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邑久光明園資料展示室長島愛生園歴史館 ハンセン病とは 現代では治療できる病気です 偏見と差別が生んだ被害 清浄光寺蔵 ハンセン病について正しく知り 偏見と差別を無くしていきましょう

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全文

(1)

語り合おう、

   真実の話。

岡山県保健福祉部健康推進課 〒700-8570 岡山市北区内山下2-4-6  TEL 086-226 -7331 FAX 086-225-7283 http://www.hansen-okayama.jp/ 監修 長島愛生園入所者自治会      邑久光明園入所者自治会   製作 山陽映画(株) 〒701- 4593 岡山県瀬戸内市邑久町虫明6253番地 TEL 0869-25-0011 FAX 0869-25-1763 邑久光明園入所者自治会 TEL 0869-25-1278 〒701- 4592 岡山県瀬戸内市邑久町虫明6539番地 TEL 0869-25-0321 FAX 0869-25-1762 長島愛生園入所者自治会 TE L 0869-25-1033

ハンセン病問題のこと

正しく知っていますか?

岡山県

つなぎ合う明るい未来への絆

〈お問い合せ〉 2013年 □月 □□日 第6版発行

(2)

伝 えよう、

正しい 知 識

一遍上人縁起絵より 清浄光寺蔵

ハンセン病とは…

ハンセン病について正しく知り、偏見と差別を無くしていきましょう。

ハンセン病は長い間、誤解されてきました。

ハンセン病は長い間、誤解されてきました。

あなたは国立のハンセン病療養所が

岡山県内に2 つある事を知っていますか。

そしてハンセン病がどんな病気か

正しく知っていますか。

長島愛生園歴史館 邑久光明園資料展示室

親や兄弟姉妹と離れ、名前を変え、生きている事、存在すらも消され、

生涯療養所の中に閉じこめられ、子どもをつくることは許されず、

死んでも故郷の墓に帰れない。

国の誤った政策のため今だに続く偏見・差別。

入所者やその家族は長い間、想像を絶する苦しみに耐えてきたのです。

 かつては「らい病」と呼ばれ、遺伝病と信じら れていました。  1873 年、ノルウェーの医師アルマウェル・ハン センによって「らい菌」が発見され現在は彼の名 をとって「ハンセン病」と呼ばれています。感染 すると末梢神経がおかされ、知覚まひがおこり、 温度や痛みを感じなくなります。その結果、やけど や怪我を繰り返し、手足や顔面が変形する後遺症 が残りました。病状が進むと喉、鼻、眼、その他の 被服から露出する部位が変形することから、偏見・ 差別の対象になりやすかったのです。  らい菌の病原性は非常に弱く、大量の菌と長期 にわたって接触しなければ感染しないことがわかっ ています。また感染しても発 病することはまれです。  ハンセン病療養所の医師 や職員に感染した者がいない ということが「らい菌」の感染 力が弱いということを証明し ています。

現代では治療できる病気です。

 有効な治療薬がない時代は、「不治の病」とい われていました。明治時代以降は治療薬として 大風子油が用いられていましたが、効果はあまり 期待できませんでした。  1943 年、アメリカで確認された「プロミン」 のハンセン病への劇的な治療効果が日本に報告 されました。  日本では第2次世界大戦後に治療に導入され、 やがて全国の療養所で使用されました。  現在では、いくつかの飲み薬を組み合わせる 多剤併用療法(MDT)が行われ、ハンセン病は 確実に治癒する病気となっています。  また、療養所で暮らしている方々は後遺症は ありますが、ハンセン病は完治しています。

偏見と差別が生んだ被害

 昔は仏教の経典などで、天から受けた罰や報 いの病とされたり、遺伝病だと誤解されていま した。この病気にかかると、仕事もできず町屋 の奥座敷や、農家の離れ小屋で世の中から隠れ て暮らしました。  家 族に迷 惑 が か か ることを 恐 れ、放 浪 の 旅 に 出 る「浮 浪 癩」と 呼 ばれる人 々も いました。神 社・ 仏閣の前で物ごいをする人もいました。  「らい菌」が発見され、非常に感染力の弱い菌 であることがわかっていたにもかかわらず、住ん でいた家を大がかりに消毒したり、強制的に患者 を隔離するという政策を行い、「とても怖い病気 である」という誤った認識を人々に植え付けてし まいました。そのせいでハンセン病の患者だけ でなく、その家族たちも近所づきあいから疎外 され、結婚や就職を拒まれたり、住み慣れた土地 から引っ越しを余儀なくされるなどの差別を受け ました。 らい菌 左 :クロファジミン製剤 中央:リファンピシン製剤 右 :ダプソン プロミン 大風子油 たいふう し ゆ 多剤併用療法 1981年:WHO 提唱 け が ら い 写真提供:ハンセン病研究センター 松岡正典氏

