薩摩藩の天保改革と奄美、沖縄
著者 山本 弘文
出版者 法政大学沖縄文化研究所
雑誌名 沖縄文化研究
巻 6
ページ 201‑235
発行年 1979‑06‑30
URL http://doi.org/10.15002/00013095
薩摩藩の天保改革と奄美︑
沖縄
L l i
本 弘.文 はじめに||雄薄化と廃滞||
わが国における封建的領有制の解体と集権化の過程は︑既存の封建的王権による個別領有権の吸収
というかたちをとらず︑一部諸蒋の雄藩化とその連合を軸にしてすすめられた︒いいかえれば廃蒋と
集権体制の成立は︑幕府による諸藩のとりつぶしという直接的なコlスではなく︑薩・長・土・肥な
どに代去される一部諸藩の雄藩化とその連合による倒幕︑雄藩連合を基礎とした新政府の発足︑新政
府の独白性の増大と個別領有権の吸収︵廃藩︶という迂同的なコlスをとった︒一部諸藩の雄薄化は︑
このようなぷ味において廃滞の逆説的前提であった︒
戦後の限史研究は︑西市地方を中心としたこのような雄藩化問屈の解明に︑多くの努力をかたむけ
201
てきたυ昭和二五年前後にはじまった幕末藩政改革の研究がそれであり︑そこでは雄藩化の起点とな
202
った天保改革やそれに続く安政
l
慶応期の改革が︑薩・長・土・肥などの諸藩についてつぶさに検討され︑そのような雄藩化を可能にした条件について︑多くの議論がかわされたのであった︒
ところでこのような条件について︑つぎのような意見が当時かなり有力であった︒
徳川中期以降尚品経済が発注し︑徳川末期には多少とも下からのブルジョア的関係が発達したが︑
それは近畿関東をふくむ中央地市に最も発達し︑東北地帯で最もおくれ︑西南地帯はその中間であ
った
Uこの商品経済︑下からのブルジョア的関係を前提とし︑それを収奪して藩財政を強化する方
法が中期以降の専売制度であるが︑この専売制度は中央地怖に最も少く︑東北地帯がこれにつぎ西
南地引が最も多い︒しかも︑最もブルジョア的関係が発達した中央地帯の諸藩が幕末維新に最も活
躍少く︑東北諸藩と西南諸滞が対抗して︑西南諸藩が遂に維新絶対政権の主体となったのである口
これが丘味するところは︑中央地帯のように下からのブルジョア的関係が発展すること充分でなく
凶十附諸藩のようにこれを収奪して藩権力を強化したものが絶対主義の主体となることである
︵堀
江兆
一﹁
原始
蓄積
の類
刑亡
︑﹃
経済
評論
﹄昭
和二
四年
六月
号所
収︶
︒
いわゆる﹁中位のブルジョア的発展﹂とこれに対する﹁対応﹂が︑雄藩化への道を切り開いたとい )‑
も
うのであるω
しか
しこのような閃式は︑現実の照史過料に照らした場介︑
一定
の修
正を余儀なくされ
るようにおもわれる︒薩摩帯︑がその一例である︒
改革の背景
薩一
昨滞
の
U人保改革は︑長州滞の村田清風や幕府の水好忠邦の改不に先立って︑天保元年︵一八
一 一 一 ︵ リ
︶
一二月にはじまった︒改革の政抜の動機となったのは︑江戸時代初頭からしだいに累積し︑文政末期
には遂に五
OO
万両にものぼった円相な藩債であった︒当時の米価は石当りほぼ一両前後であったかハl﹀ら︑米にして約五
OO
万石相当の借財ということができるυ同滞の石高︵内古川︑ただし籾高︶は︑文政九年当時︑道之品︵奄美︶・琉球を加えて約九
O
万石にのぼったが︑このうち蔵入高はゴ一四万石︑蔵入︵2︶ 納米︵口一組として藩庫に入る玄米︶は一三万石余にすぎなかった︒このほか藩庫に入る経常的な歳入と
しては︑山崎土および琉球からの出銀・出米︑人別出銀・牛馬出銀などのほか︑砂糖・蝋・菜種など特
産物の似仁川収入︵産物料︶があったνしかしこれらをすべて合算しても︑改革前の同藩の歳入が四
O
︵1﹀ほとんどなかったものとみなければならないのである︒いうまでもなくこれは︑万両をこえることは︑
薩摩藩の天保改革と奄美,沖縄
借財の利息をかろうじてまかなう程度の金額でしかなかった︒蒋財政の窮乏は︑この時期にいたって︑
まさに危機的な段階にふみ入ったものと考えることができるのである︒
ところでこのような財政窮乏をもたらした原因は︑いったい何だったのであろうか︒一般に封建社
203
会における領主財政の窮乏は︑商品経済の発展にともなう領主の消費生活の膨張と地代収入の仲びな
やみ
︵地
代傾
の慣
判的
な固
定化
と地
代率
の傾
向的
低下
︶
ハ4︶にもとめられている︒前者はいうまでもなく交換
204
によって喚起される消費需要の明大と消費財の多様化・高級化によるものであり︑後者は農奴の商品
生産者化と生産活動の多様化にともない︑増大する剰余生産物の捕捉・収取がしだいに困難になると
ころに由米するものといえよう︒そしてこのような事情をつうじて︑領主制の経済的・政治的危機と
直接生産者の社会・経済的自立性の増大が進行するものと考えることができるのである︒
しかし同維の窮乏化は︑このような図式とはかなり異質のものだったようにおもわれる︒もともと
同藩は霧品・似島などの火山灰堆積地を本領とし︑熱帯低気圧の頻繁な通路にあたっていた︒火
山灰
の堆積によってできたいわゆるシラス台地は︑保水力・保肥力に劣り︑例年の馳風はたちまち崖崩れ
や河川の氾濫をまねいた︒中世期の薩隅地方の事情についてはまだ不明な点が多く︑耕地や村落の存
︵5﹀在形態など基礎的な問題についても︑かならずしも認識の一致が得られるまでにいたっていない︒し
キe・﹄かし中世期末のこの地方の農耕が︑なお多かれ少なかれ狭少な迫田耕作に依存し︑孤立・小村的集落
を広く存続させていたことは疑う余地がないようにおもわれる︒また在家ないし門百姓の土地保有権
も︑近世期を通ずるいちじるしい脆弱性と本来の歴史的・社会的継承性からいって︑きわめて不安定
なものだったと考えてさしっかえないであろう︒いずれにしても︑沖積平野における広汎な水田開発
と村落共同体の形成などによって代表される︑畿内中世末期の社会的変化は︑この地方ではまだ︑明
確に認識され得るまでにはいたっていなかったと考えることができるのである︒
このような辺境的後進性は︑秀吉の征西︵天正一五年︶や関ケ原の役︵出成長五年︶によって近世的秩
序への編入を余儀なくされた同藩に︑深刻な影響をおよぼしたν畿内を中心とする︑水稲耕作の順調
な発展のうえに成立した新しい封建体制は︑玄米による画一的な生産力表示と中央における査定基準
を︑こうした辺境領国に強制し︑これにもと守ついて各種の軍役や国役を賦課するとともに︑兵農分離
や参勤交代をつうじて消費支出の膨張︵近世的消費規範の強制︶を必然化したからであったQ
事実
秀十
一日
の太閤検地は︑この地方においても︑文禄二年︵一五九三︶秋の日向諸県郡の検地を子はじめに︑翌
