今昔物語集の構造と方法
――日本霊異記との比較
: On method
葛 綿 正 一
KUZUWATA Masakazu 昔物語集』(勉誠出版、二〇一二年)などを参照した。 文館、二〇〇四年)、『今昔物語集を読む』(同、二〇〇八年)、『三宝絵を読む』(同、二〇〇八年)、『東アジアの今 については小峯和明編『今昔物語集を学ぶ人のために』(世界思想社、二〇〇三年)、『日本霊異記を読む』(吉川弘 編日本古典文学全集(中田祝夫校注)の訓読文により、『今昔物語集』の引用は新日本古典文学大系による。研究史 造と方法を確認するために、『日本国現報善悪霊異記』と比較してみたいと思う。なお、『日本霊異記』の引用は新 検討することで、『今昔物語集』の特質について考えることができるのではないか。本稿では、『今昔物語集』の構 が取り上げなかったものが半数以上ある。『日本霊異記』下巻の説話から取り上げたもの、取り上げなかったものを 昔物語集』の特質が浮かび上がってくるのではないだろうか。『日本霊異記』下巻の説話に関しては、『今昔物語集』 れていない。そうした『今昔物語集』が関心を寄せなかった『日本霊異記』上巻、中巻の説話をみることで、逆に『今 『日本霊異記』上巻、中巻の説話は、そのほとんどが『今昔物語集』に類話がある。しかし、数話だけ取り上げら
一 『日本霊異記』上巻と『今昔物語集』の比較
一一、二六のわずか五話に限られる。 『日本霊異記』上巻の全三五話のうちで『今昔物語集』に類話が収録されていないものは、上巻一、二、三、
上巻一「捉雷縁」、上巻二「狐為妻令生子縁」、上巻三「得電之憙令生子強力在縁」の説話が『今昔物語集』に収録されないのは、仏教以前の内容だからであろう〔1〕。上巻一に「天皇、后と大安殿に寝て、婚合したまへる」とある点を『今昔物語集』は避けたのかもしれない。『今昔物語集』における雷神説話は仏教と敵対する形をとる。「此ノ山ノ地主ノ神、我レト深キ契リ有リ。地主ノ神ノ云ク、我ガ上ニ塔ヲ起ツ。我レ、住ム所無カルベシ。此ノ塔ヲ可壊シト。我レ、此ノ語ニ依テ度々塔ヲ壊レリ。而ルニ、今法花経ノ力不思議ナルニ依テ、我レ吉ク被縛ヌ。然レバ、速ニ地主ノ神ヲ他ノ所ニ令移去メテ、永ク逆心ヲ止ム」と童形の雷神は語っている(巻一二第一)。
しかし、『日本霊異記』上巻一は仏教と敵対する形にはならない。「此の電、悪み怨みて鳴り落ち、碑文の柱を踊ゑ踏み、彼の柱のさけし間に、電はさまりて捕へらゆ。天皇、聞して電を放ちしに死なず。雷慌れて七日七夜留りて在り」。上巻三も同様である。「電、彼の人の前に堕ちて、小子と成りて、其の人、金の杖を持ちて撞かむとする時に、電の言はく、我を害ふこと莫れ、我汝の恩に報いむといふ」。『日本霊異記』はいわば二度、神を捉えているのである。一度目は漢文説話という形式においてであり、二度目は仏教説話という内容においてである。
上巻一一「自幼時用網捕魚而現得悪報」の説話が『今昔物語集』に収録されないのは、魚を捕まえることを強く罪悪視しているからではないだろうか。「時に寺の辺に漁夫有りき。幼きときより長るに迄るまで、網を以て業とせり。後時に、家の内の桑の林の中に匍匐ひ、声を揚げ、叫び号びて曰はく、炎火身に迫れりといふ」(上一一)。この業火は凄まじい。『日本霊異記』下巻六には病気の僧が魚を食す話があるが、そちらのほうは『今昔物語集』巻一二第二七に収録されている。『今昔物語集』は魚を捕まえることをそれほど罪悪視していないように思われる。しかし、『日本霊異記』の基準は厳しい。
『日本霊異記』中巻七の類話である『今昔物語集』巻一一第二には、
『三宝絵』を踏まえて「行基其ノ所ニ居テ、此ノ膾ヲ食給ヒツ。其ノ後ニ、程モ無ク口ヨリ吐キ出スヲ見レバ、膾小魚ト成テ、皆池ニ入ヌ」とみえるが、『日本霊異記』中巻七のほうにその記述はみえない。
『今昔物語集』巻一二第二七と『日本霊異記』下巻六の相違も興味深い。
『今昔物語集』のほうは病気の聖人が「重キ罪ニ非ズ」と最初から魚食について弁明しているからである。『日本霊異記』のほうはその一句がなく、はたして罪に当たるのかどうか迷わせながら話が進んでいく。そのせいか大僧の名前は伏せられている。「禅師聞きて、一たびは怪しび、一たびは喜び、天の守護なることを知りぬ。然して彼の魚を食ふ」とある通り、大僧自身、迷いがあったというべきではないか。それを見ていた男は「実の魚体なりと雖も、聖人の食物に就きては、法花経に化せり。我、愚痴邪見にして、因果を知らずして、犯し逼め悩乱す。願はくは罪を脱し賜へ。今より已後は、我が大師として、恭敬し供養せむ」と語っているが、読み手や聞き手もまたこの男に一体化することになる。
『三宝絵』は「禅師コノ事ヲキキテ、アヤシビ悦テクハズナリヌ」として結局、食べさせていない(中一六)
。おそらく、献上した皇女への配慮であろう。鹿を殺して食する『日本霊異記』上巻三二などをみると、多くの人が殺生を罪悪視していたようには思われない。しかし、だからこそ殺生を罪悪視するイデオロギーが強化されたといえる。
上巻二六「持戒比丘修浄行而得現奇験力縁」が『今昔物語集』に収録されないのは、仏教説話としても芸能説話としても違和感が残る呪術の説話だからであろう。「死すべき人も、験を蒙りて更に蘇れり。病者を祈る毎に奇異あり。楊枝を取らむとして枝に上る時に、錫杖を錫杖に立つ。互に二つの物を用ゐ、物倒れず、鑿にて樹つるが如し」(上巻二六)。しかし、『日本霊異記』の基準では、こうした呪術も仏教の一部であり、天皇の尊敬を得ていたのである(「天皇、尊重して常に供養したまひ、諸人帰仰して恒に恭敬しき」)。だが、『今昔物語集』において呪術は天狗につながるものであって、肯定的にみなされていない。「天狗ヲ祭タルニヤ有ケム、委ク其ノ故ヲ不知ズ…此様ノ態為ル者、極テ罪深キ事共ヲゾスナル」(巻二〇第九)。
上巻二七「邪見仮名沙弥塔木得悪報縁」は『今昔物語集』巻二〇第三八に類話が収録されている。「熱や、熱やといふ。地を離ること一、二尺許なり。衆集り見る。或るひと問ひて曰はく、何の故にか此くの如く叫ぶといふ。答へて曰はく、地獄の火来たりて我が身を焼く、苦を受くること此くの如し、故に問ふべからずといふ」。地獄の炎に焼かれる苛烈さこそが『日本霊異記』の思想ではないかと思われるのだが、『今昔物語集』巻二〇における印象は異なる。火の苛烈さが後続の説話によって中和されてしまうからである。「奄ノ聖人睡リ醒テ、目ヲ見開テ此ヲ見テ、亦散杖ヲ香水
ニ差シ浸シテ、此ノ焼迷フ僧ノ頭ニ灑ク。其ノ時、火消ヌレバ…」(巻二〇第三九)。験力で水瓶を飛ばし水を汲む僧が、同じ験力をもつ別の僧に嫉妬して、火界の呪を唱えるが、逆に焼身の苦を味わわされ火は消える。『日本霊異記』の説話が『今昔物語集』に収められると、その苛烈な熱気がさめて、冷ややかな体系の一部に埋め込まれてしまうのである。