(3)

3 4

ハンセン病 の

近 代 の 歴 史

■邑久光明園、長島愛生園  両園の入所者により長島  架橋促進委員会を設置 「人間回復の橋」を実現するため、 架橋促進委員会が国、県、地元に要 請運動を展開しました。 ■邑久長島大橋開通 隔離からの解放を象徴する 橋が架橋促進委員会の運 動や国、県、地元の協力に より、16年の年月を経て 開通しました。

近代以前の歴史

 ハンセン病は人間の歴史が始まって以来、存在していました。「日本書紀」や 「今昔物語」にも「らい」の記述が見られます。鎌倉時代には僧の忍性が奈良に 日本最古の療養施設を開き、患者の救済をしたという記録が残されています。  しかし、日本がハンセン病を病として本格的に取り上げたのは明治になって からでした。外国人の神父や伝道師が献身的な治療院を設立する中、日本人 はほとんど無関心でした。 ら い 1953(昭和 28)年ころ

1873

(明治6)年 (明治40)年

1907

(昭和6)年

1931

(昭和18)年

1943

(昭和23)年

1948

(昭和28)年

1953

(昭和63)年

1988

(平成8)年

1996

(平成10)年

1998

(平成13)年

2001

(平成14)年

2002

(平成15)年

2003

(平成17)年

2005

(平成20)年

2008

 諸外国から患者を放置していることに対して非難をあびると、1907(明治40)年、「癩予防ニ 関スル件」という法律をつくり、「浮浪癩」を療養所に入れ、社会から隔離しました。1931(昭和6) 年には今までの法律を改正し「癩予防法」をつくり、在宅患者にも療養所への入所を強制化してい きました。これによりハンセン病は感染力が強いという間違った考えが広まり、かえって偏見を 大きくしてしまいました。各県が競ってハンセン病患者を見つけ出し、強制的に入所させるとい う「無癩県運動」も全国的に進められていきました。  日本でも1948(昭和23)年からプロミンが使用されて、ハンセン病は治る病気になりまし た。1951(昭和26)年、患者たちは全国国立らい療養所患者協議会(全患協)をつくり、法の改正 を要求していきます。しかしながら1953(昭和28)年、「らい予防法」が成立、人権侵害ともいえ る政策は強化され、その後43年もの間放置されました。 1915(大正4)年断種 が始まりました。 「 優 生 保 護 法 」の 対 象にハンセ ン病も入った結果、入所者たち の 断 種 手 術が、合 法 化 、強 制さ れました。 アメリカのファジェー により、プロミンのハ ンセン病に対する効 果が発表(1941年) され、日本に報告さ れました。 ノルウェーのハンセンが、 らい菌を発見しました。 写真提供:国立ハンセン病資料館

みんなで

ハンセン病問題

について正しく

学びましょう。

ハンセン病問題 検証会議最終報告書

自由と尊厳の回復を求めて

自由と尊厳の回復を求めて

近代の日本のハンセン病と「無癩県運動」

 1998(平成10)年、熊本地裁に「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」が 提訴され、翌年には東京、岡山でも訴訟が起こりました。2001(平成13)年 には熊本地裁で入所者らの原告が勝訴し、国は控訴しませんでした。  すでに「らい予防法」は廃止され、社会復帰のための対策も進んでおり、 ハンセン病療養所入所者は自由に療養所の外で住むことができるにもかか わらず、入所者の多くはすでに高齢となっていることもあり、療養所を退所 する方はほとんどいません。  熊本県の温泉地のホテルがハンセン病療養所入所者の宿泊を拒否した 事件など、いまだに偏見・差別が社会復帰や、地域との交流を阻む大きな壁と なっています。

ハンセン病問題は解決したのでしょうか?

