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飛鳥地域の発掘調査 飛鳥藤原宮跡発掘調査部

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飛鳥地域の発掘調査

飛鳥藤原宮跡発掘調査部

1 9 8 8 年 度 , 飛 鳥 藤 原 宮 跡 発 掘 調 査 部 で は , 飛 鳥 地 域 に お い て 石 神 遺 跡 , 推 定 山 田 道 , 川 原 寺 跡 , 奥 山 久 米 寺 跡 な ど 6 件 の 調 査 を 実 施 し た ( 2 1 頁 参 照 ) 。 以 下 に 主 な 調 査 の 概 要 を 報 告 す る 。

1.石神遺跡第8次調査

石 神 遺 跡 は , 1 9 8 1 年 以 来 発 掘 調 査 を 継 続 し て お り , 複 雑 に 重 複 ・ 交 錯 す る 石 組 溝 , 石 敷 を 伴 う 掘 立 柱 建 物 や 井 戸 な ど を 確 認 し , 須 弥 山 石 の 転 落 位 置 も 判 明 す る と い っ た 成 果 を あ げ て い る 。 今 回 は 第 7 次 調 査 の 北 に 接 す る 水 田 2 枚 を 対 象 と し て 調 査 を 実 施 し た 。 そ の 結 果 , 遺 跡 が さ ら に 北 方 に 広 が る こ と を 確 認 す る 一 方 , こ れ ま で の 調 査 で 明 ら か に さ れ た 南 か ら 連 続 す る 一 つ の 区 画 が , 今 調 査 区 内 で 一 応 完 結 す る こ と 及 び , こ れ ま で こ の 区 画 の 西 を 限 る 長 廊 状 の 建 物 と 考 え て い た も の が , 実 は 西 側 に 展 開 す る 別 の 一 区 画 に 属 す 南 北 棟 建 物 で あ る こ と が 判 明 す る な ど の 成 果 を 得 た 。 ま た , 前 回 の 調 査 ま で は こ の 遺 跡 の 主 要 な 遺 構 を , 主 に 重 複 関 係 と 建 物 方 位 に よ っ て , 4 時 期 ( A 〜 D 期 ) に 区 分 し て 理 解 し て い た が , そ の B ・ C 期 に つ い て は , 遺 構 の 重 複 がわずかであることや建物がまばらすぎること,また方位の振れの細かな違いが一概に時期

石 神 遺 跡 ・ 「 山 田 道 」 周 辺 調 査 位 憧 図

差とはならないことを理由に,

この両期を一体と捉える方が的 確であると考えるにいたった。

そこで,ここでは,第7次調査 までのB・C期をB期,D期を C期と呼び換えて報告する。

A 期 の 遺 構 飛 鳥 寺 と 水 落 遺 跡 の北に東西大垣を作り,これを 南限とする広大な区画が形成さ れた時期で,第4次調査で見つ かった大井戸S E 8 0 0 が存続する。

さらに3小期に細分する。

A − 1 期 石 組 ・ 素 掘 り あ わ せ て6条の溝があるが,今調査区 内には建物はない。SD 1328 調査区中央やや西にある東北に 向かって斜行する溝である。も

とは護岸の石組があったようだ が,すべて抜き取られており,

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底石もない。S D 1 3 2 8 の底部で石組溝S D 1 2 1 0 を確認した。第6次調査区から延びる南北溝で,人 頭大の川原石を積むが底石はない。SD 1 3 4 5 は調査区中央で一部を検出した南北石組溝。A−2 期の石組溝SD 900の東に接し,これより古い。人頭大の石を上が広くなるように3段以上積み 上げる。開渠であろう。この北の南北石組瀞S D 1 4 2 1 . 1 3 5 4 , 束西沸S D 1 3 5 3 はごく一部を検出 できたにとどまる。S D l 3 5 3 とS D 1 3 5 4 は埋土が類似しており一連の溝と思われる。

