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國學の理念と擁夷論への展開

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

國學の理念と擁夷論への展開

竹岡, 勝也

https://doi.org/10.15017/2339091

出版情報:史淵. 33, pp.69-106, 1945-03-10. Faculty of Law and Letters of the Kyushu Imperial University

バージョン:

権利関係:

(2)

國學の理念ご擁夷論への展開

少巳

竹.岡︷勝也

二一

一■■國學は御國の學であり︑皇國の學であり︑やがて皇國の瓢現を使命として裕ふ學である︒國學が近枇耐會に搾頭し︑

漸く儒佛の學との對立が意識されて來た時に︑この自攝は己に國學の魂としてその中に胚胎せられ︑彼等の古典研究

を導いて居た︒そして杜會的に見るならば︑それは一派の學派として︑明らかに儒佛の學と對立して居るのであるが︑./︒.p彼等はこの對立をさへも拒否して居た︒皇國の學はかくあるぺきものであって︑儒佛の學の如きは︑この立場から云

ふならば︑要するに枝葉末節の問題に過ぎなかった︒即ち宣長は︑玉勝間に畢問莚論じて︑次の如く語って居る︒

世の中に學問といふはからぶみまなびの事にて︑皇国の古へ︲をまなぶをぱ分て榊學︑倭學︑國學などいふなるは︑

例のから國をむねとして︑御國をかたはらになせるいひざまにて︑いとあるまじきととな恥共︑いにしへはたぜか

ら書學ぴのみこそ有けれ︑御國の學ぴとてはもはらとする者はなかりしかば︑おのづから然いひならふべき勢ひ也・

︲しかはあれども︑近き世となりては︑皇國のをもはらとするともがらもおほかれぱ︑からぶみ學ぴをぱ分て漢畢︑

儒學といひて︑此皇國のをこそうけばりてた噌學間とはいふぺきなれ云奄

一國學といへぱ︑尊ぶかたにもとりなさるぺけれど︑國の字も事にこそよれ︒なほうけばらぬいひざまなり云交・

︲.固畢の理念と抄夷論への展開J六九

4f

(3)

I

1k

圃蛎の理念と慨夷論への展開七○|・

︒〃﹁から國の譜をもいとまのひまにはずゐぶんに見るぞよき﹂と語って︑沌學の存在を承認して居る宜長ではあるが︑

その涜難は﹁漢締も見ざれぱ︑其外つ國のふりのあしき事もしられず︑叉古書はみな漢文もて書たれば︑かの閥ぶり

の文もしらでは學間もことゆきがたければ也﹂と云はれる立場に置かれるものであって︑皇國の學との間には自ら内

外本末の別があり︑同列に世かるべき性衝のものではなかったのである︒︒︲夕かくの如く畢問と云へぱ皇國の學であり︑皇図の學はまた皇國の撫現を要諦とする學でなければならなかったので

あるが︑然らばその皇國は︑如何なる姿に於て被等に把握せられ︑理解されて居たのであるか︒︸こ虻.に問組とされる

ものは︑古學としての國學の枇椛である︒宣長は﹁皇幽の古へとまなぶをぱ云さと稲して︑國學は皇圃の古へ逓皐

ぶ畢問である事を語って居る・皇國の學である図學は︑何故に古學でなければならないのであるか︒古やそれは古へ

の大御代であって︑彼等は皇國のあるべき姿を︑・との古への犬御代に於て見たからであった︒この古への大御代に對・

して︑ひた向きに識美の一言蕊を搾げて居るものは鰹淵であったと云はれるであらう.それは﹁天地にかなひてまつり

ごちませしいにしへの安國﹂であり︑﹁天地のおのづからにまかせて有し皇らいにしへ﹂であり︑しかも﹁天地ととも

におこなはる.Lおのづからの事こそ生きてはたらく物なれ﹂・であって︑この天地とともにはたらく莊嚴とも云はれる︑

姿に於て︑彼は古へ切大御代を理解し︑これを夢想したのであった︒そこに於ては皇統は洲としての御姿を現じ︑人

の心は雄交しく直ぐ雑びたると云はれ︑ゞしかもすべておほらかであって︑生活は素撲ではあるが︑赫々を祭り︑皇統

七・

を戴き奉る事に依って︑世は安画と治まる事が州來たのであった︒次に宜長の古代観は︐直毘遜に於ける次の言葉に

依って識くされる︒↑

■■■■1L■田野■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■且■■

(4)

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L

|いにし・への大御代には︑しもがしもまで.たピ天皇の大御心を心として︑ひたぶるに大命をかしこみゐやひまつる

ひて︑為ぼみうつくしみの御蔭にかくろひて︑おのもおのも耐祁を齋き祭りつ山︑ほどほどにあるべきかぎりのわ

ざ淀して︑罐しく樂しく世をわたらふ云燕︒︒﹄

そしてこLに清をしき御國心溌見出して︑眞州と共に矢張り皇國のあるべき姿をこの古の大御代に於て仰ぎ兇たの.を︑︑︑であった︒古事記の研究を大成し︑祁代の古傅をそのまLまとととして受け取った宣長の立場は︑腫洲に比較して遥

がに複雑でなければならなかった︒殊に周到にしてしかも多而的な宣長の性格は︑その思想逓興淵の如く直祇ならし

める事が出來なかった︒併しながらその宣長の場合に於ても︑皇國のあるべき姿を︑古への大御代に仰ぎ見る事に於

ては︑眞洲と塗りがなかったと云はれるのである︒

闘學はこの後史に發展し︑森末から明治の初年へと及んで來るのであるが︑との間にあっても︑皇図の理念が古へ

の大御代にかけられる形体に於ては塗りがなかった︒殊に興淵の國學に於ては﹁日は明らけきを木として︑雲霞にに

↑ほひ照れるけはひあ・り云直と云はれる天地の附餓に對する感動︑詠嘆が︑その古代槻の一つの根鑛をなし︑﹁天地

のおのづからにまかせて有し皇らいにしへ﹂と噛云はれたのであるが︑この腫州の天地槻は︑宣畏に於ては﹁天地はFけ死物にして心もしわざもある物にはあらいを︑心もありてしわざもあるが如く思はる上は︑みな榊の御心に再耐の

御しわざなり・たとへぱ天地は器物のごとく︑肺はその器物を用ふ人の如し﹂︵くず花︶と云はれ︑聯と物とに分裂し︑

﹁そもそも天地のことわりはしもすぺて榊の御所爲にして︑いともいとも妙に︑奇しく︑甑しき物にしあれば﹂︵直毘

遜︶・と︑天地の確妙に對する感動は︑新に帥の上へと移って來て居る︒換言すればこの天地に就て帥の御心を見︑・肺

國學の理念と抄夷論への展開七一

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1141111曲Iq04詞配謝b

(5)

