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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

「新劇場」 か,それとも 「小劇場」 か : ジッド『カ ンドール王』のベルリン公演をめぐって

吉井, 亮雄

九州大学文学部

http://hdl.handle.net/2324/19385

出版情報:仏文研究. (25), pp.137-147, 1994-09-01. 京都大学フランス語学フランス文学研究会 バージョン:

権利関係:

(2)

「新劇場 J か,それとも「小劇場」か

一一ジッド主力ンドール王』のベルリン公演廷期をめぐって

古 井 亮 雄

ジッドがドイツとむすんだ関係は,他のどの外閣とのそれよりも深く密接で、あった。ゲーテや ェを

i

まじめとする作家・思想家の読書をつうじて青年揺に培われたこの国への親近感は,

その後,多くのドイツ人作家〈広くとらえればドイツ語蜜作家)との現実の交流によって補強さ れ,終生ゆらぐことがなかったといってよい。このように良好な関誌が維持されたのには, ドイ ツという冨が諸外国に先がけ最も早くジッド作品を評舘し,受け入れたことも大きく貢献してい る九

1 9 0 4

年iこんドル

7

・力スナーによる Fピロクテテス

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のドイツ語訳が出たのを農切りに,

1 9 0 5  

は『バリュ‑ F

. I I

IFカンドール王.11IF背徳者.11,

1 9 0 7

i

こは Fナノレシス論.11IF恋の試み.11IFエノレ・

ハジ.11IF放蕩息子の帰宅.11,

1 9 0 8

年には『パテシパ.11,

1 9 0 9

年には『鎖を離れたプロメテウス.11IFサ ユーノレ.11FI狭き門』というように IF地の櫨』などいくつかの例外を除けば,それまでの主だった 著作のほとんどが数年のうちに立てつづけに翻訳'紹介きれていたのである。本稿は,そういっ た同時代的なコンテクストを踏まえたうえで,戯曲『カンドール王』がベルリンで上摘されるに いたる過程を考察の対象とするものだが,以下の論述を容易にするため,まずはごく簡略ながら 作品の内容に触れておこう。

F

カンドール王.11

( 全 3

幕〉は,

1 8 9 9

年の

9

Y!から

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月にかけて雑誌、 fレルミタージユ』に

3

屈 に分けて揚載されたのち,

1 9 0 1

3

月に序文を付して白色評論社から単行出張された。作品の題 材は,いくつかの改変はあるものの,おおむね藤史や伝説がったえる物語, とりわけヘロドトス の 記 述 仔 ク

1 )才 s

8

章以下〉から採られている。ジッド自身が拐張序文のなかで作品の発想諜

としてこの記述を引用しているので,われわれも捜概をかねて再録しよう一一

カンドール王はその妻を溺愛し,彼女を女のなかで最も美しい女と考えていた。熱愛のあ まり,彼が大いに寵愛し,最も重大な事柄も打ちあげていた衛兵のひとりジジェスに,たえ ず妻の美を誇張して聞かせるのであった。

しばらくして,カンドールは(彼は不幸を避けることはできなかったのだ)ジジェスにこ

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「新劇場」か,それとも「小劇場」か

んなことを言った。「どうもおまえは妃の美しさにかんして,わしの言うことを信ぜぬちしい。

百聞は一見に如かずだ。どうかして妃の裸体を見てみるがいい」。「なにをおっしゃるのです,

王様」とジジェスは叫んだ。「お言葉の意味を王様はお考えあそばしましたか? 下僕にお妃 を見よとお命じなさるのですか? 女は着物を脱ぐとともに,蓋恥心を失うということをお 忘れですか? 昔から正しい道を教える格言が伝わっています,わたしたちはそれを掟とし て守らなければなりません。なかでも最も大切なひとつは,人はおのおの自分の持ちものに

しか眼をくれてはならぬということです。わたしは王様が女のなかで一1番美しい女をお持ち になっていることを固く信じております。お願いですから,わたしに曲がったことをお求め

くださいますな」。

 こう言ってジジェスは己自身におよぼすその結果を恐れて,国王の申し出を拒んだのだっ た。「安心せい,ジジェス」とケンドールは言った。「おまえの王を恐れることはない(この 言葉はおまえを試みるための罠ではない),おまえの妃を恐れることもない。けっしておまえ を害するようなことはないから。おまえが妃を見たことさえ妃には気づかれぬように計らっ

てやろう」。

 ジジェスには逃れる術はなかった。彼かケンドールか,そのいずれかが身を滅ぼさねばな らなかったのである2)。

 むろんジッドの翻案においても身を滅ぼすのはケンドールのほうだ。彼は富を独占することは 国王の徳にはあらずと信じこんでいる。王妃ニシアーちなみにジッドはこの登場人物名につい ては,同じ題材をあつかったテオフィル・ゴーティエの中編から採っている一の美貌もその例 外ではない。貧しいが欲のない漁師ジジェスに強要し,姿を消すごとのできる指輪をもちいさせ て,ついには彼女を「共有」させてしまう。だが真相を知った王妃は,犯した罪の重大さに動転 したジジェスに命じ夫を殺害させる。そしてただちに彼を新たな夫,新たな国王として迎えるの である・・…・。この作品は早くも初版出来の2か月後にはリュネーポーの制作座によって初演され たが(舞台はパリのヌーヴォー・テアートル),フランソワ・ヴィエレ=グリファン,ロマン・コ ーリュス,アンリ・ゲオンらが好意的な反応を示したほかは,世評は概して否定的で,劇の「無 味乾燥さ,テンポの早さ,拡がりのなさ」を責めるものが多かった。ジッドは第2版(1904)に 追加の序文として,この初演のさいに発表されたさまざまな劇評を「注釈をつけずに」抜粋羅列