二 『日本霊異記』中巻と『今昔物語集』の比較
一二、二〇、三五、四〇のわずか五話に限られる。 『日本霊異記』中巻の全四二話のうちで『今昔物語集』に類話が収録されていないものは、中巻八、
中巻八「贖蟹蝦命放生得現報縁」が『今昔物語集』に収録されないのは、類似説話と重複するからであろう。「女、衣を脱ぎて贖ふに、猶し免可さず。復裳を脱ぎて贖ふに、老乃ち免しつ。然して蟹を持ち、更に返りて、大徳を勧請し、呪願して放つ。大徳歎じて言はく、貴きかな、善きかなといふ」(中巻八)。蟹と蛙を買い取って助けられる話は中巻一二と類似しており、それが『今昔物語集』巻一六第一六に収録されている。蟹満多寺縁起として知られる中巻一二のほうが、女性を主人公とする中巻八よりも『今昔物語集』にとっては価値があったことになる。本話は『三宝絵』には収録されている。
中巻二〇「依悪夢至誠心使誦経示奇表得全命縁」が『今昔物語集』に収録されないのは、主人公が女性だからではないだろうか。「彼の経を読む音、蜂の集り鳴くが如し。母聞きて、怪しび起ちて後の家り出づれば、即ち居処に当れる壁仆れぬ。亦七はしらの法師も忽然に見えず。女大きに恐り怪しび、自ら内心に念はく、天地吾を助けて、壁に圧されずとおもふ」。本話は『三宝絵』に収録されているが、皇女に献上された『三宝絵』のほうが女性説話に対する扱いが厚いようにみえる。女性を主人公とする中巻八も下巻一九も『三宝絵』には収録され、『今昔物語集』には収録されない。
マノマサゴヨリモ多カレド」と記し、女性と物語を意識していたのが『三宝絵』だったのである。 ものであることが知られる。「物ノ語ト云テ女ノ御心ヲヤル物、オホアラキノモリノ草ヨリモシゲク、アリソミノハ ヘノ宮ニ撰レ入リ給ヘリシカド、五ノ濁ノ世ヲ厭ヒ離給ヘリ」とあり、円融天皇に入内した尊子内親王に献上された 『三宝絵』序には「穴貴ト、吾冷泉院太上天皇ノ二人ニ当リ給フ女ナ御子、春ノ花貌チヲ恥、寒キ松音譲リ、九重
中巻三五「打法師以現得悪病而死縁」が『今昔物語集』に収録されないのは、僧侶を打つ説話だからではないだろうか。「強ひて師を追ひ打ち、負ひ持てる蔵を皆撃ち破り損ひき」。『今昔物語集』に比べて『日本霊異記』のほうは僧を迫害する説話が数多い。それは『日本霊異記』の編纂者である景戒が生きていた時代状況をうかがわせる。景戒が生きたのは、行基の迫害事件が生々しく感じられた時代にほかならない(『続日本紀』天平勝宝元年二月二日)。
同じく中巻四〇「好於悪事者以現所誅利鋭得悪死報縁」が『今昔物語集』に収録されないのは、類似説話と重複するからであろう。『日本霊異記』に仏教を迫害する説話はあまりに多い。だが、『今昔物語集』編纂時の歴史状況とは異なるだろう。「僧の形を画き作し、之を以て的に立て、僧の黒眼を射る術を効ぶ」、このような迫害の説話を『今昔物語集』で繰り返す必要はなかったと思われる〔2〕。
迫害の恐怖、転生の恐怖、そうしたものが『日本霊異記』を特徴づけている。僧の迫害に敏感な『日本霊異記』、女性の教訓になる説話を集めた『三宝絵』と比較すると、『今昔物語集』の特質がより明瞭になるだろう。それは僧への迫害が起こりにくくなった歴史的状況であり、対象を女性に限定しない編纂方法である。『今昔物語集』は『日本霊異記』を包摂し天竺、震旦の説話を集めることで、『日本霊異記』の乗り越えをめざしていたように思われる。『今昔物語集』がめざしていたのは、より普遍的で体系的な説話集ということになる。体系性や網羅性は天台宗の特質と考えられるが〔3〕、冷ややかな『今昔物語集』はどんな問にも答えられる類書の性質を備えている。
『日本霊異記』中巻七と『今昔物語集』巻一一第二の行基説話を比較してみたい。
『日本霊異記』のほうが智光と行基の対比が鮮やかであろう。「盂蘭盆と大般若と心般若との等き経の疏を製り、諸の学生の為に仏教を読み伝ふ」という学問僧が智光であり、「俗を捨て欲を離れ、法を弘め迷を化す。器宇聡敏くして、自然生に知る」という実践家が行基だからである。『今昔物語集』の場合は冒頭で「出家シテ薬師寺ノ僧ト成テ、名ヲ行基ト云フ。法門ヲ学ブニ、
心ニ智リ深クシテ、露計モ不悟得ル事無シ」と語ってしまうので、行基自身が学問僧の性格を帯びている。
三 『日本霊異記』下巻と『今昔物語集』の比較
三七、三八、三九だが、順番に見ていこう。 ち第五、七、九、一四、一五、一六、一七、一九、二二、二四、二六、二七、二八、二九、三〇、三一、三二、三三、三四、三五、三六、 『日本霊異記』下巻の全三九話のうちで『今昔物語集』に類話が収録されていないものは二五話にのぼる。すなわ
下巻二「殺生物命結怨作狐狗互相報縁」が『今昔物語集』に収録されないのは、狐と犬が敵対する説話を回避しているからではないだろうか。「禅師怪しびて、犬の主に告げて言はく、放ち由を知るべしといふ。纔放てば病める弟子の室に走り入り、狐を咋ひて引き出しつ。禅師、犬を禁むれども、免さずして噛み殺しき。晰かに委る、斃にし還りて彼の怨を報ゆることを」。同じく狐と犬の敵対を描く上巻二話も収録されていないのである。『今昔物語集』巻一六第一七は狐の説話だが、『日本霊異記』とは異なっている。それは観音信仰を強調している点である。「彼ノ杖ヲ突テ入レル俗ト云ハ、造リ奉ル所ノ観音ノ変ジ給ヘル也。然バ、世ノ人専ニ観音ヲ念ジ可奉シ」(巻一六第一七)。
下巻五「妙見菩薩変化示異形顕盗人縁」が『今昔物語集』に収録されないのは、類似説話と重複するからであろう。妙見菩薩が盗人を露見させる話は上巻三四にあったが、そちらのほうが『今昔物語集』巻一七第四八に収録されている。「其の布施の銭の中五貫を、師の弟子、窃に盗みて隠せり」とある通り、本話は僧の窃盗を描くので、回避されたのかもしれない。
下巻七「被観音木像助脱王難縁」が『今昔物語集』に収録されないのは、「王難」を描いているからであろう。「帝姫阿倍の天皇の御世の天平宝字の八年の甲辰の十二月に、山継、賊臣仲麿の乱に遭ひて、殺罪の例に羅り、十三人の類に入る。十二人の頚を誅りをはる時に、山継心迷惑ふ」。『今昔物語集』は巻二一が欠巻であることともかかわるが、「王難」に触れるような説話に抵抗があったはずである。ここには「賊臣仲麿」とみえる。しかし、『今昔物語集』の
仲麻呂は決して賊臣ではない。「天皇是ヲ聞食テ、大納言藤原ノ朝臣仲麿ヲ遣シテ、和尚ノ来レル由ヲ令問給フ」(巻一一第八)。
に巻四第二〇の一例のみ)、『日本霊異記』下巻七から「王難」という語を学んでいる可能性がある。 えない。政治問題ではないので、王難と呼ぶべきものか疑わしい。『今昔物語集』において「王難」の用例は少なく(他 ナム語リ伝ヘタルトヤ」とある。同話は『日本霊異記』上巻三二を踏まえるものだが、そちらには「王難」の語がみ 『今昔物語集』巻一二第一六の末尾には「然レバ、人自然ラ王難ニ値ハム時、心ヲ至シテ仏ヲ念ジ誦経ヲ可行シト
