はじめに 平安時代や鎌倉時代の猿楽は未だに明らかでないことが多く残されているが︑それは現存する古猿楽に関する資料が少ないことも多分に影響している︒かつて能勢朝次氏は﹃能楽源流考﹄で古猿楽の実態に迫り︑猿楽の発達や変遷を細かく論じた ︵1︶︒そこでは猿楽に関する様々な資料が引かれ︑古猿楽の歴史を少なからず明らかにした︒また︑最近では鈴木正人氏が﹃能楽史年表﹄で古代・中世の猿楽についても年表として整理している 2︒鈴木氏は﹃能楽源流考﹄には指摘されていない記事も新たに示しており︑古猿楽の実態についてある程度明らかになった︒しかしながら︑貴族日記などには資料として挙げられていない記事も多く残されており︑また︑古猿楽に関する研究も少ないのが現状である︒本論文では﹃能楽源流考﹄や﹃能楽史年表﹄に挙げられていない猿楽の新見記 事を平安時代の貴族日記から摘記し︑先学の遺漏を補いたい︒そして︑平安時代の猿楽について多少の考察を加え︑古猿楽の実態を明らかにする一助としたい︒
一 相撲節会の際の散楽 まずは相撲の節会の際に行われた散楽について見てみたい︒最初は﹃日本紀略﹄の記事である︒︹日本紀略︑天徳三年︵九五九︶七月二十九日︺廿九日︑壬申︑抜出︑追相撲︒︹日本紀略︑天徳三年七月三十日︺卅日︑癸酉︑雑 0芸 0之中︑於御殿前︑施其伎芸︑又奏音楽︒
二十九日には抜出︵選抜試合︶と追相撲︵再試合︶があり︑その翌日に雑芸が音楽とともに行われている︒芸の内容までは明らかでないが︑例えば﹃日本三代実録﹄元慶六年︵八八二︶十月二十七日条には﹁音楽を奏し并びに雑伎態を
平 安 時 代 の 猿 楽 に 関 す る 一 考 察
柳 川 響
尽くす﹂とあり︑この記事について能勢朝次氏は﹁雑伎は所謂散楽雑伎﹂と指摘している 3︒すなわち︑﹃日本紀略﹄の﹁雑芸﹂も︑相撲節に関わる散楽として捉えることもできる︒﹁雑芸﹂について少し遡れば︑次のような記事も見られる︒︹日本紀略︑昌泰二年︵八九九︶五月五日︺五月五日丁酉︑端午節也︑天皇御武徳殿︑観騎射走馬︒︹日本紀略︑昌泰二年五月六日︺六日戊戌︑天皇又幸武徳殿覧種々 00雑 0芸 0︒
ここでは五月五日に行われた騎射の翌日に︑醍醐天皇が﹁種々の雑芸﹂を見ている︒同様の記事は藤原師輔の日記﹃九暦﹄にもある︒︹九暦︑天慶七年︵九四四︶五月六日︺光景已傾︑仍有勅止騎射︑雑芸 00者北上︑有臨時之仰︑従馬止向北令馳︑左右兵衛・左右衛門・舎人等撤西埒︑⁝⁝
芸の実態については詳らかでないが︑騎射の節に伴って﹁雑芸﹂が行われたことは︑散楽を考える上でも今後の課題となろう︒﹁雑芸﹂については次章でもう少し触れることとして︑具体的な相撲節の散楽に関する記事を二つ挙げる︒︹小右記︑正暦四年︵九九三︶七月二十八日︺次抜出︑三番︑皆左勝︑極不敵︑人々云︑物誤歟︑其後殊有仰事︑召左右最手︑而左最手宗平申障︑即免給︑仍不取也︑人々云︑須召最手︑而最後召非例云々︑又有仰 事︑被召出之後︑被免障︑似無首尾云々︑仍散楽 00︑近衛出被追入︑︿依無次第逐前例陣直最手也︑﹀次白丁︑次陣直︑次散楽 00︑⁝⁝︹小右記︑長徳二年︵九九六︶七月二十九日︺一番左勝︑︿左論︑﹀大臣先召左相撲人︑次召右︑驚奇許︑須召負方︑右存例進相撲人︑二番右勝︑三番左勝︑次白丁・陣直追相撲人︑次散楽 00︑⁝⁝
藤原実資の日記である﹃小右記﹄には実は猿楽記事が多く存在する︒これらの記事から︑抜出や追相撲の後に散楽があったことが分かるが︑ここでは詳しく記されていない︒次の記事は﹁散楽﹂が舞曲名として登場する例である ︵4︶︒︹小右記︑永延二年︵九八八︶八月十九日︺最手帰入了︑左方発乱声︑︿此間左右数刻立等︑﹀次抜頭舞︑︿童︑﹀此間被巻玉簾了︑左万歳楽︑︿舞人四人︑童︑﹀右地久︑︿童四人︑皆着胡録剣等︑極奇怪事也︑﹀左散手︑︿童︑﹀右狛桙︑︿童四人︑﹀此間余帰参内︑不見事了︑伝聞︑左五常楽︑︿童四人︑﹀右胡蝶楽︑︿童四人︑﹀左散楽 00︑右桔桿云々︑ここでは﹁散楽﹂が左方の舞の曲名として記されていることが分かる︒曲名としての﹁猿楽﹂については﹃教訓抄﹄に詳しい︒︹教訓抄︑巻六︑剣気褌脱︺剣気褌脱︿拍子十五 又十六﹀無 二鞨鼓 一 唐拍子物
