印度學佛敎學硏究第68巻第1号 令和元 年12月 (285) ― 264 ―
繁塔所蔵の『仏説天請問経』についての考察
平 燕 紅
1.問題の所在
東洋文庫に所蔵されている『十善業道経要略並仏説天請問経』という碑文の拓 本は,唐代の裴休(791–864)が 述した『十善業道経要略』と姚秦の羅什(344– 413)が翻訳したと記す『仏説天請問経』の二文を収録したものである.この碑 文の原物は,北宋太平興國二年(977)に宋代の趙安仁(958–1018)によって写さ れたものであり,現在中国 封市にある繁塔に刻まれているものである. 本論においては,第二の『仏説天請問経』に焦点を当て以下の3点を検討す る.(1)羅什と玄奘との訳風の対比によって,繁塔に刻まれている『仏説天請問 経』が羅什訳ではなく玄奘訳である可能性について.(2)なぜ趙安仁は羅什訳と したのか.(3)碑文の奥書に名がある志蘊は碑文とどのように関わっていたのか ということについても検討したい. 2.『天請問経』について羅什と玄奘との訳風
東洋文庫II-16-C-1374号の拓本の第二の文献は,訳者が「三藏羅什」と記され た『仏説天請問経』である.しかし,歴代の蔵経目録の中には羅什訳の『仏説天 請問経』を見出すことはできず,ただ玄奘訳『天請問経』しか見出せない. 繁塔に刻まれている『仏説天請問経』と大正蔵所収の『天請問経』との内容が ほとんど同じであり,ただ幾つかの単語が異なっていることだけであることがわ かる.周知のように,羅什は玄奘とその翻訳スタイルがかなり異なり,訳経の時 代的な特徴を代表している.羅什は意訳により,中国人の言語習慣にあう簡潔で 流暢な言葉をもって経文の内容を伝達することを好むが,玄奘は直訳によって, サンスクリット語の原本に忠実であることを旨としていた.そのため,玄奘の訳 は原本に従って長くなってしまう.これ以外にも,羅什と玄奘は,同じサンスク リット語の単語を訳す上で,異なる特徴を持っていることが認められる.例え(286)
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繁塔所蔵の『仏説天請問経』についての考察(平)
ば,bhagavat,śrāvastī,jeta-vana,anātha-piṇḍadasyārāmaの語句を中心として検討 し,繁塔に刻まれている『仏説天請問経』が羅什訳であるのか,あるいは玄奘訳 であるのかを判断する. 1. 薄伽梵: 繁塔本と大正蔵本とには,「薄伽梵」という訳語がある.これは bhagavatの訳語であるが,羅什は自分の訳経の中でbhagavatを「婆伽婆」・「世 尊」・「如 来」1)と 翻 訳 し,「薄 伽 梵」 と 翻 訳 し た こ と は な い. 逆 に, 玄 奘 は bhagavatを幾つかの著作で「薄伽梵」と音釈した2).つまり,「薄伽梵」の訳語 は,玄奘と羅什との相違を示す一つのキーポイントになる. 2. 室羅筏:śrāvastīの漢訳である.繁塔本と大正蔵本とは,śrāvastīを「室羅筏」 と訳している.羅什はśrāvastīを自分の著作で「舎衛国」3)或いは「舎婆提」4)と 訳した.玄奘は梵語に忠実に,śrāvastīを「室羅筏」5)と音写した.羅什に「室羅 筏」という訳語がないことは確認できる. 3. 誓多林:jeta-vanaの漢訳である.繁塔本と大正蔵本とは,jeta-vanaを「誓多 林」と訳した.羅什はjeta-vanaを「 樹」と訳した6).一方,玄奘は幾つかの仏 典の中で「誓多林」と翻訳した7).つまり,羅什の訳本には「誓多林」という漢 訳がない. 4. 給 孤 独 園:anātha-piṇḍadasyārāmaの 漢 訳 で あ る. 繁 塔 本 と 大 正 蔵 本 と は, anātha-piṇḍadasyārāmaを「給孤独園」と訳した.羅什は玄奘と共に「給孤独園」 と訳した8).ここでは,羅什と玄奘の翻訳は同じである. 上記の四つの梵語の漢訳語を検討した結果,玄奘は,羅什の翻訳した仏教音写 語に対して,異なった選択をしたことが分かる.「薄伽梵」・「室羅筏」・「誓多林」 という三つの単語から見て,繁塔に刻まれている『仏説天請問経』が玄奘の翻訳 なのは確かであろう. 3.
