はじめに 食 じき行 ぎょう身 み禄 ろく︵一六七一︱一七三三︶は︑角行系富士信仰に属する行者で︑開山と呼ばれる祖・角 かく行 ぎょう藤 とう仏 ぶつ︵一五四一︱
一六四六︶から数えて五世代目にあたる︒食行は享保十八年︵一七三三︶に富士山にて自死した人として知られてい
る︒本稿は︑将軍や天皇へのメッセージであり︑そして自死を予告した︑﹃添書﹄と呼ばれる無題の著作を通して︑
自死の理由を論じようとするものである︒ 論文要旨﹀ 食行身禄︵一六七一︱一七三三︶は角行系富士信仰五世代目の行者である︒富士山で自死を遂げるまで彼には三点の著作があり︑本稿は最後の﹃添書﹄とよばれる無題の著作に関する考察である︒﹃添書﹄は享保十八年︵一七三三︶正月に書かれたと考えられる︒﹃添書﹄の目的は天子と将軍へのメッセージ︑そして食行の自死予告である︒十七歳から師・月行の富士信仰を行ってきた食行は︑同時に師の得た新しい時代﹁身禄の世﹂の継承者でもあった︒食行は著作を通して師の神話や歴史説を自らのものとしていくが︑それは同時に︑深化する宗教観に対して何も神威の顕現が起きない現実と不満だらけの庶民生活に焦燥感を募らせていくことに他ならなかった︒そのようなことを考慮しつつ︑難解で整ったテキストも無い﹃添書﹄を不完全な自筆本や複数の写本から読み解き︑食行の自死へ至る主張がどのようなものか論じていきたいと思う︒キーワード﹀ 食行身禄︑富士信仰︑富士講︑不二道
『宗教研究』92巻3輯(2018年)
食 行 身 禄 の ﹃ 添 書 ﹄ を め ぐ っ て
││ 彼が富士山で自死した理由 ││
大 谷 正 幸
私が角行系富士信仰と呼ぶ一派は角行によって始められた︒この一派は神道・仏教・修験道といった既存の宗教
から単語や概念を取り入れて自らの宗教世界を装飾していたものの︑本質的にはそれらのいずれにも属さない︑角行によって創始された創唱宗教であるといい得る︒彼らは自ら作った文字や単純な描線を組み合わせて富士山を表
象したものを護符とし︑また日本語ではあるが意味の取れない唱えごとや神名を案出して実践した︒食行は三世代
目の心 がんしん︵一六〇五?︱一六七一︶から分派した月 げつぎょうそうじゅう行︵一六四三︱一七一七︶の弟子ではあるが︑筆頭の弟子ではなく︑また月行の実子も行者だったことから序列としては後ろの方になる︒
彼らは既存の宗教に属さない以上︑当時の宗教行政に組み込まれなかった︒人穴や白糸の滝︵いずれも静岡県富
士宮市︶を修行の拠点とした角行を除けば︑多くは江戸の町人として日常を過ごした︒教団や講を組むこともな
く︑行者本人の周囲には場面によって信徒や弟子になり得る知人や家族がいたのみである︒兄弟弟子すらも独立すれば没交渉だったらしく︑むしろ無視を以て接していたらしい︒食行没後︑十八世紀の中頃ごろから﹁富士講﹂と
して知られる集団が江戸に現れて郊外へ広まっていくが︑本稿が主に扱う享保年間︵一七一六︱一七三六︶では江戸
にそのようなものは存在しない︒
食行も︑伊勢の山村で農家の三男として産まれ︑十三歳で江戸の親類がいる商家に奉公へ出されて︑十七歳で月
行の弟子となった︒行者・食行身禄ではない︑町人としての小林某︵下の名前は諸説あるが明らかではない︒また
晩年には伊藤伊兵衛なる偽名を名乗った︶は︑四十歳前後で奉公を辞してから︑六三歳で自死するまで住居の周囲を行商する軽商人として過ごしていたと思われる︒
食行には︑﹁此かきもの弐本とこのうた一札︵一冊︶此三とおり﹂と郷里への書簡に書いたように︑三点の著作
食行身禄の『添書』をめぐって
があった︒師・月行から受け継いだ世界観を敷衍した享保十三年︵一七二八︶の﹃一字不説お開き身ろく之訳お書置申候﹄︵以下﹃一字﹄︶︑享保十六年頃の信仰生活を述べ自詠の歌集を合わせた﹃食行身禄 くう一切の決 けつ定 じょう讀哥﹄︵以
下﹃決定﹄︶︑そして本稿で取り上げる無題の著作である︒無題の著作は︑この書簡が書かれた享保十八年二月以前
かつ江戸で打ちこわしが起きた前後︑即ち同年正月ごろに成立したと推測される︒
この最後の著作は先の書簡と同梱されるにあたり﹁天子天日に三こくゑ御傳ゑの御かゝミの御かきもの﹂と表現
された︒しかし︑特定のタイトルを自身に持っていなかったことは現存する自筆本や︑他の自筆本を書写したと考
えられる後世の写本の悉くが無題だったことから確実である︒後世︑食行を﹁元祖﹂と仰ぐ角行系の徒はこの著作
を﹃添書﹄と呼んだ︒例えば富士講にて作られた教義メモ集成﹃小泉文六郎覚書﹄は︑﹁△天子天日ゑの御巻物之事﹂として﹁御巻物壱巻 添書御巻物壱巻 決定七十二首御歌壱冊︵後略︶﹂と食行の著作三種を挙げている 1︒こ
こでいう﹁御巻物壱巻﹂は﹃一字﹄︑﹁決定七十二首御歌﹂は﹃決定﹄をそれぞれ指しており︑つまりこの教義メモ
の作者は﹃添書﹄を﹃一字﹄に添えられたもの︑いわば﹃一字﹄のサブテキストとして認識していたようである︒現代の研究においても︑﹁したがって両者の内容は︑﹃一字不説の巻﹄の神話的部分︑﹃お添書の巻﹄の武家政治糺
弾の部分を除くと︑身禄が説く所は二著ほぼ同じである 2﹂といわれ︑そのような認識の延長上にある︒あくまで便
宜的に︑本稿でもこの無題の著作を﹃添書﹄と呼ぶことにしたいのであるが︑しかし﹃添書﹄の内容を吟味する限り︑この著作を﹃一字﹄の附録文書のようにとらえることは適切ではない︒