脱拍子云此楽︑相撲ノ節猿楽 00用 レ之︒拍子火急物也︒則拍子五︒其ノ時ニモロ/
/ノ猿楽出デヽ︑ヲモヒ/ 00
︒楽物︒﹀此ハ大事曲也カクスベシ︒ 時一初︑之五十︒子拍也ヲバヲトシテ吹吹︒︿早 レ々返 六ニ又説︑拍子十︒ノ説此ハ︒ヘヲヾタ口シナ所スト ス︒﹀リアモ師呪︒︿ 00/ノヲザワ
すなわち︑相撲の節会に﹁猿楽﹂という曲が用いられたのである︒曲名としての﹁猿楽﹂について次のようなものがある︒︹小右記︑寛弘二年︵一〇〇五︶七月二十九日︺次追相撲︑以官人被仰遣也︑追相撲五人取︑了散楽 00︑相撲未了間︑左右乱声逓奏︑先例取了発乱声者也︑左蘇合・散手・青海波・還城楽・猿楽 00︑右古鳥蘇・貴徳・狛桙︿此間秉燭︑﹀・大桔桿︑大臣以下給禄︑⁝⁝︹小右記︑寛仁三年︵一〇一九︶七月二十八日︺廿八日︑癸未︑抜出︑⁝⁝追相撲︑次散楽 00︑相撲了出居入︑余起御前座加着簀子座︑左記是撤張莚︑諸卿起座︑臨欄賜甘瓜︑無氷︑左少将顕基勧盃︑左右乱声︑逓奏儛曲︑︿左︑蘇合・万歳楽・散手・還城楽・猿楽 00︑右︑鳥蘇・綾切・帰徳・狛犬︑〓︵犭+吉︶猂︑﹀還城楽間主殿執燎︑事訖還御︑⁝⁝︹小右記︑治安三年︵一〇二三︶七月二十八日︺追相撲如常︑次候気色仰進陣互︿と﹀︑仰左右︑畢散楽 00︑ 相撲畢発乱声︑余起御前座復本座︑大唐・高麗逓奏︑︿蘇合・散手・青海波・還城楽・猿楽 00・烏蘇・帰徳・崑崙八仙・狛犬・〓︵犭+吉︶猂︑﹀儛中間令撤張莚︑後諸卿下居︑⁝⁝これら三度の相撲節会の散楽は︑鈴木正人氏が﹃舞楽要録﹄を出典として掲げたもの ︵5︶と同年同月同日の記事である︒すなわち︑﹃小右記﹄によって﹃舞楽要録﹄の記事を裏付けることができるのである 6︒また︑追相撲の後に散楽があり︑その後︑左舞の最後に﹁猿楽﹂が奏されている︒これまでの例だけでは﹁散楽﹂と﹁猿楽﹂が同じものか不明瞭であるが︑次の﹃小右記﹄と藤原道長の日記﹃御堂関白記﹄の記事が示唆を与えてくれる︒︹小右記︑長和二年︵一〇一三︶八月一日︺追相撲四五人取了︑︿例追相撲負者引留勝者︑而左追相撲勝者引留右負者︑不知前例歟︑官人等都不知如此之事也︑﹀次散楽 00︑相撲了︑右大臣複本座︑出居入︑左右乱声︑先例舞人振桙︑而不振︑被仰事由︑仍左出振了︑還入之後右振︑人々云︑一々云一度左右同振者也云々︑次左奏蘇合︑儛人進出之間︑細雨灑︑仍依仰承明門令舞︑不幾即止︑天霽︑更有勅命︑出庭中︑終舞曲︑其後既無雨気︑左右奏舞四曲︑還城楽︑秉燎︑右犬︑是皆五曲内︑此外奏猿楽 00・〓︵犭+吉︶猂等之間︑給王卿禄︑⁝⁝︹御堂関白記︑長和二年八月一日︺
召左右最手︑右最手経世極見苦︑頭白無髪︑度々申障︑突手入︑二番右勝岡︑左数木︑左突膝入︑三番持︑白丁︑四番最手出間︑風吹顛張莚︑柱等欲折︑仍撤已了︑左右奏楽︑左蘇合・秦王・散手・太平楽・還城楽・散楽 00︑右鳥蘇・皇仁・貴徳・弄槍・狛犬・吉簡︑犬間以唐綾給公卿︑親王大臣三疋︑納言二疋︑参議一疋︑公卿拝舞︑北上西面︑御入︑⁝⁝﹃小右記﹄と同日の記事が﹃御堂関白記﹄にも見える︒﹃小右記﹄では追相撲の後に散楽があったとし︑舞曲の中に﹁猿楽﹂という曲名が見える︒一方︑﹃御堂関白記﹄には左の舞の最後に﹁散楽﹂という曲名があり︑少なくともここでは曲名としての﹁猿楽﹂と﹁散楽﹂が同義であることが理解される︒