している3)。

 パリ初演の失敗はジッドに長期間にわたって「公衆」への警戒心をいだかせることになるが じじつ彼は,評価が賛否両論に割れた1922年のヴィユー・コロンビエ座での『サユール』上演(ジ ャック・コポー演出)を別にすれば,1930年刊の『オイディプス』まで演劇からは遠ざかってい る一,いっぽうベルりンでの初演は,一時的にではあったが彼がこの警戒心を解き,それまで

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「新劇場」か,それとも「小劇場」か

んなことを言った。「どうもおまえは妃の美しさにかんして,わしの言うことを信ぜぬらしい。

百聞は一見に如かずだ。どうかして妃の裸体を見てみるがいい

Jo

[""なにをおっしゃるのです,

王様」とジジェスは叫んだ。「お言葉の意味を王様はお考えあそばしましたか? 下僕にお妃 を見よとお命じなさるのですか? 女は着物を脱ぐとともに,差恥心を失うということをお 忘れですか? 昔から正しい道を教える格言が伝わっています,わたしたちはそれを捉とし て守らなければなりません。なかでも最も大切なひとつは,人はおのおの自分の持ちものに しか眼をくれではならぬということです。わたしは王様が女のなかで一番美しい女をお持ち になっていることを固く信じております。お願いですから,わたしに曲がったことをお求め

くださいますな」。

こう言ってジジェスは己自身におよぽすその結果を恐れて,国王の申し出を拒んだのだっ た。「安心せい,ジジェス」とカンドールは言った。「おまえの王を恐れることはない(この 言葉はおまえを試みるための畏ではない),おまえの妃を恐れることもない。けっしておまえ を害するようなことはないから。おまえが妃を見たことさえ妃には気づかれぬように計らっ てやろう

Jo

ジジェスには逃れる術はなかった。彼かカンドールか,そのいずれかが身を滅ぼさねばな らなかったのである2)。

むろんジッドの翻案においても身を滅ぼすのはカンドールのほうだ。彼は富を独占することは 国王の徳にはあらずと信じこんでいる。王妃ニシア一一ちなみにジッドはこの登場人物名につい ては,同じ題材をあつかったテオフィル・ゴーティエの中編から採っている一ーの美貌もその例 外ではない。貧しいが欲のない漁師ジジェスに強要し,姿を消すことのできる指輪をもちいさせ て,ついには彼女を「共有」させてしまれだが真相を知った王妃は,犯した罪の重大きに動転 したジジェスに命じ夫を殺害させる。そしてただちに彼を新たな夫,新たな国王として迎えるの である……。この作品は早くも初版出来の

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か月後にはリュネ=ポーの制作座によって初演され たが(舞台はパリのヌーヴデォー・テアートル),フランソワ・ヴイエレ=グリファン,ロマン・コ ーリュス,アンリ・ゲオンらが好意的な反応を示したほかは,世評は概して否定的で,劇の「無 味乾燥さ,テンポの早さ,拡がりのなさ」を責めるものが多かった。ジッドは第

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パリ初演の失敗はジッドに長期間にわたって「公衆」への警戒心をいだかせることになるが一一 じじつ彼は,評価が賛否両論に割れた

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「新劇場」か,それとも「小劇場」か

頑なに拒んでいた「宣伝」の努力をした点できわめて対照的な様相を呈している。先述のように

『ケンドール王』のドイツ語版はフランツ・プライの翻訳で1905年にインゼル社から出版されたが4),

実際の初演は1908年1月まで待たなくてはならない。舞台となったのは,ヴィクトール・バルノ ウスキーの指揮する「小劇場Kleines Theater」であった。そのときの状況や,前年からの準備 については,すでにクロード・マルタンが詳細に論じているが5),それによれば,10年ほど前から ジッドと文通関係にあり,当時はベルリン大学のフランス文学担当教授だったエミール・アグナ ンが個人的にジッドと連絡をとりながら宣伝活動をひきうけた。両者が交わした書簡からは,ジ ッドがこの試みにいかに期待をかけていたかが容易に読みとられる。だが,結果はパリ初演にも まして惨憺たるものだった。観客の多くは,同じ題材をあつかった自国の劇作家フリートリヒ・

ヘッベルにたいする二二だと,幕の下りるのもまたず不満・憤慨を露にしたのだ。そして,彼ら の反応があまりに激しいのに恐れをなしたバルノウスキーはたった1回の公演で興行を打ち切っ てしまったのである。

