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ベリ・セント・エドマンズのハイ・ストリート : 1830~1869 年の人名録の分析から

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ベリ・セント・エドマンズのハイ・ストリート

―1830〜1869 年の人名録の分析から―

1 小西 恵美 はじめに 長い 18 世紀のイギリスでは消費社会化が進展し、都市ルネサンス期を迎えた。都市は洗練 された上品な空間を創造し、新しい生活様式や社交、娯楽を提供するようになったが、この余 暇的消費空間で目立っていたのは奢侈的流行品を扱う常設小売店舗であった。これらは都市住 民だけでなく、周辺の農村や小都市のジェントリや商工業者たちにも商品やサービスを提供し ていたが、商品を売買する経済的機能だけでなく、店主や客同士の社交や商品のブラウジング など社会的機能や娯楽的要素も要求された。こうした付加的機能をもつ店舗は都市の中心部に 集中して立地する傾向があったが、消費社会化の進行に伴い都市の空間が再編成される中で出 現したこのようなファッショナブルな通りの最たる例が、ハイ・ストリートである。ハイ・ス トリートの存在は都市の名声を高め、都市内外からの集客に一役買った。ハイ・ストリートは 消費とレジャーが相互に作用しあう究極の「買い物空間」であり、ポライトな消費文化を象徴 し、都市の誇りやアイデンティティの根拠ともなる小売空間であった。 18 世紀以降のイギリスの小売店に関する研究は、商業史だけでなく、都市史や消費史分野の 研究者の参入もあり、近年活発になってきた2。その中でも近代的小売方法の出現についての研 究では、店舗での買い物は経済的行為というだけでなく、文化的・社会的行為とも捉えられ、 個々の店舗で店主と顧客がカウンターを中心に作り出す社会的・文化的交渉も買い物空間とし て分析対象になっている3。しかし、買い物空間は個別の店舗内に限定されるものではなく、個 別の店舗が集積する通りや区画という物理的空間も含むものであるにもかかわらず、そのよう な重層的空間としての買い物通りが分析対象になることはあまりなかった4。また、小売店舗の 1 本稿は以下の研究成果の一部である。2019 年度専修大学研究助成(個別研究)『小売業の展開と「質的都 市化」1750-1850 年―イギリスの事例を中心に―』;2020 年度科研費基盤研究 C(個人)『長い 18 世紀イギ リスの都市化における小売業の役割』;2020 年度科研費基盤研究 B(代表・山本千映・大阪大学)『工業化 以前の都市の機能と経済発展:「長期の」18 世紀イギリスを中心として』。 2 イギリスの小売業に関する研究動向や今後の課題については、拙稿(2017 年)「長い 18 世紀のイギリス 小売業―都市史からのサーベイ―」『専修経済学論集』128 号, pp.79-93.

3 Cox, N. & Dannehl, K. (2007), Perceptions of Retailing in Early Modern England, Aldershot, esp. Ch.7; Stobart, J., Hann, A. & Morgan, V. (2007), Spaces of Consumption: Leisure and Shopping in the English Town, c. 1680-1830, London, esp. Ch.6.

4 大陸ヨーロッパ諸国に関してはいくつかの事例研究が出てきたが、イギリスの小売りの場の研究は、史

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研究は、主に奢侈的流行品を扱う店舗に関して進められてきたが、18 世紀後半以降にその数を 増加させてきた常設小売店の全てがファッショナブルな店舗であったわけではない。しかし研 究対象の偏りによって、新しい小売店舗の多くが奢侈的流行品店であり、都市の広い範囲でそ のような店舗が見られたかのような誤解を生じかねない。消費のための空間としての都市の実 態を明らかにするためには、店舗の種類とその立地の仕方について正確に示す必要がある。本 稿では店舗の集合体である「通り」に争点をあてながら、奢侈的流行品を扱う店舗だけではな く、日常必需品を扱う店舗がそれぞれ都市内にどのように立地しているのかを検討していく。 そして、奢侈的流行品店が集積するハイ・ストリートとその他の通りを比較検討しながら、ハ イ・ストリートの特殊性を明らかにする。 長い 18 世紀の終盤以降、多数の店舗が出現し、それらが集中して立地する通りがいくつも 見られるようになったが、その中でもハイ・ストリートの特殊性は際だっている。ハイ・スト リートはイギリス都市ルネサンス時代にそれまでの経済的・社会的な中心であった市場広場に 代わる新しい都市の顔として発展した。とはいえ、物理的意味としてのハイ・ストリートは18 世紀に新設されたものではなく、それ以前からずっと、都市の中心部や市場のそばに位置する 経済的導線であった。地元住民から馴染み深い愛称で呼ばれていた、町で一番のメイン・スト リートは、全国に通用するような正式な名前をつけようとする近世末の動きの中で、「ハイ・ス トリート」と命名された。たとえば、キングス・リンのメイン・ストリートは中世以来、火曜 市広場に続くまっすぐな通りであったが、13 世紀にはブリッグゲート Briggate と呼ばれてい た5。そして16 世紀半ばには、その通りは火曜市広場に近い方からクック・ロウ Cook Row と マーサー・ロウMercer Row、ブリッグゲートと三分割して呼ばれるようになったが6、その後、 18 世紀の間にそれらを再統合してハイ・ストリートと命名されたようである7。エクセターや ハルでもまた、ハイ・ストリートと改名された。しかし全ての都市において、都市化や近代化 の過程でハイ・ストリートと改名されるわけではない。改名の際には少なからず住民の抵抗は あり、古くからの通り名がそのまま使われ続ける例もあるし8、ベリ・セント・エドマンズ(以