町舘

I

閣離の念と郷夷論のへ腱開七二

の御しわざを見ると共に︑この肺の御しわざとして天地間の一切の現象を理解したのであったが︑かくの如き祁道的

世界観の腱開がこの後幽學の課題として重大な意味駐持って來て居る事は云ふまでもない︒そしてこの祁遁的世界

槻の屏開に作って︑新に注意を集めて來て居るものは祁代であった︒宜長に從へぱ﹁かくて大かた世の中のよろづの

逝理︑人の逝は︑祁代の段狗のおもむきに︑.ことごとく術はりて︑これにもれたる事なし﹂︵玉匝︶と云はれるもので

迅宅あり︑鮪胤もまた古逝に就て﹁一休眞の遊と申す物は︑渡事の上に術はりあるものにて候を︑世の學者等は︑とかく

教訓の詩ならでは逆は得られぬ事のやうに心得居り候へども︑荘だの祝に候﹂︵入學問答︶と語り︑榊代の濟事を決定

するための古史成文の完成に畢生の努力を捧げて居る︒國學の世界槻は︑記紀二典に依って示された祁代の古体に對

する解輝として展開されて來るのであって︑それは術然祁道的な性格を帯びなければならなかったのである︒

かくの如く幽學の問題は︑祁代の古仰に於て紳代の世事を見る事︑換言すれば祁代の古傳に就てその歴史性を解明

する事にかけられて來た︒それは紳諾の歴史であって︑人間の歴史ではない︒併しながら祁女と雌矢張り雁史的存在

であつで︑との紳々の雁史的活動に依って︑天地は剖判し︑閏土は生み成され︑皇統は發斗岬し︑またこの皇統の發稚

に依って︑皇閣の基は開かれて來たものであり︑しかも﹁世の中のよろづの道恥︑人の道は︑耐代の段だのおもむき︒

またこLにあったと一

ろたと云 ける紳代の瓢現を見たのであって︑古への大御代が︑皇國の珂念のか上る庭として︑特殊の意味を示して來る所以︑ にまで遡るものでなければならな︲かつた︒換言すれば彼等は古への火御代と呼ばれる歴史的時間の上に︑人の世に於 にことごとく術は﹂れるものであって︑この意味に於て︑彼等が皇國の理念莚かけた古への大御代は︑更にこの赫代

はれるのである︒かくして國畢は︑皇國の郵念を耐代に求める學であり︑榊代の顯現と使命と

守口

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(6)

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一一

﹀令〆

歴拠の根源を紳代に求沁︑古への大御代に於て紳代の顯現を見た國畢の歴史観は︑先ざ歴史は降下であり︑その降へ垂

下は古への犬御代の萎が火はれる事を意味すると一云ふ形体を取らなければならなかった︒そしてとのひた向費一な降下

史観と以て歴史に臨んで居るものは眞淵であった︒即ち皇朝の文は古事記であり︑その後文は次節に女だしくなり︑gd〃〃いにしへの雄交しくして雅ぴたる事は皆失はれ︑かくして源氏の物語までが下れる果て凹あって︑その以後にはbも..︑︑早﹁丈てふものはいさ上かもなし﹂と語られて居る︒しかも﹁その文の拙きのみかは︑意も言もひがことのみ多く成

りい﹂であって︑﹁皇威漸うすくぃと云はれる朱雀の御枇の頃を境として︑古への大御代の姿は雁皮の上から失はれて

.しまったのであった︒そしてこの雁史降下の原因は︑腫淵の場合に於ては︑﹁意造一言もひがことのみ多く成りい﹂︑と云は

れる關係に求められる︒天地は祁代なす直き姿にあるのであるが︑﹁人のみこそおのがさかしらをあらそひもてゆき

てかくわるくことに﹂︵家集︶なり降ったと言はれ︑それはまた心わろきから園の影響としても理解されるものであつ

國學の理念と櫻夷論への展開.七三

1 の上に求めんとする彼等の運動は︑徴然古への大御代に立ち師らんとする復古の形体を取らなければならなかったの 人の世の歴史に就て云ふならば︑彼等は古への大御代に於て︑祁代なす直費委を見たのであった︒舳代の顯現を歴史 して僻ぷ鼠であると云はれて來る︒そしてその祁代は︑雁史的時間の上に求められへ歴史の根源として理解された.

である︒かくしてさかしらを排盤して御剛心を呼び戻し︑脚友の祁聖を族復し︑皇統の載嚴にする國民の自樋を呼び ︑︑︑︑

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繩まさんとする彼等の運動が擁頭し︑ここに皇國の學の大木が求められて來たのであった︒

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(7)

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の御有様は︑今は何うであるか︒﹁中比すたれたりし事共も︑御世堂堂にやうやうに御再興なども有て耐すぺて皇朝

の今の御ありさま︑かの御衰への極なりし時代にくらぶれぱ︑いかばかりかは楽え給ふ﹂︒︵くす花︶と云はれる事変

も問題とされなければならなれづた︒固より﹁世の入たご皇朝を今も麦へ玉へりとのみ凪ふは︑古への全盛なりし御 しめた原因だと考へて居る︒併しなから要するに﹁いにしへの事とても心言葉の外やはある﹂であって︲古言をやが

﹄P

て我がものとなし︑いにしへの心症呼び戻す事に依って︑古への大御代に立ち師る事は︑必らすしも不可能ではない︒彼はこ上に自らの學問の使命をかけた事が兄られ︑かくして醐葉の研究となり︑寓葉調の詠歌の勧めとなり︑天地の

なしのまにまにである直き心を︑さかしらの拘束から解放するための儒學排撃となった︒﹁立かへらんことも何かか

たからむ﹂︵臨葉大老︶と云ふ縛勃とした怖熱に駆られながら︑彼は一路復古の道へと進んだのであった・

復古の難としてg坐洲の國學は︑素撲ではあるが直械であった︒然るに宣長に至って︑ざの態度には一つの励振が

現れて來る︒宜長と雌︑︐古への大御代に於て祁代の顯現注見る事には鍵りがなかった︒そしてその古への大御代の姿

が︑次第に移り下って︑今日に及んで來る歴史の推移も承認されなければならなかったのであるが︑果して歴史はひ

た降りに降って來たと云はれるものであるか︒彼は坑淵に依っては︑下れる果てと裁断された源氏物語に就て︑改め

てこの問題を考へて児なければならなかった︒古今や新古今の和歌に就ても︑同朧の問題に突き常らなければならな

かった︒それは必らずしも﹁文てふもの﹂丈の問題ではなかった︒足利の末世に︑御表への極みにあらせられた朝廷

國學の理念と抄夷論への展開七四

た︒就中彼は﹁いと小き儒の道監﹁いと回せまき僻の道を︑またまたせばく理りもて云ひつのれる﹂宋儒の道を攻撃

し︑その合理主義︑・形式主義的な作爲が︑.我が人心に作用した事を以て︑世事人購一般に︑古への大御代の姿を失は

〃︑

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代にのみくらべて見る故なり﹂であって︑古への全磯なりし御代には及ぶべくもないのであるが︑しかも術歴史をひ