食行の著作三点は︑それぞれに彼の思想上の変遷を如実に映し出している︒﹃一字﹄は︑月行が元禄元年︵一六八
八︶六月十五日︑修行中に神から得た﹁身禄の世﹂なる歴史説や神話を受け継いで︑彼なりに神々による世界の創
造から説き始めて神代﹁身禄の御世﹂が如何なるものかを叙述している 3︒﹃一字﹄が執筆された時点では︑神代が
﹁月行同行﹂︑即ち師の門下に託されたものとされており︑そこに食行本人が単独で何かをするという意識を強く見て取ることはできなかった︒
続く﹃決定﹄では︑自らや近親者の詠む和歌と︑食行が数え六十歳を迎えた享保十五年から翌年の近況が描かれ ている 4︒享保二年に月行が没して久しく︑食行は師の遺説を継ぐ単独の行者として自覚を持ったようである︒なお︑食行も︑他の角行系の行者たちがそうだったように︑兄弟弟子とはやはり全く没交渉だったらしい︒よって︑食行
の著作においても兄弟子たちの存在は最初から無視されており︑あたかも月行と食行二人だけが信仰の体験を共有
しているように説明される︒ともかく︑こうした師の影響からの脱却と転回を示すものが享保十五年の禅定︵近世
まで富士山に登ることは修行や参詣を目的とすることが建前だったために﹁禅定﹂と呼ばれた︶であり︑次いで松野屋善兵衛なる面識もない老商人が自身の宗教的な悩みを解決すべく彼を訪ねてきた出来事︑そして翌年の禅定
﹁一切の決定﹂である︒
月行は︑神告を得たその時から﹁身禄の世﹂が始まったことについて︑朝廷から彼にお尋ねが来るものだと考えていた︒しかし︑現実にはそうならなかったので︑元禄十二年から三年続けて正月になると京の関白邸へ出向き︑
﹁身禄の世﹂を取り上げてくれるよう請願したが︑いずれも門前払いに終わってしまった︒食行もそうしたお尋ね
が朝廷から来ることを期待していたものの︑彼を訪ねてきたのは善兵衛だった︒善兵衛は﹁月や太陽がなぜありがたい︵とされる︶のか﹂という疑問を兼々持っていたが︑智者上人の類に尋ねてみても答えは得られなかった︒そ
こで民間の富士行者である食行を訪ねたということらしいのだが︑食行はこれを﹁下︵庶民︶より身禄の御世のこ
食行身禄の『添書』をめぐって
とを尋ねてきた﹂と解して喜んだ︒月行が終生果たせなかったことを自身が果たした︑と考えたようである︒
そして︑翌十六年の禅定を﹁一切の決定﹂と名付けて意気込み︑富士山中の役人たちや水売りといった当地の者
たちに書写した﹃一字﹄を与えて自説を披露した︒下山したその夜︑登山口にある下浅間︵現・北口本宮冨士浅間神
社︶の仁王門の前にて荒薦を敷いて座っていたところ︑﹁御山の一切の役人とも﹂と称される富士山の精霊たちが来て︑仁王門に立てた﹁身禄の御世﹂を宣言する高札に対して尋ねたという︒食行は﹁我かいふことばか仙元大菩
薩様の御ことば︵中略︶生あるほどのものわこゝろをろくにしてたゝひとすしに南無仙元大菩薩さまの御世の御ひ
ろまり候やうに﹂として彼らを承服させた︒﹃決定﹄からこのような幻想的な記述が見られるようになり︑﹃添書﹄
ではその傾向がより強くなる︒
﹃添書﹄が﹃一字﹄や﹃決定﹄と大きく違うところは︑賤民身分や幕府要人︑豪商・三井家への中傷と暴言に満
ちていることである︒それらの読むに耐えない誹謗は︑無教養な庶民である彼が若年から行ってきた富士信仰に︑
幼稚で偏った社会的知識が混ぜられた結果の所産である︒その点で﹃添書﹄は食行の信仰人生の集大成と言えるかもしれないが︑決して美しく洗練されたものではない︒人権を尊重する現代社会に生活する私はもとより食行の思
想を支持するものではなく︑誰彼かまわず口汚く罵倒して已まないその人格を︑本稿を通して肯定的にとらえる意
志が無いことを読者にお断りせざるを得ない︒
それでも﹃添書﹄が読まれなければならない理由は︑ひとえに彼の自死を契機に︑残された近親者たちが彼の遺
品を利用した独特なる富士信仰を開発したこと︑それがいわゆる︵角行系の︶富士講として近世半ばから近代にか
けて盛んに行われたという︑その後の歴史的展開にある︒しかし︑﹃添書﹄を読む限り︑食行本人としては富士山
へ死にに行ったという自覚は無く︑彼の言うことが正しければ︑二一世紀の現在においても神・南無仙元大菩薩様
の使いとして今も悪人を懲罰していることになる︒食行が末世の衆生を済度するため富士山にて自死したと喧伝する後世の人たちの都合と︑食行本人の主張との乖離を﹃添書﹄によって知ることは︑近世の富士信仰を理解するた
めに有益であろう︒
﹃添書﹄の諸本
食行は自著を複数書き写して親類や縁者に与えていた︒﹃一字﹄であれば十数本を書写していたといい︑﹃一字﹄
自筆写本は二本が現存している︒また一本︑昭和初期に製作されたと考えられる模写本があり︑模写の対象とした
自筆本は内容の構成から上記二本のいずれでもなく所在は不明である︒また︑他に﹃一字﹄末尾と考えられる断簡がある︒﹃決定﹄については︑残っている完本は一冊であるが︑別に食行次女のおまんが古筆切のように分割して
富士講信徒に譲渡した自筆本からの断簡が三点知られている︒この他に︑料紙数枚程度の短い無題文書が三点︑書
きかけも含めて書簡が四通︑お身抜︵角行系で用いられる神号を並べて富士山を表象したもの︶が二点︑﹁一切の決定﹂時に掲出したとされる高札一枚があり︑角行系の行者の中では比較的多く自筆が残っていると言える︒
