木下利玄による受講ノート 夏目漱石『文学評論』
講義の翻刻と解題(2)─ダニエル・デフォー論と 写生文家のリアリズム
著者 服部 徹也
著者別名 HATTORI Tetsuya
雑誌名 文学論藻
巻 96
ページ 132(1)‑114(19)
発行年 2022‑03
URL http://id.nii.ac.jp/1060/00013414/
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木下利玄による受講ノート 夏目漱石
『文学評論』講義の翻刻と解題(2)
─ダニエル・デフォー論と写生文家のリアリズム
服 部 徹 也
(前回より続く)
『十八世紀ノ文学』第 2 冊(後半)
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Defoeの小説にclimaxがあるか否か、と考ふるに、前述の意味の如き climaxはなし。そのないと云ふ事を一々説明するは手間かゝる故やめて、
先づ彼の作中、最climaxのありさうなものを捕へ来りその種類の如何を 吟味するならば、他は推せるべし。それには何がよからう。Robinson Crusoeは難船して無人島に漂着し、そこに只一人で生活すると云ふな り。又後にはFridayと〔云ふ〕野蛮人が妙な関係で来りservantとなる。
Crusoeは他に行くべき所なきに因り、無人島に只一人で暮すにて吾人に はあり得べからざるやうなsituationで、考れば面白い。Defoeがこれだけ のsituationを作る以上は嫌でも応でもclimaxが出る筈なり。climaxとは あるendの事にて此のendに向て各々の編、各々の章がstep by stepに approachする。その仕方はcharacterがincidentをincidentがcharacterを evolveするapproachなり。之を此のsituationに至るやCrusoeは一のend を作らざる可らず。そのendたるや世間一般人間に通有なるendにて、達 し易いend故、人は忘れてるから、此のendを小説にしてもinterestを起 し易し。
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さるend故、いよいよとなると他のendsを他にして此のendに進むべき 重 大 なendな り。 此 のendと は 他 な ら ずevolutionistの 詞 を か り れ ば Preservation of selfなり。故に只一人絶海の孤島に漂着したと云ふ事は
二三 一
恐るべき容赦なき事実にて、どんな事を排して此のendに近かざる可ら ず。こは意気地なしでも人たる以上、誰でもすべてのendをここに集中 して進みて他を顧みぬなり。しかしながら此のendは考へやうで妙に思 はれる。己をpreserveするが目的故そのendは妙なり。
例へばここに一合の牛乳あれば、そのpreservation endは半日だけ達 せらる。また一疋の魚あれば一日だけのendは達せらる。しかしながら さう見ず其日ぐらしでなく、所謂天然の寿命を全ふするendに達する為 には、一歩すゝんで天然の寿命をconfortableに全ふする為にはそれだけ 大きな計画をたて徐々と其方に進んで行かねばならぬ。即ち一人の solitary being, solitary island, confortable lifeを送り得るに必要な計画 と之を実行する事、即ちrealizeする事がfulfillされた時、始めてCrusoeの endは達せられしものなり。而して此のendはCrusoeが此のsituationに入 るや否や忽ち鋭く起らざる可らず。而してCrusoeがかゝるsituationに入 れりと認めた読者にも、自然のcuriosityでsuggestせられるendなり。こ こに於てCrusoeのendは此の目的がpartlyにfulfillせられつゝor disturb されつゝ進行するに始り、そのcompletion
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にてendに達したと云ふ訳なり。此のclimax又はdevelopmentの価値及び その性質及びそのmanner of fulfillmentの面白味の程度は、之より考ふる なるが、その前に先づ彼がstep by stepに此のendに向ひて進行せし経路 を一口に云ひ、後にcriticismをやる。
彼は第一に自分の住むべき宅地を定め、舟から帆綱板釘など取り家を 作り、食物は山羊、竈を作り、舟から聖書や犬や猫を取り来る(人は realisticと云へど然らず)。ペン、インキ、鋤、鍬を取り来り作り始める。
chairとtableを作りbasketを作り野生の山羊を馴らし子を取る。家の垣根 を作り畑を作り大麦(barley)を取る。その他の畑、案山子を作る。鸚 鵡をかふ。甕を作り臼を作り次には篩を作り次にパンを作る。皮衣を作 り皮帽を造り次に蝙蝠傘を作る。此の如くdevelopす。後にFridayが出て 多少趣が変るが、其処は申さず。
然らば此のendたるや必然のendにて、之をfulfilするmannerも先づ naturalなり。而も何だかinterestが乏しい。そは如何なる訳かと考ふる 二三
二
に、即ちそはinterestの性質が普通のかゝる形式を備へしものと異らざる 可らず。考ふるに此の感じを解釈するに、此の解釈は二三ヶ条あり。
a) 此 のevolutionはmechanicalな り。 換 言 す れ ばCrusoeの 対 手 は natureなり。Crusoeのself-preservationの 力 を 以 て 働 き か け る の は natureに向つてなり。働きかけられたnatureはnatural lawでCrusoeの方 に働き返す事はあるかも知れねども、元来natureの形式として
