欠落と生きること : 徳冨蘆花「砂上の文字」「夏 の月」と『家庭雑誌』をめぐって
著者 平石 岳
雑誌名 同志社国文学
号 90
ページ 45‑57
発行年 2019‑03‑20
権利 同志社大学国文学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2019.0000000648
欠 落 と 生 き る こ と
徳 ︱
冨 蘆 花 ﹁ 砂 上 の 文 字 ﹂
﹁ 夏 の 月
﹂ と
﹃ 家 庭 雑 誌 ﹄ を め ぐ っ て ︱
平 石
岳
はじ めに 明治 二二 年に 実兄 徳富 蘇峰 の主 宰す る民 友社 に入 社し
︑翻 訳や 小 欄執 筆に 従事 する 徳冨 蘆花 の民 友社 社員 作家 時代 は︑
﹁不 如帰
﹂の 連載
︵﹃ 国民 新聞
﹄明 治三 一年 一一 月~ 三二 年五 月︶ まで
︑蘇 峰や 周り の社 員に 劣等 感を 持ち 続け
︑仕 事に 強い 誇り を持 てな かっ た時 期と して 知ら れて いる
︒瀬 沼茂 樹が
﹁十 年間 に発 表し た文 章は おび たゞ しい 数に のぼ りな がら
︑そ れは いわ ば民 友社 員と して の文 章で あり
︑ま だ彼 の作 家と して の面 目を 世に 問う よう なも ので はな い①
﹂ とい うよ うに
︑流 行作 家前 夜の 文筆 活動 は﹁ 雑文 時代②
﹂と これ まで 片づ けら れて きた
︒ しか しこ の雌 伏の 時代 に︑ 蘆花 は社 員と して 民友 社系 メデ ィア に 向き 合い 続け
︑文 学の 方法 につ いて 熟考 し︑ 試み を重 ねて いた
︒社
員期 蘆花 の文 筆活 動の 主な 舞台 は﹃ 家庭 雑誌
﹄と
﹃国 民新 聞﹄ であ るが
︑そ のな かに は蘇 峰や 編集 部か らの 指示 で執 筆し たと 思わ れる もの も少 なく ない
︒だ が︑ 流行 作家 とな り個 人的 な嗜 好や 資質 を強 く発 揮す る以 前に
︑﹃ 家庭 雑誌
﹄と いう 婦人 雑誌 で試 みた 方法 を確 かめ てお くこ とは
︑蘆 花の 文筆 活動 を総 括的 に検 討す る際 に新 たな 視座 とな るは ずで ある
︒そ こで 本稿 では
︑﹃ 家庭 雑誌
﹄の 方針 や報 道姿 勢︑ そこ で唱 えら れた
﹁家 庭﹂ や﹁ 主婦
﹂の あり 方を 確認 しな がら
︑蘆 花が その
﹃家 庭雑 誌﹄ に発 表し た﹁ 砂上 の文 字﹂ と﹁ 夏の 月﹂ とい う二 作品 に注 目し たい
︒あ る女 性が 自身 の過 去の 体験 を語 る︿ 女語 り﹀ の形 式を とる この 二作 品は
︑﹃ 家庭 雑誌
﹄の 報道
・論 調を 採り 入れ なが らも
︑そ れに 収斂 する こと のな い物 語と して 誌上 にあ らわ れて おり
︑蘆 花の 作家 とし ての 出発 期を 窺う うえ で︑ 注目 すべ きも ので あっ た︒ 欠落 と生 きる こと
四五
一︑
﹁主 婦﹂ の役 割 まず
︑蘆 花の
﹃家 庭雑 誌﹄ にお ける 文筆 活動 を概 観す る︒ 明治 二 五年 九月 から 三一 年八 月ま で発 刊さ れた
﹃家 庭雑 誌﹄ 全一 一九 号の 内︑ 蘆花 の文 章は 半分 以上 にあ たる 六九 号に 発表 され てお り③
︑そ れ ぞれ の文 章の 体裁
・内 容は 以下 のよ うに 分類 でき る︒
Ⅰ 外国 の偉 人の 母・ 妻︑ ある いは 女性 の偉 人に 関す る文 章
Ⅱ 外国 文学 の翻 訳
Ⅲ 創作 小説
・物 語
Ⅳ 談話
・随 筆・ 紀行
Ⅰは
﹁欧 州諸 国王 家の 片影
﹂︵ 第二 五~ 三〇 号 明治 二七 年三
~ 五月
︶︑
﹁ビ スマ アク 夫人
﹂︵ 第四 七号
明治 二八 年二 月︶ など で︑ 後に 蘆花 生編
﹃世 古界 今名
婦鑑
﹄︵ 民友 社 明治 三一 年四 月一 九日
︶に 多 くが 収録 され るこ とに なる
︒Ⅱ はオ リー ブ・ シュ ライ ネル の﹁ 白薔 薇﹂
︵第 一三 号 明治 二六 年九 月︶
︑ア ルフ ォン ス・ ドー デー の﹁ 誤 解﹂
︵第 一一 二号 明治 三一 年一 月︶ など であ る︒
Ⅲは 特に 本稿 で 取り 上げ る﹁ 砂上 の文 字﹂
﹁夏 の月
﹂や
﹁漁 師の 娘﹂
︵第 九四 号 明 治三
〇年 一月
︶な どが 挙げ られ る︒ 分量 的に も蘆 花は
﹁史 談﹂
﹁談 叢﹂ 欄で の執 筆が 中心 でⅠ に数 えら れる もの が多 く︑ これ らは 明ら かに 編集 部の 指示
︑あ るい は掲 載誌 を意 識し たも ので あり
︑英 語の
得意 な蘆 花の 仕事 とし て割 り振 られ たと 推測 でき る④
︒ まず
︑﹃ 家庭 雑誌
﹄と の関 わり を考 える うえ で重 要な のは
Ⅰの 諸 篇だ ろう
︒こ こで 蘆花 は︑ 各国 の女 王︑ 王女
︑皇 后や ナイ チン ゲー ルと いっ た女 性た ちと とも に︑ ビス マル クの 妻︑ ヴィ クト ル・ ユー ゴー の母
︵﹁ ユー ゴの 少年
﹂第 八︑ 九号 明治 二六 年四
︑五 月︶
︑レ フ・ トル スト イの 妻︵
﹁ト ルス トイ 家の 家庭 教育
﹂第 一一
〇︑ 一一 一号 明治 三〇 年一 一︑ 一二 月︶ とい った 女性 たち に注 目し てい る︒ しか し︑ 著名 とな った 男性 を育 て︑ ある いは 支え る﹁ 家庭
﹂経 営の 手腕 を讃 える この よう な女 性た ちの 紹介 は蘆 花だ けが 行っ てい たわ けで はな く︑ 大隈 重信 の母 に注 目し た蘇 峰生
﹁賢 母﹂
︵第 四六 号 明治 二八 年一 月︶ や︑ 中野 三鷹 訳述
﹁わ しん とん の妻
﹂︵ 第七 九︑ 八〇
︑八 二号 明治 二九 年六
︑七 月︶ など
︑雑 誌全 体の 大き な方 針 とし て行 われ てい た︒ つま り﹃ 家庭 雑誌
﹄で は︑ 国家 の統 治や 国を また ぐ社 会的 事業 を為 した 女性 と同 列に