控訴断念を表明する首相 ア ル マ ウ ェ ル ・ ハ ン セ ン にん しょう らい らい らい らい 瀬戸内ハンセン病訴訟原告団 写 真 提 供 山 陽 新 聞 社 写真提供:共同通信社 写真提供:共同通信社 ■明治 40 年法律第 11 号  「癩予防ニ関スル件」制定 「浮浪癩」と呼ばれる家を追われ、流浪 の旅に出たハンセン病の患者を、ハン セン病療養所に収容するための法律。 救 護 者 の いる患 者 は 、対 象にならな かったため、入所者は、ハンセン病患者 全体の3.6%程度でした。 らい ■「らい予防法」制定 「癩予防法」を改正した法律。 入所者の代表で組織する全国国立らい 療養所患者協議会の要望もむなしく、 3人の園長の証言が取り入れられ、強制 入所、就学禁止、通告義務、外出禁止、 所長の秩序維持規定などがそのまま 残り成立します。 ■邑久長島大橋開通 隔離からの解放を象徴す る橋が架橋促進委員会の 運動や国、県、地元の協力 により、16年の年月を経 て開通しました。 星塚敬愛園、菊池恵楓園の 入所者ら13人が熊本地裁に 「らい予防法違憲国家賠償請 求訴訟」を提起しました。 全国 5 0 の 新 聞 紙 上に厚 生 労 働 大 臣 名 で 謝 罪 広 告 が 掲 載 さ れました 。国 立 ハン セン病療養所等退所者給与 金事業が開始されました。 熊本県の温泉地のホテル が菊池恵楓園の入所者の 宿泊を拒否し、深刻な人権 問題としてクローズアップ されました。 ■「癩予防法」制定 「癩予防ニ関スル件」を改 正・強 化し、在 宅 患 者も強 制 的に療 養 所に隔 離され るようになりました。30年 代は、各県が競って患者を 療 養 所 に 収 容 するという 「無癩県運動」が広まります。 ■「らい予防法」  の廃止 「らい予防法」の見直 しが遅れたことなどに ついて、厚生大臣が初 めて謝罪しました。 ■「ハンセン病問題の解決の  促進に関する法律」制定 2009 年(平成 21)年施行 元患者の社会復帰支援や名誉回復 などを国に義務づけ、療養所の施設 を住民や自治体が使える規定や、歴 史的建造物の保存を通じ、正しい知 識の普及を図ることなどが盛り込ま れました。  熊本地裁は、「らい予防法」 違憲国家賠償請求訴訟で、 原告勝訴の判決。「国は控訴 せず。」と、内閣総理大臣が 表明しました。 らい らい らい らい らい らい 架 橋 運 動 ■ハンセン病問題の検証会議(厚生労働省より委託) 全国のハンセン病療養所を巡って26回に及ぶ検証会議 が行われ、被害の実態が明らかになり、再発防止への提 言が行われました。(2002年10月∼2005年3月)

(4)

お んし めぐ み の か ね い ち ろうどう

日本で最初の国立ハンセン病療養所とし

て1930(昭和5)年、設立されました。

1909(明治42)年に、大阪府に設立

された「外島保養院」が室戸台風で壊

滅し、1938(昭和13)年、長島に再建

されました。

厳しい園の規則を破った人や、逃走 した人々が監禁されました。 N 橋が架かるまでは、 わずか30mの海峡が 患者を社会から隔絶し、 苦しめました。 30m

 長い間世間から隔絶され、離島だった長島に

1988(昭和63)年、入所者たちの強い要望で橋

が架けられました。この邑久長島大橋はハンセン

病療養所と社会を一本の道でつなぐことになり、

「人間回復の橋」と呼ばれています。

邑久長島大橋『人間回復の橋』

1931(昭和6)年3月27日、開拓患者と呼ばれる85名の 患者が、光田健輔園長他職員3名と共に、地元住民の反対 や混乱を防ぐために、大阪から海路を経て上陸しました。 入所者を救うため「寒霞渓丸」で駆 けつけた大島青松園の救護班。この 後、入所者100名は大島青松園と長 島愛生園に輸送されました。 監禁室(邑久光明園) 園内通貨(邑久光  明園) 大阪府西成郡にあった外島保養院 荒れ狂う濁流の中、病棟の入所者を助け、ついに 力つきて亡くなった、中野看護婦長。 3,567柱の遺骨を収容。(平成25年8月1日現在)

岡山県にある

2つの療養所

十坪住宅の建築 1932(昭和7)年∼1944(昭和19)年 入所者の急増により、民間からの寄付金 で143棟が建設されました。主に建築作 業は入所者によるものでした。 愛生座 1931(昭和6)年∼1965(昭和40)年 入所者自ら役者となり、台本を書き、小 道具を作るなどして手作りの歌舞伎が演 じられました。娯楽の少ない時代は大変 な人気で、島の内外を問わず多くの観客 でにぎわいましたが、観客席は分けられ ていました。

