印度學佛敎學硏究第68巻第1号 令和元年12月 (126)
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「如来寿量品」
KN, 319. 2–4
の解釈をめぐって
李 暎 実
はじめに
『法華経』「如来寿量品」には,一般に 永遠のブッダ とも呼ばれる所謂「久
遠実成の仏」が説かれ,この仏の寿量
(āyuṣ-pramāṇa)については,
「無始無終」「有
始無終」「有始有終」という三種類の解釈
1)があり得ると思われる.これらの解
釈のうち,いずれが妥当であるか,あるいは,この仏の寿量を正確にはどのよう
に理解すべきかを検討するためには,
KN, 318. 15から
319. 5,とりわけ
319. 2から
4のテキストを正確に理解することが必要となる.本論文では,先行研究を踏ま
え,梵語諸写本,漢訳,チベット訳,そして,『妙法蓮華経憂波提舎』
(以下『法 華論』)をも参照して,
KN, 319. 2–4について,そのテキスト自体を修正する必要
があるかという問題をも含めて,どのような解釈が可能であるかについて,問題
点を整理し,私見を示したい.
1
.先行研究
苅谷定彦氏と松本史朗氏は,「如来寿量品」に説かれる仏の寿量を「有始有終」
であるとする解釈を提示されている.
[1]それ故に,その寿命の量がいかに長いものであろうとも,その時仏は,まさしく灯明 の因(油)が尽きて消えるが如く,完全な滅度,即ち灰身滅智をとるのである2). [2]この「久遠実成の仏」は,『法華経』を説いている現在の時点よりも,『妙法蓮華経』 の表現を用いれば,「無量無辺百千万億那由他劫」以前にGayāで仏陀と成ったのであり, これが,「久遠実成の仏」の仏陀としての「始め」の時点であり,また,未来に向かって は,この「無量無辺百千万億那由他劫」の二倍(dvi-guṇa)を過ぎてから,涅槃に入るので あり,この涅槃に入る時点が,仏陀としての「終り」の時点である,と見るのである3).私は[
2]の松本説に,基本的には,従いたいと思うが,更にもう一つ,「有
終」説,「久遠実成の仏の寿量には終わりがある」という説の有力な根拠になる
(127)
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422―
「如来寿量品」KN, 319. 2–4の解釈をめぐって(李)
と思われる経文を示したい.
2
.「有終」説の根拠としての「人記品」阿難授記の経文
[3] aparimitāṃś ca kalpāṃs tasya bhagavataḥ sāgaravaradharabuddhivikrīḍitābhijñasya tathāgatasyārhataḥ samyaksaṃbuddhasyāyuṣpramāṇaṃ bhaviṣyati yeṣāṃ kalpānām na śakyaṃ gaṇanayā paryanto dhigantum / ……yāvaccānanda tasya bhagavataḥ sāgaravaradhara-buddhivikrīḍitābhijñasya tathāgatasyārhataḥ samyaksaṃbuddhasyāyuṣpramāṇam bhaviṣyati / taddviguṇaṃ parinirvṛtasya saddharmaḥ sthāsyati / yāvāṃs tasya bhagavataḥ saddharmaḥ sthāsyati taddviguṇaṃ saddharmapratirūpakaḥ sthāsyati / (KN, 216.11–217.4)
記述[
3]には,
aparimita, āyuṣ-pramāṇa, dviguṇaという語が使用されているが,
これら三つの語は,「如来寿量品」
KN, 318. 15–319. 4でも,「久遠実成の仏」に関
して用いられていることに,注意したい.つまり,ここでは,次のようなことが
言われたのである.
A.仏の寿量
「その如来
(阿難の将来仏)の寿量
(āyuṣ-pramāṇa)は,無量劫
(aparimitāṃś ca kalpāṃs)ある」
B.正法の量
=Aの二倍
(dviguṇa)「倍於寿命」
(T9, 29c13)「正法は,それの二倍
(tad-dviguṇam)の間,住するであろう」
C.像法の量
=Bの二倍
(dviguṇa)〔
= Aの
4倍〕「復倍正法」
(T9, 29c14)「像法は,それの二倍
(tad-dviguṇam)の間,住するであろう」
「人記品」において,
A(仏寿)にも
B(正法)にも,「終わり」があるとされて
いる.つまり,無量劫と言われる
A「仏寿」が終らなければ,
B「正法」の時期
は到来せず,
B「正法」が終らなければ,
C「像法」の時期は到来しない.しか
し,同様なことは,「寿量品」に,
aparimita-āyuṣ-pramāṇas tathāgataḥ (KN, 318. 15– 319. 1)とあり,この
aparimita-āyuṣ-pramāṇaも,その後に
tad-dviguṇena (KN,319. 3)とあることから考えても,「無終」ではなく「有終」と見るべきであろう.とい
うのも,「寿量品」の三つの語を含む文章が作成される際,「人記品」[
3]の経文
が意識されなかったとは,考えられないからである.
3
.「寿量品」
KN, 319. 2–4
の考察
[4]na ca tāvan me kulaputrā adyāpi paurvikī bodhisattvacaryāpariniṣpāditāyuṣpramāṇam apy aparipūrṇaṃ/ api tu khalu punaḥ kulaputrā adyāpi taddviguṇena me kalpakoṭīnayutaśatasahasrāni
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「如来寿量品」KN, 319. 2–4の解釈をめぐって(李) bhaviṣyanty āyuṣpramāṇasyāparipūrṇatvāt / (KN, 319. 2–4)記述[
4]の前半下線部分には,「私の菩 行は完成されていない」と「私の寿
量は満たされていない」という「二文章」が説かれていると見る
4)点で,代表的
な翻訳
5)は一致している.しかし,
[
4]に対応する二種の漢訳[
5][
6]とチベッ
ト訳[
7]には,松本氏が指摘
4)するように,「私の菩 行は完成されていない」
という趣旨は認められない.