︑一 家族 の﹁ 家庭
﹂を 経営 した 女性 も﹁ 鑑﹂ とし て顕 彰し てお り︑ それ に蘆 花も 大き く関 わっ てい たの であ る︒ この 妻や 母た ちが 担う
﹁家 庭﹂ は︑ HO ME の訳 語と して 明治 二
〇年 代か ら雑 誌新 聞に 登場 し︑ 夫婦 とそ の子 とい う単 位を 重視 する こと で新 しい 血縁 集団 の価 値観 を提 示し た語
・概 念で あり⑤
︑“ TH E HO ME JO UR NA L” を英 タイ トル とし て表 紙に 掲げ た﹃ 家庭 雑誌
﹄
欠落 と生 きる こと
四六
の創 刊号 には
︑次 のよ うな 目標 が示 され た︒ 世界 の開 化に 後れ たる 日本 社会 は長 足の 進歩 をな さヾ るべ から ざる なり
︑世 界の 文明 に遺 され たる 日本 人民 は異 常の 生長 をな さヾ るべ から ざる なり
︒︵ 中略
︶科 学的 改革 は当 に個 人的 にな され ざる べか らず
︑当 に平 民的 にな され ざる べか らず
︒而 して 個人 的若 くは 平民 的改 革は 家庭 改革 にあ らず や︒ 文明 的な
﹁家 庭﹂ 概念 を広 く世 に広 め︑ 同時 にそ の﹁ 改革
﹂を 目指 した のが
﹃家 庭雑 誌﹄ であ り︑ 同じ く民 友社 系の 総合 雑誌
﹃国 民之 友﹄ が主 に男 性知 識人 を想 定読 者と して いた こと とは 対照 的に
︑
﹃家 庭雑 誌﹄ の記 事は
﹁家 庭婦 人の 啓蒙 と育 児の 助成 のた めの もの⑥
﹂ が中 心だ った
︒ この
﹃家 庭雑 誌﹄ の基 本的 性格 を踏 まえ たう えで 確認 した いの は︑ 誌上 で唱 えら れた
﹁家 庭﹂ や﹁ 主婦
﹂と 病の 関係 であ る︒ たと えば
﹁健 康︑ 衛生 附︑ 看護 の心 得﹂
︵第 一九 号 明治 二六 年一 二月
︶で は︑
﹁一 家の 主婦 たる 人な どは
︑別 して 一通 り衛 生の 道理 をも 合点 し︑ 一家 老幼 の無 病息 災﹂ のた めに
﹁病 気せ ぬ工 夫﹂ こそ が大 事だ と説 く︒
﹁病 気が 一家 の呪 詛た るを 知る 人は
︑宜 しく 衛生 の知 識︑ 看護 の仕 業を 心得
﹂る べき で︑
﹁妙 法様 の水 の初 穂や
︑不 動様 の胡 麻の 灰﹂ とい った 民間 信仰 で﹁ 病気 平癒 を祈 る﹂ こと は﹁ 沙汰 の限 り﹂ なの だと 力説 した
︒﹁ 健全 なる 身体
︑健 全な る家 庭﹂
︵第 三〇 号 明
治二 七年 五月
︶で も︑ 身体 の﹁ 健全
﹂は
﹁百 福の 基ひ
﹂で ある から
﹁一 家を 治む るも の﹂ はこ れを 用心 する べき だと 説い た︒ この よう に﹁ 家政
﹂欄 を設 けた
﹃家 庭雑 誌﹄ には
︑健 康衛 生に 関 する 実用 的な 記事 や心 構え がほ ぼ毎 号の よう に掲 載さ れて おり
︑
﹁主 婦﹂ が﹁ 家庭
﹂の 構成 員の 身体 を﹁ 健全
﹂に 保つ 必要 性が 繰り 返し 説か れて いた
︒そ の際
︑﹁ 主婦
﹂に とっ て大 切な のは 科学 的文 明的 な﹁ 道理
﹂﹁ 知識
﹂で あり
︑そ の﹁ 知識
﹂の 提供 源と して
﹃家 庭雑 誌﹄ は機 能し てい たの であ る︒ 上野 千鶴 子が
﹃家 庭雑 誌﹄ 誌上 で﹁ 家庭
﹂に 付加 され る主 な語 とし て﹁ 幸福
﹂﹁ 快楽
﹂﹁ 健全
﹂を 挙 げて いる⑦
よう に︑
﹁知 識﹂ によ って 欠け るこ との ない 満た され た
﹁家 庭﹂ を経 営す るこ とが
﹁主 婦﹂ に求 めら れた 役割 だっ た︒ それ では
︑こ れを 踏ま えて まず
﹁砂 上の 文字
﹂に つい て考 えて いき たい
︒
﹁砂 上の 文字
﹂は
︑あ る女 性﹁ 妾﹂ が自 身の
﹁記 臆﹂ につ いて 語 る一 人称 小説 であ る︒ 五年 前の 一九 歳の 頃︑
﹁妾
﹂は 海村 に仮 寓し
︑ 人々 と語 らい 周囲 の自 然に 慰め られ なが ら平 穏な 日々 を送 って いた
︒ ある 日東 京か ら許 嫁の 従兄 が見 舞い がて ら訪 問し
︑﹁ 妾﹂ との 婚姻
︑ 将来 のこ とを 真剣 に語 り︑ 心を 通わ せる
︒だ が最 後に
﹁妾
﹂が 語っ たの は︑ 従兄 と﹁ 妾﹂ の仲 をや っか む少 年た ちが 従兄 と海 中で 揉み 合っ た結 果︑ 従兄 が行 方不 明に なっ たこ とだ った
︒こ の作 品は
︑
﹃家 庭雑 誌﹄ 第三 一︑ 三四
︑三 五号
︵明 治二 七年 六︑ 七︑ 八月
︶に 欠落 と生 きる こと
四七
﹁上
﹂﹁ 中﹂
﹁下
﹂で 発表 され たも のの
︑後 の作 品集 など に収 録さ れ るこ とは なく
︑前 田河 広一 郎が
﹁あ まり ぱツ とし ない 小説 への 試 み⑧
﹂と 片付 けて いる よう に︑ 研究 史で もほ とん ど注 目さ れて こな か った
︒し かし この 物語 を﹃ 家庭 雑誌
﹄誌 上で 捉え た場 合︑ 掲載 誌を 意識 した 蘆花 の方 法と
︑そ の特 質が 浮か び上 がっ てく る︒ この
﹁砂 上の 文字
﹂と
﹃家 庭雑 誌﹄ との 関係 性を 捉え る際
︑﹁ 不 図し たる 病﹂ が長 引い たた め﹁ 医師 の勧 に任 せて 相州 の海 辺﹂ に赴 いた とい う﹁ 妾﹂ のあ り方 に目 を向 けた い︒
﹁妾
﹂は
﹁清 き海 辺の 空気 を吸 ひ︑ 海水 に浴 して
︑薬 剤の 足ら ざる 所を 補﹂ うと いう 目的 を持 って 海村 に赴 く︒ よく 知ら れて いる よう に︑ 民間 レベ ルで 海水 浴が 広ま った のは 明治 二〇 年代 のこ と⑨
だが
︑﹃ 家庭 雑誌
﹄に おい て もた とえ ば﹁ 家庭 衛生
海水 浴﹂
︵第 九号 明治 二六 年五 月︶
︑﹁ 海 水浴 を如 何に して 面白 く過 さん 乎﹂
