蛮酋の内徒について : 宋代南蛮漢化過程の研究(1)
著者 河原 正博
出版者 法政大学史学会
雑誌名 法政史学
巻 7
ページ 19‑37
発行年 1955‑06
URL http://doi.org/10.15002/00010648
Hosei University Repository
河
原 正 博
蛮 曾
の
内 徒
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│ 宋 代 南 蛮 漢 化 過 程 の 研 究
ω V ‑
‑ ‑
古く黄河中流域をその本拠地としてゐた漢民族が次第に膨脹発展して︑遂に一大民族企構成するに至ったことは既に周知
の事実であるが︑
特にその南支那への発展は息むことなく続けられた巡動で︑これによってその地の異民族は歳と共に漢化
されて行ったのである︒これら異民族の漢化過程こそ我kの最も興味をひく課題の一つである︒
王桐齢氏は﹁支那に於げる外来民族の漢化に就いて﹂の中に於いて
( 1
秦が嶺南の地を経略すると桂林・)︑
南梅
・象加を設
置し
︑そこに適ヰ等を送って雑処せしめたこと及び漢の武帝が今の河套の地を略取すると
︑ 山 東
の民をその地に移したこと
など
か一
引用
して
︑外に対する漢化の例とし︑叉︑漢の武常が関越を減してその民を江准の聞に移し︑烏桓を降してその衆を
遼東・遼西等五郡の塞外に移したことを引用して ︑内徒による外族漢化の例証としてゐる︒
一体
︑漢民族の政治的進出と共に行はれる造卒や罪ある者を辺境の地域へと放流するこ之は
︑ 確
かにその地方の漢化に与
って
力があったが︑それと共は異民族の内地への遷徒即ち内徒も亦︑漢化作用の点では大いにその功を奏したものと思考さ
れる
こ﹀に私は同時民族漢化過程の一研究として北栄時代の南支那蛮酋の内従問題に就き考察してみたい︒︑ ︒
先づこ﹀で宋代に於ける南支那蛮放の割拠状態につき縦観しておく︒
現在の湖南の大部分の地方には渓洞蛮と総称される蛮族が居たが︑それらはその居住地域によって︑梅山洞蛮
・北
江訟
・
九
湖北省的恩
。
南江蛮・誠徽
州資及び枯陽蛮等の絞
っかの名称に分
μ
てゐた︒その中︑梅山耐蜜︒洞庭湘に注ぐ資水の中流域の新化及び安化を中心として ︑東は長沙 ︑
に一次ぷ範聞にその勢力を仲してゐて︑蘇姓がの判長として名を著してゐた(2Y
北江蛮︒同じく湖底湖に注ぐ一市江の一支流である商水流域に割拠してゐたもので ︑その勢力は凶川省の斡江︑
施まで及び︑政氏が最大の酋長として世K勢力を占めて
ゐた
す)O
南江蛮︒一市江の中流域一帯に居住したゐたが
︑ こ
¥Pでは田氏・向氏及び好氏の諸氏がその酋長として勢力を振ってゐたc
その各氏の割拠地は大体︑町民が主江県を中心としてその上流の晃まで
F 4
︑次に向氏は間氏より下流域の黙陽から安江にか)
けた地域に居住し
( 5
︑最後の野氏は安江より)
m m 陽にかけて勢力を占めて官ゐた様であるu︒
一誠徽州蛮︒一向江上流の渠水金流域に互つてゐたのであって︑
東方は資水上流の武同県に及び︑南方は遠く広西省の融県と
連結してゐた︒その酋長は楊氏であったハ7vo
是等は一向江及び資水の流域に克って居住してゐた諸蛮であるが︑湘江流域に目を転︑すると︑その上流域に桂陽蛮が肘た︒
桂陽蛮︒衡陽県
・零陵県・道県及び柱陽県に聞まれた地域に居り︑一時広東省の連県や広西省の賀県まで勢力を伸し
たこ
とハ8
時期で︑その蛮4もあった︒だがこの蛮のあらはれるのはその反乱蜂起に際した一聞の姓氏についてははっきりしない︒v
次に広西省に於い
ては
その
北部の南丹県を中心として南丹州蛮が居り︑莫氏がその酋長であった︒その
東方の宜北県を中
心として撫水蛮即ち安化蛮が居て蒙氏を
︑ 思 恩
県を中心として環州
蛮が区氏を各
K酋長として割拠して
す)
ゐた︒叉
︑ 畠 拍 手
(南寧)を中心として︑黄氏が左・右江流域に勢力を有して(川﹀ゐたが︑
その
友
江の
上流域には広源州蛮の倍氏
が一
時は娼獄
を極めた行)O
J筒︑海南島に於いては繁人が居住してゐたらち