﹃添書﹄の自筆本は一点︵ふじさんミュージアム所蔵︶だけが不完全ながら現存している︒﹁不完全﹂とは︑中間
と︑奥書直前の三首分︵﹃添書﹄の末尾には五首の和歌がある︶を書いた料紙が脱落した状態で巻子本として装丁されているという意味である︒三首分の料紙は一枚として︑中間部分の脱落した枚数は不明だが︑二千五百字程度︑
全体の約四分の一が失われている︒本文は半紙の長辺︵一尺一寸弱︶を予め継いだものに書かれている︒料紙一枚
食行身禄の『添書』をめぐって
の短辺は長さが不揃いで︑執筆前から縦に折れていたとみられる箇所や︑前後を逆に巻かれていたのか︑巻末に奥へ行くほど大きくなる虫損があり︑製作の前後を通じて粗雑な扱いを受けていたように想像される︒題簽﹁神徳御
寶典﹂︵墨書︶は汚れ具合から現在の表装以前のものと思われる︒巻頭にお身抜が書かれており︑そこに﹁頂上枎
桑教會之印﹂︑﹁枎桑教天拜所﹂︑﹁富士神璽﹂の朱印三種が押されているところから︑富士山中のそれらの施設を利用できる扶桑教傘下の富士講または御師が旧蔵していたと知られる 5︒
自筆だけにテキストとしての信頼性は高いはずであるが︑後世の写本と比較すると︑同じ語句が近くに現れたた
めに眼移りを起こして写し飛ばしてしまった行や︑﹁これよりしてわ﹂と写すべきところを﹁これしてわ﹂と書い
てしまったような写誤 6がある︒また別人によるルビや修正の加筆があり︑その点でも使用には注意が必要になる︒ 後世の富士講では食行を﹁元祖﹂として尊崇するにもかかわらず︑﹃添書﹄を書写することがなかった︒知る限
り︑富士講による写本は埼玉県川口市地域にあった月三講の先達・安藤与左衛門が書写したものがあるのみだが前
半しか残存していない 7︒私が調べ得た完全な﹃添書﹄写本は︑以下に挙げるように全て不二道の信徒によるものである︒
一︑小林家写本︒恵 え行 ぎょう三 さん向 こう︵中村久左衛門︶︑文化十五年︵一八一八︶写︒三重県所蔵 8︒ 不二道の創始者である禄 ろく行 ぎょう三 さん志 し︵小 こ谷 だに庄 しょう兵 べ衛 え︑一七六五︱一八四二︶が伊勢の食行生家︵食行の本名は小林某︶を訪問した際︑同行の信徒たちに生家へ送られていた自筆本から書写させて残したもの︵底本は所在不明︶︒自
筆本・他の写本と比較して唯一︑文の脱漏が全く無い︒ただし語句や文字のレベルでは脱漏や衍字が多く見られ
る︒
二︑霜田家禄行写本︒禄行三志︑文化十年︵一八一三︶写︒川口市立文化財センター郷土資料館所蔵 9︒ 埼玉県指定文化財︒禄行の側近だった霜田家に伝わったもの︒小林家写本よりも古く︑また奥書に﹁右一巻ハ勢州小林氏より写し申請置もの也﹂とあるが︑目移りによる行の脱漏があるほか写誤も多く︑比較的信頼性が低
い︒
三︑霜田家三次郎写本︒霜田三次郎︑嘉永四年︵一八五一︶写︒川口市立文化財センター郷土資料館所蔵 A︒ 川口市指定文化財︒﹃一字﹄と﹃御誕生の巻﹄との都合三種の写本を収録する︒文政十一年︵一八二八︶に禄行 の側近・飯 はん行 ぎょう三 さん二 じ︵飯島万次郎︶が︑禄行の師・参行六王︵?︱一八〇九︶が所持していた写本から弟弟子・梥 しょう
行 ぎょう三 さん金 きん︵霜田新兵衛︶に与えた写本を︑さらに新兵衛の子・三次郎が写したもの︒二ほどではないが文の脱漏 がある︒飯行の写本は現在も霜田家が所有しており︑さいたま市指定文化財 Bである︒この飯行写本からは唯一︑伏字の一切ない翻刻がつくられたが C︑この翻刻にも誤読や行単位の翻じ飛ばしがある︒
四︑国文研写本︒写者不詳︑幕末期の写か︒国文学研究資料館所蔵︒
食行から参 さん行 ぎょう六 ろく王 おうに至る禄行以前の不二道行者の著作を収集した﹃食行身禄伝﹄︵国文研による呼称で現物は無題︶のうち二冊目に収録されている D︒上記の写本に比べて一に次いで文の脱漏が少ないけれども︑食行の特徴
ある仮名遣いが写者のものに改められてしまっている︒所蔵者によって影印がインターネット上で公開されてお
り︑アクセスが最も簡便である E︒ これら写本四種の来歴をまとめると︑一と二が自筆本から直接書写したもの︑三が自筆本︵?︶︱参行︱飯行︱三
次郎と写したもの︑四が書写経路不明となる︒一と二が参照した自筆本の所在は不明である︒現存自筆本の冒頭に
食行身禄の『添書』をめぐって
あるお身抜が無い点︑語句や文の脱漏が反映されていない点︑そして旧蔵者の属性を考えるとこれから写したものとも考えられない︒ふじさんミュージアム所蔵本と合わせて﹃添書﹄自筆本が少なくとも二種類以上あったことは
証明されるが︑改めて惜しまれるのは完全な自筆本が無いことである︒現状では自筆本・写本合わせてどれ一つ取
っても単独で使用できる質に無い︒本稿では︑自筆本と小林家写本を主として︑新たに用意した翻刻から本文を引用したい F︒
﹃添書﹄の研究史
﹃添書﹄には賤民身分などへの激しい罵倒が含まれている︒食行は江戸町人としては行商にて生活する軽商人で
あり︑決して裕福とは言えなかった︒その彼からして︑公儀が賤民身分に施策することは許せなかったらしく﹃添
書﹄では口を極めて痛罵した︒
富士信仰研究史上︑このような表現が頻出する﹃添書﹄は敬遠されるか︑またそのような記述自体が初めから無かったかのように扱われた︒﹃添書﹄は︑鳩ヶ谷市文化財保護委員会編﹃不二道基本文献集﹄︵﹃鳩ヶ谷市の古文書﹄第