同年六月には薩隅日︵諸県郡︶総計五七万人︑七一二三石余の石三年秋から四年春にかけて実施され︑
︵6︶ 高が定められたω黒板勝美編﹃鹿児島県史﹄︵第一巻︶は︑この時の石盛について﹁籾を以でしたもの
︵7︶ のやうである﹂と述べているuしかし﹁文禄二年十月十日日向国諸県郡飯野内大明神村御検地帳﹂
ではあきらかに米で表示されており︑上回一石四斗︑中国一石二斗︑下回一石︑中品八斗︑下畠六斗
︵ リ
︶
の︑いわゆる﹁中ノ村﹂の基準が採用されている︒しかもこの検地は︑総じて﹁京検地之竿依不揃︑
諸侍御公役親疎在之﹂という難点をふくんでいただけでなく︑査定された総石高も︑その後慶長二ハ
年におこなわれた総内検の石高をはるかに上回る過大なものであったυ事実﹁薩隅日田賦雑徴﹂はこ
の点について﹁慶長十六年之聞に内検御竿入有之︑御検地帳高究之通籾大豆弐石を分米壱一れに成し尚
︵ 日
︶
作候得者︑惣高三拾七万七千九百七拾四石八升六合五勺之筈にて大分御高引入候に付﹂?と述べている
し︑また﹃田斌集﹄も︑慶長検地の際は﹁田は穀をつけ︑白山は大立を附﹂げたが︑﹁米に成て文禄検
世
l
学藩の天保改革とむ];;_,N
;出 205︵山
︶
地の高に及︑ず﹂と述べているυ文禄検地において査定され︑江戸時代に引きつがれたこのような過大
︵U﹀な朱印高が︑過大な軍役および同役となって同藩財政を圧迫したことは疑いないところであろう︒同
206
藩の慶長総内検が︑籾大一旦一行五升を以て高一石とする特異な高むすびを採用し︑六一万九千石余の
内高を定めたのも︑朱印高に探せられる軍役や謀役を家臣団に配賦するうえで︑朱印高との秩合が必
要だったためとおもわれるU
他方参勤交代や江戸住いなど近世的な消費規範の強制も︑辺境似同にとってあらたな負担となったν
一克和三年七月十二日付の品津家久条書は︑そうした事情を次のように伝えている心
︵は
﹀
家中へ可申開条々
一世上太平ニ在之故︑公方様御前之総子︑北ハ外諸侍着合之林︑従前々も以之外花一蹴ニ成候事U
一江戸諸大名之屋形︑山日々結構ニ被調候ν当公方様御行儀たいムしく被成御座︑御法度つよく被仰付
故︑大名・小名少Jh油断無之淋ニ候問︑国之役儀於無沙汰は︑可及気遣・一事υ
一諸大名内衆︑馬・鞍・衣裳等句麗ニ在之事u
一借銀過分ニ成行候之事υ
一従来年︑毎年之可為在江戸事ν
右之条々不軽始末候処︑在国之衆それ程ニも不存︑無気遣可送月日事︑笑止ニ候︒右之条
H
ひとつ
として銀子不入事無之︑就共借銀過分一一成候︒江戸
屋形
作︑
又来春上洛之調も借銀なくてハ相調間
敷候
u
此返弁之能︑諸侍以出物可弁済候
υ
︵下
略︶
幕藩制的秩序の整献にともなって諸伎の役儀の制度化もすすみ︑江.ド昆敷の建造や大名問の交際︑
衣裳・調度の華麗化など︑近世的泊代規範の強制がつよまりつつあ
ったことを知ることができようν
そしてこのよう
ななかではやくも﹁仙銀過分ニ成行候﹂とい
う
財政問慨がはじま
って
いたのであっ
た ︾ 近世的秩序の形成にともなって同滞に加えられたこのような負担は︑家目団に対する賦課の強化や 一 只 租の加徴︑農民統制の強化とな
ってあらわれた︒事実右の家
久条
書は︑累積する負
債を
家川凶の出
物にぶつて返弁する方針をあさらかにし︑﹁自今
己後
は︑
出物未進衆︑不依大身小身知行可百上候﹂
というつよい態度をしめしている
υそして五年七月には︑﹁︹借︺銀相前一一︑依国役難成﹂り︑諸士︑与
﹁西藩田租考﹂︑﹁薩隅日出賦雑徴﹂などの貢租関係の文献によれば︑
分を除いて︑寛︑水当時すでに籾九斗・一ハ升について米三斗二升の上納︑すなわち三分の二上納の制土な 同滞の貢
租は
︑
田方の
場合加徴
世
;
)l品、議の天Ct主改革と屯尖,沖出た 社 っ tこ
7こ 対 の し で て あ 高
つ(四
た
5
分u 0)
︵万
引か
υ
らU
まで︶ないし三分の二︵百行以下および年 社 ︶
の上知を命ずる
にい
他万郷村においても︑武租の加徴や耕作労働に対する監督の強化がすすめられた
Q
﹁租
税問
答﹂
︑
って
いた
が︑
万治二
年の内検以後
は三斗五升上納に引上げられ︑また一克禄頃までに次第に定式化され
を加えると︑
︵ 凶
︶
斗六升について米三斗九升八合︵八三パーセント︶という驚異的な両さにのぼった心
た加
徴八
刀︵
民租
一 一 一
斗五升にけき役米
一 一 升︑代米一升︑賦米一升一合︑
日米 七介
︶
貢租
中 小 は
籾九
207
そして他方ではこ
うした高率な地代を確保するため︑正保頃から農業労働に対する直接の監督がしだいに強化され︑天
~o凶
和・元禄期には︑打起しから収納までの全過程にわたって︑検者の巡加と農業労働に対する指禅・弘
︵
げ
︶
督がおこなわれることになったQまた万治内検以後は︑耕地と労働力の不均衡を是正するため︑他郷・
︵山川﹀他村への農民の強制移住︵人配・人移し︶も大規模にすすめられたのであった︒
万治・享保の総内検にともなう門休制の整備と相まっ
て︑地代の収取某一耀をある程度拡大し︑また寛永末からの金山開発もあずかつて︑藩債の累積を一時
鈍化したようにおもわれるUいま土屋喬雄﹃封建社会崩壊過程の研究﹄によってその推移を整理すれ このような農業労働に対する監督の強化は︑
ば︑次表のとおりであり︑一
五和
l覚
︑ 水 末にかけて急増した溝債は︑その後寛延期にかけてかなり増勢
を落している︒しかしこのような局面は宝暦以降一転し︑文化・文政則にかけてふたたびはげしいふ
増過程をたどることになったのであるυ
宝暦から文政末にいたる約八
O
年は︑渚主あるいは後見として滞政の実権を握り続けた市一家のもとで︑雄藩への指向がはじまった時別であったむ同藩の財政は竜豪襲封当時︵宝暦五年﹀︑産金額の減少
や木曽川治水工事などの出費によって︑すでに深刻な藩債急増の徴候をあらわしていた︒そのため当
初からきびしい緊縮財政を余儀なくされたのであったが︑他方また重去の強い個性を反映して︑明和・
安永頃から国元の風俗の改善や文化の振興など︑各種の開化政策がすすめられ︑造士館・演武館・朕一
︵
加
︶
学館・暦館の建造や神社仏閣の造常復興などが相ついでおこなわれたu
また三女茂姫の一橋家への
負債残i匂(金111J)
千 貫 万両
1 ( 2 ) 7 ( 14 ) 21 ( 34.5) 34 ( 56 ) 40 ( G7 )
牢 72.6 (117 )
本 76.1 (126 )
320 (500 ) 次
元和2年 (1616) 寛永9年 (1632)
II 17年 (1640)
寛延2年(1749)
宝 暦3年 (1753)
立不~1 元年 (1801) 文 化4年 (1807) 文 政10年 (1827)
年
入輿をはじめ︑諸大名との紙組も多く︑とくに一橋聖千代︵家斉︶
