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日本における原子力平和利用体制の成立

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Academic year: 2021

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†社会科教育専修 教科教育専攻 指導教員:馬場義弘

原 著 論 文

日本における原子力平和利用体制の成立

Conclusion of atomic energy peace use system in Japan

Takashi KINOSHITA

キーワード:原子力,原子力平和利用,電源三法,メディア は じ め に 2011 年 3 月 11 日の東日本大震災を起因とす る東京電力福島第一原子力発電所における同時 多発的原子炉事故は,日本の原子力発電の歴史 において大きな分岐点となっている。事故以後, 原発反対デモが頻繁に行われ,原発不要を訴え ている。また,政界でも脱原発を支持する政治 家が増えている。2014 年 2 月 9 日に執行され る猪瀬直樹前知事の辞職に伴う東京都知事選で は,2020 年東京五輪に向けた対応や少子高齢 化対策のほか,脱原発も争点の一つとして挙げ られている。現在,日本では原子力発電所の今 後のあり方が論点に挙げられている。 私自身も事故後原子力発電所のあり方につい て,新聞やニュースを通じて考えるようになっ た。そしてその中で疑問を感じた。それは,そ もそも被爆国である日本で原子力開発が早期に 行われたのはなぜだろうか,いくら原子力を平 和的に活用するといっても,その危険性につい ては身をもって知っているはずであり,日本人 が原子力利用を避けようとしなかったのであろ うかという疑問である。本論文では,日本にお ける原子力平和利用体制がいかにして成立した かを明らかにしたい。 以下,第 1 章では原子力平和利用の始まりに ついて述べる。日本において原子力を利用する 体制は,アメリカが原子力平和利用の方針を打 ち出したことに大きく影響を受けている。第 2, 3 章では正力松太郎の動向と原子力平和利用博 覧会について述べる。正力松太郎はアメリカの 原子力平和利用推進対策に呼応して,メディア を活用している。また,原子力平和利用博覧会 を開催して,原子力平和利用が素晴らしいもの であるというイメージを国民に植え付けている。 第 4 章では中曽根康弘の動向について述べる。 中曽根康弘は原子力予算を通過させるとともに, 原子力平和利用を具体的に進めていくために必 要な法体系を超党派で取り組み整備している。 第 5 章では商業用原子力発電所の誕生について 述べる。原子力に関する法体系が整備され,原 子力発電所を管理する民間組織が誕生し,原発 の設置場所や安全性が協議された結果,茨城県 東海村に日本初の商業用原子力発電所が建設さ れることが決まる。第 6 章では日本における原 子力発電所の展開について述べる。原子力発電 所は度重なるトラブルで設置難航の危機を迎え るが,電源三法の成立により,原発設置自治体 は大きな恩恵を受けることとなり,原子力発電 所は安全性の問題を抱えながらも設置されるよ うになる。本論文では,電源三法により原子力 発電所設置が推進された時点をもって,日本に

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おける原子力平和利用体制の成立とする。なお, 各章において政治家の回想録や当時の新聞,パ ンフレットを主に用いている。 1.原子力平和利用の始まり 第 2 次世界大戦後,原子力研究に関して高い 技術力を持つアメリカが核軍事力を独占してい る。この独占は,1949 年 8 月 29 日にソ連初の 核実験の成功で終了する。以後,アメリカとソ 連は繰り返し核実験を行う。その為,近い将来 米ソ間で核戦争が引き起こされるのではないか という不安が世界的に広がったのである。そん な中,1953 年 12 月 8 日,米大統領アイゼンハ ワーが“Atoms for Peace”「原子力平和利用」 政策を打ち出したのである。「アメリカは,恐 ろしい原子力のジレンマを解決し,この奇跡の ような人類の発明を,人類の発明を,人類滅亡 のためではなく,人類の生命のために捧げる道 を,全身全霊を注いで探し出す決意を,皆さん の前で,ということは世界の前で,誓うもので ある。」と述べて,原子力発電をはじめとする 原子力の非軍事的利用を世界的規模で積極的に 推進していく決意を表明したのである。 日本でも 1952 年 4 月 28 日,サンフランシス コ講和条約により主権を回復し,この条約の発 行をもって日本の原子力研究は,全面解禁とな りました。以後,アメリカ主導のもとに原子力 平和利用が日本でも導入されていくことになる。 2.正力松太郎によるメディア活動と 原子力平和利用博覧会 正力松太郎のメディア活動 アメリカは,日本で原子力平和利用体制を導 入するために,国民から「核への脅威」もしく は「核アレルギー」とでもいう感情を取り除こ うと試みる。しかし,このころ広島・長崎での 原爆被害だけでなく,アメリカの水爆実験によ る第五福竜丸事件も発生しており,日本では大 きな反核兵器実験運動が起こり,全国で 3200 万人,当時の総人口の約三分の一が署名,広島 では 100 万人が署名する大規模運動に発展して いたのである。もはや,日本国内において原子 力平和利用の素晴らしさをアピールし,原子力 平和利用を推し進めるためにはアメリカ独力で は無理であり,日本側からの協力も必要な状況 になっていたのである。 ここでアメリカに賛同し,日本側から原子力 平和利用を推進した人物が,正力松太郎である。 正力は,日本テレビ・読売新聞社社主として, メディアを通じて宣伝工作を行い,国民に原子 力平和利用の考え方について広め,政治家とし ても原子力平和利用の実現に貢献する。特にア メリカと正力が協力して開催した原子力平和利 用博覧会は,日本における原子力平和利用の推 進に大きく影響を与えたのである。正力は, CIA,USIS (アメリカ国務省情報局) や駐日 アメリカ大使館と協力して,原子力平和利用推 進の集大成として,同年 11 月 1 日から 12 月 12 日までの 6 週間東京で,原子力平和利用博 覧会を開催する。開催に当たり,読売新聞では 2 か月前から新聞でほぼ毎日のようにこの博覧 会を紹介している。2 か月前の読売新聞で以下 のように紹介している。 本社とアメリカ大使館 (USIS) が共同 開催し,東京都が後援して行う原子力平和 利用博覧会は,準備が進み,いよいよ 11 月 1 日から 6 週間にわたり,日比谷公園広 場に新設する敷地 2 千坪の会場で開かれる ことに決定しました。この博覧会の内容は 博覧会開催に当たり,アイゼンハワー大統 領の平和利用計画の一つとして,人々に如 何にわかりやすく原子力の効用を理解させ るか,というのでアメリカの知能を集めて 設計され,すでにアメリカ国内はもちろん, ドイツ,イタリア,スイス,ブラジル,エ ジプト,パキスタンなどで開催,さらに先 ごろはジュネーブに集まった世界の学者た ちにもその一部を見せ,目下はイギリスに おいても開催,好評を博しているものです が,各国で開くごとに内容を改良し,充実 させてきたもので,その教育的,解説的な 内容の確かさは今では世界の財産といって もいいくらいになりました。今度日本で開 くものはその決定版ともいうべきもので, アメリカ自慢の最新重水炉 CP5 型原子炉 の,高さ 16 フィート,幅 20 フィート八角