Retail Location and Urban Form in Amsterdam in the Mid Eighteenth Century’, Urban History, 38-1, pp.24-47; アントワープについては Damme, I. V. & Aert, L. V. (2014), ‘Antwerp Goes Shopping! Continuity and Change in Retail Space and Shopping Interactions from the Sixteenth to the Nineteenth Century’, in Furnee, J.-H. & Lesger, C. eds., The Landscape of Consumption, Basingstoke, pp.78-103; パ リ は Coquery, N. (2014), ‘Shopping Street in Eighteenth-Century Paris’, in Furnee & Lesger,

Landscape of Consumption, pp. 57-77.

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や価格、店主情報から経営スタンスに至るまで、人名録やセンサスには決して書かれない様々 な店舗情報を提供する。ただし、どの都市についても同じように広告が存在するわけではない。 相対的に多くの情報を得られるのは、その都市が主となって新聞を発行し、かつ掲載広告数が 多い場合であり、そのような都市は限られている。さらに、新聞広告は、人名録やセンサスと は異なり、掲載する店舗に偏りもあれば、主観的意見や判断も加わる。広告を掲載するのは比 較的大きな店舗が多く、その業種も、地理的立地も偏っているため、あらゆる店舗分析に万能 というわけではないが、ハイ・ストリートに限って言えば、経営の実態を知るための格好の史 料となり得る。また、広告とは基本的に店主が自店の販売促進のために掲載するものであり、 その情報の客観性は必ずしも高くない。しかし、その分、当時の商業活動のダイナミックな実 態を示すという、その他の史料にはないメリットが見られる。 異なる特性をもつこれらの史料を複合的に利用することによってハイ・ストリートの分析可 能性が広がることは明らかであるが、本稿ではその第一段階として、人名録を主とした基礎的 分析を行う。事例として、1830 年から 1869 年のベリを取り上げ、そのハイ・ストリートの概 観を捉えたい。 1.社交都市ベリ ベリは、州都のイプスウィッチの北西40 キロに位置するサフォーク第二の都市であり、「サ フォーク西部の首都」でもある。隣接する州のキングス・リン(65 キロ)やノリッジ(75 キ ロ)、ケンブリッジ(45 キロ)に近く、イースト・アングリアのほぼ中心に立地する。またロ ンドンとも115 キロしか離れておらず、首都の影響を大きく受ける場所にあった。東西に 1.5 キロ、南北に2.5 キロほどの広さをもつベリは、18 世紀後半には人口が 7,000 人に達していた9 キングス・リンと並び、イングランドの都市のヒエラルキーにおいて比較的上位に出てくる地 方都市として分類されていたが、その人口規模を維持したまま 1820 年頃までは大きな変動は 見られなかった。1820 年代に一時的に人口は大きく増加し、1830 年までに 11,000 人を超えた ものの、その後また増加率はやや低下し、1851 年には 13,900 人であった10。ベリもまた、キ ングス・リンやその他のイースト・アングリアの都市と同様に、工業化の流れからは取り残さ 9 ベリの人口に関する最古の記録は、エドワード 3 世時代の 1377 年のもので、3,500 人とされる。エリザ ベス期には、少なくとも4,000 人以上、1757 年には、セント・メリー教区(3,122 人)とセント・ジェイ

ムズ教区(2,697 人)を合わせ 5,819 人、1775 年には 7,135 人であった。Deck, J. (1836), A Guide to the Town, Abbey and Antiquities of Bury St Edmunds, and Other General and Useful Information, second edition, Bury St Edmunds, p.95.

