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不真正不作為犯における正犯と共犯

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(1)

0637)

曇△西冊

説 不 真 正 不 作 為 犯 に お け る 正 犯 と 共 犯

内 田 文 昭

目次

六 五 四 三

問題提起非保障人の不作為による共犯の可能性作為犯に対する保障人の不作為による正犯の可能性保障人同士の不作為による正犯と共犯の可能性関連問題ー・不作為による間接正犯・教唆犯の可能性結論

問 題 提 起

1 不真正不作為犯は︑周知のように︑そして︑後程確認するように︑保障人のみがこれを実現しうる︒非保障人

(2)

2 神 奈 川法 学 第34巻 第3≒}2001年

(638)

は︑これを犯しえない︒この意味において︑不真正不作為犯は︑真正身分犯である︒

不真正不作為犯が真正身分犯であるとするならば︑保障人の不作為に不作為で加担した非保障人も︑刑法六五条一

項の適用により︑不真正不作為犯の共犯たりうることになろう︒﹁身分犯(不真正不作為犯)﹂に加功したときは︑

﹁身分のない者(非保障人)﹂であっても︑共犯たりえないではないからである︒わたくしはかって︑このように考え

(3"4)た︒同様の理解もないではなかった︒

しかし︑このような理解は︑﹁形式的﹂にすぎて妥当でないと考えるようになり︑わたくしは︑やがて見解を改め

た︒不真正不作為犯においては︑刑法の禁止・命令は︑専ら﹁保障人﹂に対して向けられるにすぎず︑﹁非保障人﹂

(5)

は︑いかなる意味においても刑法規範の受範者たりえないと考えたからである︒本稿が︑このような見解を保持.促

進させようとするものであることは︑いうまでもないところである︒

ところが︑ロクシンは︑非保障人も︑不作為により︑不真正不作為犯の共犯(蕎助犯)たりえないではないと主張

する︒しかも︑ロクシンは︑不作為の実体に照らし︑﹁積極的な犯行促進﹂としての﹁不作為の共犯﹂を肯定しうる

というのである︒これは︑重大な提言であるといわなければならない︒

尤も︑ドイッ刑法新総則二八条一項は︑﹁行為者の可罰性を基礎づける人的特性が共犯(教唆犯.甜助犯)に欠け

るときは︑その刑罰は四九条一項により減軽される﹂というもので︑わが刑法六五条]項のように︑身分犯に加功し

た非身分者も共犯たりうるということを直接規定したものではないから︑ロクシンが︑形式的な非保障人の共犯可能

性を掲げなかったのには・ある意味では当然であるともいえよ嘉︑やはり重大な問題提起であることには変わりが

ないといわなければならない︒

はたして︑いかに考えるべきであろうか︒本稿の出発点との関連においても︑改めて検討する必要があるように思

(3)

(639)

不真 正 不 作 為 犯 にお け る 正 犯 と共 犯  

3 われる︒本稿の第一の課題とすることにしよう︒

二不真正不作為犯は︑保障人のみがこれを実現しうるといっても︑当の保障人の﹁不作為﹂は︑法益侵害に関し

ては︑決して主導的なものではない︒当該法益を危険に曝した自然・動物・第三者が︑むしろ主導的な﹁力﹂をもつ

ものである︒たとえば︑幼児が溺れるのは︑海・河・池などがあるからであって︑決して母親が居合わせたからではないのである︒救助に出ない母親は︑幼児の生命を侵害するのではないし︑侵害に加功するものでもないといわなけ

れば諺ない︒まさに︑百然Lが正犯的な存在であって︑母親は︑﹁救助しない﹂だけの島犯存在であるとい・つべ

きである︒

しかし︑法は︑母親を﹁保障人﹂とすることにより︑殺人行為者と﹁同格﹂に置こうとしたし︑多くの人はこれに

賛成した︒法益滅失の﹁責任﹂を負うべき人間は︑他に人がいない状況では︑この母親以外に存在しないからである︒

ガルラスの言葉を籍りれば︑幼児の﹁命運﹂は彼女の掌中に握られたLので砺爬・F.クリスチャン・シユレーダーの言葉を籍りれば彼奈自然に対抗する唯の天間的袋Lなので鎚・

尤も︑このような場合であっても︑保障人たる母親の不作為は︑﹁殺人討助罪﹂の罪責を負えば足りると考えるこ

とは︑決して不可能ではな魂あろ・つ.リユLアルッセンが指摘するように︑﹁正犯なき共犯﹂を認めることは︑必ずしも不可能ではないのである︒しかし︑この問題に深入りすることは︑本稿の枠を超える︒

このような理解の下では︑すでに第三者の﹁作為﹂による法益侵害が開始されていた場合などでは︑保障人の﹁不

作為﹂による加功は正犯性を基礎づけないのが普通であるといわなければならない︒ここでは︑﹁主たる責任﹂は誰

が負うべきかが問題となり︑法が︑﹁作為﹂に出た行為者にこれを求めるのは︑至極自然の事理に属することになる

のである︒けだし︑﹁作為﹂は︑﹁不作為﹂を凌駕する万Lを有するからで赴華

(4)

4 神 奈 川 法 学 第34巻 第3号2001年

(640)

この点は︑作為に出た者が保障人であったとしても︑全く異らない︒父親が幼児を毒殺しようとしているのを目撃

した母親が︑犯行を阻止しようとしなかったような場合は︑父親が作為の殺人犯(正犯)であり︑母親は︑不作為の

殺人帯助犯にすぎないのである︒

周知のように︑判例では︑﹁不作為による莇犯﹂の成立を認めるのが︑伝統謬態度となっているが︑その大部

分は︑﹁作為の正犯﹂を前提とする﹁保障人の不作為﹂が問題となる場合なのである︒学説でも︑保障人の不作為は ぜ

幣助犯を成立させるのが原則である︑とするものが多い︒わたくしも︑基本的にはこの考え方に立ってきたわけであ(範・

しかし︑これに対しても︑強い反対がある︒保障人の不作為は︑﹁不作為者﹂すなわち﹁正犯﹂たりうるのみであ

るとするアルミン・カウフマン目ヴェルツェルの轟や・不真正不作為犯は﹁霧犯﹂であるから︑霧違反は原則

として﹁正犯性﹂を基礎つけるとする︒クシンの蒐撃どを挙示しうるであろ鳶しかし︑このような形式的な琵

方をどこまで一貫しうるかに疑問があるばかりでなしに︑その基本的な発想にも問題があるといわざるをえない︒後

に︑改めて確認したい︒

だがしかし︑﹁原則として﹂帯助犯であるというのは︑﹁例外として﹂は正犯たりうる場合があることを認めるから

にほかならない・判例中にも︑作為犯に対する﹁保障人の不作為﹂による加功につき︑﹁正犯性﹂を肯定するものが

(18)ないわけではない︒

保障人の不作為は︑すべて正犯なのか︑原則として正犯なのか︑例外はいかなる場合なのか︒これは︑改めて検討

しなければならない問題である︒本稿の第二の課題とすることにしよう︒

三以上のように眺めてくるならば︑ある保障人の不作為による共犯.正犯と︑他の保障人の不作為による共犯.

