早 稲 田 刑 法 学 の 特 色
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(2) 二一二. 学間の開拓時代特有の状況と無縁ではなくて︑あまり広くもの. 早法五八巻 二 号 ︵ 一 九 八 三 ︶. での講演.私的な励ましの言葉︑私信を通じ︑いろいろな影響. ︵2︶. を知らなくとも︑自分が探し︑捕えた学問対象が真理であると. は︑そういう強烈な個性を持った二人の先生の印象から自由で. を受けました︒私共のイメージにある早稲田の刑法学というの. 人︑これまた大変な個性の持ち主であった中村宗雄先生の書か ︵1︶ れた著書・論文にも非常な影響を受けたと思っています︒. 民事訴訟法もだいぶ勉強いたしました︒御二人の他にもう一. 私は︑当時︑大学院で民事法学を専攻していました関係で︑. て︑ピエロ扱いされ︑事大主義的だと笑われかねません︒開拓. 同じような態度をとろうものなら︑たちまち物笑いの種になっ. 世代が︑それぞれなりに強烈な個性の持主の存在を許していた. せた学生の側に︑指導者を求める心情があって︑それぞれの. たのかもしれないし︑あるいは︑そういう強烈な個性を発揮さ. 思い込んだ自信︑それが︑もしかすると個性として現われてい. 戦前から戦後一〇年頃にかけて活躍した大家の学間・学風. ん︒いずれにしましても︑早稲田刑法学の特徴が斉藤・江家両. 時代の英雄と相対的安定期の我々との差がでるのかもしれませ. はありえないのです︒. は︑ただ単に書かれたものだけにとどまらず︑書かれたものの. ことなのかもしれません︒現在︑もし我々がこれらの先生方と. 背後にある人柄というのでしょうか︑個人的影響力というもの. 小野といった強烈な個性の持主から影響を受けた当時の若者た. りをしているうちに︑さほど特色のない学間がコンクールをし. はならない︑これもやらなくてはいけないというように︑目配. かもしれません︒情報化が進めば進むほど︑あれもやらなくて. 先生のそのままそっくりのスタイルで今日まで伝わっていない. ちも同じような感じをお持ちでありましょうし︑九大や東北大. が若者にとっては大変な魅力であり︑精神に対する一種の歓喜. で木村亀二氏の影響を受けられた方︑京都大学で言えば滝川幸. あうという状況になりつつあるのかもしれません︒私共が学問. いのかもしれません︒それは結局︑情報化時代による制約なの. 辰氏の講義や︑演習に連なった人々もそれぞれ時代を画する強. 的な骨組みを形成した時期に︑非常に強烈な個性的な学問的影. 状況は︑時代の変化・流れとの兼ね合いで考えなければならな. 烈な個性と満々たる自信とに多かれ少なかれ影響を受けて︑そ. いうものを見ていきたいと思います︒. 響を受けた御二人の存在を語りながら︑早稲田法学のその後と. をもたらすほどの感銘を受けたものであります︒それは何も早. れぞれの学問の道を進まれたものと思います︒ただ︑その圧倒. 稲田の先生方だけでなく︑東京大学系統の方で言えば︑牧野・. 的影響とか強烈な個性というものを今日の目でみると︑目本の.
