軍港舞鶴の都市形成
その他のタイトル Modern urban formation of the millitary city Maizuru, Japan
著者 上野 裕
雑誌名 史泉
巻 123
ページ A1‑A19
発行年 2016‑01‑31
URL http://hdl.handle.net/10112/00023621
軍港舞鶴の都市形成
上 野 裕
1 は じ め に
本論のねらいは軍港都市である舞鶴(現在の舞鶴市東舞鶴地区)の都市形成について地理学的 な視点から検討を加え,近代都市の特徴の一端を明らかにすることである。近代都市とは,ここ では明治以降新たに建設された都市とし
(1),横浜などの開港都市,札幌など北海道の開拓都市,
八幡などの工業都市,そして呉などの軍港都市からなる。これらの都市はそれぞれ明確な目的を 持ち建設され,軍港都市の場合は国家主導のもとで海軍の拠点となる 4 つの鎮守府(横須賀,
呉,佐世保,舞鶴)の設置に伴って建設された都市である。また多くの近代都市において初期の 都市プランからなる格子状の街区形態が,ほとんど変わることなく今日の中心市街地を形成する という共通性がみられる。
戦前の軍隊,軍施設と地域社会との関わりを取り上げた研究は,陸軍軍都を対象とする研究が 先行してきたが
(2),近年ようやく軍港都市に関する研究も進展し,その成果である『軍港都市史 研究Ⅰ舞鶴編』(2010),『同Ⅱ景観編』(2012),『同Ⅲ呉編』(2014)が公刊された
(3)。さらに軍 港都市も含む『地域のなかの軍隊』全 9 巻(2015)の刊行は,軍隊と地域社会との関わり,地域 史の中の軍隊のあり様に関する研究の現段階での到達点を示す成果といえよう
(4)。
軍港都市は,近世の地域中心である城下町や街道沿いの宿場町に軍事拠点として建設された陸 軍軍都に対し,防御面からリアス式海岸線など山地形が迫る寒村に建設され,かつ海軍工廠とい う大規模な工業機能を持つというという点で立地環境が大きく異なる。そして新たな都市建設の 地域社会に与える影響は陸軍軍都の場合よりはるかに大きく,地域構造をドラスティックに変え ることから,軍港都市研究には地理学的な分析視点が極めて重要となる。
軍港都市を対象とした地理学的研究は,大きくは軍港都市における景観変遷と都市形成に関わ る分野に二分されよう。前者は,近代から現代に至る都市変遷を古地図,地形図,古写真等を活 用した平岡の佐世保の研究
(5)や花岡らによる 4 鎮守府の景観変遷についての研究があげられ る
(6)。これらは,当時秘密扱いされた軍港施設や海軍工廠に隣接する市街地を中心に,そこでの 土地所有,街路建設,埋立て,都市景観など軍港都市の実態とその変容を明らにしている。また 山田は横須賀と 3 都市(呉,佐世保,舞鶴)を比較しつつ,軍港時代の都市景観を中心に市域の 拡大,海軍助成金,民間産業の特徴を明らかにし,かつ戦後の海上自衛隊との関わりなど現在へ の継続性についても言及している
(7)。
後者については,筑波大グループが横須賀を事例に,市街地形成や埋立てが海軍主体で進めら れていったこと,さらに土地所有の変遷,遊興地の建設,関東大震災と復興などを海軍の動向と
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の関わりから検討し軍港都市形成の独自性を明らかにした
(8)。また遊興空間としての遊郭が市街 地の末端に位置することやその利用が軍人の階級によって異なることなどが,加藤によって指摘 されている
(9)。
このほか,軍港都市の人口増減や都市間関係について舞鶴を対象に検討がなされている。鎮守 府設置と市街地の形成により人口が急増したものの,軍縮条約による要港部格下げとともに減少 に転じるなど海軍の動向に人口変動が大きく影響を受けること,さらに職業構成では工業就業者 と公務自由業が多いことなどが山神によって再確認された
(10)。また飯塚は,新舞鶴町と中舞鶴 町が軍縮により人口減少や経済的打撃を受けたのに対し,舞鶴町は港湾利用の海軍による制約が 弱くなることで一般外国貨物の輸出入が認められ商港都市としての成長を始めるなど,海軍の動 向が近接する舞鶴の 3 町の都市変容や都市間関係に強く関わることを明らかにした
(11)。
このように,軍港都市の都市景観,都市形成のプロセスなど軍港都市の実態を解明する研究が 進められてきたが,短期間での人口急増や商工業の新たな立地に対応すべく緊急を要する都市建 設,とくに都市基盤整備に関わる研究は必ずしも十分とは言えない
(12)。しかも初期の都市建設 はその形態をほとんど変えることなく今日の中心市街地を形成していることも考慮すれば,この 都市建設とその背景の検討は現在の中心市街地の解明にもつながる。軍港都市の建設がどのよう に進められてきたのか,都市基盤整備としての都市計画の策定や道路,橋梁,鉄道,学校,住 宅,電気・ガス,病院,社会事業施設等々のインフラ整備に関する検討が軍港都市研究における 地理学の課題の一つとなろう。
本論では,鎮守府の置かれた舞鶴の戦前期を対象に都市基盤整備に着目し,近代都市としての 軍港都市の形成,発展の過程を明らかにするために,都市建設のベースとなる都市計画の策定,
とくに都市の骨格となる街区割りの形成過程と,都市構成の主要な要素である商業施設の立地展 開から都市化過程を検討していく。それと関連して軍港都市の地域の中心地としての性格にも言 及したい。
2 軍港都市舞鶴の概観と都市発展
(1)わが国の鎮守府の立地と舞鶴鎮守府建設
表 1 は舞鶴における鎮守府建設前後の動きと舞鶴に関連するか,あるいは比較しうる近代都市 建設を示したものである。この表と鎮守府建設に関わる詳細な記載からなる自治体史『舞鶴市 史』
(13)をもとに,戦前期における舞鶴の発展の推移について概観してみる。
明治政府は日本海軍の根拠地として艦隊の後方を統括する鎮守府を 4 箇所建設した。最初のそ
れは 1876(明治 9)年に日本の東海域と西海域それぞれの中心として横浜と長崎に決まったが,
西海鎮守府(長崎)は開設されず,東海鎮守府も 1884(明治 17)年に横浜から横須賀に移転し た。1886(明治 19)年には日本の沿岸・海面を 5 海軍区に分け,各海軍区に鎮守府を設置する ことになった。横須賀に加え,1889(明治 22)年に呉,佐世保,そして 1901(明治 34)年に舞 鶴が開設されたが,当初予定されていた室蘭開設は取りやめとなった(1903(明治 36)年)。大