下巻九「閻羅王示奇表勧人令修善縁」が『今昔物語集』に収録されないのは、類似説話と重複するからであろう。『日本霊異記』の冥界説話は『今昔物語集』に数多く収録されている(上巻三〇~三五)。本話は『宇治拾遺物語』に類話がみられるので、比較すると興味深い。『宇治拾遺物語』八三が「これも今は昔、藤原広貴といふ者ありけり」と始まるのに対して、『日本霊異記』下巻九は「藤原朝臣広足は、帝姫阿倍の天皇の御代に、倏に病身に嬰りき。身の病を差さむが為に、神護景雲の二年の二月十七日に、大和国菟田郡真木原の山寺に至りて住みき」と始まっている。明らかに『日本霊異記』は歴史的背景を意識しているが、『宇治拾遺物語』はそうではない。「往く前の道、中断えて深き河有りき。水の色黒黛くして流れず。沖く寂びたり。楉を以て中に置くに、彼方此方の、二つの端及ばず」という感覚的な恐怖も『宇治拾遺物語』にはみられない(ただし「楉」への拘泥は『宇治拾遺物語』に受け継がれているように思われる)。「右のみ手を下し、我が頂を摩でて告りたまはく、我、印点するが故に、災に逢はじ。速忽に還り往けとのたまふ、彼の手の指の大きさ、抱き十抱余の如し」という感覚的な表現にも注目したい。『宇治拾遺物語』は地蔵という名前を聞いて帰るだけである。「さは、閻魔王と申すは、地蔵にこそおはしましけれ、この地蔵に仕らば、地獄の苦をば免るべきにこそあんめれ」というので、『宇治拾遺物語』には旧知の地蔵に対する信頼が感じられる。それに対して、『日本霊異記』では未知の地蔵が説得力をもつために身体感覚が必要なのであろう。本話がもう一つ興味深いのは『宇治拾遺物語』八三と異なって主人公が書く人だという点である。「手に取れる筆を堕し、四支曲屈りながら、樹ちながら仆れて気せず」。書く人の試練を伝えている点では景戒その人に重ね合わせることもできる。だからこそ、右手で撫でられる細部が活きてくる(本話は、むしろ『今昔物語集』巻一四第二九や『宇治拾遺物
語』一〇二の敏行写経説話に近い要素をもつ)。 下巻一四「拍干憶持千手祈者以現得悪死報縁」、一五「撃沙弥乞食以現得悪死報縁」が『今昔物語集』に収録されないのは、僧を打つ説話だからであろう。本話を含めて、僧を迫害する説話は『日本霊異記』に数多い(上巻一五話、二九、中巻一、三五、下巻一四、一五、三三話)。しかし、『今昔物語集』にそうした説話はあまり収録されていない(上巻一五話、二九、中巻一だけである)。『今昔物語集』が編纂された時代においては興味関心を引かなかったように思われる。「忽に乗れる馬と、空に騰りて往き、行者を捶ちし処に到り、空に懸りて一日一夜逕て、明くる日の午の時に、空より落ちて死ぬ。彼の身摧け損ふこと、竿の囊に入れるが如し」、「其の日の夕にして、鯉を煮て寒し凝らす。明くる日の辰の時に起きて、朝床に居て、彼の鯉を口に含み、酒を取りて飲まむとしき。口より黒き血を返し吐して、傾き臥しぬ」。僧を迫害した者は必ず悪報を受けるが、こうした感覚的恐怖は鮮烈である。
下巻一六「女人濫嫁飢子乳故得現報縁」が『今昔物語集』に収録されないのは、子供を養育しない母親が描かれるからではないだろうか。『三宝絵』にも収録されていない。「我、齢丁なりし時に、濫しく嫁ぎ、邪淫にして、幼稚き子を棄て、壮夫と倶に寝ぬ。多の日逕て、子乳に飢ゑぬ」(下巻一六)。中巻二話が収録されないのも、同様の理由であろう。「他烏、逓に来りて婚ぶ。今の夫に姦み婚びて、心に就きて共に高く空にはふり、北を指して飛び、児を棄ててかへりみず」(中巻二)。こちらも『三宝絵』に収録されていない。
下巻一七「未作畢捻摂像生呻音示奇表縁」、二八「弥勒丈六仏像其頚蟻所嚼示奇異表縁」が『今昔物語集』に収録されないのは、類似説話と重複するからであろう。未完成の仏像が危険を知らせる話は中巻二六にもあった。「夜半より呻ふ声有り。言はく、痛きかな、痛きかなといふ。其の音細く小くして、女人の音の如くにして、永く引き呻ふ…彼の病み呻ふ音、夜を累ねて息まず。忍ること得ず」という本話の身体的感覚的表現も鮮烈である。全編に満ちている「痛み」こそが『日本霊異記』の出発点と考えられる。下巻二八にも「寺の内に音ありて呻ひて言ひしく、痛きかな、痛きかなといひき。其の音、老大人の呻ひの如し」とある。『今昔物語集』巻一二第一一は『日本霊異記』中巻二六を踏まえるが、評語が付け加えられている。「此レニ依テ、若シ人、不慮ザル所ニ自然ラ音聞エバ、必ズ怪ムデ可尋キ也トナム語リ伝ヘタルトヤ」。『今昔物語集』では『日本霊異記』の痛みが単なる知識に置き換えられてしまっ
たようにみえる。
下巻一九「産生肉団之作女子修善化人縁」が『今昔物語集』に収録されないのは、女性を主人公とする説話だからであろう。『三宝絵』には収録されている。「七日逕て往きて見れば、肉団の殻開きて、女子を生めり。父母取りて、更に乳を哺めて養しき。人として信ぜずといふことなかりき」。興味深いのは本話のなかで天竺の挿話が重ねられている点である。「昔仏在世の時に、舎衛城の須達長者の女蘇曼の生める卵十枚、開きて十男と成り、出家して皆羅漢果を得たりき。迦毘羅衛城の長者の妻は、懐妊して、童子百有りき。一時に出家して、百人倶に阿羅漢果を得たりき。我が聖朝の弾圧する所の土に、是の善類有り」。こうして天竺の挿話と日本の挿話は重ね合わされるのだが、『今昔物語集』天竺部を先取りしているといえるかもしれない。
下巻二二「重斤取人物又写法花経以現報善悪報縁」が『今昔物語集』に収録されないのは、類似説話と重複するからであろう。不正を行い悪報を受ける話は多い(上巻一〇以下)。本話においては、「重り」と懲罰が比例しているようである。「鉄・銅熱しと雖も、熱きに非ず、安きに非ず。編める鉄重しと雖も、重きに非ず、軽きに非ず。悪業の引く所、唯し抱き荷はむと欲ふ」。焼かれた金属で罰を受けるのは「重り」のせいなのだが、法華経書写のおかげで軽減されている。「汝斤を二つ用ゐて、出挙する時には、軽き斤を用ゐ、徴り納るる日には、重き斤を用ゐしが故に、汝を召しつらくのみ。今は忽に還れ」と冥界で命じられている。
下巻二四「依妨修行人得猴身縁」が『今昔物語集』に収録されないのは、猿になる話だからであろう。「道を修することを禁めずと雖も、従者を妨ぐるに因りて、罪報と成る。後生に此の猴の身を受けて、此の社の神と成る」。『今昔物語集』では輪廻転生が強調されることがないが、『日本霊異記』は輪廻転生への恐怖に満ちている。上巻一〇で牛は「子に告げずして稲を十束取りき。所以に今、牛の身を受けて先の債を償ふ」と語る。これをみると、輪廻の観念は借財の観念とともに生まれているようにみえる。借財を返却するためには転生せざるをえないからである。転生への恐怖は経済的な不安そのものといえる。