グ谷・﹃

た降りの降下としては受け取れなかったのである︒殊に源氏は︑ものiあはれの限り券講くした︑この意味に於ては

比熱なく勝れた物語であり︑和歌に於ても﹁古風は内妙衣のごとく︑後世風はくれなゐ︑紫いろいろ染めたる衣のご

とし﹂︵初山ぷみ︶︑と云はれ︑﹁染衣哨その染色によりて︑叉とりどりに脇でたし﹂であって︑率しろ新古今に於て

﹁事のたらひ備りたる歌の眞盛﹂を見る彼であった︒腫淵に依って弧く引かれた直線が︑宜長の場合に仕波動を示して

來たとも云はれるのであって︑歴史に對する祁代の作用も︑とLに自ら異った形尭示して來なければならなかった︒

即ち眞州の場合に於ては︑榊代は次第に遠く時間と共に過ぎ行く立場に澄かれ︑この遠ざかり行く榊代を呼び戻さん

とするのであるが︑責長の場合に於ては︑矢張り朧史的時間の上に顯現した祁代ではあるが︑その祁代は更に歴史に

内在し︑今日に至るまでその作用を紬けて居るとも云はれるものであった︒併しながら大勢から云ふならば︑矢張り.︑︑︑︑古への犬御代は巳に失はれてしまった事には愛りがなかった︒そしてかくの如去歴史の降下が︑さかしらの作川に依っ

て理解されて居る事も︑︾侭淵と同澱であったが︑巳にこの天地が耐と物とに分裂し︑﹁そ凶そも天地の理はしもす︒へ て洲の御所爲にして︑いともいとも妙に︑奇しく︑懸しき物にしあれば﹂と語って居る彼の立場から見るならば︑歴史

の推移︑それも耐の御斫爲であり︑榊の御心に韮くものであって︑そこには﹁さら・に人のかぎりある籾りもては測り

︑︑︑︑がたき﹂深き道理あるものでなければならなかった︒さかしらの作用に依って歴史は降下した︒それ咄紳の御心に依

るものであって︑これに對して︑反淵の如く直赦に︑﹁立がへらんことも伽かかたからむLと腿り立つ事は川來なかっ

たのである︒

國學の理念と抄夷諭・への展開七五

1

(9)

餌學の理念と郷夷論への腿開七六

︒︑兎に角彼は深く思ひ駐歴史の推移に致す時に︑そこに於て矢張り人間の力の限界に突き鴬らなければならなかった℃

歴史はそれ自ら生動するものであるかの如く︑その展開を支配する虚の一つの勢を孕んで居る︒﹁すべて世中の事は︑

何事も︑よきもあしきも︑時世の勢によるものにて︑いかほど悪きを除かんとすれども︑いかほど善事を行はんとす

れども︑極意のところは人力には及びがたきもの﹂であり拘從って時だの制度に就ても︑﹁いかほど嚴しく命令を下し

ても︑とをれ制せられても︑時世の勢は︑中友防ぎがたく︑人力の及びがたきところあるもの也﹂︵秘本玉くしげ︶と.

云はれ︑この勢逓無脱した急激な改革は︑途に失敗に経るものとして︑・これを戒しめて居る︒この歴史の勢は︑近世

史學の課題であって︑これを取り上げて居るものは︑濁り宜長には限らなかった︒宜長の場合に於て︑特異な点を畢

げるならば︑それはこの勢に於て卿の御心莚見︑榊の御所爲を見る事にあったと云はれるのである︒限りある人間の

智りを以て云ふならば︑雁史の推移は︑決して合理的にのみ導かれ得るものではない︒この歴史の非合理性の中に︑.

彼は人間の判りを超越した洲の御心を見出して︑その深き道理を受け取ったのであった︒耕しながら彼は必らすしも

これを以て︑歴史の推移に作用する人間の力逓否定するものではなかった︒弧ひたる事︑急激な改革は却って刺の御↑

心に逆ふものとして︑戒しめられなければならないが︑人間にはまた︑人間の立場として行ふべき道がなければなら

ない︒即ち玉限には︑この問題に就て︑次の如く語られる︒

然らば何事もたご帥の御ばからひにうちまかせてやよくもあしくもなりゆくまkに打拾おきて︑人仕すこしもこれ一口︑詮いろふまじきにやと思ふ人もあらんか︒これ又大なるひがことなり︒人も人の行ふくきかぎりをぱ行ふが人の道

にして︑そのうへに︑其事の成と成ざるとは︑人の力に及ばざるところぞといふことを心得居て︑狼たる事をぱ行

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(10)

ある・これに就てはまた︑﹁た図つ娘つれ善事は︑そのかたのくつれぬやうに︑止いやうにはからひ︑悪き事は少たづ

﹃■

︒夕kも淌するやうに︑長ぜぬや弓にと心がけ︑さて叉新規に始めんとする事は︑よくよく渚へて︑人だの斜棚駈もき上︑

他幽の例などをも開合せ︑諸人の蹄服するかせぬかをよく勘へて行ふくし﹂︵秘本玉くしげ︶とも語られて居る︒それ

﹄■ロは政治の問題であるが︑同時に歴史の問題でもあって︑雁史の推移は︑矢張りかくの如き意味の人力の作川に依って

導かれて來て居毛事を承認しなければならなかった︒歴史を建設とする立場から云ふならば︑それは極めて消極的な

ものであって︑固より宣長と難歴史の打開をかくの如き人力に托する事は出来なかった︒古への大御代を顯現する

ための打開を︑彼は矢張り祁交の御所爲に托しなければならなかったのである︒それこそ皇國の鐘殿な所以でもあっ

てへその原理は己に﹁いつまでか光憾くらむ久方の︑天の岩戸は唯暫しこそ﹂︵↑玉鉾百首︶と歌はれる榊代の故事に於

て示されて居る︒帆津日祁の心のあらぴも︑﹁天地のとこしへなる間にとりてはたピしばしの程にこそあれ﹂.︵くず花︶

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であって︑やがて清明に立かへり︑天地の限りとこしへに榮える事は︑祁代の昔から︑愛りなき皇國の約束であり︑q一天照大御榊の御心でなければならない︒唯問題は時筵待つ事にかけられ︑時に激して耐の御脈爲に勝たんとするが如

き純銀嘉働は︑堅く戒しめられなければならなかった︒それは彼の古學の立場でもあったのである︒即ち彼は自らの

古學に就て︑︲くず花附録に︑次の如く語って居る︒↓

惣て某が道を説申候趣は︑かの儒佛などの数の如く︑︽是を今の世の人に糊め候て︑必上古の如く行候へと申候にて

國雛の理念ど抄夷論への歴開︑七七.