(3) に勝本勘三郎・滝川幸辰など京都帝国大学の群像︑そして九州. に触れて叙述は終っています︒こういうあたりに私学のその当. 時の地位が︑象徴的に現れています︒団藤重光氏が定年退官さ. や東北の帝国大学の刑法陣の動きにふれ︑そして最後に私学に ︵5︶ は︑早稲田大学に斉藤金作・江家義男の二人がいるなどわずか. おいてもそうでありますが︑官学の学問に対抗し相当な業績を. いて聞き取りをしたときに︑団藤先生に︑なぜ私学はその当時. れた後︑内藤さん︑松尾さんと一緒に日本刑法学会の歴史につ. 私学の学問を常に念頭におぎながら考えているわけでありま. い時代のことではなくて︑戦後の現実であろうと思います︒私 と思います︒私学の学問の荒れ野を拓ぎ︑筋道をつけた方︑こ. 東大・京大が優位にあったから︑それは︑しかたがないでしょ. の文献の収集・その分析・紹介といった情報量の点で圧倒的に. 何と言っても戦前は︑東京帝国大学や京都帝国大学など国家. この程度の扱いしかされなかったのかと質問したことがありま ︵6︶ す︒刑法雑誌に︑その記録があったと記憶します︒戦前は海外. の権威を背景とし︑国家の充分な投資に支えられた大学の学問. 斉藤先生も江家先生もお亡くなりになり︑その前後に私学の. う︒その状況は今日あなた方が手にし目にするのとは格段の相 ︵7︶ 違があったのですよという御返事であったと記憶します︒. ︵3︶. が︑それぞれの分野で影響力を持ち︑部門によっては最近でも. 有力教授も次第にお亡くなりになりました︒それらの方々の追. 体なんであろうかと考えてみると︑一つには法律ジャーナリズ. 人々に伍して研究業績を世に問い・対抗する力を備えたのは一. ︵9︶. いう論文集の中に収録されていますが︑そもそものオリジナル. す︒そこでは日本の刑法学を担い︑発展させた群像が描かれて. おります︒多くが東京帝国大学を根城にして活躍した人々︑次 早稲田刑法学の特色. 二ニニ. ムの発展によるところが大きいと言えますし︑私学の法学部が ︵10︶ 増え︑従って︑法科学生の数が増えてきたという現実問題も︑. は東京大学の学術大観︵昭和一七年︶に書かれたものでありま. ︵8︶. ればすぐお気付ぎになると思いますが︑私学の学者達が官学の. 悼論文集や祝賀論文集の巻末の文献目録を御覧になる機会があ. む. に独走を許していた状況があったと思います︒刑事法でその例 ︵4︶ を挙げるならば︑小野清一郎氏の﹁刑法学小史﹂という論文に. ヤ. その一端がみられます︒この論文は﹁刑罰の本質・その他﹂と. ヤ. そのような状況であるということですが︑私学は長い間︑官学. れが︑強烈な個性を持った先生方でありました︒. 学の学問が長い間もがいていた道︑それは長い茨の道であった. あげ︑その業績が敬意をはらわれるようになったのは︑そう遠. すが︑私学の学問が︑なにも刑法学のみならず他の学問分野に. 三.
(4) 早法五八巻 二 号 ︵ 一 九 八 三 ︶. その背後にあるように思います︒その他の問題としまして︑日 本が相対的に豊かになり︑私学が財政的に力を持つようになっ. 二一四. ところで斉藤・江家両先生の御仕事ぶりを文献的にみてみま. 態は︑いつも同じようなものかも知れません︒. 地味な努力を主とし︑当時︑世に問うておられたのは刑法の教. すと︑御二人とも戦前の活躍は︑基本的な文献の翻訳といった. ︵11︶. する場としては﹁法律時報﹂が主であり︑あとは﹁法律春秋﹂. い数しかありませんし︑一般雑誌として法学系統の論文を発表. 学論叢﹂﹁法学志林﹂﹁法学新報﹂などの機関誌は十指に足りな. ことに気がつきます︒﹁法学協会雑誌﹂︑﹁国家学会雑誌﹂︑﹁法. がなければ︑確か︑ソビエトの法制度か︑なにかについて翻訳. 成されたのでしょうし︑江家先生の場合は︑私の記憶に間違い. ちりと読まれて︑それを咀囑することで一つの学風の基礎を形. うような︑それぞれのテーマについての基本となる文献をがっ. 場合は︑ビルクマイヤーの共犯論やビンディングの刑法論とい. 御二人とも︑﹁早稲田法学﹂を主な舞台として︑斉藤先生の. ったようであります︒. 科書・体系書の類であり︑私の言う雑誌論文の数は限られてお. たということも併せて︑私学の教授達が学間情報に接する度合. と思うのです︒. が官学とあまり変らなくなったという現実的な変化もあろうか. 