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形の実物大模型が持ってこられるし,農業, 工業,医学,発電などの利用の方法と理論 と可能性を,どんな素人でも,会場を出て くれば,ひとかどの専門家になれるほど, すべて実物を用い,簡単なのは目の前で実 験までして説明しようというものです。し かも説明の仕方は各国でやったものとは趣 きを変え,すべて日本人の生活と直結させ て理解の便をはかるため,日本で現実に行 われていることはすべて日本の例を用いて おり,したがって日本国内の研究所や病院 や工場などからも多数の資料や道具の出品 があり,言い換えれば日本の原子力の研究 の段階をも知ることが出来,その意味では 日本の原子力博覧会であります。また, “原子力発電部門”は今までの博覧会には 無かった新しい企画であります1) そして,結果としては,東京会場では博覧会 の総入場者数が 36 万 7669 人となり大成功を収 めている。東京会場の後,名古屋,京都,大阪, 広島,福岡,札幌,仙台,北陸三県で同内容の 博覧会が開催され,それぞれアメリカと各市の 有力新聞社が主催している。正力率いる読売新 聞の活動が,東京会場の大成功,そして原子力 平和利用博覧会を全国に広める大きな力となっ たのである。 ここで,博覧会開催の日の読売新聞には,博 覧会開会式の様子が大きく掲載されており,ア メリカのアイゼンハワー大統領が以下のメッ セージを発している。 この博覧会は,原子の偉大な力を今後は 平和の技術に捧げるという両国相互の決意 を示す表徴としてそびえております。原子 力の公開は真に国際的な業績というべきで あります。原子力はすでに多くの方面で利 用されていますが,その恩恵を引き続き平 和的に発展させてゆけばすべての人類の健 康と幸福を増進するという,人を元気づけ る将来が開けるのであります。多くの国民 がこれらの恩恵を確保するために協力すれ ば,これまた恒久平和を達成する重要な道 具たる役目を果たすことになるのでありま す。この日米合同の原子力平和利用博覧会 が,両国の協力と理解をいっそう深めるこ ととなるよう祈ります。 ― ドワイト・D・アイゼンハワー2) ここから,アメリカは博覧会を通じて,原子 力の力を人類の生活の発展のために有効的に活 用していくことの素晴らしさ,そして恒久平和 を達成するためにも原子力利用を推進すべきで あるという考えを,日本人に理解してもらえる ように活動していると感じる。また,当時日本 の首相であった鳩山一郎が祝辞を以下のように 述べている。 二十世紀化学は原子力の平和利用という 偉大なる恩恵を我々に与えました。原子力 利用の道はただ一つ平和の確保,人類福祉 の増進以外にありません。二十世紀が産ん だこの新しい科学の善用こそ全人類に課せ られた義務であり権利であります。原子力 の平和利用へ世界各国が今日全力を傾け動 力源への利用によって産業革命を起こそう と努力し,また医療への利用によって人類 を病災から救おうとしていることは誠に喜 びに堪えない次第であります。この秋読売 新聞社が率先,原子力平和利用の急務を説 き,まず原子力のわが国民に与えた恐怖の 念を取り除きその平和利用へ積極的な啓発 運動を起こし,USIS と共同してここに原 子力平和利用博覧会を開きましたことは意 義きわめて大であると信じます。ここに開 催に至るまでの USIS 並びに読売新聞社の 熱意と努力とに敬意を表し祝辞とする次第 であります3) 鳩山一郎の言葉は,日本国民に,原子力平和 利用が医療面や新たなエネルギー面で推進され ていくことで,国がより豊かになると伝えてい る。また,この原子力平和利用にいかに読売新 聞が中心的に活動してきたかも明らかである。 実際に,読売新聞は,博覧会の開催前,開催中 も多くの博覧会の様子についての特集記事を掲 載し,この博覧会を大いに盛り上げている。東 京の後,名古屋,京都,大阪,広島,福岡,札 幌,仙台,北陸三県と巡回し,東京以後は各市 の有力新聞社が主催する形になっているが,正 力が率いる読売新聞のメディア活動が,東京会 場の大成功,そして原子力平和利用博覧会を全 国に広める大きな力になったのである。

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原子力平和利用博覧会の概要 なお,原子力平和利用博覧会の展示内容は, 各会場同一であり,共通の『原子力平和利用の 栞』というパンフレットが用いられている。こ れは,博覧会開催中に配布された,カラフルで 写真や絵をふんだんに使われている。このパン フレットから展示の内容がどのようなもので あったかを解明していく。 博覧会の展示内容は,① 原子力の進歩に貢 献した科学者 (湯川秀樹ら) の紹介,② エネ ルギー源の変遷,③ 原子核反応の教育映画, ④ 原子力の手引,⑤ 黒鉛原子炉,⑥ 原子核連 鎖反応の模型,⑦ 放射能防御衣,⑧ 米国から アイソトープを輸入している国々,⑨ ラジオ アイソトープの実験室,⑩ タイヤの試験,⑪ 工業,⑫ 容量検査機,⑬ 厚み測定機,⑭ コバ ルト治療機,⑮ 甲状せんの診察,⑯ アザ治療, ⑰ 鶏の研究,⑱ 植物の実験,⑲ 特殊温室,⑳ 雪解け量測定器,㉑ 食品照射,㉒ 教育と研究, ㉓ 田無サイクロトン,㉔ マジックハンド,㉕ 動力用原子炉模型,㉖ CP5 型原子炉模型,㉗ 原子力機関車,㉘ 原子物理学関係図書室,㉙ 原子力船,㉚ GD 社原子力発電所模型,㉛ 水 泳プール型原子炉模型,㉜ 実験用原子炉模型, ㉝ 移動用原子炉,㉞ 原子力飛行機,の 34 セク ションに分けられている4) パンフレットの最初に「平和のための原子」 という見出しがつけられた 2 ページがあり,次 のような説明がある。 原子医学が無数の人々の命を救ったこと は周知のことである。原子力によって農場 では食料が増産された。商業面では,洗濯 機・たばこ・自動車・塗装・プラスチッ ク・化粧品など,家庭用品の改良のために。 アトム (原子) は一生働いてきた。(中略) 豊富な電力は冬にはビルをあたため,夏に はビルを冷房してくれる。だが,原子力は それ以上の意味があるのだ。医者は本世紀 の終わりまでには,ある種の危険な病気は 完全になくなるだろうと予言する。もし, われわれが賢明であれば,原子力はすべて の人に食を与え,夢想にも及ばぬ進歩をも たらすことになろう5) 今から見るとオーバーに感じるような描写も あるが,原子力がまるでこの世の問題すべてを 解決できるような,夢のエネルギーとして描写 されている。また,「すばらしいラジオアイソ トープ」という見出しがつけられた部分では, 医療面や農業面における素晴らしさが以下のよ うに紹介されている。 病院では,ラジオアイソトープは奇跡を あらわす名医である。その放射線は腫瘍や ガンの組織を破壊する。それは赤血球の異 常増加を抑止し,アザを取り除き,甲状腺 の機能状態を明らかにして,その機能昂進 を抑制する。血液の中に注射されると,そ の放射線は人間が生きるためには何リット ルの血液が必要か,また血球の補充力が低 下しているかどうかを医者に告げる6) 医療治療への原子力平和利用に関するこのよ うな記述がある背景として,被爆して放射能を 浴びてケロイドに苦しんでいた闘病者,加えて 癌や白血病に苦しむ人々を対象とするメッセー ジとしての意味合いが強かったのではないかと 考えられる。こういった原子力平和利用博覧会 におけるメッセージが,原水爆禁止運動をおこ し,原子力平和利用体制に抵抗を示していた 人々を納得させるのに大きな影響を与えたので はないかと感じる。また,農業面では,原子力 を応用することの素晴らしさを多くの例を挙げ て紹介している。 ラジオアイソトープを使って,農夫たち は肥料の新しい使い方によって食料を増産 する方法を学びつつある。この原子の探偵 は,植物と動物の生命に関する最も固く閉 ざされた秘密をあばきつつあるのだ。ラジ オアイソトープで肥料に目印をつけ,それ からガイガー・カウンターで植物を調べる ことによって,この肥料がはたして吸収さ れたかどうかがわかる。この研究が行われ る前には,農夫たちは肥料の半分を無駄に していたのだ。放射性カルシウムを使って 行われた研究のおかげで,卵の殻がこわれ るという事故も減った。原子核の出す強い 放射線は植物に突然変異を起こさせること ができる。このようにして,サビ病に強い 大麦の新種が生まれた。ある落花生の新種 は在来種よりも 30 パーセントも多くの収