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陸では 1905(明治 38)年旅順口に鎮守府が設置された(1914(大正 3)年廃止)。その他,鎮守 府の下位の海軍機関である要港部が竹敷(長崎県対馬),大湊(青森県),鎮海(朝鮮半島)など に置かれた。
こうした中で,舞鶴はロシアと対峙する日本海側の鎮守府として選定され,1886(明治 19)
年に設置の内定を得,翌年から用地買収の交渉,民家移転が開始された。しかし,当時の敵対国 が清国(中国)であることから九州の佐世保,瀬戸内海の呉の建設が優先され,また国家財政投 入の限界から舞鶴のそれは日清戦争後へと遅れることになった。軍港建設は内定を得てから 10 年後に始まるが,日清戦争の賠償金の投入,そして目前に迫るロシアとの戦いから鎮守府の関連 施設や海軍工廠などを短期間で建設し 1901(明治 34)年に開庁するに至った。舞鶴鎮守府は日 露戦争の拠点の一つとなり勝利に貢献するものの,日本海の制海権を握ってからはその重要性が
低くなり 1923(大正 12)年にはワシントン軍縮条約のもと要港部に格下げとなる。しかし,戦
時体制への突入とともに 1939(昭和 14)年に再び鎮守府に復活し終戦をむかえるまでその役割 表1 明治以降に建設された都市
全国 舞鶴 呉・佐世保 開港場 北海道 海外
1859(安政6) 横浜
1868(明治1) 神戸
1871(明治4) 札幌
1886(明治19) 鎮守府設置内定 鎮守府決定 1887(明治20) 用地買収開始
1888(明治21)東京市区改正条例 民家移転開始
1889(明治22) 鎮守府設置決定 鎮守府開庁 旭川
1892(明治25) 帯広
1894(明治27)日清戦争
1896(明治29) 軍港建設開始 1900(明治33) 新市街建設物制限規則 1901(明治34) 鎮守府開庁
1904(明治37)日露戦争
1905(明治38) (旅順口鎮守府1914廃止) 台北
1907(明治40) 羅南
1908(明治41) 長春,奉天
1910(明治43) 鎮海
1914(大正3)第一次大戦
1918(大正7)6大都市市区改正条例 1919(大正8)都市計画法
市街地建築物法 土地区画整理事業
1923(大正12)中小都市・都市計画法 要港部に格下げ 1926(大正15)中小都市・市街地建築物法
1939(昭和14) 鎮守府復活 扶余
(石田頼房『日本近現代都市計画の展開』自治体研究社2004年 等より作成)
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を果たすこととなる。
明治後半から大正そして昭和の戦前期までのほぼ 40 年間は,軍港都市としての歴史であり常 に日本と大陸との緊張関係の中でその重要性を変動させてきた。
(2)鎮守府の設置による農村地域の人口と行政域の変容
鎮守府が設置された舞鶴湾の東湾域(現,東港)は,古成層山地が断層によって生じた広い湾 内(25.3 km
2)と深い水深(10〜20 m)をもつリアス式海岸で軍港建設には適した地形環境にあ
った(図 1)。京都府北部の中心都市である旧城下町の舞鶴町が位置する西湾域(現,西港)に
対して,この東湾域は加佐郡の余内村,倉梯村,志楽村からなる農漁村の地域であった。鎮守府 と海軍工廠が余内村から倉梯村沿岸に,そしてそれに伴う市街地が余内村の浜地区を中心に建設 されて,この寒村地域は新たな都市空間に生まれ変わり短期間で以下のような人口急増と行政地 域の変化をみることになる(図 2)。
鎮守府に隣接する余部上地区・余部下地区・長浜地区の人口は 1889(明治 22)年に,それぞ れ 212 人(47 戸),275 人(54 戸),160 人(25 戸)で,工事が始まった 1899(明治 32)年には 217 人(58 戸),488 人(130 戸),147 人(29 戸)へと先ず余部下地区で著しい人口増加をみた。
その後,非農業人口が増えつつある余部上地区・余部下地区,長浜地区に和田地区を加えた 4 地 区は市街地化計画区域となり,1902(明治 35)年には余内村から分離独立して余部町が誕生し た。その余部町の人口は余内村の 2,146 人に対して 3,102 人で,さらに 1905(明治 38)年には 7,274 人(1,967 戸),翌年には 9,827(2,498 戸)人へと急増し,1919(大正 8)年には中舞鶴町 と改称して軍港とともに歩む町となった。
他方,新市街地が建設された倉梯村の浜地区,北吸地区,志楽村の市場地区はいずれも北国街 道沿いの集落で,市場地区にわずかに商業施設がみられたが,そのほかは農漁村地域で 1887
(明治 20)年にはそれぞれ 104 戸,47 戸,53 戸にすぎなかった。新市街地の大半を占める倉梯
村の人口は 1896(明治 29)年の 3,136 人から鎮守府開庁の 1901(明治 34)年には 4,218 人と増 加をみた。余部町にやや遅れて 1906(明治 39)年に倉梯村の浜地区,北吸地区,溝尻地区の全 域および森地区,行永地区それぞれの一部と志楽村の市場地区が合併し人口 7,214 人からなる新 舞鶴町が成立し
(14),1908(明治 41)年には 9,430 人(2,149 戸)を数えた。こうした旧村域の一 部の地区が都市的な地域となり分離して新たな行政域を形成することで,旧村が二分される形で 行政体の改変が進むこととなった。
以上にように鎮守府の立地は人口急増とともに行政域の再編を進め,全く新しい地域をつくり 出していった。それは後に述べるように,海軍の施設拡大や要請のもとで進められたという側面 が強い。また,そうした要請の下で土地提供などの負担を強いられた村では,新たに形成された 都市地域がその負担に対する恩恵を受けるという不満も生まれた
(15)。短期間で農村地域の中に 都市地域が生まれ,コミュニティ形成など地域を支える基盤がないままに,まさに他律的な地 域,都市づくりが進行したといえよう。
その後,世界的な軍縮化のもとで要港部に格下げされ(1923(大正 12)年),新舞鶴町と中舞
