九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
L’esthétique et la politique : J. Rancière et
“le partage du sensible”
山下, 通
九州大大学大学院人文科学研究院
https://doi.org/10.15017/1804162
出版情報:哲學年報. 76, pp.55-65, 2017-03-17. Faculty of Humanities, Kyushu University バージョン:
権利関係:
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美学と政治 ― ― J.ランシエールと「感性的なものの分割=共有 partage 」
山 下 通
序論
本論は︑現代のフランス哲学者ジャック・ランシエール(
Jacques Rancière, 1940-
)の芸術=政治論において重要な役割を果たす「感性的なものの分割=共有le partage du sensible
」という概念について︑二〇〇〇年に刊行された著作『感性的なものの分割=共有』Claire Bishop,1971-
プ()の著作『人工地獄―現代アートと観客の政治学』 その前段階として︑ランシエールの美学理論における政治と芸術の関係を理解するために︑クレア・ビショッ 1を主に参照し考察することを目的としている︒Nicolas Bourriaud, 1965-
えたと言われているのがニコラ・ブリオー()の著作『関係性の美学』 レーショナル・アート批判を展開している︒この参加型アートおよびリレーショナル・アートに理論的地平を与 著作の特に第一章で︑一九九〇年代以降の現代アートにおいて大きな動向の一つとなった参加型アートおよびリ 2を取り上げる︒ビショップはこのそしてこのビショップによる「関係性の美学」批判において繰り返し言及されるのがランシエールの美学理論 うよりは︑もっと厳密に言うと「関係性の美学」批判であると言うことができるであろう︒ 中で提示されている「関係性の美学」という主張である︒つまりビショップの議論は「参加型アート」批判とい 3であり︑その
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である︒そこで本論は︑まず第一節︑第二節でビショップによる「関係性の美学」批判を概観し︑「関係性の美学」から帰結される芸術の社会化と政治化の問題点を考察する︒続く第三節で「感性的なものの分割=共有」という概念を中心にランシエールの美学理論および美学=政治論について考察する︒
第一節 関係性の美学 ブリオーの『関係性の美学』は一九九〇年代の現代美術の動向を概観するものとして今日においても非常に重要な著作として位置づけられている︒後述するクレア・ビショップの著作に代表されるような批判も勿論存在するが︑「関係性の美学」という言葉自体は︑「リレーショナル・アート」という言葉とともにブリオーの著作から離れて人口に膾炙し︑芸術と社会や政治︑そして政治と美的なものの関係を語る上で︑今日において既に重要な位置を占めていることは否定できない︒ブリオーが名前を上げる数多くの作家は︑グリーンバーグ的な絵画の自律性やモダニズム絵画とは全く異質な方向性において作品制作を行っている︒彼らの作品において重要なのは作品の自律性ではなく︑むしろ逆に芸術と社会︑芸術と政治︑作者と鑑賞者のあいだの関係性や相互作用性である︒例えばブリオーが「関係性の美学」の典型例と考えている作家の一人リクリット・ティラバーニャ(
Rirkrit Tiravanija, 1961-
)の『無題(静止)untitled
(still
)』(一九九二)は︑一般に所謂「美術品」として想像される絵画や彫刻作品ではなく︑インスタレーション作品ないしパフォーマンス作品である︒タイに出自のルーツを持つティラバーニャは︑滞在制作中のギャラリーや美術館を訪れた人にその場で作った焼きそばやカレーを振る舞うというパフォーマンスを行った︒ティラバーニャは日常生活空間からは区別されたホワイトキューヴとしての美五七 術館︑芸術という権威に裏付けされた美術館ないしギャラリー空間に︑われわれの生活や日常そして「生きられた経験」を越境的に持ち込んだのである︒ブリオーはリレーショナル・アートの理論的地平について次のように述べている︒
独立した私的な象徴的空間の主張ではなく︑むしろ人間同士の相互作用そしてその社会的文脈という領域を理論的な地平とする︒
