陀の第十八願にある「唯除五逆誹謗正法」の文さえも親鸞は無視して、 本願 を善悪の彼岸へと超越せしめた。 これ に呼応する形で第十一_一条において見られるよ うに、 親鸞は道徳的自己制御の限界の自 覚に基づいて、 行為の超越的契機として一善 悪の宿業」(八四――頁)という思想を提案し、 善悪の相対的理解を踏み越えた。 その結果として「悪凡夫」という表現も、 その「悪」の部分が「罪福因果 l の関係から断ち切られて従来の意味を失 い、 そ れを使用する根拠を欠くことになっ た。 それと引き換えに 「 悪」の概念が「いづれの行もおよびがたき身」(第二条、 八――-_二頁) という伝統的な凡夫の自覚として改めて内面化され、 それがまた翻転して「仏かねてしろしめして煩悩具足の凡 夫と仰せら れたること」(第九条、 八『一六ー八―二七頁)と如来の側からの評価へと切り替えられ た。 言い換えれば、「悪」は新たに「凡夫」 としての人間の普遍的な本質性を示すものへと意味転換され、 そしてさらに如来の「ことにあはれみたまふ」(八一云一七頁)と いう救済の理由へと転ぜられ、 ひたすら如来の眼Iもとより親鸞の信心に よって経典などから読み取られた限りでのそれ から見据えられた不可避の且つ根本的な規定となって、 単なる 「凡夫 l という表記に落ち着き、 これが多用されるよう になったと考えられるのである。 要するに、「悪 」は「善」と相 関的に凡夫を区別する語ではなくし て、 凡夫の排他的本質 そのものを表す語となったということであり、 これを踏まえれば「極悪」という 語は、『選択本願念仏集』の一極悪最下」 のそれではなく、 むしろ 「 機悪.稿濁悪」などといった強調語の一っとして理解されなければならな い。 ついでながら 一罪 悪深重」などと言われる場合の「罪」も、 たとえば「罪業もとよりかたちなし 妄想顛倒のなせるなり」(『悲歎述懐和讃』、 六一九頁)と言われているように、 既成概念の「五逆罪」や社会的犯罪から切り離され て、 凡夫の内面の働きとして捉え直 されている。 以上のことから、 善人・悪人および善凡夫・悪凡夫の概念はあくまでも人間の側での、 人間による相対的評価 であり、 そのために時に阿弥陀仏の誓願もこの評価の中に組み込まれて、 善悪のいずれを優先もしくは 選択するのか、 とい う人間本意の関心の次元へと貶められる危険性を親鷺は回避しようとしたと推察されるの である。 如来の側から見れば、 本 願を聞信受持し信心歓喜する人が「善人」となるのであろうが、 親鸞はそれを「正機」、 すなわち 本願を正しく受け取る機 根もしくはそれを持つ人を意味する語で言い表わしたのはそのための配慮と考えられないであろ うか。 因みに、 『正信偽』 『歎異抄』第三条考

参照

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