• 検索結果がありません。

教育科学と成人の学習

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "教育科学と成人の学習"

Copied!
32
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

教育科学と成人の学習

一宮原誠一「年長青年のリアリズム」論の成立過程一 笹 川 孝

1 課題の設定

 (1)「成人の発達」研究への関心の高まリ  1970年代には、教育学の内外から、成人の発 達・教育について、かつて左い関心の高1りがあ

った。そnは三つの局面に澄いてであった。

 第一は、経済学者・社会学者による、 「変革主 体形成論」、 「住民の統治能力の発達過程」への 関心の高まりである。たとえば、池上惇は、次の

ように言う。

 「民主主義を論じる場合には、たんに制度やあ  るべき姿を論じるだけではふじゅうぶんであっ  て.自治のに左い手である住民そのものの統治        (1)

 能力の発達過程の科学的研究を必要とするd こうした発言は池上ひとりにとどまら左い。宮本 憲一は、住民運動に齢ける「住民学校」 「市民学 校」の重要性を強調しつつ、 「主体形成の論理.

…変革の主体形成の必然性をえがきだしてみkけ れば社会科学は結論を出したことにはkら左い」

とのべて、主体形成の論理を社会科学の不可欠の 構成要素として位置づけている。(2)また、大木一 訓は貧困化論と変革主体形成論とを統一した労働       (3)

者状態論をうちたてるべきだと主張する。

      この        (4)

問題に関する著書や論文はか左りの数にのぼり、

経済理論学会は.1978年に、その研究大会にお いて、 「変革主体の形成」をメイン・シンポジウ          (5)

ムのテーマとした。

 関心の高まりの第二の局面は、これまで主に子 どもの発達・教育に力を入れてきた.教育学者に よるものである。

 たとえば、堀尾輝久は「青少年の発達と国民の        一9

自己形成の課題を一つのものとして意識すること が不可欠である」とし、そのためには「人間の誕

生から青年、さらには成人を含んでの、発達のす じ道と教育のあり方を探求することが必要である」(6)

と主張oまた、坂元忠芳が中心とkって編集した といわれている、岩波講座『子どもの発達と教育』

第八巻は、成人の発達への強い関心を示している。

す左わち、同巻が一冊の半分をさいて収録してい る「自己形成の記録と分析」には、幼年期から成

人に至るまでの過程だけでkく、成人としての自 己形成の過程が記録されているのである。さらva  学校外の子どもの教育の立場からは、同講座第7 巻所収の酒匂一雄.増山均「子どもの発達と家庭

・地域の教育力」が.池上らの提起をうけ左がら、

父母住民の自己形成のあり方の探求が必要だとの べているo

 第三の局面は、せまい意味での社会教育に澄け るものである。この領域ではこれまでにも成人の 発達と学習についての一定の研究蓄積があるが、

70年代半ば以後あらためて.このことへの関心 の高Aりが見られた。たとえば『月刊社会教育』

は、 「学習のあり方を問いなおす」(1976年6

月号)、「人はどこで変わるか」(1977年1月

号)kどの特集を組んだ。また日本社会教育学会

に鉛ける自由研究にも「成人の発達」を扱ったも

のがふえてきている。そして、同学会は、1980

年に中間研究集会(「六月集会」)と「第27回

研究大会」に鉛いて. 「成人の発達と学習」を学

会としての課題研究に設定した。(7)

(2)

 ② もとめられている「成人の発達」研究の角   度

 以上のべた、成人の発達・教育への関心の高A りは、どのよう左歴史的文脈のftかにあり、どの よう左研究課題を提起しているのだろうか。とり わけ、ほんらい成人の発達・教育研究を正面から ひきうけるべきであり、またこれまで多少の蓄積 をもっている社会教育va k・ける研究は、社会諸科 学や子ども研究から、どのよう左提起をうけてい

るのだろうか。

 まず、第一の局面について考えてみよう。

 1950年代後半からの「高度成長」=資本の高 蓄積は、一面で国民の消費水準をひきあげkがら も、国民生活に深刻た歪みをもたらした。その歪 みは、60年代後半から70年代はじめにかけて.

広く国民にとって耐えがたいものとして自覚され はじめ、国民は地域住民運動を広く組織した。そ して、70年代はじめには、国家レベルでの民主的 変革の可能性が大きく生みだされた。しかし、

1973年暮の「石油ショック」以後、総資本は

「減量経営」攻撃を組織。これにたいして.国民の 側は必ずしも有効に対処しきれず、運動の一時的 後退、生活矛盾の一層の深刻化を強いられてきて いる。このよう左歴史的文脈の左かで、これまで

も弱かった民主的変革の主体形成の論理を、社会 科学のkかに.その不可欠の構成部分として位置 づけ、展開する必要性が、あらためて強く自覚さ          (8)

れてきたのである。

 この第一の局面における中心的k論点は次の二 つである。①成人の発達が必要とされ、可能とk

る、歴史的・社会的基盤と、そこで求められる発 達の内容。②その基盤の上での意識の変革過程の 解明。そして、現時点まででは、討論は前者に大

き左比重がかかってk・り、①と②を一貫してとら える枠組みは、まだ積極的に提出されてはい左い。

すZ2わち前者については、富沢賢治の「労働の社 会化」論、池上淳の公務労働の媒介による

「変革の潜在的力量」の発現論や「統治能力」論、

さらには芝田進午の「生産点左いし職場va teける

…… ッ主的・合理的ft労働計画を作製する」力量 の重要性の提起kどがある。

 これにたいして、意識のレベルでの討論は必ずしも 活発ではltい。元島邦夫による、従来の社会科学

e・C・k・ける認識論レベルでの変革主体形成論の欠如と いう指摘と労働者意識の分析の試み、竹村英輔に よる「グラムシの人格理論」の再構成が眼につく ていどである。

 経済学者・社会学者の討論においては、kぜ①

②を統一した論が成立しkいのか。それは彼らの 議論において、存在の社会的被規定性を前提とし たうえでの、認識発達論の展開が左いからである。

 いま、経済学者・社会学者の議論が社会教育学 に求めていることは、社会的に規定された存在で ある生活に学習者が、自己教育の自覚的主体へと 左りゆくすじみちの解明にあるといえよう。

 次に第二の局面について考えてみょう。

 堀尾や坂元らが成人の発達・教育に着目したこ との背景には、1970年代に澄ける子どもの生活 のゆがみの深刻化がある。このことは二つす

じで成人の発達への関心をひき齢こした。ひ とつは、地域教育運動の主体としての成人の発達 の問題であり、他のひとつは、子どもの発達と成 人の発達との内的連関への関心である。このうち 前者は、さきにのべた第一の局面での論議と重k