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穫をもたらす。日本でもアメリカでも,お 米について同様な広範な研究が勧められて いる。アメリカでは 1 時間に 20 トンの ジャガイモを照射する設備ができていて, 2 年間保存できるようになった。ジャガイ モそのものは放射性にならず,その内部に あってジャガイモを腐らせる細菌が殺され る。また,照射されたジャガイモは芽を出 さない。照射されたサケの燻製は室温に 1 か月放置しても,味も変わらず保存がきく。 照射されたお米は虫がつかない。食品のな かには照射すると香りがなくなるものもあ るが,そのうちに食品はみな密封したプラ スチックの袋の中に入れて,ちょいと棚の 上に載せて蓄えておくという日が来るであ ろう7) このように,原子力を利用することで,農業 面においても今後飛躍的な一大進歩を遂げるこ とが可能であるとする描写がなされている。そ して,医療や農業の具体例は国民の生活にとっ て身近であり,原子力を身近に感じやすくして いる。この原子力平和利用の栞は最後にこのよ うにまとめられている。 原子動力:未来へのカギ 世界の 2 つの 主要な工業国日本とアメリカは,技術を発 展させ工業化を推進することにより,自国 民の生活水準を向上させようと働いている。 さらに彼らはインドやタイのような国々の 開発をも援助している。しかし,世界中の すべての国々がアメリカと同程度に工業化 されたら,世界の利用できる石油や石炭資 源は 20 年とはもたないだろうと推測され ている。電力の需要は急速に上昇しつつあ り,石油や石炭は不足し,水力発電は飽和 するとなれば,どうしても動力コストは高 くならざるを得ない。この傾向に対処する ために,アメリカの会社は原子力発電所の 設計と建設に,すでに金を投じている。彼 らは長い目でこの問題を見ようとしている。 すなわち,原子力発電の電気は現在のとこ ろは普通の電気より高いが,今から 10 年 20 年もたてば,増大する電力の不足を経 済的に解決するために必要な原子力の技術 は完成され,それに対する知識と経験をも つようになると考えているのである8) 原子力平和利用の方法として,農業や医療な ど様々な方法が紹介されているが,最大の目的 は原子力発電所の建設により,肥大化していく 電力需要に応え,国が発展することである。 3.原子力平和利用の浸透 原子力平和利用博覧会を通じて,日本の原子 力利用について否定的な考えを持っていた人々 の考えが変わっていることを紹介する。 まず,原子力利用反対の立場に立ち,第五福 竜丸の被爆事件以降,原水爆禁止運動広島協議 会の中心人物であった森滝市郎 (当時,広島大 学教授) の発言を見る。博覧会以前,森滝はア メリカ側の提唱に対し次のように述べている。 アメリカ人に広島の犠牲のことがそれほ どまっすぐに考えられることならば,何よ りもまず現に原子病で苦しんでいる広島の 原爆被害者の治療と生活の両面にわたって 国レベルで積極的な援助をしてもらいたい という考えを示し,拒否反応を示している。 加えて反対の理由として,原発が原爆製造 用に転化される懸念,原子力発電で生じる 多量の放射性物質が住民に与える影響につ いては未知であり,治療方法も確立されて いないこと,平和利用であってもアメリカ の制約を受けること,戦争が起きた場合に は広島が最初の目標になる恐れがある9) しかし,原子力平和利用博覧会を訪れた後と 博覧会後に開かれた日本被爆者団結協議会結成 大会で,森滝は原子力平和利用について次のよ うに述べている。 ・原子力研究の上で広島はとくに放射能に 敏感になっている。原子炉で燃えカスをど う処理するのか,原子炉はあってもそれが どこにも示されていない。こうすればよい というところを見せていないのが残念だ。 利用のよい面は分かるが死の灰の危険をな くするのにどうするのか,その疑問にこた えるものをみせてほしい。 ・破壊と死滅の方向に行くおそれのある原 子力を決定的に人類の幸福と繁栄の方向に 向わせるということこそが,私たちの生き