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舞 鶴 湾 舞 鶴 湾
東湾域 東湾域
鶴町の人口が減少に転ずるなど人口変動の大きいことや流入人口の多くが近隣府県からであるこ と,そして 1930 年代以降は再び増加傾向を示し,人口の増減が流出入のみならず自然増加に強
図1 鎮守府設置前後の東舞鶴・5万分1の地形図(○は鎮守府)
1893(明治26)年頃(上図)と1921(大正10)年頃(下図)の5万分の1地形図
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舞鶴町(1889(明治 22)年)
鎮守府開庁(1901(明治 34)年)
余部町(1902(明治 35)年)
倉梯村・志楽村・新舞鶴町(1906(明治 39)年)
倉梯村・与保呂村・志楽村(1938(昭和 13)年)
③東大浦村・西大浦村・朝来村(1942(昭和 17)年)
②東舞鶴市(1938(昭和 13)年)
④舞鶴市(1943(昭和 18)年)
中舞鶴町(1919(大正 8)年)
舞鶴市(1938(昭和 13)年)
①高野村・中筋村・池内村・四所村・余内村(1936(昭和 11)年)
舞鶴市(1943 年)
舞鶴町(1889 年)→舞鶴市(1938 年)
新舞鶴町(1906 年)→東舞鶴市(1938 年)
余部町(1902 年)→中舞鶴町(1919 年)
④
③
②
① 二〇〇〇︵平成一二︶
一九九〇︵平成二︶
一九八〇︵昭和五五︶
一九七〇︵昭和四五︶
一九六〇︵昭和三五︶
一九五〇︵昭和二五︶
一九四〇︵昭和一五︶
一九三〇︵昭和五︶
一九二〇︵大正九︶
一九一〇︵明治四三︶
一九〇〇︵明治三三︶
一八九〇︵明治二三︶
く影響されるようになったことが明らかにされている
(16)。こうした海軍の動向に強く影響を受 ける人口変動のなかで,自然増加が顕在化してきたのは,この間に整備されていった都市基盤さ らには商港,貿易港としての新たな経済機能が都市としての自立性を高めていったことと対応す る。またこの要港部時代には軍港機能に加えて新たな都市発展をめざして博覧会開催や新航行路 開設
(17)などの取り組みが積極的に行われるようになった。これらから初期の軍港依存の他律的 な都市から,さらなる都市基盤の整備と複合的都市の形成によって自立的な都市を指向する動き がみられるようになったといえよう。
図2 町村の人口の推移と編入・合併の変遷
『舞鶴市史』『京都府市町村合併史』『国勢調査』より作成
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3 新市街地の建設計画と都市形成
(1)新市街地の建設プロセス
上述したように軍港都市は,横浜などの居留地や北海道開拓都市と同様に明確な目的をもち,
その多くは都市的な基盤を持たない地域に国家主導で建設されていった。軍事機能・施設の拡大 や縮小が,人口増減や都市域の広狭に大きな影響を及ぼすことになる。ここでは,軍港とともに 建設された新たな市街地が今日の東舞鶴地区の中心市街地を形成するという本論の問題意識を踏 まえて,まず新市街地の計画作成者,計画の内容とその背景を考えてみたい。
①市街地建設の計画立案・実施プロセス
新市街地の建設のプロセスは,下記に示すように,海軍決定事項として臨時海軍建築部長の指 導下のもと,京都府が計画を立案し海軍の認可を得て実施していくことになる。地元との交渉も 京都府官吏が進めるが,その間の進捗状況については頻繁に海軍に報告されるなど東京と直接結 びつく。すなわち臨時海軍建築部長→京都府→倉梯村,余内村という階層的な指令系統のもとで 建設されていくのである。
この市街地の計画,建設は,京都府に設置された市街地調査委員会(1899(明治 32)年)の 主導のもとで進められていくことになる。委員会は京都府の内務部長,技師 1 名,地理係 2 名,
第一課長,警察衛生課員の 6 名からなり,計画立案にあたっては現地の実情把握を重視し,軍港 建設地の周辺を詳しく調査し報告書をまとめている(1899(明治 22)年)(18)。その内容を要約す れば次のようである。
余部村の上地区と下地区にはすでに軍港建設の工事関係者が仮住まいし,鎮守府西門近傍には 不規則に店舗が立地している。早期の計画的な市街地の建設が必要であるとしている。長浜地区 は居住地として開削することが可能である。カツラ谷地区は余部と舞鶴町を結ぶ通路として海軍 の要地である。北吸地区は東西の市街を結ぶ交通のために開削が必要である。面積が狭隘で高低 差が甚だしい。浜,溝尻地区は,土地は広く開けている。福井,宮津に達する県道が通っている こともあり,商業地として最も適している。低湿なため埋立てが必要となる。溝渠の疎通,祖母 谷川,与保呂川,寺川の三河川の拡張・改修の際の排土を利用し新市街を建設することが可能と なる。市場地区は交通の要地,志楽川の河口は船の出入りが絶えないので,海運に良い。
このように軍港との位置関係,地形的な特徴を把握し,新市街地を浜地区に建設すること,そ のためには河川改修の必要性が明確に示された。そして建設地域の決定とともに市街地の基盤整 備の基本をなす都市計画が立案されることになる。
②呉をモデルとした格子状街区からなる都市計画とその系譜
計画立案にあたっても委員会メンバーは軍港都市建設が先行する呉,佐世保に出向き,それら を参照した結果,「地割は呉軍港市街地新設當時ノ方法ニ依準シ市街新設区域内官民有地共各筆 ヲー等ト仮定シ……」(『舞鶴軍港並新市街一件(明治 32-38 年)』京都府総合資料館蔵)とある ように,とくに呉をモデルに立案建設されていくことになる。呉の都市計画は図 3 に示すように
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格子状の街区プランからなり,それを踏襲する形となっている(図 4)。規模の差はあれ,表 1 に示すように都市計画法制定(1919(大正 8)年)以前に建設された居留地や北海道開拓都市の 都市プランとも共通する。
図3 呉市街地計画図
(『舞鶴軍港並新市街一件(明治32-38年)』京都府総合資料館蔵による)
図4 舞鶴の新市街地計画
余部鎮守府附近新市街地計画平面図(『舞鶴市史 通史編(中)』1978年の添付資料)に通り 名,河川名を記入