A−2期石組溝S D9 0 0 ,掘立柱建物S B 1 3 2 0 と周囲の石敷S X 1 3 2 1 . 1 3 2 3 , 雨落渉S D1 3 2 4 ,掘立 柱建物S B 1 3 4 0 などがある。石組溝S D 9 0 0 は井戸S E 8 0 0 から発して調査区中央を貫通する南北方 向の暗渠である。蓋石はすべて抜き取られ,調査区南半部ではA−3期の造営に伴い破壊され ている。掘立柱建物SB 1 3 2 0 はこのSD 9 0 0 を軸線にして東西に振り分けた形で建てられた東西棟 である。桁行9間(柱間2 . 0 m等間) ,梁行2間(柱間2 . 1 m等間)で,柱は抜き取られる。西側に は石列S X 1 3 2 2 を見切りとした石敷S X 1 3 2 1 ・1 3 2 3 が広がり,S X 1 3 2 2 と南西方向にある石列 S X 1 3 3 9 との間を幅約5 . 2 mの石敷通路と見なすこともできよう。東南隅では石組東西樵S D l 3 2 4 が北に折れるようなので,建物の東辺と南辺には雨落瀧が巡り,その外側を石敷としていたら しい。建物部分は石列を縁とする基壇があって高くなっていたのであろう。SB 1 3 2 0 の北側には 東妻と柱筋を揃えて南北棟建物S B 1 3 2 5 がある。S B 1 3 2 0 と同じ柱間で南側の2間分を検出した。 石組溝S D 1 3 3 5 はS B 1 3 2 0 の西南方から南東に延び,調査区南端でS D 9 0 0 に注ぐと思われる斜行 溝である。蓋石が一部に造存する。西北端には乱雑に小石が詰めてあり,S B 1 3 2 0 周囲の石敷に 伴う雨水処理の溝と考える。S X 1 3 4 4 はS B 1 3 2 0 の東方に位慨し,人頭大より一回り大きめの塊石

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石 神 遺 跡 第 8 次 調 査 遺 榊 図

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を 径 1 . 2 m の 円 形 に 並 べ た も の 。 外 向 き に 面 を 揃 え て お り , 何 か の 台 座 か と も 考 え た が , 導 水 施 設 等 は 見 つ か ら な か っ た 。 S B1 3 4 0 は 調 査 区 の 南 西 隅 で 検 出 し た 掘 立 柱 建 物 。 梁 行 の 柱 間 は 北 1 間 が 1 . 8 m , 南 2 間 が 2 . 4 m で あ り , 南 北 3 間 , 東 西 3 間 以 上 の 東 西 棟 と 推 定 す る が , 梁 間 2 間

で南北両庇付き建物の可能性もある。

A − 3 期 大 規 模 な 整 地 を 伴 う 計 画 的 な 造 営 が 行 わ れ , こ の 地 が 最 も 整 備 さ れ た 時 期 で あ る 。 石 組 溝 S D8 9 0 を 境 に , 掘 立 柱 建 物 S B9 8 0 . 1 3 5 0 な ど か ら な る 東 の 区 画 と , 掘 立 柱 建 物 S B1 3 0 0 . 8 2 0 . 1 3 3 0 な ど か ら な る 西 の 区 画 に 分 け ら れ る 。 石 組 溝 S D8 9 0 は 石 組 溝 S D9 0 0 を 西 に 付 け 替 え た

も の で , SB820と SB990の ほ ぼ 中 間 を 北 へ 延 び , SB1350の 所 で 再 び 東 に 屈 折 し て SD900に 連 結 す る 。 つ ま り , S D9 0 0 が 旧 来 の 位 置 で は 東 の 区 画 の 建 物 群 の 妨 げ と な る た め に , こ れ を 西 に 迂 回 さ せ た の が S D8 9 0 な の で あ る 。 護 岸 の 石 積 み は S D9 0 0 に 比 較 す る と 乱 雑 で , 使 わ れ た 石 も 小 さ い 。