戦前の業績を蒐集・比較しますと︑先程も申し上げました. というのが10年ぐらい続いたでしょうか︒一般向きの話題です. が︑勉強した成果を世に問う機関誌や発表の場が限られている. と﹁改造﹂とか﹁中央公論﹂にも発表の機会があったようです. の当時︑よくこれだけの文献を咀囎して書かれたなと今でも思. がでたわけですね︒江家先生の場合︑非常に感銘を受けた本と ︵14︶ して︑昭和15年に公刊された刑法総論の体系書があります︒あ. なって︑それまで蓄積されたものがはきだされるような形で御. います︒所謂雑誌論文としては︑戦前は余り多くなく︑戦後に. ︵12︶. が︑そういうところに出る論文は︑一般の読者が関心を持つよ. 法学部の数も少なかったし︑法科学生の数も少なく︑発表の. ︵13︶. うに材料の工夫をす る な ど の 制 約 が あ っ た よ う で す ︒. 場も限られていたため︑自ずから限られたエリートが研究の成. 私は﹁綜合法学﹂という雑誌の編集の仕事を助手・助教授時. 二人とも多くの仕事をなさいました︒. の法律学を支えるものとして︑あの雑誌の存続に獅子奮迅の努. 代にいたしましたが︑斉藤先生は中村宗雄先生とともに︑私学. 大に評価をされていたのが実情でした︒もっとも︑今目でも︑. 果を発表するにとどまっており︑そうした恵まれた人々が︑過. が一部では︑もてはやされて居りますので︑権威なるものの実. 実体をよく検討もせずに︑虚名が重視される学問上の﹁業績﹂.
(5) 力をされ︑細かい解釈論についてのエッセ1風の論文をお書き. 著でした︒また︑先生のライフワークの一つであった背任の研. す︒アメリカの刑事証拠法に関して分りやすくまとめられた好. 連づけて書かれたり︑そのテーマを刑事責任との係わりで検討. さらにそれを目的的行為論と関連づけ︑あるいは刑法理論と関. り︑また第三説あり︑予は第三説をとるとなんらの理由づけを. まして︑学説の分れるところで︑しばしば︑A説ありB説あ. す︒それは︑斉藤先生の本はある意味では不親切にできており. 私︑斉藤先生の本を読んだとき︑こんなことを考えたもので. ︵16︶. になりました︒斉藤先生は体系書以外にも︑共犯論に関するモ. 究からも多くのものを学びました︒. ︵17︶. ノグラフや共犯判例の分析の御著書がありますが︑共犯論以外. なさるというように︑刑法の基本概念である意思の自由につい. の講義を聞かれた方は︑こってりとその辺の勘所を聞かれ︑そ. せずに書きっばなしにしてあります︒おそらく︑早稲田で先生. についても戦前から発表されており︑なかでも︑意思の自由︑. て蔽蓄を傾けておられます︒また︑因果関係︑緊急行為につい. れを血とし肉として︑それぞれがその後︑師の理論を発展させ. ても発言され︑さらに違法性の意識・錯誤の分野にも個別的な. 論文として︑所説を展開しておられます︒後に﹁共犯理論の研. たのではないかと思っています︒先生の本を注意深く読んでみ. ていったのだろうと想像し︑大ぎな影響を直接︑講義から受け. ますと︑後で西原さんの学説の中に結実してゆくわけですが︑. 究﹂という本に集大成されましたブーリーとビルクマイヤーの. 的な研究を﹁早稲田法学﹂を舞台として公刊されましたし︑刑. 行為を重視して行為論に比重を置く基本的態度をとられつつ. 共犯論︑すなわち︑主観的共犯論と客観的共犯論に関する基本 罰論の分野では︑へーゲル学派の刑罰理論について︑またドイ. も︑﹁刑法総論﹂において︑構成要件論の歴史的発展を︑昭和. 年の段階で︑それ以前の文献を克明に駆使し︑学説の流れを. ツの立法資料として公刊されたブラウの﹁刑罰と保安処分﹂に. 関する翻訳を通じて勉強された成果を﹁刑罰と保安処分の関. いう特色をもつ理論かについて︑その時代なりに正確な情報分. 正確にフォ律ーしておられます︒そして目的的行為論は︑どう. 二一五. の目的的行為論批判を克明に読まれていることが分ります︒あ. された業績をみますと︑目的的行為論については︑リットラー. 析をしておられます︒その頃のいろいろな雑誌に分散して発表. となる仕事を残されたわげであります︒斉藤先生の場合︑体系. 早稲田刑法学の特色. 常に興奮して読んだものに﹁刑事証拠法の基礎理論﹂がありま. 江家先生につぎましては︑その体系書の他に︑学生時代に非. 書の他に個別論文などが多く見られるわけです︒. 係﹂﹁保安処分論﹂として発表されるなど︑私共に非常に参考. 30.