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すなわち︑リレーショナル・アートが成立する上で重要な条件は︑その作品が作家個人のプライヴェートな主張や観念の表出であると同時に︑歴史や社会的文脈から独立した自律性を備えていることではなく︑むしろ作品を媒介として出会う複数の人間相互の関係性が作品に影響を与え︑そしてその影響下で生成しつつある作品が今度は観客に影響を与える相互作用の存在なのである︒そこでは各々の人間が背景とする歴史や人種︑宗教などの社会的文脈も必然的に作品の要素となる︒作品の成立プロセスに社会的文脈を導入することで︑これまで美学が人種やジェンダー︑階級や不平等の問題を隠蔽してきたことを「関係性の美学」は告発する︒「関係性の美学」において政治的なものに接続されることによって︑もはや芸術は単なる表象の戯れやフィクション(虚構)ではなく︑「政治化した芸術」として現実社会の中に居場所を確保することになるのである︒
第二節 クレア・ビショップによる「関係性の美学」批判
ビショップが批判するのはまさにこの芸術の政治化である︒「関係性の美学」から帰結する芸術の政治化︑芸
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術の「社会的転回」
5そして「倫理的転回」
6こそが問題なのである︒
(参加型アートという)動向では︑比較対象としてふさわしい社会的実践に眼は向けられず︑倫理的に一歩抜きん出ていること―アーティストが提示する協働のモデルが良いか悪いかという度合い―を基準として︑アーティストのプロジェクトは終始ほかのアーティスト達と比べられる︒
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ビショップが危惧するのは︑参加型アートにおいては倫理的な良し悪しが他の価値評価基準よりも優先されるという事態である︒すなわち︑ポリティカルな視点︑人びとの出会いと参加そして協働という要素がどれだけ作品に含まれているかが芸術作品の価値を決定し︑それ以外の例えば作品としての完成度や美的強度についての批評がもはや重要ではなくなることをビショップは危惧しているのである︒ビショップは参加型アートに参加する人々の善意を否定するつもりはないと断りつつも︑以上のようにその問題点を指摘する︒確かに「関係性の美学」や参加型アートは︑それまでの芸術や美学をとりまく既成価値を捉え直す批判的視点を提示し得る︒しかしそれは同時に「倫理的な教条性という一般化された状況」
へと陥ってしまう危険性と紙一重なのである︒8
芸術は撹乱的な単独行為の創出ではなく︑有益かつ改善的で︑最終的には謙虚な身振りとなる︑そうしたものに変化するのだ︒
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ただし︑ビショップは社会的な作品の存在そのものを否定しているのではない︒しかしそれは社会にとって有益な視点を与えうるか︑状況に対して善い方向性を示しうるかといった「政治的な正しさ」に基づく倫理的判断
五九 及び選択に従うのではなく︑あくまで個人の欲求に従って︑社会的現実下の抑圧や排除︑不快さや矛盾を表出するものでなくてはならない︒そこでは人々の「協働」ではなく︑むしろ「敵対」
主題となる場合もあり得るのである︒ 10という緊張を孕んだ関係性が 第三節 感性的なものの分割
=
共有ビショップによれば「関係性の美学」から帰結する「倫理的転回」の問題点は︑厳密には芸術と政治が倫理的判断に従属することではなく︑芸術と政治が結びついた新たな形式の規律体制を生み出すことにある︒ビショップが自身の主張を基礎付けるために参照するのがランシエールの美学=政治論である︒以下では︑ランシエールの美学=政治論を︑特に「感性的なものの分割=共有」という概念に着目して考察を進めていく︒政治と美学はどのような関係にあるのか︒ランシエールによれば政治と美学の関係性は互いに自律した二項の間に発生する関係性ではない︒美学は常に既に政治の根底に存在している︒
政治の根幹には一つの「美学=感性論
esthétique
」があり︑それはベンヤミンが語るような「大衆の時代」に固有な例の「政治の美学化」とは何の関係もない︒(・・・)類比にこだわるなら︑それをカント的な意味―あるいはフーコーによって捉え直された意味で―感じ取るべく与えられたものを規定するアプリオリな諸形式の体系として理解することができる︒それは時間と空間︑見えるものと見えないもの︑言葉と騒音の裁断であり︑それが経験の形式としての政治の場と賭け金を同時に定めている︒政治が対象とするのは︑何が見て取られ︑またそれについて何が言われ得るのか︑そして誰が見るための能力=権限と語るための資質六〇
=資格を持っているのかであり︑諸々の空間が有する固有性と時間における諸々の可能性である︒
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バウムガルテン(
A.G. Baumgarten,1714-1762
)によって体系化された「美学=
感性学Aesthetica
」が︑ギリシア語で感覚的知覚を意味する「感性Aisthesis