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呉の格子状の街区プランはどのような経緯で策定されたのかを探れば,「呉ノ市街ハ曽テ東京 ニ於テ計画セル如ク拾五間ニ拾間幅の道路ヲ設クル事ニ決シ巳ニ標木ヲ植ヘ監獄署敷地切取ノ不 用土ヲ以テ海岸ヨリ第二ノ道路拾五間ノ内先以テ四間埋築ニ着手セリ市街敷地ノ内先般御用地ト シテ買上再可掛下見込ノ分埋築費用ノ目途モ庄山田宮原警固屋吉浦四ヶ村ノ併合土工會ニテ定メ タルヨシ」(『呉佐世保両鎮守府設立書(明治 19-22 年)』防衛庁図書館蔵)とあり,東京の海軍 建築部(呉鎮守府建築委員会)あるいは当時の築港建設計画などを作成していた内務省がそれに あたったともの推察される。
こうした格子状の街区プランは,新開地において計測,分譲,将来の市街地拡大という点から も有効な土地区画で,この時期に新たに建設された都市を貫く計画原理ともいえよう。しかし,
このプランが誰によって考えられたのか,あるいは持ち込まれたのかについては十分な理解は得 られていない。居留地と北海道開拓都市についての先行研究では次のように述べられている
(19)。
横浜は 1859(安政 6)年に幕府によって建設され,1866(慶応 2)年の大火後,イギリス人プ
ラントンが現在の街区に改造した。神戸は 1868(明治 1)年に最初からイギリス人ハートの格子 状の街区プランのもとで建設され,公園・遊園地,下水道の設置,生田川付け替えなどが行われ た。
札幌の場合は 1869(明治 2)年にお雇い外国人ケプロンの提言を参考に,開拓使(旧佐賀藩士
・島判官,岩村判官)が区画設定(都市計画)を策定,実施した。それは創成川を基軸とする東 西 4 街区,南北 6 街区の格子状の街区プランで,一街区が 60 間(108 m)四方,街路幅が 11 間
(20 m),6 間(11 m)からなる。こうした街区割りはアメリカの植民都市と共通し,アメリカの 開拓をモデルにした開拓使の政策と一致するとされている。しかし,最初の札幌の計画原案は日 本人のしかも武士であったことから,この時代の計画策定の基準は城下町にあったと考えるのが 妥当であろう。この点について,『札幌市史』(1991 年)が興味深い説を展開している。札幌本 府の町区画は,江戸などの正方形や長方形を積み重ねた城下町の形態を,すなわち秀吉によって 改造された京都の町割りを引き継ぐ街区プランを基本に策定,建設されたという考え方であ る
(20)。
都市計画法制定以前に建設された軍港都市も含めた近代都市は,いずれも格子状の街区形態か らなるが,その骨子はここでも近世の城下町にあると考えられ,その起源は平安京に天正地割を 加え近世城下町の原型を造った秀吉の時代に遡るともいえよう。他方で神戸や横浜などの居留地 建設の土台をつくったお雇外国人をはじめ海外都市計画の影響も考慮する必要があろう。
③市街地の建設プロセス
都市計画は調査委員会によって進められるが,地元住民の側にも,例えば倉梯村の臨時土木委 員会(18 名)のような組合がつくられ,調査委員会の要請を受ける組織として機能することと なる。この中で最も重視されたのが,潰地寄付という新市街地建設に必要な土地を地主に提供さ せることにあった。当時の金額で約 40 万円に相当するものであった(筆数 1,731,面積 90,480 坪(29.8 万 m2))。日清戦争の賠償金により総工費 32.6 万円の 3 分の 2 が国の補助であったが,
その他街路や橋梁建設にも 20 万円以上が地元負担となった。さらに新市街の建設にあたっては
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祖母 谷川 祖母谷川
新与 保呂
川 新与保呂川
寺川 寺川 旧与
保呂 川 旧与保呂川
当該の字単位での共同事業とし,その諸準備に要する費用は全額村負担とされた。また計画街路 変更に関する地元の要望は聞き入れることなく建設されていった
(21)。
このように地元民に大きな負担を強いた市街地はどのように建設されていったのかをみていく と次のようである。
基本計画の策定は 1898(明治 31)年の海軍建築部から京都府に提示された 6 項目を骨子に行 われた(資料 1)。この計画の根幹をなすのは,呉や佐世保と同様に軍港に通じる主要街路の開 削と軍港に注ぐ河川の付け替えと改修であった。街路については,軍港から市街地を通り北国街 道につながる東大門通と山地で隔てられた舞鶴町とを結ぶための隧道建設がまず優先的に建設さ れた。都市計画法以前でもあったので,街路幅員は国道規定に準拠し,8 間(14 m),10 間(18
資料1 道路新設,河川改修の基本計画
(臨時海軍建築部長から京都府知事への回答書(明治31年2月10日))
一 市街設計道路ノ竣成ハ最モ急速ナルヲ要ス特ニ道幅十間ノ分ハ明治三十三年度ヲ限リ竣成セシメ ラレタシ
二 余内村余部下ノ鎮守府表門ヨリ長浜及和田方面ニ通スル道路幅ハ凡ソ五百米突間ヲ十間トシ夫レ ヨリ和田ニ達スル間ニ改メタキコト
三 鎮守府用地境界標海第十三号標ヨリ海第十二号ニ至ル間鎮守府用地ニ接スル道路幅ハ十二間ニ改 メラレタキコト
四 余内村余部上及下ノ川並溝ノ川床ハ別紙ノ通リ改メラレタキコト
五 市街地ノ下水溝渠ハ長浜沿岸ヲ除クノ外軍港第一区内ニ流出セサル様計画スラレタキコト 六 市街地溝渠ハ暗渠(陶管ハ煉瓦造)又ハ蓋渠(煉瓦造又は石造)トナシ若シ側壁ヲ石垣トナスコ
トハ其間隙ニ漆喰或ハセメントヲ填塞シ底ト同様汚水ノ浸透ヲ防クコトニ定メラレタキコト 溝渠ノ位置及吐口等ハ衛生上至大ノ関係アルヲ以テ設計ノ時々協議相成度コト
(舞鶴市『舞鶴市史通史編(中)』1978年.596頁による)
図5 河川改修計画図
(『舞鶴軍港並新市街一件(明治32-38年)』京都府総合資料館蔵による)
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m),12 間(22 m)からなり,主要道は 1901(明治 34)年の鎮守府開庁までに開通した
(22)。そ の際,舞鶴から福井を経て東京に至るルートを国道とするなど中央との結びつきを重視した街路 建設であった。
河川改修について図 5 に示すが,この図は,新市街地建設に際して地元の倉梯村が出入りの多 い海岸線の埋立てと河川の活用により商港化を希望し,1899(明治 32)年に作製されたもので ある。具体的には与保呂川と西を流れる寺川(図中の右端)の間の海岸を埋立て幅 4 間(7 m)