︵第 一二 号 明治 二六 年八 月︶
︑
﹁海 浜の 快楽
﹂︵ 第三
〇~ 三五 号 明治 二七 年五
~八 月︶ など
︑初 夏 や盛 夏の 定番 記事 とし て海 水浴 が取 り上 げら れた
︒ ここ で重 要な のは
︑海 水浴 が行 楽か つ準 医療 的行 為と して みな さ れ︑ 語ら れて いた こと であ る︒
﹁海 水浴 を如 何に して 面白 く過 さん 乎﹂ では
︑二 三週 間以 上で ない と海 水浴 は﹁ 功な し﹂ と﹁ 医者
﹂が 述べ てい る︑ とい う前 置き が行 われ てい る︒ 六月 から 八月 にか けて 発表 され た﹁ 砂上 の文 字﹂ も︑ この よう な医 療・ 行楽 とし ての 海水
浴の 文脈 に沿 って 描か れ/ 読ま れた はず であ る︒ 先に 触れ たよ うに
︑
﹁家 庭﹂ にと って 病は 何よ りも 避け なけ れば なら ない もの であ り︑
﹁打 ち棄 て置 く病 なら ざる
﹂た めに
﹁医 師﹂ の助 言に 従っ て海 村に 仮寓 し︑ そこ に訪 ねて きた 従兄 と心 を通 わせ る﹁ 妾﹂ のあ り方 は︑
﹁知 識﹂ に従 い﹁ 健全
﹂な 身体 を持 った うえ で﹁ 主婦
﹂と なる 女性 の姿 を予 感さ せる もの だっ たろ う︒ しか し最 後に
﹁妾
﹂が 語っ たの は︑ 従兄 が海 中で 行方 不明 にな った とい う悲 劇で あっ た︒ 憂あ る毎 に︑ 妾は 常に 彼浜 辺に 行き て︑ 彼の 洗ひ 消せ る砂 の上 に向 ひて 文字 の痕 を求 む︒ あゝ 是れ 空し き事 なり
︑妾 もよ く之 を知 る︒ 妾よ く之 を知 る︑ 而し て妾 は猶 斯く 為さ ヾる 能は ず︒ 否々 妾が 生命 此世 にあ らん 限り は︑ 年又 年妾 は行 きて 彼浜 辺に 行き て消 えに し文 字の 痕を 問は む︒ 今年 の夏 も︑ 明年 も︑ 塵の 浮世 にう たゝ ねの 夢の 醒め なむ 時ま では
︒
﹁妾
﹂は
︑﹃ 家庭 雑誌
﹄が 標榜 した よう な﹁ 主婦
﹂像 に反 する わけ で はな いの に﹁ 主婦
﹂に はな れな い︒ むし ろ﹁ 妾﹂ は︑ 作中 冒頭 と終 盤で
﹁然 れど 彼記 臆!
﹂と 繰り 返す よう に︑
﹁空 しき 事﹂ だと 知り つつ も過 去の
﹁記 臆﹂ のな かに 生き てい るの だ︒ その 際﹁ 妾﹂ を﹁ 記臆
﹂に 引き 留め 続け るの は︑ 従兄 が﹁ 妾﹂ と のひ とと きの なか で海 岸に 書き つけ てい た︑ とあ る和 歌で あっ た︒ 東京 に帰 ろう とす る従 兄と
﹁妾
﹂は
︑﹁ 近き ほと りに は漁 人の 小舟
欠落 と生 きる こと
四八
漕ぎ 行く 櫓声 吚唖 とし て︑ 節面 白き 滄ふな
浪うた
の一 曲二 曲夕 べの 渚に 満ち 渡﹂ るな かで
︑以 下の よう に別 れを 惜し んだ
︒ 久し く黙 し居 たる 従兄 は︑ 傍に 落ち 散り し美 しき 貝の 殻も て砂 の上 に斯 く書 きつ けぬ
︑︵ 彼は 歌を 作る 能は ざり き︑ 彼は 多く の歌 を知 らざ りき )/ 世の 中は 常に もか もな 渚漕 ぐ/ 海士 の小 舟の つな でか なし も/ アヽ 是れ 実に 妾が 心な りき
︒﹁ 常に もか もな
!﹂
﹁常 にも かも な!
﹂ア ヽ是 れ真 に妾 が心 なり き︒ ここ で用 いら れて いる 和歌 は︑
﹁小 倉百 人一 首﹂ 九三 番︑ 鎌倉 右大 臣︵ 源実 朝︶ 作の 羈旅 歌で ある
︒渚 にた だよ う小 舟の 海士 が︑ 綱手 をひ く様 子が いと おし く︑ 世の 中が いつ まで も変 わら ない でい てほ しい
︑と いう のが 大意 だが⑩
︑﹁ 妾﹂ はこ の歌 によ って 従兄 への 思い を強 くす る︒ 従兄 は﹁ 漁人 の小 舟﹂ が見 える 海岸 で語 らっ てい ると いう 状況 から
︑﹁ 妾﹂ との 時間 がい つま でも 続い てほ しい こと を歌 に託 した ので ある
︒こ の﹁ 記臆
﹂に よっ て︑
﹁妾
﹂は 消え てし まっ た﹁ 砂上 の文 字﹂ をな ぞり 過去 の﹁ 夢﹂ に浸 って いる のだ
︒
﹃家 庭雑 誌﹄ は﹁ 結婚 前よ りも
︑結 婚後 こそ 最も 緊要 なる にあ ら ずや
﹂︵
﹁新 婚者 への 戒め
﹂第 二三 号 明治 二七 年二 月︶ など と説 く よう に︑ 結婚 前の プロ セス より も結 婚後 の夫 婦や 親子 のあ り方 を重 視し てい た︒ 男女 が結 婚せ ずに
﹁社 交上 の関 係に 止む る﹂ こと や
﹁ひ とり 身に て暮 す﹂ こと は﹁ 自然 にそ むく
﹂﹁ 奇説
﹂︵ 秀香 女史
﹁結 婚後 の幸 福﹂ 第一 五号 明治 二六 年一
〇月
︶で あり
︑満 たさ れ た﹁ 家庭
﹂の なか で役 割を 果た すこ とが
︑女 性に とっ ての
﹁自 然﹂ だと 述べ た︒
﹁妾
﹂の 語り のな かで も﹁ 読者 若し 妾に 向ひ て︑ 御身 已に 嫁せ しや と否 と問 はヾ
﹂と ある よう に︑ 結婚 し﹁ 家庭
﹂を 築い たか どう かを
︑﹁ 読者
﹂が 知り たが って いる のだ と﹁ 妾﹂ は気 づい てい る︒ しか し︑
﹁妾 をし て長 く幸 福を 語り 短く 悲哀 を語 らし めよ
﹂と
﹁妾
﹂が 語﹅ り﹅ た﹅ が﹅ っ﹅ た﹅ のは
︑か つて あっ た従 兄と の﹁ 幸福
﹂な
﹁記 臆﹂ なの であ る︒ 他の 男性 の下 で﹁ 家庭
﹂を 築く こと は﹁ 妾﹂ にと って 優先 され てい ない のだ
︒﹁ 砂上 の文 字﹂ に描 かれ てい たの は︑ 悲劇 によ って 生じ た欠 落を 埋め
︑あ るい は乗 り越 えて
﹁家 庭﹂ を築 こう とす るの では なく
︑か つて あっ た﹁ 幸福
﹂に 浸り 続け