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れた都市であり、イングランド北西部やミッドランドの工業都市のような爆発的な人口増加を 決して経験することはなかったのである。 17 世紀までのサフォークは旧毛織物の生産で栄えており、ベリはその中心地として機能して いたが、その後、新毛織物が入ってくるとサフォークの毛織物産業は衰退し、新毛織物の生産 は隣州のノリッジやコルチェスターが中心となった。18 世紀のベリでは毛織物はほとんど生産 されていなかった。その代わり、リンカーンシャーやミッドランドの短毛種の羊毛を使った紡 糸業にたずさわり、もっぱらノリッジのウーステッドやその他の地域に向けて供給するように なった。とはいえ、その規模は小さく、町の経済の屋台骨になるようなものではなかった11。ベ リの経済は、以前から製造業よりもむしろサービス業が支えており、18 世紀になり多くのジェ ントリたちがベリを訪問するようになったことで、よりその傾向が強くなったのである。

ベリが社交の中心地であったのには理由がある。古くはベリ修道院 the abbey of Bury St Edmunds への巡礼者が集まる場所であり、また、サフォーク西部の交通の要所であり、あら ゆる道路が集結し、地域の中心としての機能を果たしていた。修道院解散後は、ジェントリら はこの地を行政の中心地に転身させることとし、ギルドホールや市庁舎だけでなく州庁舎や州 裁判所をおき、巡回裁判や四季裁判等が開催されるようになった。加えて、サフォークのニュー マーケット競馬場は 17 世紀にすでに全国的な知名度を得ており、全国から流行の先端を行く 富裕者が集まっていたが、そこに地理的に近かったことも社交の中心地としてのベリの地位を 強める要因になった。こうしたベリにさらなる名声が加わったのが 18 世紀のことである。当 時の日記作家のサイラス・ネヴィルも叙述したように、ベリが高台に広々と立地し、温暖で空 気が乾燥していることから、健康に良い場所として推奨された12。ベリはフランスの地中海に 程近いバカンス地を引き合いに「イングランドのモンペリエ」に例えられるほどであったが、 イングランドで一番とも言われる空気の良さを求め、肺病患者たちも療養に訪れることも多 かった13。遠方からの来訪者は、頻繁に運行されるロンドンや主要都市間との乗合馬車の定期 便を使い、エンジェル・インをはじめとするいくつもの評判の良い宿に宿泊し、ベリの滞在を 楽しんだ。 18 世紀半ばには「全般にとても気持ちの良い町で、快適な生活を送るあらゆるものが備えら れていて、上流層の人々がこれほど集まる町はイギリスでは見られなかった」が14、18 世紀末

11 Fiske, J., ed. (1990), Oakes Diaries: Business, Politics and the Family in Bury St Edmund’s,

1778-1827, Woodbridge, p.18.

12 Cozens-Hardy, B. ed. (1950), The Diary of Sylas Neville 1767-1788, London, p. 303.

13 Green, W. (1776), A Description of the Ancient and Present State of the Town and Abbey of Bury St

Edmunds, in the County of Suffolk, Bury St Edmunds, p.78; Universal Directory (1791-98). しかし、サ イラス・ネヴィルは健康に良い場所であることは認めたものの、ベリがイングランドのモンペリエに例え られるほどの場所ではないと考えた。Cozens-Hardy (1950), p.303.

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には、都市のインフラにさらに多くの改良事業が重ねられた。古く傷んだ舗装は次々に改良さ れ、至るところで日々改善が見られ、個人の住宅もたくさん新築された151780 年代に大規模 に改修されたアセンブリ・ルームは、イギリスでも右に出るものはほとんどないと言われるほ どであった。そこでは歳市の時のアセンブリを筆頭に、年に5 回の会費制パーティーをはじめ とする上流層の人々の集いや、また巡回裁判や四季裁判、選挙時に開催される幅広い社会階層 の人々が集う数々の社交イベントが開催された16。劇場もまた社交の中心地になった。1811 年 に改良法(1820 年に修正法)が施行されると、公共建築物の改修や道路の舗装、ガス灯の敷設、 ゴミや障害物の除去など、機能と外観、両方を追求した改善が急速に進行したが、劇場の新築 もこれに追随したものであった17。元々ベリにあった劇場は1778 年にマーケット・クロスに建 てられたものであった。古い劇場も大規模なもので多額の建築費をかけており、ノリッジやロ ンドンなどの劇団が公演を行って観衆を魅了していたが、さらに豪華なものを新築したのであ る18「首都以外のどの劇場もこれにはおよばない」新しい劇場が建築されたのは1819 年のこ とで、それ以降、古い劇場はコンサート・ホールや舞踏室として使われるようになった19 ベリは各種サービス業も充実しており、医者、薬剤師、法律家などの専門的サービスや、小 売店舗を求めて来訪する者も多かった。とりわけ歳市の開かれる時期は提供されるサービスも 商品も拡大し、来訪者でにぎわった20。歳市は年に3 回(イースター、10 月、12 月)開催され たが、中でも最も古くから続く 10 月市は盛況であった。ロンドン、ノリッジ、イプスウィッ チ、コルチェスター、そして海外、とりわけオランダの商人たちが屋台を出し、最新流行の商 品を販売した21。もっとも、他都市の歳市と同様、ベリの歳市も18 世紀が進むにつれ、経済的 機能は薄れてきて、取引量から見ると徐々に衰退していった22。しかし、様々な種類の商品、と くに流行の装飾品や小物玩具toy などが大量に出品される流行の先端をいく歳市として名をは せ、イングランドでも有数の歳市であった23。歳市の期間は、ベリは最上流層の集う場になり、 修道院長abbot が彼らのために一席を設けたが、フランス国王の寡婦マリーもその一人で、毎 年、サフォーク公爵夫人と共に訪問していた24。商業市としての機能にも増して、社会的機能