るので、後者についてのべよう。

 子どもの生活の歪みは、子どもを自己教育の主 体としてとらえずには、彼らの発達を保障しえk いとの考えに坂元らを到達させた。そしてそのこ

とが、自己教育の全面的左主体とkりうる成人の 発達への関心をひきむこしたと考えられる。

 すftわち、中教審の能力主義にたいする批判の 作業から、子どもの能力・学力の発達研究へと入 った坂元は、70年代前半に「『わかる』ことが

…子どもの生活経験…生活をきりひらいていく意

(3)

欲、…自然や社会を統一的にとらえる自然観・社 会観・世界観の形成…世界を変革していく目的意 識的左実践の力とむすびっくものとしてつかまれ る必要がある。ll(9)とのべていた。そして、76年 には次のようft見解に達した。

  「すべての教育的働きかけの目標は、結局子ど  もを、みずからの可能性を人格の内面に意識化   していくよう左自己教育の主体にしあげること  である。……文化の獲得が生き方がわかること  につ左がるように、子どもの学習を組織してい       ⑩

 かkければkら左い。」

 そして、こうした坂元の見解にたいする鈴木秀

_らの批判ODをふまえてひらかれた1975年の教育 科学研究会の大会でのシンポジウム「『わかること』

 と『生きる力』⑫」は問題の所在を鋭く示 唆した。 「生きること」と「わかること」との 統一を主張する坂元にたいして、小・中学生を念 頭に齢いた松本美津枝は、 「『わかること』と

『生きる力』は短絡でき左いし、しては左ら左い」

と主張。これにたいして、労働者教育の立場から、

大串隆吉は、労働者の学習における「わかること」

と「生き方」との不可分性を強調した。

 つまり、大串と松本とのこの意見のズレかたは,

問題の所在が次の点にあることを示唆している。

わかることの生きる力への転化や、学習者が自己 教育の主体と左ることの可能性・必要性は.子ど も・高校生・成人kど、年令や社会的存在状況の ちがいにそくして、分節化してあきらかにされる必 要があること。そしてそのさいに、成人に語ける 両者の全面的統一の可能性を軸に、それとの関係 で高校生や中学生・小学生・幼児kどに齢ける統 一の可能性をさぐる必要があること。

 以上のことから、子ども研究の観点がもとめて いる成人の発達研究は、自己教育の全面的左主体 とft bうる成人の発達の論理をあきらかにするこ とを通じて、子ども青年における自己教育の論理 の解明の手がかりを示すことにある.といえる。

 以上を要するに、二つの局面から「成人の発達

・学習」研究に提出されている課題は、次の二つ である。①社会的に規定された存在である学習者 が自己教育の主体に左りゆくすじみちの解明。② その解明をっうじて、子ども・青年に詮ける自己 教育の論理を解く手がかりを示すこと。いいかえ れば、人間存在を客観的に規定する社会の運動法 則をあきらかにする社会科学と、人間主体の発達 保障の論理をあきらかにする教育科学との結節点 として、成人の発達と学習にかんする論を展開す ることである。

 (3)宮原誠一「年長青年のリアリズム」論   研究の重要性

 それでは、第三の局面における論議は、こうし た課題を積極的にうけとめて、十分活発に展開さ れているだろうか。残念左がらまだ、きわめて不 十分だといわざるをえ左い。酒匂一雄が池上の発 言をうけて「統治能力」の問題を提起93小松光一 が農民教育の実践をふまえkがら.社会科学学習 のこんにち的あり方の再検討を提起しでハるほか,

自己形成史分析の試みもkされているが、まだ、

全体として散発的であるといわざるをえ左い。そ して、その大きft原因のひとつは,こんにち求められて いる研究視角の整理とその角度からの研究蓄積の整理の 不+分さにある.と私は考える。そして、私は、後者の 作業の不可欠左部分とレて,宮原誠一が晴年期教育再 編成の基本的視点J(1960)で提出した「年長青年 のリアリズム」論の成立過程についての批判的検 討がある、と考えるoというのは、宮原のこの論

こそ、これまでの教育学が、さきの二つの観点を 統一した角度から成人の発達の論理をあきらかに

した一里塚だと考えるからである。宮原の論は、

これまで.こうした角度からは殆んど評価されて い左い  しかし、戦後、生産主義教育論から出 発した宮原は、次の過程を通って、60年論文に toいて、さきの二つの課題の統一的把握の視点を 提出したのである。

一11一

(4)

 ①宮原は敗戦後間もkく「生産主義教育論」を 展開した。この左かで④教育の社会的被規定性を 示すとともに、◎生産復興が国民経済の焦点であ り、求められる人間は「科学的生産人」であると、

当時の日本の現実をふまえて⑦を具体化する努力 をした。そしてさらに㊦それを実現するための教 育内容としてミニマム・エッセンシャルズの教授 を主張した。

 ②だがここには.④独占資本復活と軌を一一uaし た生産復興への無条件礼賛、◎「科学的生産人」

に澄ける民主主義的側面の不十分さ,0人格形成 における実践の軽視、ftどの弱点があった。

 ③1949年の平和教育の探求のkかで、生産主 義教育論の弱さを克服する視点をつかみ、それは 彼の「生産主義教育論」の質をもかえていった。

そしてまた、1950年代はじめに教育実践に近づくなか で、それをたしかなものにする努力をはじめた。

 ④1950年代後半に、働く青年成人の学習の 研究に全力を注ぐkかで、⑳当時の日本の状況に そぐして教育の社会的被規定性の把握を深めると ともに◎いくつかの試行をくりかえしつつ、1960 年論文「青年期教育再編成の基本的視点」に澄い て、 「年長青年のリアリズム」=「学習必要とそ の自覚化」論として、客観的現実に規定された成人が 自己の学習必要を自覚し、自己教育の主体とkる すじみちの要点をあきらかにした。

 ④この論の展開は、成人の学習に澄ける実践と 認識の統一の論理をあきらかにすることによって.

教育目的論・学習内容論・学習組織論・学習運動 組織者論左どを含む、成人教育実践の研究に大き

ぐ道をひらくものであった。

 同時にそれは、宮原自ら60年代に示したよう に、高校生青年va k・ける実践と認識の統一の論理 の解明に道をひらいたのである。

 以上の過程を論述することをと澄して、こんに ちもとめられる成人の発達研究がふまえるべき共 有財産のひとつをたしかめ、教育科学における成

人の発達・教育研究の位置を考えることが、本稿 の課題である。

*この論点に深くかかわる論争として、宮原の論文「教 育の本質」をめぐる論争がある。

 周知のように、矢川徳光・坂元忠芳、藤岡貞彦・小川 利夫、五十嵐顕の三者の間での次の討論である。矢川は

『マルクス主義教育学試論』において、宮原の1949 年論文「教育の本質」をとりあげて、次のように批判し た。この論文は、教育と社会との関係を明確にしており、

教育機能論としてはすぐれているが、人格概念が中心に すわっていないので教育本質論としては適切でない。⑱ そして、慎重な表現ながら、坂元はこれを支持した。⑮ これにたいして藤岡は、教育の本質はs教育の社会 的規定と目的的規定との統一においてはじめて把握でき るのであり、宮原の「教育の本資」は、目的的規定 において弱さをもつものの、社会的規定をあきらか にした点ですぐれた教育本質論であると反論した。その