長島は困難と闘った人々の

歴史を伝える美しい島です。

長島は困難と闘った人々の

歴史を伝える美しい島です。

国立療養所

長島愛生園

邑久光明園

国立療養所 と つぼ 盲導鈴(長島愛生園) 視覚に障害のある入所者の ために、道の要所に鈴を設 納骨堂 初代の納骨堂は作業の一環と して 、入 所 者 た ち 自ら の 手 に よって建設されました。他にも 一 朗 道や恵 の 鐘 、恩 賜 記 念 館 など、長島愛生園には入所者に より造られた施設が現存します。 納骨堂 周りから受ける偏見・差別への 恐れから遺骨の引き取り手も なく、亡くなってもなお故郷に 帰れない多くの人々の遺骨が 納められています。 1,728柱の遺骨を収容。(平成25年8月1日現在) 逃走を避けるため に使われた、園内 でしか使用できな い通貨でした。 堀で釣りを楽しんでいる入所者

(5)

 海     

中学一年 さんばしへ行って海をみた 冷たい風が  私のほおをなぜていく むこうの方をみると 青い青い海が ずっと向うまでひろがっている その青い海が太陽に照らされて きらきらまばゆく かがやいている  私はこの海を どこまでもいけば 母のいる土地へいけるのだな と心の中でつぶやいた

雨降り

     尋常小学六年 雨が降るたび    母さまは お﹁豆﹂ をいって    くれました ﹁豆﹂ をいるような    雨の音  母と別れて     聞いてます

 散歩

        中学一年 。ど 、海 。砂 、月 。私 。今 、い 。私 て﹁ ﹂と 。答 。私 、月 。小 、ど 。か 。漁 。月 。私

友だち 

     尋常小学六年 てすりに  もたれている友 目かくし  しようと思って そっと  後にまわったら 手紙をもって    泣いていた。

 波     

中学二年 お前はいつも元気だね  白い顔に青い体で   元気一ぱい寄せてくる 僕はお前が大好きだ   どこえでも自由に行ける     お前はいい ̶̶ 僕も早くどこえでも自由に  行けるような体になりたい  そうなれば僕は一番に   お母さんや弟の所に     寄せて行くだろう

、お 。そ 、め 、わ 、お 、な 。わ 、こ

療 養 所 の

子どもたち

心の叫びを聞こう!

邑久光明園の少年少女舎。常時30∼40名が共同生活をしていて、 光明学園(小・中学校)へ登校、下校後は奉仕活動、雑務、余暇などで 過ごし、夕食後に勉強や手紙を書いたりする生活でした。 ふ た   ば り ょ う 7 8 の ぞ み が お か 岡山県立邑久高等学校新良田教室。全国のハンセン病療 養所の中で唯一の入所者のための高等学校でした。32年 間で307人の生徒が巣立っていきました。 に い   ら   だ 長島愛生園の少年少女舎。多い時には100名の少年少女がい て、愛生学園(小・中学校)へ通っていました。「お父さん、お母さ ん」と呼ばれる入所者の世話人がいました。 1 9 5 5 ∼ 1 9 8 7 ︵ 昭 和 30∼ 昭 和 62︶

消毒

  一九六三 ︵昭和三八︶ 年 男子 、そ 、ぼ 。こ 、ハ 。先 があります。

寄宿舎

 一九六三 ︵昭和三八︶ 年 男子 、又 、こ 、我 、色 、自 、自 。こ 新良田教室へ通学する生徒たち 当時の子どもたちの様子 当時の子どもたちの様子

(6)