(6) でしたので︑江家理論がどういうふうに展開してゆくかを跡づ. 江家先生の場合は︑残念ながら直系の御弟子が残られません. 二一六. るいは構成要件論の学説史的展開についても︑詳しくオリジナ. ける材料に不足しますが︑かつて︑亡くなった藤木君が︑可罰. 早法五八巻二号︵一九八三︶. ルにあたって読まれたらしい︒それらの個別論文と御弟子さ. しうる部分を集めていた頃に︑﹁江家先生もこういうような議. 的違法性の理論化にあたり︑一生懸命あちこちの文献から利用. 部あるいは︑大学院で手とり足とり徹底的にしごかれながら︑. 論をなさっていて︑これが可罰的違法性論の先駆的な︑非常に. ん︑内田さん︑あるいは他大学で活躍しておられる方々を︑学 そこでの議論をきちんとメモにとられ︑それをもとに論文とし. 前の総論あるいは戦後の業績のうちの違法論ととり組み︑一生. 重要な手がかりなのだ﹂といいながら︑一時期︑江家先生の戦. ん達の業績とを比較して読んでみますと︑西原さん︑須々木さ. て発表されたことが想像でぎますし︑また︑西原さんたちに発. 懸命読んでいたことを記憶しております︒. 表させたりされた状況をみますと︑その時その時の新しい情報 として読むべきものを選びだされて︑それを基に弟子達を教育 されつつ︑御自身の仕事を膨らませるというように︑研究者と 教師とがみごとに一体化していた姿を知るわけであります︒ 斉藤先生の業績をみてみますと︑昭和23年ごろから早稲田法. 学に共犯論に関する大きな論文が二年あるいは三年に一編ぐら ︵18︶. い発表され︑だいたい昭和37・38年頃で細かい解釈論の仕事が. 終るのであります︒昭和23年頃から37年頃に︑先程の御三人を. はじめとする優れた御弟子さん達の学間的形成期が重なり合う わけであります︒斉藤先生は優れた研究者であると同時に︑そ. 斉藤先生・江家先生は自分の御弟子さん達に相当な影響力を. 残すとともに︑私共間接的にそれぞれの先生達から学んだ者に. も勉強に対する勇気を与えて下さるという影響を残して居られ. 私は昭和23年に︑慶応義塾大学法学部の予科に入り︑24年に. ます︒. は民事法専攻科に在籍するという変則的なことを致しました︒. 新制の法学部に編入されて4年問無我夢中で勉強し︑大学院で. 院生の頃に学会のお手伝いなどで︑あこがれの斉藤先生・江家. 自分は刑事法をやりたいと思っていましたものですから︑大学. 先生とお話をしたわけです︒ただ︑御二人と同時に話すという. れなりに考えさせ︑それぞれの特色を伸しながら研究者へと育 ててゆくというお仕事をなさったのではないかと思うのです︒. 磋琢磨の材料としてお与えになり︑それぞれにぶつけ︑それぞ. の研究を自分だけで亭受したのではなく︑それを御弟子達に切. 四.