資料2 舞鶴軍港附近新市街地建設物制限規則
(京都府令第27号 明治33年3月26日公布)
第一条 新市街ハ加佐郡余内倉梯志楽ノ三ケ村地内ヲ区域トシ其経界及道路下水等ハ総テ別紙図面ニ依ル モノトス
第二条 前条ニ区域ヲ分テ甲乙ノ二区トシ点線内を甲区トシ点線ヲ距ル五町以内ノ部分ヲ乙区トス 第三条 本則図面以外ニ道路下水を築造セントスルモノハ地図及仕様書ヲ添付シ当局ヘ願出テ許可請フヘ
シ但該道路ノ幅員ハ十二尺以上トス且民有地第一種ノ私設道路ト雖トモ其両端ハ之レヲ街路ニ沿 ハシメ幅員ハ六尺以上トス
第四条 住家其他ノ建物ヲ建築セントスルモノハ建物ノ種類ヲ明記シ敷地及建物ノ図面ヲ添ヘ所轄警察署 ヘ届出実地検査ヲ受クヘシ但認可ヲ得ルニアラサレハ建築ニ着手スルヲ得ス井戸下水(宅地内)
モ本条ニ準拠スヘシ
第五条 建築物ハ海面満潮ヨリ四尺以上ノ他科サヲ保ツ地盤ニアラサレハ建築スルヲ得ス地盤の高低ハ当 庁所定ノ測点ヲ標準トスヘシ
第六条 建築物ノ屋根ハ必ス不燃質物ヲ用ヒ家屋内床板ノ下端ハ地盤ヲ距ル一尺八寸以上ト為スヘシ 道路ニ沿ヘル建家ノ軒檐ハ其下端地盤ヲ距ル八尺以上ニ建設スヘシ
厠窩ハ瓷衣ヲ有スル陶磁器を用ヒ其周囲ノ表面ハ厚サ五寸以上ノ漆喰ヲ以テ漏斗状ニ造成シ斜ニ 厠窩ニ達スルノ構造ト為スヘシ
乙区内ハ実地ハ景状ニヨリ所轄警察署ニ届出認可ヲ得タルトキハ前各項ノ制限ニ依ラサレルコト ヲ得
第七条 厠圊及外面ヘ表出スル汚水放流口ハ道路ニ面シ設クヘカラス
第八条 井戸ハ自他ノ便所ヲ距ルコト一寸以上ニシテ井底ハ砂又ハ小石ヲ厚サ一寸以上敷キ井側ハ石,練 瓦或ハ漆喰ヲ用ヒ継キ目ニ「セメント」漆喰又ハ普通漆喰ヲ以テ填充シ汚水ノ浸透ヲ防クヘシ 地平ニハ高サ三寸以上アル石ノ井筒台を用ヒ井壁トノ間ヲ普通漆喰又ハ「セメント」漆喰等ヲ以 テ連結スヘシ
第九条 宅地内下水ハ石,煉瓦陶管又ハ厚サ六寸以上ノ漆喰ヲ以テシ継キ目ハ「セメント」漆喰又ハ普通 漆喰ヲ用ヒ淤水ノ地中ニ滲漏セサル様構造スヘシ
乙区ハ所轄警察署ニ届出認可ヲ得タルトキハ本項ノ制限ニ依ラサレルコトヲ得 第十条 塵芥漏ハ直ニ運搬シ得ヘキ受器ヲ用ユヘシ
第十一条 前数条ニ掲クル建造物及井戸下水等ノ落成シタルトキハ所轄警察署ノ検査ヲ受ケ其認可ヲ得ル ニアラサレハ使用スルコトヲ得ス
第十二条 落成検査ノ際其構造本則ニ牴触スルモノト認メタルトキハ当該官吏ハ期限ヲ定メ全部若シクハ 一部ノ改造ヲ命スルコトアルヘシ改造竣成ノ上ハ再検査ヲ受クルモノトス
第十三条 本則ニ違背シ工事ヲ起シタルトキハ随時改築修理若クハ撤却ヲスルコトアルヘシ
第十四条 本則に違背シタルモノハ拾銭以上壱円九拾五銭以下ノ科料ニ処シ又ハ一日以上十日以下ノ勾留 ニ処ス
第十五条 本則ハ明治三十三年四月一日ヨリ施行ス
第十六条 本則施行以前ノ建設物ニシテ本則に牴触スルモノハ本則施行ノ日ヨリ五ケ年以内ニ改築又ハ撤 却スヘシ
(舞鶴市『舞鶴市史通史編(中)』1978年.628〜630頁による)
―11 ―
の道路を建設し,さらに寺川河口を 8 間(14 m)広げその両岸に 5 間(9 m)幅の街路を設け荷 揚げ場とする計画案であった。しかし,与保呂川から西方一帯は軍港第一地区に指定され,京都 府(内務部地理係)によって,街路,埋立て,海岸壁工事の新設,改修計画変更などは,すべて 軍事上の必要に応じてなされるべきとして,改めて地元の計画案が否定された
(23)。最終的には,
与保呂川が図中の中央を流れる河川で堆積作用の盛んなため,西に位置する軍港機能の支障とな らないように,新たに直線化されることとなった。
市街地建設は 1900(明治 33)年に始まるが,それ以前に軍港建設の労働者が集まりスプロー ル的に家屋が建設されていった。これに対して,取り急ぎ「市街地予定線内ノ家屋仮設の禁止の 論告」が出され
(24),次いで 1900(明治 33)年に「舞鶴軍港附近新市街地建設物制限規則」が京 都府知事によって公布され(資料 2),以後この規則のもとで市街地化が進むこととなる。この 16 項目もほぼすべて呉の規則に準じている。道路,下水,住宅,地盤,屋根,井戸,ごみ等に ついて規定し,それぞれ届け出,願い出て認可を受けるなど,家屋建設や立替えにはかなり厳し い条件となった。また軍港にとって最も留意すべき火災に対する防備として建物の不燃化を義務 づける「要塞地帯法」(1899(明治 32)年)も導入された。こうした規則により新規流入者の家 屋建設は難しくなったが,京都府はそれを遂行するために東京,大阪,兵庫県等 8 府県知事およ び京都市長に対して,新市街地の家屋新築事業への参入を奨励する照会状を送る
(25)などの手立 てを講じた。しかしこれら厳しい規則は将来を見据えた街づくりの基礎となったことは間違いな かろう。この様子は写真 1 に示す整然と建設された家並からもうかがえる。
このほか,市街地化について二つ補足しておきたい。新市街地にいち早く立地したのが遊郭で ある。1900(明治 33)年に申請されたが,その立地場所をめぐり施行者と京都府との交渉のも とで市街地東縁の竜宮新地で 2 年後に開業することになり,多くの都市と同様に市街地縁辺部で の立地となった。これに少し遅れて 1905(明治 38)年には軍港のある余部町カツラ地区にも遊
写真1 大正期の新舞鶴町の都市景観
(山本三生『日本地理大系 近畿篇』1929年.106頁による)
―12 ―
郭が建設された
(26)。市街地化とともに商業施設も集積し,すでに西隣の城下町起源の舞鶴町も 合わせると,この地方の 3 つの中心地(舞鶴町,軍港の中舞鶴町,新市街地の新舞鶴町)にはそ れぞれ独立した遊郭が立地することになる。もう一つは新市街地の骨格をなす格子状に建設され た街路の名称である。海軍の町ということで東西の通りに富士通,敷島通などの戦艦や巡洋艦の 名が附され,南北の通りは西から一条通,二条通と京都ゆかりの名称となっている
(27)。この市 街地建設が実質的には京都府の下でおこなわれたことの反映ともいえよう。
(2)都市形成と地域中心
①店舗の立地と商業地の形成
都市を構成する最も重要な要素である商業地の形成から都市発展の過程をみていこう。鎮守府 の立地以前は上述した市場地区が街道筋にあたり商業活動の中心をなしていた。新市街地におけ る商業地の起源は,軍港の東の入り口にあたる北吸地区での宿泊所や店舗の立地からはじまり,