︵ 況
﹀
の将軍就任以後は︑外戚として﹁伎伯・名流︑門に満る﹂盛況と
なった︒そのため領民や家
MM
に対する人別出銀︑牛馬出銀︑船出銀︑重出米などの頻繁な賦課にもかかわらず︑年ごとに債務の
累積が進み︑享和年間には︑一二都の負債だけでも一
OO
万両を起えるにいたったのであったω
以上のように同藩の財政難は︑辺境鎖国に固有な低生産力と過
大な朱印高の矛盾に端を発し︑宝謄以降の雄藩化への折向と過大
薩摩藩の天保改革と屯*,沖縄
な出費のなかで︑さらに深刻化したものとみることができるυ他
藩に例のない高率な地代と苛烈な農民統制も︑このような文脈の
なかではじめて理解できるようにおもわれるのである︒しかし
本印は3都の負債額
方このような過大な農民負担は︑決耕生産力の順調な発肢をはば
んだだけでなく︑郷村のはなはだしい疲弊と荒廃をまねき︑結局
藩財政にはねかえることになったυ改革前の郷村の状態は︑この
﹂とを雄弁に物語っているようにおもわれる︒
209
l五
改革前の同藩の郷村の状態は︑文化一五年から二年にかけて︑郡
奉行久保平内左衛門と鎌田四郎左衛門によっておこなわれた郷村調査の報告書のなかに︑生芝生きと
描かれている︒﹁諸郷栄労調﹂と題されたこの報告書は︑まえがきによれば﹁近年諸郷百姓致困窮候
210
一統廻勤之上万端御旧規不致異変様︑専人情ニ基き致吟味︑於郷々取扱之始末︑帰府之上得と可
申上﹂という藩命にもと尋ついて︑﹁諸在栄労之来白井高増減︑
付
或者地両優劣人多少︑又は産業之異変
等取調﹂︑とりまとめて報告したものであるQしかし一万六千字余にのぼるその内容は︑﹁栄労調﹂と
いう表題とはおよそかけはなれた︑郷村の全面的な荒廃と窮乏によって蔽われたものであった︒荒廃
は人口の減少︑田畑の荒廃︑牛馬の減少︑山林・用水の荒廃︑大船の減少などあらゆる分野にわたり︑
てんやくまた農民生活も殿役︵賦役︶の増加や貢租の加徴などによって
﹁別
而難
渋﹂
をきわめ︑﹁既難村立諸
在余多有之﹂というありさまであったυ﹁依而当時は人勢相増候儀題目之事一一御座候Q是迄乍恐団地
を太切−一御取扱有之︑百姓撫育紡薄方ニ而は有御座間敷也Q依而御心的は相増候得共︑百姓は益致減少
候υ︵中略︶百姓と中候而も人間一一候得ば︑立国生同前之取扱一一而は心服可致道理無之候﹂という報告書
の訴えは︑当時の農政と郷村の模様を端的に示すものということができるU
こうした状況のなかに
﹁中位のブルジョア的発展﹂をもとめることがいかに徒労であるかは︑いうまでもないところである
つ
︵補
論︶
大隅・薩摩・日向の米作は︑維新後も国内最低の地位にあったU第一小説は農商務省農務局編の﹃全
国農
産表
﹄に
もと
守つ
いて
︑
全国国別の綬米反収を算出したものであるが︑これによれば大隅の明治一
一 四 ︑
一五年の三か年平均制限米反収は全国の最下位︑薩摩は七三か国中
七一
位︑
日向はおなじく
六八位であったυもっともこの統計は︑まだ近代的国民統計の草創期に属し︑統計調査の確度を保障
する地方制度の整備も︑郡一弘町村編成法の制定︵明治二年七月︶などによっ
て ︑
ようやく緒に
つき は
じめたばかりであったυ
とく に
鹿児島県地方は︑西南の役によっ
て大
きな打撃を受け︑地方制度の整
備もいきおい立ちおくれることになったものとおもわれる︒しかしこうした点を考慮に入れても︑そ
岡県は︑終始最下位三府県内にとどまっていた︒そしてその収量︵反
当︶ も
︑とくに豊作だ
った
明治
薩摩藩の天保改革と奄美,沖縄
の低生産性は蔽うべくもなかったu第
二去 は
明治
一五
︑
一七
︑二
O
︑ 二三︑二六年の﹃帝国統計年
鑑﹄によって︑被米反当収量の最上位五府県と最下位五府県表を示したものであるが︑この場合にも
二三
年を
除け
ば︑
一石の線を越えることができなかったので
ある
uまた耕地面積のうちにしめる回の
比率も︑明治二二年現在全国平均をはるかに下回り︑神奈川︑群馬︑山梨・宕手とともに最下位グル
ープ
に属
した
︵第
一
一一
表 ︶
υ
211
第1表 明 治13
〜
15年梗米反当収量国
|一|明治州明同一一 l
全 同
I t
233I . r m I r
184I " 1
198I
山 域 2.015 1. 886 2.025 1. 975 2 大 不日 1. 296 1. 587 1. 632 1. 505 9 lf.J 1. 589 1. 595 1. 695 1. 626 5 干fl 泉 1. 465 1. 375 1. 496 10 摂 津 1. 744 1. 811 1. 842 1. 799 3
。
十 賀 1.13:i
i
勢 l. 195 1. 085 1. 034 1.104 44
I 汁l与7、 摩 0. 722 0.505 0.884 0.703 72 尾 張 1. 275 1. 207 1. 248 1. 243 24
一
河 1. 092 1. 041 0.995 1. 042 59ユ、二墨金ユ 江 1. 036 1. 032 1. 069 1.045 58 駿 j可 1. 294 1.132 1. 215 1. 213 27 甲 斐 1. 261 1. 227 1. 214 26
。
f 旦 1. 474 1. 464 1. 248 1. 395 13 中日 模 1. 281 1. 059 1. 145 39 式 !嵐 1. 329 1. 296 1. 403 1. 342 17
ト
L
と )Jj 0.975 1.107 1. 090 1. 057 56上 総 0.878 0.855 0.847 0.860 67 干
. 総 1. 004 0.868 0.926 0.932 65 常 陸 1.132 0.916 1. 060 1. 036 61 近 ff 1. 820 1. 781 1. 717 4 J~ j農 1. 177 1. 050 0.959 1. 062 54 飛 騨 1. 112 1. 082 1. 077 1. 090 47
ィ
長 1. 214 1. 183 1. 120 1. 172 33 上 里子 1. 158 1. 099 1. 074 51
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1. 129 1. 057 0.927 1. 037 60 212名 (明 治 昨 |明治昨|明治15年13か年平均|順 城 1. 139 i 1. 129 1. 078 1. 115 43