(7) どの程度まで到達でぎるのかの目安をたてるのにいろいろ学び. チャンスがありませんでしたから︑それぞれの先生に個別に接. うらめしく思うこともあります︒要するに︑私は斉藤先生から. もっと別の仕事ができたのにと反省するときには︑斉藤先生を. ん︒あるいはモノマニックな仕事にとりっぎさえしなければ︑. た︒直接的に学ばれた皆さんにすれぽ︑もっと宝物があるのに. は非常に多くのものを︑人間的な面を含めて問接的に学びまし. 触をし教えを請いました︒同じ私学の者として︑私学の学者が. ました︒御二人のお仕事振り︑指導態度・業績・自分の弟子以. と思われるかもしれませんが︑これが外様の哀しさというもの. 外の私学の者に対し目をかけ︑指導して下さる態度から︑その. 後︑慶応に残って勉強する自分自身の学問に対する心構え︑教. であります︒. 藤刑法学が今目に残したものは沢山あります︒たとえば︑行為. また後で中山さんの方からお話があるかと思いますけど︑斉. 師としてのあり方をこの御二人を通じて学び得たわけでありま もしれませんが︑ある時︑刑法学会で斉藤先生が学術会議から. は何と言っても概念的な図式・定型的な思考であって︑実体を. 論を基礎として刑法体系を組立てるのが筋なのだ︑構成要件論. す︒今でも思い出すのですが︑今日現在ではぽかぽかしい話か. いうような帰朝報告をされたことがあります︒あるいは東京部. 派遣されて国際会議に出席され︑こういうことが議論されたと. 決めた方がいいのだという趣旨の論文を読み︑個人的にお話を. 素直に観察した場合には︑やはり行為論を中心として枠組みを. したとぎに諄々と説かれた思い出があります︒それからまた︑. 会だったかもしれません︒その話を聞いたとき︑私は︑何と言 ことを覚えています︒斉藤先生は座談の名手でありました︒何. うか雲の上から降りてきた人をみるような感じでお話を伺った. らかというと学会の多数から批判され︑否定する説の方が多い. 時期に︑敢然として草野博士の理論を執念のような一徹さで押. 共犯論については誰れもが指摘するところでありますが︑どち. し進められたわけです︒行為論にしても共犯論にしても︑ある. かの折に︑フライブルクでの勉強の話とか︑尊敬するビンディ. ノマニックに仕事をするに際して︑徹底して調べてみて︑調べ. ような︑学問をする上では非常に回りくどいことでも学者がモ. います︒それを緻密に理論構成し︑皆が受け入れられる学説へ. 意味では理論的には斉藤先生の場合︑荒削りであったように思. ングのお墓を探しにいって︑やっと見つけたときの喜びという. 切った喜びは︑こういうものであるというような話を若い時代. 二一七. と︑斉藤先生が残されたものをリファインしたのが西原さんで. に斉藤先生から聞いたことでもって︑モノマニックな仕事をす る私の生き方の一つのきっかけを与えて頂いたのかもしれませ 早稲田刑法学の特色.
(8) を去りますと︑シェンケ・イェシェックのラインにただ漫然と. 二一八. あり︑あるいはその他の一門の方々の努力によったと思いま. 早法五八巻二号︵一九八三︶. す︒私が斉藤先生から非常に強烈な影響を受けたものとして忘. やってきたドイッの学者たちと話をしたとぎに感じました︒従. 乗っかっているだけではつながりが切れるということを︑最近. 情報として把握するということ︑そして同時にまた日本の法制. って︑次にフライブルクにいく早稲田の刑法学関係者は︑重大. ︵23︶. れてならないテーマの一つは︑外国刑法や外国の制度を正確に. 度や理論を外国に正確に伝えるという外国との学問的相互交流. 新しいフライブルクの指導体制とのパイプ役をはたさなけれ. な課題を担うと思います︒. ば︑マックス・プランクと早稲田とのつながりが切れるおそれ. があるからです︒斉藤先生の残された重要な文化遺産の継承者. いうことを私がドイッ留学生の試験にうかって後にお会いし︑. をしなければならない︑将来はこの方向が重要となるのだぞと お話を伺ったときに懇々とさとされました︒斉藤先生は︑その. している慶応の者として︑早稲田の若手研究者が︑斉藤先生の. ︵24︶. 当時の重要な文献を次々とうまく見つけだされて︑それを目本. わけであります︒外国との交流について︑斉藤遺言を拳々服膚. となる人は︑よほど覚悟をぎめて行かなければならないと思う. ︵19︶. 