」という語に起源をもち︑文字通り「感性についての学」であることを想起する必要がある︒ランシエールの「美学=感性論」とは︑したがって何らかの芸術理論や芸術美についての言説というよりは︑あくまでも身体的/感覚的な次元に根ざした学を意味している︒つまり政治の根底に美学が存在するというランシエールの主張は︑芸術美についての諸理論ではなく︑あくまで感性についての学としての「美学=感性論」が政治の根底に存在するという意味で理解されなければならない︒しかし次に問題となるのは︑そうしたわれわれの身体的な次元・感性的な次元としての「感性的なもの」が分割=共有されているということの意味である︒ランシエールによれば︑この「感性的なものの分有=
共有」とは︑共同体内部における「居場所と分前」=
可視化しているものが「感性的なものの分割共有」なのである︒ 同体構成員が各々どのように「居場所と分前」を所有することができるかを定めると同時に︑そのような区分を れ︑各人が「分前」として所有している事態そのものを意味している︒すなわち︑或る共同体において︑その共 12を決定するものであると同時に︑まさにその「居場所」が分割さ感性的なものの分割=共有は︑共有された共同なものと独占的な分け前を同時に定めるのである︒
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各個人の「居場所と分け前」は︑単に空間的なものだけを意味しているのではない︒各々は自身の分け前として空間だけではなく時間や活動形式もまた所有している︒このことについてランシエールは『政治学』第一巻冒
六一 頭において人間を「政治的動物」と定義したアリストテレスを例に次のように述べる︒
アリストテレスによれば︑市民とは支配することと支配されることに関与する(
a part
)ものである︒しかし︑もう一つの分割=共有形態が︑この関与に先立っている︒それはつまり︑その事柄に関する者たちを規定する分割=共有である︒言葉を話す動物は政治的動物であるとアリストテレスは言う︒しかし︑奴隷はたとえ言語を理解しようとも︑それを「所有」してはいないのである︒14
ポリスという共同体を構成する市民は︑支配すること/支配されることに関与している︒ここでの「関与」とは︑市民が「支配関係」を分割
=
共有しているということを意味している︒ポリスにおいて︑「感性的なものの分割=
共有」の体系に与しているのは市民︑もっと厳密に言うならば政治的人間としての市民である︒そしてアリストテレスの定義によれば︑政治的動物としての市民とは「言葉を話す動物」︑言葉を「所有」する動物にほかならない︒政治的動物としての市民は言語を所有する存在として共同体における支配・被支配に関与し︑「支配関係」を分割=
共有している︒しかし︑言語を所有する者のあいだのこうした分割=共有は︑すでに別の分割=共有形態に先立たれているとランシエールは言う︒すなわち︑人間が政治的動物として存在すること︑さらには政治そのものが可能となる前提としてのもう一つの分割=共有が存在するのである︒ランシエールは人間を政治的動物たらしめる分割=共有のモデルを︑職人がポリスという共同的政治空間に参入することを認めなかったプラトンの国家=政治論に見出す︒六二
職人は共同の事業に携わることはできない︒なぜなら彼らは自分たちの仕事以外のことに献身する時間がないからである︒仕事は待ってくれないので︑彼らは他所にいることができない︒感性的なものの分割=共有は︑誰が共同のものの分け前に与ることができるかを︑その者が行っていること︑そしてこの活動が行使される時間と空間に応じて目に見えるようにするのである︒
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すなわち︑職人には従事すべき仕事があるので︑彼らは持ち場を離れて自分たちの仕事以外のことに時間を使うことができないのである︒各々の職人たちは自身の従事すべき仕事のために特定の「場」にいることを課せられ︑仕事の場から離れた他所の場に―政治的な空間に―いることはできないが故に︑職人たちは政治空間から時間的・空間的に排除されている︒このことは身体的/感性的な次元における政治空間からの排除と言い換えることもできるであろう︒こうした排除の構造はアリストテレスにおいてもほぼ同様である︒「奴隷はたとえ言語を理解しようとも︑それを『所有』してはいない」と述べられていたように︑たとえ主人の口から発せられた命令を理解し従うとしても︑奴隷は言語を所有する者とは見做されない︒奴隷は言語を理解するという意味では言語を「共有」しているにもかかわらず︑それを「分け前」としては「所有」していないが故に︑つまり言語活動という活動形式を分割・所有し得ないが故に市民から区別される︒言語を所有する市民が「政治的動物」であるとするならば︑言語を所有しない奴隷は「動物」として共同体すなわち政治の空間から排除されるのである︒奴隷たちの発する声や言葉は︑言語とみなされることなく「動物」の発する騒音として処理されるであろう︒ランシエールが「感性的なものの分割
=