15 Ibid., p.77; Universal Directory (1791-98). 16 Fiske (1990), p.192.

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の重要性が高かったことがわかる。 このようなファッショナブルなベリの中核にあったのはアビーゲート・ストリートである。 アビーゲート・ストリートは長い間クック・ロウCook Row と呼ばれてきた。調理小屋をはじ めとする修道院を維持するために必要な施設が立地しており、古くから町の主要な通りとして 機能していた25。とはいえ、1740~50 年代にはまだ店舗の数は少なかった。また店舗の建物も 近代的なものではなく、窓にサッシが入っておらず、荒天時は開店できない店も多かったと言 われる。市場広場にも隣接する好立地の食料雑貨店はベリで最大規模の店舗でありながら、窓 ガラスはなく、雨の日はホップ用の麻布を積み重ねて浸水を防ぐこともあった。しかし、18 世 紀末になると、この通りは大きな発展を遂げ、1782 年にはサッシの入っていない店舗は通りの 一番端にあった樽桶店だけになっていた26。クック・ロウは1792 年にアビーゲート・ストリー トと改名されたが、この頃には、すでに、ハイ・ストリートとしての機能を備えていた。 2 節以降では、人名録をもとにして、店舗が集中して立地するいくつかの通りを比較しなが ら、ベリのハイ・ストリート、アビーゲート・ストリートについて検討していくことにする。 2.通りの形成過程とレイアウト まず、ベリの通りのレイアウトについて説明したい。ベリは町の東部から北部を流れるラー ク川River Lark と南部を流れるリネット川 River Linnet に囲まれた地域である。町の東には アビー・ヒルと呼ばれる丘があり、町全体が緩やかな斜面に立地している277 世紀には南北方 向にベリ最古の通り(①現ノースゲート・ストリート、②現サウスゲート・ストリート)が建 設され2811 世紀半ばにすでにサクソン人の定住地になっていたが(地図 1−1)、ノルマン征服 後、フランス人のボールドウィンBaldwin が 1065 年に修道院長に就任し修道院を建設すると、 町は大きく発展した。約20 年の間に 342 軒の新しい家が建てられ、11 世紀末には修道院を中 心とする碁盤の目のレイアウトができていた(地図1−2)29。その核であったのは修道院の正面 から真っ直ぐに東西方向に伸びていた通り(③現チャーチゲート・ストリート)であり、中世 25 Ibid., p.106. 26 Green (1776), p.78. 27 Ibid., p.77.

28 Statham, M. (1998), ‘The Medieval Town of Bury St Edmunds’, in Gransden, A. ed., Bury St Edmunds

Medieval Art, Architecture, Archaeology and Economy, London, pp. 98-99.

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地図1−1 1066 年頃のベリ

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地図1−2 1086 年頃のベリ

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地図1−3 1159 年頃のベリ

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のメイン・ストリートであった。それに平行して、北側と南側にそれぞれ1 本ずつ(④現ルー ムズ・レーンとブレンド・ゴベル・ストリート、⑤現ウェストゲート・ストリート)通りがあっ た。一方、南北方向には 4 本の通り(⑥〜⑨現エンジェル・レーン、ハッター・ストリート、 ウィッティング・ストリート、ギルドホール・ストリート)がほぼ平行に走っていた。当時の 人々は、これらの南北方向の 4 つの通りと東西方向のメイン・ストリートに居を構えており、 この区域が当時の市街地であった。(この地区を本稿では「旧市街地」と表記30)その後、12 世紀に修道院の西隣にセント・ジェームズ教会(⑩)が建設されると、その場所に居住してい た人々が立ち退きを命じられたが、代替の居住スペースとして、メイン・ストリートに平行し た東西に伸びる通り(⑪現アビーゲート・ストリート)が新たに作られた31。修道院の正門であ るアビー門とグレート・マーケットの南端を結ぶこの通りは大いに栄え、次第にそれまでのメ イン・ストリートに取って代わっていった(地図1−3)。その後、旧市街地の外側の地域は、町 の外周に排水路ditch や市壁 town wall が設置され、市門(北門、リスビー門、西門、南門、 東門)で囲まれた地区は徐々に発展し、15 世紀半ばまでには市場広場よりも北部の地区の割り 付けも完了した(地図2)32(旧市街地の外側に広がった地区を本稿では「新市街地」と表記。 町の西半分を取り囲んでいた市壁は、本稿の対象時期である 19 世紀までの間にほとんど取り 壊され、セント・アンドリューズ・ストリートに生まれ変わったが、市域のレイアウトはほと んど変わることはなかった。旧市壁と2 つの川で囲まれた中世以来の市域の外側は、東門とリ スビー門からベリの外側に向かうイーストゲート・ストリートとリスビーゲート・ストリート 沿いのみは発展したものの、ほとんどが私有地として囲い込まれていたこともあり、市域はそ れ以上外側に広がることもなく、市街地に割り付けられた通り沿いに建物が建築された33 19 世紀のベリは、アビーゲート・ストリート(㉗)を境として、北のセント・ジェームズ教 区と南のセント・メリー教区の2 つに分かれて統治されていた(地図 3)。セント・メリー教区 はいくつもの通りが東西と南北方向に整然と格子状に走る旧市街地区とその外縁部が含まれる。 一方のセント・ジェームズ教区には、コーン・マーケット(穀物市場)(⑱)、ミート・マーケッ ト(肉市場)(⑲)、バター・マーケット(バター市場)(㉑)から構成される市場広場と、それ に加え、市場広場からセント・アンドリューズ・ストリート(北)(⑤)に18 世紀に移転した キャトル・マーケット(家畜市場)(⑰)が存在し、ベリの経済的ハブを形成していた。また、 30 本稿で「旧市街地」と表記する際は、後にこの区域内に新設されたアビーゲート・ストリートと、修道 院の敷地に隣接する広場のエンジェル・ヒルを含む。 31 Gauthiez (1998), p.90.