下巻二六「強非理以徴債取多倍而現得悪死報縁」が『今昔物語集』に収録されなかったのは、類似説話と重複するからであろう。他人の物を盗用し牛に生まれ変わる話は多い(上巻一〇以下)。「是に棺を望きて見れば、甚だ臭きこ
と比無し。腰より上の方は、既に牛と成り、額に角の生ゆること、長さ四寸許なり。二つの手は牛の足と作り、爪皴けて牛の足の甲に似たり。腰より下の方は、人の形を成す。飯を嫌ひて草を噉ひ、食ひ已れば齝司む。裸衣にして著ず、糞土に臥す」。本話の特徴は牛への転生が身体的感覚的な恐怖を掻き立てている点にある。「負へる人は鴙の如く、物の主は鷹の如し」というが、経済的な貸し借りが人間を動物へと変貌させてしまうのである。
下巻二七「髑髏目穴筍掲脱以祈之示霊表縁」が『今昔物語集』に収録されなかったのは、類似説話と重複するからであろう。髑髏がかつての出来事をあばく話は上巻一二にもあった。「宿れる処に、呻ふ音有りて言はく、目痛しといふ。牧人聞きて、竟夜寝ねずして踞りをり。明くる日に見れば、ひとつの髑髏あり。筍、目の穴に生ひて串かる。竹を掲きて解き免し、みづから食へる餉を饗していはく、われに福を得しめよといふ。市に到り物を買ふに、買ふ毎に意のごとし」。身体的感覚的な痛みが、ここでも強調される。しかも、苦痛からの解放が経済活動に関連している。
下巻二九が『今昔物語集』に収録されてなかったのは、類似説話と重複するからであろう。僧が迫害される話は上巻五など数多い。「白壁の天皇のみ世に、彼の愚なる夫、戯れに剋める仏を咲ひて、斧を以て殺り破りて棄てつ。而して去くこと遠くあらずして、身を挙げて地に躄る。口より血を流し、両つの目抜けて、夢の如くにして忽に死にき」。身体的感覚的な痛みが強調されることはいうまでもない。
下巻三〇「沙門積功作仏像臨命終時示異表縁」が『今昔物語集』に収録されなかったのも、類似説話と重複するからであろう。西方浄土に向かう話は上巻二二、三〇にあったが、そちらのほうが『今昔物語集』に収録されている。本話の舞台は紀伊国名草郡能応寺である。同じく名草郡にかかわる下巻一六、二八、三四とともに『今昔物語集』には収録されていないわけである。『今昔物語集』に収録されているのは、中巻三二を出典とする名草郡薬王寺の話だけである(巻二〇第二二)。上巻五を出典とする説話は名草郡ということが記されていない(巻一一第二三)
下巻三一「女人産生石以之為神而斎縁」が『今昔物語集』に収録されなかったのは、女性が主人公となった説話だからであろう。しかも、仏教には直接かかわらない話である。「年二十有余歳に迄びて、嫁がず、通はずして、身懐妊めり。逕ること三年にして、山部の天皇のみ世の延暦の元年の癸亥の春の二月下旬に、二つの石を産生みき。是の郡の部内に大神有り。名を伊奈婆と曰ふ。卜者に託ひて言はく、其の産める二つの石は、是は我が子なりといふ」。
下巻三二「用網漁夫値海中難憑願妙見菩薩得全命縁」が『今昔物語集』に収録されなかったのは、魚を獲る話だからではないか。「網を下して魚を捕りき。漁人、三つの舟に乗りて九人有り。忽に大風吹きて、彼の三つの舟を破りて八人溺れ死ぬ」。漁労が甚だしく罪悪視されている。しかし、『今昔物語集』では魚を獲る取ることが特に罪悪視されていない。
下巻三三「刑罰賤沙弥乞食以現得頓悪死報縁」が『今昔物語集』に収録されなかったのは、僧を迫害する話だからであろう。同様の話は『日本霊異記』に数多い。本話の特徴は「十二薬叉」という点にある。「大石を挙げ持ち、沙弥の頭に当てて迫めて曰はく、其の十二薬叉の神名を読みて、我を呪縛せよといふ。沙弥猶し辞す。凶しき人猶し強ふ。強ひて逼むるに勝へず、一遍読みて逃ぐ。然して後、久しくあらずして、地に躃れて死にき。更に疑ふべからず、護法の罰を加ふることを」。金銭財宝そのものを否定した発言もあり、その点が『今昔物語集』に受け入れがたかったのかもしれない。
下巻三四「怨病忽嬰身因之受戒行善以現得癒病縁」が『今昔物語集』に収録されなかったのは、類似説話と重複するからであろう。病気治癒の話は上巻八にもあったが、そちらのほうが『今昔物語集』に収録されている。本話の特徴は女性を主人公とする点にある。「巨勢呰女は、紀伊国名草郡埴生の里の女なりき。天平宝字の五年の辛丑に、怨病身に嬰り、頚に癭肉疽を生じ、大瓜の如し。痛苦切るが如くにして、年を歴て愈えず」。ここにも身体的感覚的な痛みが見て取れる。
下巻三五「仮官勢非理為政得悪報縁」が『今昔物語集』に収録されなかったのは、類似説話と重複するからであろう。冥界に赴く話は上巻三〇にもあったが、そちらのほうが『今昔物語集』に収録されている。本話の特徴は火が強調される点にある。「白壁の天皇のみ世に、筑紫の肥前国松浦郡の人、火君の氏、忽然に死して琰魔の国に至りき。時に王挍ふるに、死期に合はぬが故に、更に敢へて返しき。還る時に見れば、大海の中に、釜の如き地獄有りき。其の中に黒き桴の如き物有りて、涌き返り沈み、浮き出づ」。火君、琰魔、釜など、火の要素が見て取れる。『今昔物語集』は地獄の釜をうまく位置づけることができなかったのかもしれない。
下巻三六「減塔階仆寺幡得悪報縁」が『今昔物語集』に収録されなかったのは、藤原永手の悪評にかかわるからで
あろう。「我は永手なり。我、法花寺の幢を仆さしめ、後に西大寺の八角の塔を四角に成し、七層を五層に減じき。此の罪に由りて、我を閻羅王の闕に召し、火の柱を抱かしめて、挫釘を以て我が手の於に打ち立てて、問ひ打ち拍つ」という託宣がある。「手」に対する拷問は永手という名前に関連するにちがいない。
下巻三七「不顧因果作悪受罪報縁」が『今昔物語集』に収録されなかったのは、佐伯伊太知の悪評にかかわるからであろう。「目には見えずして、聞くに、大地を響かして打たるる人の音あり。叫びていはく、痛きかな、痛きかなと打つ遍ごとにいふ。(中略)伊太知の卿の、閻羅王のみかどに役はれて、苦を受くる状を陳ぶ」。
下巻三八「災与善表相先現而後其災善答被縁」が『今昔物語集』に収録されなかったのは、道鏡や阿倍天皇非難にかかわるからであろう。天の下の国挙りて歌詠ひて言ひしく、法師等を裙着きたりと軽侮れど、そが中に腰帯薦槌懸れるぞ。弥発つ時々、畏き卿や。又咏ひて言ひしく、我が黒みそひ股に宿給へ、人と成るまで。是くの如く歌咏ひつ。帝姫阿倍の天皇の御世の天平神護の元年の歳の乙巳に次れる年の始に、弓削の氏の僧道鏡法師、皇后と同じ枕に交通し、天の下の政を相け摂りて、天の下を治む。彼の咏歌は、是れ道鏡法師が皇后と同じ枕に交通し、天の下の政を摂りし表答なりけり。 (下三八)