!ゎJ.f 代 1. 227 1. 054 1. 198 1. 159 37 陸 IJlj 1.152 1. 039 1. 097 1. 096 45 陸 Eヤ 1. 041 0.846 0.832 0.906 66 陸 奥 1. 053 1. 043 1. 078 1.058 55 羽 。目 1. 317 1.025 1. 250 1.197 29 羽 後 1. 209 0.928 1. 146 1. 094 46
若 狭 1. 281 1. 131 1. 169 1. 193 30
越 lfll 1. 384 1. 003 1. 084 1. 157 38 賀 1. 628 1. 387 1. 699 1. 571 6 能 7二、1占 1.193 1. 088 1. 153 1. 144 40 越 中 1. 544 1. 229 1. 367 1..380 16 越 後 1. 296 1.153 1. 132 1.187 31 佐 渡 1. 700 1.114 1. 140 1. 318 20 丹 波 1. 471 1. 474 1. 590 1. 511 8 丹 後 1. 126 1. 021 1. 044 1. 063 53
a馬 1.183 1.196 1. 125 1. 168 34 因 l幡 1. 355 1. 343 1. 271 1. 323 19
{
}
守 善 1. 215 1. 234 1.177 1. 208 28
弓J《? 1. 313 1. 278 1. 200 1. 263 23
石 見 0.940 0;931 0.941 0.937 64
隠 11皮 0.965 0.699 0.588 0. 750 70
播 磨 1. 579 1. 601 1. 452 1. 544 7 ー
尖 f F 1.118 1. 142 0.972 1. 077 50 備 日lj 1. 531 1. 555 1. 358 1. 481 11 備 中 1. 140 1. 218 1. 128 1. 162 36 備 後 0.989 1. 026 1. 041 1. 018 62
cメ;H; 一エ++ヰ4・ 1. 134 1. 086 1. 127 1.115 42
周 防 1. 424 1. 444 1. 520 1. 462 12 長
F
う 1. 281 1. 406 1. 468 1. 385 15213薩摩藩の天保改革と奄安,沖縄
国 名 | 明 治 昨 | 明 治 昨 | 明 治 昨 13か年平均|附|
市己 伊 1. 275 1. 353 1. 320 1. 316 21
{
長 路 2.286 1. 916 2.143 2.115 1 阿 i皮 1. 128 1. 154 0.970 1. 084 48 讃 岐 1. 393 1. 399 1. 381 1. 391 14 伊 予 1. 015 1.119 1. 021 1. 051 57 土 佐 1. 060 1. 122 1. 064 1. 082 49
んMチ七~ IJlj ? 1. 185 32
筑 後 1. 161 1. 489 ? 1. 325 18
虫、
コι Hli 1.277 1. 298 1. 2G2 1. 279 22
直民コ,_ 後 1. 051 1. 18G 0.955 1. 064 52 肥 IJli 1. 063 1. 1号4 1. 162 1. 126 41 目
巴 後 1. 176 1. 389 1.117 1. 227 25 日 向 0. 749 0.969 0.765 0.827 68 大 隅 0.622 0.861 0.609 0.697 73 薩 摩 0.690 0. 750 0. 722 0. 720 71
金t
ゴ? 1lr}( 0.965 0.825 1. 174 0.988 63 先f 馬 0.733 0.464 1. 064 0. 753 69
注 1. 農商務省農務局編『明治13年全国喪産表』『明治14年全国農産表』『明治15 年全国農産表』により作製.
2. 勺以下は切捨てた.
3. 筑前,筑後の平均反収は,明治15年の反収が不明のため, 2か年平均を求 めた.
214
曝円
得心持活山町︸ TMJm
ke
慢世樫
明治15〜26年梗米反当収量
明治15年明治17年明治20年明治23年
1
|明治26年県名反当収量県名反当収量県名反当収量県名反当収県名反当収量
上位最 大阪r77I滋賀
t
53 I大阪f
14 I奈良i143富山f
回I、YムJム~ 賀口山2. 04 I大阪賀.l. 88 五山口i.
so
1大阪口2.02 I熊本)|| l. 83 府県~jιJ L、‑都都i. 34 I滋賀i.98 1ほ賀梨l. 82§:. 、庫i.
so
I山梨庫Jll 2. 01 I東京.
l. 82:{−よIi 手子−
o.
79 I秋田i. 23 I秋田1時0.96 下{最立 岐孟o.
99 I長||碕o.
76 I青森島0.89 群,馬崎崎ii. 13 I鹿児島i. 08 I鹿児島0.88 五 府県千葉o.
92 I鹿児島:o.
53 I岩手i. 03 I岩手l.os
I北海道0.85 l鹿児島森0号o
I鹿児島o.
93 I埼宝Z0.69i. 20 I全国平均l. 02 |全国平均l. 52 |全国平均i. 59 1全国平均;l. 36 第2表
的岡山川
各年次の『帝国統計年鑑』により作製。注
第3表 府 県 別 田 畑 反 別 お よ び 比 率
明治13年6月現在 月
:f 11,~ ずI ! 日 反 日jl ~:IB 反 別
回
J
町 %東 京 12,983. 18 17,128.89 43
ノt』−f 、 間l 40,198.8:2 13,104.03 75 大 阪 82,945.56 26,805.36 76 ネ
市 ズノ1又' JI I 28, 351. 26 72,550.07 28
Ji二 同T 104,417.58 25,908.00 80 長 崎 69,192.08 54 新 i日 159,394.20 69,388.34 70 jN 王 GS,998.47 97,602.98 40 若干 .馬 28,932.65 68,935.29 30 千 葉 100,153.17 69,136.85 59 茨 城 80, 118. 66 91,173.48 47 栃 木 48,768.73 55,136.53 47
一一・ 重 73,604.10 23,459.74 76 愛 知 84,280.89 56,907.03 60 静 岡 57,564.89 44,048.76 57
UI 梨 19,338.56 34,010.83 36
滋 プ17. G2, 722. 69 I 10, 511.15 8G i皮 Ji1ー G0,567.05 32,279.47 65
~ 肝 GG,175.72 77,272. 19 46
−戸:・白一3; 城 78,188.98 36,813.72 68
?