32 Gottfried, R. S. (1982), Bury St. Edmunds and the Urban Crisis: 1290-1539, Princeton, pp.14-45; Gauthiez (1998), pp.93-95; Statham (1998), pp.100-101.

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地図2 15 世紀末のベリ

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地図3 19 世紀半ばのベリ

出典:Bury St Edmunds in 1823 by Lenny, L.E.; Bury St Edmunds in 1834 by Payne, R.; Tymm's Handbook - Plan of Bury in 1885 をもとに筆者作成。

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ミート・マーケットはグレート・マーケットとも呼ばれており、市場の中では最大の広さがあっ たが、そこにはシャンブル(屠殺場)やトラバースと呼ばれる一角も含まれた。ミート・マー ケットの隣には、スキナー・ストリート(⑳)を隔てて、かつては魚市場も併設されていたバ ター・マーケットがあった。さらに19 世紀以降、ミート・マーケットからコーン・マーケット の外側を囲むように、徐々にコーン・ヒルと呼ばれる通りができ、そして1862 年にはコーン・ ヒルの最もアビーゲート・ストリート寄りに穀物取引所が建設された。(これらの市場や通り、 施設をすべて含めて本稿では「市場地区」と表記する。)また、市場地区の東には、ハイ・バク スター・ストリート(㉒)とロウアー・バクスター・ストリート(㉓)が南北に走り、ブレン ト・ゴベル・ストリート(⑭)とアビーゲート・ストリートを結んでいるが、この通り沿いに も建物は多かった。 ブレント・ゴベル・ストリートよりも北は既述のように 15 世紀半ばまでには通りが割り付 けられていたが、成長が加速したのは 19 世紀以降である。この地区の通りのほとんどが南北 方向に通っているが、主たる通りは北門を基点として延びる4 本の通りである。修道院に向か うノースゲート・ストリート(①)と、市場広場に向かうロング・ブラックランド(⑥、⑦) とショート・ブラックランド(⑨、⑩)、そして取り壊された市壁の跡に建設されたセント・ア ンドリューズ・ストリート(北)である34 3.店舗の分布 それでは、小売店舗の展開と分布の変化について、人名録(1830 年、1839 年、1844 年、 1855 年、1869 年)を使って検証してみよう35。どの年の人名録も、名簿部分は大きく2 つの パートに分かれており、最初のパートには「プライベートな住民」もしくは商工業従事者以外 の様々な住民、後のパートには商工業従事者が掲載される。前者に含まれるのはジェントリや 寡婦がほとんどであり、一部、牧師や法律家などの専門職も見られるが、全般に掲載者は社会 的地位の高い人々である36。人名録は都市外に居住する「よそ者」に都市情報を与えるのが最 大の目的であるため、こうした人々の掲載は都市の地位や格を高める役目を担っていた。一方、 後者は都市内での営業者と営業提供場所のリストである。掲載者の営業形態は商品を販売する 34 セント・アンドリューズ・ストリートは長い通りで、北側がセント・ジェームズ教区、南側がセント・ メリー教区に立地する。 35 ベリでは、1790 年代のUniversal Directory が最初のものであるが、住所表記があるのは1830 年の

Pigot’s Directoryからである。Pigot’s Directory (1830); Pigot’s Directory (1839); White’s Directory (1844);

White’s Directory (1855); Post Office Directory of Cambridge, Norfolk and Suffolk (1869).