(5)

(641>

不 真 正不 作 為 犯 にお け る正 犯 と共 犯  

5 正犯の可能性も︑当然に問題となるであろう︒この問題は︑第二課題において︑不作為の加功は原則として討助犯で

あるとする立場が︑﹁例外﹂を考えるに当たって︑考慮してしかるべき論点であった筈であるが︑これまでは︑充分

に議論が尽くされていなかったといわなければならない︒

しかしながら︑不作為は︑法益侵害に向けた﹁力﹂の注入を欠くだけで︑決して﹁無﹂ではないのである︒不作為

として﹁存在﹂するのである︒そうだとするならば︑保障人的地位の﹁性質﹂・﹁内容﹂の相違や結果防止の﹁難易度﹂

などは︑当該不作為の法的意味の相違をもたらすことがあってしかるべきではあるまいか︒わたくしは︑P.クラー

マー︑ゲッセル︑(ゆンフトに示唆を受けて︑このさつに髪たことであ藁同様の理解を示すものと蟹れる判例もみられるのである︒今すこし考えを進めて︑﹁保障人の不作為による正犯﹂と﹁保障人の不作為による共犯﹂の関

係を明確にしなければならない︒これが︑本稿の第三の課題である︒

(1)即≦①一NΦr頴ω匹Φ呉ω3①Q︒q蹄Φ︒拝ごぎ沖一8PP・︒O︒︒蕾瞥即﹄①ω︒訂︒貯讐いΦ﹃吾9プ島Φωωけ吋鉢①6算ρ≧㎎↓心﹀島・6︒︒︒︒矯P繰一"ζ程琵畠,ΩOωω♀N一9ωq蹄︒︒9と一㎎↓HH㍉﹀魯.一㊤︒︒Pω﹂8嚇ρ冒ざぴρQ︒矯聾Φ69≧騨日卜︒﹀島﹂8ρもっ・刈︒︒一.(2)保障人の不作為に︑非保障人が﹁作為﹂によって加担したときは︑別問題である︒﹁作為﹂による法益侵害は︑保障人・非保障人の区別を問わず︑なにびとについてもこれが﹁禁止﹂されているのであるから(後出︑二・一注(2)(3))︑非保障人といえ

ども︑﹁作為﹂による加担に限り︑作為犯としての評価を受けざるをえないのである︒すなわち︑この場合には︑﹁身分犯﹂に対す

る﹁非身分者の加担﹂の問題は生じえないわけである︒刑法六五条一項の問題が生じないのは︑当然である︒この意味において︑

﹁不真正不作為犯﹂は︑きわめて特殊な身分犯といわざるをえないであろう︒

平野龍一.刑法総論H(昭五〇)三九六頁は︑保障人的地位を︑その存在が構成要件該当性を基礎づけるための要件にすぎず・

特別の﹁身分犯﹂を構成する要件ではないとすることにより︑刑法六五条一項の適用を否定される︒保障人的地位は︑﹁違法﹂・

﹁有責﹂に直接影響を与えない﹁構成要件要素﹂にすぎないから︑﹁違法連帯﹂・﹁責任個別﹂を前提とする六五条とはかかわりをも

(6)

6 神 奈 川 法学 第34巻 第3号2001年

(642)

たないと解しておられるものと思われる︒しかし︑構成要件は違法類型・有責類型と無関係ではないから︑保障人的地位は︑およ

そ刑法六五条とはかかわりをもたないと考えることはできないであろう︒むしろ︑非保障人の﹁作為﹂による加担は︑実質的には

﹁身分犯﹂の問題を生じさせないと考えるべきである︒ドイツでも︑﹁不作為﹂への﹁作為﹂による加担は︑後に触れるように︑

一保障人問題﹂を生じさせないというのが一般である(国.出﹂①ωoげΦ爵唱≧一ΦQ・日●亟﹀邑.ω謄㎝お"ω︒びα口冨あ︒訂α伍ΦびωけOゆ内o臼ヨ①口β同'

卜︒α﹀島﹂OONω.畠O[℃・0﹁O門口Φ吋])︒後出︑二・二Q

ドイツでは︑非保障人の共犯は︑ドイツ刑法新総則︒.八条一項の適否の問題とされる傾向にある︒保障人の不作為に非保障人が

﹁不作為﹂で加担した場合︑同条項の適用により︑新総則四九条による﹁減軽﹂を受けうるのかという問題である︒

保障人の不作為に対する非保障人の不作為の関与は︑まさに︑身分犯に対する非身分者の加担である︒二八条の適否が問題とな

るのは︑当然である︒

肯定説は︑非保障人も保障人の不作為に関与するときには︑保障人的地位を﹁連帯﹂しうるとする態度を前提にするものと思わ

れる︒フォークラーの見解に顕著である︒(日げ・<oゆq一ΦびN霞ゆ①匹Φ⊆εpひq仙ΦωゆNO︒Q∩叶Ωじd盆﹁9Φ日Φ=轟げ8Φ蝉日巷①o葺Φp

¢三Φ同一器︒︒¢躍巴Φ}一尊ピg︒口ゆq9閏Φ簿︒︒︒訂一沖﹂鶏①剛ω﹄霧塗bざ斥)︒したがって︑収賄罪に関与する非公務員と異った扱いをする根拠

はないというわけである︒ロクシンが明言するところである(ピΦ昼N茜①同困oヨヨΦ三曽さ一一﹀色.留○︒ヵ匹p①恥[O・園o酋コ])︒

これに対して︑否定説は︑非保障人は﹁不作為﹂をもってしては共犯となることもありえないとする態度に出るものといえよう︒

ゲッペルトの見解に顕著である(︻ΩΦ℃bΦ芦N霞℃Ho三Φヨ鋤計涛血窃留O>げω.N曽Ωじu巨国四げヨ①口住Φ﹁↓Φ一一口978Φ騨日=コΦo算㊦口

C暑Φ﹁冨ω豊畠ωαΦ莫ゴNω窪乏・Q︒卜︒し⑩刈ρQ︒.心O塗﹄刈拝①㎝跨)︒実質的な考量に出るならば︑否定説が正当である(即鵠冷︒︒筈Φo貫

﹀出噂日蔭﹀色・Q︒.αり9ω070‑爵9ωo葺OユΦゴト︒㎝﹀邑.ω・心$[勺.O茜ヨΦ﹁])︒圓非保障人﹂は︑二八条にもかかわらず︑決して﹁共犯﹂

たりえないと考えるべきだからである(内・Ω80雲rNω貫≦.o︒Nω・お)︒また︑非保障人の﹁作為﹂による関与にも︑二八条一項の

適用はないことになる︒この場合には︑非保障人も︑当然﹁共犯﹂たりうるというのが第一の理由であり︑﹁身分﹂を欠くことか

ら二八条の適用問題が出てくることにもなるが︑敢えて﹁減軽﹂する必要があるのか︑きわめて疑問であるというのが︑第二の理

由である︒溺れた幼児の母親に対して︑﹁救助するな﹂と示唆した情夫と︑煩わしい子供は﹁殺してしまえ﹂と示唆した情夫につ

き︑前者は︑保障人の不作為への非保障人の作為による教唆たりうるから二八条一項の適用があり︑後者は︑門作為による作為犯

への教唆﹂たりうるにすぎないから︑二八条]項の問題を生じさせないというのは︑不当な形式論なのである(O・力餌コ沖しN・一⑩㊤9

(7)

(643)

不 真 正 不 作 為 犯 に お け る 正犯 と共 犯  

7 9一一Q︒①於=○︒﹂︒両者の﹁不法性﹂に差異はないからである(国.国・﹂窃魯Φ鮮"≧蒔θ心﹀仁中ω●α09ω∩げ9滞‑し∩o冨αロΦびト︒α﹀ロ節ω・轟箪ぎ.四暴Φ.])︒すなわち︑罪保障人Lの﹁不作為﹂は︑翼犯Lたりえないが故に︑二八条の問題は生じえず・その﹁作為﹂

の加功は︑作為犯に対する﹁作為﹂の加功と同視する必要があるが故に︑一.八条の適用はないものと考えるべきなのである(内

ΩΦ薯Φ長曽触≦・・.N・︒︒・お碧︒R)︒﹁不真正不作為犯﹂は︑作為犯に比較して﹁不法性が弱い﹂としたところで(後注(望・そ

れは︑当該﹁不作為の保障人﹂についてのみ妥当することなのであって︑﹁作為﹂による加功の不法性がこれに﹁連肚匝して蔵

少﹂する費国︒犀Φ・声覇・ω﹂婁﹄忠)レ﹂する必要はないわけである︒さきに.言したように︑﹁作為による加功﹂は・非保

障人のそれであっても︑﹁保障人問題﹂を生じさせないのである︒

問題は︑むしろ︑ドイッ刑法新総則一︑一︒条(不真正不作為犯)の﹁保障人的地位﹂の要請が︑教唆犯・常助犯にも求められるべきかどうかという基本的な点にあるといわなければならない︒