共有」に先立つもう一つの分割=共有形態と呼ぶものは︑「話す/聞く」といったことに典型的に示される身体的・感性的次元における排除と不平等性によって成立しているのである︒六三 このような排除と不平等性に根ざした「感性的なものの分割
=
共有」を基礎とする政治的空間︑時間と空間の諸形式の批判的問い直し︑「『感性的なものの分割』の自明の秩序を中断する」芸術的実践のうちに見出すのである︒ の「分割=共有」によって成立する政治的秩序︑時間空間的秩序︑身体的/感性的秩序への抵抗と批判的能力を
=
の秩序を根底において支える「分割共有」の形式と排除と不平等の構造を明らかにする︒ランシエールはこ=
あり︑両者は切り離し得ない︒「感性的なものの分割共有」をめぐるランシエールの議論は︑政治的空間とそ が前提として存在している︒しかし︑既に述べたように︑ランシエールにとって美学は政治の根底をなすもので を安易な二項対立で捉えた結果として生じたものであり︑そこには芸術(虚構)と政治(現実)の分割と二分法 の提起する「関係性の美学」から導き出される「芸術/美学の政治化」は芸術的実践と政治的実践︑美学と政治 するとランシエールは言う︒それが芸術的実践なのである︒ランシエールの美学=政治論においては︑ブリオー 16ことを可能にするものが存在結論
ランシエールにおいて政治と美学は二元論的な関係ではなく︑むしろ政治の根底には美学が―「美学=感性論」としての美学が―存在している︒そして「感性的なもの」をめぐる考察からランシエールが導き出したのは︑政治的秩序︑時間空間的秩序︑身体的/感性的秩序を規定する「感性的なものの分割=共有」である︒それは排除と不平等の構造によって政治空間を成立させる︒しかし︑この排除と不平等によって構造化された秩序を問い直し︑中断させるものが存在する︒ランシエールにとって︑それこそがまさに芸術的実践なのである︒本論は「関係性の美学」批判そして「感性的なものの分割=共有」をめぐってビショップとランシエールの議
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論を接続するかたちで論じてきたが︑両者の議論の差異やブリオー側からのランシエールに対する反論
て論じることができなかった︒これらの問題については稿を改めて考察する必要がある︒ 17につい
注
1Jacques Ranciére, Le partage du sensible, La Fabrique, 2000(翻訳『感性的なもののパルタージュ』梶田裕訳︑法政大学出版局︑二〇〇九年)
以下︑外国語文献からの引用は原書から訳出したが︑翻訳があるものについては適宜翻訳も参考にした︒原書ページ数のあとの括弧内には翻訳書における頁数を示す︒2Claire Bishop, Artificial Hells: Participatory Art and the Politics of Spectatorship, Verso,2012 (翻訳『人工地獄現代アートと観客の政治学』大森俊勝訳︑フィルムアート社︑二〇一六年)3Nicolas Bourriaud, Relational Aesthetics, Les Presse Du Reel, 19984ibid., p.145Claire Bishop, Artificial Hells: Participatory Art and the Politics of Spectatorship, Verso,2012, p.3 (14)6ibid., p.18 (40)7ibid., p.19 (42) 括弧内は著者による補足︒8ibid., p.19 (47)9ibid., p.19 (47) OCTOBER 110, Fall 2004”05(翻訳「敵対と関係性の美学」星野太訳︑表象︑月曜社︑二〇一一年)という論考がある︒ 10”Antagonism and Relational Aesthetics, in ビショップには上掲書とは別にやはりブリオーの「関係性の美学」批判を論じた 11Jacques Ranciére, Le partage du sensible, La Fabrique, 2000,pp.13-14(pp.9-10) 12ibid., p.12 (p.6) 13ibid., p.12 (p.6)
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14ibid., p.12 (p.7) 15ibid., p.13 (p.7)
︿ 16田中均「芸術における『解放』とは何か――ジャック・ランシエールの美学理論における芸術と政治」(『批評理論と社会理論 ()p.271﹀アイステーシス叢書・アレテイア』︑二〇一一年︑御茶の水書房所収)
アートブックス︑二〇一三年所収)を参照︒ 17Contemporary Art Theoryこれらの点については前掲田中論文のほか︑星野太「ブリオー×ランシエール論争を読む」(『』︑イオス