語に翻訳され︑それを糧となさったということを申し上げまし たが︑それは比較刑法で言えば︑イエシェックの﹁比較法の課. 残された大きな文化遺産を更に膨らませるべく努力していただ. ︵0 2︶. 題﹂という文献であります︒シェンケとその後継者であるこの. きたいと思うこと切なるものがあります︒. るかもしれません︒確かに書かれた限りでは︑そういう性格が. 斉藤刑法学は古典的学問であるという評価が若い世代にはあ. イェシェックとの二人とのつながりで︑日本に斉藤あり︑日本 のことを知るには斉藤の仕事を通じてでなければわからんとい. うような仕事を残されました︒そういう仕事が︑今後の日本人. けっして古典的理論・体系を旧套墨守する人ではなかったと思. あるように思われるのですが︑しかし私見によれぽ斉藤先生は. ︵21︶. のが︑私にはいくら感謝しても感謝しきれない影響だと思うの. の研究者のやらなくてはならない仕事だということを諭された. っています︒斉藤先生は比較法資料を克明に翻訳し︑若い人達. に手とり足とり条文の翻訳︑新しい草案の翻訳ードイッ・オー. です︒. この点についでありますけれど︑御承知のように︑フライブ. どういう新しい動きがこれからの立法の中にとりこまれるべき. ストリアの草案の翻訳︑ドイッ刑法改正資料の翻訳を通じて︑. ルクはイェシェックの時代が終りかけており︑代わってエーザ ︵22︶ 1が所長になりました︒イェシェックがフライブルクの研究所.
(9) かについて見通しをもっておられた方だと思います︒一つのエ. ったシステム化がはかられたのではないかと︑想像したりして. に豊穣なものとなり︑従来の各論の体系書とは一味も二味も違. て斉藤先生から指導を受け︑その基礎的訓練の賜物が次第次第. いるわけです︒. ピソードをお話しし孟すと︑これは準備草案の段階であった なられた頃であったが忘れましたが︑団藤先生との質疑応答の. か︑あるいは刑法改正の作業が始まって斉藤先生が小委員長に. 中に非常に印象的なととがあったのです︒それは︑﹁今度の草 案の中に原子力施設の破壊や放射能の放出などの危険犯の規定. 私は︑早稲田刑法学の二大恩人である斉藤・江家両先生の人. 私も︑昨今は︑先生方と出会った当時の年頃になりました︒. 間的な魅力を今でも思い出します︒. あの頃の斉藤・江家両先生と同じだけの力量や人間を魅惑する. 与えるような講義ができるであろうか︑そんなことを思うこと. 力を自分が持っているか︑若者に対しあれだけの精神的感激を. ころがわからないという失礼な質問をした折︑ワッハハと笑わ. しきりであります︒斉藤先生が書かれたものの中で︑ここのと. されたことがありますが︑あんなことを私がやったら︑まった. れて︑﹁あれは実は弟子共が書いたのだよ﹂とか言われて︑幻惑. が多く集まり︑いろいろな仕事をなさっていて︑いいですね﹂. で大変器の大きな方でありました︒﹁先生のところは︑若い人. く様にならないだろうと思います︒斉藤先生は︑そういう意味. って新しい体系を構想されたわけですが︑その新しい構想を意. お答え︒そこで︑重ねて︑﹁それは︑先生でしょ﹂と問うと︑. と申しますと︑﹁君ね︑それはリーダーがいいからです﹂との. 二一九. の立法の動きの背後にある社会の変化に応じた法的対応に関し 早稲田刑法単の特色. 図したについては︑おそらく助手時代にドイッ・オーストリア. ﹁犯罪各論﹂という・手堅い西原さんにしては珍しく︑思い切. さったのではないかと感ずる次第であります︒西原さんが︑. 先生が︑もし生きておられたら︑我が意を得たりという顔をな. る第B次刑法一部改正法律の中で︑核エネルギーの解放︑イオ ︵25︶ ン化した光線の解放を公害犯罪とともに規定しましたが︑斉藤. たことを思い出すわ研です︒最近ドイッでは︑環境犯罪に対す. 定の提案がなされたのですかと質問したのです﹂と釈明なさっ. を踏まえて目本の草棄の中に将来のそういう問題についての規. ツの草案の中には︑そういう提案がある筈です︒そういう提案. した︒そうしたら︑斉藤先生が珍らしく色をなされて︑﹁ドイ. て︑団藤先生が︑斉藤先生の発言を冗談ととった返事をされま. を提案したでしょうが﹂という趣旨の質問をされたのに対し. 五.