四集︑鳩ヶ谷市教育委員会︑一九七八年︶にて︑初めて翻刻された︒この史料集に含まれる文書は当地の郷土史家で不
二道の研究家だった岡田博が全て翻刻し︑﹃添書﹄は二と三を底本にしている︒岡田は﹃添書﹄にある罵倒を巧妙に改竄した︒例えば︑三の一節にこうある︵強調と中略は大谷による︶︒
その上に天子の我か身の役目おもしらずこぢきゑつたどもにてもいろ〳〵にこしらゑ金銀おもつて諸くわんろ
くおそれ〳〵にとらせ︵中略︶諸しよく人諸商人とふのはらいとふもいたさすたミおいためまゑしりのあく生
の事にばかり天子天日お初めとしておもてむきのミちはかりけつこうにミせて︵中略︶したのものわすこしの
ことにもあらためとかにおとしゑつたこちづきのまえしりのことに金銀おばかしとられ
しかし︑岡田は三の同じ箇所を以下のように翻じている︒
その上に天子の我身の役目おもしらず︑何にてもいろ〳〵にこしらゑ︑金銀おもって諸くわんろくおそれ〴〵
にとらせ︵中略︶諸しよく人︑諸商人とふのはらいもいたさず︑たみおいため︑まゑしりのあく生の事にばかり︑天子天日お初めとして︑おもてむきのみちはかりけっこうにみせて︵中略︶したのものはすこしのことに
もあらため︑とがにおとし︑まえじりのことに金銀おばかしとられ G 次に﹃添書﹄は岩科小一郎﹃富士講の歴史﹄︵名著出版︑一九八三年︶にて翻刻された︒この底本は自筆本と一であ るが︑岩科は﹁こぢきえ□﹂﹁ゑ□こちづき﹂﹁ゑつ□こちづき H﹂として賤民身分を示す語句を伏字にした︒また︑三井家に対する中傷を﹁巻末に﹁駿河町えちごや﹂の主人三井家の初代について︑卑賤の身でありながら権門に取
り入り︑かなり非道なおこないをして出世したことを述べている個所があるが︑それが事実であったとしても︑誹
誇のそしりをうけかねないから省略した﹂として︑﹁駿河町のゑちごやと申者は いせ松坂のわきの□□□□にて
︵以下百七十字省略 I︶﹂と伏字交じりに削除した︒ 岡田や岩科がこのような翻刻を公刊した昭和時代後期は︑部落差別への糾弾が激しく行われた時代でもあり︑彼
ら研究家たちや出版者が﹁誹誇のそしり﹂としてそれらを大いに恐怖していたことは想像に難くない︒しかし︑食行の六道輪廻説を借りた神話的世界観は︑現実の身分階層を反映して四民のみを人間とする︒賤民身分と博徒は餓
鬼道・畜生道・修羅道に比定され︑人間として扱われていない︒彼らを積極的に忌み嫌っている食行は﹁四民に入
食行身禄の『添書』をめぐって
れ﹂と著作を通じて言い続けている︒
結果として︑賤民身分への伏字や表現の改竄は食行の研究を阻害してしまった︒例えば不二道を研究した宮崎
︵梅澤︶ふみ子は︑食行の思想を語る根拠として専ら﹃不二道基本文献集﹄を利用した︒彼女は﹃添書﹄を引用して
このように言う︒ただし身禄は︑世が変わっても社会構造が変わるとはまったく考えずに︑﹁みろくの世﹂でも天皇・将軍と四
民が社会を構成すると考えていた︒︵大谷注︑中略︑この間に﹃添書﹄の引用を二か所はさむ︶つまり︑身分の低い者
の意見を尊重すること︑すべての衆生の繁栄を目的とすること︑具体的には金銀はじめあらゆる物資をすべて
の衆生に行き渡らせ︑交通や流通の障害をなくすことを提言している J︒ 食行が主張する社会構造は当時の社会そのものでもあるので当然︑賤民身分が含まれる︒その賤民身分が無かっ
たことにされたテキストを使う限り︑確かに﹁身分の低い者﹂は四民でしかないが︑食行において天子・将軍・四
民だけが﹁すべての衆生﹂ではないことは明らかである︒二一世紀の現代においても︑こうして不正な翻刻テキストが歪んだ食行像を提供し続け︑歪んだ食行研究が生産されていることを我々は悲しむべきであろう︒
これらとは別に︑テキストが全く異なる例がある︒田邉功﹃冨士信仰略志﹄︵田邉功︑一九九三年︶には﹁食行身禄
の御添書﹂として﹃小泉文六郎覚書﹄の一部が収録されている︒
﹃添書﹄の梗概
﹃添書﹄の文章は大きく︑前後の二つに分けられる︒この境目では諸写本とも︑行間を大きく取るか余白ができ
ても料紙を改めている︒自筆本では料紙の脱落をはさんで後半が始められており︑むしろ前半の後ろ半分が脱落し
ているといい得る︒後半の冒頭︑﹁南無仙元大菩薩様の此度天子天日ゑ御傳ゑ置候御事﹂とある一文をタイトルと考えることもでき︑そうであれば﹃添書﹄が無題の前半とそのようなタイトルを持つ後半との二つの長文より成る
と解することもできる︒
﹃添書﹄の分科を以下に試みよう︒現状で最も欠落が無い小林家写本によれば︑﹃添書﹄は都合八二の文からなっている︵ただし︑脇に文がある﹁三国第一山﹂の題目と︑末尾の五首・奥書をそれぞれ一つと数える︶︒文章に
﹁S﹂をつけて連番とし︑各科の冒頭十文字を目印とする︒なお︑自筆本は四から七までが欠落している︒
前半 一︑全ては ちちははの子︵S1︱S3︑此世初より六千年和南⁝︶
二︑既存の宗教と﹁身禄の御世﹂︵S4︱S
三︑﹁御そば役人﹂と神の﹁御役人﹂︵S 12︑仁んげんめん〳〵によ⁝︶ 13︱
S
18︑さてまた御そば役人ど⁝︶
四︑食行の生い立ち︵S
19︱
S
23︑我ら八さいのときより⁝︶
五︑南無仙元大菩薩様の神勅︵一︶︵S
24︱
S
六︑食行が御役人となった後︵S 30︑南無仙元大菩薩様の御⁝︶ 31︱
S
38︑これよりしてわせきし⁝︶
七︑﹁一佛一躰﹂︵S
39︑南無様と申和元の⁝︶ 後半 八︑天子天日への警告︵S