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animationのないpassiveのものなる故、苟も此のnatural lawを犯さゞる 限り、到底活劇は出て来ず。aesthetic sideから見れば面白いが、nature を対手に芝居をすると云ふ方から見れば不便なものなり。natureと角力 をとりつゝCrusoeは着々進行す。しかし着々進行するは、Crusoe勝てど も、そは石地蔵と角力の様なものにて左程面白からず。即ちevolutionが mechanicalなる故なり。
b) 此 のevolutionは 普 通 の 意 味 のevolutionと 云 は ん よ り は 寧 ろ progressなり。その意味はevery stepが一階級を形式し、endに向て進む。
それはよし。されどもそのevery stepが長くなりて終局に達すならで、
every stepはそれ毎に止り、最後にevery stepを加へると成程endに reachしたなとわかる。故に之はbroken lineを長く続けし如き心地す。故 に此のinterestの価値と特色を云へば此の前語りしdescriptive(1)と同じ 様な意味となる。descriptionと云ふはevery stepをphaseづゝかき後に加 へるとcompleteなdescriptionが出来てるなり。故にここに所謂progress はstepとstepの間は切れてるかも知れず、よし切れて居らずとも最後の stepの 中 に す べ て のpreceding stepを 含 ん で は 居 ら ず。 と こ ろ が evolutionはさるものならず。every phaseがevery
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phaseを含まざる可らず。又preceding phaseは又その前のを含む故、最 後 のphaseを と れ ば あ ら ゆ るphaseが 溶 け 込 ん で る 筈 な り。 故 に continuityが緊密なり。故にinterestもその点でくつ付けり。然るに Robinsonは然らず。
( 1 )前回掲載の『草枕』の描写について説明した箇所を指す。
二三 一
c) 此のprogressがendを有するも、そのendたるや必ずしもendとせ ずともよきものなり。何故と云へば此の書物に於けるendはdeserted islandに着き種々planをたてcomfortable self preservationにこぎつける 事なり。然るにcomfortable lifeはわかり悪く、明らかに区画しにくい。例 へば毎日御馳走をたべ、これまで食はなければcomfortableならずとせ ば、それがRobinsonのendなり。或は只衣食を充すに足ればよしとすれ ばそれがendなり。兎に角誰にも明らかに区分出来ず。よし極める事が 出来ても、その線に止るとその線を去る一歩前に止るとはinterest上に事 実上差なし。かゝる性質のend故、之が此処exactに達するも達せざるも、
interestに相違なく、従て左程に効能なし。之を他の詞で表せば、かゝる climaxは吾人の運命を決するclimaxならず。従て読者の方で是非共そこ までついて行かなくともよいclimaxなり。即ち運命を決するclimaxなら ぬ故、読者を釣らざる可らず。
例へば今短篇小説を二つ題を出して書く。その一つは或人が病気して 快復する所を書く。其処でendは全快と云ふ事なり。graduallyにevery stageに
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よくなる所を書く。今一つは或人が病に死するを書く。然らば死ぬがend にてその病重るがstageとなる。即ち病人がgraduallyに死に赴く様子を 書く。すると此の小説の吾人に与へる材料、即ちformから云へばexaxtly に同じなり。故にclimaxのinterestもexactlyにsimilarであるべき筈に思 はる。然るに実際は大違ひにて、病気で死ぬ方は面白いかも知れぬが、全 快する方はそれ程面白からず。全快と云ふclimaxに運命を決する段階な し。例へば全快に今一歩と云ふ所に止りてもさしたる変なし。即ち読者 のinterestに変なし。人間の死ぬ方はさうでない。死ぬ所で止る。其の一 歩前で止るとは事情に大差あり。即ち死は大変な運命なり。Robinson Crusoeのclimaxは全快の方なり。従て読者はstage by stageに多少の interestは感ずるも、endにきて胸をなでるか、涙をこぼすやうな事なし。
d) Crusoeの如きclimaxの中には危険を含まず。riskを含むと云ふ意 味はこのclimaxに来てCrusoeがやりそこなへばそれ限り浮ぶ瀬なしと 云ふなり。即ちいよいよの時失敗するriskのみならず、此の失敗の影響 二一
一
が予後に反射する。而して今まで一生懸命にevery stageを成功したのが 悉く壊れると云ふ危険なり。例へば『義士銘々伝』で討入りのendを失 敗すれば、討入のみならず前にせし成功を壊す危険あり。或人が盗み、そ の金を利用して役人になる。大学教授となる。いよいよ
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その目的にならんとする時、その盗まれた男と会はざる可らずと云ふに 当り、その男が己が顔を見覚え居らば、目的を達せざるのみならず、前 の成功も壊される。即ちlast stageの失敗のみならず、all stageの失敗と なる。即ちclimaxが始めからnervousに震へてる。故に面白い。然るに Crusoeはかゝる条件を備へず。Crusoeが靴を履かざるとも履かざるだけ にて前に関せず、即ち靴一足の出入なり。故にこのclimaxは小説になる までも知恵あるものならず。以上の原因ありしてRobinson Crusoeの developmentはあまり面白からず。