このように眺めてくるならば︑非保障人は︑その作為についても︑不作為についても︑刑法六五条一項の問題を生じさせないという結論に到達せざるをえないことになる(平野刑法総論H三九六頁)︒わたくしが︑見解を改めたのも︑このような点を考慮したからである︒次注(3)︑後注(5)︒さらに︑後出︑一丁一・一以下︒

(3)内田文昭・改訂刑法1(総論)(補正版)(平九)三一〇頁︒

(4)大谷實.新版刑法講義総論(平一二)四八六頁︑川端博・刑法講義総論(平七)五五〇頁︒なお︑神山敏雄・不作為をめぐる共犯論(平六)六一六頁︑六三八頁以F︒

(5)内田文昭.刑法概要中巻(平一)五〇六頁以下︒さらに︑内田文昭﹁不作為の甜助﹂判例タイムズ七山ハ六号八七頁以下・詳

(6)ΩoP82ωO獅︒3ω=bQ§ωQoα

(7)前注(2)︒なお︑わが刑法六五条とドイツ刑法︑.八条の関連については︑内田・概要中巻五三五頁以ト︒

(8)内田.概要中巻充〇三頁︒なお︑内田・判例タイムズヒ六六号八八頁以下︒

(9)≦Ω餌嵩鋤ω・ω肯﹃聾pN①ωc口邑鋤ωω①巳邑巴Φ毒ω①藝雪鐸¢︒Φ器︒・ΦN霞くΦ言︒び塁晋£㊤①︒・︑ω﹂①興霧(10)国O汀.ωo耳09ΦさO臼↓似叶輿置韓臼ロΦ日↓警Φさ一霧O℃Qり﹂09

(U)囚・甕Φ﹃・︒ωΦ勾k¢ヨ︒︒叶村蝉弩箒まΦ同↓Φ§ぎP零・貿︒.・.塗さらに︑内甲概要霧四六六・頁注(8)︑四七二頁注(6)・

(8)

8 神 奈 川 法 学 第34巻 第3号2001年

(E)ガルラスによれば︑﹁作為﹂は︑﹁不作為﹂に対する関係では︑結果への﹁通路﹂を甕てしまうのである(≦Ω螢=四︑bΦ搾.摺①・

G∩﹂○︒刈h)︒また︑ヤコブスは︑警察官が︑他人の教唆行為を阻止しなかったような場合は︑その警察官の﹁不作為﹂は﹁実行され

た犯罪﹂の歪犯Lたりうるというが(ρ婁量≧㎎冒﹀亀・ω・蟹︑﹁実行正犯﹂の存在までを否定するわけではないのであ

る︒なお︑後出︑三・四注(15)︒

(13)内田・判例タイムズ七六六号八九頁以下︒

(h)国﹄冒ω3①葺≧茜・日誌﹀隼し・.§によって代表される︒詳細は︑ヨ・ω量畳舅①﹃・︒︒げ叫{;コ自Φ=口︒ぎΦげΦ一

¢三Φユ霧︒︒β昌ΦqΦP一8ρω﹂ω①鷺・

(15)内田・概要中巻五〇六頁以下︒

(16)﹀§冨亀暴葺9Φo︒ゆ・暴叶涛量d§旨︒・ω琶鵯血Φ一丼ρ一り㎝Pψ霧罫一Φo自・§輿ま乏Φ一N①二一﹀¢ゆφN8於N・︒罵

(17)ρ力︒亘暴窪景寒巳↓讐げ霞ω§沖為﹀鼠φホ㊤拝ミ舞"ピΦ冒伽・Φ長§ヨΦ§江一﹀轟ゆ・︒男費・︒︒韓[ρ菊︒区一串H

(18)後出︑三・五注(1)(12)︒

(19)内田・概要中巻五〇七頁以下︒

(20)後出︑四・四注(1)(2)(7)(9)︒

二 非 保 障 人 の 不 作 為 に よ る 共 犯 の 可 能 性

{644)

保障人的地位の実質的意義

そもそも︑刑法は︑法益の保護・保全を目的とする︒そのためには︑すべての人に対して︑ ﹁あらゆるかたち﹂

(1)

での法益侵害行為を﹁禁止﹂するのが︑合目的的である︒それ故︑不作為への﹁作為の共犯﹂は常に可能なのである︒

溺れた幼児の母親に対して︑﹁救助するな﹂と示唆した情夫と︑煩わしい子供は﹁殺してしまえ﹂と示唆した情夫と

では・前者は︑たしかに︑母親の﹁不作為﹂を﹁教唆﹂しただけにすぎないが︑この場合の教唆行為そのものは﹁作

(9)

(645)

不真 正 不 作 為 犯 にお け る正 犯 と共 犯  

9 為﹂にほかならず︑結局は﹁幼児の生命﹂に対する﹁間接的法益侵害﹂としての教唆犯を基礎づけるのである・母親

が﹁守るべき法益﹂豪︑その情夫が﹁犯してはならない法益﹂とは︑同一なのである︒リユLアルッセンが︑正当に

指摘するところである︒したがって︑情夫は︑母親の﹁不真正不作為犯としての殺人罪﹂に対する﹁作為の教唆犯﹂

たり︑つるのであり︑それ以外ではあり︑鍛いわけである︒﹁不作為に対する作為の加功﹂は︑﹁作為の共犯﹂として処

理されるというのは︑このことを意味する︒

これに対して︑刑法は︑危機に瀕した法益の保全を﹁すべての人﹂に求めるべきではない︒さもなければ︑刑法は・

すべての人に﹁私人警察官﹂になることを求め︑すべての人に﹁幼児の親﹂になることを求めることになりかねない

からである︒

そもそも刑法は︑法益保護.保全のための﹁命令﹂はこれを﹁ある特定の選び出された人﹂に対して向ける必要が

ある︒勿論︑この﹁命令﹂も︑それ自体が﹁目的﹂ではありえないのであって︑法益保護・保全を目的とする﹁手段﹂

にすぎないのであるが︑それ故にこそ︑このような第二次的な手段は︑ある特定の人に対して向けられることをもつ

て満足しなければならないわけなのである︒換言すれば︑﹁特定の人﹂に対してならば︑このような﹁命令﹂を発す

ることによって︑法益保護.保全に奉仕することを求めてよいのである︒それは︑﹁その人﹂に委ねられた職務・地

位を全うさせることにほかならないからである︒﹁悪行に出るなかれ﹂という積極的な﹁力の傾注﹂の禁止︑すなわ

ち﹁法益侵害禁止﹂は︑すべての人のあらゆる﹁かたち﹂の行為について妥当するが︑﹁善行に出よ﹂という命令を通して法益保護.保全の﹁地位﹂に立させうるのは︑﹁選ばれた人﹂だけに限定され︑かつ︑その﹁善行﹂のみが求

められるわけである︒そして︑そのような人の消極的な﹁力の不傾注﹂すなわち﹁命令違反﹂に対してならば・﹁禁

止違反との同価値性﹂を肯認することも合理的なものをもっているといってよいと田心わ襲・ここに・市民刑法の限

(10)

神 奈 川法 学 第34巻 第3号2001年 10

(646)