 このように実際のベルリン初演については詳細が分かっているが,いっぽうそこにいたるまで の曲折にかんしては不明な点が少なくない。たびかさなる上演延期のなかでも,とりわけ再考に 値するのは1907年1月下旬のそれだろう。ベルリンから連絡を受け,ためらいながらも結局は主 催者には知られずにお忍びで初演を観ようとジッドが劇場まで赴いたこと,ただちに旅行本来の

目的は失われたものの,無柳をなぐさめるために訪れた美術館で『放蕩息子の帰宅』の構想が浮 かび,ひいてはそれが『背徳者』(1902年刊)以来の創作不能状態を打ちやぶり,『狭き門』(1909 年刊)をはじめとする旺盛な執筆活動を招来する契機になったこと,これらはいずれも作家の個 人史において大きな意味をもつ出来事といえるからだ。

 ジッド自身はベルリン滞在についてほとんどなにも書き残していない6)。同行した画家モーリ ス・ドニの日記を要約すれば,2人は1月21日の夜,ベルリンの終着駅アンハルター・バーンホー フに到着,駅前のホテルに部屋をとったのち,同夜のうちに劇場の窓口に赴くが,その場で主催 者側がまったくなにも準備をしていないことを知る。事態を打開しようとジッドは「手紙や電報」

を送るが,効果なし。「彼の翻訳者〔プライ〕は雲隠れしてしまったのだ。とうぜんのことながら ジッドは気力を萎えさせ,この滑稽な,だがしかし轡陶しいことに変わりはない災難をいぶかる」

ばかりであった。こうして旅行の大義が失われてしまうと,以後の日程は美術館や画廊の見学,

旧知のドイツ人たち(タルト・ヘルマン夫妻,インゼル社のルドルフ・アレクサンダー・シュレ ーダーなど)や,とりわけ前出のアグナンとの接触に費やされるほかはなかった。そして数日間 首都に滞在したのち,2人は旅行案内を手にドレスデン,カッセル,ウィースバーデン,マイン

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「新劇場」か,それとも「小劇場」か

ツなどを巡りながら,同月30日にパリに帰着したのである7)。

 付言すれば,ジッドははるか後年(1945年),音楽家マルセル・シュヴェトゼールらとの歓談の なかで『ケンドール王』のベルリン上演について回想している。それによれば,彼は1908年の初 演をドニとともに実際に観たことになっている一

 アンドレ・ジッドは〔……〕わたしたちにベルリンでの『ケンドール王』初演について語 った。モーリス・ドニが同行していたが,彼らは劇場の窓口で,上演が2週間延期されるこ

とを知った。彼らは激しく抗議した。「主催者たちがそのときどうしたかお分かりでしょうか。

彼らはわれわれに旅費と滞在費を払い戻したのです。どうです,まあまあ礼儀にかなったこ とだったのじゃないでしょうか?」(ジッドはそのことをまざまざと覚えていた)。初演の夜,

劇場は興奮と激しい高揚に包まれた。これは実は抗議の表明だったのに,ジッドとドニは観 客が狂喜しているのだと思い込んでしまった〔……〕8)。

シュヴェトゼールの記録に潤色がないとするならば,むろんジッドの回想は不正確なものといわ ねばなるまい。だが,意識的か否かはともかく,彼のばあい異なる出来事の記憶が混清すること の稀でないこと一じっさい,作家自身がしばしば同趣旨を述べている一を思えば,少なくと

も「劇場の窓口」での描写にかんしてはまったくの錯誤というよりは,むしろ1907年1月のこと を忠実に再現したものと見るべきであろう。

 では,ジッドが実際に足をはこんだのはベルリンのどの劇場だったのか。別言すれば,同シー ズンの上演題目として『ケンドール王』を予定していたのはどの劇場だったのか。標題に示すと おり本稿の主たる目的はこれを問うことにあるが,現在のところ支配的なのは「新劇場Neues Theater」とする説だといってさしつかえあるまい。たとえば最近公刊され,厳密な本文校訂と精 緻な付注によってすでに高い評価をえているパスカル・メルシエ,ピーター・フォーセット共編 の『ジッド=シュランベルジェ往復書簡集』においても校訂者は同じ旨を明記している9)。だが,

はたしてそのとおりなのだろうか。とりあえずこの通説がどのように形成されたのかを見ること からはじめよう。

 筆者の承知するかぎり,「新劇場」を最初に特定したのはオーギュスト・アンダレスである。膨 大な関係資料を博捜した記念碑的大著『アンドレ・ジッドと初期「新フランス評論」グループ』

(第1巻,1978)のなかで1906年の夏について述べながら,「ジッドはベルリンの《新劇場》から来 シーズンの演目として『ケンドール王』を上演したいという申し出を受けていた。この企てのこ とを考えるだけで彼は《おそろしくformidablement》愉快だった」と書いたのだ10)。しかし通説 の形成において決定的だったのは,多年にわたり一貫してジッドの演劇を研究主題としてきたジ ャン・クロードの論述,とりわけその国家博士号論文『アンドレ・ジッドと演劇』(1992年公刊)