うえで「私どもはあらためて・・教育における目的的規定 と社会的規定の統一的把握にすすみでなけれぽならない」

とOV。.qeEして小川利夫e# .この藤岡見解を支持風瀞  この二つの見解にたいして、五十嵐は、宮原論文「教

育の本質」のなかに「『目的的規定』といわれることが 含蓄されており」、それは50年代・60年代の諸論文に も「ひきつな榔ている」とのべ拶

 この討論、とりわけ藤岡の提出した論点は、きわめて 重要である。しかし、それにもかかわらず、矢川・坂元 と藤岡・小川との討論は、仮りに「教育の本質」におい て両規定の統一がなされていないとするならば、宮原の その後の歩みにおいて両規定の統一があったかどうかを 問うていない点で問題を残している。

 この点で五十嵐は異説をたてたが、具体的な論証はま だなされていない。

〈注〉

(1)池上惇『財政危機と住民自治』、青木書店、

      1976年 P37

(2)藤岡貞彦との対談「環境・人間・教育」『教育』

 1978年6月号

(3)大木一訓  「貧困化と変革主体形成についての一考察」

      『科学と思想』第37号 1980年

(4)たとえば、次のようなものがある。

 元島邦夫 『変革主体形成の理論』

 池上 惇 『財政危機と住民自治』

   同   『現代国家論』

(5)

富沢賢治 『唯物史観と労働運動』

山口正之 『現代社会と知識労働』

相沢与一 『現代社会と労働;社会運動』

経済理論学会『現代資本主義と労働者階級』

島恭彦ほか『講座、現代経済学』(全六巻)

庄司興吉 芝田進午 元島邦夫 大木一・訓 竹村英輔

『社会変動と変革主体』

「労働の自由と労働運動」

「企業内人生における抑圧と抵抗」

「貧困化と変革主体形成についての一考察」

「グラムシの人格理論」

(5)前掲『現代資本主義と労働者階級』がその報告集とな  っている。

(6)堀尾輝久  「現代における子どもの発達と教育の課題」

      『岩波講座 子どもの発達と教育』 第ユ

      巻1979年P305

(7)『社会教育学会通信』 第77、79号参照

(8)資本主義社会の成立とともに生まれた社会科学は、資  本主義社会の経済的解剖をその真髄としていた。しか  し、この社会科学は、同時に「市民社会」=資本主義  社会を推進する主体の形成についての学問的考察を、

 その不可欠の構成要素として内に含んでいた。典型的  には、スミスにおける『諸国民の富』と『道徳感情論』

 の関係にみられる。また、単純な意識が様々な遍歴を  経て「絶対的精神」にいたる過程を叙述した『精神現  象学』の著者、ヘーゲルが、スミスを深く研究してい  た事実は、『精神現象学』そのものが、ブルジ。ア社  会科学における主体形成論であったことを示している。

  社会科学の成享にさいして、主体形成についての考  察がその不可欠の構成要素として内在していたという、

 このことは、資本主義の止揚の学として登場した社会  科学においても同様であった。マルクス・エンゲルス  は『共産党宣言』において、資本主義社会の止揚の主  体としての近代的プロレタリアートの生成と発展、小  ブルジ。ア諸階級のプロレタリアートの陣営への移行  について、簡潔にのべている。また、これに先だつ『

 経済学・哲学手稿』において、認識論的展開について  の基本的視点を提出している。

  しかし、社会科学を物質的基礎の自然史的展開の基  礎のうえにうちたてるために、マルクスが経済学研究  に集中せざるをえなかったことが大きな原因のひとつ  となって、その後主体形成論は十分展開させられなか  った。 レーニンによる弁証法の認識論的展開の重要  性の問題提起C許萬元『認識論としての弁証法』ユ978

 年、青木書店参照)や、それをうけての195Q年代ソ連哲  学界での討論において、この問題は多少論じられたも  のの、必ずしも内容的発展を十分とげぬまま、ユ938  年のスターリン『弁証法的唯物論と史的唯物論』の刊  行によって終止符をうたれたC寺沢恒信「弁証法・論  理学・認識論の統一」講座『マルクス主義哲学』第1

 巻青木書店1969年参照)。

  日本における議論の大きなものとしては、次のもの  があった。1920〜50年代の日本の民主主義運動の

基盤のうえでさきのソ連史学界での討論を、うけとめ  ようとした、唯物論研究会での討論。戦時中のヴs一  バー研究のうえにたって提出された、大塚久雄らの近  代的人間類型論発端とし、1945〜48年の運動を背  景とてなされた「近代主義批判」論争と主体性論争。

 しかし、これらの討論もその後、今日まで順調に継承  ・発展させられてきているとはいえない。

(9)坂元忠芳  「能力と学力」「『国民教育』第15号、

       1973年、同『子どもの能力と学力』

       1976年 青木書店所収、同書 Pll7

⑩同書序論 PlO〜ll

⑪鈴木。藤岡「今日の学力論における二、三の問題一   坂元忠芳氏の学力論批判一」「『科学と思想、第16   号)、藤岡「『わかる力』は学力か」ぐ『現代教育   科学』エ975年8月号)

⑫ 『教育』 1975年11月臨時増刊号参照 q3酒匂一雄  「80年代と社会教育」 社全教育推進   全国協議会『住民の学習と資料』%9 1980年   8月 参照

aφ矢川『マルクス主義教育学試論』 明治図書1971   年 P46

鰺坂元『矢川徳光教育学著作集』第6巻「解説」 青   木書店 1974年

⑯藤岡『宮原誠一教育論集』で以下、たんに「著作集   」と記す)第Z巻「解説」国土社(1976年P412   〜4ユ3)

㈲小川「児童福祉と教育権論の課題」 日本教育法学

  会年報第6号有斐閣1977年P21

⑱五十嵐「教育の本質における矛盾について」C『教

  育』 1978年12月号P46)

一13一

(6)

2 戦後宮原教育学の出発点 一生産主義教育論の意義と問題点一

 (1)生産主義教育論の積極的意義   (()生産主義教育論の構造

 1940年代後半の宮原誠一の理論的努力は、ひ とつの構造をもっている。この期の代表的論文の ひとつにち左んでここでは、それを生産主義教育 詳1)として・、・ 〈。その要点は、絃そ次の,つで

ある。

 ①人間の精神文化は、人間の主観的意図からは 独立した社会の状態、とくに産業のあり方によっ て窮極的に規定される。そして人間は、産業のあ

り方を基底とする社会生活の再生産の過程で、そ れを担う主体として自らを形成する。

 ②人間人格を意識的に育てようとする教育は、

社会のもつこの形成作用をはkれては存在しえk い。教育は、この形成作用を目的意識的に制御す

ることであり、政治の必要、経済の必要、文化の 必要を主体化するための目的意識的左手続きであ るo

 ③敗戦後の日本民族にとっての社会的必要の焦 点は、生産復興である。それは、たんに生産復興 が国民の生活にとって緊急であるからというだけ ではkい。精神労働と肉体労働の分裂を克服する 土台が、この生産復興によってっくられうるから である。