ふまじきなり︒洲の御心の深き道理に思ひを致し︑自らの力の限界左自鼬して︑然る上に於て︑行ふくき限り遂行ふ事が人の道で

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新へと移って來る︒例へぱその歴史観に於て恭順な宜長の弟子である伴信友は︑國學の勃皿令發達︑これに伸び古道

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ある︒︒

︑.

塞與するものでなければならないが︑宣長の場合に於ては︑と上に尚以上の如きゆとりが残されて居た堺を見るので

が明らかに世に示されて來た事に就て︑︐﹁今ぞまことに唯しき洲たちの木つ御心のあらはれそめたるにこそあるくけゞ↓ 時機の酢熱︐それも肺の御心でなければならない︒そして窟長の製後︑時勢は急激な進展を示し︑幕末から明治の維 すと云はれるであらう︒ を無脱した歴史灘は許されないのであって︑この限りに於て︑國學は確かに査践性の稀薄が問題とされ得る徐地を鎧 つた︒明らめしる事は︑行はれる事を豫想せしめるものであり︑↑﹂の意味に於て宣長の國學は︑矢張り榊代の顯現に 時韮りて上にこれを用ひ行ひ給ひて︑天下にしきほどこし給はん世逓まつべし﹂|と云はれる關係に置かれる︒ものであ 古の適を猪へ明らめて︑そのむ姫を人にもをしへさとし︑物に哨普通しおきて︑たとひ五百年︑︐千年の後にもあれ︑ られるものではなくして︑唯﹁潜逓奪れて明らめしる﹂虚にかけらるべきものであり︑↓そしてそれは﹁されば随分に の私に定狛おとなふものにはあらす﹂︵弓ひ山ぷみ︶診と云はれるものであって︑皐者の務めは︑私に道を行ふ鹿にかけ

閏學の刈念と拶夷論への展開・七八

は候はす︒惣て世の中の事は︑稗も悪も︑皆榊の御所爲にて︑人力には叶がたき事のみ多く候物を︒︑今の慨に逢ひ

凸●て︑弧て古への稗道を行はんとし峡は︑中掩祁の御所爲を背き候て︑是に勝んとし候ひが事に候云だ︒

〃しかもその通は﹁そもそも道といふ物は︑上に行ひ給ひて︑下へは上より歎き施し給ふものにこそあれ・下たる者

この宜長の歴史槻は︑.この後長く國學薪の間に仲へられる︒現に活き例く刺だの作用を承認する限り︑祁交の御所爲

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︑l︲︲︲︐い︑1卜IJTDI●11︐IIpIlDII011︲︐−1︲IIIli●I■lIrbl︐︲且0︐︲11︲jIkLr 併しながら問題は矢張り時勢の如何にか比って居る︒時勢の逼迫︑それも祁の御心であり︑

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(12)

..れ︒されば今ゆくさきも︑此學の道周く彌ましに弘まり行て︑なくて世の人の心にまじこりたるさかしらなる戎意︑

戎風の︑ついにはきみく失はれぬべき事の︑まさめに見ゆるこ上ちせられて︑たふとしともたのもしとも︑いはむはなか

なかなる事になむありける﹂︵中外經紳伸︶と︑︑宣長に依って速き歴史に豫想された榊代の顯現は︑まさめに兇ゆる身

近さにまで辿って來た事が感知されて居る︒殊に儒友と時を同じくす必平田篤胤に於ては︑この態匪に一つの純換が

︑行はれて居る事も注目される︒それは一つには︑澗津日肺に對する解罧の祁述に基くものであ↓って︑宣長に從へぱ︑

︲細津日祁は世に柵を商らす悪紳であって︑いたく荒ぴます時は天照大御剛商木大祁の大御力にも止み粂ぬ給ふと云

〃はれる威力を振ふ大悪祁であり︑歴史は矢張りその支配を免れる事が出來なかったのであるが︑鰐胤は︑この解癬に

︑反對し︑︐﹁との耐は識き事を輩く悪みて︑汚職たる事のあれば荒ぴ給ひて澗恥を爲し給ふ故に︑耐津日てふ御名は負

一I今1

.坐るなり﹂とこれを解稗して︑.﹁汚職の清まり党れば︑御荒ぴなきは更にも云す︑︐いみじき功をさへに爲し給冬耐

であると語って居る︒古典解綴として︑その何れが安術であるかは暫らく別として︑兎に角篤胤の解輝を適川する事

に依って︑歴史の問題健善謹一刺の對立から︑汚職の有無へと移って来た︒しかも柵沖日祁の荒ぴになる世の淵事

ーは︑直児祁の作朋に依って︑吉善に和め遼︽される事が川來るものであり︑歴史の推移を支配する耐たの御所爲を否

6も一

.定する事にはならないが︑その關係は︑宣長の場合とは著しい相逮を示して來たのであった︒彼はまた﹁淺間山にま

︑す帥より夢にうけ給はれる御をしへの一と氏ろを﹂と題して︑﹁なせば成りなさぬは成らずなるわざを︑成らずと捻る

・人のはかなさ﹂︵丸山作樂偲﹀と云ふ歌を残して居る︒かくの如き歌が︑祁のみ注しへとして歌はれたと云ふ事は︑國

學者の政治的活動を根擦付けるものであり︑彼逓稗機として︑しかも一面迩辿した幕末の情勢に促されながら︑國畢

園蝶の理念と抄夷論への腱開.・七九

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錨一

(13)