趙安仁という人物
残る問題は,繁塔に刻まれている碑文の書写者である趙安仁は何故玄奘と羅什 を取り違えるような基本的な間違いを犯したのかということである.『宋史』に よれば,趙安仁は楷書をよくするために国子監に仕え,五経正義の版木を出した 時に原本を書いた.彼は日頃しばしば典籍を読み,自ら校正し,そのため様々な 出典をよく知っていた9).宋淳化四年(993)に『 維摩詰経』を写し10),大中祥 符年間(1008–1016)の間に勅命により『太平祥符法宝録』を編集した11).上述の ように,趙安仁は仏教知識を全く持たない人ではなく,逆に楷書をよくするため(287) ― 262 ― 繁塔所蔵の『仏説天請問経』についての考察(平) に石刻や写経等の活動に常に参加し,仏教とその縁が深いと言える. それでは,彼が一体どういうわけで上記の誤りを犯したかが問題になる.筆者 は以下のように推測する.まず,太平興国二年の時点で趙安仁は20歳になった ばかりで,まだ仏教に対する知識が十分ではなかったと考えられる.さらに,宋 代には,仏教が新たに復興されたとはいえ,唐末の会昌法難と五季の様々な戦争 のために,仏教の典籍の大部分は散逸してしまった.あるいは安仁が,誤って訳 者を羅什と記した『天請問経』を持っており(或いは読んだことがあり),繁塔の石 刻の時そのままこの経文を写したかもしれないと推測する.さらに,当時は交通 が不便で,正確な情報が届きにくかったという点も考慮する必要があろう. 4.
志蘊という人物
この拓本に関するもう一つの主たる注意点は,碑文の奥書の中に天清寺の志蘊 法師の名が記されている点である.志蘊法師については,ただ義天の『新編諸宗 教蔵総録』の中に「金剛般若經開玄鈔六卷科一卷(公哲述志蘊刪補.)」(金剛般若経 開玄鈔六巻,科一巻(公哲述し,志蘊刪補す.))12)と記されているのみである. 『金剛般若経開玄鈔』中の大量の唯識文献の引用13)と繁塔所蔵の『十善業道経 要略並仏説天請問経』の中の志蘊の肩書「当寺講金剛経百法論賜紫沙門」から見 ると,洛陽天清寺の志蘊法師は確かに唯識法脈に当たり,また彼の活動時期は宋 初(–977–)になると考えられる.筆者は,志蘊法師の活動によって,宋代の唯識 宗は天台・華厳と同じように復興の状況にあったと考える.従って,やはり,唯 識宗の門人と考えられる志蘊が,なぜ自分の開山祖師玄奘の翻訳を知らなかった のかという疑問が生じる.これについては今後の課題としたい. 5.まとめ
本論文では,繁塔に刻まれている『仏説天請問経』を主たる研究対象として定 め,その訳者が誰なのか,また当時繁塔と関係があった志蘊法師と趙安仁がどの ような人物であるのかを解明することを期した研究である.上記の検討によって 明らかになったことは,繁塔所蔵の『天請問経』の訳者が拓本に書かれている羅 什ではなく玄奘であることである. また,趙安仁は仏教知識を全く持たない人ではなく,『太平祥符法宝録』を編 纂し,仏教とその縁が深いと言えるにもかかわらず,彼が訳者を玄奘ではなく羅 什と見なした(見誤った)理由は定かではないが,当時の彼の年齢や社会事情な(288) ― 261 ― 繁塔所蔵の『仏説天請問経』についての考察(平) どを考慮に入れる必要があろう.また『金剛般若経開玄鈔』を削り補った志蘊 は,唯識学に関わりをもつ人物であると想定できるが,その彼もまた玄奘訳に思 い至らなかったのは何故なのか疑問が残る. 『十善業道経要略』と『仏説天請問経』とが併せて刻まれる理由は何なのかと いうことに関連して敦煌仏教と中原仏教の関係についてはさらに詳しく調べる必 要があり,今後の課題としたい. 1)『仏説放牛経』・『大荘厳論経』・『坐禅三昧経』等の経典で「婆伽婆」と音訳され,『法 華経』の中で世尊・如来と訳される. 2)『大般若波羅蜜多経』・『阿毘逹磨法蘊足論』・『阿毘逹磨大毘婆沙論』等の仏典の中で 「薄伽梵」と音訳される. 3)『仏説放牛経』・『大荘厳論経』・『仏説華手経』等の仏典の中で「舎衛国」と訳される. 4)『大智度論』の中で「舎婆提」と訳される. 5)『大般若波羅蜜多経』・『阿毘逹磨法蘊足論』・『分別縁起初勝法門経』等の仏典の中で 「室羅筏」と音写される. 6)『仏説放牛経』・『大荘厳論経』・『仏説阿弥陀経』等の仏典の中で「 樹」と訳される. 7)『大般若波羅蜜多経』・『最無比経』等の経典の中で「誓多林」と訳される. 8)羅什の『仏説放牛経』・『大荘厳論経』・『仏説阿弥陀経』と玄奘の『大般若波羅蜜多 経』・『最無比経』との仏典の中で「給孤独園」と訳される. 9)『宋史』(1977)巻287,『列傳』46,9655–9657. 10)大正38,420a. 11)『佛祖統紀』大正55,1170c. 12)大正55,1170c. 13)この点について, 阿財氏は「杏雨書屋《敦煌秘 》来源,価値與研究現況」の中で 詳述している. 〈参考文献〉 脱脱等撰 1977『宋史』中華書局. 阿財 2013「杏雨書屋《敦煌秘 》来源,価値與研究現況」『敦煌研究』139(3): 116–127. 〈キーワード〉 繁塔,羅什,玄奘,趙安仁,志蘊法師 (国際仏教学大学院大学)