一部に蓋石が残り暗渠である。

東 の 区 画 は S B8 5 0 . 9 8 0 . 9 9 0 と 今 回 検 出 し た 掘 立 柱 東 西 棟 S B1 3 5 0 と に よ っ て 囲 ま れ た 東 西 2 4 . 7 m , 南 北 4 9 . 4 m の 長 方 形 の 区 画 で , 中 に 正 殿 S B1 2 0 0 と 前 殿 S B1 0 0 0 を お く 。 そ の 北 に 位 置 す る S B1 3 5 0 は 区 画 南 辺 の S B8 6 0 と 同 規 模 で 桁 行 1 2 間 , 梁 行 2 間 ( 柱 間 2 . 1 m 等 間 ) あ り , 東 西 の 妻 柱 筋 は 南 北 棟 建 物 の 外 側 の 側 柱 筋 に 揃 う 。 S B 9 8 0 は 今 回 北 妻 柱 を 検 出 し , 桁 行 が 1 8 間 で あ る こ と を 確 認 し た 。 S B 9 9 0 も 同 じ で あ ろ う 。 こ の 他 , S B 9 9 0 と S B 1 3 5 0 の 間 に 雨 落 溝 を 兼 ね た 区 画 内 部 か ら の 排 水 溝 と 考 え ら れ る 石 組 溝 S D1 3 5 1 , 区 画 の 東 側 に は 南 北 溝 S D1 1 3 0 が あ る 。

西の区画は東辺にS B 8 2 0 ,北辺にS B 1 3 3 0 を配置する区画である。掘立柱南北棟S B 8 2 0 はこれ まで高さ0 . 3 mほどの基壇上に建つ単廊(梁行5m)で,東の区画の西辺を限る施設と考えてい たものである。ところが今回,北の妻柱を確認するとともに,その北に柱筋を揃えた東西棟 S B 1 3 3 0 を検出し,これらがS D 8 9 0 によって分けられる別区画の建物であることが判明した。 S B 1 3 3 0 の柱間寸法はS D 8 2 0 と同規模であるが,桁行方向は西でやや北に振れる傾向にある。 S B 8 2 0 の西雨落溝S D 1 0 8 0 はS B 1 3 3 0 を突き抜けて,大型の底石を敷き両岸に巨石を立てた石組溝 S D 1 3 3 1 となる。これは北で東に折れて石組溝S D 1 3 3 2 となってS D 9 0 0 に注ぐ。西の区画内部には 第7次調査で南半分を検出した四面庇付き南北棟S B 1 3 0 0 がある。身舎の桁行5間(柱間2 . 5 m等 間)・梁行3間(柱間1 . 8 m等間) ,庇の出1 . 8 mで,第6次調査の東西棟S B 1 1 0 0 と柱筋が揃う。 柱抜取穴に焼土が認められるので,S B 8 2 0 ともども焼失したものと思われる。

B期の遺構A期の建物群は西の区画の焼亡を契機に取り壊され,その後,新たに整地が行わ れてB期の建物群が建てられる。この時期には南面の大垣をやや南に位置をずらして作り替え,

内部には総柱建物や庇のつかない南北棟建物が多く配置されるなど,遺跡の性格は一変する。

今調査区では,掘立柱塀4条,掘立柱建物3棟等がある。S A 9 8 6 は調査区東南にある南北塀。第 6次調査からの延長1 8 間。この塀の北端には西に延びる東西塀S A 1 3 4 8 が接続するo14間分を確 認したが,西はC期の遺構に壊される。S A 1 3 4 8 の西延長上の東西塀S A 1 3 4 1 は柱間が不揃いで SA 1 3 4 8 と一連の塀である可能性がある。B期の北限塀と見られる。SB 1 2 9 5 は桁行6間(柱間

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2 . 1 m等間) ,梁行2間(柱間2 . 4 m等間)の東西棟建物。S B 1 2 1 5 はその東約1 3 mにある東西棟建 物。桁行6間(柱間2 . 0 m等間) ,梁行2間(柱間2 . 4 m等間)である。