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る限りの唯一の願いであります10) 森滝は,放射性廃棄物の問題については鋭く 批判しつつも,原子力平和利用の有用性を認め ている。 次に,広島原爆被害者同盟事務局長を務めて いた藤居平一も,次のように述べて原子力平和 利用の有用性を認めている。 原子力が平和的に利用されることによっ て人類の平和と幸福が近い将来,必ず約束 されるであろうという感じを持った。あら ゆる分野で原子力が人類の福祉増進のため に利用されている状況がよくわかるのだが, われわれの立場からいうと,原子力が最初 に人類の前に姿を現した原爆という悪魔の ツメによっていまなお病床に呻吟している 多くの人たちが現にいる限り,あらゆる平 和利用に先立って原爆症に対する治療法と か予防法などの研究に第 1 目標を置いて欲 しい。原子力の平和的利用は一切の原水爆 兵器の禁止と原爆症の根治方法の研究とい うこの 2 つが前提でなければならぬと思う。 これは世界の国際道義の問題である11) また,原子力平和利用博覧会には,多くの被 爆者が見学に訪れて,原子力がいかに平和に貢 献されているかについて学び,「会場を一巡し てみて原子力がいかに人類に役立っているかが 分りました。原子力が戦争にだけ使われるので なく,真に平和のために使われるのを強く望み ます。」と感想を語っている。 原子力平和利用博覧会を通して推進派だけで なく,推進に異を唱えていた原水爆禁止運動の 組織の方をも含む多くの日本人が,「核兵器= 死滅/原子力=生命・未来の光」という別々の イメージを認識し,日本における原子力平和利 用体制の推進がゆるぎないものになっていった と考えられる。では,原子力平和利用を具体的 に進めていくための法体系は如何にして制定さ れていったのか次章で明らかにしていく。 4.中曽根康弘による原子力法体系の整備 原子力平和利用予算の通過 1954 年 3 月 3 日,予算の審議が大詰めを迎 えていた衆議院予算委員に,突如,自由党,改 進党,日本自由党による共同修正案が提案され る。それは,原子力平和利用研究費補助金 2 億 3 千 5 百万円とウラニウム資源調査費 1 千 5 百 万円,合計 2 億 5 千万円という日本において初 めての原子力予算を盛り込むものであり,この 動きの中心人物が中曽根康弘である。 1947 年 1 月の極東委員会の決定に基づき, 占領下の日本における原子力研究は禁止されて いたが,中曽根は 1951 年に来日したダレス特 使に,独立後は日本における原子力の平和利用 を制限しないように特に要請している。“20 世 紀の最大の発見”の平和利用を講和条約で禁止 されたら,日本は永久に四等国に甘んじなけれ ばならない。こういった自国への危機感を中曽 根は抱いている。また,中曽根は 1953 年の夏 に,アメリカの原子力平和利用研究の進捗振り をつぶさに視察して回っている。その結果,ア メリカでは「アトム・フォー・ピース」の名の 下に,軍部が独占していた原子力研究が規制を 解かれて民間に公開され,このために経済界が つくった原子力産業会議が活動し始めているこ とを感じ,日本も世界の大勢に遅れてはならな いと痛感している。このアメリカ訪問の帰国の 途次にカリフォルニア州バークレーのローレン ス研究所に立ち寄り,そこにいた理化学研究所 の嵯峨根遼吉博士と懇談し,日本の原子力平和 利用研究をどう進めるべきか助言を求めている。 それは,① まず長期的な国策を確立すること, ② 法律と予算をもって国家の意思を明確にし, 安定的研究を保証すること,③ このような方 法で第 1 級の学者を集めること,以上の 3 点で あった。この助言から中曽根氏は,原子力の平 和利用については,国家的事業として政治家が 決断しなければならないという意を強くし,予 算と法律をもって,政治の責任で打開すべき時 がきていると捉えたのである。 しかし,当時中曽根が所属していた改進党は 少数野党で,予算や法律を単独で通す力はな かった。中曽根がじりじりしていたところで, 吉田茂の“バカヤロー解散”が起こる。これに より自由党の過半数が崩れ,予算も法律も改進 党の協力がなければ成立しない羽目になったの である。中曽根はこれを天の与えた機会とばか りに予算修正案の形で原子力予算を盛り込んだ

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のである。確信犯であった中曽根はいかなる批 判にも屈せず,予算案は衆議院から参議院に送 られて 30 日経ち成立したのである。こうして 原子力予算は成立し,日本の原子力平和利用研 究がスタートする。 超党派での原子力法体系の制定の動き 原子力予算をもとに,1955 年 8 月,スイス のジュネーブで開かれた国連による原子力平和 利用国際会議に中曽根は日本代表団の顧問とし て出席する。中曽根を含む議員団はイギリス, フランス,アメリカ,カナダに赴き,原子力の 研究開発に関する行政体系,研究所,基本原則 などを詳細に調査してまわっている。そして, 議員団において激しく討論を交わし,原子力研 究開発を含む日本の科学技術政策の立案,科学 技術主管官庁の設立などについての意見をまと めていったのである。9 月に中曽根らの議員団 は羽田に帰り,日本の原子力研究開発体制の設 備が急務であることを訴える。このことは国内 に多大の反響を呼び,ジュネーブの国際会議と 相まって日本の原子力研究開発熱を一気に上昇 させ,原子力平和利用体制確立の突破口となっ たのである。翌月,衆議院と参議院の両議院の 超党派の協議体として原子力合同委員会を組織 し,中曽根委員長を中心に一連の原子力法体系 をまとめていく。この委員会の設置後から翌年 4 月のおよそ半年間の間に,現在の原子力法の 主要項目になっている原子力基本法・原子力委 員会設置法・総理府設置法 (原子力三法) と, 核原料物質開発促進法,原子力研究所法,原子 燃料公社法,放射線障害防止法などを含む 8 つ の原子力法体系と科学技術庁設置法が制定され たのである。こうして,原子力利用を具体的に 行っていくための基盤が出来上がる。 また,中曽根はスイスのジュネーブで開かれ た国連による原子力平和利用国際会議の後に, 当時の首相鳩山一郎に以下の手紙を送っている。 拝啓,遥に暑中お見舞い申し上げます。 益々お元気の事とお喜び申し上げます。 さて,原子力会議も無事に終りました。今 度の会議に参列して我が国将来のために極 めて重大であると各党代表と共感致しまし た。左に要点を具申致します。 一,国際政治の軸が文明の競争的共存に移 り,原子炉を有するや否や,即ち原子力の 発達度合が国際的地位の象徴となって来た 事が,今度の会議ではっきりした。 二,日本の位置はメキシコ又はトルコの地 位にあり,これに反し,印度は技術も工業 もないが,巧みにバランスを利用して一流 国の地位にある。 三,今度の会議に対する日本政府の認識は 極めて薄く,一大改革を要する。米英ソ仏 が数百人の代表を派遣したのに,日本は ジュネーブの総領事が首席で技術者も少な く,全分科会をフォローすることも肉体的 に不可能であった。 四,日本が国際的な地位を回復するのには, 中立的である,この科学の発達に割り込む のが最も他国を刺激せずして早い道である。 然も,アジアには日本以外にこれをやれる 国はない。日本が将来原子力国際機関の理 事国にでもなれば,国際的地位回復の重要 な足掛かりとなる。そのために,地道に一 歩一歩,割り込みの努力を堆積しなければ ならない。今度の会議では有力なチャンス を失った。国策の基本がないからである。 五,鳩山内閣は是非,後世歴史に残る所業 として原子力の大大的開発のドアを開いて いただきたい。それは各党が超党派的に協 力し得る最も易しい,然も最も国民が喜び, 人口問題,雇用問題の宿命を解く歴史的政 策であるからである。 六,小生等,四人の各党代表は左の点につ き完全に一致し,各党内に於て実現方誓約 した。 (イ) 原子力開発は政争から外し,超党派 的に,積極的に断行する。 (ロ) 具体的政策として 1.米国より実験炉二基を購入する。 2.三年以内に計画中の一万キロワット, 天然ウラン,重水炉を完成する。(次の会 議は二年又は三年後である。) 3.ウランの大大的探鉱を開始する。(フラ ンスは約二十五億円使い,大鉱脈を発見, 日本にも必ずある。) 4.米国の技術とインドのナトリウムを日

