2015/05/20発行
「海を渡った自衛官─異文化との出会い
─」
□はじめに 作戦が始まる前には経理部将校たちが「給養計画」を立てました。部隊が行動 するには食糧、衛生材料、馬糧、弾薬、燃料、各種機器材、水、果ては事務用品 まで数えきれないくらいの膨大な物資が必要になります。それらを調達し、集め 、運び、分類し、どこで、どのようにして部隊に交付するか。また、損傷した物 資や敵の遺棄した資源をどのように回収し、後方へ送り返すかなども考えなくて はなりません。 さらに部隊が長期間の駐留を行なうなら、なるべく追送品を少なくするために 各部隊には現地自活をさせなければならないのです。よく敵地の物資を無理やり 徴発したなどと言いますが、手続き上は経理部将校たちが現地での経済活動の一 環として物々交換したり、現金で買い上げたりしたのが実態でした。無理をすれ ば恨みを買うだけで、周囲は敵ばかり。損をするばかりです。今回は現地で使っ た軍用手票(軍票)についての説明はしていませんが、回顧録に出てくるように 正式な買い付けをするのが建前でした。 ▼現地の実際の活動 いよいよ実際の活動の話を集めてみよう。北支那の戦車第3師団の勤務者の話 である。中谷主計少佐、のちに陸上自衛隊に入隊し将補になられた。士官候補生 第1期生で、敗戦時には陸軍経理学校生徒隊中隊長だった。これまでと同様に、 読みやすくするために原文の主旨を損なわないように一部を変えて引用させてい ただく。 ▼戦車第3師団 当時は、師団経理部長が転出したまま空席のため、衣糧科長と主計科長と経理 部長代理のような立場だったN主計少佐の話である。 『作戦開始の時に各部隊は1週間ずつもちなさい。個人装備は2日間、そのほか に野戦倉庫にあるだけのものを渡すから持てるだけ持っていけと言った』 おかげで前進する戦車の上にはミソ樽はあるは、生きた鶏がくくりつけてある はのような状態だったらしい。そこで経理勤務隊が大活躍したという。 『ほとんど不眠不休です。本拠地の野戦倉庫から部隊へ補給をして、取りに戻っ て、また前進していく部隊へ行くんですから、普通の部隊の3倍以上走るわけで
す』 経理勤務隊の将校はほとんど幹部候補生の出身で、あとは下士官と職員しかい ない。師団経理部の将校も全部幹部候補生出身の将校ばかりだった。編成表では 車輛は17台、下士官・兵が40名、軍属が20名となっていた。 『戦車師団も輜重部隊はもっていますが、貨物廠と途中までは来ますけれども、 それから先は・・・、そこまでは分散になりますので、その輜重も実は非常に苦 労して、昼は動けないわけで、ほとんど夜行軍です。許昌というところに貨物廠 があって、軍は推進してくれません。だから、許昌から作戦地の途中まで、延び きった補給線を、輜重もふうふういいながら輸送したという格好です』 前後200キロ、左右40∼50キロメートルを、わずかな人員、車輛で敵中 突破して飛び回った。 ▼独立工兵第2聯隊 幹部候補生出身、元主計大尉は語る。 『昭和16年の2月に追及して以来、18年の10月まで、作戦が第一次長沙作 戦、湖南湖北殲滅作戦、錦江作戦と作戦ばっかり続いておりまして、それも2カ 月から3カ月の長い期間でございます。その間に自活をするなんて到底できる問 題ではなくて、日に日に移動して行くものですから、それも工兵聯隊でありまし て、鉄舟あるいは発動艇に乗って、河川を縫って移動していく。たまに暇のある 場合には、近隣の自治会で強制的な調弁を行うという程度でありました』 現地自活についても話がある。 『駐留間のことですが、漢水の安陸の対岸、汪家集というところにおりまして、 そこは一面の砂っ原でございます。赤犬を一匹ぶらさげて酒を売る店が一軒だけ 、あとは農家というものもないという状態でありましたし、その後、沙洋鎮とい うところに、一時、やっぱり陣地構築のために2カ月か3カ月駐留いたしました。 この時も一面の砂原でありまして、調弁するとすれば遠くの自治会あたりから集 めてきたナスとキュウリ以外はないのであります。たまにニラがあるぐらいのも ので、食糧は補給される調味品のほかには、すべて自分で得なくてはならないで すけど、野菜類というものは手に入りません。肉は手に入るのですが、そういう 状態で私は玉ねぎと馬鈴薯があったらと切に思ったわけです』 甘味品を兵たちに与えたい。でも酒保品もろくに追送されてこなかった。そこ で馬糧として支給されたソラマメを、自分が買い付けた小麦と交換した。ソラマ メであんこを作り、うどん粉は小麦から作って饅頭をふかした。ずいぶん喜ばれ