界︑すなわち︑﹁刑法の謙抑的性格﹂が存在する︒フォイエルバッハ以来の伝統的な考え方である︒

一方・選び出されなかった人は︑刑法的には︑まさに﹁自由﹂である︒これらの人が︑﹁非保障人﹂なのである︒

﹁選び出された人﹂すなわち﹁保障人﹂と︑﹁選び出されなかった人﹂すなわち﹁非保障人﹂との区別は︑右のような

観点を前提とする︒リューデルッセンによれば︑﹁非保障人﹂には︑その﹁不作為﹂をもってしては﹁守るべき法益﹂

は存在しないので恥・﹁41保障人﹂であっても︑その﹁作為﹂は︑法益を侵害する︒しかし︑その﹁不作為﹂は︑

法益を侵害しないのである︒この相違は︑重大であるといわなければならない︒

二以上のような基本的な考量の下では︑﹁非保障人﹂は︑その﹁不作為﹂をもってしては︑単独で不真正不作為

犯を犯しえないのは自明であるし︑﹁保障人﹂の﹁不作為﹂に関与した﹁かたち﹂をとる場合であっても︑﹁保障人的

地位﹂を﹁連帯﹂することはできないと考えるべきことになる︒すなわち︑非保障人の不作為は︑わが刑法六五条一

項にもかかわらず︑﹁共犯﹂たりえないのであり︑ドイッ刑法新総則二八条一項の﹁教唆犯.耕助犯﹂たりえないの

で飾・﹁保障人の不作為﹂には﹁守るべき法益﹂が存在するが︑罪保障人の不作為Lには︑﹁犯してはならない法

益﹂も﹁守るべき法益﹂も存在しない以上︑非保障人の不作為は︑刑法規範の禁止.命令から解放されなければなら

ないからである︒﹁共犯従属性﹂を基礎づける﹁前提﹂を欠くことになるといってもよかろう︒非保障人は︑いかな

る意味においても刑法規範の受範者たりえないというのは︑実は︑﹁非保障人の不作為﹂についていえることなので

ある︒しかし︑﹁作為﹂に関しては︑保障人・非保障人の区別は問題にはならないわけであるから︑結局︑﹁非保障人﹂

は︑刑法の枠外にいるといってよいわけである︒

この関係は︑収賄罪などの一般的な﹁身分犯﹂についても妥当するといわなければならない︒たとえば︑公務員の

夫の収賄を目撃した妻が︑贈収賄を﹁阻止﹂しなかったからといって︑非公務員たる妻が﹁保障人的地位﹂を取得す

(11)

(647}

不 真 正 不 作 為 犯 に お け る 正 犯 と共 犯 11

るいわれはないのである︒リユLアルッセンは︑妻も﹁公務の清廉性﹂を守るべきであるとい飯魏・それは・妻の﹁作為の加功﹂に関して妥当するのみであって︑﹁不作為﹂には妥当しない議論であるといわなければなるまい・疫

に︑身分犯に加功した非身分犯は︑刑法六五条一項により共犯たりうるというのは︑非身分者の﹁作為の加功﹂を前提としてきたものであることを看過してはならないであろ癖この場合には・﹁共犯従属性﹂の﹁前提﹂は準備され

ているのである︒

三保障人的地位に関しては︑さらに多くの問題があるが︑後に適宜考察を加えたい︒

(‑)董四・︑一Φ戦並Φ℃吋︒σ雪・‑愛ΦN切馨¢曼蚤¢量・・ωω轟︒︒・﹄碁ω・・"・・﹂︒・罠.ヒ§馨噂N§︒・q食・曾鼻︒・﹂ω鐸ヨ碧りω讐図・︒§Φ芦N¢居℃N︒g墨ζω睾・.・︒φ①・.芸塁︒翼N巨量<︒邑暴霧毒血Φ爵﹁Nω睾㊤①噸譲博︒・・ω・︒漆壽ω拝ωω集蒙鋤廊§甑︒ω︒・・〒N貫≧︒・,↓﹄為ぎ凶・ω﹂8曽︒︒N︒︒・(2)閑ト&Φ﹃ωωΦPN§ω叶﹁搭把具ω﹂り姦・

(3)即εΦω6げ①︒㌍≧騨ご﹀島ω・㎝§壽=彗壽ωΦ窄N且喝≧堕8ξ些.ω・ω卜・︒・料︒・§鼻Φ彗Nσ黄卜・α﹀ら.︒・・爲︒50]・2)

(4)≦諮婆ρ蜀・§N︒︒﹄8映もり・︒設震婁‑Oαωω孚N貫≧ゆ・.臼﹄﹄﹀¢自・︒︒﹂8●(5V}﹄避9Ω︒︒﹂芦︒︒・6糞閑●即08ω♀Nωq芝.㊤◎ω・ωN窪・

(6)内田文昭.刑法概要h巻(平七)一九五頁以下︑充六頁注(3)(4)︑三9頁以下︑三〇八頁以下・(7)誇︿・勺Φ¢Φ﹃σ飴︒暮①げ﹃σ¢6芽・⁝塁=①喜u窪ω∩す薯伽・忌§Φ募げΦ豪6葺;邑︒・ω援層卜・卓置負Ωω・算﹀︒9

(8).aΦNω︒︒ΦNω自︒︒︒ωω

.}れに対して︑ゲッペルトは︑﹁法益﹂が存在しないのではなくして︑﹁行為義務﹂が生じないという(閑.ΩΦ︒b貫Nω毫・︒・卜・噂ω・$ぎヨ﹄⑩)︒しかし︑霧務Lは︑それ自体で存在するものではなくして︑百的Lのための﹁手段﹂にすぎないわけであるか

(12)

神 奈 川 法 学 第34巻 第3号2001年 12

(648)

ら(内田・概要上巻二六頁以下)︑リュ!デルッセンが正当であるというべきであろう︒

(9)胃ピ巳ΦHωω①pN§ωq曽凝§含﹂ω蜀葛三

(10)(2)

(11)(5)

(!2)︒︒ωPNωΦq9Qりωωh(31)しかも・罪身分者Lといえども形式的な身分を欠くだけで︑翼行行為Lそのものはこれを行っているといってよいよ︑つな場△.

につき︑六五条一項による﹁共同性正犯﹂を認めるのが判例の基本的な態度であったことをも︑ここで一言しておきたいと思う

(内田文昭百的犯と共犯L神奈川法学﹂一三巻三号八頁以下︑三頁注(η)︑≡頁注(B)︑二八頁以下)︒非保障人の﹁作為に

よる教唆.需助﹂にすぎないからといって︑特殊な原理を導入しなければならないという理由はないのである︒

二非保障人の不作為による需助犯の成立を肯定する見解とその批判

一保障人的地位は︑右に眺めたように︑きわめて重大な意義を有するわけであるが︑ロクシンは︑﹁非保障人の

不作為﹂も幣助犯たりうるという︒この立言は︑ある意味では︑フォイエルバッハ以来の伝統的な考え方に修正を迫

ることになりかねない︒はたして︑ロクシンは支持されうるであろうか︒暫くロクシンの主張を聴くことにしよう︒

︒クシンはい(㍗‑政情不穏な状況下・政治家Bに対する暗殺計画が立てられた︒暗殺者達は︑夜陰にまぎれて隣

家の裏庭を通り︑B宅に侵入しようと考えた︒ところが︑この計画が︑予定日の午後に︑隣人Aの知るところとなっ

た︒Aは・Bに私怨をもっていたので︑陰謀の成功をねがい︑当日夕方︑いつもならば閉鎖する裏庭の扉を開放した

まま放置した︒暗殺者達は︑開放された扉を通り抜け︑B宅に侵入し︑目的を遂げた︒Aは︑﹁不作為による謀殺甜

助罪﹂の罪責を負わなければならない︒

しかし︑この場合︑﹁近隣関係﹂に基づく﹁保障人的地位﹂をAに認めることはできない︒大都会では︑そのよう

(13)

(fig}

不 真 正 不作 為 犯 にお け る正 犯 と共 犯 13

な関係を認めることはできないからである︒裏庭の扉を朝に開けたことも︑﹁先行行為﹂たりえないといわなければ

ならない︒それは︑﹁社会的相当行為﹂であり︑Bの法益を危険に曝したわけでもないからである︒

暗殺計画を成功させるために︑扉を﹁開けた﹂ときは︑﹁作為﹂による謀殺需助であるが︑朝に﹁開けた﹂扉を・

暗殺計画を知った後に﹁閉めなかった﹂というだけでは︑﹁作為による討助﹂たりえないといわなければならない︒

Aは︑﹁積極的な犯行促進﹂としての﹁不作為﹂に出たにすぎないのである︒ー

ロクシンは︑このように︑非保障人の不作為による耕助犯の成立を肯定するのである︒

しかし︑ロクシンの見解に対しては︑批判が多い︒たとえば︑ゲッセルは︑新総則=二条の﹁不作為犯﹂の要件が・

正犯のみならず共犯にも妥当しなければならないと考えるべきであるから︑・クシンの主張は承服しがたいとい(解

ランフトやシュウァプは︑Aに﹁保障人的地位﹂が認められるべきであるとい(㌘しかし・いずれも不充分であると

いわなければならない︒

たしかに︑ゲッセルの批判は︑本稿のこれまでの検討からして︑正当な批判であるが︑だからといって︑Aを無罪

としてよいかどうかは別問題であるといわなければならない︒また︑ランフト︑シュウァプが︑Aに保障人的地位を

認めるべきだとする根拠も︑明確ではない︒Aの所為が﹁作為﹂であるとするならば︑右のような問題は生じないの

である︒そこで︑第一には︑Aの所為は﹁作為﹂か﹁不作為﹂かが問われなければならない・

二・クシンは︑Aが︑朝に扉を開けたLことは﹁作為﹂であるが︑﹁社会的相当行為﹂にすぎないとい(㍗リ

ユーデルッセンも︑﹁過失﹂がないという︒

たしかに︑その通りであるが︑故意.過失のない社会的相当行為は︑最初から﹁犯罪行為﹂ではないから︑コ扉を

開けた﹂ことを﹁作為﹂とみても意味がない︒それは︑後に取り上げるように︑そしてまた︑ロクシンが指摘するよ

(14)