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本に於て結び付け,原子力アジア共同体を 推進する。 5.機構は当分,国家的管理を強く出し, 実用化したら民間に開放する。 6.右諸侯の為,三年間に約二百億の予算 を使う。また,原子力基本法を制定する。 以上は各党代表及び,駒形,藤岡博士等 と相談して一致した線であります。保守党 政府が新鮮な政策を出すといえば,社会保 障か原子力推進以外にありません。社会保 障は財界方面に問題ができますが,原子力 はどこにも反対はありません。ジュネーブ 会議の後で,国内の空気は熟している筈で す。従って,総理より積極的にこの件を取 上げるように内閣に支持されんことを切願 致します。 原子力の問題に対する国際的な雰囲気と 国内のそれがあまり異なるので憂いに耐え ず,敢えて申し上げる次第であります。ご 自愛を祈ります。 敬白 中曽根康弘 八月二十一日 ジュネーブにて 鳩山先生 小生は仏伊の炉を視察終り,英,加,米の 炉と行政予算を調査し九月十日に帰国しま す12) この手紙から,中曽根の原子力利用を導入す ることへの熱意,日本が先進国として発展させ ていくためには原子力利用を政治主導で行い, 法体系を整えたうえで産業界に開放するという 考えが感じとることができる。 5.商業用原子力発電所の誕生 原子力平和利用は,医療や農業,工業面での 活躍が期待されることが描かれている。そして, 原子力発電もまた同様に,原子力平和利用の方 法のひとつとして原子力平和利用博覧会でも紹 介されている。日本において初めて,商業用原 子力発電所が設置することが決まり,稼働され るまでを調べる。 民間へと移る原子力 まず,中曽根を中心に法体系が整えられた後, 1956 年 1 月 5 日,原子力委員会初代原子力委 員長に就任した正力松太郎は,非常に速いテン ポで新技術の実用化をはかる点,海外技術の直 輸入方式を採用する点,新技術の実用化をあく までも民間主導で推進する点の以上 3 点を軸に 原子力発電所を建設したいと発表する。そして, 正力の招へいにより 1956 年 5 月 16 日,イギリ ス原子力公社の理事,クリストファー・ヒント ン卿が来日し,イギリス製コールダーホール改 良型炉を紹介する。これを受け,原子力委員会 は訪英調査団を派遣し,この調査団の報告書を もとに原子力委員会は 1957 年 3 月 7 日,発電 炉早期導入方針を決定してイギリス炉導入が決 まる。なぜアメリカではなく,イギリスの原子 炉なのかについては,調査団の報告書において アメリカの軽水炉について将来有望との見解を 示しつつも,今すぐに大型軽水炉を導入するの は技術的に時期尚早であるとし,イギリス炉優 先の姿勢を明確にしている。加えて,正力があ まりにも急速に原子力開発を進めることに対し, アメリカが正力と距離を置いたとも考えられて いる。 次に,イギリス炉の受け入れ主体に,全額政 府出資の通産省傘下の国策会社である電源開発 株式会社と,日本原子力研究所法に基づき誕生 した日本原子力研究所,そして電気事業連合会 が電力 9 社の社長会議により設立構想を決定し て生まれた原子力発電振興会社という 3 つの組 織が名乗りを上げる。日本原子力研究所は早々 に撤退宣言し,アメリカ製の軽水炉を「動力試 験炉」として導入する計画へ切り替えていく。 そして最終的に,政府 (電源開発株式会社) 20%,民間 (電力系民間会社) 80% の出資比率 とする日本原子力発電株式会社が設立され受け 入れ主体となることが決定されたのである。以 後,電力業界が商業用原子力発電事業の確立へ 向けて乗り出し,商業用原子力発電システムを 幅広く掌握していくことになる。 茨城県東海村が原子力研究の中心地になるまで いかにして茨城県東海村が日本の原子力開発 利用の中心地となったかの経緯は,1956 年 4 月に成立した日本原子力研究所法に基づき誕生 した日本原子力研究所の発足に遡ることができ