︑互 換不 可能 なパ ート ナー の欠 落を 抱え 持っ たま ま生 きて いこ うと する 女性 の姿 なの であ る︒ 頭で は﹁ 空し
﹂い とわ かり つつ も︑ 欠落 とと もに 生き る︒
﹁家 庭﹂ の意 義を 唱え 続け た﹃ 家庭 雑誌
﹄の なか で︑ この
﹁妾
﹂の よう な女 性の 意志 を描 くこ とこ そ︑ 蘆花 が試 みた 物語 の方 法だ った
︒そ れは 約三 年後 の﹃ 家庭 雑誌
﹄に 発表 され た﹁ 夏の 月﹂ を参 照す るこ とで
︑さ らに 明ら かに なっ てく る︒ 欠落
と生 きる こと
四九
二︑ 天然 痘と いう 病
﹁夏 の月
﹂は
︑﹃ 家庭 雑誌
﹄第 一〇 七︑ 一〇 八号
︵明 治三
〇年 八︑ 九月
︶に
﹁上
﹂﹁ 下﹂ で発 表さ れ︑
﹃自 然と 人生
﹄︵ 民友 社 明治 三 三年 八月 一八 日︶ に﹁ 雨後 の月
﹂と 改題 して 収録 され た︒ 中野 好夫 が﹁ 習作 にも なら ぬほ どの 稚拙 作だ から
︑問 題外 とす る⑪
﹂と 厳し い 評価 を下 した 作品 だが
︑こ の物 語も
﹃家 庭雑 誌﹄ 誌上 で検 討す ると
︑ 蘆花 の方 法と その 特質 が窺 える
︒
﹁夏 の月
﹂は
︑年 少者 と思 われ る聞 き手 たち に︑ 妙齢 の女 性が 自 らの 履歴 を語 る形 式が 採ら れて いる
︒広 島の 酒屋 の娘 だっ た﹁ 妾﹂ は︑ 父母 を相 次い で亡 くし
︑父 の弟 の叔 父夫 婦に 引き 取ら れる
︒し かし 叔父 もま た亡 くな り︑ 次は 母の 弟の 叔父 夫婦 に引 き取 られ る︒ 叔父 夫婦 は自 分た ちの 子・ 欽一 郎を
﹁妾
﹂と 結婚 させ たい と思 って いた が︑
﹁妾
﹂は ある 青年 と心 を通 わせ 結納 を交 わす
︒こ れに 叔父 一家 は落 胆し
︑﹁ 妾﹂ もそ れに 心を 痛め る︒ 直後
﹁妾
﹂は 天然 痘に 罹り
︑顔 中あ ばた だら けに なる
︒そ して ある 日︑ 青年 が他 の女 性と 逢い 引き する 場面 に出 くわ した
﹁妾
﹂は 絶望 する が︑ たま たま 通り かか った
﹁耶 蘇教
﹂の 教会 で讃 美歌 を聴 き︑ 精神 的に 救わ れる
︒そ の後 欽一 郎に 求婚 され るが 断り
︑独 身の まま
﹁今
﹂に 至る
︒ 以上 が梗 概だ が︑ この
﹁夏 の月
﹂に おい ても
︑過 去を 語る 女性
﹁妾
﹂は
﹁家 庭﹂ を築 いて いな い︒ この こと を考 える 際︑ まず 注目 した いの が﹁ 妾﹂ の罹 った 病︑ 天然 痘で ある
︒ 最初 は朝 晩に 熱が 出て
︑そ れか ら身 体中 の血 が湧 ひた り冷 へた り︑ 痛ひ 様な 掻き むし りた い程 痒い 様な 心地 でし たが
︑其 内顔 から 手足 まで 一面 に赤 みか ゝつ た紫 色の もの がぼ つ〳 〵出 来て
︑ 医者 に見 せる と︑ さあ 大変
︑天 然痘 だと 云のマ ふマ です
︒ 天然 痘︵ 疱瘡
︶と は︑ 日本 でも
﹁疱 瘡神
﹂信 仰な どが 広ま った よう に古 代か ら人 々を 苦し めて きた 病で あっ た︒ だが 江戸 時代 後期 にな ると
︑エ ドワ ード
・ジ ェン ナー の発 見・ 提唱 した 種痘 法︵ 牛痘 法︶ とい う予 防法 が輸 入さ れ︑ 漸進 的に その 有効 性が 広ま って いく⑫
︒明 治新 政府 もそ の必 要性 を認 識し
︑明 治九 年の
﹁天 然痘 予防 規則
﹂で は︑
﹁小 児初 生七 十日 ヨリ 満一 年迄 ノ間 ニ必 ズ種 痘ス ベシ
﹂︵ 第一 条︶ など と号 令さ れ︑ 官民 一体 とな って 声高 に種 痘法 の必 要性 が叫 ばれ た︒ そし て明 治二
〇年 代後 半に なる と︑ 種痘 法は 自明 のこ とと して 語ら れて いく
︒た とえ ば﹃ 家庭 雑誌
﹄第 七九 号︵ 明治 二九 年六 月︶ に推 薦文 が掲 載さ れた 平田 鐙﹃ 看病 の心 得﹄
︵博 文館
明治 二 九年 五月 五日
︶に は︑ 以下 のよ うな 記述 があ る︒ 昔は 疱瘡 のた め天 然の 美を 損し 生命 を失 ひた る者 其数 を知 らず と雖 も今 は予 防法 とし て種 痘の 忽諸 にす 可ら ざる を知 るが 故に 文明 諸国 に於 ては 其流 行を 見る こと 殆ど 稀な り
欠落 と生 きる こと
五〇
ここ では
﹁昔
﹂と
﹁今
﹂を 対照 させ
︑天 然痘 の流 行を 抑え られ るの が﹁ 文明 諸国
﹂で ある とい う論 調が とら れて いる
︒こ のよ うな 論調 は﹃ 家庭 雑誌
﹄の
﹁天 然痘 の流 行﹂
︵第 九一 号 明治 二九 年一 二月
︶ にも 見る こと がで きる
︒こ の記 事で は﹁ 天然 痘の 感染 を予 防す るに は︑ 最も 易き こと なり
︑予 防法 とは 種痘 これ なり
﹂と 断言 し︑
﹁天 然痘 流行 の際 は︑ 年限 に係 はら ず種 痘を 断行 すべ し︑ これ 文明 人種 の義 務な り﹂ とい う文 言を 用い る︒ そし て﹁ こゝ には わざ と天 然痘 の治 療法 及看 護法 を記 さず
︑た ゞ種 痘の 断行 を促 すの み﹂ と記 事を 結ぶ よう に︑ あえ て病 後策 を記 さな いと いう 報道 姿勢 すら とっ てい た︒ この よう な天 然痘 の特 殊な 事情 を間 接的 に明 らか にす る記 事と して
︑﹁ 麻疹 の流 行︵ 其予 防及 治療 法︶
﹂︵ 第九 九号
明治 三〇 年四 月︶ があ る︒ 麻疹 の流 行の 際に は﹁ 予防
﹂と とも に﹁ 治療 法﹂ と
﹁看 護﹂ の心 得を 記し てい るの だ︒ 明治 初年 代か ら二
〇年 代に かけ て︑ 致死 率の 高い 伝染 病が 都市 圏 で何 度も 流行 して いた⑬
こと を踏 まえ るな らば
︑明 治二 五年 に帰 国し