神 奈 川 法 学 第34巻 第3号2001年 14

(650)

うに︑保障人的地位の前提としての﹁先行行為﹂たりうるのみである︒

尤も・Aが・前日に暗殺計画を覚知し︑当日の朝に扉を﹁開けた﹂とするならば︑様相は一変する︒Aは︑Bの生

命に差し迫った危険を現実化するために︑﹁力を傾注した﹂ことになるのである︒それは︑まさに︑﹁作為による甜助﹂

たりうるわけである︒﹁犯罪行為﹂としての作為と不作為の区別は︑すでに周知のように︑必ずしも明確には決しえ

ないものをもっているが︑結局は︑法益侵害のための因果流を創設するか(正犯,教唆犯)︑すでに創設された因果

流に介入するか(帯助犯)の区別を問わず︑積極的に﹁力を傾注﹂するものと評価しうるときには﹁作為﹂を認める

べきである︒これに対して︑﹁不作為﹂とは︑法益に差し迫った危険が生じたことを前提として︑その危険を阻止せ

ず・因果流に委せた場合をいうものと菱るべきで魁・単に扉を開けたか閉めなかったかでは守して︑いかなる

事情の下で蘭けたLか閉めなかったLかが︑決定的なのである︒﹁悪行に出た﹂のが作為で︑﹁譜薫出なかった﹂

のが不作為であるというのは︑このことを規範構造の面から説明するものにほかならないわけである︒

ロクシンの設例におけるAの所為は﹁不作為﹂である︒ロクシン︑リューデルッセン︑ランフト︑シュウァプも︑

みな﹁不作為﹂としてとらえるのである︒

三Aの所為が不作為であるとするならば︑つぎに問題となるのは︑Aは﹁保障人的地位﹂に立つかどうかである︒

ロクシンはこれを否定し︑他の論者はこれを肯定する︒

たしかに︑ロクシンが強調するように︑大都会においては︑すぐれて個人主義的な生活関係が前提となっており︑

相互の防犯関係などが確立している場合ならばともかくとして︑﹁近隣関係﹂を基礎とする保障人的地位をAに認め

ることは妥当ではなかろう︒また︑﹁先行行為﹂に基づく保障人的地位は︑当該先行行為が︑故土日心.過失に基づくも

のである必要はないし︑社会的相当行為にほかならないという理由だけでこれを否定することはできないであろうが︑

(15)

(651)

不 真 正 不 作 為犯 に お け る 正 犯 と共 犯

15

すくなくとも︑主観的.客観的に法益状態に影響を与えるような行為であることを必要とするものと考えるべきであ

る︒さもなければ︑無限の過去に遡って﹁先行行為﹂に基づく保障人的地位を認めざるをえないことになり︑たとえ

ば︑AがB宅の隣りに居を構えたこと自体が︑保障人的地位の根拠となりかねないのである︒これでは︑﹁特定の選

ばれた人﹂だけに帰責を限定しようとする刑法の姿勢を崩すことになろう︒さきに確認した通りである︒

Aが︑朝に扉を﹁開けた﹂ことは︑その時点では︑すくなくとも主観的にはBの生命に危険を及ぼす行為とはいえ

ないのであるから︑Aに﹁先行行為﹂に基づく保障人的地位を認めることはできないというべきである︒

これに対して︑リューデルッセン︑ランフト︑シュウァプは︑保障人的地位を認めようとする︒しかし︑その理由

はあきらかではなかった︒

この関係で明確なのが︑シユトレーである︒シユトレーは︑ロクシンの設例においても︑Aに﹁保障人的地位﹂を

認めうるという︒自己が︑排他的に管理・支配する場所・空間においては︑当該管理者は︑犯罪実行を防止する保障

人になるというのである︒単に︑自己が管理・支配する領域において犯罪が実行されることを阻止しなかっただけで

はなしに︑自己が排他的に管理.支配する物・場所・空間が︑排他的な関係で︑犯行の﹁門口﹂・﹁通路﹂となること

を阻止しなかった場合には︑当該管理者は︑﹁警察官﹂に準じる立場に立つものといわざるをえないであろう︒シユ

トレーの見解は正当である︒同趣旨の判例もある︒

ロクシンの設例におけるAは︑まさに︑自己が管理・支配する場所・構築物が︑犯罪の﹁通路﹂として利用される

危険性があることを十分承知しながら︑これを放置したわけである︒かような場合には︑例外的に﹁保障人的地位﹂

(随認めなければなるまい︒尤も︑裏庭の扉が︑ここ数年間開放されたままLの状態にあったような場合は︑別である︒扉を﹁開けたり﹂・﹁閉めたり﹂することは︑もはやAの管理・支配に属しないものといわざるをえないであろう︒

(16)

神 奈 川法 学 第34巻 第3号2001年 16

(652)

単に︑B宅に﹁通じる場所﹂があったというだけなのである︒﹁通じる場所﹂は︑B宅付近には至る所に存在する︒

暗殺計画を知った付近の居住者が︑みな﹁保障人的地位﹂に立たされるのは︑不合理である︒しかし︑ロクシンの設

例は︑あきらかに︑このような場合ではないのである︒

四ロクシンの設例は︑保障人の不作為による謀殺甜助罪(ドイツ刑法=二条・二=条.二七条)を基礎づける

ものというべきで舞・非保障人の不作為による蓄助犯は存在してはならないのである︒この限りで︑ゲッセルが︑

新総則一三条の要件は共犯にも妥当しなければならないとするのは︑正当であったといわなければならない︒

結局︑﹁非保障人﹂は︑その﹁不作為﹂をもってしては︑不真正不作為犯の﹁正犯﹂たりえず︑作為.不作為の正

犯に関与した﹁かたち﹂を取る場合であっても︑決して﹁共犯﹂たりうることはないという結論に到達せざるをえな

いのである︒

(1)ρoP︒︒oωωoh酢ω︒︒α

(2)冨・§甲Ωoωω♀凶ob≧︒・■↓﹄㍉﹀臨.ω.ω・︒ρ

(3)ρ寄島﹄節ω⑰q霞四ヨ8{涛葺三α壽Φdヨ巴鋤ωωΦ口山興証§︒︒3壽歪畠"Nω耳≦・㊤メ一Φ︒︒9ωb①︒︒塗・・︒︒︒︒︒讐即一・ω︒ずぞ餌ダ

ωOQo

(4)ρカ︒×旦爵寅ω︒冨沖巨鳥日彗①塁︒藝二忠自・ω・轟︒︒①・

(5)円・ピまΦ霧ΦpN§ω滑﹁昌把具ω﹂刈⑩●

(6)作為と不作為の区別は︑﹁評価﹂の問題にすぎないという理解も有力であるが(内田文昭.刑法概要上巻三一一頁)︑ここでは︑

そのような﹁評価﹂を考えているわけではないことを一言しておかなければならない︒﹁評価﹂を抜きにしては︑およそ刑法は存

立しえないというだけのことなのである︒⊂・Qっ帥ΦσΦさUδ﹀σ伽q器昌N⊆⇔oq<o口↓=口=コ師d鼻巽訂ωωΦ口σΦ一匹雲も器ω一く①口..