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る。日本原子力研究所は発足間もない 1955 年 12 月に土地選定委員会をつくり,神奈川県三 浦半島武山地区への集中立地を第 1 順位,茨城 県水戸地区 (東海村) への集中立地を第 2 順位 とする報告書を原子力委員会に提出する。しか し,武山には当時,米軍基地がおかれていたこ とから,防衛問題がらみの論争が閣内で起こり, 合意成立が困難となりました。そこで,交通不 便や環境整備の遅れ等の悪条件をも顧みず,第 2 候補地の水戸地区 (東海村) への集中立地が 決定されたのである。そして 1963 年に,日本 原子力研究所が進める日本初の原子炉である動 力試験炉が 8 月に臨海を達成し,同年 10 月 26 日に原子力発電に成功したのである。この日は, 閣議決定により「原子力の日」と定められてい る。 一方,日本原子力発電株式会社が受け入れる イギリス炉の行方についても,発電所の立地地 点に関して,日本原子力発電株式会社は早くか ら茨城県東海村の日本原子力研究所の敷地に隣 接する国有林を候補地に定めている。東海発電 所の原子炉設置許可及び電気事業経営許可を日 本原子力発電株式会社が取得したのは,1959 年 12 月で,1960 年 1 月に工事が始まっている。 そして,日本初の実用原子力発電炉を擁する東 海発電所の初臨界は 1965 年 5 月 4 日に達し, 1966 年 7 月 25 日には営業運転を開始し,家庭 に電力を供給し始めたのである。 このように茨城県東海村は,日本原子力研究 所のすべての研究炉と動力試験炉に加えて,日 本最初の実用原子力発電炉をも擁する集中立地 点となり,文字どおり日本の原子力開発利用の メッカとなったのである。また,子供向けに東 海村を紹介する記事では,【おとなになった原 子力 ― 未来をつくる東海村 ―】というタイト ルで,さびしい松林にすぎなかった東海村が, アジアで一番立派な原子力センターになり,原 子力研究の関連施設によって村が整備され,豊 かになっていくサクセスストーリーが描かれて いる。おそらくこの記事を読んだ子どもたちは, 東海村を例にして,原子力技術を受け入れるこ とは,地方にとって,そして日本にとっても望 ましいことだというイメージを持つだろう。 イギリス製コールダーホール改良型炉の問題点 しかし,この日本原子力発電東海発電所の操 業開始への道は「いばらの道」であったのであ る。まず,建設着工以前の設置段階の問題とし て,東海村に原子力発電所を建設することによ り排出される放射性物質が,周辺住民や東京方 面の多くの人に影響を及ぼすのではないかと懸 念される。そのため,東海村に原子炉を設置し ても大丈夫かどうか何度も気象調査が行われる。 最終的には,原子力研究所による調査報告をも とに,東海村が適地であると決定されたのであ る。 次にイギリス炉の問題点が浮上する。1957 年 10 月 10 日にイギリスのウィンズケールで, 導入する予定のコールダーホール改良型炉の源 流をなす原子炉が,炉心火災を発端とするメル トダウン事故を起こし,周囲に多量の放射能を まき散らすという事故が発生したのである。イ ギリス製のコールダーホール改良型炉の数々の 安全上の疑問点がクローズアップされ,安全論 争が起こる。安全性論争が最高潮に達した 1959 年夏,原子力委員会は,コールダーホー ル改良型原子炉に関する公聴会を開き,立地条 件,原子炉の性能,燃料要素,機械構造,地震 対策などを中心に安全だと説明したが,野党や コールダーホール改良型炉設置に反対する大学 教授を中心に,安全性に関する厳しい批判が相 次いでなされたのである。こうした反対の声を 押し切り,東海村にコールダーホール改良型炉 が建設されることに決まったのである。日本原 子力発電東海発電所の操業開始までにはこのよ うな困難があったのである。なお,日本におい て,このコールダーホール改良型炉は,東海発 電所一基限りの導入に終わる。1969 年 12 月か ら原子炉の鋼材酸化問題が起こり,東海発電所 は定格電気出力 16 万 6 千キロワットのフル出 力運転を断念し,13 万 2 千キロワット出力で の運転を余儀なくされたのである。加えて,発 電コストが割高で火力発電に対抗することが出 来なかったのである。多くの困難により,日本 における原子力発電所の原子炉は,第 2 号機以 降,経済的に優れたアメリカ製軽水炉がモデル となっていく。 ここで,これらの問題に振り回されることと

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なった茨城県東海村の住人の意見を紹介する。 まず,茨城県東海村で農家を営む S さん (30) の話が以下のように紹介されている。 選挙では自民党は,原子力の開発こそ, この村さらに日本経済を進展させる唯一の 道であるとし,社会党は,放射能の障害を 排除しながら原子力産業を発展させたいと し,共産党は,大型原子炉の安全性につい て学者の間で意見が一致していない現在, それを東海村に設置しようというのは反対 だとしている。候補者のいうことはみんな もっともだと思う。自民党のある候補者は 原子力研究所を誘致するのに一番努力した のは私だとも言った。確かに東海村はここ 1,2 年の間に大きな変化を見せている。 人ひとり立ち寄らなかった砂丘の松林に, 第 1 号原子炉をはじめ鉄筋ビルが十数棟立 ち並び,第 2 号炉の建設も進んでいる。畑 の中の泥んこ道を大型バスが毎日 2 千人も の見学者を新名所へと進んでいく。妻とサ ツマイモを育て得る年収は 1 反当たり約 2 万円,ところが原子力研究所近くの土地を 建設会社に貸した賃貸料は 1 反当たり 7 万 2 千円にもなる。妻とサツマイモで 2 万円 儲けるには,あまり丈夫でない体を牛馬の ように酷使しなければならない。賃貸料は 寝ていてもその 3 倍が入ってくる。だが, 革新系の候補者が強調する放射能も心配だ。 原子力研究所が住宅地のための土地を研究 所より 2 キロ離れたところに買ったときは, やっぱり危ねぇのかと愕然とした。しかし, それから間もなく電電公社と銀行が原子力 研究所の近くに敷地を決めたのを知って, 社会党は放射能が危ないというが,あんな 大きなところが危ないところに選ぶわけが ないし大丈夫なんだと思っている。自民党 の候補者が言うように土地が 1 円でも高く 売れるためには原子力施設がもっともっと ドシドシ村にやってきてもらう必要がある。 私は保守系支持のハラを決めた13) もう一人,原子力研究所労働組合執行委員長 を務め,原子炉運転の現場で実際に働いている T さん (29) の話が以下のように紹介されて いる。 共産党のいう通り,大型炉の導入を強行 することは早すぎる。しかしもしそれをや らなかったら,保守系候補の言葉通り原子 力の開発は遅れる。放射能の専門家でない から,この問題をめぐる候補者のだれを支 持するか判断が難しい。しかし,この 2 月, 第 1 号炉の実験孔を開けたままにしておい たので,炉室から遮断されていたはずの制 御室の放射能が許容量の 2 倍以上になった ことがある。所員は絶えずこんな危険に身 をさらしている。フィルムバッジと線量計 を身につけて,あびる放射能の量を測定し ている。血液検査もやる。だが浴びた放射 能が増えたから白血球が減ったといって責 任者から休業せよという声は聞いたことが ない。最新研究所員の結婚話が 4 件もつぶ れている。娘を危ないところにはやれぬと 相手の両親が反対するからだ。私は独身な のでこの話は他人ごとではない。私は共産 党がいうほど放射能を恐れてはいないが, 現在の指揮者,そしてそれを監督する政府 関係者のように真剣にこの問題と取り組も うとしないのも困ると思う。もし現在の与 党に勝たせるような選挙をしたら,いつま でたってもしっかりした放射能対策が生ま れてこないような気がする。私は革新系支 持へ踏み切ろうと考えている14) 原子力の恩恵はあまりに大きく,安全性に不 安も感じながら,国の方針を信じて原子力発電 所建設推進を考える村人と,実際に原子力研究 所関連施設で働き,その放射能の危険性を知り, その管理体制の安全性に疑問を抱き,このまま 原子力施策が進んでいくことに危機感を感じる 村人が紹介されている。原子力関連施設の恩恵 を重視し,保守政党支持を決める前者から,い かにこの地でお金を稼ぐことが大変なことかが わかる。 しかし,村で働く人たちが,原子力関連施設 からお金を得て生活をしていくようになると, もはや村は原子力無しではやっていけなくなっ てしまう。このことは村が原子力に依存する体 質そのものである。