 ④この生産復興という社会的必要を主体化した        (2)

人間は「科学的生産人」

      である。それは科学的

・技術的k素養と共働的k思考と行動様式を身に っけた生産人である。

 ⑤この「科学的生産人」を育てるためには、現 在の日本の産業復興に必要左職業活動に共通に必 要とされる知識・能力のミニマム・エッセンシャ

ルズを中核とした教養を教授すること瓜教育内 容の基本とkらねば左ら左い。

  (口)生産主義教育論の積極的意義

 このよう左構造をもつ宮原の生産主義教育論を、

社会科学の一環としての教育科学の建設の観点か ら評価すると、次のように言うことができる。

 ①精神が窮極的に産業のあり方によって規定さ れ、教育は、そうした精神の社会的形成の目的意 識的制御である、という主張を前面に押しだすこ

とによって、教育の社会的左被規定性をあきらか にしている。

 ②日本資本資義の当時の具体的段階をふまえて、

教育の社会的被規定性をく生産復興と教育〉とし て具体的にとらえ、そこから目標とすべき人間像を

「科学的生産人」と規定した。

 ③「科学的生産人」を育てるための教育の内容

・方法を示した。

 っまり、①②によって社会科学の一環としての 教育学の建設を、③によって社会科学には解消さ れえkい固有左意味での教育科学の建設を可能と する理論の枠組みを提出したのである。

 このよう左宮原の論議は、当時の教育学界にお いては、稀左ものであった。

 敗戦後間も左く空前の規模で発展した民主主義 運動と民主主義的学習.文化運動3)を背景として、

哲学者、作家、社会科学者、労働・農民運動や 学習・文化運動のリーダーたちによって、1947

〜49年段階に、「新しい人間の形成」の目標や あり方が、活発に議論されていた。①当時の資本 主義の現段階をふまえた育てるべき人間主体の 歴史的性格。②そのようZi主体への民衆の自己変 革のすじみち。この二点が主ft論点であった。そ して、討論そのものは、論者たちによって、 「今 日の人民闘争が痛切に要求している理論問題」と しての「人間の心理学的・教育学的考察」と自覚       (4)

されていた。

 しかし、当時のほとんどすべての職業的教育学

者は、こうした課題に積極的にとりくむ状態には

左かった。 ある人々はコア・カリキュラム論の紹

(7)

介・普及に拾われ、ある人々はアメリカの教育制 度の研究・紹介におわれていた。また、人間像を 積極的に論じた人々も「自由左思考」や「個性と 協同性」「自主性と連帯性」が過去の日本人には 欠けてゑり、それらの資質が今後の日本人には必要 だと述べるにとどまり.当時の日本資本主義の発 展段階、そのもとでの国民生活・民主主義運動と の関係で、人間像の性格や現実の形成のすじみち を論ずることができkかった。

 こうした左かで「歴史的社会的現実とはかかわ りkしに、新教育の目標だとか、新しい人間像だ とかを説く教育学的論議の不妊性に我慢でき左ぐ kる。」(5)と、多くの教育学者を批判しつっ齢こ 左った宮原の生産主義教育論の展開は、のちにの べる弱点をふくんでいたとはいえ、その枠組みに おいて、さきの社会諸科学者らの論議と+分かみ

あうものであった。

 (2)生産主義教育論の弱点

 宮原の生産主義教育論は、以上のべたように、

社会科学の一環としての教育科学の建設を可能と する論理的左枠組みを提出していた。しかし、そ の内容において、次の一連の弱点を⑥もっていた。

 (1)その資本主義把握の弱さ。とくに、いわゆる 資本主義的貧困化とそれを克服する主体への注目 の視点が弱ぐ、したがって、独占資本復活と軌を 一にするく生産復興〉を手ばkしで礼賛する弱さ。

 (ロ)資本主義認識から導かれる教育目的としての

「科学的生産人」における民主主義的側面の弱さ。

 のそれと関連してくミニマム・エッセンシャル ズ〉に諭ける民主主義、基本的人権の観点の弱さ。

 ←)認識に齢ける実践の役割の軽視。

  (4)資本主義把握の問題点

  「事実としての教育は、いっでも特定の時と所 とをもつ歴史的社会の状態によって規定され、左 かんずく窮極的には、その社会の産業の状態によ って規定されている」(7)とい嬉原の主張は、非 常に積極的kものであった。だが、彼の「産業の

状態」についての理解には、生産関係の側面を軽 視する弱さがあった。それは、彼のく生産復興と 教育〉の主張のkかによくあらわれていた。

 宮原の言うように「民族の総力を生産の復興に 結集し鮒れ廠ら左い」(8)ことは事実であった。

戦争によって日本の生産力は、農業に拾いても工鉱業に 澄いてもきわめて低い水準に澄ちこみ、〈生産復

興〉が当時の重要lt民族的課題であったからである。

 しかし、この生産水準の低下と国民生活の窮乏 化は、それ自体日本資本主義、とくに戦時国家独 占資本主義のもたらした貧困化現象であった。し たがって、〈生産復興〉が国民的課題の焦点であ ったとしても、貧困をもたらした国家独占資本と は異kった主体による、国民生活の安定・向上を めざす観点からのく生産復興〉へのとりくみが求 められていた。宮原の認識はこの点であいまいで あった。

 「産業の再建を軌道にのせるまでのあいだは、

統制経済でやってゆかねば左らぬ・・…・これは民族 的必要であるから.何党が内閣を組織してもtoこ        (9)

Zirわkければkら左い」

 1947年に、彼はこのように述べている。しか し、当時の生産復興をめぐる現実の争点は、 「統 制」か否かにあったのでは左く。統制の内容はどん kものか、統制の主体は誰kのかにあったのであ るo*

*宮原の念頭には.47年2月に正式発足した「経済復 興会議」のことがあったにちがいない。ここには経営者 団体連合会や関東経営者連盟から共産党の影響力の強い 産別会議まで参加していた。しかし、同会議においても、

「統制の内容についての完全な合意があったわけでは なかった。産別会議は、加盟決定にさいして、労働者の 権利をあくまで擁i護し、場合によってはストライキ闘争 をもおこなうことをあきらかにしていた。そして「経済 復興会議」と表裏をなしていた傾斜生産方式が、労働者

・農民の生活を犠牲とした独占資本復活政策であること があきらかになるなかで、同会議は労働者の生活と権利

一15一

(8)