尤も此のdevelopmentが一通り済むと後から人間savageが出て来る。
今までは只natureを対手とせしが、今度は人間を対手とする。人間が出 れば面白い訳なるに、人間が出ても依然面白くない。人間の活動を中心 としたclimaxが出て来ぬ。その所以は煩しければやめ一言に云へば、余 思へらくDefoeが書く事がないから仕方なしに人間が出たやうに取られ る。即ち只話を引きのばす為に付録としてつけし如く思ふ。故に論ずる 必要なし。前述の通りDefoeはRobinsonのII partを書きしが、これはIを 書きし故書きしにて、それ自身のmeritはない故、之もやめる。之は commercial purposeにて書きartistic purposeならず。それでDefoeの傑 作たるRobinson Crusoeをとりてみる。即ちその構造から云ひてclimaxの ありさうなものをとりて見ると右の如し。その他のものに
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至りてはconstructionいよいよ緊密ならず、只甲と云ふ人がかうした、次 に甲が又かうした、つまり何うした何うしたと云ふ事の連続のみ。吾々 は只したと云ふ事にinterestを有たぬに非ず。しかしその数多く並べる
“した”と云ふ中に面白くないのも交りor夫れが無暗に長かつたりすると 只したと云ふ事実以外に、何かその存在の説明をして貰ひたくなる。そ こで此説明の必要の為、前述のevolutionとかdevelopment必要なり。即
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ち此方法を用ひて行くと著者は読者に対して一の弁解しつゝ話を続ける 事になる。
何故それが弁解になるかと云ふに、著者は暗にかゝる弁解をするに、読 者諸君は私の話を長たらしいor面白くないと云はれる、それはadmitす るが、それは著者の関する所ならず。如何となれば事実が自然と発展す るのだから仕方がない。もしそれを面白くない長たらしいと云ふならば、
余をせむるより自然のlawをせめよ。かう著者から云はれゝば、読者は 一言もない。
故にその訳で、長いものを書いて比較的短く読ませるにevolutionと developmentを用ひて、読んでいる中に自然と説明が出来るやうにせね ばならん。之が好い方法である。短い方は此の説明がない方がよいとは 云はず。しかし短い故に我慢が出来る。況や短いものであれば“かうし た”“あゝした”の“した”と云ふ事で面白いだけ、よつて又長たらしけ れば、それをつゞめて並べ得。故にevolutionとdevelopmentが無くも interestingなものが出来るかもしれぬ、又現にある。此の講義の始に述 べてDefoe
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の作は長たらしい感じありと云ひしが、それは全くformal artから書き、
もつて行く中読者の頭に起る説明なき故なり。Crusoeすら然り。その他 のものは猶々そのartがない事はわかる。何を例に引くも同じ事なり。先 づ如何に彼の拙劣を示す為、Moll Flandersをとる。之は堕落せる女を書 けり。堕落女は終に大抵泥棒する。此の女も後に泥棒になる。此の女が 第一に泥棒せしはLondonの茶屋で或包をとりて中を見るに、What the bundle〔Moll Flanders.引用略。全集p.458〕in money.と書いてある。此 の盗品を一つ残らず書く所、殊に十八シリングでよい所にsixペンスをつ ける所は多少artと見られる、realistic illusionを生ずるやうな書き方な り。之はLeslie StephenのHours in a Libraryの中に矢張り此の中を remarkせり。Stephenは矢張り同じ例をDefoeのColonel Jackの中より 113右
例を引けり。余が大学に在る頃Stephenをよみしが、彼の挙げし例は其 処ばかりで殊にremarkableの例と思ひしに、Defoeの作には至る所その 二一
一
筆法なり。此のrealistic valueはあとより其の法述べる場合あれば述べる かも知れぬ(2)。之が面白い問題なり。
ここに表れたゞけ云ふと今の写生文家(3)がやる手段なり。而し写生文 家の手段とDefoeの手段とは果して同じか? 表れた所は同じなれども motiveが同じか? 余は異ると思ふ。(4)
泥棒の第二編は子供がかけてた首かけを欺してとり、泣かないやうに 殺さうとしてやめた(十八世紀の作者は粗大ながら書に於いては皆彼等 は道徳家なり。可笑しい)。次には指輪をとる。第四は田舎家で銀の盃を とる。第五は金時計を盗む。第六は火事の時盗む。金鎖、指輪、財布を 盗む。第七は呉服屋でレースを取る。第八はCustom house officer税関で 五十 磅ポンド位のものを倉庫(warehouse)に男装して入り反物か何かとる。
是等の泥棒をやる場合より吾人が得る感興は如何なるものかと云ふに、
あまり面白からず。その程度はその泥棒した事を一度書き、その一度よ り得し興味と同じ位なり。寧ろ沢山の方がだれてる。故に何も経済の点 よりそんな事を繰り返さなくとも、一度書けば沢山と云ふ事になる。然 らばDefoeがこれ位長く同じ様な事を書くが無益な労力に帰した理由を 考ふるに、即ち此の如く 8 度 9 度も泥棒せし事をかき、それを面白くよ ませるには条件が要る。その第一には此の泥棒事件、即ちincidentが changeせざる可らず。即ちchangeが必要なり。之なければ単調で 114左