36 上流層として「プライベートな住民」に掲載されている専門職は、その多くが商工業従事者パートにも

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や香水を扱っていたし49、アルフレッド・M・クラークも小物玩具のウェアハウスを経営する傍 らで理髪業も行っていた50 アビーゲート・ストリートには食料・飲料品部門の店舗は15%前後存在するが、その多くが 食料雑貨店(GR)に分類されており、日常づかいのものではなく高級食料・飲料に特化した商 品を扱っており、中にはロウソクや石鹸などの生活雑貨もおかれていた店舗もあった。トマス・ リドレーは総合食料雑貨商や茶商であると同時にロウソク商 tallow-chandler であり、ロウソ クや自身で製造した石鹸などの生活雑貨も販売していた51。こうした総合食料雑貨店に加え、 茶や魚、鶏肉、ゲーム、ソーセージ、野菜、果物など非日常的もしくは嗜好品を専門に扱う店 も見られる。また、輸入物の高級ワインや蒸留酒を専門に販売する酒屋(AL)も常時 1〜2 店 あった52。他方で、日常的な食材を扱う店舗は相対的に少ない。肉屋(BU)は皆無であったし、 パン屋(BK)も存在はするが、そのほとんどが嗜好品的要素の強いペストリーや菓子屋との兼 業であった。日常づかいの商品を扱う店舗が少ないという傾向は、日用雑貨店の少なさにも現 れている。通常、日用雑貨はよろず屋的な店舗(HG)で販売されるが、アビーゲート・ストリー トには見られず、雑貨部門の店はすべて薬屋(DG)であった53 家具・備品部門に目を向けると、家具屋(CB)は 1869 年を除き、1 店ずつしか存在しなかっ たが、一方、金属加工品店(MT)は 3 店程存在した。ここには鉄や真鍮、ブリキなどの金属の 製造・加工を請け負う店や、金属製の備品や調度品を扱う金物屋が含まれるが、流行を追った 商品も多く販売されていたと思われる。この中には製造者兼販売者もいれば、販売だけに特化 する小売業者もいた。例えばサミュエル・ファーンは前者で、鉄、真鍮、ブリキの製造、真鍮 の加工、金物製品の他、ペンキ、顔料など、全部で7 種類の商品を扱っている54。一方、前述 のトマス・ハインはバーミンガム、シェフィールド、マンチェスター製の金属製品を持ち込み、 ウェアハウス形態で販売をしていた55。また、銃の製造と販売を行う店舗もあったが、銃の使 用許可は貴族やジェントリにしか認められていなかったことからも、顧客対象が上層に限定さ

49 White’s Directory (1844, 1855), Post Office Directory (1869). 50 Post Office Directory (1869).

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れていたことは明らかである。この他、時代が進むにつれ、取扱商品の範囲を広げ、農機具や ミシンなどの製造販売を行う店も出現した。家具、金属製品以外の調度品を扱う営業店は、す べてその他(F-OT)に分類したが、主な店舗としては馬具屋や桶屋、陶磁器屋が見られた。加 えて、期間を通して1 件だけであるが、配管・ガラス・塗装・彫刻・メッキ屋という建築職人 (CN)に分類される掲載があった。一見、作業場のようだが、新聞広告を確認すると、実態は 室内装飾品や設備の製造・販売・設置を請け負う大きな店舗であり、外国製や首都ロンドンで 流行の壁紙やクロスも豊富に揃えるファッショナブルな店舗であったことがわかる56。詳細な 分析は、別稿に譲ることにする。 奢侈的新産業部門の店舗の存在がアビーゲート・ストリートを特徴づけるものであることは 既述したが、その多様性もまた注目すべき点である。時計・銀細工店(WT)は、早い段階から 期間を通して数店見られた。最初に現れたのは2 店の銀細工・宝石店であったが、片方の店舗 では、金属装飾品や香水も加えた、アクセサリー全般を取り扱うと同時に、理髪サービスも行っ ており、もう片方の店も傘や日傘の取り扱いがあった。これらから判断すると、どちらも服飾 小物店と大きな違いはなかったと思われる。しかし1830 年代後半以降、時計店が出てくると、 それらは銀細工や宝石も扱ったが、表看板に服飾小物を出すことはなくなり、服飾小物店との 差別化が進んだようである。早い段階で見られたもう1 つの分野は書籍・文房具屋(BO)であ るが、この分野の店舗は何店も見られ、多い年には通りに5 店も並ぶことがあった。本の販売 の他、製本、印刷、文房具の販売を一手に引き受けていることが多く、中には会員制図書館を 併設している店もあった。また、ベリでは19 世紀にはいくつかの新聞が刊行されていたが、そ の編集・印刷所もアビーゲート・ストリートで見られた。 早期に出現した奢侈的新産業部門の店舗が順調に成長する一方で、理髪店やタバコ屋、質屋、 楽器屋など新しい種類のサービス(L-OT)を提供する店舗も次々に現れた。中には音楽販売業 者music seller, music dealer のように、サービスや商品の内容が人名録だけでは推察しにくい ものも含まれるが、この分野の店舗は音楽教師やオルガン奏者など、音楽の専門的知識がある 者が経営することが多い57。1839 年にはジョン・リーブが楽器販売と音楽販売、1855 年には