次第に軍港に至るメインストリートたる東西に延びる東大門通(現在国道 27 号線)に店舗の集 積が進み,一本南の八嶋通にも立地がみられる。さらに京都と舞鶴を結ぶ阪鶴鉄道の駅開設
(1904(明治 37)年)とともに駅前の南北路である三条通も商業地として新市街地のもう一つの 核をなすことになる
(28)。城下町起源の都市でみられる立地関係によく似た商業地構造が形成さ れていった。
そのことを 1925(大正 14)年発行の『舞鶴商工一覧』を資料に検討してみよう(表 2)。大正 末の店舗の業種構成は,「食料品」,「物品販売」(食料品以外の商品販売),「サービス業」とも東 大門通と三条通に多いが,とくに「物品販売」は両通りの店舗が全体の半分以上を占める。「食 料品」は最寄品として「物品販売」よりは分散傾向にある。「サービス業」の店舗が「食料品」,
「物品販売」よりは少ないが,「海軍納品商」という専門店が 29 も存在する。加えて「食料品」
と「物品販売」の中にも「海軍納品店」がそれぞれ 10,13 店舗含まれ軍港都市の性格を反映し ている。海軍施設の中にはすでに商業機能も備えているが
(29),それでも軍港都市の商業地形成 には海軍の需要に対応すべく店舗の存在が少なからず影響しているといえよう。また『舞鶴商工 一覧』に掲載されている「大阪振替」というのは本社,本店などが大阪にあるということで,近 隣の大都市からの立地を示す例である。京都市の場合は同じ京都府なので記載されていない。こ うした動きにあわせ,呉,佐世保そして近畿圏を中心に全国から舞鶴に新天地を求め人々が集ま るが,商売の失敗などで舞鶴を逃げ出すものも少なくなかったという,当時の京都日出新聞の記 事などから商売に関わる人々の流動が大きかったことが指摘されている
(30)。このことは新開地 における商業地形成の初期段階の特徴といえよう。
図 6 はすでに要港部に格下げとなった 1933(昭和 8)年の店舗の立地状況を示し,東大門通と 三条通への店舗集積が明確になったことがわかる。そして商業機能以外にも公的機関や旅館業さ らに映画館など娯楽施設が立地し一定の中心都市としての機能を備えてきたといえよう。逆に古 い市場地区の衰退,海軍工作部(鎮守府時代は工廠)の従業員の町となった余部地区でも商業集 積が停滞していった。
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表2 大正末期における業種別店舗数(『舞鶴商工一覧』1925年から作成)
店舗数 大門通 三条通 八嶋通 海軍納品店 大阪振替
糧品 菓子商 31 10 8 3
和洋酒類 26 4 4 3 1 2
米・雑穀商 24 1 1 1 4
青物乾物商 17 4 3 2 1
煙草商 13 2 3
問屋仲立業 8 1 4 3
醤油 7 2
食糧品販売 7 4 2 5
鮮魚商 6 2 1 1 1
牛豚鶏肉類 6 1 2 3 2 1
茶販売 5 2 2 1
海産物商 3 1 1
餅販売 3 2
砂糖メリケン販売 2 1 1 2
計 158 36 31 12 10 16
物品販売 雑貨・小間物商 24 5 10 4 3
呉服,太物,洋反物商 17 6 3 2 3
材木商 14 4 3
下駄販売 11 5 4
薪炭販売業 10 2 1 1 2
洋服類 10 2 4 2
金物荒物商 10 3 3 1 2
薬商 10 4 3 1 7
畳業 6 1 2 1
靴鞄商 5 4
紙商 5 3 2 2 2
書籍文具類 5 1 3 2
古物商 5 1
陶器商 4 1 2 2
時計類 4 4 1 1
建具商 4 2
自転車販売 3 1 1 1
綿糸類 2 1 1
硝子商 2 2 1
石炭商 2
雑之部 19 3 4 3 1 4
計 172 53 42 14 13 28
サービス業 請負業 20 2 1
金銭貸付業 18 2 2 2
飲食店 14 3 3 2 1
代理業 13 2 5 2 2
料理旅館 11 2 4
運送回漕業 7 5 3
写真業 5 1
料理仕出し 5 1
印刷業 3 1 1
周旋業 2
海軍納品商 29 6 3 5
計 127 18 22 10 11
製造業 製造業 32 6 1 2 1
雑 之 部(19) 鶏 卵 問 屋(1),楽 器(1),芋 問 屋(1),漆 器・煙 草(1),石 鹸・燐 寸(1),竹・石 材(1),氷
(1), 蒲鉾(1),石材(1),有価証券販売(1),牛乳(1),ミシン機械(1),表具(1),佛具(4)
請負業(20) 建築(7),建築・土木(5),鉄工(1),塗具(1),皆(3),製材(1),自転車(1),洗濯(1)
製造業(32) 清酒(3),醤油(1),ゴム(1),足袋(1),麵包(1),鉄工(3),飴(1),下駄(1),サイダー・ラ ムネ(2),傘(2),織物(2),帆布(1),瓦(1),車(1),運道具(1),麵類(1),製材(1),曲木 椅子(1),(1),製綿(1),農(1),金物(2),傘看板(1),籾摺機(1)( )内は店舗数
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(その他は各種の店舗、
医院など)
海軍関係の施設
(会館、組合など)
公共施設
(役場、学校など)
料理旅館 映画館
図6 昭和初期の都市的施設の立地
(大日本職業別明細図・京都(1933(昭和8)年に凡例を加筆)
上段が流出人口と主な流出先,「舞」「中」「新」は舞鶴町,中舞鶴町,新舞鶴町を示す。
下段が流入人口(斜字体),数値の単位は人。
実線の矢印は第1位の流出先が舞鶴町,破線の矢印は第1位の流出先が中舞鶴町を示す。
図7 昭和初期の通勤・通学流動
(1930年国勢調査より作成)
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②通勤・通学からみた地域中心
図 7 は 1930(昭和 5)年の国勢調査で最初に実施された通勤・通学移動の調査結果を図化した
ものである。これにより舞鶴の 3 町(舞鶴町,中舞鶴町,新舞鶴町)とその周辺地域をみた場 合,新舞鶴町の都市としての性格,位置づけが明らかとなる。1930(昭和 5)年は鎮守府開庁か ら 30 年が経過し,かつ軍港はすでに要港部に引き下げられた時代である。上述のように商業集 積などから地域中心の役割を担う都市に成長しつつあるとみられたが,この調査結果は新たな視 点を提示してくれる。