日 88,640.09 59,914.89 60
ヰ
ι t r
手 49,035.91 82,686.98 37 青 森 55,377.28 50,507.63 52 山 可多 79, 891.12 33,910.52 70 秋 田 97,264.00 34,042.82 74福 80
石 126,323.63 29, 718. 04 81 216
府 県 名 田 反 別 畑 反 男]I
|
田比率取担l |
|
町
l
%32,953. 70 9,922. 82 77 S0,844.08 28,067.87 G4
阿 UJ 76,205.70 33,547.28 69 広 烏 72,875.20 35,508. 44 67 山 日 49,617.17 19,784.86 71 和1 Jl̲j 33,450.20 12,603.25 73
ノ
/じ,;1、 23,124.17 24,983.87 48
従ま曹E 阪1 83,912. 72 50,527.13 62
r.~:i 知 3S,Sl4.03 39,42S.40 47
初 同 97,068.70 29,989. 17 76 大 分 45,528.33 43,188.23 51 貧民 本 57, 861. 94 74, 111. 26 44 鹿 ~円し 島 84,017.21 151,470.52 36 三十 2, 622, s18. 81 I 出 1.221. 35 I 59 注 1. 『第1統計年鑑』(明治15年3月刊〉により作製.
2. 同比率は1%未満を4捨5入した.
217薩摩藩の天保改革と奄実,沖縄
主
︵1︶中沢弁次郎﹃日本米側変動史﹄参照︒
︵2︶黒柿勝美編﹃鹿児島県史﹄︵以下﹃県史﹄と略称︶第二在七一ーー七二へl
ジ ︒
調﹂は︑このような事情について次のように述べている︒
肥後熊本領︑御国より御小高−一而年々拾万石余之御仕登米有之候由候得ば︑御国よりは其余計相調候筋一一
も相見得可申候得共︑肥後︑御園全株田賦之向致相違候︒御国往古訳有之︑籾九斗六升を高壱石ニ引結有
之︑他凶は何方ニも納米壱石を古川壱石引結有之︑左候得ば御国之御執中候向七拾五万石を︑肥後同様納米
占石をい両去石ニ引結候得ば︑縫ゴ一拾万石余之高頭ニ市︑肥後よりは却而内実御少高一一而候︒︵小野武夫編
﹃日本農民史料緊特﹄第九巻六四ページ︶︒
︵3︶文政期の歳入額を概算すれば︑ほぼ左のようなものとおもわれる︒
* 蔵 入 納 米 二 一 一
・ 六 万 石 こ の 金 市 川 二 一 一
・ 六 万 両
* 諸 士
・ 琉 球 出 米 六
・ 二 万 石 川 川 六
・ 二 万 両 材 産 物 料 一 八
・ 一 二 万 両
一一
一八
・一
万両
このほか人別出銀・牛馬山銀あわせて︑約二五
OO
耐ほどにのぼったものとおもわれる︒︿典拠*文政九年﹃県史﹄︑料文政末佐藤七川﹁薩藩経緯記﹂︶
︵4︶たとえば高橋+平八郎﹃近代社会成立史論﹄参照︒
︵5︶︑ぷ原慶二﹁中世村落の構造と領主制l小村U散居刑村落の場合﹂︵稲抗泰彦・永原慶二編﹃中世の
社会と経済﹄所収︶︑佐川弘﹁中世入来院領における在地構造の変質﹂︵﹃史学雑誌﹄第七三編第四号・六号
所収\北島万次﹁門体制の構造と領主制﹂︵﹃歴史学研究﹄第二九四号所収︶など参照︒
218
なお後述の
﹁諸
郷栄
労
︵MH︶
︵ 日 ︶
︵v m
︶ ︵6﹀﹃大日本古文書︑家わけ第十六︑島津家文書之一﹄四一二八ページ︒﹃向島沖家文書之一一﹄三八六1
一 二 九
四ペ
ージ
︒
︵7︶﹃県史﹄︵第一巻︶七六六ページ︒
︵8︶﹁薩隅日田賦雑徴﹂所収︵小野武夫編﹃近世地方経済史料﹄第一巻一二八八l
一一
一九
二ペ
ージ
︶
Q
︵9﹀前掲﹃島津家文書之一一﹄円
O
問l四O
五ペ
ージ
︒
︵叩︶﹁薩隅日田賦雑徴﹂所収︵小野武夫編前掲書三九九ページ︶︒
︵日
︶同
右一
一一
八三
ペー
ジ︒
︵ロ︶藩法研究会編﹃藩法集約\鹿児島藩下﹄八六六ページ︒
︵口
︶一
五和
三年
九月
︑薩
摩藩
はム
ハ
O
万五千石余の領知高判物を江戸幕府から下付され︑これにともなう軍役の義務を負うことになった︒以下に引用する寛永九年八月什︑家老伊勢点川︑同島津久元より喜入忠政︑
川上久凶宛書状も︑こうした判物高にもとづく負担が︑同藩にとって詐易ならないものだったことを示し
ているο
一御同之惣高六拾万五千石ニて候︒其高帳此方御城へ惣諸大名之高帳川前ニ御座候事候条︑何時御軍役被
仰出候とも六十万五千石ニ可被相懸候︒然時ハ乗馬も千二百騎凶にて候へ共︑左様ニハとても調まじき
の御事−一て︑先五百騎之用意可有之由被仰出候︒責てそれ程一一ハ内々御用意候ハで不叶儀候条︑中迄な
く候へども︑構て不可有御油断候︒愛一克も実正ならぬ儀を色々取沙汰候問︑如何様之儀を被仰出候ハん
も不知候︒︵﹁島津家列朝制度﹂巻之二︑前掲﹃藩法集︒︒︑鹿児島藩上﹄五五ページ︶︒
前掲
﹃島
津家
文書
之一
二﹄
ゴ一
六一
二
ll
ゴ一
六五
ペー
ジ︒
同右三六五l
一二
六九
ペー
ジ︒
沿陽光遠﹁租税問答﹂第四十︑第六十五︵小野武夫編前掲書第二巻五
O
六l
五O
九ページ︑五五二l
薩摩藩の天保改革と奄美,沖縄 219
五五三ページ︶︑伊地知季安﹁西藩田租考﹂巻下︑
二十六︑五
O
三|
五一
八ペ
ージ
﹀︒
︵打︶﹁薩隅日田賦雑徴﹂︵小野武夫編前掲書第一巻四一
0
ページ以下︶︑﹁品作家列朝制度﹂巻之四︑農政︵前掲﹃藩法集8︑鹿児島藩上︑九四
l
一O
九ペ
ージ
︶︒
︵国﹀桑波田興﹁薩摩藩の万治内検﹂︿秀村選三編﹃薩摩藩の基礎構造﹄所収︶︑拙稿﹁薩摩藩の天保改革﹂
︵大館右喜・森安彦編﹃論集日本歴史8︑幕藩体制E﹄所収︶の注︿4
︶参
照︒
︵問︶近世的門体制の整備については︑桑波田興前掲論文︑黒田安雄﹁薩摩藩平保内検の一考察﹂︵秀村選
ゴ一
一編
前掲
書所
収︶
を見
よ︒
︵加
︶吋
県中
〜﹄
︵第
二巻
︶二
一二
0
ページ以下参照︒︵幻﹀﹁薩藩天保度以後財政改革顛末書﹂︵木庄栄治郎編﹃近世社会経済叢宝一口第四巻一一四ページ︶︒
第 十 第
︵滝本誠一編﹃日本経済叢書﹄巻
220
改革の内容と特徴
薩摩藩の天保改革は︑このような郷村の窮迫と領主財政の危機を背景にして︑天保元年末にはじま