︑ 伝染 病研 究所 所長 とな った 北里 柴三 郎の 活動 が誌 上で 頻繁 に報 じら れて いる⑭
のも
︑病 を防 ぐた め最 新の
﹁知 識﹂ を早 く届 けよ うと する 報道 姿勢 を﹃ 家庭 雑誌
﹄が 持っ てい たこ とを あら わし てい る︒ 天然 痘と は︑ 当時 の読 者に とっ て身 近な 恐怖 であ った が︑ 種痘 法と いう 文明 的な
﹁知 識﹂ があ れば 避け られ るよ うに 語ら れて おり
︑日 清戦
争後 の﹁ 衛生 の時 代﹂
︵第 五三 号 明治 二八 年五 月︶ にお いて
﹁主 婦﹂ が防 ぐべ き病 だっ たの だ︒
﹁熱 が退 ひて 正気 づく と直 ぐ浮 むだ のが
︑﹁ 結婚
﹂と 云ふ こと ゝ︑ また
﹁此 病気 が結 婚の 邪魔 にな りは せま いか
﹂と 云ふ 心配 でし た﹂ と語 るよ うに
︑天 然痘 罹患 の際 に
﹁妾
﹂が まず 思い 浮か べた のは
︑自 身の 健康 や外 見の 変貌 では なか った
︒﹁ 如何 して 此顔 を下 げて 厚顔 しく 嫁に と云 はれ ませ うか
﹂と いう 思い が浮 かぶ よう に︑ 天然 痘と は女 性と して の美 しさ を失 わせ ると とも に︑
﹁主 婦﹂ の役 割か ら見 た時 にも 罹っ ては いけ ない 病だ った ので ある
︒
﹁夏 の月
﹂は
︑作 品発 表時 と重 なる
﹁今
﹂か ら︑
﹁妾
﹂が 約一
〇年 前の 出来 事を 回顧 的に 語る 設定 がと られ てお り⑮
︑幼 少期 に﹁ 小供 ら しい 自然 な性 質を 失つ てし ま﹂ うよ うな
﹁家 庭﹂ で育 った こと を背 景と して 語っ てい る︒ だが
﹁夏 の月
﹂は
︑天 然痘 罹患 によ って
﹁家 庭﹂ を築 けな い﹁ 妾﹂ を反 面教 師に して
︑種 痘法 とい う﹁ 知識
﹂の 重要 性や
﹁主 婦﹂ の理 想的 なあ り方 を啓 蒙す る物 語で はな い︒ 天然 痘罹 患後 に︑
﹁此 顔を 寸々 に切 り裂 ひて
︑世 の中 の女 と云 ふ 女の 扯き むし つて
︑出 来る こと なら 此世 界を 打壊 して も仕 舞ひ 度 く﹂
︑﹁ 此様 な腐 れた 世の 中に 生き て居 たつ て何 にな らふ
︑あ ゝい や だ〳 〵︑ 自分 もい や︑ 人間 もい や︑ 世の 中も いや
︑何 もか も掻 きむ しつ て︑ ぶち 壊し て︑ 劈い て仕 舞い たい
﹂と いう 強烈 な呪 詛の 念を 欠落 と生 きる こと
五一
﹁妾
﹂は 持っ てし まう
︒だ が﹁ 今﹂ にお いて それ は解 消さ れて おり
︑
﹁見 るか げも 無い 独り 者﹂ であ りな がら も﹁ 自分 を大 切に
﹂し
︑自 らの 過去 を﹁ 背負 つた 荷﹂ とし て語 りだ して いる のだ
︒つ まり 蘆花 は︑ 防ぐ べき 病に 罹っ てし まっ た女 性の 病後 のあ りよ う︑ 自身 の美 貌や 心を 通わ せて いた はず の青 年と の絆 を失 いな がら も︑ それ を受 けと めよ うと する 女性 の意 志を 描こ うと して いた のだ
︒ この よう に﹁ 夏の 月﹂ は︑
﹁家 庭﹂ を築 けな いま ま生 きる 女性 を 描い てい ると いう 点で
﹁砂 上の 文字
﹂と 共通 して いる
︒し かし
︑自 らの
﹁記 臆﹂ にす がり 続け よう とす る﹁ 砂上 の文 字﹂ の﹁ 妾﹂ とは 異な り︑
﹁夏 の月
﹂の
﹁妾
﹂は
︑﹁ 心の 悟﹂ を得 たう えで 過去 を語 り はじ める
︒そ して それ を得 る際 に重 要な 役割 を果 たし てい るの が讃 美歌 とい う歌 なの であ るが
︑こ の歌 が作 中で 果た す機 能も また
︑キ リス ト教 を中 心と した
﹁宗 教心
﹂を 薦め る記 事が 多数 載せ られ た⑯
﹃家 庭雑 誌﹄ の姿 勢と はや や異 質な もの であ った
︒ 三︑ 讃美 歌の 力量 天然 痘罹 患後
︑青 年が 他の 女性 と逢 い引 きを して いる とこ ろを 見 た﹁ 妾﹂ は︑ 動揺 して 番町⑰
附近 を無 闇に 歩き 回る
︒す ると 暗闇 から
﹁歌 ふ様 な声
﹂が 聞こ え﹁ 耶蘇 教﹂ の教 会⑱
に気 づく が︑
﹁妾
﹂は
﹁耶 蘇教
﹂に つい て次 のよ うな 印象 を抱 いて いた
︒
妾は 耶蘇 教が 大嫌 ひで
︑と 云ふ のは 何も 耶蘇 教を 知つ て何 処の 所が 嫌ひ と云 ふで はな く︑ 唯耶 蘇と 云ふ 其名 から 嫌ひ で︑ 虫が 嫌ひ で︑ 嫌だ 嫌だ と云 つて まし た 明確 な理 由も なく
﹁妾
﹂は
﹁耶 蘇教
﹂を 嫌っ てい たが
︑﹁ さま よへ る者 よ︑ 立ち かへ りて
︑/ 天ツ ふる さと の 父を 見よ や﹂ とい う讃 美歌 の一 節を 聞く こと にな る︒ この 讃美 歌の 出典 は︑ 植村 正久 ほか 編﹃ 新撰 讃美 歌﹄
︵警 醒社 明治 二一 年四 月一 一日
︶に 収録 の﹁ 第 百一
﹂だ と指 摘さ れて いる⑲
︒こ の﹁ 第百 一﹂ は︑ 巻頭 の目 次で
﹁拯 救﹂ 中の
﹁招 き﹂ と題 され る讃 美歌 であ り︑ これ を聞 いた
﹁妾
﹂は 次の よう に反 応す る︒ つひ 其節 の美 しい のに 聞き 惚れ て一 句一 節耳 を傾 けて 居る と︑ 其美 しい 節に 包む だ美 しい 文句 が油 の様 にし み渡 ツて
︑何 だか 母の 懐に でも 抱か れて 其和 らか な手 に背 を撫 でら れる 様な 心地 がし て︑ 妾は 身震 ひし て顔 を抑 へて 泣き 出し まし た︒ 歌は 猶 つヾ いて
︑や さし い愛 の言 葉は 耳か ら電 気の 様に 全身 にし み渡 る︑ 涙は 泉の よう に湧 く︑ 妾は 身も 浮く 程泣 いて 涙の 下か ら石 か鉛 の様 に固 まつ て居 た胸 さき は段 々に くつ ろい で︑ ちつ とは 心も 軽く なつ た様 に思 われ たの です