このように『日本霊異記』は道鏡や阿倍天皇を非難している。しかし、『今昔物語集』に道鏡は登場せず、阿倍天皇を非難する説話も収録していない(欠巻の巻二一で取り上げる可能性があったかもしれないが、実現できなかったようである)。巻一二第一九、第二七、第三一、巻一四第九、第三八、巻一六第二三、第二七、巻一七第三四など、『今昔物語集』において阿倍天皇の名が出てくるところは、いずれも天皇の時代を示すものであって、天皇の事績に触れたものはない。阿倍天皇は高野天皇とも呼ばれるが、『三宝絵』でも『今昔物語集』でも非難されてはいない。もっとも、『今昔物語集』巻一一第一八は途中で本文が欠落しており、何か差し障りがあった可能性がある。『今昔物語集』における道鏡説話の不在は気になるが後に、それを巻頭に据えた『古事談』の誕生を促したともいえる。
下巻三八はもろもろの政治事件に言及する。山部の天皇のみ代の延暦の三年の歳の甲子に次れる冬の十一月八日乙巳の日の夜に、戌の時より寅の時に至るまで、天の星悉くに動き、繽紛ひ飛び遷りき。同じ月の十一日戊申に、天皇、早良の皇太子とともに、諾楽の宮より長岡の宮に移り坐しき。天の星の飛び遷りしは、是れ天皇の宮を移したまふ表なりけり。次の年乙丑の年の秋の九月十五日の夜に、竟夜月の面黒く、光消え失せて空闇かりき。同じ月の二十三日の亥の時に、式部卿正三位藤原朝臣種継、長岡の宮の嶋町に於きて、近衛の舎人雄鹿宿禰木積、波々岐将丸の為に射死されき。是れ種継の卿の死に亡せむ表相なりけり。 (下三八)
このように『日本霊異記』は種継暗殺事件に言及しているが、『今昔物語集』が言及することはない。さらに下巻三八は景戒自身にも触れている。もちろん、『今昔物語集』が取り上げることはない。「僧景戒、慚愧の心を発し、憂愁へ嗟きて言はく、嗚呼恥しきかな、やさしきかな、世に生れて命を活き、身を存ふることに便無し。等流果に引かるるが故に、愛網の業を結び、煩悩に纏はれて、生死を継ぎ、八方に馳せて、以て生ける身を炬す。俗家に居て、妻子を蓄へ、養ふに物無く、菜食も無く塩も無し。衣も無く薪も無し。毎に万の物無くして、思ひ愁へて、我が心安くあらず。昼も復飢ゑ寒ゆ。我、先の世に布施の行を修せずありき。鄙なるかな我が心。微しきかな我が行といふ」。こうした自己言説を『日本霊異記』は必要としたのであり、その理由を考えてみる必要がある。『日本霊異記』は何よりも僧景戒の自己確認の書だあったというべきであろう。景戒は夢の意味を探ろうとしている。又、僧景戒が夢に見る事、延暦の七年の戊辰の春の三月十七日乙丑の夜に夢に見る。景戒が身死ぬる時に、薪を積みて死ぬる身を焼く。爰に景戒が魂神、身を焼く辺に立ちて見れば、意の如く焼けぬなり。即ち自ら楉を取り、焼かるる己が身を筞棠き、梚に串き、返し焼く。(中略)夢の答来らず。唯惟へり、若しは長命を得むか、若しは官位を得むか。今より已後、夢に見し答を待ちて知らまくのみとおもふ。然して延暦の十四年乙亥の冬の十二月三十日に、景戒伝灯住位を得たり。 (下三八)
景戒は火に焼かれる夢を見るが〔4〕、燃えることと「伝灯住位」はつながっているのである。『日本霊異記』には苛烈な火の説話がいくつかあり(上一一、一六、二七、中七、一〇、中三、下三五)、それらもまた、この火の夢に収斂
していくように思われる。同じ天皇の平城の宮に天の下治めたまひし延暦の十六年丁丑の夏の四五両月の頃に、景戒が室に、毎夜々に狐鳴く。并せて景戒が私に造れる堂の壁を、狐堀りて内に入り、仏坐の上に屎矢り穢し、或ときには昼屋戸に向ひて鳴く。然して、経ること二百二十余箇日にして、十二月の十七日に、景戒が男死ぬ。又、十八年の己卯の十一十二箇月の頃に、景戒が家に狐鳴き、又時々螓鳴く。次に来し十九年庚辰の正月十二日に、景戒が馬死ぬ。又、同じ月二十五日に馬死ぬ。是を以て当に知れ、災の相先づ兼ねて表れて、後に其の実の災来むといふことを。
(下三八)
夢の意味は何か、表相の意味は何か、景戒はたえずそれを探求しているのである。それに対して、『今昔物語集』のほうはすでに確立された知の体系があり、いささかも探求的ではない。だが、「俗家に居て、妻子を蓄へ、養ふに物無く、菜食も無く塩も無し。衣も無く薪も無し。毎に万の物無くして、思ひ愁へて、我が心安くあらず。昼も復飢ゑ寒ゆ。夜も復飢ゑ寒ゆ」という景戒には著しい切迫感がある。
下巻三九「智行並具禅師重得入身生国皇之子縁」は転生譚だが、『今昔物語集』に収録されなかったのは天皇批判にかかわるからであろう。国皇の法は、人を殺す罪人は、必ず法に随ひて殺す。而るに是の天皇は、弘仁の年号を出して世に伝へ、殺すべき人を流罪と成し、彼の命を活かして人を治めたまふ。是を以て旺かに聖君なることを知るなりとまうす。或る人は、聖君に非ずと誹謗りて、何を以ての故にとならば、此の時の天皇の時に、天の下旱有り。又、天の災、地の妖、飢饉の繁く多に有りと雖も、又、鷹犬を養ひ、鳥猪鹿を取る。是れ慈悲の心に非ずとまうす。 (下三九)
『今昔物語集』が天皇批判にかかわらないのは、国家がすでに安定しているからである。それに対して、『日本霊異記』における国家はいまだ誕生したばかりで不安定なものにみえる。『古事談』巻三によれば、善珠は早良親王のために祈っている。本話で善珠が桓武天皇の皇子に転生するのは、早良親王にかかわった罪=借財を贖うためなのである。
四 『日本霊異記』の序文と歴史
『日本霊異記』に序文があるが、
『今昔物語集』には序文がない。何よりも、この点に両者の相違がうかがえるだろう。『今昔物語集』の編纂者が自らについて語ることはない。だが、『日本霊異記』の場合は異なる。是に諾楽の薬師寺の沙門景戒、熟世の人を瞰るに、才好くして鄙なる行あり。利養を翹て、財物を貪ること、磁石の鉄山を挙して鉄を嘘ふよりも過ぎたり。他の分を欲ひ己が物を惜むこと、流頭の粟の粒を粉きて、以て糠を啖むよりも甚だし。或いは寺の物を貪り、犢に生れて債を償ふ。或いは法僧を誹りて現身に災を被る。或いは道を殉め行を積みて、現に験を得たり。或いは深く信じて善を修め、以て生きながら祜に霑ふ。善悪の報は、影の形に随ふが如し。 (上巻序)
景戒が生きたのは「利養をくはたて、財物を貪る」時代である。そうした時代だからこそ、「善悪の報」が強調されたのである。『日本霊異記』に顕著な因果応報の思想は、もちろん仏教思想に由来するであろうが、同時にまた経済活動に由来するように思われる。
「利養をくはたて、財物を貪る」時代であり、「善悪の報」がやってくる時代であるがゆえに、自らに拘泥し「景戒」と署名せざるえないということであろう。『今昔物語集』における固有名に対する態度はあくまでも知識としての尊重にとどまる。だが、『日本霊異記』の場合、「景戒」なる固有名は決定的である。「景戒」の名が記されるたびに『日本霊異記』は強度を増していくようにみえる。昔、漢地にして冥報記を造り、大唐国にして般若験記を作りき。何ぞ、唯し他国の伝録をのみ慎みて、自土の奇事を信じ恐りざらむや。粤に起ちて自ら矚るに、忍び寝むこと得ず。居て心に思ふに、黙然ること能はず。故に聊かに側に聞けることを注し、号けて日本国現報善悪霊異記と曰ふ。上・中・下の参巻と作し、以て季の葉に流ふ。然れども景戒性を稟くること儒しくあらず、濁れる意澄し難し。坎井の誠、久しく太方に迷ふ。能功の雕れる所に、浅工にして力を加ふ。恐り寒心すらくは、患を手を傷ふに貽らむ。 (上巻序)