(10) 二二〇. い︑頑固な早稲田の刑法学を守り育てる仕事に︑. 早法五八巻二号︵一九八三︶. の人が参加することを期待するものであります︒. ︵7︶. 一人でも多く. 私が中村宗雄先生の著作に接した頃には︑﹁実体法・訴. ﹁いや︑そうではないんだ︒私の名は︑金作︒私は︑金を作る︒. ︵4︶. ︵3︶. オーソドックスな民訴理論でなかったため︑かえって当時. り込んだユニークな議論に熱中して居られた時期に当る︒. いかとも思う︒. の変則的な立場にあった私として︑関心を持ったのではな. 今日のように︑情報が誰の手にも等しく︑自由に入手し. 小野・前出︵注4︶四二三頁︒. の他︑昭和三〇年︑四〇九頁以下︒. 小野清一郎・刑法学小史︑同・刑罰の本質について・そ. おいて著しいと言われている︒. 多額の投資を要する自然科学︑殊に︑基礎科学の分野に. ところが大きい︒. うる時代では考えられないほどの情報の独占︑寡占による. ︵2︶. 訟法の対立二元観﹂というテーマで︑自然科学の仮説を折. ︵1︶. 大勢の弟子を育て︑仕事をさせるには︑金がいるから︑私の仕. 事は︑金作です︒学問的リーダーは︑それは西原君だ﹂と︒嘘 ぽっかり︑と思いながらも︑一方で︑成る程と思ったりもしま した︒こうしたエピソードを思いかえしながら︑早稲田や慶応. は︑カウンター・エリートとしての私学の研究者の役割につい. の学者は︑私学の学問を推進するのに力を発揮せねばならない ︵26︶ と思うのです︒比較法研究所の創立二〇周年の講演の際に︑私. て述べました︒私学の研究者は︑何物にもとらわれず︑自分の 信ずるところに従い︑その学問を追い求めることができます︒. ならないといった﹁雑念の元﹂になるような幻想にとらわれる. 国家の要請に応えるとか︑常にトップの座についていなければ と︑﹁目立とう精神﹂が先行し︑真理を求める目がくもります︒. 国内での﹁覇権﹂にのみ心を配れぽ︑海外に出て活躍すること に気が廻らなくなります︒そうした︑此の世的な俗事にわずら. わされることなく︑学問の道を歩むことの素晴らしさを︑私学 の先輩である斉藤・江家両先生から学びえたことを幸福だと思 います︒早稲田の学部や大学院の若い諸君に︑私の存念を語っ. ているのは︑学問を学問として大切にするという考え方の筋道 を︑早稲田の先人に代って伝えるのが私の義務であると考えて. いるからにほかなりません︒骨っぽい︑通説をものともしな. 65. い︒或いは︑最高裁での話を終えて︑松本楼で御馳走にな. この点に関する質疑は︑団藤・前出︵注6︶には出てこな. 号︑昭和五三年︑二八○頁以下︒. 団藤重光・日本刑法学会創設のころ︑刑法雑誌二二巻二. (( )).