九︑享保十七年の東国見聞︵S 45︑南無仙元大菩薩様の此⁝︶ 54︑享保十七年子の五月初⁝︶
十︑南無仙元大菩薩様の神勅︵二︶︵S
62 ︑一天子の役目和片ふり⁝︶
食行身禄の『添書』をめぐって
十一︑食行辞世の五首︵S
82︑たつねきてこのかきも⁝︶ ﹃添書﹄は﹁此世初リより六千年和南無様の御しはい︑この南無様と申が元の南無仙元大菩薩様の御事
なり﹂として︑創世より六千年はとなる神が世界の支配者だったという神話から始められる︒﹃一字﹄の神話
で説かれた眷属の神々や今後﹁身禄の御世﹂を支配する南無仙元大菩薩様︑そればかりではなく︵元禄元年まで一万二千年にわたって支配した︶神道の神々や生き物全ても﹁みな様の御子﹂であるという︒︵分科一︶
人間の善悪はともに自らが創り出したものであり︑自らに降りかかってきた善悪や病を﹁火車天狗そのほか神
共﹂︵妖怪や神道の仏教の神々を指す︶へ﹁坊主山伏﹂に祈禱させる︒人間はその利益不利益をも作り出すが︑﹁が
きちく生ども﹂︵食行においては賤民身分を指す︒﹃一字﹄参照︶に化かされて人のものを奪い当分よければよいとして地獄へ落ちる︑という︒これに対して食行が﹁お傳ゑのとおり﹂として提示する救済策は︑賤民身分の者が勤
勉に働いて四民になることである︒元禄元年までは﹁天照大神宮﹂なる神が人の気性を和らげるために仏像を造っ
た世界で一万二千年続いた︒﹁身禄の御世﹂においては五節句はそのままとして正月の松飾りをせぬとも構わず︑朝夕に南無仙元大菩薩様への供物と称名を上げ︑月のうち3・
13・ 17・ 26の
各日を﹁御名日﹂とする︒︵分科二︶
﹁御そば役人ども﹂は美女を集め︑また妻子にも﹁まゑしりおうらせ﹂︵﹁まえしり﹂は女性器の隠語︑また食行
においては女性そのものを侮蔑的に表現する語でもある︶︑﹁哥よミの頭﹂は子を﹁十日の佛﹂に小姓へ差し出し金銀知行を得て︑﹁柳﹂を﹁松﹂に植え直し︑天日︵天下︶を奪おうとしたが空しく失敗したという︒食行は隠語をち
りばめているが︑幕府の側用人たちが将軍︵﹁十日の佛﹂とは宝永六年正月十日に没した徳川綱吉を指すとされる︶
から色仕掛けを用いて政権を簒奪しようとしたと言いたかったようである︒食行は当時の側用人政治を嫌悪してい
たらしく︑鳥類畜類のために人命を奪い︑大名や旗本を金銀で懐柔したり色仕掛けで脅迫する彼らを﹁おそろしき
御事なり﹂と表現する︒
唐突に幕臣への批判が述べられるが︑その現実の役人と対比されるべく続いて述べられるのが︑﹁身ろくの御世
の御役人﹂として来る享保十八年六月十三日に富士山に登り︵その身体を捨て︶︑享保四年︑東宮に転生した師・
月行と協力して懲悪し︑以て身禄の御世を広めようとする食行の自死予告である︒食行の言う﹁役人﹂とは︵時に超常的な能力を持つ︶霊的な生物を意味する語であり︑﹃一字﹄から用例がある︒︵分科三︶
食行の生い立ちが述べられる︒彼は十三歳に伊勢の山村から江戸の親類を頼って出てきた︒以来﹁いろ〳〵のし
やうばい﹂を経て十七歳にて信仰の道に入った︒その日常は朝に垢離を取り供物を捧げて神々を称名してその恩徳
に感謝する︑というものであった︒十年目に月行と共に南無仙元大菩薩様から精進を免され︑代わりに毎年六月十日から十五日まで禅定することで精進としていたが︑六年して夫婦ともに潔斎の精進を免されたという︒その通り
であれば三三歳頃に妻帯していたことになるが︑彼の妻が十歳以上年下だったらしいこと︑また長女が四十代前半
に生まれたことを考えると受け取りがたい︒︵分科四︶
食行の神・南無仙元大菩薩様による神勅を﹁お傳ゑ﹂という︒後世の富士講では勤行教典を﹁オツタエ﹂と呼
ぶ︒食行はしばしば︑﹁⁝やうにとの御傳ゑなり﹂と末尾につけ神のメッセージとして主張する︒これらがどこま
で他律的なものかはともかく︑この科にあるお傳ゑを要約すると︑①火を忌む習慣の軽減︑②﹁尼入道坊主山伏し﹂として一括で表現される職業的宗教者たちを両御山︵富士山の他に江戸にその写しを造れという︶に近づけさ
せず彼らを四民に編入すること︑③神以外に盗みをしないものはいないのでこれを赦し︑天子天日︵天皇と将軍︶
食行身禄の『添書』をめぐって
以下︑各自の家職︵=四民︶を務めること︑の三点である︒ただし︑②と③についてはそれぞれ表現を変えて繰り返している︒︵分科五︶
食行を﹁とそつ天﹂︵富士山頂︶へ行かせ︑天地のある限り﹁御あらため役人﹂とした暁には︵お傳ゑの形をと
るので食行主観の表現ではない︶︑﹁我﹂が三国に光明を配って眺めるという︒この﹁我﹂は文脈の上では南無仙元大菩薩様になる︒この﹁身禄の御世﹂でなされる宗教的な行為は﹁ぢきねがい︵直願い︶﹂といい神に直接届くも
のとされる︒対して︑﹁天照大神宮﹂の時代のそれは﹁かげねがい︵陰願い︶﹂として批判される︒直願いの世界に
おいて︑人々の心は﹁天と一体のけつかうなる身ろくぼさつ﹂であり︑一筋にまことの道を願うようにという︒こ
の﹁まことのミち﹂なるものが食行の主張であることは言うまでもない︒従わないものは︑世界の果てにある︑神の光が届かない辺境に魂のみの状態で万劫にわたって留置されるとする︒また︑従来の神々も︑﹁天照大神宮﹂と
﹁ふじこんげん﹂のみは黒米︑菩薩号を持つ神は白米︑その他は雑穀のみ食べることが免された︒︵分科六︶