仕様がない。然らば30度かくも只一度かくも面白味異らず。Defoeの作 には殆changeがなし。時計をとる。次に絹をとる。次には指輪をとる、
( 2 )デフォー講義末尾で再度写生文家に言及する。
( 3 )この頃漱石が言及した写生文論といえば虚子や四方太である。
( 4 )現存する『文学評論』完成稿のうち、ここの部分は森田草平の書いたと 思われる黒インクと、漱石の赤インクとが両方みられる珍しい部分である。
全集p.458にあたる「偖て泥棒の二番目には首飾をとる。(略)税関役員の」
は黒インクである。漱石が森田の黒インクに取り消し線を引き「この写実的 価値或は粧実的価値に就ては後に述べるかも知れないが、デフォーは此迄書 かないと気が済まない男なのである。」と修正した部分について抹消箇所に は黒インクで「〔写生〕文家と云ふ者の慣用手段に酷似して居る。而してデ フォーの用ひた手段と写生文家のとる手段とがは果して同じであるか、又は 多少違って居るかを考へて見るのも面白い。然しそれは此処で論ずる場合で 無いから後廻しにする。)」とある。
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等盗む様子盗む場所盗む品種々の点より考へてchangeなし。極端に云へ ば同じ菜で同じ膳で同じ箸で三度々々飯を繰り返すと同じ事なり。故に 頗る無能の極なり。而も世間の実際生活のfactならば仕方なし。と云ふ 意味はそれがfactなれば、さる愚な事をしなければ生活が出来ないと云 ふ事を証明するならば、それがつまらなくも馬鹿気てゝも、それが実用 的処置ならば仕方なし。今Defoeの泥棒をさる方面より見て考ふるに、例 へ ば 人 が 二 度 食 は ね ば 生 活 出 来 ぬ と 云 ふ 事 を 証 明 す る 一 種 の informationとなる。即ちDe Quinceyの詞をかりて云へばLiterature of knowledgeなり(Literature of powerならず)。ならばよいかもしれぬが、
artとしては下らぬものなり。拙なるものなり。証文として見れば泥棒は こんな証文の下に居るならばそれでよけれども、Literature of power、即 ちartとして見れば、下劣な冗漫なものならざる可らず。
第二は今前述の如くcharacterとincidentと双方のevolutionがあつて changeするならば、猶interestingならざる可らず。さうなるとchangeそ のものは内容がさう面白くなくともevolutionがあればすむ。何故なれ ば、evolution、あれがかくなければならぬと云ふ観念に制せられて読者 にあまり不平起らず。evolutionが
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あれば必然なる故、何とも抵抗し様がない。抵抗しやうと云ふ気になら ないと云ふ点が面白いと云ふ事実を含む。其処にartになる。其処で単な るrepetitionは事実なり。之も抵抗すべからざるものかも知れねども、前 のとは異る。前のは内側で頷くもの、後のは外から来て首を捕へ強ひて 頷かせるのである。即ち此のfactを知る必要がない。例へば医者が熱き 脈の表を作るはfactではあるが、吾々の必要のないものは少しもinterest が起らぬ。Defoeも事実だから仕方がないと云ふかも知れねども、これ は泥棒を捕へる警察官の参考になるものなり。或はさう云ふ人の目から 見たら必要なものかも知れん。さる意味の小説なればそれはinformation でLiterature of knowledgeなり。されども面白味、emotionを必要とする 藝として見れば、つまらぬものなり。半文の価値なし。Moll Flandersの characterがかく泥棒を重ぬるにも係らず同じ事なり。而も泥棒をやると 云ふincidentも似たものなり。
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其処でclimaxのある方、evolutionの方、之は単にDefoe作物の一つ二 つ、即ちRobinson CrusoeとMoll Flandersについての話なり。然し此の 二つについて云へる事は彼の作物の他のものについても云ひ得る。従て 彼の作物の全体について吾人はかゝる事を云ひ得る。彼の作りし characterはえらい意味に於てincidentをevolveしない。又彼の作りし incidentはcharacterのevolutionを助くる事
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少し。故に彼の作物を興味あらしむる為には、云ひ換ふれば彼の書きし 如き長い作物を興味あらしむる為には、単に変化といふ事を眼中に置き、
その変化と云ふ事にて読者を釣らざる可らず。
然るに前述の通りMoll Flandersの如きは単調で毫も変化なし。即ち飽 きる。Climaxなくevolutionなく変化なくば後世に名を残し当時喜ばれし はphenomenalな事なり。何か人をattractする点ありしなるべし。
その前に時代と云ふ事を考へる必要あり。元来Defoeは冗漫を平気で 繰り返して憚らぬ男なり。読者も存外さる事にて、存外無頓着で矢張り 呑気であつたらしい。そこで十八世紀の読者、今に比するに呑気らしい その証拠にはRichardsonのPamelaやClarissa Harloweのやうな長編を 平気で読んだらし。今世にこれを全体よむ人は殆どあるまじ。