景戒はいつも中国の書物を意識している。同時にインドの仏典もまた意識しているであろう。実は『日本霊異記』のうちに天竺部、震旦部と呼ぶべきものがすでに潜在しているのだが、「他国の伝録をのみ慎みて、自土の奇事を信じ恐りざらむや」といった緊張関係は『今昔物語集』に存在しない。『今昔物語集』においては知識として三国が並列しているからである。おそらく、景戒は手を痛める危険性をいつも感じていたにちがいない。それは同時代の歴史に触れざるをえないからである。窃に歴たるみ代を視るに、宣化天皇より以往は、外道に随ひて、卜者に憑みたまへり。欽明天皇より後は、三宝を敬ひ、正教を信じたまへり。然れども、或るときには皇臣にして寺を焼き仏像を流しき。或るときには皇臣にして寺を建て仏法を弘めたまひき。之が中に勝宝応真聖武大上天皇は、尤れて大仏を造り、長に法種を紹ぎ、鬚髪を剃り、袈裟を著、戒を受け善を修し、正を以て民を治めたまひき。慈は動植にも及びて、徳は千古にも秀れたまへり。 (中巻序)
寺を焼き仏像を流す時代が過ぎ、聖代になったからといって、すべてがうまくいくわけではない。たえず「善悪の表」に注意を払わなければならないのである。唯り以ば、是の天皇のみ代に録す所の善悪の表は、多数なりと者へり。聖皇の徳顕かなるに由りて、事は最も多し。事を漏すを顧みずして、今聞く所に随ひて、且つは載せ、且つは覆す。 (中巻序)
はたして、何が善の表相で、何が悪の表相なのか判断は難しい。意図することなく無意識に犯す罪が存在するからである。鳥籬の外に居る。時に彼の比丘、居たる鳥を瞪ずして、礫を投ぐれば鳥に中りき。烏の頭破れ飛びて即ち死に、死にて猪に生れる。猪其の山に住む。彼の猪、比丘の室の上に至り、石を頽して食を求るに、俓り下ちて、比丘に中りて死にき。猪賊せむと思はねども、石自ら来り殺す。記ゆること無くして罪を作せば、記ゆること無くして怨を報ゆ。 (下巻序)
意図することなく鳥が殺され、比丘が殺される。だから、景戒はできるだけ「善悪の表」を記そうとするのである。羊僧景戒、学ぶる所は天台智者の問術を得ず。悟る所は神人弁者の答術を得ず。是れ猶し螺を以て海を酌み、
管に因りて天をみるがごとし。伝灯の良匠に匪ずして、強ひて訂斯の事を睠みる。轍を浄刹に尅き、心を覚路に奔す。遠く前の非を愧ぢ、長に後の善を祈ふ。奇異しき事を注して、言提ふる流に示す。手を授けて勧めむと欲ひ、足をすすぎて導かむことを欲ふ。 (下巻序)
歴史意識が乏しいように思われる。 には景戒の歴史意識が強く押し出される。しかし、すべての説話が「今は昔」と始まる『今昔物語集』には切迫した るが如し」中七)。知識よりも、身体の感覚こそが景戒にとって重要なのであろう。こうして『日本霊異記』の序文 「手」と「足」のありように景戒は意識的といえる(「右のみ手を下し、我が頂を摩でて」下九、「足を焼くこと煮
編纂者の実存が強く前面に出ている点で、『日本霊異記』に近いのは無住の説話集『沙石集』かもしれない。古代の神話的世界を仏教的に解釈したのが景戒だとすれば、中世において神と仏を再解釈しようとしたのが無住だといえる(「我が朝には、和光の神明、先づ跡を垂れて、人の荒き心を和げて、仏法を信ずる方便とし給へり」)。『沙石集』は『日本霊異記』と同じく序文をもつ。
五 『今昔物語集』の構造と方法
『日本霊異記』の説話が時代順に並んでいるのに対して、
『今昔物語集』の場合は異なる。天竺、震旦、本朝に分かれ、整然たる構成になっているのだが、ここではそれが五巻編成になっている点に注目してみたい。
いうまでもなく、〈巻一~五〉が天竺部であり、〈巻六~一〇〉が震旦部である。では、本朝部はどうか。〈巻一一~一五〉、〈巻一六~二〇〉、〈巻二一~二五〉、〈巻二六~三一〉という巻の編成が考えられるのではないだろうか。興味深いのは『今昔物語集』巻一一「本朝仏法」、巻一六「本朝仏法」、巻二六「本朝宿報」のそれぞれ第一話が『日本霊異記』を踏まえた説話だという点である。すなわち、聖徳太子説話(上巻四)、観音霊験譚(上巻六)、鷲の捨て子伝説(上巻九)がそれである〔5〕。とすれば、巻の編成にも『日本霊異記』が影響を与えているのではないだろうか。
一つの仮説として、欠巻になった巻二一の第一話が『日本霊異記』を出典とする可能性は十分にあったと考えられる。
あくまでも一つの仮説として述べると、〈巻一一~一五〉、〈巻一六~二〇〉、〈巻二一~二五〉、〈巻二六~三一〉という巻の編成が想定され、それぞれの第一話が『日本霊異記』を出典とした可能性がある。にもかかわらず、『今昔物語集』は『日本霊異記』から大きく変貌した。〈巻一一~一五〉においては法華経説話、〈巻一六~二〇〉においては地蔵説話、〈巻二一~二五〉においては藤氏説話、武者説話、〈巻二六~三一〉においては世俗説話が割り込んできたからである。
単純化していえば、主として『今昔物語集』巻一二、一三、一四が『大日本国法華験記』に拠り、巻一五が『日本往生極楽記』に拠り、巻一七が『地蔵菩薩霊験記』に拠っているのに対して、巻一一、一六、二〇は『日本霊異記』に拠っていると考えられる。巻一九は出典未詳とされるが、何か原拠があったのであろうし、巻二〇の前半は何かしらの天狗説話集に拠ったのであろう(巻一八は欠巻である)。
武者の説話を並べた『今昔物語集』巻二五は特色ある巻だが、もともと巻二三に配列する構想だったと考えられている(岩波新古典大系解説を参照)。巻二三の説話数が少ないのはそのためだという。整然たる体系性を特徴とする『今昔物語集』において体系性を乱すものがあるとすれば、それは武者の登場ということになる。しかし、さらに様々な可能性が考えられる。
説話数の少ない巻二二と巻二三を同一の巻に編成することもできたであろう。あるいは、巻二二と巻二五を同一の巻に編成することもできる。巻二二、二三、二四、二五には藤氏列伝、橘氏列伝、平氏列伝、源氏列伝が潜在しているともいえる。巻二三の後半は巻二六の「宿報」に分類できるはずである。分量の不均衡から考えると、編纂者の様々な試行錯誤が見て取れる(おそらく、簡単に依拠できる先行説話集が存在しなかったのであろう)。
『今昔物語集』巻二六は「宿報」と題されているが、
『日本霊異記』の「現報」の概念と大きく異なる。現報においては非常に明確な因果関係が識別できるのに対して、宿報の場合、因果関係がはなはだ不透明だからである。
『日本霊異記』は序文において歴史意識を強く打ち出したが、
『今昔物語集』は構造において歴史性を露呈させてい
るといえる。その点を記して本稿を閉じたい。