舞鶴の 3 町とその周辺地域の通勤通学流動は,大きく舞鶴町を中心とする動きと中舞鶴町を中 心とする動きとに大別される。前者は城下町起源の近世以来の地域中心がそのまま継承され,後 者は軍港,海軍工作部(旧工廠)の立地による軍関係,工場労働者からなる人口流動とみてとれ る。流出入人口数をみると,中舞鶴町は 2,504 人の流入で舞鶴町の 990 人,新舞鶴町の 604 人を 圧倒し,この地域における軍港,海軍工作部の影響力の大きさを確認することができるが,軍港 の盛衰により大きく変動する可能性をもつ人口流動でもある。これに対して,新市街地に相当す る新舞鶴町の流出人口は 1,812 人と最大で,そのうち 1,310 人が中舞鶴町に流出しているので,
まさに軍港の郊外住宅地域という性格をもつ。また,新舞鶴町の東に位置する朝来村,志楽村,
倉梯村,与保呂村の 4 村の第 1 位の流出先は中舞鶴町,第 2 位のそれが新舞鶴町となっている。
こうしたことから中舞鶴町と新舞鶴町および周辺 4 村は一体化した一つの地域としてとらえら れ,中舞鶴町が主に海軍の工業機能を,新舞鶴町が住居,商業機能をそれぞれ担う地区と理解さ れる。要港部の時代に入っても,この工業機能の盛衰が住居,商業機能にも強く影響を及ぼす,
海軍に大きく依存する地域であるといえよう。このため,地元経済に深刻な打撃を与えた鎮守府 の閉庁(1923(大正 12)年)に対して,対外貿易に活路を見出す方向の模索(31)とともに,京都 府会により鎮守府復活の意見書が提出されることとなった
(32)。こうしてみれば,新舞鶴町は戦 前の鎮守府,要港部時代を通して商業機能を集積させてきたが,就業地として周辺地域から人々 を呼び込む強い中心性をもつには至っていないということになろう。
4 小 結
本論では,近代都市としての軍港都市がどのように形成されてきたのか,また同時にその解明 が現在の中心市街地形成の理解にもつながるという問題意識から,1901(明治 27)年鎮守府の 置かれた舞鶴の都市計画の策定と実施過程および実際の市街地化について検討した。その結果を 要約すると以下のようになる。
軍港都市の建設では,海軍臨時建設部→京都府→地元という階層的な指令系統のもとに,京都 府が地形環境に対応した施設配置などの計画と実施の中心的役割を担った。そして地主に対して 潰地寄付や地元民の労働力提供など膨大な負担を地元に強いての建設であった。加えて,軍港建 設による都市地域の創出は,従来の農村地域のコミュニティを再編させることになった。
新たな市街地の形成は,先行する呉の都市計画に準拠して長方形からなる格子状の街区プラン
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のもとで進められ,この時代に建設された近代都市に共通する市街地整備がなされた。これらの 都市建設は都市計画法制定以前の市街地整備で,いずれも近世城下町の街区割を引き継いでいる とも考えられる。都市の骨格をなすこの街路は,軍港に至るメインストリート東大門通を軸に東 西の通りには軍艦にちなむ八嶋通など,南北のそれには京都の街を投影する形で一条,二条通と いう通り名をそれぞれ付け,短期間に計画,建設された。不燃化をめざした「建設物規制」な ど,厳しい条件のもとで市街地化が進むが,こうした新たな街路や建造物からなる近代都市建設 は後の都市計画法の制定に繋がるともいえよう。
都市化過程を商業地形成からみれば,軍港に通じる東西路の東大門通に店舗集積が進み中心商 業地化し,鉄道駅の開通(1904(明治 37)年)とともに駅前の南北路である三条通りも商業地 化し,城下町起源の都市に多い二核からなる商業地構造が短期間で形成された。大阪資本を中心 に全国から様々な業態の店舗の立地,呉や佐世保同様に海軍納品店の多いことも特徴として認め られる。他方,新市街地が建設された当初は新天地の舞鶴に全国から多くの人が集まるが,商売 で失敗し舞鶴を離れる人も多く流動性の高い新興商業地であったことも明らかになった。
要港部に格下げ(1933(昭和 8)年)となった昭和初期の舞鶴の 3 町(舞鶴町,中舞鶴町,新 舞鶴町)とその周辺からなる地域の通勤通学流動は,城下町起源の舞鶴町と軍港・海軍工作部
(旧工廠)のある中舞鶴町を核とする 2 つの圏域に大別される。新市街地の新舞鶴町住民の大半 は中舞鶴町へ通勤し,軍港都市を構成するこの両町は軍港,工業機能と,住居,商業機能という 面から一体化した地域としてとらえることができる。鎮守府,要港時代を通して,新市街地(新 舞鶴町)は商業集積を進めていくが,軍港依存の強い都市で,就業地として周辺地域の中心地と なるには至らなかった。
最後に軍港都市と他の近代都市との相違点についてふれておきたい。近代都市に共通する格子 状の街区形態が今日の中心市街地に継承されているが,後背地が狭く市街地拡大の余地の狭いと いう地形環境の制約もこうした継続性をもたらしたといえよう。また軍事機能が柱であるがゆえ に地域中心としての機能は軍港時代にはまだ確立したとはいえない。鎮守府,軍港を核に,その 周辺に商業地,居住地が存在する構造は城を中心とした城下町の地域構造に相似するとみてとれ る。
付記
本稿の内容は2011年に関西大学に提出した博士論文の第4章に加筆修正を加えたものである。本稿を作 成するにあたり日頃よりご指導いただいております伊東理先生はじめ関西大学地理学教室の先生方にお礼申 し上げます。
[注および参考文献]
⑴ 明治以降大規模な都市改造を実施し近代都市に変容した城下町などの歴史都市も,広義には近代都市 といよう。
⑵ 荒川章二『軍隊と地域』青木書店,2001,本康宏史『軍都の慰霊空間−国民統合と戦死者たち−』吉 川弘文館,2002,上山和雄編著『帝都と軍隊−地域と民衆の視点から−』日本経済評論社,2002,河 西秀通『せめぎあう地域と軍隊−「末端」「周縁」軍都・高田の模索−』岩波書店,2010。
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⑶ ①坂根嘉弘編『軍港都市史研究Ⅰ舞鶴編』清文堂,2010。
②上杉和央編『軍港都市史研究Ⅱ景観編』清文堂,2012。
③西英通編『軍港都市史研究Ⅲ呉編』清文堂,2014。