園 生 愛 島 長

ん さ の 才3 と 親 母 は へ 島 の こ   来 て い 付 が ん さ あ ば お と 弟 療 治 が け だ 分 自 、 ど れ け た 、 米 や 金 お は の も る す 関 に 走 逃 、 れ か い て れ 連 へ 棟 。 た し ま れ ら げ 上 り 取 て 全 ど な 灯 電 中 懐   ま れ ら 撮 も 女 も 男 を 真 写 の 裸 、 で い な げ 告 を 的 か 今 。 た し ま い ら も を 号 番 園 入 に 内 の 日 の そ て 。 た し で い 扱 じ 同 と 人 囚 、 ば え 思 ら し ま い て し が 人 の 症 軽 も で 中 の 者 患 は い 添 き 付   の 者 園 入 ﹁ ら か 人 の そ 、 が た 90 捨 を 名 本 は 上 以 % 。 た し ま け   の も ど 子 、 と こ の 活 生 ら か 族 家 。 た し ま い て れ ら え ほ て せ ら 帰 ﹁ で 配 心 と る 来 が 紙 手 の ど な と こ の 校 学 い も 人 る す 走 逃 ず れ ら え な か 、 が る 出 い 願 と ﹂ い し く な さ 小 。 た し ま れ ら れ 入 に 房 独 と る ま 捕 。 た し ま か 分 か 日 何 が 日 今 は に 中 い 暗 薄 、 と る 入 を 戸 り ぐ 、 と こ の 族 家 、 れ か 書 も の も な う よ の 暦 ら か い な ら 書 に う よ の び 叫 い ら つ が か た し 走 逃 て く た し を 何 れ ら え 与 に 足 満 も 事 食 、 は 間 の そ 。 た し ま て れ か 逃 し 離 隔 に 島 は て し と 園 、 を 動 行 の め た が い た い 会 。 た し ま い て し 罰 処 く し 厳 で 由 理 う い と い な せ さ 走 。 す ま い 思 と た き で が 活 生 に う よ じ 同 長島愛生園    

川島 保

さん  長島にはハンセン病患者 のための、唯一の高等学校、岡山県立邑久高等 学校新良田教室があった。昭和38年、一期生の 同窓会に出席した時、卒業と同時に大阪に出て働 いていたY君が「僕がしている仕事だったら、あん たもできるよ!大阪に出ておいでよ。」と熱心な励ま しをくれた。これは何よりもうれしい言葉だった。  昭和45年、万博が開催され好景気に沸く大阪 に出て、Y君の言っていたあの仕事「タクシーの配 車係求む。」という求人欄に飛びついた。療養所に 居た事を隠し面接をのり切るために、あれやこれ や繰り返し心の中で練習した。後ろめたさと緊張 で張り裂けそうな心をよそに、面接は短時間で終 わり、生きがいのある大阪での生活が始まった。  しかし5年目の梅雨明けの頃、公衆浴場で熱湯 が漏れているのがわからず、右足裏を大火傷して しまい、園に戻る事となった。  社会復帰中断の悔しさとその時感じていた、「感 染症としては医学的に治癒している人々が、なぜ法 で隔離されなければならないのか。」という疑問と憤 りを明らかにするために「らい予防法」違憲国家賠 償請求訴訟の原告となった。判決は多くの支援を得 て、国の謝罪と共に、社会に出て生活したい人には 生活支援金が出る事になった。私はもう一度この制 度を活かすために大阪に出る決心をした。  今私は、地域の人に密着し自分の歩んで来た人 生をその中で活かすことで、過去の国の過ちを訴 えて行こうと思っている。

園 明 光 久 邑

南 

ん さ   ま し を し 探 骨 の 父 親 、 年 去 が 私 。 た し 10 は 父 親 、 時 の 歳 れ た そ く の こ ﹁ 。 た し ま し 殺 自 や で ん 死 も で 時 何 は 俺 、 ば れ け な い え さ 前 お 、 奴 し 寂 、 度 る れ わ 言 に 父 で 顔 い 暗 と ﹂ 。 ・ ・ ・ が だ ん る の 前 お ﹁ は ち た 戚 親 。 た し で ん せ ま り ま た で い 思 い に 年 の こ 。 た し ま い も 者 う 言 と ﹂ 。 だ い せ の 気 病 べ 調 部 全0 0 7 で 堂 骨 納 の 仏 縁 無 る あ に 田 高 和 。 た し で ん せ ま り か つ 見 、 が た し ま   骨 遺 の0 4 0 3 在 現 、 は に 堂 骨 納 の 園 明 光 久 邑 つ の 血 。 す ま い て れ ら め 納 れ さ 理 整 録 記 と ん ち き 、 が に 所 養 療 の 国 全 は 骨 遺 の ら れ こ の 仏 縁 無 、 い な え ら 死 に め た の 族 家 ﹁ 。 す ま り な に く 近 万3 と る れ 入 も く し 寂 で こ こ 、 く な と こ る 帰 に 郷 故 て し う ど 、 れ わ 。 す ま じ 感 を さ し 虚 り な 重   た い つ が 着 決 に 的 学 医 や 判 裁 に 会 社 だ ま が 題 問 な う よ の 否 な げ あ て し 帰 に 所 場 き べ る 帰 、 も 意 の 当 本 は 題 問 病 ン セ ン ハ 、 と い 。 ん せ ま え 言 は と た し 決 解 で 味 園 生 愛 島 長