左衛門︵広郷︶であった︒改革にあたり︑
︵ 吃
﹀
つぎの三ケ条であった︒ った︒改革主任となったのは︑茶坊主から異例の昇進をとげ︑藩主斉興の側用人に抜擢された調所笑
その組父で隠居後見の地位にあった重豪から与え
斉興
と︑
つもこ附木百週十﹂h
︑ p v Z T
一 言
ln z 凡
一︑天保二年から一一年までの一
0
年間に︑金五O
万両を備蓄することQ二︑右のほか幕府への上納金および非常の際の手当として︑別途相応の準備をととのえること︒
三︑債権者から古借証文を取りもどすこと︒
右の内容は︑当時の財政事情や郷村の状態からいって︑無理難題ともいえるような命令であ
った
U
一
0
年間に五O
万阿の備金といっても︑歳入総額が借財の利息分にしか当らないような状態のもとでは︑雲をつかむようなはなしであったし︑また証文の回収といっても︑元利の返済なし
には
不 事実︑
可能な筈であったu要するにそれは︑通常の手段ではとうてい述成できない︑異常な命令であったu
そして異例の抜擢をうけた調所が︑その恩顧に報いるためにとらなければならなかった千段も︑結局︑
こうした命令にふさわしい︑兵常な手段だったということができるのであるQ
その側近海老原推斎︵
清粗
じによってまとめられた改革時の調所の事蹟は︑
︵ 必
︶
書類﹂のなかに︑調所自身の手控えとともに収められているωそれによれば改革の内界は︑三都・市 ﹁旧藩政中勧業上改革
都・国元の藩債整理や︑砂糖・米・生蝋・菜種子など国産物の改良︑政方の取締り
など
他方面にわた
り︑これに対する調所の指揮も︑文字どおり東奔西走の毎日であったυその結果︑改革前は﹁薩摩米
︵ 泊
︶
︵ 泌
︶
と申候得者︑米屋共望不申﹂︑生蝋も﹁格別下品﹂︑菜種子は﹁土砂交り下品﹂などと窓汗の高かった
国産物も︑天保四年頃からようやく改善の緒につき︑大坂問屋筋の
一 伴
判も立直るようになったと
いわ
れている︒しかし薩隅日の本領を中心としたこれらの産物は︑その販売額も少く︵米は天
保元
年か
ら一
︒年 まで の一
0
か年合 計で 一
三万
石
・ 二
O
万一
千両
︑生
蝋は
一一
年ま
での
一一
か年
合計
で二
六
一一
一 万
七千斤・九万
薩摩藩の天保改革と奄*,沖縄 221
︵ 刀
︶
四千
両︑
菜種
子は
おな
じく
一一
か年
介討
で四
万五
・六
万両
﹀︑
前記の巨大な課題からいって︑きわめて限ら
222
れた意味しかもつことができなかったυそしてそうした巨大な課題を達成するためには︑それにふさ
わしい特異な方法が︑別途採用されなければならなかったのであるu
二五
0
か年々賦本入による藩債処分と三島砂糖惣買入︑および幕府のきびしい探索の対象となった対琉
貿易
は︑
いずれも同藩の改革を特徴づけた特異な側面であったυところで前述の﹁改革書類﹂に
よれば︑三都・南都および国元の藩伎の元利払いは︑改革開始後一時中止されていたが︑天保七年に
︑ − ︑
F
︑
し 中 心
tノまず京・大坂の分について︑元金千両につき毎年四両ずつ返済する︑年賦本入仕法︵二五
O
か年々賦で一万金のみを返済する仕法︶が実行に移された︒またその際従前の正文を取りあげて新しい通
返済のつどその金高を記載させることとし︑
︵出川︶之御借財︑先無異儀治定之形罷成中候﹂と述べているQしかしこのような返済仕法が尋常の千段で実
帳を
渡し
︑
江戸の分も翌八年から実施Lたので︑﹁莫太
施されることはおよそあり得ないことであり︑何らかの脅迫ないし治討が介在したものと考えなけれ
ばならないであろうυ事実土屋喬雄教綬は︑この点について調所の子孫の談話を引用し︑証書の書替
えと称して回収のうえ焼き捨てた︑一種の諭討によるものと推測しているυ
︵﹃
封建
社会
崩懐
過刑
判の
研究
﹂
四
O
八ページ︶@また﹃県史﹄第二をによれば︑改革に際して新組銀主として調所をたすけた大坂の出支犀係兵衛は︑
右の仕法の立案者として投獄され︑また瀧主斉興や調所も債権者の追及をおそれ︑一両年は大坂藩邸
︵ 却
﹀
に立寄ることができなかったといわれている︒いずれにしてもその仕法は︑通常の返済方法とはおよ
そ縁遠い︑負債の踏倒しに等しいものだったということができるのであるu
その特異な仕法︵苛烈な耕作強制と倣
︵ 初
︶
底した藩専売︶の点でも︑同藩の改革を鮮明に特徴づけた﹁御改革第一之根本﹂であった︒ 他方︑三島砂糖惣買入は︑藩財政に対する貢献度のみならず︑
周 知 の よ
うに大島・喜界島・徳之島の三島を中心とした奄美諸島は︑慶長一四年ご六
O
九︶の琉球の役によ
って︑琉球王府︵中山府︶領から分離され︑蔵入地に編入された地域であった︒﹃県史﹄第
二巻 に
よれ
ば︑この地方の廿煎の栽培と製糖は慶長年間にはじまったといわれるが︑その普及にともなって藩は︑
元禄八年︵一六九五︶から大島・喜界島へ黍検者を派遣し︑また同一
O
年からは︑現地の地方役人を
黍横目に任命して︑黍作の監督と砂糖の買上に当らせたのであったυ買上は︑あらかじめ訓当てた定
量の砂糖を︑定量の米と交換する強制買上であったが︑交換率がすこぶる割安だったうえに︑割当量
︵ お
︶
は年を追って増加したuまた藩財政の窮迫にともなって安永六年︵一七七七︶には︑三島において惣
︿川品︶買入が始まり︑天明七年︵一七八七︶まで統いたのであった︒天保期の惣買入はこうした経緯をふま
えて︑島民からの収奪をぎりぎりの極限まで追及したものということができるのである︒事実︑
島・喜界島・徳之島の三島では︑天保元年の惣買入開始とともに黍作の拡張や横目・黍見廻の増員が
指令され︑きびしい作付強制と﹁回畠山野迄も﹂の黍作がすすめられたUたとえば大島では︑総割当
面積
を二
︑
四
OO
町歩とし︑男は一五歳から六O
歳まで︑女は二二歳から五O
歳までの作用夫に対し大
薩摩藩の天保改革と奄美,沖縄 223
て︑資産の多少を勘案しながら上男一段五畝︑中男一段二畝︑下見八畝︑上女人畝︑中女六畝︑下女
三畝といった作付地の強制割当がおこなわれた︒しかも割当地の耕作や製糖作業に対する監督は苛烈
をき
わめ
︑﹁
黍横
目・
黍見廻の指揮に背く者︑甘煎の刈株高き者︑制捜糖粗悪なる者等は︑道路修繕等の