O①呂感o﹃ω什Φ=口国78ρ罠・一㊤OQρω・お一映こおω塗

(17)

{653}

不真 正 不作 為 犯 にお け る正 犯 と共 犯

(7)内田.概要上巻︑二〇九頁以ド︑三一二頁以下︑三一八頁注(21)︒

(8)前出︑二・一注(6)(7)︒

(9)ρ渕︒客一ロ角器・・6藝昌舅葺国ω︒藝㍉﹀邑・貿︒︒舞曇鐸¢蜀の鋒N§し︒冨蝉巨ひ萎ρ穿沖矯Nω叶箋雪ω・N︒︒畏"鵠・旨のOげ≦鋤9↓簿①窃Oぴ蝉ヰ噸ω﹂鐙.

(10)内田・概要上巻三.↓二頁︑三二四頁注(22)︒

(11)Q︒oげα夢Φ,ωoξαOΦがb︒切﹀島.もo﹄Oα[芝'o∩q①Φ↑なお︑内田・概要上巻三二一頁以下︒

(12)ω6ま鼻Φ‑ωo耳&①びトの切諺ロ中ω﹄8[≦ωqΦΦH

(13)後出︑三・五注(8)︒

(14)中義勝﹁不作為による共犯﹂刑法雑誌二七巻四号一頁以下︑.七頁以﹁は︑ロクシンの見解に対して︑﹁なんらかの意味での

保障者的義務とのかかわりを一切排除して不作為による帯助を認めることは可能ではない﹂としながら︑﹁数年来夜も昼も開いた

まま放置していた﹂ような場合には︑﹁謝助とはされないであろう﹂といわれる︒

(15)ρ一p評︒σω℃≧蒔↓N諺¢中し︒.︒︒8は︑ロクシンの設例におけるAにつき︑ドイツ刑法三二三条C(緊急救助放棄罪)の罪責を負

えば足りるとする︒

三 作 為 犯 に 対 す る 保 障 人 の 不 作 為 に よ る 正 犯 の 可 能 性

17

一序説ーアルミン・カウフマンーーヴエルツェルの見解とその批判

一以上で︑不真正不作為犯においては︑﹁保障人の不作為﹂のみが︑正犯たりえ︑共犯たりうることが確認され

た︒前者は︑保障人の単独犯を想定し︑後者は︑作為犯に対する保障人の加功を想定するものであった︒後者につい

て︑﹁例外﹂を訊ねようというのが︑本稿の第二課題であったわけである︒

しかし︑その前提として︑われわれは︑不真正不作為犯に関しては︑﹁正犯と共犯﹂の問題は生じえず︑﹁不作為へ

(18)

神 奈 川法 学 第34巻 第3号2001年 18

(654)

の共犯﹂も﹁不作為による共犯﹂も存在しないのであって︑﹁作為の正犯﹂か﹁不作為の正犯﹂かが存在しうるのみ

であるとする見解を改めて検討しなければならない︒けだし︑このような理解が正当だとするならば︑われわれの第

二課題は無意味なものとなってしまうからである︒

二不真正不作為犯に関しては︑﹁正犯﹂のみが存在するという立場を強力に推進したのが︑アルミン・カウフマ

ンーーヴェルツェルである︒

アルミン.カウフマンーーヴェルツェルにとって︑﹁不作為﹂は﹁行為の不作為﹂であり︑決して﹁行為﹂ではなか

った︒目的的行為でない以上︑﹁因果性﹂は存在しえず︑因果支配を通して現実を形成しようとする﹁故意﹂を認め

ることもできないのである︒

したがって︑不作為は︑﹁保障人の不作為﹂といえども︑結果を惹起することはできず︑また︑そのための故意を

認めることもできないのである︒保障人の不作為が存在するのみである︒そこには︑せいぜい﹁疑似因果性﹂.﹁疑似

故意﹂しか認められないわけである︒このような﹁不作為﹂は︑したがって︑﹁支援される﹂こともないし︑犯行決

意を﹁喚起させられる﹂こともないのである︒目的的行為だけが﹁支援され﹂・﹁喚起させられる﹂のである︒﹁不作

為への共犯﹂は存在しないというのは︑このような理由に基づく︒﹁不作為への甜助犯﹂.[不作為への教唆犯﹂とい

われる場合は︑﹁作為の正犯﹂以外の何者でもないことになる︒

同様の論理は︑不作為による加功という﹁かたち﹂をとることもできないという帰結を導く︒保障人の不作為は︑

﹁不作為﹂である以上︑自然・動物の﹁力﹂を支援することはできないし︑第三者の門法益侵害﹂を喚起することも

できないからである︒そこにあるのは︑ひたすら﹁不作為者﹂として﹁存在﹂する﹁人間﹂なのである︒カウフマ

ンーーヴェルツェルは︑一般に︑第三者の﹁侵害﹂に対してはこれを﹁支援﹂しうるから﹁蓄助犯﹂たりうるが︑自

(19)

(655)

不 真 正不 作 為 犯 に お け る 正 犯 と共 犯 19

然.動物の﹁力﹂が存在するときには﹁正犯﹂を認めざるをえないとされるのは不当であるとい(㌘それは・このよ︑つな根拠に基づく︒保障人にとっては︑﹁保障しなければならない法益﹂の保全を台心ったことがすべてなのである︒当然︑﹁不作為の正犯﹂が存在するのみである・

三カウフマン苦エルツェルの見解に対しては︑多くの批判が向けられるべきである・篁に︑不作為は﹁行為﹂ではないから︑百的的行為支配Lも存在しえないとい・つ主張に対しては・緩・﹁行為﹂でもないものを﹁犯罪﹂とすることができるのかという批判が可能であり︑不作為には作為のような目的的行為支配

カないとい︑つだけで︑何故︑不作為そのものが結果阻止防止に関して有する法的意味は・具体的な妻について相違するものをもっているとい・つことをも否定することになるのかとい・つ批判が可能なのである・本稿の究極のねらいは︑実は︑不作為のもつ万Lの強弱を確認することにあるといって過言ではないのであ(㌍第二に︑不作為には︑因果性も故意も認められないという主張に対しては︑作為の因果性と故意が存在しないとい︑つことには︑不作為の因果性と故意を否定する根拠は示されていないという反論を加えるべきである・払削者については︑長年蔓日奉説.判例の苦渋に満ちた歩みは︑保障人が要請された作為に出たならば・﹁結果は防止し︑尺たであろ・つ﹂とい・つ確認をもって満足するしかないという帰結に芒たという霧が可能で恥後者では・法益婆を阻止する(寵)とを止めよ・つとする意思︑すなわち︑﹁不作為故意﹂をもつことは充分可能であるという箋を指摘し︑つるのである.法益滅失不阻止意田心の﹁喚起﹂が︑不作為犯への﹁教唆﹂であり・法益滅失不阻止意田心の﹁強化﹂が︑不作為犯への﹁島﹂なのである.保障人は︑このような﹁意思﹂を生じさせられなかったならば結果

を防止し.えたであろ︑つとい︑尺る限り︑錠犯Lたりうるし︑このような意思を生じさせ・ないしは・強化させた者は・不作為への﹁共犯﹂たりうるわけである︒

(20)

神 奈 川法 学 第34巻 第3号2001年 20

{656)