を守る争議を活発化させていった。それにたいして、経 団連や総同盟幹部などは、 破壊分子容認せず と主張。

1948年5月に「経済復興会調を解散してしまったの

である。⑳

 「統制」の内容と主体とが問題となっていた点では、

農業生産の場合も基本的に同様であった。農業生産の場 合、農地改革によってきわめて制約されたはんいにおいて ではあるが,資本主義的農業の発展の可能性が生まれた。

そして労働過程に注目してみるとき、それまでの経験主 義的な手の労働にかわって、宮原の言うような、科学的 な機械を用いる労働への変革の可能性が大きく切り開か れた。しかし、この可能性が現実のものとなるには肥料 などの農業資材・拡大再生産のための資本の確保が規模 の零細性や半封建的農業慣行の克服とともに重要な位置 をしめていた。ところが傾斜生産方式は、肥料・農業機 械などの生産を発展させはしたが、計画の重要な柱とし て、低米価政策をそのなかにくみこんでおり、拡大再生 産のための資本の確保をむずかしくした。また、48年 以後の所得税制の変更は、拡大それをさらに困難なもの

とした。⑳

 宮原のいう、精神労働と肉体労働の分裂を克服 する観点からの生産復興をすすめるためには、民 主主義的k内容と主体の「統制」こそが求められ ていた。もちろん、当時はそうしたプランが必ず

しも明確に示されてい左かったのだから、宮原ひ とりを責めるわけにはゆかkい。しかし、 「経済 復興会議」が解散され、傾斜生産方式が民衆の生 活を犠牲とした独占資本復活政策であることがは っきりしたのちも,のちにのべる1949年転換A では、生産関係の問題ぬきに生産復興が第一の民 族的課題であると主張しつづけた。このことは問       ⑫

題であったといわねばkら左い。

  (口)「科学的生産人」における民主主義的側    面の弱さ

 宮原の日本資本主義把握の弱さは、彼の提唱し た「科学的生産人」に齢ける民主主義的側面の弱 さと結びついていた。

  「生産復興は、われわれにとって二重の意味に  おいて教育的意義をもっている。われわれは教

 育の迫撃をもって、第一に国民の科学的素養を  たかめ、第二に共働的左思考と行動の方法を国  民のものとしkければkらkい。」「日本の生  産を科学的に高めるための教育……一貫してそ  れは科学的k生産人をつくるための教育であ

 る。」⑬

ここで言う「共働的左思考と行動の方法」は、国 民の基本的人権を守り発展させるための実践をも 含んでいるようにも見える。しかし、これはあぐ までも、労働組織における相互協力というていど のものである。のちにくわしくのべるように、宮 原は1949年の平和教育論のkかで、あらfcめて、

基本的人権を守るための科学的実践の重要性を説 きt51年に政治的主体形成の重要性を論じた。

そして52年には、 「人間尊重的左科学的生産人」⑯ と、 「科学的生産人」にことさら形容詞をつけて いる。このことを考えるkらば、この「共働的k 思考と行動」澄いては、主権と基本的人権の主体

としての協力という側面は、とぐに位置づけられ てはい左かったといえよう。

  ㈲教育内容・方法における問題点

 教育目標に訟ける弱さは、教育の内容・方法上 の弱さをともkっていた。

 宮原は、「教育の計画化」のftかで、 「産業と 取組む理論と実践、研究と作業の着実左コース」

に青少年の生活を導き、 「民族の幸福……新しい 社会をっくる仕事に自分は参加しているという意 識」を彼らに保障することによってはじめて、「真 の青少年らしさが青少年の上に鍬」asとのべて いた。そして、1948年の丸山真男との対談や49 年の「生産主義の教育課程」において、この「コ

ース」の具体的左指針として、 「主要左職業的活 動に必要左教養の基礎であり基本である」「生産 主義的一般教養」についてのべた。

 まず、それは、学問研究の到達点を当然ふAえ

たうえで「現在の日本の産業復興のために見込ま

れる主要k職業的活動の全体をつうじて共通に必

(9)

要とされる知識および能力のミニマム・エッセン シャルズを中核として編成せらるべき教養である」

とした。そして、その「ミニマム・エッセンシャ ルズ」を「科学的生産人」に必要lt①知識、②技 術、③共働的行動の訓練とし、③を①②の教科学 習に齢ける「学習形態」として位置づけ、これら の全体が生徒ひとりひとりにとって、 「総合され た経験の流れ」と左るべきである、とした。ae  ここには少左ぐとも二つの問題点があった。ひ

とつは、①の知識の左かの民主主義的側面の弱さ。

もうひとつは、学習者の認識発達va k・ける実践の 位置づけの弱さである。

 前者について宮原はたち入って論じてはい左い。

しかし、のちにのべるように、1949年に、彼は ことさらに「人民の幸福と安全」「基本的人権の 尊重」 「民主主義」の重要性を論じ、1952年に は、アメリカの教育課程に齢いて、「生産技術が 社会経済的諸関係から切りはkされている」こと を強く批判している。このことは、この時期の宮 原のいう「ミニマム・エッセンシャルズ」に澄い て、民主主義的側面の位置づけが弱かったことを 示唆しているといえよう。

 つぎに後者にっいてのべよう。

 1947〜49年段階は、はげしいインフレ・大 量の人員整理・低米価・重税左ど、当時の働くお とkたちの生活がきわめて困難左時期であうた。

そして、働くおと左たちの生活の困難はとりもft おさず青少年の親たち、家庭の困難であり、それ は青少年自身の生活にも影を齢とさずにはい左か った。このよう左事態のkかで、「新しい社会を つくる仕事に自分たちは参加しているという意識」

を青少年たちに保障するには、青少年自身が、自 らの生活にあらわれた困難を克服してゆぐための 実践を何らかの形で担い、そこでつくられた認識 の土台のうえにさきの「ミニマム・エッセンシャ ルズを中核とする教養」を接続してゆくことが決 定的に重要であった。

 しかし、この段階の宮原は、認識発達にとって 実践がもつ意義を十分認めてはい左かった。

 宮原は、 「ミニマム・エッセンシャルズ」その ものの内部に診いて、実践的要素として「社会的

・集合的ft事柄の処理に有能に参加しうるように ftるための共働的行動の訓練」をあげている。だ がそれは、 「教科を通じて採用せられべき学習形 態の基準」⑳としての位置しか与えられていkか

った。これは青少年が自らの生活にあらわれた貧 困を克服してゆく実践という性格のものではkか

ったo*

*このことは、この段階での宮原が、学習の必要を客観 主義的にとらえていたことと照応していると思われる。

1950年に彼は次のようにのべている。

 「自ら考えるといっても、何をいかに考えるのか。考  えるという一箇の行為が具体的に成立する根拠は、人  間の内部にではなく、かえって外部に、いいかえれば  環境にもとめられなければならない。」ag

これは、諸個人をとりまく外的状況「環境」がそのまま 学習必要の根拠であり、それがそのまま意識に反映する

かのような主張である。のちにのべるように1950年と いう時期は、彼が実践のもつ認識発達上の意義に着目し はじめていた時期であった。この時期になおこのような 発言のあったことは、それ以前の時期にはなお強かった