224
科役を課し︑或は札を被せ︑或は首伽・足械に処する等︑軽重
に従
って処罰した︒抜砂糖を企てた本
人に至っては死罪︑同志
の者
重きは遠島
に処
し︑
且つ少量の砂糖も品民の消費或は貯蔵する
を許
さず
︑
指頭に之を点じて性める者にも鞭を加へ︑児童の甘蕉を窃食するさヘ︑捕へて棒縛りとし︑地上に曝
︵ 潟
︶
らした﹂というすさまじさであった︒そしてこのようなきびしい耕作強制のうえに︑島内外のすべて
の私取引を禁止し︑全砂糖を貢租および専売品として藩庫に吸収する︑徹底した惣買入が実施された
のであった︒前掲の﹁改革書類﹂によれば︑このような仕法をつうじて藩庁は︑改革開始から天保一
O
年ま
で一
0
か年間に︑改革前一0
か年の販売額を九八万余一両上回る︑二三五万両の販売成績をおさ︵況︶め︑藩財政再建の最大のよりどころとすることができたのであった︒天保期における同蒋財政の再建
の鍵は︑旧琉球領におけるこのような奴隷労働にも似た強制耕作と︑苛烈な専売仕法にあったといわ
なければならないのである︒
ところでこのような惣賀入とならんで注目しなければならないのは︑琉球をつうずる中同との交易
であった︒周知のように琉球と中国
との
交流は︑すでに明朝初期の一四世紀後半から進京︑冊封のか
たちをとって続けられていたが︑このような関係は琉球の役後も︑削器のつよい願望と幕府の
了解
の
もとで続けられ︑明朝滅亡ののちは承応二年︵一六五三︶以降︑清朝ともほぼ同様の関係が維持され
︵お
﹀
たむもっとも進貢の周期︑船数︑進貢料銀などは時代によってしばしば変動があったが︑寛文・延宝
期からはほぼ進貢船二隻と接宍船一隻がそれぞれ隔年に渡航することが容認され︑また進穴・接只料
︵
滑
︶
も貞享四年以降︑前者は銀八
O
四貫︵一万一 一 一
︑四
OO
同︶︑後者はその半額と定められたοまたこのほか中山王襲封の際は︑江戸時代をつうじて前後一
O
回の冊封使が中国から琉球ヘ一派遣され︑その際も︵ 仰
︶
またいわゆる冠船貿易がおこなわれたのであった︒同藩のねらいは︑このような交易関係を温存して
その果実を藩庫に一取り入れることにあったωそしてこのような目的のために中山府に対して進貢・後
︵川叫︶貢料銀を貸与し︑また誠銀や交易口川を渡して貿易額の増加をはかったのであった︒
しかしこのような琉球を通ずる交易は︑幕府の貿易統制の強化や長崎貿易の不振にともなっ
て︑
し だいに制限をつよめられたuすなわちまず上述の進貢料銀は︑元禄期の通貨の悪鋳をつうじて大幅に 減価したのち︑正徳山年の良貨への再改鋳に際して六
O
四貫に減額され︑接貢料銀もこれに準じて三︵U︶
O
二貫とされたνまた輸入唐物の取締もしだいにきびしくなり︑従政元年には白糸・紗綾以外の脇光︵円山︶がすべて禁止されたυそして文化七年には︑藩側からの再三の出願によって羊毛織・鍛子など八品目
の販売が白糸・紗綾にかわって免許されたが︑これとひきかえに︑以後琉球からの唐物はすべて長崎
へ回送し︑会所をつうじて販売するよう命ぜられたのであったυ
老中・勘定奉行・長崎奉行等の手に成る幕政史料に︑同藩の密貿易にかんする疑惑があらわれはじ
店法摩藩の天保改革;と11!長,沖縄 225
める
のは
︑
ほぼこの頃であるυ箭内健次編﹃通航一覧続輯﹄には︑文政・天保期における薩藩の店物
226
抜荷関係の史料が多数ふくまれているUたとえば文政八年には︑長崎貿易に従事する中国内人から長
崎会所へ願書が提出され︑会所のほか脇売を禁止されている依物
︵い
りこ
︑干
しあ
わび
︑鯨
のひ
れ︶
や
一一一ツ石昆布が薩摩から琉球をつうじて福建へ持ち込まれ︑長崎からの中国船が帰着しないうちに売り
さばかれるので︑損失をうけて難渋している旨が訴えられているし︑また天保期にはこうした抜荷の
れ 疑
て 惑
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る♂さ
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く な
同六年には老中大久保加賀守︵忠点︶から︑勘定奉行に対して探ポが命ぜら
それによれば当時同藩の領内では︑﹁鹿児島ハ勿論︑共外大隅守領分島々一等え店船相掛︑
交易いたし候趣ニ一山︑山口物類抜荷鹿児島表移敷有之:::琉球国産物之内え取交︑長崎支え相廻売捌候
日間
も有
之由
﹂と
いわ
れ︑
また﹁薩州鹿児島より朝鮮国え時々交易船差泣﹂し︑交易をおこなっている
ので︑幕府から公認された対応藩の交易が打撃をうけていることがうわきされていたυ同書には︑こ
のような老中の指示を受けた勘定奉行︑長崎奉行等の調査報告も収録されているが︑それによれば︑同
藩の密貿易の容疑はきわめて濃厚であったυたとえば勘定奉行土方出雲守︵勝政︶の一一日上書は︑
越 後
国の俵物請負人どもの中立てにもと︑ついて︑天保四年に同地の浦々を調査したところ︑新潟海老江付
近において薩州船の省民の情報が得られたと述べているし︑また長崎奉行久世伊勢守︵広正︶の一一一一同上
書も︑薩州家は庶物の代川として依物を差遣わすようなことは全くなく︑近頃は抜荷の即科を犯す制
民もいなくなったと中立てているが︑﹁右は全く抜荷物も産物之内え4
取交
︑
当地
え差
廻し
候一
一付
︑ 顕
︵川叩︶露ニ抜荷を取扱候様相成︑別段罪科等中付候一一も不及訳一一可有之此一一被察候﹂と手きびL
い ︒
ところでこのような疑惑は︑﹃県史﹄第二巻や
﹃沖縄県史﹄第三巻に収録されている中国側資料
︵周益州﹁道光以後中琉貿易的統計﹂︶によってあきらかなように︑架空の風説ではなかったω事実所以
琉球から福建へ輸出された商品のの出入口統計によれば︑清朝道光一五年︵一会二︑文政四年︶以降︑
なかに︑大量の俵物・昆布が存在したばかりでなく︑天保初年以降激増した事実を認めることができ
る︒しかもこれらの貨物は︑別海関監督によって記帳された正規の通関貨物であり︑不時の漂到船の
︵ 相
︶
積載貨物と考えることはできないuまたこれらの禁制品の調述も︑薩藩側のきびしい統制と監視体制
︵ 加
︶
からいって︑他の大和尚人からの調達を想定することは悶難であるυしたがって右の禁制品の出所は︑
包