ん さ   10 に 髪 散 に 屋 床 、 頃 の 才 家 。 た し ま れ さ 言 宣 と る あ で れ ら せ 乗 に 車 汽 、 れ 離 ら か 族 中 夜 真 て け さ を 目 人 、 ぎ 過 昼 は の た い 着 に 駅 山 岡 。 た し ま き 着 握 を も い ま つ さ の 食 夕 の 園 。 た し ま れ く て 来 に 会 み を の る べ 食 に う よ る さ あ い 食 を 司 寿 巻 、 め し り と ﹂ ? か き 好 が も い ま つ さ に な ん そ は 男 雅 ﹁ は 父 た で ん た え 答 と ﹂ だ 飯 御 晩 の 僕 は れ こ ﹁ は 私 、 き 驚 養 療 だ ん さ す 、 い な も 途 前 も 望 希 。 た し ま れ さ か の 親 る れ く て し 愛 、 し 配 心 を 分 自 、 が た し で 活 生 が の 30 。 た し で ば 半 才 る す を 話 の 病 ン セ ン ハ に ち た ん さ も ど 子 、 頃 近   を 話 の ん さ 田 石 ﹁ が 人 一 の 中 の そ 。 す ま り あ が 会 機 い 付 近 ら か だ 病 染 伝 ﹃ 、 ら た い 聞 に ん さ 母 お と か 病 る 治 は 病 ン セ ン ハ ﹃ は 私 。 た え 答 と ﹄ 。 め だ ら た 、 た ま 。 と ﹂ た し ま し 話 と ﹄ 。 い な ら つ う う も 、 で 気 さ ら 暮 て れ 離 、 が だ 念 残 ﹃ ら た い 聞 に 親 両 と ﹄ ? る 答 と ﹄ 。 う 違 は れ そ ﹃ れ わ 言 と ﹄ 。 い な ら な ば れ け な 。 た し ま れ く て せ ら 知 と ﹂ た え み す の と さ る ふ 、 村 町 市 ら か 体 治 自 方 地 、 は 私   し 解 理 く し 正 を と こ の 病 ン セ ン ハ で ま る 至 に み ず ず 必 を 習 学 の 病 ン セ ン ハ も で 場 の 育 教 校 学 の 校 学

私の社会復帰を支え

てくれたもの

長島愛生園      

双見 美智子

さん  昭和23年、夫と10カ月の子 どもと一緒に療養所で診察を受けました。私だけ が感染しているということで一人島に残りました。  夫はまだ39才、早く再婚させたほうがいいと思い、 離婚請求の手紙を出してまもなく、夫が面会に来る ことがわかりました。イチジクが好きだったから、も らったイチジクを大切にとっておきました。私は浜辺 に腰をおろし夫に「すわったら。」と言ったんですが、 ずっと1メートルくらい離れて立ったままでした。「結 婚生活7∼8年あったのにこの1メートルは何なんだ ろうか」と思いながら、イチジクを渡したら、腰をおろ してイチジクをむいて食べたんです。そのあと、「島 で物を食べたと言ったら、母さんはなんていうだ ろうなぁ」とぼそっと言ったんですよ。それを聞い た時、「ああ、もう帰るところはないんだなぁ・・・」と 思いました。それで、私からはっきりと離婚してくれ と言いました。そして、ひとしれず浜辺で泣きまし た。人の一生の中には、自分ではどうしようもない 運命があるんだと知りました。  そんな時に出会ったのが 神谷先生でした。先生 の没後、弔慰金で建てた神谷書庫を任されました。 子どもも大人も家族や故郷や社会から離されここへ 来ました。不安で孤独で、地獄へ堕ちた気持ちでし た。けれど、何年かたってみんな明るく生きていま す。そうなるまでの心の軌跡や想いが正直に表現さ れているのは機関誌であると思い、その整理を始め ました。私に付いたあだ名は 引き出しババア 。入 園者たちの自分誌も全部きちんと納めた、心の叫び のつまった書庫です。