︒ 吉田 正信 は︑ この 讃美 歌に よっ て行 われ た﹁ 妾﹂ の﹁ 内的 革命
﹂を
︑
﹁耶 蘇教 とい う自 然﹂ が﹁ 劣等 感を もっ てい る主 人公 を正 当化⑳
﹂し
欠落 と生 きる こと
五二
たと 述べ てい るが
︑﹃ 自然 と人 生﹄ とい う作 品集 のタ イト ルか ら
﹁耶 蘇教
﹂を
﹁自 然﹂ とす るこ とに は留 保が 必要 であ ろう
︒覆 面冠 者が
﹁信 仰は 人生 の最 大慰 藉で ある㉑
﹂と いう 作者 蘆花 の信 仰心 を
﹁妾
﹂に 見出 した こと も妥 当と はい えな い︒ むし ろ﹁ 夏の 月﹂ にお いて 注目 すべ きは
︑こ の﹁ 内的 革命
﹂が
︑キ リス ト教 の思 想・ 教旨 に対 する 感動 や信 仰心 では なく
︑讃 美歌 によ って 行わ れて いる こと であ る︒ 引き 寄せ られ たよ うに して 入っ た教 会で
︑﹁ 妾﹂ は次 のよ うに 反応 して いる のだ
︒ それ なら 嫌ひ な祈 祷も 吾れ とは なし に頭 が下 がれ ば︑ 説教 もよ くは 分か らな かつ たの です が︑ 何や ら妾 の為 ばか り云 つて 聞か せる 心地 がし て︑ あゝ ほん に悪 かつ た︑ 天道 様が 見て いら つし やる
︑此 様な 事で 死ん では 済ま ぬ︑ 妾は 不仕 合で も妾 より 不仕 合せ な人 があ らう
︑是 れか ら心 を入 れか へて 人間 にな りま せう
︑ と思 ふで はな く感 じて
︑今 夜の 事を 忘れ ます まい と心 に誓 ひま した
︒ この よう に﹁ 妾﹂ は﹁ 説教 もよ くは 分か ら﹂ ず︑
﹁妾 は不 仕合 で も妾 より 不仕 合せ な人 があ らう
﹂と
﹁感 じ﹂ るこ とし かな い︒
﹁妾
﹂ のさ らな るキ リス ト教 への 接近 は予 定さ れて おら ず︑ 説教 や信 仰心 と本 来な らば 不可 分に 結び つく はず の讃 美歌 が︑
﹁妾
﹂に とっ ては 単な る﹁ 愛の 言葉
﹂と して しか 機能 して いな いの であ る︒
そも そも
﹁妾
﹂は
︑自 らの 過去 や伝 えた い事 柄を
︑様 々な 歌や 歌 語を 介し て語 って いた
︒﹁ 海人 が塩 焼く㉒
﹂と いう 和歌 の表 現を 用い て﹁ せち 辛い 世の 中﹂ の無 情を 嘆き
︑ま た﹁ うれ しき もう きも うき 世の 村時 雨 しば し忍 ぶの 軒に 過ぎ 行く
﹂と いう 歌か ら﹁ 忍ぶ
﹂こ とが 大切 だと 語る
︒自 らが 広島
・音 戸出 身で ある こと は﹁ 船頭 可愛 や︑ 音戸 の瀬 戸で
︑一 丈五 尺の 櫓が しは る﹂ とい う﹁ 舟謠㉓
﹂を 用い て伝 え︑ さら に両 親の 死も
﹁な きて ぞ人 は恋 しか りけ る﹂ とい う古 歌㉔
に基 づい た表 現に よっ て語 り伝 える
︒こ のよ うに
﹁妾
﹂は
︑歌 に 慰藉 され るよ うな 人物 とし て設 定さ れて いた ので ある
︒ この 讃美 歌体 験の 後︑ 一定 の精 神の 安定 を得 た﹁ 妾﹂ は︑ 欽一 郎 から 求婚 され
﹁嬉 し﹂ く思 うも のの
︑そ の申 し出 を辞 退す る︒
﹁本 当は 世の 中を 浮い て暮 らす が上 分別 なの では ある まい かと 惑つ て見 たり
﹂︑ 婚約 を破 棄し た青 年の 没落 を夢 想し てし まう など
︑﹁ 妾﹂ の
﹁心 の悟
﹂は 不十 分な もの であ り︑ それ を﹁ 妾﹂ も自 覚し てい る︒ しか し﹁ 妾﹂ が最 後に 語っ たの は﹁ 裏に 龍と 鳳凰 の彫 刻の ある 古風 の鏡
﹂の こと であ る︒ それ は﹁ 今﹂ の﹁ 妾﹂ が︑ あれ ほど 呪っ てい た自 身の 顔を 見ら れる よう にな った こと を示 唆し てい る︒
﹁夏 の月
﹂ は︑ 男性 に求 めら れ﹁ 家庭
﹂を 築く こと や慰 藉と して の﹁ 宗教 心﹂ の重 要性 では なく
︑﹁ 主婦
﹂で はな い独 身で あっ ても
﹁自 分を 大切 に﹂ でき るよ うに なっ たと いう
﹁妾
﹂の 心持 を描 いて いる のだ
︒ 欠落 と生 きる こと
五三
﹁砂 上の 文字
﹂﹁ 夏の 月﹂ とい う︿ 女語 り﹀ の二 作品 に描 かれ てい たの は︑
﹃家 庭雑 誌﹄ が唱 える
﹁家 庭﹂ の経 営者 とし ての
﹁主 婦﹂ のあ り方 を理 解し つつ も﹁ 家族 間の 愛情㉕
﹂の なか で生 きる こと を第 一に 優先 しな い女 性の 姿だ った
︒流 行病 や戦 争︑ また
﹁砂 上の 文 字﹂ で起 きた よう な偶 発的 な悲 劇に よっ て︑ 経営 すべ き﹁ 家庭
﹂を 持て ない
/持 たな い女 性は 当時 少な から ずい たは ずだ ろう
︒蘆 花が
﹃家 庭雑 誌﹄ で描 こう とし たの は︑ その よう な女 性た ちの 姿だ った ので ある
︒そ もそ も︿ 女語 り﹀ とい う形 式自 体も
︑女 性記 者や 寄稿 家︑ 女性 読書 から の投 書を 積極 的に 採り 入れ た﹃ 家庭 雑誌
﹄と の関 係性 から もた らさ れた もの であ った
︒ たと えば 日清 戦争 の最 中︑
﹃家 庭雑 誌﹄ はそ の戦 況を 伝え ると と もに
︑占 領し た土 地に 日本 の﹁ 家庭
﹂を
﹁移 植﹂ する ため
﹁男 女諸 共移 り住
﹂む こと を提 案し たり
︵筑 峯女 史﹁ 家庭 の移 植﹂ 第四 五号 明治 二八 年一 月︶
︑﹁ 出征 の軍 人諸 士と 労苦
﹂を 共に する ため に︑ 内 地の
﹁大 切な 楽し き家 庭を 無事 安全
﹂に 保つ 重要 性を 説い た︵ 筑峯 女史
﹁戦 争と 家庭
﹂第 五〇 号 明治 二八 年三 月︶
︒ま た戦 勝後 には
︑
﹁婦 人﹂ が﹁ 人間 とし て取 扱は れて 居﹂ ない こと を﹁ 支那 の衰 退﹂ の理 由と する
︵快 哉生
﹁支 那の 婦人