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6.日本における原子力発電所の展開 敦賀原発と福島原発の完成 前章で述べたように,茨城県東海村に日本で 初めて商業用の原子力発電所が完成し,実際に 家庭に電力が供給されるようになり,日本にお ける原子力平和利用体制は大きな一歩を踏み出 したのである。しかし,東海村にできたコール ダーホール改良型炉の問題点が浮き彫りとなり, 日本における原子炉の主流はアメリカ製軽水炉 へと移っていくこととなる。 そのアメリカ製原子炉が日本で初めて導入さ れたのは福井県敦賀市にある敦賀原発である。 福井県では 1957 年 6 月 14 日から北陸三県原子 力平和利用博覧会が開かれていて,原子力 PR がなされている地域でもある。敦賀市は,1962 年から熱心な誘致活動がなされている。原子力 発電所の誘致のねらいとして,① 固定資産税 がはいること,② 建設工事で現金収入が期待 できる,③ “原子力センター” などと名付けて 観光客が呼べること,が挙げられている。用地 買収は,福井県当局のもとで県開発公社が行っ ている。また,漁業補償協定も県当局の協力の もとで大きくもめることは無く早期に調印され ている。ほぼ同時期に立地計画が進められた東 京電力福島原発の立地過程では,福島県の積極 性が感じられる。それは,福島県の誘致計画発 表を端に発する。この地では福島県開発公社が, 用地取得と漁業補償の双方に関する地元との交 渉を肩代わりしたのである。この福井県,福島 県両県の原子力発電所設置の動きからは,電力 会社と県当局との協力関係が見られる。 難航する原子力発電所の立地 原子力発電所を立地するためには,地権者・ 漁業権者の合意を得ることが必要であり,そこ に電力会社の計画と政府による許認可と組み合 わされ決定される。逆に言えば,地権者・漁業 権者の合意を得ることさえできれば,それ以外 の人々 ― 立地地域住民,都市住民,批判的立 場の学識経験者等 ― がいかに精力的に反対運 動を進めても,その計画を見直させることは非 常に困難である。この点から福井県,福島県が 60 年代に行った原発立地活動では,要所であ る地権者・漁業権者をうまく抑え,早期実現を 可能にしている。 しかし,地権者・漁業関係者らの反対運動に より原子力発電所の設置を断念している事例も ある。三重県芦浜地区 (南島町=現在南伊勢町, 紀勢町=現在大紀町の両町にまたがる地区) の 運動である。騒ぎはまず,三重県度会郡南島町 芦浜で起こった。1965 年 9 月に衆議院科学技 術振興対策特別委員会の中曽根康弘代議士ら一 行らが視察を行おうしたところ,南島 7 漁業組 合の 1500 人が 500 隻もの漁船を連ね海上デモ を行い,実力で阻止される事件が発生したので ある。当時の南島町はハマチ養殖の最盛期で, 陰りが見えた真珠母貝の養殖に取って代わった ハマチが救世主となり,町のあちこちに「ハマ チ御殿」が建っていた。ハマチをトラックに積 み,ゴム長で名古屋に出掛けた漁民が,高級車 に乗り換え,スーツ姿で帰ってきたとの逸話も 生まれたとされる。住民は,「原発の補償額は ハマチ養殖のいけす一つ程度のもの。宝の海が 汚染されてはたまらない。」と原発誘致を聞く 耳はなかったのである。一方,当初は原発設置 推進の立場であった紀勢町でも,リコールで町 長が辞職するなどして混乱が起こる。事態を重 視した当時の田中覚知事は,「芦浜に終止符」 を宣言し,中部電力も芦浜立地強行を断念した のである15) 原発誘致活動を熱心に行っている地域は,大 都市から遠くて企業誘致も見込めない海辺の寒 村が多く,原子力発電所の建設をテコとして 「町づくり,村づくり」をはかろうとしている 姿がある。一方,芦浜地区のように漁業で豊か なところは絶対反対の声が出やすいのである。 相次ぐ原発事故 また,度重なる原発事故の発生が,原子力発 電所の設置難航の原因となる。1971 年 5 月 12 日に福井県の関西電力美浜原発で放射能水がも れる事故が起こる。このことに対し,福井県と 敦賀市,美浜町,高浜町は,厳しい条件を付け た原子力発電所の安全確保のための覚書を関西 電力と調印する。しかし,1973 年 9 月 8 日, 翌年 2 月 20 日にも蒸気漏れの事故を起こし,

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さらに 3 月 20 日から 29 日まで,アルバイトと して働いていた岡山大学の学生 6 人が,関西電 力美浜原子力発電所の原子炉格納容器内で一次 冷却水パイプの検査作業をした際に,放射能を 浴びるという事故も明らかになる。また,東京 電力福島原発でも職員のミスにより放射能が漏 れるという事故が発生している。福島県では第 2 原子力発電所が建設される計画中であったが, この事故により原子力発電所建設に反対する 人々による激しいデモが展開されることとなる。 こうした度重なる美浜原発や福島原発での事故 は,周辺に原発設置計画中の住民に大きな不安 を与えることになる。 電源三法の成立 このような原子力立地難航への政策的対応と して,1974 年 6 月に電源三法 (発電用施設周 辺地域整備法,電源開発促進税法,電源開発促 進対策特別会計法の 3 つの法律の総称) が制定 される。この法律は,まず,一般電気事業者か ら,販売電力量に応じて一定額の電源開発促進 税を徴収し,それを電源開発促進対策特別会計 の予算とし,それを電源立地促進のためのさま ざまの種類の交付金・補助金・委託金,とりわ け発電所を立地する自治体への「電源立地促進 対策交付金」(通称;原発交付金) として交付 されるという仕組みである。 実質的には原発立地促進体制を構築するだけ でなく,既存の原発立地地域においては原発に よる恩恵をさらに大きくし,原発依存をさらに 強める結果となったのである。その証拠として, 表 1 を見ると,現在日本にある原子力発電所の 運転開始の時期を見ると,福井県,福島県の電 源 3 法成立以前から原子力発電所が建てられて いる地域以外では,島根県の島根原発 (1974 年 3 月 29 日運転開始) を除くすべての原子力 発電所が電源三法成立後に運転が開始されてい る。 また,経済産業省資源エネルギー庁はモデル ケースとして,出力 135 万キロワットの原子力 発電所 (環境調査期間:3 年間,建設期間:7 年間,建設費:4500 億円) の立地に伴う財源 効果を試算している。試算では,自治体の収入 は 20 年間で原発交付金が 545 億円,固定資産 税が 348 億円となり,合計約 893 億円の収入が 見込めるとされる。過疎に悩む自治体にとって, 20 年間で総額約 893 億円の原発交付金と固定 資産税は大きな魅力になる。 しかし,運転開始後の固定資産税は設備の減 価償却に伴い年々減少していくため,運転開始 後 10 年 20 年と経つと自治体の収入は少なくな るので,地元は再び次の原子力発電所を誘致し ないと税収を確保できなくなる。福井県等原発 の集中立地が目立つ地域の財政は原子力発電所 に依存し続ける中毒症状に陥っている。この電 源三法の成立は,原子力発電の推進を促し,現 在まで原子力発電所とその地域を支えてきたの である。 お わ り に 日本における原子力平和利用体制は,アメリ カによる原子力平和利用の方針に正力松太郎が 呼応して広められ,読売新聞や原子力平和利用 博覧会を通じて原子力が夢のエネルギーとして 描かれる。特に博覧会ではその傾向が顕著であ り,多くの来客を集めることに成功し,国民の 誰もが原子力平和利用に関して理想の未来像を 抱くことに貢献している。 また,法体系の整備に携わった中曽根は,日 本の復興を進めいち早く先進国に肩を並べられ るように発展させていきたいという熱い思いを 持ち,そのために原子力平和利用が必要不可欠 であると考え,原子力関連政策の決定に心血を 注ぐ。当時の日本では,原子力平和利用に関し て政府,報道機関,国民の誰もが前を向いてい たことを新聞資料やパンフレットから明らかで 表 1 日本にある原子力発電所の運転開始の時期 所在地 名 所 運転開始時期 北海道 泊原子力発電所 1989 年 6 月 22 日 青森 東通原子力発電所 2005 年 12 月 8 日 宮城 女川原子力発電所 1984 年 6 月 1 日 新潟 柏崎刈羽原子力発電所 1985 年 9 月 18 日 静岡 浜岡原子力発電所 1976 年 3 月 17 日 石川 志賀原子力発電所 1993 年 7 月 30 日 愛媛 伊方原子力発電所 1977 年 9 月 30 日 佐賀 玄海原子力発電所 1975 年 10 月 15 日 鹿児島 川内原子力発電所 1984 年 7 月 4 日 (注) 一般社団法人日本原子力技術協会 HP により作成