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隅畢の蝿念と拙夷論への展開↑八○

は特しく行動的となり︑途に政論的濟朧の郷台へと進んで來た事は︑決して偶然ではなかったのである︒︲

■一一一

・國果は復古の學であり︑皇國の理念段古への大御代に於て見る蕊なるが故に︑その政治の問題は︑彼等の古代観と

︾不可分の關係に澄かれるものでなければならなかった︒併しながら古への大御代はまた祁代の顯現として理解されて

居ろ︒換言すれば耐代に依って規定される皇國の理念は︑一應古への犬御代に於てその顯現を見たのであるが︑それ

はまた今日の歴史に托された問題でもあって︑天地の限りとこしなへなる歴史の立場から見るなち.ぱ︑古への大御代

に立かへる事に依って皇國の理念を取り戻すと共に︑更にその顯現の醤みを進める虚に︑今伺の立場は世かれるとも

云はれるものであった︒國學に於ける政治の問題は︑矢張りこの問題にか上って來る︒例へぱ宣長の秘本玉ぐしげ︑

及び別巻としてどれに添えられた玉くしげ券開いて見る︒宜長の政治論を最も直赦に示して呉れるものは秘本王くし

︑げであり︑これに對してその基く唯の大木を述今へたものが玉ぐしげであると云はれて居るのであるが︑この二書に見

ろも︑以上の關係は窺はれるものがある︒歴史の推移を榊友の御心に托し︑人間の立場をその限界の中に求める宜長

め政治流は︑矢張り消極的である事を苑れなかった︒併しながら問題のかふる庭は︑要するに國學の主張にあるので

あって︑例へぱ肺祗の再興の如きはその一つとして認げられる︒﹁天泥の祁献は︑古へはほどほどに朝廷より祭ら世

玉ふ御事にて︑諸國の小肚までも︑・その閏守のうけ玉はりて祭られし事なるに﹂と︑先づ思ひを古への大御代に致し

て︑次に﹁然るに中比久しき兵飢によりて天下の肺祗大荒唆し︑祭典もすたれ云々﹂と︑今に至るまですたれたる−ま

Lなるが多きは︑いとも歎かはしき事として語られる︒從って表へたる祁祇を興し︑暖れたる祭典を復鮮し︑祁靭を

︽グ則︑

■可

(14)

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鄭或にする事は︑政治の亜大問題とされなければならなかった︒

次に問題はへ﹁凡て天下の大名たちの朝廷を深く畏れ︑厚く崇敬し奉り玉ふくきすぢは︑公朧の御定の通り淀守り

玉ふ御事勿論也﹂と云ふ條に移って來る︒﹁抑木朝の朝繩ば︑祁代の初より殊なる御子細寵します御事にて︑異國の

比類にあらず﹂と語られ︑委しくは別巻にありとして︑と!−に皇國の政治の大木が明らかにされて居る︒これこそ図

學の根木問題であって︑古道の依って立つ唯であり︑皇國の顯現は︑先づ天地のかぎり愛ろ事なきこの皇統の徽嚴に

對する國民の自髭を呼び兇ますと共に︑この皇統を上に戴きまつる朝廷の権威を恢復する事にかけられなければなら

なかった︒即ち朝廷は今一︲天下の御政をきこしめすことなく︑おのづから枇間に遠くましますが故に︑雛も心には尊

き御事は存じながらも︑事にふれて自然と敬長29ぢなぼざりなろ事もなきにあらず﹂と云はれる状態に置かれて届

ろ︒政椛が鞭府の手に托されてある郡は︑天照大御川の御はからひ︑朝廷の御よさしに依るものであって︑これには

深き道理ある事でなければならないが︑朝廷と蕊府との關係を明らかにし︑これを是正して︑朝威を輝かしめる事は︑

矢張り今の世の問題でなければならなかった︒殊に天下の治飢に就て︑玉ぐしげに︑1−︲さて右の如く中ごろ朝廷の大

に表へさせ給へる事有しは︑天下の剛によりての事とおもふは許通の料簡なれども︑渡はこれ朝廷の裳へさせ給ふに

よりて︑天下は犬に凱れ︑閏の事もおとろへ腫れしなり︒此道理髭よく恩はずはあるべからす﹂と語って︑﹁朝峰註以

直し奉り︑奪敬し奉る﹂事が︑治道の根本問題である事を指摘して居る事は排目されなければならなかった︒

次に問題は封建肚會の性格︑及びその現状に就ての批判に及んで來ろ︒これ駐批判する立場は︑天照大御祁の大御

心に求められ︑常時の流會に就て云ふならば︑蕊府の枕は天照大御祁の御枕であるべきであり︑蒲の大猫はまた﹁其

國學の理念と拶夷論への展開八一︐

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贈國學の理念と棚夷諭への展開.︐︑八二

國袋の政事は︑天照大御祁より次第に預かりたまへる國政なれば︑随分大切に執行ひ給ふくく︑民は天照大御祁より︑

預かり奉れる御民ぞといふことを忘れたまはずして︑﹂これ又殊に大切におぽしめして︑はぐくみ撫給ふぺき事︑御大︑

名の肝要なれば︑下だの事執行ふ人々にも︑此旨をよく示しおき給ひて︑心得逮へなきやうに耐常交御心を付らるべ〃

き御事なり苧と云はれる關係を必要とするものであった︒そして我図の政治本來の形態に就てはや﹁まづk古に天皇

の天下を治めさせ給ひし御行ひかたは︑古語にも艸随天下しるしめすと申して・た図天照大御柳の大御心を大御心と

して︑商事祁代に定まれる跡のま坪に行はせ給ひ︑其中に御心にて定めがたき事もある時は︑御卜を以て耐の御心と︲

問うか野ひて行はせ給ひ︑惣じて何事にも大かた御自分の御かしとだての御料棚をぱ用ひたまはざりし︑これまとと

の道の正しきとてるの御行ひかたなり﹂と示されて居る︒時勢は今や古への大御代とはその趣を異にして來て居る︒︐

今の世には今の世に即した政治が行はるぺきであり︑﹁弧て上古のごとくにこれを立直さんとする﹂事はや却って耐随

であるべき道の旨に青くものでなければならないが︽併しながらそれは皇国の政治本來の形態として︑矢張り今の世

の政治を批判する規準をなす關係に置かれる事は云ふまでもない・・・かくの如き立場から常時の祗會を顧みた時に︑宣

長が極力戒しめなければならなかったものは︑世上一般の森りであって︑これには色だの害悪が伴って来て居るが︑

就中由交しい問題として︑彼に取り上げられて居るものは百姓の困窮︑川地の荒臓であった︒經濟的な窮辿を打開す

るために箸りを戒しめる事は︑必らずしも宣長の創意ではなかった︒併しながら立長の場合に於て︑この春りの戒し︒

めには︑特殊な意味が伴って來て居る事も閑却されてはならないであらう︒それは政治の根本に鯛れる問題であって︐︲

これに就て宣長は︑次の如く語って居る︒.︲心︒

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(16)