このほか︑相撲節会で﹁猿楽︵散楽︑散更︶﹂が左の舞曲として登場する例は︑藤原師通の﹃後二条師通記﹄︑藤原忠実の﹃殿暦﹄という摂関家の日記にも見える︒︹後二条師通記︵別記︶︑寛治五年︵一〇九一︶七月三十日︺相撲畢︑出居退入畢︑左蘇合︑︿十二人︑三行︑﹀太平楽︑︿十人︑﹀輪台︑︿四人︑﹀青海波︑︿二人︑﹀散手︑破陣楽︑︿王一人︑番子六人︑﹀還城楽︑︿一人︑﹀散更 00︑右古鳥蘇︑︿十人︑二行︑﹀狛桙︑︿八人︑﹀敷手︑︿八人︑﹀帰徳胡︑︿王一人︑番子六人︑﹀狛犬︑︿二人︑﹀吉干︑︿件吉干装束二人紅色︑﹀⁝⁝ ︹殿暦︑天永二年︵一一一一︶八月二十一日︺今日御覧⁝⁝両三番取間︑自左右追相撲出合︑狼藉也︑次召陣直︑︿上卿仰云︑陣直進礼︑﹀次左右出居退了︑此間左右乱声︑桙︿を﹀振︿ル﹀︑次舞︑︿左蘇合・太平楽・散手・還城楽・散楽 00︑右地久・狛桙・貴徳・狛犬・桔桿︑﹀
以上のように︑十世紀から十二世紀の日記によって︑相撲節会で散楽が行われ︑﹁猿楽﹂が左舞の曲として音楽を伴って演じられていたことが確認される︒
二 貴族的猿楽 次に︑相撲節会の散楽以外の貴族的猿楽 7について見てみたい︒まずは︑朝廷における遊宴の際の散楽として︑藤原宗忠の日記﹃中右記﹄から陪従の散楽の記事を挙げる︒︹中右記︑寛治七年︵一〇九三︶十月三日︺次敷座︑有御神楽事︑人長右近府生秦兼方︑次第如例︑但舞人・陪従着座之後︑先可有勧盃之事也︑而無相催人如何︑取物了後︑隆宗・実宗両朝臣勧盃舞人︑了後人長召立陪従之中家綱・知定等之間︑散楽 00之興互尽其術︑在座上下・本山大衆︑見之莫不含咲︑⁝⁝この日は上皇と郁芳門院の日吉社行幸があり︑舞楽や御神楽が行われた後︑﹁散楽の興互いに其の術を尽﹂し︑座に在る上下や本山︵比叡山︶大衆の見物人で笑わない者はなかっ
たという︒ここでは滑稽芸能としての散楽の様子がよく分かる︒既に指摘されていることではあるが︑藤原家綱と藤原知定は﹃中右記﹄同年十一月二十三日条︑永長二年︵一〇九七︶三月二十八日条にも散楽人として見えるほか︑家綱は﹃宇治拾遺物語﹄︵七四︶に﹁世になきほどの猿楽﹂︑﹃十訓抄﹄七ノ十七にも﹁無双の猿楽﹂として登場する︒また︑近衛官人の散楽としては次のような記事もある︒︹小右記︑長和三年︵一〇一四︶二月六日︺召陪従官人三人︑︿将監重方・将曹重種・府生武仁︑﹀給遺摺袴︑︿召庭中令給︑各拝︑重方三重袴︑﹀散楽 00近衛豊貞出舞︑豊貞不入加陪従︑而使立日殊給疋絹云々︑今日有物興︑仍給信乃布二端︑︿加陪従禄法也︑﹀更賜近江餅︑感悦頻儛︑近衛の豊貞は陪従ではないものの︑その舞が面白かったため︑禄を与えられている︒滑稽な芸によって被け物を貰う様子が理解される︒こうした猿楽の実態を考える上で重要なものが次の記事である︒︹小右記︑長元四年︵一〇三一︶二月十日︺日来男等云︑藤原忠国大食︑仍召前令食︑全食五升︑盛六升之飯︑僅遺一升許︑給疋絹︑起儛︑了読和哥︑其装束︑衛府冠︑以竹馬為挿頭︑六位表衣︑把笏︑着尻鞘剣︑藺覆︑男等作散楽 00歟︑ ここでは︑藤原忠国という男が大食いのさまを見せて被け物を与えられている︒男たちの装束は︑衛府の冠を着して竹馬を挿頭とし︑六位の表衣を着て笏を持ち︑尻鞘の剣を着していた︒実資はそれを見て︑男たちは散楽をする者ではないかと記している︒当時の散楽の様子を知る上でも重要であり︑また散楽をする者が滑稽な恰好をしていたことが窺える︒ そのほか︑貴族的猿楽については殿上淵酔における散楽が挙げられる︒次は五節豊明の節会の際の記事である︒︹中右記︑承徳二年︵一〇九八︶十一月二十四日︺次第如例︑蔵人少将師時行供膳事︑︽行間補書︾﹁殿上人於御後方頗以散楽 00︑亥時許事了還御本殿︑﹂ここでは豊明節会で殿上人が余興として散楽を行った様子が記されている︒同様の記事は﹃殿暦﹄にも見られる︒︹殿暦︑天仁元年︵一一〇八︶十一月十九日︺今日五節参入︑仍参内︑⁝⁝五節参入後出殿上︑右大将・新大納言・按察中納言依召参入︑皆着直衣︑帳台試也︑余向太師宿所入内居︑如主上儀居円座︑人々有戸外︑但右大将一人有内︑事了経本路参御前︑召殿上人︿を﹀召集︿天﹀散楽 00アリ︑余下宿所︑今夜侍宿︑︹殿暦︑永久四年︵一一一六︶十一月十五日︺節会︑⁝⁝内弁奏見参︑宣命時以縁為道︑︿内裏右府土御門亭也︑以西為礼︑﹀於南殿御後殿上人有散楽 00事︑楽