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「新劇;場」か,それとも「小劇場」か

であろう。同著のなかでクロードはまず,1905年1月5日のタデ・ナタンソン宛ジッド書簡から

「わたしの『ケンドール王』を〔ベルリンの〕ドイツ劇場Deutsches Theaterで上演することが 真剣に話しあわれた」という記述を引き,『ケンドール王』に最初に関心を示したのは同劇場だと 断言,つづいて,にもかかわらずドイツ語による初演は実際には1906年1月にウィーンでおこな われた事実に言及したのち,以下のように述べたのである一

 『ケンドール王』の上演計画がふたたびベルリンで浮上する。だが,今度は「新劇場」での 上演である。この企てのことを考えるだけでジッドは「おそろしく」愉快だ。彼は,モーリ ス・ドニを同伴してリハーサルにでかけようと考える〔……〕11)。

 情報の出所は示されていないものの,アンダレスやクロードの見解が,ジッドが義弟マルセル・

ドルーアンに宛てたある未刊書簡に依拠していることはまちがいない。いずれもが,みずからの 論述に溶かしこむかたちで(とくに「おそろしくformidablement」という副詞にかんしては引用 符を付して),その字句を忠実に再現しているからである。比較のために,関連部分にかぎって聞 題の書簡を引用しよう一

ベルリンの「新劇場」が来シーズンの演目として『ケンドール王』〔の上演許可〕を私に求 めてきている。イゾルデ夫人が理想的なニシア役なのかどうか,もっと確信がもてるとよい のだが……。だが,そんなことはどうでもよい,この企てのことを考えるだけで私はおそろ

しく愉快だ。

このジッド書簡は,他の数百通のドルーアン宛とともに,現在はルアン市立図書館に所蔵・保管 されるものだが,封筒は残っていない。書状冒頭には「キュヴェルヴィル,7月7日」と,ジッ ドの筆で記されるが,日付は年号を欠く。ドルーアンは後年,心覚えのためだろう,そこに鉛筆 で「1906年?」と記入している12)。つまり,同書簡を参照したアンダレスやクロードは,記憶にた よった受信者の覚え書を正確なものと見なして,1906年7月の時点でジッドが「新劇場」からの 申し出をうけていたと判断したわけである。

 だが,事実はけっしてそうではない。まず第一に,ジッドは同年の6月半ばから7月末までは,

極度の精神的・肉体的疲労(しばしば「1906年の危機」と呼ばれる)を癒すために,ジュネーヴ のエドゥアール・アンドレア博士の処方にしたがい,チューリヒからさほど遠くないシェーンブ ルンの水浴療養施設で治療にはげんでおり,その間もふくめ8月半ばまでは一度もフランスには 帰っていないのである。必然的に書簡の発信地がキュヴェルヴィルでありえたはずはない。する

と,ただちにひとつの疑問が生じよう。1906年でないのならば,ではいったい何年の7月7日な

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「新劇場」か,それとも「小劇場」か

のか。じつはこの書簡には,実証的な検討さえ怠らなければ問題解決の確実な手がかりとなる,

つぎのような一節が存在するのだ一「フィレンツェの精神病院に入院させられた気の毒なド・グ ルーを救いだすために,数日来,頻繁に手紙のやりとりをしている。彼の姪は脅えきった手紙を 書いてよこすし,くわえてフィレンツェからはきわめて憂慮すべき情報を受けとっている13)」云々。

「気の毒なド・グルー」とは,1897年からジッドと親交のあったベルギー生まれの画家・彫刻家ア ンリ・ド・グルーのことを指すが,この一節は,彼の病状悪化と強制入院をめぐり,1904年の6 月末から8月初めにかけてジッドがフィレンツェ在住の新進作家ジョヴァンニ・パピー二とのあ いだに交わした書簡の話題と完全に合致するのである。両者のやりとりはアラン・グーレ『ジッ

ドの審判者ジョヴァンニ・パピー二』(1982)に詳しいが14),かいつまんで述べれば事情はおおむ ね以下のようなものであった。

 ド・グルー(1867−1930)は1890年頃からパリに住み,1893年にはマリー・エンゲルと結婚,彼 女とのあいだに2児をもうけたが,1900年からは妻の姪(ジークモンデ姓,プレノンは不詳)を 同居させ,やがて彼女と不義の関係をむすぶ。精神の荒廃がすすむにしたがい妻との関係も悪化 し,1903年にはついに家を捨て,この姪をつれてフィレンツェに赴き,そこに居をさだめた。当 地ではパピー二の仲介で少なからぬ芸術家と交わるが,生活の困窮も禍して精神の錯乱はいっそ

うすすみ,はては妄想から嫉妬を昂じさせ,姪にたいして殺意をいだくまでにいたる。そして,

たびかさなる暴力に耐えきれなくなった姪はやむなく彼を強制的に入院させたのである。1904年 の6月末にパピー二から連絡をうけたジッドは,さらに具体的な情報を文通者に求めるいっぽう,