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ある。そして,茨城県東海村に原子力研究所と 原子力発電所が建設され,日本における原子力 利用は推進されていくと考えられたのである。 ところで,原子力平和利用体制は原子力発電 所の度重なるトラブルで危機を迎える。設置地 域の住民から反対の意見も激しく発せられる様 子がメディアでも描かれるようになっている。 当時の新聞では,原子力平和利用に関して 1950 年代から 1970 年頃までは,肯定的な記事 でほぼ占められているが,原発トラブルが発生 した 1970 年代以降は,その危険性に関する記 事も多くなっている。原発トラブルの詳細が明 らかになるにつれて,正力や中曽根らが構築し てきた原子力平和利用体制への信頼は揺らいで いったのである。この危機は,1974 年に成立 した電源三法の成立により回避される。この法 律により,原発設置自治体は原発交付金という 大きな恩恵を受けることとなったのである。日 本における原子力発電所のほとんどが,電源三 法の成立以後設置されている。 注 1 ) 読売新聞 1955 年 9 月 1 日 朝刊 2 ) 読売新聞 1955 年 11 月 1 日 夕刊 3 ) 読売新聞 1955 年 11 月 1 日 夕刊 4 )『原子力平和利用の栞』(原子力平和利用博覧会 パンフレット) 広島市公文書館貯蔵 5 )『原子力平和利用の栞』(原子力平和利用博覧会 パンフレット) 広島市公文書館貯蔵 6 )『原子力平和利用の栞』(原子力平和利用博覧会 パンフレット) 広島市公文書館貯蔵 7 )『原子力平和利用の栞』(原子力平和利用博覧会 パンフレット) 広島市公文書館貯蔵 8 )『原子力平和利用の栞』(原子力平和利用博覧会 パンフレット) 広島市公文書館貯蔵 9 ) 田中利幸 ピーター=カズニック『原発とヒロ シマ ― 原子力平和利用の真相 ―』岩波書店 2011 年 p. 30 10) 田中利幸 ピーター=カズニック『原発とヒロ シマ ― 原子力平和利用の真相 ―』岩波書店 2011 年 p. 44-p. 45 11) 田中利幸 ピーター=カズニック『原発とヒロ シマ ― 原子力平和利用の真相 ―』岩波書店 2011 年 p. 43-p. 44 12) 中曽根康弘『政治と人生』講談社 平成 4 年 p. 171-p. 174 13) 朝日新聞 1958 年 5 月 12 日 朝刊 14) 朝日新聞 1958 年 5 月 12 日 朝刊 15) 毎日新聞 2009 年 5 月 13 日 朝刊 参考文献 ・吉岡斉 『新版 原子力の社会史 ― その日本的 展開 ―』朝日新聞出版 2011 年 ・佐野眞一 『巨怪伝 正力松太郎と影武者たちの 一世紀』 文藝春秋 1994 年 ・田中利幸 ピーター=カズニック『原発とヒロシ マ ― 原子力平和利用の真相』岩波書店 2011 年 ・『原子力平和利用の栞』(原子力平和利用博覧会パ ンフレット) 広島市公文書館貯蔵 ・有馬哲夫『原発・正力・CIA ― 機密文書で読む 昭和裏面氏』新潮社 2008 年 ・中曽根康弘『政治と人生』講談社 平成 4 年 ・開沼博『フクシマ論 ― 原子力ムラはなぜ生まれ たのか ―』青土社 2011 年 ・『原子力の平和利用に関する世論調査』内閣総理 大臣官房広報室 1969 年 7 月 ・読売新聞 朝刊 (1954 年) 10 月 27 日,(1955 年) 6 月 22 日,9 月 1 日,9 月 16 日,10 月 12 日, 12 月 13 日,(1956 年) 1 月 5 日,1 月 14 日,1 月 22 日,2 月 10 日,4 月 6 日,4 月 7 日,5 月 17 日,(1957 年) 1 月 18 日,8 月 6 日,8 月 10 日,8 月 28 日,(1959 年) 8 月 1 日,9 月 12 日, 11 月 10 日,11 月 14 日,(1963 年) 10 月 27 日, (1965 年) 5 月 4 日,(1966 年) 5 月 12 日,7 月 28 日,(1967 年) 10 月 26 日,(1971 年) 5 月 13 日,8 月 10 日,(1974 年) 4 月 23 日,6 月 29 日 ・読売新聞 夕刊 (1955 年) 1 月 28 日,9 月 12 日,11 月 1 日,(1956 年) 2 月 5 日,(1957 年) 11 月 1 日,(1965 年) 9 月 30 日,(1974 年) 4 月 20 日 ・朝日新聞 朝刊 (1956 年) 4 月 7 日,(1957 年) 11 月 18 日,(1958 年) 3 月 31 日,5 月 12 日,5 月 27 日,(1959 年) 11 月 12 日,(1963 年) 5 月 26 日,10 月 27 日,(1965 年) 4 月 20 日,(1966 年) 6 月 27 日,(1973 年) 6 月 27 日,(1974 年) 5 月 25 日,7 月 1 日 ・朝 日 新 聞 夕 刊 (1973 年) 9 月 18 日,(1974 年) 1 月 30 日,(1984 年) 7 月 23 日 ・中国新聞 (1955 年) 1 月 29 日,(1956 年) 5 月 29 日 ・毎日新聞 朝刊 2009 年 5 月 13 日

参照

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