音楽教師のジェームズ・ラストは音楽販売を行い、1869 年にはジェームズの息子のアルフレッ ド・ラストとプロウマン・ペインは音楽販売とピアノ販売のためのウェアハウスをそれぞれ経 営していた。

56 Bury and Norwich Post, 1850/05/08.

57 音楽教師が音楽販売者を兼ねることも多くあり、何らかの楽曲やパフォーマンスを提供するのかもしれ

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出典:Pigot's Directory (1830). 図1 アビーゲート・ストリートの店舗レイアウト(1830 年) Angel hill 30 AP TL 31 29 AP LE 32 28 GENT 33 n.a. 27 AP LE 34 FD BK 26 n.a. 35 n.a.

Lower Baxter st 25 FN MT 36 n.a. Angel ln

24 FN/SV CB/AG/AU 37 ①AP ②FD/SN ①LE ②GR/HG

23 AP HB 38 AP HT 22 FD AL 39 AP HB 21 AP HT 通 40 AP DR 20 n.a. 41 AP LE 19 n.a. 42 AP LE 18 FN MT 43 AP LE 17 LX BO 路 44 LX/AP WT/HB Hatter st

16 FN F-OT 45 ①AP ②LX ①TL ②BO

High Baxter st 15 ①FD ②AP ①BK ②LE 46 AP LE/HT

14 SV AG 47 AP LE

13 48 AP DR

12 49 AP HB

11 ①FD ②FD/SV ①GR ②GR/WH 50

10 AP LE 51

Butter market 9 n.a. 52 SN DG

8 n.a. 53 ①AP ②LX ① HB ②BO

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出典:White's Directory (1855). 図2 アビーゲート・ストリートの店舗レイアウト(1855 年) を占めるに過ぎなかった。一方、北側では奢侈的新産業部門の店舗の増加が著しい。1830 年に は2 店しかなかったものが、1855 年には 7 店に達した。南側には 3 店しかなかったこととは 対照的である。 本節の分析より、アビーゲート・ストリートはハイ・ストリートとしての特徴を大いにもち あわせていることがわかったが、その特殊性をより明確にするために、次節ではその他の通り Angel hill 30 AP TL 31 SN/SV DG/AG 29 AP TL 32 n.a. 28 AP LE 33 FD BK 27 LX L-OT 34 SV PR 26 n.a. 35 n.a.

Lower Baxter st 25 LX/SV L-OT/OR 36 FD GR Angel ln

24 FN/SV CB/AG/AU 37 AP LE 23 SV AG 38 AP DR/HB 22 FD AL 39 AP HB 21 AP/LX HB/L-OT 通 40 AP DR 20 n.a. 41 LX/AP WT/HB 19 LX WT 42 FN CN 18 AP LE 43 AP HT 17 LX/SV BO/L-OT/AG/S-OT 路 44 LX WT Hatter st 16 SN/SV DR/AG 45 LX/SV BO/F-OT/PR