7月4日付キュヴェルヴィル発信の同者宛書簡によれば,病んだ友をせめて安心のできるフラン スの施設に移そうと,「ただちにパリの何人かの友人に手紙を書いた15)」。その甲斐あってド・グル ーは,正妻マリーに付き添われ,まもなくフランスの地を踏むことになったのである……。

 もはや問題の書簡が「1904年7月7日」のものであることに疑問の余地はない。そして正確な 日付が判明した今や,すでに活字化されてはいたが,具体性を欠くために見逃されがちであった アンドレ・リュイテルス宛書簡の記述  じじつ,アンダレスやクロードはそれにはまったく言 及していない一との相関もあきらかになる。すなわち,およそひと月後の同年8月11日,ジッ

ドはやがて『新フランス評論』を共同創作することになるベルギーの盟友につぎのように書いて いるのである  「こんどの冬にベルリンの「新劇場」で『ケンドール王』を上演しようという話 があるのを,君にはもう知らせていただろうか?16)」。『ジッドーリュイテルス往復書簡集』の校訂 者クロード・マルタンがこの記述に付した注は,上演計画への翻訳者プライの関与を示唆するに

とどまっていた。もちろんそういった要素も軽視することはできない。だがドルーアン宛書簡の 時期確定によってもたらされる新情報は,アンダレスやクロードが論述の前面におしだす「新劇 場1906年」説(リュイテルス宛書簡の記述を考慮に入れれば,むしろ「新劇場の1906年再浮上」

説)を実証的に否定すると同時に,すでに1904年の時点で,配役(ドルーアン宛書簡に記された

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「新劇場」か,それとも「小劇場」か

「イゾルデ夫人」がだれを指すかは未詳だが,いずれにせよ舞台女優であるのは明白)をふくめ,

計画がかなり具体的かつ意欲的に論じられていたことを教えてくれるのである。

 ところで,当時「新劇場」の舞台監督をつとめていたのは,やがてはドイツ・オーストリア演 劇界の代表的演出家として令名を馳せることになるマックス.・ラインハルト(1873−1943)であっ た。したがって以後の『ケンドール王』上演計画のなりゆきを追うためには,なによりもまずこ のころの彼の活動をふりかえって整理しておかなければなるまい。当初俳優iとして出発したライ ンハルトは次第に演出にも手を染めばじめるが,ベルリンにおける演出家としての公式デビュー は1902年10月であった。これを機に1903年の元旦,それまで属していた師オットー・ブラームの

「ドイ・ツ劇場」グループを離れ,2月からは「小劇場」と「新劇場」の舞台監督をひきうけた。以 後,両劇場でシェークスピアの『夏の夜の夢』など少なからぬ作品の演出にあたったが,1905年 8月,まず「小劇場」を門下のヴィクトール・バルノウスキーに譲り(バルノウスキーは同劇場 を1911年まで指揮),翌年6月末には「新劇場」からも退く。その間の1905年10月にはブラームの あとをうけ「ドイツ劇場」の舞台監督に就任,それ以降1920年まではここが彼の主要な活動場所 となったのである17)。

 以上のごく大まかな要約からだけでも,ラインハルトが「ドイツ劇場」に復帰・専念するため,

あい前後して「小劇場」「新劇場」から退いたことは歴然としている。だが彼が,当初想定してい た「新劇場」よりも条件の整った環境をもとめつつ,1905年の半ばごろまでは自らが『ケンドー ル王』の演出を手がけようとしていたこともまた確実である。同年5月6日にワイマール在住の ハリー・ケスラーがジッドに宛てた書簡のなかに,つぎのような記述が認められるからだ一

 ワイマールの拙宅でラインハルトに会えると思っていましたが,いま彼は〔……〕「ドイツ 劇場」と賃貸借契約の交渉中なので,断念せざるをえませんでした。しかし,そこのほうが

「新劇場」よりもかえって『ケンドール王』には適しているでしょう。ですから,この移転は あなたにとって有益なものになると思います18)。

ジャン・クロードがこれより4か月前の1月5日付ナタンソン宛ジッド書簡にもとづき,最初に

『ケンドール王』上演を計画したのは「ドイツ劇場」だと主張していることにはすでに触れたが,

ふりかえって付言すれば,書簡の記述が指していたのも実は,彼が言うような同劇場との話し合 いのことではなく19),まだそこには移っていないものの,すでに「新劇場」からの撤退を検討しは じめていたラインハルトとの,あるいはむしろ,次段で触れるように彼とジッドとのあいだを仲

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「新劇場」か,それとも「小劇場」か

介したプライとのやりとりだったのである。

 しかしながら夏以降,事情は大きく変わる。8月に「小劇場」を譲り受けたバルノウスee 一一が,

早くも9月上旬にはベルリンの新聞数回に,最近『ケンドール王』の上演権を獲得したという旨 の広告を出し,切符予約の方法まで説明しているのである20)。この計画変更をジッドが承知してい たことはまちがいない。現在パリ大学附属ジャック・ドゥーセ文庫には,かつて彼が集め保:存し ていた新聞・雑誌類の切り抜きが3,500点ほど収められているが,問題の広告についても切り抜き が専用ファイルに貼付されているからだ。本人の証言も欠けてはいない。広告掲載後まもない9 月25日には,プライの人柄や翻訳家としての技量にかんするポール・クローデルの問い合わせに たいして以下のように答えているのだ一