『今昔物語集』巻一一は空海や最澄の説話を取り上げている。
『日本霊異記』以後、仏教史は景戒が想像もしなかった方向に進んだことになる。『今昔物語集』巻一二は『三宝絵』の説話を取り込んでいる。その部分からは『日本霊異記』以後の法会がうかがえる。
『今昔物語集』
巻一三、巻一四はほとんどが『法華験記』に拠った法華経霊験譚である。方広経の説話はわずか三話で、その出典はいずれも『日本霊異記』である(上巻八、一〇、下巻四)。このことから『日本霊異記』以後、法華経の位置が高まったことがわかる。同じく牛に転生した親が子供を諭す上巻一〇と中巻一五を比較してみたい。前者で牛に転生したのは父、鍵になるのは方広経であり、後者で赤牛に転生した母、鍵になるのは法華経である。明らかに母の説話のほうが説得力が高い(火麻呂が人殺しを犯す中巻三も母の説話であるがゆえに説得力を増していた)。
『今昔物語集』
巻一五は『日本極楽往生記』に拠っている。したがって、『日本霊異記』に拠った説話は全くない。『今昔物語集』巻一六は『日本霊異記』の説話を多く収録しているが、そこに『法華験記』の説話が交えてある。
『今昔物語集』
巻一七は地蔵説話を集めているが、そのほとんどは『地蔵菩薩霊験記』に拠っているようである。『日本霊異記』に地蔵説話はわずか一例しかみらず(下巻九)、しかも、それは『今昔物語集』に取り入れられていない。地蔵説話のほうが新しいものであるにもかかわらず、巻一七の前半を占める。弥勒、行基、吉祥天、妙見など『日本霊異記』を踏まえた説話のほうが古いものであるにもかかわらず、巻一七の後半に並ぶ。
『今昔物語集』
巻一八は欠巻である。それに続く『今昔物語集』巻一九は、和文体の説話に拠っているようである。『日本霊異記』から取り入れられた説話はわずか二話だが、『今昔物語集』はかなりの評語を付け加える。「亀ノ人ノ恩ヲ報ズル事今ニ不始ズ、天竺震旦ヨリ始メテ此ノ朝マデ此ナム有ケル、トナム語リ伝ヘタルトヤ」(巻一九第三〇)、「然テ宇治ノ橋ヲバ此道登ガ造リ始タル也。其レヲ亦、天人ノ降テ造タルトモ云フ。其レニ依テ大化ト云フ年号ハ有ケルトゾ云フ。此レヲ思フニ、道登ガ造ケルヲ助テ、天人ノ降ダリケルニヤ、委ク不知ズ。此ナム語リ伝ヘタルトヤ」(巻一九第三一)。『今昔物語集』編纂者はたえず知識の比較を試み、始まりを意識している。
『今昔物語集』巻二〇は天狗譚である。
「今昔、天竺ニ天狗有ケリ。天竺ヨリ震旦ニ渡ケル道ニ、海ノ水一筋ニ、所
行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽ト鳴ケレバ、天狗此レヲ聞テ、大ニ驚テ、海ノ水何ナカ止事無キ甚深ノ法文ヲバ可唱キゾト怪ビ思テ、此ノ水ノ本体ヲ知テ、何デカ不妨デハ有ラムト思テ、水ノ音ニ付テ尋ネ来ルニ、震旦ニ尋ネ来テ聞クニ、猶同ジ様ニ鳴ル。然バ、震旦モ過テ、日本ノ境ノ海ニシテ聞クニ、猶同ジ様ニ唱フ」。巻二〇の天狗譚は天竺に溯るものとされる。天狗は仏法とともに本朝に渡ってきたわけで、天狗の存在は仏教の伝来を裏側から証明するものになっている。しかし、『日本霊異記』に天狗は存在しなかった。天狗説話は逆に仏教の定着を示すものといえる。天狗説話のほうが新しいものであるにもかかわらず、巻二〇の前半を占める。『日本霊異記』の説話のほうが古いものであるにもかかわらず、巻二〇の後半に並ぶ。
『今昔物語集』巻二一は欠巻である。それに続く『今昔物語集』巻二二は藤氏列伝になっている。
『今昔物語集』巻二三、二四、二六に取り上げられた『日本霊異記』の説話は、それなりに重要な位置を占めるが、もはや系列を形作ることはない(巻二三第一七、一八、巻二四第九、巻二六第一)。逆にいえば、これ以降、『日本霊異記』を離れて『今昔物語集』は全く独自の世界を築いていくのである。
注
〔1〕丸山顕徳『日本霊異記説話の研究』(桜楓社、一九九二年)は上巻一、二、三を呪禁の説話と捉えている。また、永藤靖『日本霊異記の新研究』(新典社、一九九六年)は
冒頭の説話群に景戒の歴史認識を見ている。
〔2〕『日本霊異記』中巻四〇によれば、橘奈良麻呂は「悪事を好む者」である。しかし、皇女に献上された『三宝絵』の奈良麻呂がそうでないのは当然であろう(下巻一〇)。
この点については磯部祥子「『三宝絵』における橘奈良麻呂像」(『三宝絵を読む』前掲)を参照。
〔3〕仏教学的にいえば、『日本霊異記』は法相宗の産物であり(「羊僧景戒、学ぶる所は天台智者の問術を得ず」下巻序)、『今昔物語集』は天台宗の産物である。しかし、原田信之『今
昔物語集南都成立と唯識学』(勉誠出版、二〇〇五年)は『今昔物語集』成立に法相宗の僧がかかわったと強く主張している。また、追塩千尋「『今昔物語集』と南都仏教」
(『日本中世の説話と仏教』和泉書院、一九九九年)も南都仏教とのかかわりを論じている。
〔4〕山口敦之「景戒の夢と焼身」(『日本霊異記と東アジアの仏教』笠間書院、二〇一三年)は下巻三八について中国六朝の士大夫の捨身思想を反映しているという。本稿は、
それ以上の苛烈さを読み取りたいと思う。また、『法華験記』と比較すると『今昔物語集』が焼身譚を捨象していることがわかるという(池上洵一『今昔物語集の研究』 第三編第三章、和泉書院、二〇〇一年)。この点については千本英史「焼身往生の問題」(『験記文学の研究』勉誠出版、一九九九年)も参照。
〔5〕聖徳太子説話や観音霊験譚の重要性は容易に理解できる。では、鷲の捨て子の話がなぜ重要なのかといえば、説話そのものの存在形態にかかわるからであろう。同話は
ペルシャ叙事詩に遡るともされるが、良弁杉伝説や三島の本地とも共通する。生まれたものが全く異なる土地に移動する、これこそ移動し変容する説話にふさわしい基 本構造なのである。その意味で、鷲の捨て子は説話の特徴を最もよく表しているといえる。
〈キーワード〉日本霊異記、今昔物語集、歴史と構造、痛みと知識、借財と転生
〈要旨〉迫害の恐怖、転生の恐怖、そうしたものが『日本霊異記』を特徴づけている。僧の迫害に敏感な『日本霊異記』、女性の教訓になる説話を集めた『三宝絵』などと比較すると、『今昔物語集』の特質がより明瞭になる。それは僧への迫害が起こりにくくなった歴史的状況であり、対象を女性に限定しない編纂方法である。『今昔物語集』は『日本霊異記』を包摂し天竺、震旦の説話を集めることで、『日本霊異記』の乗り越えをめざしていたように思われる。『今昔物語集』がめざしていたのは、より普遍的で体系的な説話集ということになる。冷ややかな『今昔物語集』はどんな問いにも答えられる類書の性質を備えている。
付記、本稿は二〇一四~一六年度の沖縄国際大学特別研究費によるものです。
補論一、 『日本霊異記』と小さなもの