C期の遺構今調査区内には南北溝4条のほか多数の大小の土坑があるだけだが,第6次調査 区以南には,これらの溝を東限とする一区画がある。SD 6 3 0 . 6 4 0 は南で東西溝S D 3 3 2 . 3 4 7 につな がる溝で,7m程の間隔をおいて平行して走ることから道路側溝と考えていたものである。西 側のS D 6 4 0 は途中で西に斜行し(S D 1 3 4 6 ) ,再び折れて北に延びる(S D 1 3 4 7 ) 。S D 1 3 4 7 は当初素 掘りであったものを後に石で護岸する。SD 64 0 が屈折する位置は区画施設の東北角にほぼ対応し ており,この地点で道路幅が拡大する(北端での幅約22m)のものと考えられる。

遺物多量の土器のほかに瓦,金属製品,石製品がある。土器はこれまでの調査と同様,c期 の南北溝と土坑に含まれる飛鳥Ⅳ〜Vの土師器・須恵器が主体を占め,東北地方の土師器も数 点出土した。瓦はきわめて少なく軒瓦は丸瓦1点のみ。金属製品には雛・釘・鑓・斧・鎌・錨 子などがある。これまでと同様に鉄錐が多いが,鉄釘がこれまでよりも目立つ。

ま と め 今 回 の 調 査 に よ っ て 石 神遺跡は南面の大垣から北へ約 1 30 mまで調査が進み,遺跡が さらに北へ広がることがわかっ てきた。しかし一方で,建物群 や塀で囲まれた区画がA〜C期 を通じて,多少の位置の変動は あれ,ほぼ今調査区内を一つの 北の限りとすることも判明した。

さらに,今回の調査の大きな成 果は,これまで追求してきた区 画の西に,これとは別の一区画 が存在することが明らかになっ たことである。このことは,遺 跡が西へも広がることを示すだ けでなく,西の区画がこれまで 中枢と考えていた東の区画より さらに大規模であることから,

遺跡全体の構造の究明にあらた な 視 角 を もた ら し た と い え よ う 。

今後,この部分を含めての調査 が 必 要 と される。

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石 神 遺 跡 主 要 遺 椛 変 遷 図

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2.山田道の調査(第1次)

県 道 桜 井 一 橿 原 神 宮 前 線 の 拡 幅 に 伴 う 事 前 調 査 と し て 明 日 香 村 奥 山 に お い て 行 っ た ( 6 頁 位 置 図 ) 。 県 道 は 「 上 ツ 道 」 の 南 延 長 部 に あ た り 現 在 の 桜 井 市 と 飛 鳥 地 域 を つ な ぐ 古 道 「 山 田 道 」 に 擬 せ ら れ て い る 。 『 日 本 霊 異 記 』 に 「 阿 部 山 田 道 」 , 『 万 葉 集 』 ( 巻 十 三 3276) に 「 山 田 道 」 と み え る の が そ れ で あ る が , 正 確 な 設 置 時 期 や 位 置 に つ い て は 不 明 な 点 も 多 い 。 岸 俊 男 氏 は , 「 山 田 道 」 を 藤 原 京 南 京 極 に あ て , 藤 原 京 設 定 以 前 に は 存 在 し た と 推 定 し て い る 。 調 査 は 初 年 度 分 と し て 工 事 予 定 範 囲 の 東 半 分 , 現 県 道 北 側 の 総 長 1 9 1 . 5 m に つ い て 実 施 し , 「 山 田 道 」 関 連 遺 構 の 検 出 と 周 辺 の 土 地 利 用 状 況 の 把 握 を 目 的 と し た 。 調 査 区 は 便 宜 的 に 東 か ら I 〜 Ⅳ 区 の 4 つ に 分 け , I 〜 Ⅲ 区 で は , 黄 褐 色 砂 質 土 の 地 山 上 面 な い し そ の 上 に 堆 積 す る 黒 褐 色 ・ 灰 褐 色 の 弥 生 ・ 古 墳 時 代 包 含 層 の 上 面 で 遺 構 を 検 出 し た 。 Ⅳ 区 全 体 は 中 ・ 上 層 に 飛 鳥 I の 土 器 を 含 む 大 き な 窪 地 S K 2 3 8 0 と な り , 遺 構 は そ の 埋 土 上 面 で 検 出 し た 。 検 出 し た 遺 構 に は , 掘 立 柱 建 物 , 掘 立 柱 塀 , 石 積 み 護 岸 渉 , 素 掘 り 瀧 , 竪 穴 住 居 , 土 坑 な ど が あ り , 時 期 で 弥 生 時 代 , 古 埴 時 代 , 飛 鳥 か ら 奈 良 時 代 に 大 別 さ れ る 。 弥 生 時 代 の 遺 構 に は , I 区 東 端 の 溝 S D 2 2 5 3 , 1 区 西 端 の 竪 穴 住 居 S B 2 2 7 7 な ど が あ る ◎ S B 2 2 7 7 は 復 原 直 径 約 9 m の 円 形 住 居 で , 畿 内 第 Ⅲ 様 式 の 土 器 が 出 土 し た 。