﹁参明藤開山﹂の題号に四つの﹁しだい﹂︵次第︶と称する命題︑その内﹁ふし山四ツの御名のしたい﹂について︑富士山が四度改称したとその名を挙げる︒神や次第の霊妙さは﹁一佛一躰﹂と表現される︒食行においては一
種の開くべき境地でもあり︑月行は元禄十三年︵一七〇〇︶六月十五日に﹁三国に一佛一躰﹂と開き︑食行は享保
十五年六月十五日に﹁三こくのしたいわ一佛一躰﹂と開いたという︒前著﹃決定﹄では︑享保十五年六月十五日に富士山頂で食行に何が起きたのかということは明らかにされていなかった︒しかし︑食行はここで︑師と同じ境地
に至り世界の霊妙さを体感したことを表明した︒︵分科七︶
後半は︑前述の通り冒頭の﹁南無仙元大菩薩様の此度天子天日ゑ御傳ゑ置候御事﹂をタイトルとして読むことも
できる︒﹁天子のあやまりわ﹂という書き出しで天子即ち天皇を糾弾するに︑月行が元禄十二年に関白邸︵当時の
関白は近衛基熙︶へ請願したものの相手にされなかったことに対して︑﹁天地の役人ども﹂即ち霊的生物を使役して︵天地の役人共にこしらゑさせ候ゑ共︶京に様々な災害を起こしたが改めなかったこと︑そして
こぢきゑつたどもにもいろ〳〵にこしらゑ︑金銀おもつて諸くわんろくおそれ〳〵にとらセ︵中略︶金銀おも
土蔵ゑかくしおかセようぢん金なとヽして︑諸しやうく仁ん諸商人とふのはらいとふもいたさずたミおいため
︵中略︶かミだつものばかりよきやうにいたし︑しものものわすこしのこともあらためとがにおとし︑ゑつたこ
ちづきのまゑしりのことに金銀おばかしとられ︑やくにもたヽぬはつとふきひしくしてほさつおも高直にし
て︑金銀おもせかいゑつうよういたさぬようにいたし︑米も三石余迠になり候御ほさつお七八斗迠に高直に上
ケさセ︑米下直に賣り候ば越度に被仰付候やうにくわん八州ゑも米出さぬやうにとふれなかしたミのいたミおいたし候事 K
として︑賤民身分に金銀を浪費すること︑そして関八州から江戸に米を入れずに値上げさせ︑また江戸にて安売り
すれば罪に問われることの三点である︒食行以前から︑角行系では穀物︑特に米のことを﹁ぼさつ﹂と呼び︑﹃一字﹄の神話では神が人間の食物とすべく日本でのみ収穫できるように創造したものだという︒食行の現実社会にお
ける怒りは彼の神話説と結びついている︒
当時の江戸の物価政策を考えた時︑食行の糾弾は不当なものとして読まざるを得ない︒﹃添書﹄が書かれたと考えられる享保十八年正月︑前年から続く享保の飢饉によって諸国の米が西日本に振り向けられたため︑江戸に米が
入ってこなくなり打ちこわしが起きた︒が︑それまで米価は米余りのために下落する一方で︑前々年の十六年︑江
食行身禄の『添書』をめぐって
戸町奉行所は奥州と関八州に対して江戸表へ米を回送することを禁じた L︒幕府にとって︑米価の下落は年貢の価値を低下させ米を俸給とする武士の困窮を招くので阻止しなければならない︒食行の怒りは自らの宗教観と江戸市中
での町人生活のみから得られたもので︑刻々と変わる時勢を考慮して論じられていない︒そこに庶民として経済を
語ることの限界がある︒
ともかく︑現実社会に心を痛めた食行は﹁六十八さい迠のぢミやうなれとも六十三さいにして丑の六月十七日お
名日としてとそつ天ゑ三ごくゑ万こうの三祢のかヽミに被遣参り候﹂として︑六五歳の寿命を短縮し︑六三歳即ち
享保十八年の禅定にて︑富士山頂にて﹁万劫の峰の鑑﹂となることを決めたのである︒︵分科八︶
食行は享保十七年五月に日光を始めとする北関東を周遊した︒﹃決定﹄に収録されている和歌に﹁小泉氏﹂即ち当時食行一家を居候させていた下級武士の小泉文六郎によるものがあり︑﹁これは松野や善兵衛と申人ひかしゑ済 渡のともいたし候あいた松野やへ祝義によミ申候 M﹂との詞書が付されている︒おそらく﹁東へ済渡﹂とはこの旅行
を指し︑供をしたという松野屋善兵衛は下野国那須郡松野村︵現・栃木県那須郡那珂川町松野︶の出身なので︑彼の故郷を訪ねるようなものだったのかもしれない︒
日光では現地の役人に何かと銭を要求されたことに憤慨しており︑この様子を﹁銭とりのまつりことにて和︑源
の宗春か一くわんの書物にあるとおり天子天日も右のまつりことするほとのちわミちもあるかれぬようになるものなり﹂と︑﹁源の宗春か一くわんの書物﹂なるものを持ち出して非難している︒この書物は享保十七年正月に版行
されて尾張藩士に配布された尾張藩主・徳川宗春の﹃温知政要﹄を指すと考えられてきた︒しかし︑﹃温知政要﹄
はごく狭い範囲で配られしかもその内容故に回収されており︑遠く離れた江戸町人の食行が︑版行から彼の死まで
の短い時間のうちに見る事は難しいであろう︒このように不可解な点はあるが︑﹁のちわミちもあるかれぬように
なるものなり﹂という表現は︑その後の﹁源の宗春のかきものゝとおりのちわミちおあるきてもあとさきおそろしきてものもいはれぬやうになるものなり﹂︵S
73︶と合わせて︑﹃温知政要﹄の﹁第一法令多く過れば人のこゝろい さみなくせばくいじけ道をあるくにも跡先を見るやうに成り N﹂とあるのに似ており︑不完全な形かもしれないが
﹃温知政要﹄を読んでいた可能性がある︒ただし︑反倹約を説く﹃温知政要﹄の方向性は︑食行が批判する﹁銭とりのまつりこと﹂に他ならない︒食行は﹃温知政要﹄を好んだ割にその内容を理解していなかったとみるべきであ
ろう︒
食行は会津領・宇都宮領・水戸領・真岡領・下館領について︑その政治を論評する︒前三者を善政の例︑後ろ二