(11) ︵8︶. ︵9︶. った折に︑うかがったのではなかったかとも思う︒いずれ. にしても︑私の当時の最大の関心事の一であったから︑間 違いないところである︒. 江家義男教授刑事法論文集︑昭和三四年の三三一頁以下 現代の共犯理論・斉藤金作博士還暦祝賀︑昭和三九年︑. に︑故教授の御経歴についで︑全著作が掲記されている︒. 七一一頁に︑故教授の御経歴と著作目録がある︒なお︑斉. 法学文献の読者層に占める私学学生の割合は︑圧倒的多. 録﹂とがある︒. 頁のあとに︑六頁からなる先生の﹁年譜﹂と﹁主要著作目. 藤金作先生還暦祝賀論文集︑昭和三八年にも︑本文四五四. ︵o −︶. 数である︒. 現実は︑むしろ︑逆転しているのではなかろうか︒勿. ︵14︶. ︵15︶. 江家義男・刑法講義 総則篇︑昭和一五年︒. もある︒. これらを列挙することはやめる︒前出︵注9︶の著作目. て︑次々に︑﹁比較法研究所紀要﹂や﹁刑事基本法改正資. 斉藤教授の指導で︑その研究室の若手をフルに動員し. う︑学者の完成期への途上である︒. 斉藤先生のこの時期の年齢は︑四五歳から六〇歳とい. これは︑前出︵注8︶に再録されている︒. か︑同・英米刑事法研究︑昭和二四年がある︒. 江家義男・刑事訴訟法の基礎理論︑昭和二六年︒このほ. 録の参照を乞う︒ ︵16︶. ︵17︶. ︵18︶. ︵19︶. イェシェック・斉藤金作訳・比較刑法について︑比較法. 料﹂﹁法務資料﹂が公刊された︒. 研究所紀要一九号︑昭和三六年︒. ︵20︶. マックス・プランク・外国・国際刑法研究所の仕事とし. て国際的に高く評価されている﹁ドイッ・外国刑法典翻訳. 叢書﹂の﹁日本刑法典﹂﹁準備草案﹂の独訳と︑外国刑法. ︵21︶. 号︑昭和九年︑同・ビンディソグ刑法論1︑早稲田法学別. ︵22︶. 二二一. この講演をした当時のことである︒一九八三年二月三日. 斉藤先生の拓かれた道の上を歩んだ仕事である︒. 事訴訟法﹂と私とキューネ氏の共訳の﹁日本少年法﹂は︑. 叢書の﹁日本刑法﹂がこれである︒中村英郎氏の﹁日本刑. 江家義男・ソヴィエット刑法・刑事訴訟法・改善労働. 冊七︑昭和一一年︒. 斉藤金作・ビルクマイヤー共犯論︑早稲田法学別冊三. ることとは︑ 別 問 題 で あ る ︒. 論︑情報に接するということと︑それを利用し︑仕事をす. ︵n︶. ︵12︶. ︵3 1︶. 法・早稲田法学別冊五︑昭和一〇年︒なお︑江家義男・外. 岡茂十郎・ソヴィエット婚姻・家族・後見法︑昭和二年 早稲田刑法学の特色.
(12) 早法五八巻二号︵一九八三︶ のカイザー氏の手紙に︑﹁今週︑大きな出来事があります︒. てエーザー氏が全権を掌握します︒外部的に・エーザー氏. イェシェック氏が︑研究所長の職から完全に去り︑代わっ. が研究所を代表し︑内部的には︑私が代表し︑一年交代で. 一九八二年八月末の国際被害者学シンポジウムに参加し. この役割をはたすことになります﹂とある︒. た西独刑法学者のうち︑慶応義塾で開催した﹁犯罪学・. ︵23︶. ンゴルム︑ロリンスキ!︑ユング︑ヒレンカンプ︑ヴィル. 刑法・日独セ︑・・ナー﹂に出席した・シューラーHシュプリ. モウ︑シェーラーらと︑日独刑法学の学術交流と︑近い将. 来︑実現を期している東南アジア地区︑ドイッ語圏刑法学. の会話能力を身につけ︑人間的な信頼関係を確立するため. 具体的に言えば︑相互の意志疎通を充分になしうるだけ. 者会議の構想を論じ合った際に出た話題の一つである︒ ︵璽︶. に︑何回となく会って︑将来の研究プロジェクトに参加・. 頁参照︒. 法務大臣官房調査部編︑ドイッ刑法典︑昭和五七年︑3. 協力することを約束することである︒ ︵25︶. 宮澤浩一・比較刑法研究の方法について1私の比較法 昭和五三年︑七九頁以下︒. 論1︑早稲田大学比較法研究所創立20周年記念講演集︑. ︵26︶. 4. 二二二.
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