およそ人間の川をなす一切の物は︑其木は拷地より生ずる事なるが︑其中に︑無てかなはい物と︑純益のおごりに

用る物とあろを︑征上のおごり長じぬれば︑そ・の無益の事に多くの物を饗す︒その無益の物のために︑田地︑山林︑

多くつひえて龍︑有用の物の陥る妨となり︑.又鉦蕊の事にさまざま人の手間入事多き故に︑有用の業をなすべき看も︑

その無益のわざをなして世逓渡る︒これ天下の手間の我にして︑かの無益の物に土地詮つひやすも同じ事也︒然る

に世人︑此子細をわきまへずして︑・何ごとをしてなりとも︑・人の疲世になる事多ぐぶ商事おぼければ︑世上のにぎ

はひ繁昌也と心得るはひが事也云令

この時宜長の眼に浮んで来て居るものは︑天地剖判の光景であり︑皇統溌赫のあの莊嚴な歴史でなければならなか

ったであらう加↑この鬮土は耐の御手に成れる榊聖な國土であり︑世界の根元をなす薩簸は︑發現して曲蕊半原珊聴幽を

顯現し︑こ上に皇國建設の憐みば始められた︒かくの如き祁代の歴史に思ひ托致しめ古への夫御批に於ける皇統の御

政治を願みた時に︑世上の森りは如何にこの國土の紳聖を冒涜し︑紳六の御心に背くものでなければならないか︒天

照犬御岬の細民は︑今大御祁の御心から離れ︑鉦器の業に醗捉として居る・鉦羅の輩え︑無益のわざ︑その反面に於

て政治の木末は顛倒せられ︑一隅亜大な問題が閑却せられ.しか咽挫民は﹁近來百姓は殊に困窮の雀し女君のみ多し﹂

と云はれる欣態に置かれて居る︒彼は必らすし凶厩淵の如く︑原始の生活に於て川代なす直き姿を見る立場から森り

を褥定するものではなかったのであるが︑現に見る世上のにぎほひ繁闘いに於て︑天地の榮えを見るものでもなかった

4F−ので●ある︒︐この意味に於て︑群りの戒しめは︑矢張り幽畢の政治論として注目されなければならない問題であった︒︑

宣長は餅時の肚會に就て︑尚色交の問題を取り上げて居る︒今一友是等の問題に立ち入って居る場合ではないがb

國學の理念と擁夷論への展開八三

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國學の理念と擢夷諭への展開八四・

何れにするも﹁たとひ少交図のためにあしきととAても︑有來りて改めがたからん事をぱ︑俄にこれを除き改めんと

はしたまふまじきなり︒改めがたきを弧ひて念に直さんとすれば︑抑の御所爲に逆ひて︑返って爲扱する邪もある物ぞかし﹂と語って︑準しろ消極的な態鹿を於て政治に臨んで居る宣長にして︑間以上の經諭を吐撚して居る事は注目

される︒時勢が更に切迫し︑一勝握き要諦駐作って︑以上の維続が世に投じられる事あるとするならば︑矢張り聯府

の否定となり︑封建就會︑商定となって︑政治的革新の運動がとLに擁頭して来る事ないとは限らないものがある︒

殊に對外關係の逼迫をこれに加へるならば何うであらうか︒例へぱ宣長は︑政治の大本を天照大御祁の御心に求めて

居る︒皇統の傘巌は︑天地の限り塗りなきものであって︑こ上に皇國の祁聖な姿を仰ぎ見るのであるが︑これはまた

世界の問題でもなければならなかった︒矢張り玉ぐしげに於て︑彼は﹁抑天地は一枚にして隔なければ︑高天原は寓

國一同に戴くところの高天の原にして︑︐天照大御紳は︑その天をしるしめす御紳にてましませぱ︑・宇宙のあひだにな

■︑らぶものなく︑とこしなへに天地の限をあまねく照しましまして︑四海寓國此の御徳光を表らずといふことなく︑何

れの國とても此の大御榊の御蔭にもれては一日片時も立ととあたはす︒世の中に至て傘くありがたきは此の大御紳な

り﹄と語り︑更に進んで︑次の如く世界に於ける我國の立場を明らかにして居る︒

さてかくの如く本朝は︑天照大御榊の御木國︑その皇統のしるしめす御閣にして︑寓幽の元本大宗たる御剛なれば︑

闇共にこの御國を豊警臣瑠て四海の内みな此まことの道に依り通はではかなはぬことわりなるに︑今に至

るまで︑外國にはすべて上件の子細どもをしることなく︑た瞳なほざりに海外の一小嶋とのみ心得︑勿論まととの

道の此皇閏にあるをぱ夢にもしらで︑嘉説をのみいひ居るは︑又いとあさましき事︒これひとへに祁代の古仰説な︑宙

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(18)

宣長の國學は︑一面政治論の分野へ展開せられ︑國學の主張は︑今や政鹸靹要諦の形を以て時の耐會に臨むに韮つ

たのであったが︑彼の場合に於ては︑未だ政治の涯際からは遠い立場に世かれ︑問題が必らずしも具体化されて來て

居るとは云はれないものがあった︒併しながら幕末がら明治の維新にかけて︑やがて展開せらるべき政治の問題は︑

深く彼の國學に根を下ろして居る事が見られるであらう︒殊に篤胤に至って︑國學は思想運動として一層正大な意味を

加へると共に︑その思想はまた涯践的な性格を持つ事に依って︑漸く時の政治に肉迫して來たと云はれるのである︒

同時にこの立場から國學の發逹が導かれて居る一面も見られるのであって︑歌學の分野︑考証事的な分野は︑その重

要枕を火ひ︑敬祁鉱皇の縮祁は益為熱度を加へ︑しかも時の情勢は︑尊皇に加へるに擁夷産以てした事も翠げられな

ければならない︒篤胤は必らずしも自ら政治の問題に身を挺したとは云はれなかった︒併しながら以上の如き意味に 少や青長の場合に問題とされて居る外國は︑必らずしも支那丈には限らなかった︒殊に彼は古道の立場から美文地理に

特殊の關心を示し︑洋學に對しても︑必らずしも路傍の人ではなく︑飽くまで笈誇の上に立ち︑理の糀微を極めると

云ふ意味に於て︑洋學の椛威に服して居る一面も見られる彼であった︒かくの如き世界認識の上に立って︑しかも尚

﹁寓幽共にこの御國を球み戴き臣服して﹂と語って居るのであるが︑唯とiに於ても矢張り希望を歴史に托するゆと″りが残されて居る︒暴風怒涛の時代は未だ訪れて來ない︒﹁古へにもたぐひまれなるめでたき御代﹂を呼吸して居る