ことを推測きせる。この宮原の主張が、「考えるという 行為が具体的に成立する根拠は、人間の外部のみでも、

内部のみにでもなく、両者を前提としながら、環境に対 する能動的な働きかけ=実践にもとめられねばならない」

という趣旨に、宮原自身によって訂正されたことは、の ちに本文でのべるとおりである。

〈注〉

(1)本文3でのべるように、:940年代後半の論文のう  ち、平和教育論は異質の系に属するものである。宮原  の生産主義教育論は、1950年代に入っても展開され  るが、それらは、平和教育論の影響をうけて、質的変  化が生じているので、ここでは次の諸論文から論理を  構成した。

一17一

(10)

教育の計画化について 専門文化人との協力が大切だ 対談(丸山真男)教育の反省 教育の本質

生産主義の教育の課程

1947年

工948年  〃

1949年

 〃

(2) 「科学的生産人」という用語が出てくるのは「生産  主義の教育課程」である。

(3)たとえば笹川「戦後社会教育実践史研究(その1)」

(4) (東京都立大学『人文学報』%144 1980、3)

 参照。

  笹川「戦後社会教育学習理論の出発と『主体性論争』」

  教育科学研究会青年期教育部会『青年期教育研究』

 %.5 1976)参照。

(5) 「教育の本質」著作集第1巻 P23

(6)これらの弱点は、戦時国家独占資本主義の成立に依  拠し、その政策をより合理的なものたらしめるという  方向で、自らの理論をつくりあげてきた宮原が、1949  年秋の平和教育論の展開以前にはその弱点について十  分自覚的に反省しえていなかったことの反映であるよ  うに思われる。

  1937年の「スレジンガー『社会の再構成と自由主  義的教育家のプログラム」『教育思潮研究』第12巻  第3輯においては、自由主義的教育家は階段支配の現  実から眼をそらしている、とスレジンガーがのべてい  ることを、宮原は積極的に紹介している。39年の「ソ  連邦の青年教育」(『教育思潮研究』第13巻第1輯)

 40年の「ソ連邦の総合技術教育」(『教育思潮研究』

 第14巻第1輯)は、きわめて実証主義的に論述をし  ている。それが40年の「形成と教育」C『日本評論』

 1940年8月号)では、戦時国家独占の枠内で議論と

 なってしまっている。

〈7) 「生産主義の教育課程」著作集第1巻 P118

(8)    同    第1巻 Pユ13

(9)「教育の計画化」著作集第1巻 Pllユ

⑩この点の論述は、山本潔「『産業再建』と政治主体」

  東京大学社会科学研究所編『戦後改革』第5巻  ユ974年 東京大学出版会によった。

⑪井野隆一  「戦後日本資本主義の展開と農業」

  井野他編  『国家独占資本主義と農業』 第1章       大月書店 197ユ年。

⑫たしかに、『教育』1948年9月号の丸山真男との 対談において、「人間的全体性の回復は、資本主義的 分業……のもとにおいては不可能なことですから、…

・・…

]来の分業の秩序を破ることを考えねばならない」

とのべている。そして・そのためには「社会化された 生産過程を社会的な計画と統制」のもとにおき、「労 働者自身がこのソーシャル・プランニングに参加する。

そういう方向以外には解決の道はもとめられない」と のべている(第6巻 P40 1〜402)。しかし、48 年5月の経済復興会解散という事態のもとで、「統制  と「参加」の内容、「従来の分業の秩序を破る」こと

の推進の主体がどこにあると宮原は考えていたのだろ  うか。

⑬qむ⑮⑯⑰⑱⑲

「生産主義教育論」第ユ巻 P1ユ5、ユ17〜ユユ8

「産業と教育」 第1巻 p55

第1巻1)104〜ユ05 第1巻 P123〜125 第1巻 Pエ23〜124

「経済と教育」 第1巻 P 36

「教育の体質」 第1巻 P24

3 平和教育論における転換と教育実践への接近

(1)平和教育論における転換

 生産主義教育論に内在する弱点を克服する宮原 自身の動きは、彼の生産主義教育論の主張が一段 落した後va k・こったのではkかった。生産主義教

育論の展開のさ左かに、それとは異質k系に属す

る「平和教育論」に澄いて、この弱点の克服はは じまった。

 1948年の中国情勢の急転回は、国際情勢を極

度に緊張させた。社会主義諸国と帝国主義諸国と

の「冷戦」状態が生まれ、第三次大戦の危険性が

(11)

世界をゆるがした。国内ではレヅド・パージがは

じAり、1950年には朝鮮戦争が論こった。

この事態に直面して宮原は、多くの知識人た ちとともに平和と民主主義を守る運動に加わ った。平和教育の確立を自らのとりくむべき課題 として位置づけ、圃「平和教育運動に没入するよう vakった」(1)のである。

 このことが宮原の理論の内容に大き左修正をせ まった。それを端的に示しているのが、1949年 秋に書かれた「平和教育委員会をつくろう」であ

る。この中で宮原は、次のようにのべている。

 「平和のための教育は、人間の尊さを知り、人  民の幸福をねがう心情につちかう教育であb、

 この人民の幸福の増進のために確実に行動しう  る科学的能力をきたえる教育である。基本的人  権の尊重、人民の安全と幸福のために事実をた  しかめ、事実の認識の上に立って不合理を排除  してゆく科学的k実践………この素地の培養の  うえにたって、はじめて平和についての学習が  活きてこよう。平和のための教育は、根本的に

眠主主義的左人間教育そのものにほかkらas」(2)

 ①教育目標への基本的人権の位置づけ  この文章を貫いているのは、 「人民の安全と幸 福」 「基本的人権の尊重」 「民主主義」である。

これらは、平和教育論より前の生産主義教育論に は積極的には位置づけられてい左い視点であった。

そして、この視点は、 「人民の幸福の増進のため に確実に行動しうる科学的能力をきたえる」とい

う、それ以前の生産主義教育論にはkかった教育 の目標を設定させた。これが宮原の教育論にとっ て非常に大き左転換であった*ことは、次の二つの ことからもあきらかであろう。ひとつは、後に宮 原がこの時期について次のように回想しているこ

とである。す左わちアメリヵの対日政策の変化の        (3)

左かで「二度の回心をせまられた日本国民」

      は、

「戦後味わい知った大切左もの=人権の意識にめ ざめ、自分たちをたて左澄そうと齢もう、そこか

ら教育あるいは教育の根底にあるものへとつきう こかされ」(4)たのだと言っていることである.こ こでいう二度目の「回心」とは、 「人権の意識に めざめ」たことであり宮原もまたそういう日本国 民のひとりであった、ということであろう。もう ひとつは、ちょうど同じ1949年に、ことさらに

「人民のためにという立場」をしっかりさせ左け れば「リアリティを科学的に把握する」ことがで き左いsと主張しつっ、戦前教科研ではそうした 立場が貫き哲かったとのべている(5)ことである。