ある女流作家(5)がClarissaを読んだ事をさも珍しさうに吹聴してその 事につきてessayを作れり。それでも人の読まぬ事はかわらず。それから 或人がフランスのTaineを評した詞に“彼は英文学を大に研究せり。そ の中彼はSpenserのFaerie Queeneをよめり。あれは英人でも今は殆どよ まぬ。それを外国人でよんだ。”元来Faerie Queeneが今の人によまれぬ のは長いのがその一原因なるべし。故に長いものを今の人はよまぬが昔 の人は平気でよんだらし。余の考ではThackerayのThe Newcomesがす でに長すぎると思ふ。それはartが立派でDefoeの作より余程よいにも拘 らず長すぎると思ふ。
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近世は短くなる傾向があるが、昔は馬琴ものを平気で炬燵でよんだ如く、
( 5 )刊本『文学評論』においてこの作家は「ミューロツク(Mulock)」と名指 しされた。全集p.459およびその脚注参照。
二一 一
英国でも長いものを自若として読んだのだが、それにしてもDefoeの作 はひどい。あの泥棒の調子では如何なる読者も飽きずには居られず。其 処で何とか工面を要す。
彼の工面をつけた工合を見る前に、議論として如何に此のmonotonyを さける為には如何すべきを考ふるに、すぐ解釈出来る。第一characterの changeがない。第二はcharacterが変らずincidentが同じ様な事をrepeat する。sceneをかへるが必要なり。尤もsceneが同じでもincidentを変ず る余地はあり。しかし山の中を舞台にしてかく時は海に風が吹いた事は 書けぬ。従て場所をかへると云ふ事は単に場所をかへるのみならず、
incidentを替へる一のconditionとなる。而してDefoeは此の単調をさける 方便として、此のsceneのchangeに重きを置きし如く思はる。
之よりDefoeの作に於けるsceneのchange。此のchangeは非常に多く、
例へばThe Journal of the Play of Londonと云ふやうなものはsceneと 変らぬ訳なり。又The Voyage of New Worldは世界周遊故、一所に止る 故sceneが変る訳なれば、是等は論ぜず。他の小説を見るに、矢鱈にscene を変化させる。その点に於て古今独歩なり。例へばRobinsonのsecond partにはCrusoeがスマトラへ行き、次はシヤムへ行き、次にChina、次 に日本が引き合に出てる。
日本の事を云ふとこんな事がある。或る船長が生捕られた。その船長 が日本へとゞけてやらう
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と云ふ時の詞に、Well, still I was〔Robinson Crusoe.引用略。全集pp.460- 461〕people.と書いてある。何処から得たかわからぬ。又支那の実力に 関してRobinson曰く、I do not boast, if I say, that 30,000 German or English foot, and 10,000 French horse, would fairly beat all the forces of China.それからRussiaの帝がひき合に出てる。
Crusoeのみならず他のやつも歩いてる。Captain Singletonを見るに、始 めジプシーにさらはれ、十二才舟にのり、Newfoundlandへゆく。遂に Africaへ行きnegloと戦ひ、次にアフリカ内地を旅行す。或時は豹を殺し、
orコロクダイルを退治し蛮と戦ひ或は砂金をとり英吉利に帰り又Cadiz に航海し海賊となり、喜望峰の付近を彷徨しCeylonへ渡りBengalへ行き 二一
三
Formosaへ行く。これは風が吹いてゆけば途中で日本船三杯を 116右
取る。ここにも日本の事あり。十行許の中二三行、“マニラを去る事若干 にして、日本の船三杯をとり……三番目のが一番よかつた。鋳造して居 ない金が沢山のつてた。その金でgoodsを買ふ為と覚えたり。その金を とり、他へは手をつけず。そこに長居せず支那に向ふ。”漂泊の末大金持 となり、Englandへ帰る。
又一例をあぐれば、Colonel Jackは泥棒だがLondonで泥棒し出かけケ ム ブ リ ツ ヂ に 行 きGranthamやNewarkに 行 き、planterに 売 ら れ plantationの畑番となる。夫れから金を作り自らplanterとなり、イギリ スに帰らんとす。途中、Franceの義勇艦隊にとられフランスのボルドー に上陸す。未だその上にlove affairがある。それから兵隊となり、それか らGerman officerに降参す。而して戦ふその場所は伊太利なり。後遂に イギリスに帰る。その他例をあぐればいくらもあれども面倒でつまらぬ 故やめる。此の如くsceneをchangeするは変化なきよりよく、従て変化 なきよりinterestある故、又それにつれてincidentがあり得る。その点又 interestがありうる。だけれどもsceneのchangeが無茶苦茶になる故 unityの散漫を来す。一口に云へば今までのはconstructionの上よりの論 なり。constructionより見れば彼は構造上許すべからざる程度の長いも のを
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書けり。彼の作物程の長い材料をかゝるlooseな構造でかけば到底長たら しい感じを起さぬ訳にゆかず。議論上かゝるconclusionに達するのだが、
これが吾人が実際Defoeの作をよみし感じと合する故さうだらう。