宣長の風格はへ遂に彼の國學から矢はれる事が閥來なかったのである︒︒

きがゆえなり云友︒

鬮錐の理念と抄夷論への展開

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︲関學の沌念と拶萄論への眠開八六

於て︑剛蕊の岨点を明らかにし︑以て幕末の國學達導いたものは矢張り鴬胤であって︑宣長の國學が︑篤胤を經過し・

たと云ふ聯は︑この意味に於て重大な問題とされなければならなかった︒︑︑

祁代を理念とする皇國の顯現にかけられた閣學の政治に於て︑先づ第一に問題とせらるべきものは蝉皇の疵賎であ

った︒献呈の涜践は︑時の政治形体を弄定し︑倒幕の運動として展開されて來る場合もあった︒この時に至れば︑そ

れは狐り閏學丈の問題ではなく︑珠に國皐は著しく水戸學に接近し︑巨拠に依って一膳その匿践的な迫力を加へて來

て居るど云ふ場合も見られるのであるが︑兎に角愈皇倒聯の運動に挺身した幕末志士の間には︑多数の國學薪︑或は

國學の流れを吸む人点が存在した事は著しい事澄であった︒そしてこの運動はやがて王政復古に依って酬いられ︑明

治維新の政治へと移って來るのであるが︑國學肴の尊皇には︑︲今一つの問題が残されて居る︒それは愈皇の白墨に件

ふ世界秩序の問題であって︑宜長の言葉に從ふならば︑﹁蔑國共にこの御岡を尊み戴き臣服Lて︑四海の内みな此ま

ととの道に依り蓮はではかなはぬことわりなるEと云はれる新なる秩序の建設である︒篤胤に於てはこの關係が一

府弧く表現せられ︑國學の新なる課題として取り上げられて居る・

乍恐天照大御祁の御魂は︑伊勢の内密にましまして︑︲御木躰は世界寓國を照し玉ふ日輪に被遊御座︑皇國は共御挺1凸亀恥︑生の御木國にて︑天皇は其御子孫に被爲在候へぱ︑世界寓國は悉く皇國に從ひ奉るべきは勿論の事に候︵大道或問︶︒

その他﹁然ぱ世界萬倒の中に︑尺寸の土地も天皇の御土地たらざる所は無之︑一人の民も天皇の御人ならざるは無

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之云々﹂と語られる等︑常面の問腿は幕府の詩定にかけられたにしても︑尊皇の自発は︑乙虫に止まるべきものでは

なくして︑史に發展すべ・き性格を含むものであった︒︲殊に聴未對外關係の紛糾に作って︑この釉岬は一肝激發捗られ︑

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一つには姪夷諭の形態を取って現れて來る︒彼等は必らすしも開閏政策の否定を主張するものではなかった︒對洋梁一一

▲酉の問題に於ても︑時の學問として率しるこれを識取する態度に出て居るものも見られるのであって︑もしも﹁溌倒共 0消

にこの御幽を尊み戴き臣服し一と我に朝貢する關係を結ぶものであるならば︑何等その開閏を拒む却由を持たないの

ゞ!である︒然るに常時の怖勢は何うであったのであるか︒新論の言葉詮併りるならば︑それは﹁而ろに今両荒の溌夷︑︒

雁足の賎を以て肌海に奔走し︑諸幽を躁應し︑砂脱雌履︑敢て上図を凌測せんと欲す︒何ぞそれ離れるや﹂と云はれ

・ろ態度を以て我に臨んで來て居る︒これに依って傷付けられて居るものは︑︑﹁謎みて按ずるに︑祁州は太陽の旧づる

〃/毛〆

所云々・間より大地の元首にして︑諏幽の綱紀なり︒誠に宜しく宇内に照脱し︑呈化の笠ぶ所速邇有ること無かるぺし﹂

︲と云はれる祁州の自蝿であった︒水戸學が早くこの錬皇︑或は祁州の自蝿に目晃めて來て居る事は云ふまでもない︒|

︒そして今やこの尊皇の自墨と世界傭勢との矛研に直面し︑沸交と湧く粘祁を經験して︑と上に暴風無添を孕んで来た

のであったが︑それは必らずしも水戸學丈の問題ではなかった︒水戸學と云はず︑幽學と云はす︑称しくも皇閲の愛ひを・︑

Ⅷ憂ひとする志士にし﹂て胸にこの暴風怒涛を抱かないものはなかったであらう︒徴時の撰一巽加は︑〃必らすしもその形態.|

を一にして居るとは限らなかった︒吉田松陰は﹁又誠一七則一畢二其一一畳慨士迩昔下︶の文中に︑﹁天朝を蕊ひ︑因て途︲

に夷狄を慨る者あり︑夷狄を値り︑因て遂に天朝を愛る考あり云直と語り︑また安政・年十月廿日付入江杉砿宛の︽

︐書翰︵吉田松陰書棚集︶に︑林子平に就て︑﹁尊皇の功なく︑撰夷の功あり﹂と語って居る︒そして松陰自らは︑初・

め﹁夷狄を価り︑因て途に天朝を菱る者﹂に属して居ると考へて居たのであったが︑一朝翻然としてその非なるを悟

り︑﹁天朝を愛ひ︑因て遂に夷狄を慨る者﹂である事を眉兇するに至った.即ちその木末を明らかにしたのであった.〃

根.閣醸の理念と捗夷論への展開八七・

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(21)

に立つものでなければならなかった︒即一つ愈皇の自蝿と世界傭勢との矛応に孕まれた暴風怒涛の一つの形態に於ける展開︐ど見らるべきものであって︑この憲味・に於て︑水戸學や幽畢とその締祁を剛じくするものであったと云はれなけ