 わたしはフランツ・プライに直接会ったことはありませんが,手紙のやりとりをつうじた 彼との関係はこの上なく良好です。熱意と献身の情にあふれた非常にいい人間のように思え ます。〔あなたのおっしゃるとおり〕たしかに,彼はわたしの『ケンドール王』を〔ドイツ語 に〕翻訳しましたし,現在はそれを上演させるのに奔走しています(ウィーンやベルリンの 劇場とは契約さえ交わされました)21)。

さらにつづけてジッドは,翻訳家としての技量には慎重な留保をつけながらも22),しかしプライに 仕事を委ねればドイツ語上演の可能性が大いにある,なぜならば「彼は複数の舞台監督ときわめ てよい関係にあるから」とも述べている。

 だが,それにしてもこの「新劇場」から「小劇場」への急な変更をどう判断すればよいのか。

また,以後のなりゆきはどのようなものだったのか。そういった点を考えるうえで無視できない のは,クローデル宛書簡にも触れられているウィーンでの上演計画であろう。なぜならば,『ケン ドール王』のドイツ語による初演は実際にはベルリンでではなく,翌1906年の1月にウィーンの

「ドイツ国民劇場Deutsches Volkstheater」でおこなわれているからだ。ジッドはこの初演のた めにジャン・シュランベルジェとともに当地に赴いた。観客の反応はかんばしくなかったが,ジ

ッド自身にとってはまずまず満足しうる出来だったことがゲオンへの報告にうかがわれる23)。しか し,われわれにとってなによりも見すごせないのは,このとき演出を担当したリヒャルト・ヴァ レンティンが,バルノウスキーとならんでまたラインハルトの門下であったことだ24)。2人の門下 がほぼ同時期に『ケンドール王』にかかわりはじめたことは単なる偶然とは思われない。さらに 彼らの活動と軌を一にするように,ラインハルトの指揮下に入った「ドイツ劇場」のほうは1905 年10月,クライストの『ハイルブロンの少女ケートヒェン』をもってシーズンを開幕しているの である。こういつた経緯を見るかぎり,劇場移籍の準備に追われ自らは演出を手がける余裕がな くなったのか,それとも弟子の門出を祝い飾るためだったのか,そのいずれかは決しがたいが,

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「新劇場」か,それとも「小劇場」か

少なくともラインハルトの薦めにしたがってバルノウスキーに『ケンドール王』の上演権が委ね られたことだけは確実であろう。そして以後のなりゆきにかんしても,1906年忌「新劇場」が計 画したという通説の実証的根拠はすでに消滅したこと,さらにドイツでの実際の初演劇場が結局 は「小劇場」となることなどを考えあわせれば,たびかさなる延期の理由は依然として不詳なが ら,1905年の夏からは一貫してバルノウスキーがベルリン上演の責任を担っていたと結論してさ しつかえあるまい25)。

 1907年1月にジッドがベルリンからの知らせを信じてドニとともに赴いたのは「小劇場」だっ たのである。

1) ドイツにおいてジッドがいかに精力的に紹介され受容されたかは,最近出版されたジョージ・ピス   トリアス作成の大部な書誌に具体的数値をともなって如実にあらわれている一 GeOrge Pistorius,

 西湘Gide zand Deutschland. Eine internationale BibliograPhie, Heidelberg:Carl Winter,

 Universitatsverlag,《Beitrage zur neueren Literaturgeschichte》,1990, XXII−704 pp.

       ノ2) Andr6 Gide, Le Roi Candazale. Drame en trois actes, Ed. de la Revue Blanche,1901, pp. II−IV   (7%あ勿,Gallimard,1942, pp.156−157).

3) Voir la《Pr6face pour la seconde 6dition du Roi Candazale》,in Sadr 1. Le Roi Candaule, Mercure  de France,1904, pp.148−152(:翫あ惚, op. cit., pp.161−166).なお,作品の内容分析や制作座による初   演にかんして詳細は下記を参照一Claude Martin, La物劾7彪み1η4形Gide.1)e ((Paludes))δ   ((L Tmmoraliste))(1895−1902♪, Klincksieck,《Bibliotheque du XXe si6cle》,1977, pp.393−406 et  506−511.

4) Der Kb nig Candaules, Leipzig:Insel Verlag,1905.フランツ・プライ(1871−1942)はウィーン   の生まれで,チューリヒおよびジュネーヴで大学教育を受けたが,1901年から1911年まではミiンヘ   ンに居住していた。経歴の詳細については,とくに下記を参照  Murray G. Hall,《Der unbekannte  Tausendsasse:Franz Blei》, in lahrbuch der Gn llparzer−Gesellschaft, vol. XV,1983, pp.129−140.