つを悪政の例として挙げているが︑具体性に乏しくいずれも伝聞を基にしているように読める︒これらに対する食行の評価基準は︑領主が百姓に米をどれだけ施したか︵宇都宮領なら三万俵︑水戸領なら八万俵を施したという︶
ということと︑﹁これ源の宗春の書物のとおり︑すミ〳〵迠いきとゝかさるものにて候間︑いくへんも〳〵もねん
おいれよ︑たいせつの仁んけんおむさとしおきにいたさぬようにとの御傳ゑなり﹂︵S
に刑罰をしないことにあるようだ︒そして︑食行自身も﹁これよりしてわ我がとそつ天にてしんのあらため役人に 60︶とあるように︑みだり
なつてながめい申候ゑて︑天子天日に上ケるものわしんがんおひらかセ︑ごがのうろくづ迠も天地のあいたに生あ
るほとのものおあわれみミなこヽろおろくにいたさセ候ゑて﹂︵S
せる意気込みを見せる︒︵分科九︶ 61︶と神の役人として為政者たちに善政を施さ
S
62から本文の末尾までは︑再び﹁⁝とのお傳ゑなり﹂という文末で終わる︑神からのメッセージという体裁を
食行身禄の『添書』をめぐって
とる︒自筆本・写本共通して︑S
62の
行頭を﹁一﹂として箇条書きするような形になっているが︑ここ以外にそのような箇所は無い︒以下に︑その﹁お傳ゑ﹂を要約して列挙する︒①天子が誤っていることは皆知っているので
﹁この三とおりの御傳ゑのかきもの﹂︵﹃一字﹄・﹃決定﹄・﹃添書﹄︶を見合わせて衆生が助かり繁盛するようにせよ︒
②﹁紀伊國御家﹂︵徳川吉宗を指すと思われる︶の悪政を各国に持ち込み︑藩札を不当な比率で交換したり穀留めをして穀物の値段を吊り上げるような政策をするものは︑世界の辺境に魂のみにて留置する︒③米の値段を吊り上
げた﹁たかまあくま﹂︵享保の飢饉時に幕命で米価調整を行っていた豪商・高間伝兵衛を指すとされる︒高間の商
店は打ちこわしで破壊された︶と彼を召し抱えた役人は世界の辺境に魂のみにて留置する︒④大名から百姓まで隠
している金銀銭を出して通用させるように︒⑤﹁源の宗春一くわんのかきもの﹂にあるように念を入れて下︵庶
民︶を見る︵政治を行う︶ように︒⑥﹁源の宗春一くわんの書物﹂の志がいつまで変わらないように万劫︑天子よ
り下へ生まれ落とさないように︵天子が庶民へ転生しないようにという意味か?︶︒⑦民の涙を絞り金銀を集める
ものは世界の辺境に魂のみにて留置する︒⑧何にても隠し置かず︑ささやくような事は言わないように︒⑨土蔵に隠した金銀を出して社会に通用させ︑関所も審問も廃止し︑道・船・川のように四民を自由に通行させ︑米が余る
ほどできるようにせよ︒
神の︑いや食行の求めるところは畢竟︑米が無尽蔵にあってひたすら安価であること︑通貨や人の通行が滞らないようにすることにあった︒江戸町人であり角行系の行者である食行は米に困らないことで神の恩恵を感じられる
だろう︒しかし︑こうした主張が﹁米遣いの経済﹂と称される近世の経済体制において有益なものであったかとい
うと︑懐疑的にならざるを得ない︒食行の感覚はあくまで江戸町人のそれでしかなく︑米価の下落阻止を指向する
幕府の経済政策と合致していないことは前に述べた通りである︒ ⑨の前に︑﹁駿河町のゑちごや﹂︵豪商・三井高利を指すとされる︶への罵倒が述べられている︒食行によれば︑彼は伊勢の賤民出身だが︑足を洗って人間になった︒伊勢で三六万両を借り集めて踏み倒し︑その金で現金安売り
の商法を始めて諸商人・諸職人を泣かせた︒そして公儀御用として京に居を構えて三井と名乗って天子の衣服を扱
い︑天子の身も金銀も衣服も穢れてしまった︑という︒食行は著作を通じて賤民に﹁四民に入れ﹂とはいうものの︑
﹁あしおあらい仁んけんになり候ゑ﹂たという三井を﹁ねんぢう天日の身もけかれがかヽり︑金銀いふくもゑつた
だん左衛門がいふく金銀もうなしやうにけかれいる事なり﹂と指弾しているところを見ると︑その主張の割に︑生
まれが賤民であれば四民になっても容赦が無い︒もとより︑三井の賤民出身というその説にも根拠は全く無い︒た
だ︑江戸で奉公人や行商をしていた食行の経歴を考えると︑現銀掛け値無しの三井流商法で割を食っていた立場だったことがあるのではないかと想像し得る︒悪意ある中傷もそういう現実的な状況のもとに語られているのではな
いか︒
本文は﹁これよりしてわくわんろくもきねんきとうもこヽろさいまことにもち候ゑば天地のあいたになんにもかまひ申もの和これなく候︒そのために我がとそつてんゑ三ごくのしんのあらため役人となつて参るなり﹂として︑
食行の自死予告で締めくくられる︵分科十︶︒貫禄や祈念祈禱も構わなくなるという﹁心をマコトに持つ﹂とは︑
即ち食行が今まで神勅として推奨した事柄を遵守することである︒その行為の裏打ちとして万法の衆生が助かり繁盛するように︑食行は万劫にわたって富士山頂にて世界を監視し続けるのである︒
本文の後には︑写本によれば﹁たつねきてこのかきものおもち出て天子天日ゑひらかセてミよ﹂他︑五首の和歌
食行身禄の『添書』をめぐって
があったはずであるが︑自筆本ではこれと﹁ふじ山おしゑのことくこの山の主いゑにこそ身わ参りける﹂の二首しか残っていない︒続いて﹁享十八年︵表記ママ︶丑の六月十七日食行身禄菩薩﹂と署名するが︑実際は二月に伊
勢の実家へ手紙に添えて送っていることからその時までには完成していたと考えられる︒最後に﹁このかきものお