⑷ 山本和重編『地域のなかの軍隊1北の軍隊と軍都』吉川弘文館,2015をはじめ全9巻刊行。
⑸ 平岡昭利編著『地図でみる佐世保−古地図と古い写真でみる佐世保の変遷−』芸文堂,1997。
⑹ 前掲⑶②には4鎮守府の景観変遷について以下の論考が収められている。
花岡和聖「地形図と空中写真からみる横須賀の景観変遷」13〜40頁,村中亮夫「地形図と空中写真か らみる呉の景観変遷」45〜79頁,山本理佳「地形図と空中写真からみる佐世保の景観変遷」85〜122 頁,山神達也「地形図と空中写真からみる東舞鶴の景観変遷」131〜165頁。
⑺ 山田誠「日本近代都市の一類型としての軍港都市」(『日本近代都市における連続性と非連続性に関す る地理学的研究』平成9年度〜平成11年度科学研究費補助金(基盤研究(C)(2))研究成果報告書
(研究代表者・山田誠)2000)7〜25頁,山田誠「今に生きる近代都市−舞鶴市東地区の場合」『都市 研究』1, 2001 63〜71頁,山田誠「近代日本の都市形成−鉱工業都市と軍港都市の事例−」(秋山元秀
・金田章裕・高橋誠一・溝口常俊・山田誠編『アジアの歴史地理2 都市と農地景観』2008)160〜
175頁。
⑻ 双木俊介・藤野翔「軍港都市横須賀の形成と土地所有の変遷−横須賀下町地区を事例に−」『歴史地 理学野外研究』13, 2009, 1〜23頁。
加藤晴美「軍港都市横須賀における遊興地の形成と地元有力者の動向」『歴史地理学野外研究』14, 2010, 31〜54頁。
双木俊介「軍港都市横須賀における商工業の展開と「御用商人」の活動−横須賀下町区を中心に−」
『歴史地理学野外研究』14, 2010, 55〜80頁。
⑼ 加藤政洋「軍港都市の遊興空間」(前掲⑶②,281〜320頁)。
⑽ 山神達也「近代以降の舞鶴の人口」(前掲⑶①,299〜342頁)。
山神達也「大正軍縮前後の中舞鶴・新舞鶴−人口を中心とする比較研究−」(前掲⑶②,237〜273 頁)。
⑾ 飯塚一幸「軍拡:軍縮と舞鶴鎮守府−三舞鶴の盛衰−」(原田敬一編『地域のなかの軍隊4近畿 古 都・商都の軍隊』吉川弘文館 2015)113〜140頁。
⑿ 坂根嘉弘「軍港都市と地域社会」(前掲⑶①50頁)。
⒀ 舞鶴市『舞鶴市史通史編(中)』1978, 418〜662頁。
⒁ 京都府『京都府市町村合併史』1968, 673〜696頁。
⒂ 戸祭武「舞鶴における近代都市の形成 舞鶴近代史研究(一)」『舞鶴工業高等専門学校紀要』14, 1979, 146〜149頁。
⒃ 坂根嘉弘「軍港都市と地域社会」(前掲⑶①,8〜38頁)。
山神達也「近代以降の舞鶴の人口」(前掲⑶①,299〜342頁)。
⒄ 舞鶴市『舞鶴市史通史編(下)』1982, 83〜91頁。
⒅ 前掲⒀: 603〜609頁。
⒆ 高橋康夫・吉田伸之・宮本雅明・伊藤毅編集『図集 日本都市史』東京大学出版会,1993, 274〜285 頁。
⒇ 札幌市『新札幌市史 第2巻通史2』1991, 157頁 ここでは次のように述べられている。
「 町区画の構想 この札幌の碁盤の目状の区画がどのような考え方に基づいてなされたものかは,
現段階では明らかにならなかった。今明らかなことは,島判官の『石狩国本府指図』ですでに官地は その形態に類似したものになっていること,次いで西村権監事たちの『札幌表御用取扱向等伺書』で もその区画を踏襲していること,岩村判官の経営の時代になって区画が実行された時には,すでに碁 盤の目であったことなどである。ではなぜ島判官以来西村権監事たち,さらに岩村判官にいたるま で,その碁盤の目の区画またはそれに類似した形態を都市としての本府の基本形態と考えたのであろ
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うか。それには近世を代表する都市である江戸(東京)などの形態がその参考例となる。江戸(東 京)もその絵図をみると,札幌のように正確な碁盤の目状ではないが,すでに長方形や正方形を積み 重ねた区画になっている。この区画は,近世初期に徳川家康が江戸の建設をはじめた時に,豊臣秀吉 によって改造された京都の町割りを引き継いで,碁盤の目状の町割を基本形態としている(講座日本 技術の社会史第7巻)。また絵図などから見ると,会津若松,広島や姫路でも町の区画はやはり長方 形や正方形を積み重ねた区画になっている。これらの近世都市は,その起源として京都を基本形態と して都市造りを行っているのであろう。そのような意味で近世都市は,古代都市平安京を基本に形成 されてきた京都を基本にしているのであろう。しかし,だからといって碁盤の目の形状の継承を理由 に,札幌の区画を遠く古代の平城京や平安京の区画まで遡る必要はなく,より近い近世の城下町を基 本に構想したと考えた方が自然のように思われる。」
この考え方は都市形態の類似性からの指摘であるが,さらに城下町を参考したとの文書等客観的な 史料を見出すことが求められる。また,札幌が城下町の武家地と町人町からなる地域構造を踏襲し,
官地・官僚居住地・学校等の公的施設を集めた地区と多くの入植者が居住する地区を大通に境に分け 建設されたことなどが指摘されている(青山英幸「明治期の人為的都市づくり−札幌のばあい−」
『歴史公論』90, 1983, 57〜65頁)。
! 前掲⒀: 618〜627頁。
" 前掲⒀: 637〜640頁。
# 前掲⒀: 592〜595頁。
$ 前掲⒀: 618〜619頁。
% 前掲⒀: 635頁。
& 前掲⒀: 648〜651頁。
' 前掲⒀: 640〜641頁。
( 前掲⒀: 644〜648頁。
) 坂根嘉弘「軍港都市と地域社会」(前掲⑶①31〜35頁)。
* 前掲⒂: 145〜146頁には以下のような日出新聞の記事が紹介されている。「新市街地に入り込み居れ
る者の五条通り迄は佐世保,呉等より移住せし者にして之に次ぐは大阪,和歌山,愛知,東京,兵庫 等にして其他各府県とも多少あらざるなく……」「深夜柳行李を背負ふて逃走するものあり」。
+ 前掲⑾: 123頁。
, 日中戦争の本格化する背景のもとで,1929(昭和14)年に鎮守府が再び設置され舞鶴港は終戦まで東 港,西港とも軍港として機能することとなる。
(大阪経済法科大学(客員教授))
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