・その後宮原がしばしば記しているようtZ.、(6)彼が教育

学に進むことになったきっかけは、一日中働きづくめで 働いている農業青年と労働をせずに旧制高校の生活を楽 しんでいた宮原の生活の対比に、彼が気づいたことにあ った・そして、肉体労働と精神労働の分裂を固定するに 役立つような教育ではなく、その分裂を克服するに役立つ 教育のあり方をもとめようとしたのだった。1930年に

19才の宮原は、「学生の左傾」の原因を、出身階層の 没落就職難、プルジ・ア文化の破産、「工場農村の無 産階級の革命的圧力」などに求め、プロレタリアの指導 のもとに学生大衆の要求をかかげつつ、労働者・農民の 援助隊となることが学生運動の任務だとのべていた。(7)

ここにみられるように、宮原の教育学志向には民主主義 的性格が色濃くあった。しかし、1940年代前半の生産 力理論への傾斜ま、働く国民大衆の側から発想する民主 主義的権利を重視しない観点を、宮原にもたらしたの ではないか。そして、敗戦後もしばらくは十分によみが えらず、ようやくそれがよみがえったのが、1949年の 平和教育へのとりくみのなかにおいてではな,かった のか。

 ②教育内容・方法における修正

 この教育目標の大修正は、教育内容・方法にも 大きft修正をもたらした。

 そのひとつは「戦争の惨禍」 「平和を維持する ための運動やその機構」 「人間の尊さ」 「基本的 人権の尊重」「人民の安全と幸福」これらのこと について、さまざまk事実や法則が教えられ左け ればkら左いとされたことである。このことは、

一19一

(12)

形式的には生産主義教育論における「社会」につ いてのミニマムという枠の中に入りうるものであ る。しかし、1949年以前の生産主義教育論va k一 いては、少k<とも「ミニマム」はこのようには 具体化されてい左かった。これはやはりあらたk 前進だといえよう。

 内容・方法レベルでのものひとつの大き左転換 は、認識発達va k・ける実践の位置づけの修正であ る。す左わち「知識や情報を平和のための行動に 役立ててゆく意欲と実力」を育て「人民の幸福の 増進のために確実に行動しうる科学的能力をきた える」ためには、 「基本的人権の尊重、人民の安 全と幸福のために事実を確かめ事実の認識の上に 立って不合理を排除してゆく科学的実践……この 素地の培養」が不可欠である、と宮原は強調して いるのである。

 すでにのべたように、生産主義教育論に澄いて は、認識発達にとっての実践の位置づけがきわめ て弱かった。それは、せいぜい、ある認識が「生 活のなかで経験される」ことによって追認され定 着するというていどのものであったQ対象をつくりかえ る実践があらたk認識を求めるという角度は、決定的に

弱かっだ。しかし、ここでの実践の位置づけは そうでは左い。「科学的実践……この素地の培養1 が、知識や情報を主体的にうけとめ、 「意欲や実 力」への転化を可能にするものとして位置づけら れているのである。

 もちろん、ここでまだ、「科学的実践」によっ て「知識や情報」が、どのように「意欲や実力」

へと転化するのか、その詳細があきらかにされて いるわけでは左い。しかし、転化の過程でのに澄 いて「科学的実践」の重要性に着目したことは、

       * きわめて大きk前進であった。

*この転換がたんなる思いつきではなく、理論の深部に おける確実な動きであったことは、1950年の「社会教

育本質論」における叙述からもあきらかであろう。彼は この中で青少年が自らをとりまく社会の悪に対して、「そ れぞれの発達と成熟に応じて」 「悪と意識的にたたかう」

ことの重要性を指摘。悪い社会と悪い学校との悪循環を どこで断ち切りうるのかと自問したのち次のようにのべ ている。

 「社会をよくする仕事にただちに青少年を参加せしめ  ることである。まじめな成人たちとともに青少年がそ  れぞれの発達と成熟に応じて社会改造の研究と実践に  参加することである。そういう体制をつくりだすたφ  に、学校・家庭・社会の三者が協力しなければならな  い。この協力のもとに、青少年自身悪として自覚し、

 悪と意識的にたたかうべきである。」(8)

 (2)49年転換の生産主義教育論への反作用  1949年の平和教育論における宮原の転換は、

生産主義教育論そのものの内部にも反作用をはじ めた。そして、そのことにょって、生産主義教育 論そのものが、49年段階のそれとは質的に異なる

ものとkった。

 まず、日本資本主義にたいする評価が徐々に変 更された。勤労人民の生活の犠牲のうえに独占資 本を復活させた傾斜生産方式によるく生産復興〉

への安易k評価は次第に後景へ退き、独占の復活 を決定づけた朝鮮特需を批判するように左った。

たとえば,「生産教育」(1951)や「産業と教育」

(1952)「生産教育の概念」(1952う「生産復興 と教育」(1952)kどに齢いて、「朝鮮戦争がはじ まって、特需景気がさわがれ、日本経済が平和的 建設の方向からもはや完全に外れたものに左って し注った」(9)と朝購需をはっきりと批半」してい る。宮原はまだ、人民的発想による経済計画を論 じているわけではft h。しかし、少一kくとも、独 占復活と軌を一一vaした〈生産復興〉を拒否してい ることはたしかである。

 第二に、教育目標としての「科学的生産人」に 齢ける民主主義的側面を強調した。

 彼は、まず敗戦後に勤労者の立場にたつ政党や

政府機関kどが出した経済政策には、 「生産教育

(13)

ののぞAしい体制」をみちびきだせるようカもの もあった瓜それを推進する政治勢力の弱さのた めに実現できkかったと、 「教育にたいする政治の 決定的意義」⑳に論及する。

  「政治の問題をぬきにして生産復興そのものの  問題を考えるごとはできず、ましてや生産復興  のための教育計画を考えることはできない……。

 たしかな教育活動をfoこなうことができない。」

 ついで民主的政治主体の育成の重要性について

のべるo

  「…それである から、われわれは憲法の保証す  る言論の自由と議会政治のもとに澄いて、その  ような政治勢力を国会のなかに地方議会のなか  に、そして民衆の生活のなかに育成するように        ⑪  手をとりあって努力しkければkらたい。」

 ここにはまだ、歴代内閣の経済計画にたいする 甘い評価がある。しかし《1940年代の生産主義教

育論が、民主主義的政治主体の問題をぬきにして いたのにたいして、ここでは政治主体とその育成 の問題が、不可欠の要素としてとりだされている。

 そして、必然的帰結として、生産主義教育論の 教育目標である「科学的生産人」の内包として、

民主主義者としての資質を強調するように左る。

 すでに見たように、 「生産主義教育論」におけ る「科学的生産人」の指標は、 「科学的素要」と

「共働的な思考と行動の方法」であった。ところ が「経済と教育」(1950)のkかでは、「自然 にたいする合目的的k働きかけの共働的活動」に 加えて、そのようk「共同的活動」が成立しう るよう左「社会的条件をつくりだすために有能に 行動すること」⑫が主張された。 「社会的条件を つくりだす」ということの内容について、この論 文は十分左説明をしていない。しかし、51年の

「日本社会の教育目標」では、・基本的人権や健康 が「生産主義教育」論の内部にはっきり位置づけ

られた。す左わち「 生産 という概念には、労 働・技術・生産組織の三者が内包され、この中概

念をめぐって、  基本的人権   科学   共働

腱康〃の四つの主要鋤念が措定される」°%.