ま た , 古 墳 時 代 の 遺 構 に は , I 区 東 端 の 溝 S D2 2 5 0 と 竪 穴 住 居 S B 2 2 5 5 , 1 区 西 端 の 竪 穴 住 居 S B2 2 8 1 , Ⅱ 区 東 端 の 竪 穴 住 居 S B2 2 9 0 な ど が あ る 。 S B2 2 5 5 は 一 辺 4 . 1 m , S B2 2 9 0 は 一 辺 4 . 8 m の

方形住居で,ともに5世紀後半の土器が出土した。

飛 鳥 か ら 奈 良 時 代 の 遺 構 掘 立 柱 建 物 6 棟 以 上 , 掘 立 柱 塀 1 2 条 以 上 , 石 積 み 護 岸 瀞 1 条 , 素 掘 り 溝 1 条 が あ り , 出 土 遺 物 ・ 重 複 関 係 ・ 方 位 な ど か ら , A 〜 E 期 の 5 時 期 に 細 分 さ れ る 。

A期には石積み護岸溝S D2 3 2 0 のほか,掘立柱塀SA 2 2 7 0 . 2 3 5 8 . 2 3 7 0 , 掘立柱建物SB 2 3 5 6 . 2 3 5 9 . 2 3 6 1 などの北で西に約5。振れる遺構が属す。S D 2 3 2 0 は両岸に拳大から人頭大の川原石を 乱雑に積み上げて護岸するが底石はない。堆積層からは飛鳥Iの土器が多く出土した。S B 2 3 5 6 は桁行3間以上,梁行2間。柱間は桁行1 . 7 〜2 . 1 m,梁行2 . 1 m(7尺)等間である。S B 2 3 5 9 は 2間× 2間の建物◎ 柱間は東西方向2 . 1 m(7尺) ,南北方向1 . 7 5 m(6尺)等間である。S B 2 3 6 1 は2間× 2間以上の建物。柱間は東西方向. 3m(10尺) ,南北方向1 . 8 m(6尺) 。東西塀S A 2 3 7 0 は6間分を検出した。柱筋がS A 2 3 5 8 の北端及びS B 2 3 5 6 の妻柱筋と揃う。S A 2 3 7 0 は柱をまっす ぐ上に引き抜いた後,黄色の山土で埋め戻す。この抜取り方と山土による埋土は石神遺跡の遺 構やⅣ区で検出した他の時期の遺構,すなわちB期のS A 2 3 7 7 ,C期のS B 2 3 7 5 ,D期のS A 2 3 7 6 .