しかし・カウフマンUヴェルツェルの立場は︑このような理解を一切拒否することに咤.・ンユトレー︑︒ク︑ンン︑

クラ←‑は・このような見地から︑カウフマ詐ヴェルツェルを批判したことであった︒

他方・カウフマンUヴェルツェルの立場では︑たとえば︑会社の霧処理を委託された者(保障人)が︑ム五社の財

産上の危機に際して善後策を考慮中に︑彼に対して事態を放置するよう示唆して︑ム五社に財産上の損宝.を生じさせた

非保障人は・背任罪に関しては﹁不可罰﹂とされざるをえないのである.保障人の﹁作為による北目任行為﹂を謬L

した者は・当然に荏罪の教唆犯たりうるのに︑﹁不作為の背任行為﹂を謬﹂した者は︑﹁正犯﹂たり︑つべく﹁身

分﹂を欠くわけであり・さりとて︑﹁不作為への共犯﹂は存在し・えないとい・つのであるから︑結局は﹁不可罰﹂なの

である・その者が・会社財産に損害を与・える百的Lをもっていたとしても︑同じことである.けだ詰真正目的犯

において・百的Lをもったということは︑保障人たる﹁身分﹂を基礎づけ・つるものではない(︑カ2)らである.このよ︑つ

な帰結が・はたして承認されうるであろうか.・クシンなども︑このよ・つな批判を展開している︒

さらに・保障人の不作為は常に不真正不作為犯の﹁正犯性﹂を基礎つけるとい・つ︑王張に対しては︑ガをフス以来︑

 い  がある 

たしかに・カウフマン"ヴェルツェルのこの態度には︑徹底した形式主義が露呈しており︑到底承服し︑つるもので

はないといわなければならない︒

第に・カウフマンuヴェル三ルは︑不作為が︑法益侵害・滅失に対する関係では︑原則として﹁醗犯的存在﹂

であるにすぎないということを看過しているといわざるをえない.さ叢確認したよ・つに︑法益塁口が︑天間の作

為Lによって惹起されたときに︑このことが特に鮮明に窺われる筈なのに︑.﹂れを無視しているとい︑つことである.

したがって・カウフマンnヴェルツェルが︑自然・動物が力を発揮しようと︑第三者の作為が介在しよ︑つとこれを

(21)

{657}

不 真 正 不作 為 犯 にお け る正 犯 と共犯 21

区別することはできないのであって︑並則者では︑(羅人の不作為に﹁正犯性﹂を付与し︑後者では︑﹁討助犯﹂しか存在しないと考︑乞のは妥当でないと主張するのは︑﹁人間の不作為﹂という存在を薔的に強調した不当な形式主

義以外の何物でもないのである︒

第二には︑カウフマンも︑たと︑凡ば︑﹁作為の財産犯﹂に加功した﹁かたち﹂をとる﹁保障人の不作為﹂に対して

は︑﹁不作為による蕩犯﹂の成立を認めざるをえないというのである嘩その不整△︒を指摘しなければならないのである︒何故︑﹁保障人の不作為﹂による財産犯の歪犯Lを認めないのか︑その根拠は不明なので為・生命に対

する保障人の不作為は﹁尭﹂で︑財産に対銘保障人の不作為は﹁翻犯﹂であるというのは︑いわれのない形式

的な﹁区別﹂であるといわざるをえないであろう︒

︿‑)﹀﹃艮餌¢身鋤口口豆①︒︒・・ヨp身ψω§・婁ζ︒・攣録・・Φ曇雪Φ匿矯;=器§書8書轟さらに・前出・(16)

(2)p︒UδOOoqもo.ρ.

(3)>h鼻ρ9Φboゆ韓ω.}N9.

(4)≧ヨ内き身碧puδ∪︒︒・ヨ巴ぎ︒︒]8映●出壽塁噂=﹀島.︒︒.b︒8h(5)≧ヨ・鰹¢欝きpuδo罐日巴貫︒,﹄8記類曾①二一﹀島・ω﹄N卜︒・

(6)特に︑後出︑四・一以下︒

(7)内田文昭︒刑法概要上巻三五三頁以下︒さらに︑ζ磐冨筈‑Ωα器♀N昼h≧一σq■日HH﹄﹀亀.9一恕跨(8)ζ9︒ロ﹁︒︒7‑Ωα︒,の①〒N且・≧堕β昌刈﹀魯・ω・・︒8讐ω魯曾訂山︹ξ&Φ﹁b㎝き即ψおO憾臼O鑓ヨΦ昌(9)当然のことながら︑判例も︑﹁不作為犯への教唆犯蓄助犯﹂を肯定している︒し︒霞ξ馨9N︒・︒籍︒・ζなお・いgN饗閑oヨヨΦ暮帥お=﹀虞ゆ]8ω如一ω菊山戸切卜Q冨.即冒︒︒9Φ穿]・(‑o)≦︒︒叶﹃ΦΦ肖Φ臨口帥喜Φ磐d口けΦ量ω豊躍︒︒量云O}一り①ωひ一自芦9農Φ民§ヨΦ暴二;巨紹爵9§[ρ幻︒首﹂あ99脚①‑

(22)

神 奈 川 法 学 第34巻 第3号2001年 22

ωOプδ創臼b㎝﹀⊆中ω誌boOh[勺・0轟日興]・

(11)内田文昭﹁目的犯と共犯﹂神奈川法学.二三巻三号四頁以ド︒

(12)い魯諾霞内︒日ヨΦヨ鐸一一ぎ中総①窓PδN[ρ皆蝕口]蟄・旨ω︒げ薯蝉σ論警Φ居ω3四盈9一ω卜︒・

(13)≦OQ蕾ρしdΦ箭譜ρρ一認黄即一・ωB≦鋤σ月馨臼ω︒匿戸ωレト︒︒︒罫一認兵}ω㎝h

ちなみに・ゾワダ(︒ξω︒藍P↓養ω︒曇巨日Φ§ぎ量日ぎ§ωω庭・・創Φ琴一¢門基・.ρω・謹は︑カウフ了ノnヴ

ェルツェルが・﹁不作為故意﹂を盃疋しながら︑﹁不作為正犯﹂を故意犯の領域にとどめようとするのは理解し難いとい︑つ︒正当で

(14)

(15){PΦOp︒穿Q︒b8"NΦr}ωb︒卜︒P

(16){鼻︒P9ΦUωbΦ

(71)カウフマンは・﹁純粋の箪犯﹂では﹁不作為正犯﹂と﹁不作為による醐犯﹂の区別は誤っているが︑﹁不作為正犯﹂柔口定せ

ざるをえない場合には﹁不作為による甜助犯﹂を認めることは必要であり︑意味があるというだけである(﹀.ヨ国⇔仁含§並.

u︒ゆq塁ζ・卜・・刈)・これでは︑その﹁形式義﹂すら崩壊するものといわざるを︑凡ないであろ・つ.︒勇︒図一コ忌︻①門・︒︒げ・︒津̀口島

ωoQo.ωQりoσω}{ro∩Q︒卜︒(12)

(遇)阿部純二﹁不作為による従犯(中)﹂刑法雑誌天養三号七責以下︑八四頁は︑通常の結果犯では︑不作為による従犯は

考えられないとして︑カウフマンに賛意を表されるが︑きわめて疑問であるといわなければならない︒

(658)

二原則正犯説

一保障人の不作為は︑原則として﹁正犯﹂であるとする考え方がある︒原則正犯説Lと呼ぶことにしよう︒︒

クシンやシュトラーテンヴェルトの立場で裂・この立場は︑不作為に対する共犯の成立を肯定する占崩で︑アル・︑

ン.カウフマンーーヴェルツェルと異なるが︑不作為による加功は原則として正犯であるとする点では︑カウフマン目

(23)

{659)

不 真 正 不 作 為 犯 に お け る 正 犯 と共 犯 23

ヴェルツェルと同じ決論になるという特色がある︒

まず︑ロクシンの見解から検討することにしよう︒

二・ク・ンンは︑不真正不作為犯を﹁霧犯﹂とすることから出発表)・﹁霧犯﹂の﹁正犯性﹂は・﹁行為支配﹂

によって羅づけられるのでは守して︑義務違反Lによって譲づけられ麗・公賛と非霧暴・共同で公務員犯鐸実行したときには︑非公務員に異同行為支配Lが認められたとしても︑霧員のみが同罪の正犯たりうるのである︒不真正不作為犯も︑保障人の﹁保障人的義務違反罪﹂であるから︑霧違反の故をもってのみ﹁正犯性﹂が基礎づけられなければならない︒溺れた幼児を救助しない母親と︑たまたま居合わせて救助に出なかった他人とは・