constructionより見てDofoeにとるべき所、即ち成功せる所はsceneの changeより起るincidentのchangeなり。それがどの部分でどの位の程度 か は 今 ま で のlectureで わ か る。sceneのchangeす る 割 にincidentは changeせず、ややもするとchangeがrepetitionに陥る。海賊が支那に居 るも印度に居るもそんな変化はない。故にsceneのchangeに比して incidentのchangeなし。constructionより見て此の点を除きDefoeの作に とる所なし。
二一 一
然らば彼の作物はconstructionはあまりよくない。一部分の取得の他、
何者のとりえもないか? これより之を研究せんとす。
此のstudyには他の作家と比較せねば分らぬ。而してその比較には他 作家が有しDefoeに全然欠くる点を挙ぐるやも知れず。元来それは批評 になるかならぬかわからぬものなり。その点はDefoeが書いてる所のみ 一目をつけ、他作家にあるが彼にないと云ふものは批評にならぬ。ある 方を調査して小説家たる彼を評すべきなり。確に正面から見れば之はよ く な い。 さ れ ど も 吾 々 はconstructionよ り 彼 の 長 編 を 比 せ り。
constructionの範囲は広く、Defoeの有するは狭い上等でない 117右
一部分のみを有するのみとせず。Defoeは一人前の作家でないと云ふ位 のconclusionは如何か、他に之を補ふ程のものありや否やを見ざる可ら ず。一人前の作をよんで斯んな点がないこんな点が欠けてると云ふのは negativeな法で、馬鹿げてる。饅頭を食つてうまいが蜜柑の味がしない と云ふが如し。
先づexpressionとsubject matterとを見ん。expressionの方は巻頭の Shakespeareとの比較して見れば分る故にsubject matterを見ん。本来な らば例の四のelement(6)を一々見ざる可らざるものなれどもそんな詳し くやる必要なし。故にごちやまぜにした所を云ふ。
先づこゝに嵐のdescriptionあり。それが、
All the storm increased & the sea〔Robinson Crusoe.引用略。全集 p.462〕
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〔…〕father & never set it into the ship again while I lived.
之は併しながら殆stormのdescriptionにならぬ程悪なり。何となれば こんなものをよんでもstormそのものゝ物凄い景色は浮ばぬ故なり。只 stormが起つたさうだとDefoeから承る許でstormのvisionはDefoeの関 知する所ならず。読者自ら作る他なし。もし此際visionを起す人あるも、
そはその人の胸裏によるにてDefoeの御蔭ならず。
( 6 )『文学論』にでてくる四つのFに相当する。
二一 二
次にかゝる文あり。
The weather in the end was considerably worsened;〔Catriona.引 用略。全集p.464〕 among the billows.
これだけでもDefoeより数倍活動せり。次に下の記載を見ると比較に ならぬ。Defoeの如く土で作れる文をこねるとはまるでちがふ。Catriona と云ふ女が浪高い所より親船からboat
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へとび下りる所を書けり。
From the boat the business appeared〔Catriona.引 用 略。 全 集 pp.464-465〕
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〔…〕the boat was put back for shore.
此の叙述は活きてる。nervousなり。こんな事がさもあつたやうに書 いてある。而もよくある事だからではない。Defoeの叙述とまるで違ふ。
彼は如何なる事が起りしかを見せしめ感ぜしむる手際なし。例へば Memoirs of Cavalierの中から戦争の記述を出す。こんな調子だ。新聞屋 が雑報をかくのと同じ事なり。
然らばDefoeの欠点はexpressionが悪くsubject matterの如何に係ら ぬに非ずやと云ふ人あらん。expressionは無能なりartがない、そう Shakespeareと比較してわかつた。ここに云ふはsubject matterのつもり なり。然らばDefoeとStevensonとsubject matterが何処が
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違ふかと云ふかも知れぬ。成程難船相会はDefoeがよく書き同時に Stevensonもかく。その点からはsubject matter同じ様なれども、その題 目の選び方がちがう。二人の気持がちがふ。故に同じものもちがう如く、
取こなす、そこでつまりはsubject matterの差とする方、expressionの差 とする方、適切なり。
二一 一
その意味をもつと明瞭に云ふとかうだ。例へばさつきのStevensonの 文中より例をひけばCatriona felt into airと云ふ事有り。之は彼女が本船 からboatへ跳び乗る形容なり。その中には此の中に表はされてる以上の 意味を有す。即ち、かく云ふとCatrionaの足が本船をはなれて居る事を 証明す。同時にboatに足のついてない事を示す。而して両船とも上下に 漂うて居るなれば、もしとび損へばCatrionaは海の中に落ちねばならぬ。