不得心︑僧房体︿を﹀作歌欤︑前者は五節の舞姫参入の後に殿上で︑後者は南殿御後で殿上人の散楽があったというものである︒こうした淵酔の際の散楽は他にも見られる︒二つ記事を挙げる︒︹中右記︑寛治六年︵一〇九二︶十一月二十三日︺未剋許於殿上先有淵酔︑両貫首以下各朗詠・散楽 00頗有興︑行事蔵人有少饗応︑其後廻五節所︑参中納言殿御五節所︑有朗詠︑次参宮御方︑盃酌頻傾︑興遊無極︑入夜有御前試︑人々散楽 00︑已及暁更︑︹中右記︑寛治六年︵一〇九二︶十一月二十四日︺殿上有垸飯︑︿中納言殿自五節所進︑﹀源大納言・中宮大夫・新大納言︿家︑﹀・中納言中将・両貫首以下於殿上有淵酔︑勧盃︑初献蔵人次官時範︑二献蔵人兵部大輔通輔︑︿頗有饗応︑﹀三献右近中将能俊朝臣︑事了朗詠・散楽 00之後︑廻五節所︑⁝⁝
一つは︑殿上淵酔の際に︑両貫首︵藤原季仲・藤原宗通︶以下が朗詠と散楽を行い︑夜には御前試があったが︑人々は散楽を暁更まで続けたという︒もう一つは︑殿上淵酔の後に勧盃があり︑三献の後に朗詠と散楽を行っている︒いずれも朗詠とともに散楽が行われていることも注意が必要である︒
こうした記事は説話集にも見られる︒次の記事は﹃古今著聞集﹄巻二〇・魚蟲禽獣第三十に載る説話である︒︹古今著聞集︑巻二〇︱六八三︺ 寛治五年十月六日︑殿上人・所衆・滝口・小舎人︑左右をわかちて小鳥合の事ありけり︒公卿はまゐられず︑殿下・三位中将ばかりぞ候はれける︒殿上人︑左方︑頭中将仲実朝臣︑右方︑中将宗通朝臣以下︑夏の袍どもに冬の指貫をぞきたりける︒左勝て殿上にとまりて︑朗詠・今様・猿楽 00などありけり︒右はみな逃ちりにけり︒小鳥は後に院へまいゐらせられにけり︒委は別記にあり︒堀河天皇の時代である寛治五年︵一〇九一︶十月六日に小鳥合が行われ︑勝者である左方が朗詠や今様とともに猿楽をしたという︒朗詠や今様など声を出す芸能と並列して行われるところから︑猿楽は音声を伴う芸能であったと推察される︒
ところで︑散楽を雑芸と記すことは既に触れたが︑貴族が興に乗じて雑芸を行う記事がいくつか見られる︒例えば次の記事は管絃の興に乗じて雑芸に及んだ例である︒︹中右記︑寛治七年︵一〇九三︶七月七日︺于時南庭設乞巧奠︑供物・灯明如例︑微月落於西山︑涼風報自南池︑糸竹・倭漢之遊︑自然動感傷者歟︑事了人々退出︑中納言中将殿仰云︑餘興未尽︑賞管絃之遊︑仍宗忠・兵衛佐行宗・左少将有賢暫徘徊︑三人相共於簾前重有管絃︑已及雑 0芸 0︑暁更事畢退下︑
また︑次の記事は神楽歌︑風俗歌︑朗詠といった歌の中に雑芸が入っている︒︹中右記︑長治元年︵一一〇四︶十一月十二日︺
上皇暁還御︑終日候御前︑今夕又宿侍︑於黒戸方終夜有雑御遊︑神楽・風俗・雑 0芸 0・朗詠︑皆尽音曲︑源中納言并殿上人五六人︑終夜候宸遊也︑雑芸の詳細は明らかでないが︑﹁皆音曲を尽す﹂とあることから︑雑芸が音曲を伴ったことが確認できる︒さらに︑次の記事も今様とともに雑芸が行われている︒︹中右記︑長治二年︵一一〇五︶三月二日︺夕方従殿下有召︑則馳参︑右大将・新大納言・左兵衛督・左宰相中将・四位侍従・前少納言・侍従・宗能等参会︑有一種物遊︑種々興遊︑盃酌数巡︑今様︑雑 0芸 0︑暁更退出︑
さらに︑藤原頼長の日記﹃台記﹄にも雑芸の語が見える︒︹台記︑保延五年︵一一三九︶五月二十一日︺欲参御湯殿之間︑自今朝有痢病不参︑召弾正弼師長︿中宮大夫師忠卿子也︑﹀令哥催馬楽︑終夜 遊乗興︑右大弁︿公能︑﹀出雑 0芸 0︑又朗詠︑
ここでも雑芸と朗詠が並んで出てきている︒催馬楽があり︑終夜興に乗じて遊んだ様子が記されており︑そうした遊興の盛り上がりとともに雑芸と朗詠が行われている︒以上のことから︑散楽や雑芸が貴族によってなされ︑それがしばしば興に乗じて行われるものであったという実態が確認できるのである︒ 三 呪 師