  なお,ジッド・プライ往復書簡集は,オリジナルを所有するイギリス人ピーター・ホイ(書誌学者と   して著名)によって準備されていたが,昨年,それを完成することなく当人が病死したことで,少な   くとも近々の出版は期待できそうもない。この書簡集が公にされれば,ベルリン上演にいたる経過に  ついても明らかになる点が多いと推測されるだけに,博識をうたわれたホイの逝去は残念の一語につ

  きる。

5) Voir Claude Martin,《Gide 19070u Galat6e s apprivoise》, in Revue d Histoire 1ゴ彬忽名召de la  France, mars−avril 1970,70e ann6e, no 2, pp.196−208。,

6) 旅行は1907年1月20日から10日問にわたるが,公刊された日記には,ベルリンの美術館(カイザー・

  フリートリヒ美術館)で鑑賞した絵画や彫像・塑像にかんする感想しか書き記されていない(voir  /burnal 1889−1939, Gallimard,《Biblioth6que de la P16iade》, pp.235−236)。ただし,旅行中ジッド  がそれ以外には日記をつけていなかったとはむしろ考えにくい。というのは,印刷公表された部分は,

  『日記』の自筆原稿(カイエ22,ドゥーセ文庫整理番号γ1578)のなかでは,二型の異なる他の手帳  から切りとられ,挿入された5枚の紙片からなっているからである。これは,ジッドが後になって(お

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「新劇場」か,それとも「小劇場」か

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そらくは同テクスト初出のガリマール版『全集』の出版にさいして),上記鑑賞体験が『放蕩息子の帰 宅』の生成においてもった重要性をことさらに強調しようとしたためと思われる。詳細についてほ,

      ノつぎの拙著を参.照されたい  Andr6 Gide, Le Retour de 1 Enfant prodigue. Edition critique etablie et pr6sent6e par Akio Yoshii, Fukuoka:Presses Universitaires du Kyushu,1992, p.33, note 75.

      ノVoir Maurice Denis,ノburnal, La Colombe(Ed. du Vieux Colombier),1957−1959, t. II, pp.51−60.

  Voir Marcelle Schv6itzer, Gide aux Oasis. R6c露, Nivelle  : Ed. de la Francit6,1971, p.121.・

      ノ

  Voir Andr6 Gide−Jean Schlumberger, CorreSpondance 1901−1950. Edition 6tablie, pr6sent6e et annot6e par Pascal Mercier et Peter Fawcett, Gallimard,1993, p.103, note 3.

  Auguste Angles,ノ1多z4形Gide et le premier grozape de 紹しごz Nouvelle Revue Franfaise)〉, Gal−

limard,《Biblioth6que des Id6es》,1978−1986, t.1, p.78.

  Jean Claude,.肋4葱Gide et le 妬2惚, Gallimard,《Cahiers Andr6 Gide》,1992, t.1, pp.66−68.

  Biblioth6que Municipale de Rouen, cote Ms m 275−8−122.

  ldem.

       ノ

  Voir Alain Goulet, Giovanni Papiniブ㎎ ε4㌔4η4葱Gide, Lyon:Centre d Etudes Gidiennes,

Univ. de Lyon II,1982, pp.17−35.

  Ibid., P.34.

  Andr6 Gide−Andr6 Ruyters, CorreSpondance 1895一一Z950. Edition etablie, pr6sent6e et annot6e par Claude Martin et Victor Martin−Schmets, Lyon:Presses Universitaires de Lyon,1990, t.1,

P.190.

  Voir Leonhard M. Fiedler, Mex Reinhardt, Reinbek:Rowohlt Verlag,1975, pp.140−141.

  Claude Foucart,・0  zan mondeδ1 azatre. La correSt)ρndanqe A ndre Gide−Har7Pu Kessler 6Z 903一        ノエ933♪,Lyon:Centre d Etudes Gidiennes, Univ. de Lyon II,1985, p.65.

  クロードは,ラインハルトがこの1905年1月時点ですでに「ドイツ劇場」を指揮していたという前 提に立って自説を唱えているが(voir、4η4形0∫鹿et le%∂加, op. cit., t.1, p.66),これはあきら かに事実誤認。

  Kleine/bzarnal,3. September;Berliner Neueste 1>iZchrichten,4. September;Bb rsen Zeitung,5.

September;1>ational Zeitung ,8. September, etc.

  Paul Claudel−Andr6 Gide, CorreSpondance 1899−1926. Pr6face et notes par Robert Mallet,

Gallimard,1949, pp.50−51.

 プライのドイツ語訳にたいするジッドの否定的評価については,前掲拙著,26頁,注44を参照され

たい。

  Voir la lettre a Henri Gh60n,25 janvier 1906, CorreSρondance. Texte 6tabli par Jean Tipy.

Introduction et notes d Anne−Marie Moulenes et Jean Tipy, Gallimard,1976, t. II, pp.632−634.

Voir aussi Karl Glossy, Vierzig lahre Deutsches Volflstheater, Wien:Verlag des Deutschen Volkstheaters,1929, pp.178−180;Hermann Bahr,《Rezension Wiener Theater 1901−1909》, in Zeitgenb ssische Bildnisse, Amsterdam:Verlag Albert de Lange,1940,.pp.270−274.