High Baxter st 15 FD/SV BK/AG 46 ①AP ②LX/AP ①TL ②L-OT/HB

14 LX WT 47 AP LE

13 n.a. 48 AP DR

12 SN DG 49 AP HB

11 FD GR 50 n.a.

10 LX L-OT 51 n.a.

Butter market 9 AP DR 52 FD/SN/SV AL/DG/AG

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扱う傾向があったが、チャーチゲート・ストリートの服地店の中には12 番地のジョン・ベスト のように、当初行っていた服地部門をやめ、仕立屋専業の店に代わったものもいる63。アビー ゲート・ストリートのハイ・ストリートとしての地位が確立するにつれ、逆にチャーチゲート・ ストリートの奢侈性は穏やかに失われていったように見える。1850 年代以降は、居住者の日々 の需要に沿った店舗が増えていった。一方、商工業従事者の数はほぼ横ばいであるのに対し、 中上層の居住者と専門職の数は期間を通して拡大し続け、中上層の人々の住宅機能ももちあわ せるようになったと思われる。 市場地区の分析対象はバター・マーケットであるが、ここもまたアビーゲート・ストリート との共通性を多くもつ。バター・マーケットに圧倒的に多く存在する店舗は衣料・装飾品部門 のものであり、1839 年は全体の 35.5%であるが、それ以外の年は 40%を超過している。その 次に多いのは食料・飲料品部門と家具・備品部門の店舗であり、1850 年頃までは食料・飲料品 部門が優勢であったが、50 年代以降は家具・備品部門が取って代わった。これら上位の三部門 を合わせると、ほとんどの年度で70%を超える。さらに詳細を見ると、流行性の高い商品や奢 侈品を扱う店舗がバター・マーケットに集中していることがわかる。衣料・装飾部門では、多 数の服地店や仕立屋、服飾小物店が配置されているが、その中で最も優勢なのは服地店であり 多い年には 7 店もある。食料・飲料部門では食料雑貨店だけでなく、茶、ベーコン、チーズ、 魚、各種精肉(牛、鶏、豚、ゲーム)、果物などに特化した専門店もある。備品・家具部門では 家具、金物、陶磁器店など色々な種類の店が見られるが、建築関係の職人はほとんどいない。 奢侈的新産業部門の店舗数は少ないものの、本、文房具、時計、宝石、タバコパイプ、理容店 など、取り扱う商品の幅は広い。アビーゲート・ストリートと異なる点は、遠方から来る客や 業者用と思われるインやパブがいずれの年も3 店ある他、法律家や銀行といった商取引に関係 のあるサービス提供者も期間を通して存在していたことである。アビーゲート・ストリートは 小売店舗で通りがほぼ独占されており、サービスを提供する営業所が手薄になっていた。これ は、一般顧客への商売がメインの一般的な買い物通りに対し、市場広場は卸売り部門を兼務す る業者も多かったことが影響しているのだろう。 最後に新市街地の通りを検討してみよう。サウスゲート・ストリートとリスビーゲート・ス トリートは、どちらの通りも店舗数はほとんど同じであり、新市街地の通りの中で最大数の店 舗が並ぶ。両通りの共通点は、多少の年度ごとの差はあるものの、衣料・装飾品部門、食料・ 飲料品部門、家具・備品部門を中心とする店舗がバランス良く、三部門合わせて50〜60%程度、 並んでいることである。ただしいずれも流行を追うような商品ではなく、日常生活での必需品

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付表 1 職業分類記号 AP

DR draper (inc. linen draper, woollen draper)*, mercer, furrier TL tailor*1

HT hatter, straw-hat maker

HB Berlin wool and fancy repository, clothes broker, clothier, dress maker, fancy dealer, furrier, haberdasher, hosier, laceman, leather dresser, milliner, patten maker, perfumer, shirt maker, stay maker, tailor’s trimming warehouse, toy dealer,

umbrella maker

LE boot maker, currier, fellmonger, glover, leather cutter, leather dresser, parchment manufacturer, shoe maker, tanner

FD

GR cane worker, cheesemonger, fishmonger, fruiterer, green grocer, grocer, Italian warehouse, licenced dealer in game, poulterer, sausage maker, tea dealer AL ale merchant, beer retailer, brewer, distiller, mineral water manufacturer, porter

merchant, soda water manufacturer, wine & spirit merchant, wine & spirit importer BK baker, confectioner, flour dealer, miller, pastry cook

BU butcher, pork butcher

FN

CB cabinet maker, French polisher, furniture broker, upholsterer

MT agricultural implement agent, blacksmith, brass founder, brazier, carver, cutler, coach builder, gilder, gun maker, hardwareman, iron founder, ironmonger, machine maker, plough metal, tin-plate maker, turner, wheelwright, whitesmith CN brick maker, bricklayer, builder, carpenter, colour & oilman, glazier, joiner,

lime burner, mason (inc. stone mason, marble mason, monumental mason), painter, plasterer, plumber, slater, statuary, window glass cutter

F-OT basket maker, breeches maker, carver in wood & stone, china dealer, coach trimmer, cooper, cork cutter, cork dealer, dyer, earthenware dealer, glass dealer, harness maker, saddler

LX

WT clock maker, jeweller, silversmith, watch maker

BO bookbinder, bookseller, periodical publisher, printer, printer-letter press, Second-hand bookseller, stationer

L-OT hairdresser, instrumental seller, music dealer, music seller, pawnbroker, pianoforte warehouse, tobacco dealer, tobacco manufacturer, tobacconist

SN

DG chemist, druggist

HG dealer in sundries, dealer in sundries & grocery, shop keeper, soap maker, tallow-chandler

IN

IN beer-house, dining room, inn, pub, tavern

SV

PR academy, architect, attorney, dentist, mechanical & surgeon dentist, photographer, photographic artist, physician, preparatory school, professor of music, public school, solicitor, surveyor, teacher

CL assessor of taxes, collector of paving rate, clerk, corn inspector

TR carriage broker, cart owner, coach proprietor, coach, gig & horse owner, funeral carriage proprietor, horse & gig letter

AG estate agent, fire office, insurance agent, land agent BN bank, banker

AU appraiser, auctioneer

WH merchant (inc. coal, corn, ale, hop, seed merchant), maltsterer, woolstapler S-OT bird preserver, cow keeper, gardener, library, lodging house

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参照

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