次は散楽の一種である呪師について資料を挙げて整理したい︒能勢朝次氏は呪師について︑修正会と修二会の呪師と昼呪師︵呪師賞玩︶とに大きく分けて論じている 8︒この章では主として修正会における呪師の記事を扱うことになるが︑まずは分類が難しい呪師の例を二つ挙げたい︒呪師の初例については鈴木正人氏の指摘にもあるように︑﹃小右記﹄寛和三年︵九八七︶正月六日の記事であるが 9︑これに次ぐ早い例と言える︒︹御堂関白記︑長保六年︵一〇〇四︶三月十三日︺早朝渡法興院万灯会︑⁝⁝事了尚明︑待尽間召近辺呪師 00
者︑見物中呪師 00六侍者︑於庭中令奉仕︑雖頗軽々︑依為供仏所為也︑丑時灯所々遺間返来︑法興院で行われた万灯会で︑灯りが消えるまでの間︑呪師に奉仕させた︒近辺の呪師を呼び寄せようとしたところ︑見物人の中に六人の呪師が居たという︒この日の万灯会では﹁軽服に依り音楽無し﹂︑﹁便無きに依り諷誦無し﹂という状況にもあり︑呪師に奉仕をさせるのは頗る軽率なことであったが︑道長は供仏のために行ったという︒ここでは仏教的な役割で呪師が奉仕しているが︑修正会や修二会の場合と異なり︑臨時に召されている︒その意味で呪師賞玩に近いものと言えよう︒
また︑次は道長の五十の算賀の法会における呪師の記事である︒︹御堂関白記︑長和四年︵一〇一五︶十月二十五日︺暁女方相共参皇太后宮︑西対︑此日被供養大般若一部・寿命経五十巻・二界曼陁羅︑⁝⁝導師・呪師 00登高座︑堂童子着座︑唄師着座後︑⁝⁝ここでは導師とともに呪師が高座に上っている︒仏教的役割の重さから見ても︑ここでは僧侶の勤める仏教上の呪師︑すなわち法呪師であると考えられる︒一方で︑修正会に関する呪師の記事は非常に多い︒最初に挙げるのは法性寺における呪師の記事である︒︹御堂関白記︑寛仁二年︵一〇一八︶正月十五日︺入夜詣法性寺︑女方同之︑子等召呪師 00一両︑︹小右記︑寛仁三年︵一〇一九︶正月二十六日︺或云︑去夜前太府被参法性寺五大堂︑被行修正月之善︑受領等奉仕仏供︑皆調火桶盛仏供︑似有其営云々︑令走 00
呪師 00云々︑今朝帰給云々︑前者は夜に法性寺に詣で︑呪師一両を召している︒恐らく呪師の芸が行われたと考えられる︒また︑後者は法性寺五大堂で行われた修正会の記事であり︑呪師走が行われている︒次は修正会の中でも比較的記事が多く残る︑法成寺の呪師について見てみたい︒最初に無量寿院での記事を挙げる︒無 量寿院とは法成寺阿弥陀堂の別称である︒︹小右記︑寛仁五年︵一〇二一︶正月六日︺匠作来云︑去夜無量寿院十斎堂被走呪師 0000︑関白及卿相参会︑臨暁更事了︑太以軽々︑事非厳重者︑無量寿院十斎堂法会で関白の藤原頼通や卿相が参会し︑呪師走が行われた︒実資の養子でもある匠作︵藤原資平︶は﹁太だ以て軽々︑事は厳重に非ず﹂と批判している︒治安三年の修正会の様子は﹃小右記﹄に連続して記されている︒︹小右記︑治安三年︵一〇二三︶正月八日︺戌終許詣禅室︑︿宰相乗車後︑﹀従今日七箇日金堂修正︑縁前日御消息参詣也︑先詣御室︑三位中将云︑坐御堂者︑仍参入金堂︑即謁談︑有関白・内府・大納言斉信卿等︑神分導師間乱声︑音楽︑亦初夜︑次半夜︑後夜導師昇降時有楽︑亦有供︑則惟鳥儛︑於堂中有此事︑従堂中参入︑了舞︑半夜導師擬講智師授禄︑初・後導師無禄︑初夜導師導師前後呪師 00
并琵琶法師散楽 00︑依此事後夜導師夘剋訖︑⁝⁝︹小右記︑治安三年正月十日︺宰相来云︑去夜参御堂︑師雑 0芸 0相同︑関白已下同会合南円堂巻数使給白被︑⁝⁝︹小右記︑治安三年正月十一日︺宰相云︑去夜金堂作法如夜々︑呪師 00無懈怠云々︑
︹小右記︑治安三年正月十二日︺入夜宰相来云︑去夜金堂作法如夜々︑但依禅閤命僧綱并殿上人脱衣被呪師 00︑︹小右記︑治安三年正月十三日︺宰相云︑武光申金吾事達関白︑有旨︑金堂作法如夜々︑僧綱・殿上人等脱衣︑被呪師 00︑⁝⁝