  ちなみに,プライはこのウィーン公演のおりにはじめてジッドと会った。参考までに,彼がそのと きのことを後年回想した文章の一節を引用しておこう(ただし,彼の記憶では1908年1月のベルリン 公演との前後関係が逆転されている) 「アンドレ・ジッドは友人のジャン・シュランベルジェとと

もにやってきた。10年後ようやく,きわめて興味ある作家として世に出た,あのシュランベルジェで ある。われわれはウィーンに行った。ウィーンの国民劇場が,ジッドの『ケンドール王』を上演する 予定であった。なるほど実際に上演したのだが,しかし,わたしはやはり上演する予定であったと言 わなくてはなるまい。演出を担当したのはマックス・ラインハルト門下の若い男で,たしかヴァレン

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「新劇場」か,それとも「小劇場」か

  ティンとかいった。彼は劇場はえぬきの人気役者にたいしまるで無力であった。要するに,俳優たち   は好き勝手に,したいほうだいのことをしたのである。〔……〕『ケンドール王』は3日間で上演打ち   切りとなった。これより早くベルリン〔の〕劇場では2日間〔ママ。1回かぎりの誤り〕の上演で打   ち切られたが,わたしが聞いたところによると,まるでメーテルリンクの『抄入者』を演じているか   のように,出演者が全員ひそひそ声でセリフを口にしたので,観客がたまげたという。ジッドがヘッ   ベルの主題を手玉にとったことに劇評家たちは気がついたのだろう,こぞってそのことばかりを言い   たてた」(『同時代人の肖像』,池内紀訳,法政大学出版局,「叢書ウニベルシタス」,1981年,86−87頁。

  引用にあたっては表記上の統一のため若干の改変をほどこした)。

25) ただし,契約のことをふくめバルノウスキーが直接ジッドとの交渉にあたった可能性は小さく,こ   こでもまたプライが仲介役をつとめたものと推測される。じっさい,後年の証言ながら1946年にジッ   ドは,『日記』の英語訳を準備中だったジャスティン・オブライアンから記載人物にかんする問い合わ   せをうけて,つぎのように答えている一「バルノウスキー?《小劇場》の舞台監督,そう申しあげて   おきましょう。これで十分です。彼についてはそれ以外なにも知らないのですから」(Andr6 Gide−

  Justin O Brien, Correspondance 1937−1951. Edition etablie, presentee et annot6e par Jacqueline   Morton, Lyon : Centre d Etudes Gidiennes, Univ. de Lyon II, 1979, p. 17).

〔付記〕本稿を掲載誌『仏文研究』に提出してまもなく,『ジッドーシュランベルジェ往復書簡集』の校訂   者パスカル・メルシエ氏からの私信を受けとった。同書禅譲の付注内容(レフェランスは本稿の注9   で指示)について筆者が書き送っていた疑義にたいする返答である。この私信のなかで氏は,アンダ   レスやクロードの論述に依拠した自身の注はあきらかに誤りであると認め,「小劇場」にかんする筆者   の主張を「きわめて確度の高い根拠にもとつく説得的な推論」としたうえで,いくつかの貴重な補足   的情報を提供してくださった。この情報にもとづいて関連箇所を改稿する余裕を欠くのは遺憾である   が,その要点を付記・紹介することでメルシエ氏への謝辞にかえさせていただく。なお以下は,私信   の直接的な引用ではないが,理解を助けるための若干の補筆を除けば,すべてメルシ心耳の立場から   なされた叙述の形式をとる。この点をあらかじめ承知されたい。

   第一は,ドルーアン宛書簡のなかでジッドが「イゾルデ夫人Frau Isolde」と呼んでいる人物につ   いて一。疑いなくこの記述はラインハルトの専属女優iのひとり,ゲルトルート・アイゾルト(Gertrud   Eysoldt,1870−1930)のことを指す。すでにジッドは1903年8月のベルリン滞在中,ラインハルトの   演出したゴーリキーの『どん底』で彼女の演技に接していた。ちなみにアイゾルトは,ジッドやシュ   ランベルジェら『新フランス評論』グループを厚くもてなしたルクセンブルグのメイリッシュ・ド・

  サンーテユベール夫人と親交があり,このメセナがコルパックの居城で主宰する汎ヨーロッパ的なセ   ナークルの常連であった。

   第二は,ウィーンの「ドイツ国民劇場」について一。『ケンドール王』がリヒャルト・ヴァレンテ   ィンの演出で上演された当時,同劇場を指揮していたのはヴォールフ・ヴァイセ(Woolf Weisse)

  という名の人物だったと推測される。最近,故ピーター・ホイ宅でジッドーブライ往復書簡のオリジ   ナル〔本稿の注4を参照〕の閲覧を許されたピーター・フォーセットによれば,1905年のある書簡で   ジッドは,ヴァイセとの契約で代理をつとめてくれたこと,またラインハルトに手紙を書いてくれた   ことにたいしプライに礼を述べているからである。ヴァイセがラインハルトと交流があったか否かに   ついては未詳だが,いずれにせよこの書簡の記述は,プライがジッドと彼らドイツ語圏の演出家たち   とのあいだを仲介したことを明示している。

      (九州大学文学部助教授)

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