ればならない︒換言すれば水戸學や閥學の精測が︑擁夷諭として展開されて來ろ關係をこ上に見る事が出来るのであ

るや唯この場合に︑撰夷はそれ自らを目的とするものではなく︑問題は更にその先へ.と進められる︒これこそ皇閏の

︐獄嚴を世界に顯現せしめる事であり︑皇國を傘み戴き臣服してと云はれる形に於ける世界秩序の建設でなければなら

ない︒それは天壌無窮の皇運に托された皇幽の使命であって︑今彼等の盆怒は夷狄の亡壯に依って激發せられ︑撰夷

〆の炎は身内に燃えさかって來て居るのであるが︑一礎その立場を取り戻してこの問題に臨む時︑と上に庇だと展開さ

れて來るものは︑この遥かなる使命でなければならなかった︒この自兇に到症する事に依って︑始めて松陰は自らに

︑安する事が出來たのであった︒眞木和泉守は︑この開係に就て︑道辨に︑﹁我にして夷を擁ふは則ち流しく蛾王より

始むぺし﹂と語って居る︒﹁わしもそなたのしりての通り︑きんり様の事にはいとけなきときより身をすてL御なげ

き申候ものゆえ云と︵交久元年其配粟生氏に贈りし密書︑腫木和泉守迩文︶と語る和泉守の撰夷論は︑矢張り﹁刎諭

我天津日嗣は宇内識くうしはき給ふべき道理なり﹂︵經紳懲説︶と云ふ尊皇の自蝿に依って貫かれなければならなかっ

たのである︒彼等は今推夷を断行する事に依って︑図体を謹持しなければならないと云ふ切迫した立場に置かれて居

’ 鯛嫉の蠅念と拶夷論への展開八八・

が︑この松陰の自蝿は︑幕末擁夷諭の性桁に就て︑重大な示唆を典へるものである︒確かにそこには夷狄の亡壯に激

發せら帆︑ひた向きに撰夷の一路を進んだ者もあったに相違ないそしてこれには必らずしも愈皇の自兇を作って居

るとは云はれない場合もあったであらうが︑松陰の場合に於て︑その撰夷論は飽くまで皇國の変ひを愛ひとする立場

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ろ︒しかも我図の現欣を刷みた時に︑和泉守璽再葉に從へぱ︑︲︒﹁筑多きもの勝ち︑嘩少なき心の不勝と御座候に︑十・

が十まで我は彼より算少なく候へぱ︑誠に寒心可仕事士椥座候﹄︵野寓定功郷に上りし書︑遥文︶と︑剛体謹持を完う

するためには如何なる覺悟を必要とするかを醤告しなければならなかった︒恥を祁州の歴史に点じ︑し︐かも逹勅の罪

を敢てした幕府の存在はも早許される事が脇来なかった︒内外多事︑時局紛紅︑我歯は正に未仲有の危機に直面した

と一云はれるのであったが︑この間にあって︑我に郡多きもの一つとして彼等が頼みとした虚のものは︑海に至愈の聰

明叡知にましましたのである・・﹁祁閥未だ地に嶬不レ申︑上に聖天子あり云々﹂︵父叔兄宛︑安政六年十月什円付書噸︶

と云ふ松陰の一一需葉も︑この窓味に於て注目されなければ液らなかった︒︑

兎に角稚等に取って︑営面の問題は倒幕にあり令︑擁夷はその同涯であり︑手段であるに過ぎないと云ふが如き解騨

は許される事が出來ない︒それは互ひに相開聯した關係に於て展開されて來た闘体誕持の二面であって︑しかも闘体

謹持はやがて皇國の顯現へと發展すべき契機を含むものであった︒それには夷狄を祁州の岸から蝦擁すると共に︑亜

細亜經醤の國策を確立する事を必要とする︒雄大な椛想淀持つ虚の亜細亜の秩序は︑己に彼等の胸に具体的友委を示し

A居た︒和泉守は︑女久三年秋議かに西郷吉之助に送った書翰に﹁両洋夷賊閥里の涛を渉候て︑諸悶呑雌代候世界に

相成候ては︑皇國も彌平城弓則に復し︑朝鮮︑減浦は勿論︑南海諸貼一般に我之指揮に令從不申候ては︑闘威を四方

に輝候事相成不申云だ﹂と語って居りへ魁股物語には︑一層詳細に︑次の如き椛想を示して居る︒

図の界わかつことは千鳥を全く皇國の物と定めんこと︑今の世にてぱ難かるべ叶れぱ︑くなじり・えとろふをは

じめ︑北の島盈は︑極寒の地にて︑益もすぐなく︑守るにもびんなければ︑すべて彼にあたへて︑唐太胎をみなが

姻嬢の理念と抵夷論への展開︑/・八九

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國學の理念と錘夷儲への展開・九○

・ら皇國の物として︑我幽の間民︑あるはゑとりの壯強なるを数十萬人えらび出て︑伍什の組をたて︑將校をおき︑

島盈浦冬嶮要の地に保障をとり立てL︑土地の宜を見て耕種を教へ︑漸交にかの黒水・秣禍︒滿洲・朝鮮の人をなづ

け︑其地をとり︑建牧︑置監︑我図の藩膵となし︑後には清閏に使逓やりて︑共に掎角して︑西洋のえみしどもの

災窟としたるじやわの地をとり︑彼等をおひはらひ︑再び東海に帆影をもみせぬ様にすべきことなり云名

この問題に就て︑一層深く想ひをひそめて居るものは松陰であった︒松陰は安政二年四月二十四日︑兄杉梅太郎宛︲

の書翰に﹁有志の諸子︑天下を任ずる志のみにて︑繭國を期撫する志乏しく︑此事空言に属せんも知ぺからず︑寅五

大州を燗遊して︑諸國可勅︑可撫の形勢を初め︑風教︑攻守等迄研究︑大誰左立んと欲せしに︑天助けず︑人肺けす︑

途に弦に至る﹂と語って居る︒この時に岱り︑飛ばんと欲して飛ぶ聖能はざる彼の悶交の情想ふべきであるが︑しか

も尚﹁六十六画一魂石となり︑茂閏の夷輩を勅撫せしめ︑五大洲の随名逓除き︑天朝の佳名を賜ふ﹂と云ふ椛想は︑

しばしば彼の胸裡に去来した︒そして時にはそれは﹁則ち血しく蝦夷を開墾して諸侯を封建し︑間に乘じて加核察加︑

槻都加を恋ひ︑琉球を諭して朝観會同せしむること内の諸侯に比しくし・朝鮮を責めて︑質を納れ︑貢を奉るとと古

の盛時の如ならしめ︑北︑滿洲の地を割き︑南へ壷濁︑呂宋︑・諸島を牧め︑漸く進取の勢を示すべし⑨然る後︑民を

愛し︑士を養ひ︑旗みて邊燗を守らぱ︑則ち善く閏を保つと謂ふくし﹂︵幽囚録︶と云ふ形を示し︑時には史た﹁宜し

く今日より策を決し︑上は祀宗の迩法に通ひ︑下は徳川の奮軌を尋忽︑遠謀雄略を以て事と爲すべし﹂と秘して︑次

の如き撫想が語られて居る場合もあった︵對策一道︑李集幽室文稲︶︒

凡七呈幽の士民たる者︑公武に拘らず︑貴賎を間はす︑推鮪抜擢して軍帥舶司となし︑大艦を打造し︑船軍を調練︲

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参照

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