全国の入所者の心の

叫びを集めた神谷書庫

園 明 光 久 邑

ん さ   で 離 距 短 最 は 島 の こ と 土 本 30 か し 。 ん せ ま い て れ 離 か しm 速 が れ 流 の 潮 は 峡 海 の こ 、 し 。 た し ま り あ で 島 の 離 隔 、 壁 障 の 和 昭   45 う よ る れ 渡 ら か い よ で 橋 道 歩 て め せ に 年 で 同 合 と 園 生 愛 、 年 翌 た で が 話 う い と か い な き で に な か な 、 が ろ こ と 。 た し ま り く つ を 会 員 委 進 促 橋 架 、 道 県 は 方 一 の 橋 。 た し で ん せ ま し 展 進 が 動 運 の こ か い な ま じ な は に 業 事 共 公 、 め た の 地 有 国 は 方 一 う も 施 ら か 園 各 、 は て し と 算 予 省 生 厚 。 た し で と こ の と 表 代 の 会 員 委 橋 架 の 園 両 々 年 毎 、 く か に と も で 。 と 。 す で ん た け か を 情 陳 に 会 国 と 国 が   和 昭 55 ら か 山 岡 、 し 成 編 を 団 情 陳 な 模 規 大 に 年 の そ 。 た し ま し を 動 活 請 要 く 強 、 み こ り の に 省 生 厚 は 離 隔 に 病 ン セ ン ハ ﹁ 、 が 臣 大 生 厚 田 園 の 時 当 、 果 結 な き 大 に 常 非 は れ こ 。 す で ん た し 明 言 、 と ﹂ か い な あ 和 昭 。 た し で 言 発 60 て し を 式 れ 入 鍬 に 年 63 月5 の 年 。 た し ま え 迎 を 式 通 開 に 日9 消 ら か 外 島 、 に 時 常 非 の ど な 風 台 ・ 災 火 で ま れ そ   り ぎ う も 、 り な く し 難 で 象 現 化 齢 高 の 者 園 入 も れ そ   の 明 虫 元 地 、 車 防 消 の 町 久 邑 で げ か お た き で が 橋 岡 、 合 場 る す 要 を 術 手 の 急 緊 。 る れ く て 来 が 団 防 消 る す 対 に 病 ン セ ン ハ 。 る き で が 療 治 、 院 入 に 院 病 の 山 は 事 た れ さ 否 拒 車 乗 に 物 り 乗 な ん ろ い 、 め た の 見 偏 を 園 、 し る れ 乗 に 由 自 に ス バ 線 路 て き で が 橋 。 す ま

め * 2003年12月に取材したものを掲載しています。

(7)

未 来 へ の 絆

いま、こんな取り組みを行っています。

 岡山県では療養所入所者、療養所の園長、県の関係課長 等から構成する「岡山県ハンセン病問題対策協議会」で協議 を行いながら様々な事業を展開しています。  また、県民のハンセン病についての意識調査を行い、施策 の方向性を決める参考としています。  ハンセン病の歴史や現状を正しく理解してもらうために、 県が制作したビデオやパンフレット、パネルなどの啓発資材 の活用を図っています。そしてハンセン病に関心を持ち、より 詳しくハンセン病について知りたいと思った方のために、ハ ンセン病啓発ホームページ「みんなで描くひとつの道」を公 開しています。 ※DVDをご希望の方は、山陽映画(株)TEL086-272-8611まで お問い合わせください。 ■啓発DVD ①「ハンセン病を正しく理解するために」         ・ハンセン病全般がわかる啓発DVD(29分)         ・語り部証言集(12名:157分)        ②「今、わたしたちができること」         ・小・中・高校生向けハンセン病啓発DVD(14分)

偏見や差別をなくすため

 県や市町村、療養所などに残る資料を調査・収集して、 かつてのハンセン病対策を振り返り、後世に伝えていく ための資料集を刊行しています。

同じ間違いを繰り返さないため

ハンセン病問題啓発パネルの説明

 今、わたしたちにできることは、ハンセン病について正しく理解し、

それをまわりの人に伝えて偏見・差別をなくしていくことです。そして、

ハンセン病回復者やその家族の方々が安心して生活できるよう、温か

い支援の輪を広げていくことです。

地域との交流をすすめるために

11 12  現在、療養所で生活している方々は、ハンセン 病自体は治っていますが、手足の障害や失明など の後遺症がある上に高齢化も進み、多くの方が療 養所を離れて生活することは難しい状況です。  一方、岡山県は地域との交流を促進するため療 養所の訪問交流などを実施した団体への補助事 業などを行っています。   また、イベントや催し物への参加、陶芸や絵画 などの趣味を通じた交流活動も行われています。 ボランティアガイドによる案内 小学生との交流 ハンセン病問題を考える市民の集い 1989(平成元)年 11 月 1 日 園内にバス路線が開通 ボランティアとの会話 陶芸教室 地域参加の納涼夏祭り 岡山県のハンセン病啓発のホームページから http://www.hansen-okayama.jp/