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山 田 道 第 1 次 訓 査 西 半 遺 構 図

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2378にも共通する特徴である。

B期には,掘立柱塀SA 2 2 9 7 . 2 3 6 2 . 2 3 6 3 . 2 3 7 7 , 掘立柱建物SB 2 3 1 0 . 2 3 6 0 など北で西に約1 0 。 振 れるものが属す。溝S D 2 3 2 0 はこの時期にも存続する。S A 2 2 9 7 は2間分を検出した。柱間1 . 6 mo S B 2 3 1 0 は3間× 3間の総柱建物。柱間は東西方向1 . 7 m(6尺)等間,南北方向1 . 6 5 m( 5 . 5 尺) 等間o SB 2 3 6 0 は桁行4間以上,梁行2間以上の建物で,柱間は桁行2 . 1 m(7尺)等間梁行 1 . 9 5 m(6 . 5 尺)である。S A 2 3 6 2 は2間分(柱間2 . 6 m) ,S A 2 3 6 2 は5間分(柱間2 . 1 m)を検出し た。この2条の塀はS B 2 3 6 0 より古い。S A 2 3 7 7 は1間分を検出した。さらに西へ延びると思われ るがC期のS B 2 3 7 5 と重複する。

C期は北で西に2°振れる遺構で,掘立柱塀S A 2 2 6 5 ,掘立柱建物S B 2 3 7 5 ,溝S D 2 3 0 0 がある。 S A 2 2 6 5 は2間分を検出した。柱間2 . 1 m(7尺) 。S B 2 3 7 5 は桁行4間以上,梁行3間以上,柱間 は桁行2 . 7 m(9尺)等間,梁行1 . 4 mと1 . 7 m・柱抜き取りの仕事はSA 2 3 6 3 . 2 3 7 7 に近似する。 南北素掘り瀧S D 2 3 0 0 は古新(A・B)の2条があり,BはAを東にずらして付け替えたものであ

る。A・Bとも幅1 . 2 mであり,飛鳥Ⅱの土器が出土した。

D 期 に は , 北 で 東 に 振 れ る 掘 立 柱 塀 S A2 2 7 5 . 2 2 7 6 . 2 3 7 6 . 2 3 7 8 の 4 条 を 含 め る 。 S A2 2 7 5 は 1 間 分 , S A 2 2 7 6 は 3 間 分 , S A 2 3 7 6 は 4 間 分 , S A 2 3 7 8 は 1 間 分 を 各 々 検 出 し た 。 柱 間 は 順 に 1 . 8 m ( 6 尺 ) , 2 . 3 〜 2 . 9 m ( 8 〜 1 0 尺 ) , 2 . 1 m ( 7 尺 ) , 1 . 4 m ( 5 尺 ) で あ る 。

E 期 の 遺 構 に は , Ⅲ 区 東 北 部 の 東 西 沸 状 の 土 坑 S K 2 3 3 5 が あ る 。 東 西 長 2 4 . 5 m , 南 北 幅 3 . 5 m 以 上 あ り , 埋 土 か ら 奈 良 時 代 後 半 の 土 器 と 軒 平 瓦 6 6 9 1 F が 出 土 し た 。

そ の ほ か , S D 2 3 3 0 は 江 戸 時 代 以 降 の 河 川 で , 現 八 釣 川 の 旧 流 路 で あ る 。

ま と め 飛 鳥 か ら 奈 良 時 代 の 遺 構 の 細 分 時 期 の 年 代 に つ い て は , A 期 の 遺 構 が の る 整 地 土 や , A ・ B 両 期 を 通 じ て 存 続 す る S D 2 3 2 0 か ら , と も に 飛 鳥 I の 土 器 が 出 土 す る こ と か ら , A ・ B 期 は

6 世 紀 末 か ら 7 世 紀 初 め の ご く 短 期 間 に お さ ま る も の と 考 え る 。 C 期 は 南 北 溝 S D2 3 0 0 か ら 飛 鳥