正月八日の記事は破損が多く︑よく分からないところも多いが︑道長の法成寺金堂修正会において︑導師の前後に呪師・琵琶法師・散楽の芸があったようである︒十日も破損が多いが︑﹁雑芸相同じ﹂とあることから前日と同様の芸が行われたようである︒十一日も呪師が懈怠なく行われている︒十二日は禅閤すなわち道長の命により︑僧綱と殿上人が着ている衣を脱いで呪師に被けており︑この日も呪師の芸があったと思われる︒また︑十三日にも呪師へ纏頭が行われている︒このように修正会の間は継続して呪師の芸が行われていたことが理解できる︒
次の万寿四年の記事も治安三年の例と重なる︒︹小右記︑万寿四年︵一〇二七︶正月九日︺入夜詣法成寺修正月仏事︑謁禅室︑事次申納言事︑明日可渡他処︑其後可有日事︑余申云︑若令勘歟︑有何事者︑已有許容︑今夜大導師以前有呪師 00・琵琶法師等興︑関白及大納言頼宗・能信︑中納言長家・兼隆・師房︑参議経通・資平・定頼・広業・兼経在座︑被羞湯漬・菓子等︑ 導師中間余退出︑⁝⁝︹小右記︑万寿四年正月十四日︺中将来云︑去夕法成寺呪師 00殿上人・地下諸大夫脱衣被之云々︑
正月九日には呪師と琵琶法師などの興があり︑治安三年正月八日条の記事と重なる︒また︑十四日には殿上人と地下諸大夫が纏頭しており︑修正会での禄の与え方が分かる︒
ところで︑﹃小右記﹄治安三年正月八日条にも見るように︑修正会では呪師と散楽が行われることもあったようである︒︹中右記︑寛治七年︵一〇九三︶正月八日︺今夜上皇依金堂修正︑初有行幸法勝寺︑但自六条殿太伯神之方也︑仍丑剋以前還御︑呪師 00・散楽 00其数御覧︑中宮女房達見物︑︹中右記︑寛治七年正月十一日︺今夜陽明門院有御幸法勝寺︑且為令逢修正御︑呪師 00・散 0
楽種々 000雑 0芸 0之間已及暁更︑而女院御所鴨院也︑今夜已太伯神之方也︑如何︑及暁女院還御︑︹中右記︑寛治七年正月十四日︺金堂修正結願也︑上皇亥時許時常行堂御所令渡金堂御︑︿此間毎夜令渡御也︑自正面間西懸御簾為御所︑﹀初夜導師之後御覧呪師 00・散楽 00︑︿例終夜有呪師 00︑﹀⁝⁝
寛治七年の法勝寺修正会では呪師と散楽が並列して記されており︑連日のように呪師と散楽の芸が行われたことが分か
る︒また︑正月八日に﹁中宮女房達見物﹂︑十一日に﹁陽明門院︵禎子内親王︶法勝寺に御幸有り﹂とあるように女院や女房といった女性の見物があったことは注意が必要である︒
また︑﹃中右記﹄には︑永長二年︵一〇九七︶正月九日には﹁所々修正︑無呪師・散楽興﹂︑康和五年︵一一〇三︶正月八日には尊勝寺の修正会で﹁呪師十三手散楽等雑芸種々﹂が行われたことが記されており︑修正会で呪師と散楽がともに演じられることもあったということが理解される︒
御其剋堂︑蜜々女房等参︑儀許如常︑⁝⁝御堂呪師戌参 00 和︺日四十月正年五康︑暦殿︹ 出而退則︑間已明了︑夜 見院参尊勝寺︑物呪師等剋︑寅女許還御︑同有御共︑房 00 ︑渡御尊勝寺剋今日中宮・前斎許亥先了事︑寺勝法給渡 年五和康︑暦殿︹一︵三一〇︶正月十三日︺ 修年の尊勝寺会正である︒ 多例るすをの物見が師呪はえく見られる︒例ば︑康和五女性 ﹃︑勝右記﹄の寛治七年の法寺に修正会にも見えるよう中
二人給装束︑是蜜々義也︑正月十三日には尊勝寺の修正会で呪師の芸があり︑中宮︵篤子内親王︶や前斎院︵令子内親王︶︑女房などが見物している︒また︑翌十四日には法成寺修正会の呪師を見るために女房などが密々に参詣しており︑忠実は呪師二人に纏頭している︒ 康和六年と嘉承二年には尊勝寺で女性の呪師見物があったようである︒︹中右記︑康和六年︵一一〇四︶正月十三日︺入夜参殿下︑為御共先参京極殿︑次参法成寺︑見呪師 00了退出︑内并中宮女房渡尊勝寺見呪師 00云々︑︹殿暦︑嘉承二年︵一一〇七︶正月八日︺今夜前斎院渡給尊勝寺云々︑為御覧呪師 00也︑康和六年正月十三日には法成寺で呪師の芸があったが︑内・中宮・女房が尊勝寺で呪師を見ている︒また︑嘉承二年正月八日には︑前斎院︵令子内親王︶が尊勝寺で呪師を見ている︒天仁二年には忠実の実母である一条殿︵藤原全子︶が法成寺で呪師を見ている︒︹殿暦︑天仁二年︵一一〇九︶正月十日︺戌剋許渡中御門︑参御堂︑即還家︑今日一条殿上渡御堂給︑御覧呪師 00︑