た。ダイズで納豆を作ったり、にがりの代わりにミョウバンを使って豆腐も作っ たりすることができた。 ▼第47師団歩兵第91聯隊 1939(昭和14)年9月に3期の幹部候補生になって敗戦時には再召集さ れ主計大尉で復員された方の話。 『昭和18年に召集解除され、また翌年7月に召集されました。大隊付の主計と して中支の湖南省の作戦に参加しました』 『昭和19年の11月ごろ山形の大石田というところから汽車に乗りまして、関 釜連絡船を通って、奉天からずーっと下がっていったわけでございますが、新郷 で汽車が空襲にあって、新郷から漢口、長沙、それから湖潭というところまで全 部行軍だったわけであります』 この行軍距離、なんと1200キロメートル。東京・名古屋間を400キロと して一往復半という距離になる。これを2本の脚で歩き通したことになる。 『で、主計将校としてやることは「作戦給養」のとおり先発して、部落の長やな んかに交渉して、そのときの宿舎を割り当て、そしてそこの物資を買い集めるこ と、こういうことでございましたので、長沙に至る間は全部先発で行ったわけで ございます』 部隊の方はといえば昼間は空襲が激しく動けない。そこで夜行軍をしてくる。 主計将校とその手足となる一個中隊くらいの戦闘部隊が先行して、夜明けには全 部設営を終えるという毎日だった。 『主計将校としてたいへん困ったことは、その新郷で空襲に遭いまして行軍した 時に、冬でありましたから、大隊のうち相当数の兵隊が凍傷にかかりまして、途 中で置いていかなくちゃならんということになりました』 大隊長は怒って、これは主計の靴下の補給が悪いせいだという。しかし、その 新しい靴下に替えなかったのが大隊長の責任ではないかと言い返した。 長沙を過ぎて湘 に着いた。そこでとうとう「徴発命令」が出た。全然補給は されなくなったし、物資を買うこともなくなった。 『とにかく徴発というより他しようがないわけであります。それは部隊が全部各 個ばらばらに部落へ入って、米や何かを取ってくるということで、これで戦争が
勝てるのかというようなことを非常に感じたわけでございます。その状態で、非 常に悲惨な目に遭っている部落民もおったわけで、また、日本軍に協力した村長 などは、私たちの帰り道では、すでに銃殺されているというようなこともあった わけでございます』 あまりに勝手をやってはいけないということで禁止されたこともある。鯉を飼 っている貯水池などがあったが、兵隊はそれを壊して中の鯉を食べてしまう。現 地の人は豚を食べるのは冠婚葬祭のときくらいなのに、兵隊は豚ばかりか牛まで も殺してしまった。これもまた、民心が離れてしまう。牛を殺すなと言い続ける しかなかった。 ▼第11軍輜重隊 1941(昭和16)年1月、経理学校の幹部候補生隊をおえて第11軍直轄 の駄馬輜重中隊に赴任したS主計大尉の話。正式には軍第7兵站輜重兵中隊とい う。 『この部隊は馬の定数の方が兵隊より多い、今考えると変形的な部隊でした。隊 長は少佐または大尉で、あと各部将校がついております。第11軍直轄部隊です から、常時機動性を発揮するという意味で、大体一地に一年と駐屯したことはあ りません』 中支の武漢を中心にして、北は射陽鎮、沙市、南は粤漢作戦などなど、とにか く歩くことにかけては徹底して歩いた。それぞれの部隊に配属されて行動を共に した。主に第6師団だった。 『第16師団の渡河材料中隊に配属になりました。この部隊は輓馬輜重が半分、 あとは工兵です。ボートの親玉みたいな一気筒の操舟機を付け、渡河部隊を援助 する部隊であります。そうした輜重と工兵の混成部隊主計をやったわけでありま すが、作戦には当然出て行きますし、駐留中は警備を命ぜられるといった日々を 繰りかえしたわけです』 経理本来の仕事としては中支の中心地区にいた時には、給与その他も学校で習 った通り実施できる状態が続いた。主計として格別苦労せずに勤務することがで きた。それが変わったのが18年以降だった。戦局は悪化し、進攻作戦が次々と 行なわれ、いよいよまったく補給がされなくなった。自活に頼るしかなくなった が、画期的な自活指導もしたわけではなかった。 『回顧しますと、わたしは終始、中支におりまして、馬の多い部隊で生活したわ
けですが、中支はなんといっても馬の行動が一番重要であって、人間の給養より も馬の給養を重点的に考えるぐらいな状態でやってきたということに尽きるので はないかと思います』