而して海へ落ちるか安全なboatへ落ちるかriskあり。そこに読者心配を 与へる。その為にはCatrionaが本船とboatの間に居らざる可らず。単に 状態のみを示すのでは甚だ緩慢なる故(危険の感が少いから)leapと云 ふ字を入れてactionを示せり。故に此句はboatにとび居りたと云ふ事も 表はさずとび損つたと云ふ事も表はさず如何にしてCatrionaがとびしか と云ふ問題に答へるので、即ちhowと云ふ事にしてmanner of leapingを 表はす句なり。而して此mannerあればこそ始めてvisionが起るなり。即 ち如何にしてCatrionaがとびしかの景況目に浮ぶなり。文章の活動とは かゝる意なり。
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それでStevensonは此howをうつす事に興味をもてり。読者も亦此how をvisualiseするに定らねども、もつ方が当り前なり。然るにDefoeは全く 然らず。彼は如何にしてCatrionaがとび居りしかを聞かぬ。彼の主とす る所は、只事実を書けばよい。果してとび下りしかとび損ひしかの結果 さへ知らせばよいとせり。従つて如何に危げにCatrionaがとぶも如何に 安くとぶも関係せず。故に他の詞で云へば彼は描きつゝある事件を絵と して示す事をしないのかor力がない。
吾々が面白と思ふは絵画的断片なり。motionがあるより絵は実際は motionないが、その前後を考へればmotionある。Lessingの云ふやうな ものではない。Defoeは角力の星だけを見てすましてる。Stevensonは取 り組をかいてる。ここの相違に大差がある。単に両人expressionの相異 のみならず、二人の文を書く目的がちがふ。故に取捨する点がちがふ。即 ちsubject matterがちがふ結果をひき起す。
飛び下りて後She held to me a moment very tight, breathing quick and deep.と云ふ句を入れり。之はobjectiveな句に相異なきも本船からと 二二
一
び下りた時の女のagitationを表はす詞でmechanicalな句ならず。要な訳 なり。飛下り損つたか飛び下りたゞけで沢山なり。女の心の働き方の如 何は法廷(7)では関せず。然るに其処が
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文学でそのHowをexpressした所に人間が器械のやうに見えなくなる。
此の句の為に一のfeelingが出る。間接にsympatheticな書き方なり。
然るにDefoeの作にはfeeling表れず。独り彼のみならず十八世紀の作 は皆coldな感じあり。前にはobjective sideよりStevensonのは画になる と云ひしが、こゝではmental sideより即ちsubjectiveに絵画的なり。
Dofoe前にあげし戦争の記よりmoral elementを表はす字なし。或は sensuous elementの字なし。Defoeの作物のdryなるはそれが為なり。
Defoeは人間を時計の器械の如く考へ、その無神経な筆を以てその器械 の運動を写すが彼の特色なり。故にその描写には脂乗らず蝋を噛む如し。
前に云ふ如く彼の目的とする所はhowに対するならで、心で云へば action、行為で云へばactionにrealiseした大きく云へばincidentを書く目 的なる故、従て書くなるその事実は如何とも(事実は出来事も)彼の作 つたもので、それさへ伝へれば顧慮なき故、吾々がある者を描き絵画的 にする苦心やnervousにする苦心を何の気もなく平気でやつてのける。
その為には普通人が普通会話の時尋常一様の頭でする題目は戦も難船も 出るがそれはamuseする為にも話すならんも、要するにpreparationなし にof handにやる事だから事実なり。Defoeの作は之なり。
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Defoeと普通人との差は、Defoeはペンで紙に書いたのと、普通の人はそ れをしなかつただけの差なり。即ちその叙述をしたものがhowと云ふ事 を見せてやるだけの手際なければある意味より文学的ならず、之は日記 をつけると一般なり。故に文学的にそれを書くには頭が入用だ。考へね ばならんと云ふ事なり。即ち暇がいると云ふ事なり。Defoeは此苦を敢 てせず。彼は生涯何百部と云ふ書を書けり。彼は書物を書くは只筆をと り有り来りの言語にて早く書きつけるより外能なしと心得しが如し。芸
( 7 )先行箇所でDefoeを実用文、法廷の文書(証文)のようだと言っていたこ とに関する表現。
二二 一
術的良心は始より有せざりしが如し。たとひありしにしても現今の如く sensibilityが発展せざりし故済んだのならん。彼は乳くさい小説家なり。
而して悪く云へば之がイギリスの国風なり。
此の如くDefoeのinterestはincidentの上にのみ注がる。而もその出来 事全体ならず、その結果の上にのみありやと云ふにactionが連続して出 てくるが能事にてその他に何事にも彼はinterestを置かず。只例外には 時々感想をやる。それも安つぽく、religious reflectionをやる深さもない。
conventional極るものなり。かゝる頭なれば例へばRobinsonの頭より見 るに山羊を何の為に存在するやと云ふに食ふ為に存すとしか見ず。木が あればきつて薪にする。夏になれば影が出来ると何かも
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実用的に見て毫もaestheticな所なし。よくあんな小説が書けたものと思 へる。
Tennysonのエノツクアーデン、離れ島にうち上げられた処にはかうあ る。
The mountain wooded to the peak the lawns〔Enoch Arden.引用 略。全集pp.470-472〕
122左
〔…〕The scarlet shafts of sunrise - but no sail.