天永三年には︑正月十二日に法勝寺の修正会で︑翌十三日に法成寺の修正会で呪師の芸があり︑それぞれ女房や姫君︵藤原泰子︶が観覧している︒︹殿暦︑天永三年︵一一一二︶正月十二日︺戌剋許参法勝寺︑︿女房蜜々︑姫君同参入︑﹀呪師 00十手︑及暁更︑法勝寺事了余参尊勝寺︑中納言忠通同具︑丑剋許還亭︑
︹殿暦︑天永三年正月十三日︺戌剋許参法成寺︑依修正也︑事了余参内︑但中納言・殿上人一両人事了後猶見呪師 00云々︑女房多参故也︑今夜余侍宿︑
さらに︑永久四年には法成寺修正会で女房︵藤原師子︶と姫君︵藤原泰子︶が︑久安五年には法勝寺修正会で暲子内親王が呪師を見ている︒︹殿暦︑永久四年︵一一一六︶正月十二日︺不出行︑依易物忌也︑⁝⁝女房・姫君参御堂︑見呪師 00︑内府同被参︑︹本朝世紀︑久安五年︵一一四九︶正月十四日︺今夜修正終也︑姫宮︿暲子︑﹀令渡法勝寺給︑御覧呪師 00︑新院同有御幸︑今年諸堂修正︑一院不臨幸也︑依憚思食事歟︑
このように呪師は女院や女房などの見物が多いことが大きな特徴として指摘しうる︒すなわち︑呪師は女性の関心も高く︑比較的身近な芸能であったのではなかろうか︒
そのほかの修正会における呪師の記事は以下の通りである︒念のため︑時系列に挙げる︒︹中右記︑寛治八年︵一〇九四︶正月八日︺供夜侍後︑与左京権大夫・蔵人大輔同車︑参法勝寺︑右大将・治部卿以下公卿五六輩参会︑無呪師 00︑但音楽︑次参法成寺︑殿下・内府以下公卿七八人参入︑御覧呪師 00︑ ︹中右記︑康和五年︵一一〇三︶正月十二日︺先参法成寺︑頃而参入法勝寺︑従今夜有呪師 00︑依仁和寺北院火事為宮御所︑仍日者被留呪師 00許也︑雖然従今夜有此興歟︑︹中右記︑康和六年︵一一〇四︶正月八日︺其後予参白河間︑法勝寺事了︑僧侶被渡参尊勝寺之間也︑内大臣以下公卿十一人参会︑呪師 00二手後︑大導師昇︑︿寛厳︑﹀︹中右記︑大治四年︵一一二九︶正月十四日︺今夜三院御幸法勝寺︑呪師 00十五手︑天明還御云々︑︹殿暦︑永久五年︵一一一七︶正月八日︺京方有火事︑自京人走来云︑法成寺塔有火︑火起高倉カテノ小路出羽前司光国家︑風実無術吹之間及御堂塔︑火行東及河原︑中宮御堂・故六条右府堂︑凡上下人家及千余家皆焼失︑法成寺塔二基・南大門・惣社・南瓦垣等焼失︑仍止精進京上︑及秉燭参御堂︑⁝⁝暫候阿弥陁堂南妻︑致修正沙汰︑人々申旨相分︑雖然右府・藤中納言等口状有謂︑仍今夜如例令行之︑但呪師 00又大導師等之間楽止之︑退出︑余不参︑内府同之︑数尅之後退出︑
おわりに 最後に︑﹁如散楽﹂などという表現について若干の補足を加えたい︒この言葉については︑﹁ほんの形ばかりの物真似
的なもので︑滑稽であり︑かたはら痛い感じのする言語動作をさして︑猿楽の如しといふ評語が加へられて居ると見る事が出来る﹂と能勢朝次氏が指摘している ︶10
︵︒﹁散楽の如し﹂﹁猿楽の如し﹂﹁猿楽に異ならず﹂といった評語は﹃小右記﹄にも多く見られる表現である︒能勢朝次氏が指摘するように︑滑稽な意味としても受け取ることができる場合もあるが︑その一方で﹃小右記﹄ではかなり厳しい︑批判的な文脈で使われていることは注意すべきである︒一例を挙げる︒︹小右記︑寛仁元年︵一〇一七︶九月一日︺宰相来云︑昨日右兵衛督公信読信濃国勘解由勘文︑極不便也︑満座属目︑雖似有定︑還如無定︑公則朝臣前摂政近習者也︑仍諸卿合眼無所云々︑此国有不動并駒牽等事難云々︑然而奉事之按察斉信卿閉口︑自餘人相同云々︑上達部定更々無益︑不異散楽 0000︑⁝⁝この日︑前信濃守藤原公則の功過を定める勘文を藤原公信が読んだが︑公則が道長の近習であったため︑藤原斉信を始め︑諸卿が難を述べることはなかった︒すなわち︑極めて不都合であった状況を﹁散楽に異ならず﹂と批判的に評している︒このように﹃小右記﹄では﹁如散楽﹂という言葉を批判の際に用いることが多いが︑そうした用例の中に猿楽の実態を考える上で看過できない記事がある︒︹小右記︑寛仁二年︵一〇一八︶十二月十四日︺ 未剋許参前太府︑自今日限五个日奉為二親被修仏事︑⁝⁝今夜皇太后可有行啓︑雨脚時々降︑仍無一定之間︑大夫道綱卿申明日可宜之由︑太閤忿怒入簾中︑諸卿陳無心由︑行啓裎太近々︑雨間移御不可有殊煩云々︑奉行啓事之上卿大納言俊賢為承一定祗候︑又卿相五六人不出祗候︑以権大夫経房令取案内︑忿気不散云々︑⁝⁝翌日宰相云︑大納言俊賢頻令催申︑仍有行啓︑太閤〓︵牙+攵+心︶束帯参彼宮被奉迎也︑其間猶有忿気云々︑扈従卿相或指泥障之馬︑或騎如犬之馬云々︑不足言々々々︑殆 0