のべているo

 さらに・翌52年の「産業と教育」では、それ までたんに「科学的生産人」といわれていた教育 目標は、 「人間尊重的で科学的な生産人として生 きる力をやしなう」ことにあるとされた。つまり、

「人間尊重的」という形容詞がつけられ「生きる 力」=実践力がおしだされているのである。

  「産業中心の一般教養のめざすところは、要す  るに単なるr手』だけの生産人ではkくて、人  間尊重的で科学的な生産人として生きる力をや  しなうことである。つねに民衆の幸福をもとめ、

 そうすることで自分自身の生き甲斐を感じ、共  通の目的のために他の人々と手をとりあい、自  己の個性を生かして誠実に努力する。しかも、

 日ごろ自分たちが織りこまれている人間関係の  kかにどのような一般的な法則がはたらいてlts  り、毎日毎日自分たちがつかう材料や道具や機  械のなかにどのような一般的k原理がひそんで  いるかを認識することができ、そのよう左認識

にもとついて合目的的に活動する。」a4  ここでは、自然法則や技術の問題は、社会関係

に従属するものとして、位置づけられている。同 じ「科学的生産人」という語が用いられながら、

内容的には、49年のものと異なった質をもつも のとなっている。

 第三に、教育目標の修正は、教育内容・方法上 の修正を伴っていた。

 宮原は「産業と教育」に澄いて、さきの「人間 尊重的で科学的な生産人として生きる力をやしな

う」という目的を実現するための各教科のあり方 kどについて多ぐの枚数を使ってのべている。

 この左かで注目すべきことのひとつは「産業に

ついての興味……にむかって子どもがいざ左われ

てゆくようft生活経験」を子どもたちの生活のk

かに組織することをさして.宮原が「方法上の一

一21一

(14)

       ⑮ つの重要問題」

        だと言っていることである。

 都会の子どもたちは生産の現場を日常生活のk かで見ることがほとんどkく.農村では眼の前の 農業労働のきびしさが、子どもたちの意識を生産 の外へはじきだす。だから「そもそも子どもが産 業について興味をいだくということがかんたんk ことでは左い」αしかし「主体的左学習意欲」は、

自分自身にとって意味のある生活経験を通じて生 まれる自発的左興味によってのみ生ずるのだから.

「そういう興味にむかって子どもがいざ左かれて ゆくような生活経験」を子どもの生活のうちに組 織し左ければ左ら左い。そして.そこに各教科内 容を接続していかなければkらkい。宮原はこの          ⑯ ようにのべている。

 すでにのべたように47〜49年段階の生産主義 教育論に澄いては、「生活経験」はそれによって、

認識が定着するものとして位置づけられていた。

しかし、ここでは、それによって、産業の現実へ の知的関心が生みだされるものとして.生産に対 する興味をよびおこすものとして、対象に働きか け、対象を変革し、新た左認識をよび澄こす活動

=実践として. 「生活経験」が位置づけられてい るのである。

 注目すべきことのもうひとつは、この「生活経 験」に接続される教科の内容である。宮原は、こ の「生活経験」の箇所では「人間の生活そのもの の再生産過程としての生産と消費という観点」か ら教科が接続されるべことを主張するにとどまっ ているoだ瓜次の項で、アメリカ・フロリダ州 のインダストリアル・アーツのプログラムにたい

して「生産技術が社会経済的諸関係からきりはk されている」、 「機械がそのもとに澄いて運転さ れる社会の法則の認識」を軽視していると強く批       ⑰ 判している。

       このことから、さきの「生活経験」

に接続しようとした教科内容には、 「社会経済的 諸関係」が含まnていたといってようだろう。

 (3)教育実践への接近による49年転換の定着  1950年代前半に齢ける、生産主義教育論内部

への、1949年転換の滲透は、宮原の具体的左教 育実践への接近と平行してすすめられたものだっ た。この時期に宮原は、学校内での教育実践だけ でk〈、PTAでの親たちの学習、働く青年たちの 学習へと広く眼をむけて、 「人間尊重的で科学的

左生産人として生きる力」、 「人民の幸福の増進 のために確実に行動しうる科学的能力」の内容と.

その形成されかたを具体的に探求しはじめた。

 具体的k教育実践についての、宮原の最初の論 評は、 「山びこ学校の精神的状況」(1951年6 月)⑱であると思われる。こOkかで宮原は、二 つの視点から『山びこ学校』の実践に注目してい

るo

 ひとつは、山元村の中学生たちが、現実の生活 の貧しさ、きびしさを正面から見すえ、「自分の 生活の左かに解決すべき問題を発見」し、解決の ために「課題の構成」を澄こ左っていることであ る。つまり「子どもが子ども自身の生き方を、子 どもなりに知恵をしぼって真剣に考え」 「現実に たいして……自分の立場をつくりだして」いるこ とが、社会に支配的左「自己喪失的傾向」と鋭く 対立している、というのである。

 もうひとつの着目点は、生活把握をめざす過程 に詮いてこそ、教科に澄いて学習したものが 必要とされ真に能力として獲得されている、と いうことである。つまり、自分の生活から「問題 を発見」し「課題の構成」に至る「子どもが子ど も自身で感じ、考え、いぶかり.探求している」

過程に澄いて、 「各教科科の学習成果が作文とい うものをとおして主体的に生かされ、総合的につ かわれている」というのである。

 このように『山びこ学校』に注目した宮原は.

「産業と教育」(1952)に齢いては、農事研究 会で学習と実践をくbかえしkがら成長している       ⑲

農業青年たちに注目した。

参照

関連したドキュメント

大学は職能人の育成と知の創成を責務とし ている。即ち,教育と研究が大学の両輪であ

仏像に対する知識は、これまでの学校教育では必

つの表が報告されているが︑その表題を示すと次のとおりである︒ 森秀雄 ︵北海道大学 ・当時︶によって発表されている ︒そこでは ︑五

ピアノの学習を取り入れる際に必ず提起される

人間は科学技術を発達させ、より大きな力を獲得してきました。しかし、現代の科学技術によっても、自然の世界は人間にとって未知なことが

わな等により捕獲した個体は、学術研究、展示、教育、その他公益上の必要があると認められ

を育成することを使命としており、その実現に向けて、すべての学生が卒業時に学部の区別なく共通に

を育成することを使命としており、その実現に向けて、すべての学生が卒業時に学部の区別なく共通に