天子天日の身の御役目に毎日三度宛身申べしとの御傳えなり﹂とあり︑これを常時読むよう読者に付嘱して﹃添書﹄は終わる︒
おわりに
││ 食行を富士山頂へ駆り立てたもの ││ 私は︑食行の自死を﹁入定﹂とは呼ばないようにしている︒﹁入定﹂は対語に﹁出定﹂を期する仏教語である︒
例えば︑弥勒菩薩が遠い未来に成仏して下生するので︑それを待つべく高野山奥の院で空海が﹁入定﹂している︑
という表現は成り立つ︒龍華三会の暁に︑空海は定から出て弥勒菩薩にまみえるであろうから︒しかし︑神の役人
として世界を永劫に監視して悪人を懲罰しつづけるであろう食行に︑その語はそぐわない︒食行本人は巻末の和歌で﹁こくらくおいつくととわばふしのやま六十あまりに身ろくにうめつ︵入滅︶﹂︵小林家写本︶と詠む︒今まで見
た通り︑食行は富士山にて超自然的な存在になろうとした︒月行や食行に言わせれば︑元禄元年以来︑既に世界は
南無仙元大菩薩様の支配下にある︒当然︑三百年以上を経過した現代ですらそうであろう︒
おそらく︑食行の意識としては死のうとしたのですらなく︑肉身を捨てるくらいの気持ちだったのではないか︒
しかし︑如何なる論理があって︑富士山で死ぬことによって﹁役人﹂になれるのか︑ということを彼は述べていな
い︒東宮︵﹃一字﹄の記述からは桜町天皇のことと推される︶に転生したという月行は︑おそらく一般的な江戸町
人として没した︒もし神の付嘱が食行の言う通りに月行同行に対して行われるのであれば︑食行も普通に江戸市中
で没した後で神の役人になれるのではないか︒それに︑既に彼らの神が世界を支配し新しい神代となった以上︑
﹃添書﹄で﹁お傳ゑ﹂として神が勅されたことは︑本来勅する必要すら無かったのではないか︒
しかし現実は新しい神代の到来を実感させるものではなかった︒例えば彼が﹁かミだつものばかりよきやうにい
たし︑しものものわすこしのこともあらためとがにおとし﹂というような状況は︑おそらく彼が貧しく社会的な地位もない江戸町人として生活する現実から得られた不満に違いない︒米が安くいくらでも買えるようにという発想
も︑自らの神話とも折り合うごく庶民的で生活に根差した願望だったものの︑実際の米価は彼の知らないところで
入荷量を制限することで意図的に吊り上げられていた︒そして月行のように︑神による﹁身禄の御世﹂の顕現を日
常の中で見る機会はついに来なかったようだ︒
月行は延宝八年︵一六八〇︶︑台風によって江戸の本町が冠水する水害に居合わせ︑江戸前の海が大山の如くに盛 り上がる様に︑﹁此波来ル時は日本かいろくト成との御直そうなり O﹂と神威の顕現︵﹁御直相﹂︶をみた︒食行にお
いては︑﹃決定﹄から﹃添書﹄にかけて︑例えば富士山の精霊たちが彼を訪ねてくるような幻想的な記述が増え︑彼らに対して自らを﹁山の主﹂と称するような︑自らの神話世界で自身の地位が高くなっていく自意識の肥大化が
見られる︒月行が関白邸に三度足を運んで門前払いされた後に京で災害が起きたことを︑﹃一字﹄では単に﹁天地
の役人共あばれ申故に﹂としか書かなかったところを︑﹃添書﹄では﹁天地の役人共にこしらゑさせ候ゑ共﹂︵傍線
は大谷による︶と自分たちが霊的生物たちに行わせたように表現したのも肥大化した自意識の所産であろう︒その極
めつけが享保十五年の富士山頂で﹁三こくのしたいわ一佛一躰﹂と開く転回を得たことに他ならない︒
食行身禄の『添書』をめぐって
これら数年間の短い期間に起きた神的世界への没入は︑言い換えれば︑彼が六十の齢になるまで神性の顕現を見ずに過ごしてきたことを意味している︒彼の日常的な信仰生活は読む限り︑のどかさすら感じさせるものだった︒
しかし︑日常の礼拝に神が降臨するわけでもなく︑ましてや災害に乗じて非日常的な顕現が見られることもない︒
食行がそのような人生に︑神に付嘱された同行の一員である自覚を長く保ち得たものだろうか︒
食行には︑焦燥感ともいうべき︑上手くいくはずのものがそのようになっていないことに起因する積年の感情が
あったのではないか︒不満と貧窮に満ちた生活の中︑若い頃から自らの富士信仰を続けてきた食行身禄は︑人生の
遅くになってようやく既に現成して久しいはずの新しい神代の片鱗を見た︒そして師も達しえなかった身禄の御世
へのお尋ねも松野屋善兵衛が来たことで果たされた︒それらが食行をして長く持ち得なかった新しい神代への実感
となり︑そして自分もその一部となるべく肉身を捨てて身を挺させようとしたのではないか︒富士講の主張や現代
の研究においては︑漠然と︑彼は救世のために富士山で自死したと言われてきた︒しかし︑彼が死ぬことで救われ
るものがあるとすれば︑それは﹁万法の衆生﹂ではなくて食行自身だったのではなかろうか︒その場合︑神の役人として今も富士山頂にて活躍しているであろう彼のみが︑救済の成否を知るであろう︒
本稿は︑食行身禄の最後の著作﹃添書﹄から︑彼が富士山で死のうとした理由を考察したものである︒﹃添書﹄
の内容が写本の状況も交えて吟味されたことは︑知る限り今まで無かった︒整えられた翻刻すらも未だに公刊されていない︒そこに内容や表現をめぐる現代社会ならではの事情があったことは既に述べた通りである︒整えられた
翻刻の提供はおそらく私に課された責務となるであろう︒食行の著作は総じて難解であり︑古典文法としては平易
であるものの︑語句の意味や論理を理解しにくい場面が少なくない︒しかし︑彼の死は︑︵角行系の︶富士講の発