Ⅱ の 土 器 が 出 土 し て い る の で 7 世 紀 前 半 で あ ろ う 。 D 期 は 年 代 の 決 め 手 に 欠 け る 。 遺 構 の 方 位 が そ れ ま で の 時 期 と 異 な る の で , 大 き く 下 る 可 能 性 も あ ろ う が , 1 9 8 2 年 に 実 施 し た 奥 山 久 米 寺 東 方 で の 調 査 で は , 7 世 紀 後 半 か ら 8 Ml 記 前 半 の 遺 構 が 北 で 東 に 振 れ る こ と が わ か っ て お り , E 期 と の 関 連 か ら も , D 期 を 7 世 紀 後 半 か ら 8 世 紀 前 半 と 考 え て お く 。 E 期 は S K 2 3 3 5 の 出 土 遺 物 か ら 8 世 紀 後 半 で あ る 。 周 辺 遺 跡 と の 関 連 で み る と , C 期 は 調 査 地 北 方 の 奥 山 久 米 寺 の 創 建 時 期 に あ た る が , S D2 3 0 0 と 奥 山 久 米 寺 と の 関 連 に つ い て は 今 後 の 検 討 課 題 で あ る 。 E 期 は 『 綴

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山田道第1次調査東半遺椛図

1

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日 本 紀 』 に 天 平 宝 字 4 ( 7 6 0 ) 年 か ら 天 平 神 護 元 ( 7 6 5 ) 年 に か け て 記 載 の あ る 「 小 治 田 宮 」 と の 関 連 が 想 起 さ れ る 。 調 査 地 西 方 約 2 0 0 m の 雷 丘 東 方 遺 跡 で は 小 治 田 宮 関 連 遺 構 が 発 見 さ れ て お り , 西 方 で の 調 査 が 期 待 さ れ る 。 今 回 の 調 査 は 「 山 田 道 」 関 連 遺 構 の 確 認 が 主 目 的 で あ っ た が , 調 査 区 内 に は 検 出 さ れ な か っ た 。 し か も , 7 世 紀 代 の 掘 立 柱 遺 構 の い く つ か は 調 査 区 の 南 に の び , 地 形 の 上 か ら 想 定 さ れ た 「 山 田 道 」 に 確 実 に 及 ぶ の で あ る 。 r 山 田 道 」 の 位 置 に つ い て は 飛

鳥 地 域 全 体 の 土 地 利 用 の 変 遷 を 復 原 的 に 検 討 す る 中 で 究 明 す る 必 要 が あ る 。

3.川原寺の調査(1 9 8 8 ‑ 2 次)

「 北 方 建 物 」 北 の 農 道 改 修 工 事 に 伴 う 調 査 で , 昭 和 3 4 . 5 7 年 の 調 査 に よ っ て 東 西 3 間 , 南 北 9 間 の 礎 石 建 ち 南 北 棟 建 物 と さ れ る 「 北 方 建 物 」 の 北 端 を 確 認 す る こ と を 目 的 と し た 。 調 査 は 幅

1 m , 長 さ 2 5 m に つ い て 行 っ た が , 調 査 区 西 端 で 「 北 方 建 物 」 廃 絶 に 関 わ る 土 坑 1 基 を , 調 査

川原寺1988 2次調査位置図

川原寺1988−2次調査遺構図

− 1 2 −

区中程以東で整地土層,東端で整 地土中に築かれた石敷・石列を検 出した。西端の瓦投棄の土坑は建 物の北西隅にあたり,断面でも建 物基壇土などが確認されないこと から,「北方建物」北端は従来の 推定通り農道までと考えられ,そ の廃絶は,土坑出土遺物に平安時 代後期の土器や隆平永宝が含まれ ることから,平安時代と考えられ る。東端の石敷・石列は,上端高 を違えた2列の石列上に石を敷く 遺構で,周辺の地形に沿ってやや 北 で 西 に 傾 く 。 整 地 土 中 の 土 器 が 7世紀前半代であることから,川 原寺創建以前の造成に関わる遺構 である可能性が高く,今後の調査 が 期 待 さ れ よ う 。 ( 花 谷 浩 )

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