﹂第 八四 号 明治 二九 年八 月︶ など
︑文 明国
︵= 戦勝 国︶ 日本 の証 明を
﹁家 庭﹂ や﹁ 主婦
﹂の あり 方に 求め てい た︒ だが この よう な記 事が 並ぶ なか で︑ 蘆花 は﹁ 征清
大勝 利の 後に は︑ 思ふ に無 数の 悲劇 あら む︒ 余は 其尤 も簡 単な る一 を知 れり
﹂と
︑戦 争で 夫を 亡く し︑ それ を追 うよ うに 病で 死ん でい った 女性 の姿 を綴 った
︵敬 亭生
﹁訪 はぬ 墓﹂ 第五 三号 明治 二八 年 五月
︶︒ 蘆花 は︑
﹃家 庭雑 誌﹄ が理 想化 した よう な﹁ 家庭
﹂を 築け な い︑ もし くは 失っ た女 性に まな ざし を向 けて いく ので ある
︒ ただ
︑﹁ 家庭
﹂を 担え ない 女性 によ る︿ 女語 り﹀ の記 事・ 物語 は
﹃家 庭雑 誌﹄ にも 掲載 され てい る︒
﹁浮 世の つと めと して 快楽 の結 婚﹂ をし た女 性が
︑身 分違 いの 夫と 離婚 する まで の苦 しみ を語 った 荷月 生﹁ 結婚
﹂と いう 投書
︵﹁ 家庭 の破 裂﹂ 第三 一号 明治 二七 年 六月
︶や
︑日 清戦 争で 夫を 失い
︑尼 とな った 女性 の身 の上 話を 聞く 賤の 舎女 史﹁ 木が らし
﹂︵ 第六 九号
明治 二九 年一 月︶ など があ る よう に︑
﹃家 庭雑 誌﹄ は﹁ 家庭
﹂を 適切 に経 営す る女 性た ちを 取り 上げ 称揚 する 一方 で︑
﹁家 庭﹂ を失 って しま った 悲劇 も誌 上に 掲載 し︑ その 苦し みを 共有 しよ うと して いた
︒ しか しこ のよ うな 女性 たち の悲 劇と
︑蘆 花が 描い た︿ 女語 り﹀ の 物語 の差 異と して 見出 せる のは
︑満 たさ れた
﹁家 庭﹂ を自 明の 目標 とし
︑そ れを 失っ てし まっ た嘆 きを 主眼 とす るの では なく
︑む しろ その
﹁家 庭﹂ にお ける 女性 の役 割に 縛ら れず
︑﹁ 家庭
﹂を 築け ない とい う欠 落の まま に生 きよ うと する 意志 や心 持を 描い たこ とに ある
︒
﹃家 庭雑 誌﹄ が恒 常的 に話 題に して いた
﹁主 婦﹂ と病 の関 係性 を物
欠落 と生 きる こと
五四
語に 採り 入れ なが ら︑ この よう な意 志を 描く こと を蘆 花は 試み てい た︒ それ は﹃ 家庭 雑誌
﹄と の深 い関 わり のな かで 生ま れた もの であ ると 同時 に︑ しか しメ ディ アの 方針 に迎 合す るこ との ない
︑作 家と して の独 自性 の表 出だ った とい える
︒ おわ りに 本稿 で検 討し た﹁ 砂上 の文 字﹂
﹁夏 の月
﹂で 描か れた
﹁主 婦﹂ と 病の 関係 性は
︑出 世作 とな った
﹁不 如帰
﹂で も重 要な 役割 を果 たす こと にな る︒ 結核 とい う当 時不 治の 病に 罹っ た浪 子は
︑﹁ 家嫡
﹂を 何よ りも 重視 する 武男 の母
・慶 子か ら離 縁す べき だと 言い 立て られ る︒ しか し武 男は
︑こ の母 に対 して 次の よう に反 駁し た︒ 設令 また 癒ら ずに
︑如 何し ても 死ぬ なら
︑阿 母︑ 何卒 私の 妻で 死な して 下さ い︑ 病気 が危 険な ら往 来も 絶つ です
︑用 心も する です
︒其 は阿 母の 御安 心な さる 様に する です
︒で も離 別丈 は如 何あ ツて も私 は出 来な いの です
!
︵上 篇六 の三
︶ 武男 が求 めた のは
︑い ずれ やっ てく るだ ろう 浪子 の死 を受 け入 れな がら
︑そ れで も﹁ 妻﹂ と夫 の関 係性 を維 持す るこ とだ った
︒つ まり
﹁不 如帰
﹂に は︑ 避け られ ない 欠落 を受 けと め︑ そし てそ の欠 落の まま に生 きて いこ うと する 男﹅ の﹅ 意志 が描 かれ てい るの だ︒ そこ に︑
﹁砂 上の 文字
﹂﹁ 夏の 月﹂ との 連続 性と
︑さ らな る展 開を 見る こと が
でき る︒ 蘆花 自身 も﹁ 十年 書い てこ れは とい ふ小 品一 つな い㉖
﹂と 自嘲 的に 回顧 する
﹁雑 文時 代﹂ の作 品は
︑確 かに 顧み るべ きも のは 少な いか もし れな い︒ しか しそ のよ うな 時代 に︑ 蘆花 は民 友社 社員 とし て文 筆と いう 仕事 に向 き合 いな がら
︑作 家と して の独 自性 や物 語の 方法 を模 索し てい た︒
﹃家 庭雑 誌﹄ 誌上 で行 われ たこ の試 みは
︑後 年の 蘆花 文学 に引 き継 がれ てい くの であ る︒ 注
① 瀬沼 茂樹
﹁作 品解 説﹂
︵伊 藤整 ほか 編﹃ 徳冨 蘆花 集﹄ 日本 現代 文学 全 集17
講談 社 昭和 五五 年五 月二 六日
︶
② 前田 河広 一郎
﹃蘆 花の 芸術
﹄興 風館
昭和 一八 年一 一月 二〇 日
③ 吉田 正信 編﹃
﹁家 庭雑 誌﹂ 解説
・総 目次
・索 引﹄
︵不 二出 版 昭和 六二 年一 月一
〇日
︶を 参照
︒
④
Ⅰの 諸篇 と同 時期 の婦 人伝 ブー ムと の関 わり につ いて は︑ 峯岸 英雄
﹁近 代女 性論 萌芽 期の 軌跡
﹂︵
﹃公 評﹄ 第五 五巻 第九 号 平成 三〇 年一
〇 月︶ が詳 しい
︒
⑤ 牟田 和恵
﹁﹁ 家庭
﹂の 登場 とそ のパ ラド ック ス﹂
︵﹃ 戦略 とし ての 家族 近
︱
代日 本の 国民 国家 形成 と女 性﹄ 新曜 社 平成 八年 七月 三〇 日︶
︑ 佐藤 健二
﹁家 庭﹂
︵大 澤真 幸ほ か編
﹃現 代社 会学 事典
﹄弘 文堂
平成 二 四年 一二 月一 五日
︶な どを 参照
︒
⑥ 吉田 正信
﹁解 説﹂
︵注
③前 掲書
︶
⑦ 上野 千鶴 子﹁ 近代 と女 性﹂
︵﹃ 近代 家族 の成 立と 終焉
﹄岩 波書 店 平成 欠落 と生 きる こと
五五
六年 三月 二五 日︶