如散楽 000︑已非公事而已︑その日︑道長が両親︵藤原兼家と時姫︶のために五日間の法花八講を発願し︑仏事を行った︒雨のため藤原妍子の行啓を延引するように藤原道綱が言ったところ︑道長は激怒し︑行啓の後も道長の怒りが消えることはなかった︒そのため︑扈従の卿相たちは或いは泥障の馬を指し︑或いは犬の如き馬に乗り︑滑稽なことをして機嫌を取ったようである︒﹁指泥障之馬﹂はよく分からないが︑﹁騎如犬之馬﹂とは或いは小さな馬に乗るさまを指すかもしれない ︶11
︵︒実資は恰も散楽の如きもので︑最早公事ではないと痛烈に批判しているが︑﹁殆ど散楽の如し﹂という言葉は卿相たちの滑稽な所作をも汲み取った表現とも解しうる︒以上のように︑平安時代の貴族日記を中心に猿楽記事を収集し︑古猿楽の実態を少しでも明らかにするよう試みたが︑
未見の記事は猶多く残されているように思われる︒資料が少ない現段階においてはそれほど多く考察するには至らないが︑少ない資料からも︑舞曲としての猿楽の輪郭や︑貴族女性の見物が多い呪師など︑古猿楽の実態を少しずつ解明することはできる︒今後は更に平安時代の日記・記録類から古猿楽記事を発掘するとともに︑鎌倉時代においても同様の作業を行うことが必要である︒少しでも多くの資料を収集し︑整理することで︑古猿楽の実態をさらに明らかにすることが可能となろう︒
*引用した本文は︑﹃日本紀略﹄﹃日本三代実録﹄﹃本朝世紀﹄は新訂増補国史大系︑﹃九暦﹄﹃小右記﹄﹃御堂関白記﹄﹃後二条師通記﹄﹃殿暦﹄﹃中右記﹄は大日本古記録︑﹃教訓抄﹄は日本思想大系︑﹃古今著聞集﹄は日本古典文学大系︑﹃台記﹄は史料纂集︑﹃舞楽要録﹄は群書類従に拠り︑傍線・傍点を付した︒なお︑引用文の︿ ﹀は割注を表す︒
︵1︶能勢朝次﹃能楽源流考﹄︵岩波書店︑一九七二年︶︵2︶鈴木正人﹃能楽史年表︵古代・中世編︶﹄︵東京堂出版︑二〇〇七年︶︵3︶注︵
︵注︶5︵ 指一九六〇年︶で摘されている︒ 研︑店書波岩﹄︵究のは林︶この記事史既に屋︵辰三郎﹃中世芸能4
1
書掲前勢能︶の芸れさ摘指に既で﹄究研る史能世い中﹃もれこ︶6︵ことではあて
2
︶書掲前木鈴 う︒ ﹂て芸と﹁猿楽﹂が同で使われ義いのろるなと拠根つ一のとこ ︑﹃録要楽舞とし対に楽﹂は﹄あ﹁雑芸﹂とある︒これも﹁雑るの 治の三会猿記事が載る︒但︑安し年小﹁がの記右﹄﹃で事記は 群第従類書要﹄︵録楽る九十舞輯・管絃部五︶には相撲節が︑﹃
︹撲年二弘寛・節相舞︑上巻︑録要楽︺
抜出 同廿九日
左 蘇合 散手 青海波 還城楽 猿楽 00
右 古鳥蘇 貴徳 狛桙 桔槹
︹撲年三仁寛・節相舞︑上巻︑録要楽︺
抜出 同廿八日
左 蘇合 万歳楽 散手 還城楽 猿楽 00
右 古鳥蘇 綾切 貴徳 狛犬 桔槹
︹撲年三安治・節相舞︑上巻︑録要楽︺
抜出 同廿八日
左 蘇合 散手 青海波 見蛇楽 雑芸 00
右 古鳥蘇 貴徳 崑崙 狛犬 桔槹︵
︵注︶8︵ 族して︑近衛官人や貴じの演にた猿楽を言う︒対
7
︶流﹁貴族的猿楽﹂は﹃能楽源考楽﹄に拠る言葉である︒賤民猿9︵︶注︵
1
︶能勢前掲書︒見るえ
2
掲会鈴木前が師呪に事記の正書修︶れわ行で院融円︒た
︹小右記︑寛和三年正月六日︺
初夜又出御々堂︑有音楽・呪師 00・啄木舞・雑芸等︑後夜畢還御︑︵
10
︶注︵︵
1
︶能勢前掲書︒通原頼通の許に伺候し︑頼をて興に入らせた説話がある藤