此の中には人間が居る。即ち感覚ある人間が居る。sentimentのある人 間が居る。Robinson Cruesoeは之に比すれば人間でなく只実用的器械な り。Robinson CruesoeをcreateせしDefoeもこんな男なるに相異なし。彼 の作に出る人物は皆Robinson Cruesoeの如き人なり。而して之が英国々 民の一般性質なるが面白し。英人はsturdy(8)でphlegmatic(9)で而して practicalである。彼のなせし仕事は皆Robinson Cruesoe流に成就せり。成 就のみが人間らしいのではない。ある時は失敗するが人間らしい。成就 するのみで器械のやうな心地だ。香港の様な痩地をあの位にやつた英人
( 8 )木下はstoriedと書き取っていたが、刊本では「頑強」にあたる語である ため、sturdyと推定した。
( 9 )木下はplematicと書き取っていたが、刊本では「神経遅鈍」にあたる語 であり、鈍感で冷血な気質「粘液質」(phlegmatic) と推定した。
二二 一
はCrusoe流にやつゝけた英国の国民はCrusoeを以て生れCrusoeを以て 終る国民なり。エノツク・アーデンはTennysonだから書いた。何百万人 の中の一人が書いたので、之で英国民は推せぬ。英国民はCrusoeが代表 してる。彼は人間を代表して居らん。Sentimentがない。
次にTennysonのpoemには 122右
natureが出てる。而そのnatureがfeelingを伴て描き出されてる。エノツ ク・アーデンは水夫なればnatureをenjoyする男ならず、又出来ぬ。
Tennysonはエノツクアーデンを通して彼のnatureに対するfeelingをか けり。而してnatureはincidentとは関係至て少し。従てincidentのみを かゝんとするDefoeには全然不要なり。故にDefoeはnatureのbeautyを かゝず。
此の如くして彼の作物はnatureに対するfeelingもなく又Sentimentに 対 す るfeelingも な く 或 はvisualiseせ ん と す るartも な く、 宗 教 上 に conventionalな浅薄なreflectionなり。indefinitelyに長く書いてゆかうと してる。
最後に彼がtruthに対して
(10)人はDefoeの作はrealicticと云ふ。その意味を確めざる可ら ず。R. StevensonはカーネルJackが盗んだ目録を出して此の通りexactに 書きあり。それは残りなり。吾々が盗難品を訴ふるが如くかきあり。な る程それはrealisticなるべし。併しそれを敷延して考ふるに此種の realisticは寸法を間ちがへたrealisticなり。
小説はartなり。artなる事を吾も人もassumeした上で態とartを破るや うな事を書きartを破つた事、即ち小説じみて居らん事、即ちrealisticだ と云ふ事になる。故にradicallyに云ふとrealisticであるかもしれねど小説 をぶちこわしてのrealisticなる故、効果相償ふ
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ものか疑はし。
例へば教師は品行正しきものなる事を自他共に認む。而して教師の放 蕩を新聞に書き普通の人が放蕩したのならわからぬが正しくあるべき教
(10)原文で空所。書き落としたか。
二二 一
師が放蕩する故まさかうそではあるまいと人に思はせやうとする主意と 一般なり。なる程その教師は之が為に活動するかも知れぬが、教師は資 格を失ふかもしれん。DefoeがStevensonの云ふ如きrealisticならば、消 極的realisticなartなり。否かうあるべきものがそれを破り、その破つた 所がartぢやないかと威張るが如し。
realisticと云ふ語、元来曖昧なるが、物事を書きそれが眼前に活動させ るがrealならば之もDeforeには出来ぬ。只artたるべき小説に書かでもす む事又は書いては反て邪魔になる事を並べて小説らしくない、こゝにart があると云ふならばそれがDefoeのrealismなり。之はrealかも知れぬが 小説ではなくなる。此意味でのrealは小説でないと云ふ事と同じ事。即 ち日記、報告書と同じ意味でrealなり。天下に報告書よりrealなものなし。
故に此の如くrealなりと云ふは小説として三文の価値なき事なり。
写生文家が不要な事を並ぶるはDefoeに似て心地は異ると云ひしが、
写生文家がいらぬ事を並べるは無頓着に面倒な事も面倒とせず並べるな れば、いふ事も無頓着にすてるとは心地から
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云へば同じ事なり。即ち極ほめれば飄然とartに拘泥せざる事は面白し。
その行為はともかく、その気持をとると面白い。西洋人にはこの気持心 意気はわからぬ。Übermensch〔超人〕は之とは意が異る。
然るにDefoeのは万事実用から割り出したので損得から出て来てる。
盗難届に些細なものまでも損だから書くので探偵的だ。従て俗悪だ。
Defoeのは下品に見える。Defoeの作は此の意味にてrealなり。而も之は 多くの場合に於てexpressionがrealなのでsubject matterには突飛な事 が多い。
自然に余がDefoeの作をよみし中でhuman natureのtruthを現せりと 思ふは只一ヶ所なり。平生のmechanicalなexternalなDefoeの手際として はうまいと思ふ。それはColonel Jackの中にある。例はまあやめて置か う。子供の掏摸が金は取るが衣が破れて入れる処なしに困る。此の子供 金を用ひ方は知らず、只取る、これだけが面白い。それからとつた金を かくさうとして或大木のうろへ入れると深く落ちて手がとゞかず。大に 驚き悲しくて泣き出す。後に木の後へ廻りて見ればちやんと地面の上へ 二二
一
在つた。つまり穴は下が朽ちて木の裏にぬけて居たのであつた。これが 面白い。これだけでも書きやうによつては今の小説になる。
(Defoe終り(11))
(11)二年にわたる講義の締めくくりとしては唐突である。ローレンス・スター ンを論じる予定もあったとみられる。全集p.287参照。
一一 四