⑧ 前田 河広 一郎
﹃追 はれ る魂
復活 の蘆 花﹄
︵月 曜書 房 昭和 二三 年八 月三 一日
︶︒ この
﹁砂 上の 文字
﹂は
︑蘆 花全 集刊 行会 編﹃ 蘆花 全集
﹄第 一九 巻︵ 新潮 社 昭和 四年 九月 五日
︶で は﹁ 第四
随筆
﹂欄 に収 録さ れ てい る︒
⑨ 小口 千明
﹁日 本に おけ る海 水浴 の受 容と 明治 期の 海水 浴﹂
︵﹃ 人文 地 理﹄ 第三 七巻 第三 号 昭和 六〇 年六 月︶ など を参 照︒
⑩ 下野 遠光
﹃百 人一 首略 解﹄
︵博 文館
明治 二五 年二 月六 日︶ など を参 照︒
⑪ 中野 好夫
﹃蘆 花徳 冨健 次郎
﹄第 二部
筑摩 書房
昭和 四八 年三 月二 五
⑫ 日 江戸 後期 から 明治 初期 の天 然痘 をめ ぐる 状況 につ いて は︑ ハル トム ー ト・ オ・ ロー テル ムン ド﹃ 疱瘡 神
︱
江戸 時代 の病 いを めぐ る民 間信 仰 の研 究﹄
︵岩 波書 店 平成 七年 三月 一七 日︶
︑川 村純 一﹃ 病い の克 服
︱
日本 痘瘡 史
︱
﹄︵ 思文 閣出 版 平成 一一 年五 月二
〇日
︶な どを 参照
︒
⑬ 立川 昭二
﹃病 気の 社会 史
︱
文明 に探 る病 因﹄
︵日 本放 送出 版協 会 昭和 四六 年一 二月 二〇 日︶ など を参 照︒
⑭
﹁北 里柴 三郎 氏﹂
︵第 五号
明治 二六 年一 月︶
︑﹁ 此の 科学 者﹂
︵第 三五 号 明治 二七 年八 月︶
︑家 庭叢 書記 者﹁ 伝染 病毒 黴菌 の現 状及 予防
﹂︵ 第 四七 号 明治 二八 年二 月︶ など
︒
⑮ 作中 にお いて
︑﹁ 妾﹂ と結 納を 交わ した 青年 は﹁ 三菱 銀行
=其 頃は ま だ駿 河台 にあ つた ので す= の社 員﹂ と語 られ てい る︒ 三菱 銀行 が駿 河台 にあ った のは 明治 一九 年七 月一 九日 から 翌年 四月 一八 日で ある から
︵三 菱銀 行史 編纂 委員 会編 発行
﹃三 菱銀 行史
﹄昭 和二 九年 八月 一五 日︶
︑作 中回 顧時 代は 明治 二〇 年ご ろに 設定 され てい る︒ また 欽一 郎か らも らっ た鏡 は﹁ 一昨 年田 庄台 で分 取つ たも の﹂ とあ り︑ 田庄 台の 戦闘 は明 治二
八年 三月 であ るた め︑
﹁妾
﹂が 語り だす
﹁今
﹂は 明治 三〇 年で ある
︒
⑯
﹁家 庭の 伴侶
﹂︵ 第一 四号
明治 二六 年九 月︶ では
﹁家 庭﹂ に常 備す べ き書 物の 筆頭 に﹁ 新旧 約書
﹂を 挙げ てお り︑
﹁家 庭の 教育
宗教 心﹂
︵第 五二 号 明治 二八 年四 月︶
︑し ばの や﹁ 主婦 の位 置﹂
︵第 五九 号 明治 二 八年 八月
︶な ど﹁ 宗教 心﹂ の必 要性 を説 く記 事は 数多 い︒
⑰ 初出 は﹁ 番丁
﹂と 表記 され てい るが
︑﹁ 雨後 の月
﹂で は﹁ 番町
﹂と 訂 正さ れて いる
︒
⑱ この 教会 は︑ 国木 田独 歩に 洗礼 を授 け︑ 蘇峰 との 交流 もあ った 植村 正 久が 明治 二〇 年か ら大 正一 四年 まで 牧師 を務 めた
︑一 番町 教会
︵麹 町区 一番 町四 八番 地︶ が想 定さ れて いる だろ う︒
⑲ 辻橋 三郎
﹁日 本近 代文 学と 讃美 歌﹂
︵﹃ 神戸 女学 院図 書館 所蔵 オル チン 文庫 版﹁ 復刻
明治 初期 讃美 歌﹂ 解説
﹄新 教出 版社
昭和 五三 年一 二月 一日
︶
⑳ 吉田 正信
﹁﹃ 自然 と人 生﹄ の成 立
︱
その 認識 論に つい て
︱
﹂︵
﹃国 文学 研究
﹄第 四二 集 昭和 四五 年六 月︶
㉑ 覆面 冠者
﹁蘆 花氏 と基 督教 主義
﹂︵
﹃徳 富蘆 花と 其哲 学﹄ 嵩山 房 大正 三年 八月 二日
︶
㉒
﹁海 人が
︵の
︶塩 焼く
﹂と いう 表現 を用 いた 有名 な和 歌は いく つか あ るが
︑た とえ ば﹁ 須磨 の海 人の 塩焼 く煙 風を いた み思 はぬ 方に たな びき にけ り﹂
︵﹃ 古今 集﹄
︑一 四巻
︵恋 歌四
︶︑ 七〇 八番
︑よ み人 しら ず︶ があ る︒ 佐々 木信 綱・ 佐々 木弘 綱標 註﹃ 日本 歌学 全書
﹄第 一編
︵博 文館 明 治二 三年 一〇 月二 八日
︶に て確 認︒
㉓ 前田 林外 編﹃ 日本 民謡 全集
続編
﹄﹁ 船唄
﹂︵ 本郷 書院
明治 四〇 年一 一月 一九 日︶ 参照
︒﹃ 思出 の記
﹄︵ 民友 社 明治 三四 年五 月一 五日
︶に も︑ この 舟唄 は登 場す る︵ 四の 巻︿ 三﹀
︶︒
㉔ 藤井 乙男 編﹃ 諺語 大辞 典﹄
︵有 朋堂
明治 四三 年三 月三 日︶ で︑
﹁無 ク
欠落 と生 きる こと
五六
テゾ 人ハ 恋シ カリ ケル
﹂が 立項 され てお り︑ 説明 文に は﹁ 源氏 奥入
︑あ る時 はあ りの すさ びに 憎か りき
︑な くて ぞ人 は恋 しか りけ る﹂ とあ る︒ この 説明 文に ある 歌は
︑藤 原定 家﹃ 源氏 物語 奥入
﹄︑ また は﹃ 源氏 物語
﹄ 最古 の注 釈書
﹃源 氏釈
﹄で
︑桐 壺の 死後 女房 たち が﹁ なく てぞ
﹂と 嘆く 場面
︵﹁ 桐壺
﹂︶ の注 釈に 引か れて いる
︵中 野幸 一・ 栗山 元子 編﹃ 源氏 釈 奧入
光源 氏物 語抄
﹄武 蔵野 書院
平成 二一 年九 月三
〇日
︶︒ よっ て
﹁な きて ぞ人 は恋 しか りけ る﹂ は︑
﹃源 氏物 語﹄ の注 釈書 のみ に見 られ る 古歌 が諺 化し たも のだ と推 定で きる
︒
㉕ 牟田 和恵 注⑤ 前掲 論
㉖
﹃冨 士﹄ 第二 巻第 九章
︿二
﹀︵ 福永 書店
大正 一五 年二 月一 一日
︶
︹付 記︺ 作品 や資 料の 引用 に際 して
︑旧 字は 新字 に改 め︑ 振り 仮名 は適 宜 省略 した
︒引 用文 中の 傍線 は稿 者に より
︑/ は改 行を 表す
︒ 欠落
と生 きる こと
五七