[5]又如來不必如初所説.前過去世時行菩 法以爲成就壽命為限也.又如來得佛已來.復 倍前喩.億百千 .(『正法華』T9, 13c23–26) [6]諸善男子,我本行菩 道所成壽命今猶未盡.復倍上數.(『妙法華』T9, 42c22–23) [7]rigs kyi bu dag ngas da dung yang sngon gyi byang chub sems dpa i spyod pa yongs su rdzogs parbyas pa i tshe i tshad du yang ma phyin te / rigs kyi bu dag ngas da dung yang bskal pa bye ba khrag khrig brgya stong de nyis gyur gyis nga i tshe i tshad tshang bar gyur ro // (Tib. Tokyo6) ma. 152b7–
153a1)
一方,
『法華論』[
8]「我本行なる菩 道」
7)は,
[
4]
me…
paurvikī bodhisattvacaryāに一致する.
[8]「我本行菩 道,今猶未満」者,以本願故.衆生界未尽,願非究竟故.言「未満」,非 謂菩提不満足也.「所成壽命,復倍上数」者,此文示現如来命常.善巧方便,顕多数故. 過上数量,不可数知.(『法華論』T26, 9b27–c3)では,
KN[
4]前半部分をそのまま受け取るべきか,それとも,それを修正す
べきか,また,どのような訳解が可能であるかを考察する.
4
.
na ca tāvan
と「又如來不必如初所説」の対応の可能性
『正法華』[
5]「又如來は,必ずしも初めの所説の如くにはあらず」の「初めの
所説」とは,[
5]の直前にある『正法華』[
9],
KN[
10]の経文の所説を指すと
思われる.
[9]現 得佛,成平等覺已來大久,壽命無量,常住不滅度.(『正法華』T9, 113c22–23) [10]tāvaccirābhisaṃbuddho ( )parimitāyuṣpramāṇas (=D1) tathāgataḥ sadā sthitaḥ / aparinirvṛtas(129)
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「如来寿量品」KN, 319. 2–4の解釈をめぐって(李)
[
9]「常住不滅度」は,
KN[
10]
sadā sthitaḥ / aparinirvṛtasの訳語であると見る
ならば,
[
5]の直前にくる[
9]「如来は,常住であって,涅槃に入ることはない」
という「初めの所説」を,[
5]「不必如
8)」「必ずしもそうではない」と否定する
表現なのではなかろうか.
na ca tāvanの後で文意をいったん切る,このような
読み方はかつて示されたことがないのであるから,上述の両者が対応するという
見方は,容易に肯うことはできないかもしれない.従って,一つの可能性とし
て,以下に筆者が想定したテキスト[
12]と和訳[
13]を提示してみたい.
[12]na ca tāvan me…adyāpi paurvika9)-bodhisattvacaryā-pariniṣpādita-āyuṣ-pramāṇam apy
aparipūrṇaṃ [13]しかし,それだけ(tāvat)ではなく,今でも,私の過去の菩 行によって完成された 寿命の量も,満たされていない.
最後に,
KN[
4]の後半に「今までの寿命の量の二倍
(dvi-guṇa)は残っている」
という趣旨の文章が続く以上,「久遠実成の仏」はやがては入滅する
(「有終」)と
説かれていることは,明らかだと思われる.
1)吉蔵『法華義疏』T34, 603a24–27. 2)苅谷定彦 1983『法華経一仏乗の思想――インド初期大乗仏教研究――』東方出版, 171. 3)松本史朗 2012「久遠実成の仏について」『インド論理学研究』5, 243–245. 4)松本史朗 2018「 久遠実成の仏 の寿量について」『インド論理学研究』11, 43–46. 5)E. Burnouf. 1852. Lotus de la Bonne Loi. Paris: A. Maisonneuve, 194. H. Kern. 1844. The Lotusof the True Law. Oxford: Clarendon Press, 302. 松濤誠廉 1981『大乗仏典5法華径Ⅱ』中央公
論新社,109(初版1976と訳は異なる).
6)東洋文庫,チベット写本大蔵経Vol. 72.
7)大竹晋 2011『法華経論・無量寿経論他』大蔵出版,245, 21.
8)「如」は -tāvanのvan (-vat)を「∼の如し」と読んだとも考えられる.
9)paurvikaは,渡辺照宏 1970「法華経原典の成立に関する一考察」(『法華経の成立と展
開 金倉圓照編』平楽寺書店,85)において,想定された読みであり,現存する梵語写 本に,この読みは認められない.
〈略号〉
KN: Saddharmapuṇḍarīkasūtra. Eds. H. Kern and Bunyiu Nanjo. Bibliotheca Buddhica 10, 1912.
Saint-Pétersbourg: Imprimerie de l Académie Impériale des Sciences. D1: 『インド国立公
文書館所蔵ギルギット法華経写本 写真版』創価学会;New Delhi: National Archives of
India, 2012.
〈キーワード〉「如来寿量品」,aparimita,āyuṣpramāṇa,dviguṇa