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未 来 へ の 絆

ハンセン病問題に学ぶ

 「いじめ」による自殺が大きな問題となっています。誰か特定 の一人を集団から排除し、孤立した一人を標的にした「いじめ」 がエスカレートして深刻な事態となっているのです。社会から の「排除」と「孤立」は、人権問題を考えるうえで重要なキー ワードです。いま、女性・子ども・高齢者・障害のある人などに対 する人権侵害や、インターネットを悪用した書き込みが後を絶た ないなど、人権問題は複雑・多様化してきています。私たち一人 ひとりが、排除されたり孤立させられたりした状況に思いを寄せ、 人権を尊重した生き方を身につけたいものです。  長島愛生園・邑久光明園は、地域との交流を進めるとともに ハンセン病問題を通して人権に関する知的理解を深め、人権 感覚を身につける場となっています。 多磨全生園(232名) 大島青松園(82名) 奄美和光園(41名) 沖縄愛楽園(215名) 宮古南静園(78名) 星塚敬愛園(181名) 菊池恵楓園(338名) (私立)神山復生病院(7名) 駿河療養所(71名)

邑久光明園

(155名)

長島愛生園

(267名) 栗生楽泉園(107名)

全国のハンセン病療養所

※国立が13か所、私立が2か所 ( )内は平成25年5月1日現在の入所者数 松丘保養園 (113名) 東北新生園 (99名) (私立) 待労院診療所 (平成25年1月10日閉所)

生徒たちの感想

■園内見学のお問い合わせ・申し込み先  国立療養所長島愛生園 庶務課 TEL 0869-25-0321 ( 代表 )  http://www.hosp.go.jp/ aiseien/ 「お知らせ」ページ  長島愛生園歴史館  http://www.aisei-rekishikan.jp/ 「来館案内」ページ  mail : i nfo@aisei-rekishikan.jp  国立療養所邑久光明園 庶務課庶務係 TEL 0869-25-0011 ( 代表 )  http://www.komyoen.go.jp/   「施設見学申込」 バナー ■岡山県の地域交流事業(補助金)に関するお問い合わせ・申し込み先  岡山県保健福祉部健康推進課感染症対策係 TEL 086-226-7331 ( 直通 )  http://www.hansen-okayama.jp/  「岡山県の取り組み」ページ 全国 14園  82.6才 長島愛生園  83.1才 邑久光明園  83.6才 ■平均年齢   (平成25年5月1日現在) 長島愛生園  58.2年 邑久光明園  55.9年 ■平均在園年数   (平成25年5月1日現在)

一人ひとりを大切に、私たちにできること

(語り部講演会・交流事業の参加者)

いじめや差別

をなくすことが

大切です!

多発するいじめ問題を取り上げる新聞記事 写真提供:山陽新聞社 ●お話を聞いて、家で家族と話し合いました。(小学5,6年生) ●みんなで人権が大切にされる社会をつくりたいです。(小学5,6年生) ●友だちを仲間はずれにしたり、いじめたりする身近な差別をしないように意識しようと思います。         (小学6年生) ●命の大切さや人を思いやる気持ち、差別はいけないなど、より強く思うことができた。(中学1年生) ●私たちにできる偏見や差別を防ぐ方法は、正しいことを理解すること、間違っ  た情報を言っている人に正しい情報を教えてあげることだと思います。偏見  や差別が少しでもなくなる社会にしていきたいです。(中学1年生) ●一つしかない大切な命を大切に大切に生きていこうと思いました。人間の  心、命の大切さについて知ることができました。(中学1年生) ●ハンセン病問題学習で家族の大切さ、差別やいじめのことなど学びました。  差別やいじめは正しい知識を持っていなかったり、相手をよく知らなかった  りすると起こります。友だちのこともっと知って、差別やいじめが起こらない  ようにしたいです。(中学1年生) ●差別や偏見はいけないことだと分かっているが、自分が当事者となったとき、  どのように対応すればいいのだろうかと考えさせられた。(高校1年生) ●平和な今の時代だからこそ、人権問題について真剣に向き合わなければと  思いました。子どもたちにもよい経験になったと思う。(保護者)

参照

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