薩藩をおいてほかになかったものとみなければならないのであるυ
財政改革がはじまった天保初年かパ
い よ
らの激増も︑このことを裏付けているようにおもわれるυ色
他方琉球への輸入品も︑他販禁止の品目を他数ふくみ︑また免許品の輸入も天保初年から激増したω革
心人
藩 の 天 保 ー し
産 て長崎会所へ問送されることになったしかしその後藩側からの再三の願によって︑品目・年限・数︐ 岸 ω すでにふれたように薩滞関係の庶物の他販は︑文化七年にいたって︑従米の白糸・紗綾にかわる八日川口
︵ 日
︶
︵薄紙︑五色唐紙︑鉛︑羊毛織︑丹通︑椴子︑担燕脂︑花紺青︶が数量︑年数を限って認可され︑同時にすべ
量などがしばしば変更され︑文政八年には向う五か年聞を限り計一六品目︵一か年販売銀高一︑七一一
O
︵ 臼
︶
貫 目
H二万八︑六六六両︶が認可されたそして天保二年にはふたたび五か年︑天保七年にはさらに二u
227
︵ 日
︶
0
か年間延長されることになったのである︒このような長崎での販売額によって︑どれ程の純益をあげたかはつまびらかでないが︑﹃県史﹄第
2~8
二巻に収録されている弘化四年の数字によれば︑この年同藩は長崎における銀九四七・八貫にのぼる
︵ 臼
︶
売上高によって︑五︑四六三両三分の純益をあげているQよっていまこの利益率を準用すれば︑銀一︑
七二
O
貫の売上高について九︑九一五両二分の純益を推計することができる︒ところで弘
化四年の右
の売却益は︑藩内での店物売却益や琉球での鹿児島産物︵綿︑たばこなど︶の売却益をふくめた全売却
益︵一万三︑六四四刈﹀の四
O
パーセントにすぎなかったQよっておなじくこの比率を準用すれば︑文政八年l天保六年頃の全売却益は︑年間約二万五︑
0 0
0
凶前後にのぼったものと考えることができるの
であ
る︒
しかも以上の金額は︑帳簿上の正規の売上額および利益額であって︑長崎以外への他国出し
はふ
く
まれていない︒じかし前記の出入口統計によれば︑福建から琉球への各種商品の輸入量は︑白糖・上
質唐
紙︵
甲紙
・毛
辺紙
︶︑
鉄針など他販禁止とおもわれるものもふくめて︑天保初年から激増してお
り︑この増加分や他販禁止分がすべて自領内で消費されたと考えることは困難である︒事実﹃県史﹄
第二巻もこの点について︑﹁悉く琉球及び薩藩領内で消費されたか否か断定し難いが︑
︵ 日
︶
量増加は他領売捌を
H
的として行はれたとも想像される﹂と述べているQいずれにしても
天保初年か
らの同藩の対琉︑対清貿易は︑輸出品のみならず輸入品についても︑抜荷の疑いがとりわけ濃厚だっ 天保以後の数
たといわなければならないのである︒
このような抜荷問題は︑天明期以来将軍家の外戚として威信をたかめてきた同藩に︑附いかげを落
した
︒
もっとも当初は幕府側の札明もそれほどきびしいものではなく︑前記文政八年の場合には︑
長崎会所吟味役︑調役︑町年寄生げに調査を命じ︑﹁向後不相弛様︑
︵関
︶
一水
する
にと
どま
った︒しかし天保六年には前述のように︑老中大久保忠真の指示によって調査がすす 取締筋可被仰渡哉﹂との具申を了
められ︑勘定奉行および長崎奉行から︑それぞれ言上書が提出されたのであった︒しかしこの場合に
も︑﹁薩州一一おゐて抜唐物密売買等之風間︑前々より及承候儀一一御座候得共︑同国え御手入之儀等は
︵幻
︶
不容
易﹂
こと
︵勘
定奉
行一
一一
一口
上書
︶で
あっ
た
︒そのためさしあたり同年夏には日付を派遣して長崎表の取
また俵物主産地の松前滞と抜荷の疑のつよい薩摩藩へ取締方を厳命して︑以後の再
︵加
︶
発を防止することにしたのであったu 締をきびしくし︑
しかし今回の処分はこれにとどまら
なか
った
︒
すなわち翌七年四月には︑あらためて長崎奉行から
抜荷取締について︑﹁是迄薩州表抜荷筋取締宜と之申立は難取用故一一候間:::琉球産物売捌方之儀は
︵日
︶
以来御差止相成候方可然哉ニ奉存候﹂との言上書が提出され︑これにもと守ついて翌八年には︑十年以
ハ
ω
︶降琉球産物の売捌を禁止する幕命が︑同藩に達せられたのであった︒しかしこうした幕命にもかかわらず︑同藩の抵抗は止まなかった︒すなわち同十一年十二月には藩側から︑迷路伝達の手違いのため︑
同十年分の琉球産物が回
世 相
し︑また九年には冊封使も薬種類を持参したので︑同年の残品とともに長
薩摩藩の天保改1(!:と奄美,沖縄 229
崎での売却を認可してほしいという願書が提出され︑翌十二年五月︑薬種を除いて特別に認可される
︵引︶ことになったりこのような願書は︑その後も琉球の窮状を理由に︑再三提出されたようであり︑結局弘
︵印︶一六級︑年間銀一二
OO
貫の売却が認可されることになったのである︒230
化三年には向う五年間を限り︑
しかし府物売却をめぐるこのような幕薩関係の同復は︑その後程なく陥転した︒抜荷についてのつ
よい疑惑がふたたび拾頭し︑改革主任の調所笑左衛門に追及の眼が向けられることになったからであ
った
︒新しい疑惑の動機についてはつまびらかでないが︑前述の出入口統汁によれば︑琉球への唐物
の輸入が︑天保十年以降もか
なり
の
E
にのぼったことは事実であったυそして後に伝えら
れたところ
︵
ω
︶ によれば︑抜街の事実も﹁公辺へハ存分委敷相しれ居候趣﹂であったといわれている︒このような状況の推移は︑弘化四年から嘉︑水二年頃までの島津斉彬の書簡にも︑断片的ながらあら
われているυたとえば弘化四年八月の舟沖久宝宛書翰には﹁調所事伊述︵京城︶よりもれ候事とそん
︵制︶
し候
よし
﹂︵
カ
ッコ
内筆 者注
︶と あり
︑また同年九月の山口定救宛書簡では
︑昆布の売
買をめぐる幕閣
︵侃︶の疑惑が取り沙汰されているじそして翌嘉氷元年七月の山口宛書簡では︑﹁笑︵笑左衛門︶事此度之出
︵ 一仙
︶府は少しあふなき事とそんし候︒阿部︵正弘︶事何か申候様子−一間得申候﹂︵カッコ内向前﹀とあり︑幕
問の
追及
が︑
ようやく調所の身辺に及ぼうとしていた事情をうかがうことができる︒
同年十二月十八日︑渦中の調所は江戸落邸で吐血し︑死亡した︒死因は幕府の追及による服毒自殺
と伝えられているωそしてこれにともなう二階堂行建︑海老原清燃ら調所側近の役免のなかで︑現二