齢 鍾 羅 雛 難 紅 蹉 劉 輻 麩 嘱 譲 護 諏 辮 ﹄殺 人 犯L な の であ .て ︑

そして︑.あことは︑幼児が他人に水中に突き落とされた場合であろうと︑たまたま深みにはまった場合であろうとを問わず︑母親は︑義務違反の故のみをもって﹁正犯﹂とされなければならないというので匙・カウフマ︑fヴェルツェルの立場に近接するといわざるをえない︒

しかしながら︑︒クシンも︑﹁不作為による正犯﹂はこれを否定し︑﹁不作為による鵡犯﹂を認めざるをえない場△.があることを肯定するのである︒霧違反は認められるが︑﹁不作為による護要件実現﹂はこれ柔︒定せざるをえない場ム.であるとされる︒たとえば︑父親が︑未成年の息子と娘の近親相姦(自手犯)を阻止しなかった場合とか・不法領得意田心を欠く倉庫番が︑倉庫内物︒叩の窃盗を阻止しなかったような場△・である・前者では・父親は・不作為による﹁近親相姦罪ドイッ刑迭七三条)﹂の蕩傑あり︑後者では︑倉審は︑不作為による﹁窃盗罪(ドイツ刑法二四二条この甜助犯にすぎないというのである︒

(24)

神 奈 川法 学 第34巻 第3号2001年 24

(660)

ここでもまた︑カウフマンーーヴェルツェルと同様の修正が行われたことになるといえよう︒

三ロクシンの見解に対しても︑種々の批判が可能である︒

篁に︑義務犯では︑霧違反のみが正犯性を基礎づ魂という暴は正ヒないという占{を指摘しなけれ耀ら

ない・仮りに・霧務犯Lという範疇を前提とするにしても︑義務違反が︑直ちに正犯たり︑つるということはなvと

いわなければならないからである・この占崩は︑たとえば︑同僚公務員の収賄に支援の便を取ったにすぎない公務員を︑

霧違反の故に・収賄罪の正犯とすることが許されるかという問題を提出することだけで充分であろ・つ︒収賄を教唆

した公務員や帯助したにすぎない公務員を︑義務違反Lの故に一律に正犯とすることは︑通説.判例の伝統的な考

え方を根抵から覆すものといわなければならない︒すでに確認したよ・つに︑薮唆犯L.﹁帯助犯﹂は︑なにびともこ

れを成立させ飽・収賄罪の教唆犯籍助犯は︑したがって︑作為による限り︑公務員.非公務員の別を問わず可能

であるといわなければならない︒・クシンの立場では︑﹁公務員﹂は教唆犯.莇犯たり︑えないことになろ︑つが︑そ

のような趣旨は・刑法上の規定から導かれるものとは思われないのである︒・クシンは︑非霧員も公務員犯罪の教

唆犯・鵡犯たりうるとい(㌍これは︑作為による加功である限り︑勿論正当である︒それだけに︑霧員は︑公務

員犯罪の教唆犯・甜助犯たりえない根拠を︑より積極的に明示しなければならないわけである︒

不真正不作為犯に関しても︑同様の問題がある︒不真正不作為犯は︑﹁義務犯﹂であるとい・つのであるから︑保障

人の不作為は・正犯であるというのは理解できないわけではない︒しかし︑それならば︑﹁非保障人﹂の不作為によ

る加功も・霧員犯罪に作為で加功した罪公務員Lと同様︑当然に︑不真正不作為犯の教唆犯隔助犯とな つる

のであって・さきに取り上げた﹁政治家暗殺事件﹂に関して罪保障人の不作為による殺人莇罪Lの成不口を論じる

必要もなかった筈なのである︒﹁霧者﹂は常に﹁正犯﹂であり︑﹁非霧者﹂は常に﹁教唆犯﹂.幕助犯Lであると

(25)

(661)

不 真 正 不 作 為 犯 に お け る正 犯 と共 犯

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いうべき筈だからである︒溺れた幼児の母親の傍で救助に出ようとしなかった他人も︑母親の不救助意思を強化させたときは︑やはり殺人の鵡犯たり︑つるものというべきであろう︒このような結論が許されるであろうか・﹁不真正不作為犯﹂では︑霧務者L以外の者は︑刑法の世界に登場してはならないので職・

さらに︑︒クシンの立場では︑母親が︑父親の幼児﹁殺害﹂を阻止しなかった場合も︑その﹁保障人的義務違反﹂

の故に︑﹁不作為の殺人罪﹂となる︒母親が﹁作為﹂幕助したときは︑保障人問題は生じないから・殺人蓄助にす

ぎないのに︑﹁不作為﹂の蓄助は﹁正犯﹂となるのである︒これは不合理ではなかろうか︒ロクシンは・このような

場△︒︑母親は殺人の正犯であると同時に父親の殺人行為を幕助Lしたことになり︑討助は正犯に吸収されるが・作

為の醗との均衡を薫したの(膓ろ潮刑は翻犯の限度にとどめなければならないといψ帽・はたして・このような技巧が承認されうるであろうか︒霧務違反Lと﹁構成要件実現﹂が認められる場合に︑作為の正犯が介在するときは︑保障人の霧務違反Lにつき︑幕助犯Lの刑責にとどめなければならないというのは︑﹁保障人の不作為﹂は

討助犯にすぎないというのと︑実質的には何の差異もないのである︒

第二には︑﹁霧違反﹂は認められても︑構成要件実現Lが認められないときは幕助犯Lにすぎないという主張

の是非が問われるべきである︒

勿論︑この主張そのものは︑これまでの検討からして︑何ら不当ではない︒問題は︑それが恰も﹁例外﹂であるか

のようなとらえ方に出るべきかどうかである︒

たしかに︑兄と妹の近親相姦を阻止しなかった父親は︑みずから犯罪を実行したわけではないから︑幕助犯Lに

ととまるとしえよう︒未成年者に対する親の監視義務に違反するが︑それにとどまるからである︒しかし︑兄妹が幼少時に離別し︑互いに肉親関係にあることを知らなかったような場合には︑その事実を知っていた父親の不作為は・

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神 奈 川法 学 第34巻 第3号2001年 26

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単なる監視義務違反としての幣助犯にとどまりえないのではあるまいか︒父親は︑むしろ︑近親相姦の﹁間接正犯﹂

としてとらえられるべきではあるまいか︒

そもそも・﹁自手犯﹂と呼ばれる犯罪にあっては︑﹁間接正犯﹂の可能性が否定される傾向にあるが︑仮りにこのよ

うな傾向を前提にするにしても︑それは︑およそ百手犯Lの問謬あって︑不真正不作為犯に固有の問題ではない

のである︒つまり︑不真正不作為犯の﹁例外問題﹂ではないのである︒

さらにまた・不法領得意思を欠く倉庫番が︑窃盗行為を阻止しなかった場合は︑需助犯にとどまるという主張も︑

それ自体としては正当である︒しかし︑だからといって︑倉庫番が︑第三者領得立日心思をもっていた場合は︑常に窃盗

罪の正犯であるとすることも︑正当ではないであろう.屈強の薯の窃盗魂を阻止しなかった年老いた倉薯は︑

第三者領得意思の存在にもかかわらず︑蕎助犯にとどまるというべきであろう︒それは︑単なる監視義務違反の問題

ではないし︑不法領得意思だけの問題ではないのである︒

結局︑・クシンの﹁原則正犯説﹂は︑種々の破錠を生じさせて(聡といわざるをえないであろう︒

なお・ルドルフィーも︑基本的にはロクシンと同様の理解に出る︒したがって︑ロクシンに対すると同様の批判が

向けられてしかるべきであろう︒

四シュトラーテンヴェルトの﹁原則正犯説﹂にも︑同様の批判が可能である︒

シュトラーテンヴェルトは︑不作為には︑現実的な行為支配が認められず︑﹁潜在的行為支配﹂が存在するのみで

あると髪る.潜在的行為支配という見地では︑いかなる不作為も同じであるから︑﹁不作為﹂による関璽歪犯L

なのである・﹁例外﹂は︑ロクシンの場合と同様︑﹁自手犯﹂・﹁特殊義務犯﹂などに限られるというのである︒

問題は︑シュトラーテンヴェルトの﹁潜在的行為支配﹂には︑強弱の程度が認められないかどうかにあるといわな

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