この小論では『日本霊異記』における「小さなもの」の重要性が浮かび上がらせてみたいと思う。上巻三の「雷、彼の人の前に堕ちて、小子と成る」話はよく知られるところである。柳田国男は『日本霊異記』の景戒を小子部の縁
者とみなしているが(『妹の力』一九四〇年)、小さなものはそれだけにとどまらない。上巻三〇の少年は経典の化身である。広国、暫く徘徊るに、少子出で来る。時に門を守りし人、其の子を見て長跪きて礼す。少子、広国を喚びて、片つ方の脇の門に将て至り、其の門を押し開けり。出でむとするに告げて曰はく、「速に往け」といふ。広国、少子に問ひて云はく、「汝は誰が子」といふ。答へて、「我を知らむと欲はば、汝が幼稚かりし時に写し奉れる観世音経是れなり」といふ。還りぬ。即ち見れば甦き還れるなりけり。 (上巻三〇)
広国は地獄に堕ちるが、少年のおかげで脱出し助かるのである。中巻四には小さいが強力の女が登場する。聖武天皇の御世に、三野国片県郡少川の市に、一の力ある女有りき。人と為り大きなり。名をば三野狐と為ふ。力強くして百人の力に当りき。少川の市の内に住み、己が力を恃み、往還の商人を凌ぎ弊げて、其の物を取るを業としき。時に、尾張国愛智郡片輪の里にも、一の力ある女有りき。人と為り少さし。 (中巻四)
大きな女と小さな女が対比されているが、勝つのは小さな女のほうである。
こうした小さなものを重視する傾向は『宇治拾遺物語』に受け継がれるだろう。そこには数多くの子供たちが登場する。とりわけ第一六話、「童、楉を持て遊びけるままに来たりけるが、その楉して、手すさびのやうに額をかけば、額より顔の上まで裂けぬ。裂けたる中より、えもいはずめでたき地蔵の御顔見え給ふ」の一節に注目したい。『日本霊異記』下巻三八の景戒の夢にも「自ら楉を取り、焼かるる己が身を筞棠き、梚に串き、返し焼く」とあったからである。あたかも「楉」が両作品をつなぐかのようだ。
それに対して、『今昔物語集』は巨大なものに目を向ける。『今昔物語集』の仏法部には大伽藍が配置されているからである(巻一第三一、巻四第二八、巻六第三、第二七、第三一、巻七第三二、巻一一第一〇、第一四、第一五、第二四、第三二、第三五、第三八)。さらに大魚が登場し(巻四第三七、巻一〇第一、第二八)、大木が登場する(巻一一第二二)。もちろん、『今昔物語集』巻一七の地蔵説話群には小僧の形をした地蔵が多数登場してくるが、それらは集大成的なものであって、集合的な大きさを感じさせる(しかも、第二三に登場するのは集合的な六地蔵である)。
『今昔物語集』の最終話が巨木伝説にほかならない。
今昔、近江ノ国栗太ノ郡ニ大キナル柞ノ樹生タリケリ。其ノ囲五百尋也。然レバ其ノ木ノ高サ、枝ヲ差タル程ヲ思ヒ可遣シ。其影朝ニハ丹波ノ国ニ差シ、夕ニハ伊勢ノ国ニ差ス。霹靂スル時ニモ不動ズ、大風吹ク時ニモ不揺ズ。(中略)昔ハ此ル大キナル木ナム有ケル。此レ希有ノ事也、トナム語リ伝ヘタルトヤ。 (巻三一第三七)
その影が丹波国から伊勢国に至る巨木が、『今昔物語集』、とりわけ本朝部の等価物であることは明らかであろう。近江国の巨木は『今昔物語集』の北嶺成立説を暗示していなくもない。
補論二、 『今昔物語集』における巻一七の位置――小さなものの遍在
えてみたい。 俗人出家譚、巻二〇の天狗譚である(巻一八は欠巻)。ここでは、地蔵霊験譚を集めた巻一七の位置づけについて考 の法華経霊験譚、巻一四の経典霊験譚、巻一五の僧尼往生譚、巻一六の観音霊験譚、巻一七の地蔵霊験譚、巻一九の 『 今昔物語集』本朝仏法部は、次のような構成になっている。巻一一の仏教伝来譚、巻一二の仏像霊験譚巻一三
地蔵霊験譚は、移動性、無名性、童子性などを特徴として挙げることができる。第一話をみてみよう。西の京に住む僧は地蔵菩薩に出会うために諸国を遍歴し、常陸の国でようやく巡り会うが、それは誰にも知られることのない孤児の牛飼い童であったという。「地蔵ノ霊験有所ヲ尋テ」人が移動する話であり、無名の童子が登場してくる。「此ノ童ハ、若シ我ガ年来ノ願ヒニ依テ、地蔵菩薩ノ化身ニヤ有ラム。菩薩ノ誓ヒ不可思議也。凡夫誰カ此レヲ知」と僧は語っている。類似の説話が第一から第三二まで続くが、地蔵菩薩に出会うとは説話の一つ一つに出会うことなのかもしれない。気づいたことをいくつかまとめておく。
第一に注目されるのは、大きな移動ではなく、小さな移動だという点である。巻一一は仏教伝来譚を集めているが、中国大陸に渡る話を含む。しかし、巻一七の地蔵霊験譚は中国大陸に渡るものではなく、日本列島内の移動に留まる。
巻一七の第一は西の京から常陸へ移動する話であったが、第七は近江から播磨へ、第一四は肥前から愛宕へ、第一五は愛宕から大山へ、第二七は京の七条から立山へ、第二八は東国から六波羅へ移動する話である。しかも、地域的に様々な話がみられる。尾張(第二)、近江(第三)、備中(第四)、陸奥(第五)、土佐(第六)、陸奥(第八)、比叡山横川(第九)、京(第一〇)、駿河(第一一)、伊勢(第一三)、伊豆(第一六)、東大寺(第一七)、備中(第一八)、播磨(第二〇)、但馬(第二一)、周防(第二三)、因幡(第二五)、近江(第二六)、陸奥(第二九)、下野薬師寺(第三〇)、大和(第三一)、上総(第三二)である。
第一四、第一五がともに愛宕にかかわり、第一二、第一九の主人公がともに三井寺の僧であることも興味深い。そのあたりに地蔵信仰の拠点があったのであろう(田中久夫「地蔵信仰の伝播者の問題」『地蔵信仰』雄山閣出版、一九八三年を参照)。事実、『今昔物語集』巻一七の出典とされる『地蔵菩薩霊験記』の編者は三井寺の実睿である。それらの説話には「今昔、人有テ阿弥陀仏ヲ造奉ケル次ニ、古キ地蔵菩薩ヲ改メ彩色シテ、正法寺ト云フ寺ニ安置シ奉テケリ」(第一二)、「戯レニ木ヲ刻テ地蔵ト名ケテ、如法ノ供養ヲ不至ネドモ、地蔵ノ利生ハ此ゾ在マシケル」とみえるが(第一九)、阿弥陀仏の「ついでに」彩色されたり、「戯れに」木に刻まれたりするのが地蔵菩薩ということになる。
第二に注目されるのは、著名な存在と出会うのではなく、無名の存在と出会う点である。巻一六は観音霊験譚を集めているが、いずれも著名な存在に出会う話にほかならない。今昔、丹後国ニ成合ト云フ山寺有リ、観音ノ験ジ給フ所也。 (巻一六第四)今昔、大和ノ国、敷下ノ郡ニ、殖槻寺ト云フ寺ラ有リ。等身ノ銅ノ正観音ノ験ジ給フ所也。 (第八)今昔、奈良ノ京ニ下毛野寺ト云フ寺有リ。其ノ寺ノ金堂ノ東ノ脇士ニ観音在マス。 (第一一)
このように観音の場合は、初めから著名な存在として提示されることが多い。観音がどこにあるかはすでに知られている。しかし、巻一七の地蔵霊験譚は無名の存在と出会う話である。地蔵の場合は後から発見されるという設定が少なくない。「半バ泥ノ中ニ入タリ」というのが地蔵菩薩の姿である(第五)。したがって、落盤事故から救ってくれることにもなる(第一二)。法華経の力を説く巻一四第九で落盤事故から救ってくれたのは若い僧だが、第一二話で