以上︑湖南省広西省及び印度支那の北部にかけての諸査を概観したが︑勿論
これらは一つの勢力として史上に民k現れる
ものであって︑この他の地域にも諸処に蛮族は居住してゐたので
ある
︒
として名称は以上見た如く︑州名や江名であらはされるのが常例であるが︑
夷等が用ひられてゐる︒ 南は郁陽︑西は一向陵︑北は益陽
全般的な名称としては蛮は勿論︑務櫨繁又は
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本論に入るぽ先きだち︑宋朝と蛮歯との関係の中︑官職の授与及び朝貢につき概観しておくこととするひ
一体︑蛮曾をして各﹀その部族を鎮撫させるのが中国に於ける伝統的な対蜜政策の一つであるが︑{木朝に於いても勿論この政策が採用された︒宋史地一判蛮夷一の序文に﹁樹其歯長︒使自鎮撫︒始終蛮夷遇之o斯計之得也﹂とあり︑
宗会要稿︑蛮
夷王南蛮︑嘉泰三年正月十二日の条に︑一.所謂以蜜格︒治蛮格︒其策莫急於此﹂とあって︑南支那の蜜酋に対する政策の一
端が
一不
され
てゐ
る︒
先づ采側では蛮酋を知州・刺史等に任じて︑之を臨時際せんとしたのでふめる︒尤も唐季の乱によって査曾達は各kその地に
州名を立て︑自ら署して刺史となってゐたので︑宋朝では改めて彼等を刺史や知州等に任命することにしたが︑やはり旧の
まミ
京襲
さは
ぜた
ら)
如く
であ
る︒
災会要稿蓉夷玉南夜一嘉一昭五年十一月の条に︑
湖南安撫司一言︒旧制渓附知州卒︒令共‑酋領推所当承製者︒許進奉︒為知州︒侠撫逼蛮人及五年︒即奏授勅告︒今那
州渓胴知徴州楊光情︒承其父通漢︒巴及七年︒無他過︒請授以真命︒従之︒
とある
(M
﹀如く︑知州が死ぬとその歯領をして次に知州を承壊すべき者を推させ︑それに朝貢か一許し知州となすのであるが︑
宗側ではその推された者が蛮人を統撫する才能を有するや否やを吟味するため︑五ヶ年聞の猶予期聞を置き︑その後適当で
あれば始めて正式に命を授けると云うのである︒知州が・欠けた場合にその承知明(に関してはこのほかある程度の制限が設けら
れてはゐるが
2 v
︑大休︑酋長をしてこれを承嘆させたのである︒刺史についても同様で︑宗会要稿蕃夷ョ南蛮︑景徳二年正
月十九日の条に︑
渓嗣刺史卒︒其男皆代領刺史︒
とあって︑それが世製されたことた示してゐるが︑刺史は知州の任命よりも慎重に吟味され有力な蛮酋や功績のあった酋長
に授けられてゐる完︺︒
この様に刺史等を授けるほか官位を与えることによって鴎耐除したのであるが︑これらには俸給等が伴ってゐて蛮歯はその
袋二利益を受けてゐたのである︒続資治通鑑長編八七元豊一元年正月己未の条に︑
今近上首領既巳受命︒利於俸給︒共余族類自不敢動︒
とあり︑
︑¥女献透考回試聞のJ
桂海 虞衡 士心
(引
︿所
によ
る
﹂に南丹州につきのベ︑
共酋莫氏︒国朝命為刺史︒月支塩料︒及守臣供給銭百五十千︒比内郡︒
とあ
るの
はそ
れを
一一
小す
もの
であ
る︒
以上の如く官職及び俸給等を授けられた蛮酋は直接にその利益を受けたばかりでなく︑
を籍り︑もって開聞の諸蛮族に戚を張るに利用
した
ので
ある
( 5 0
尚︑既に見た却く︑宍
一 朝
では酋長を知州と為すと共にその問責b‑
許したのであって︑これがまた蛮酋の鶴暦に利
用された
ので
みの
る︒
をこ
長編
一一 一六 照寧 五年 間七 月庚 成の 条に
南江本唐殺州︒王代失守︒群蛮捜其地︒握立川名十六︒国朝並隷辰州︒詐令貢奉︒則給以駅券︒
とあって︑南江蛮につき朝貢を許してゐることを述べてゐるが︑北江蛮についても宋会要稿蒋夷ョ南蛮嘉耐一一一年八月の条に
国初診氏納牌帰順︒許通市易︒成平中降真命︒悶管下二州名︒許貢奉京師︒各三とあり︑叉︑長編八九元一岡元年十月丁酉の条には︑礼部言︒南丹州莫世忍乞依莫洪暗例︒芸人赴闘進奉︒己許進奉︒不令赴開︒今世忍再乞赴開︒従之︒
とあって(空︑蛮酋が直接に烹師に赴いて進奉してゐることを知るが︑その朝貢途上の便宜を図るため宋朝では駅券ある
ひは
館券止を彼等に給すると共に︑途上に於ける騒援の取捕りにも重点気を配つてゐる百三その朝貢した人数に関しては長編鳩七 彼等はこれらによ
って
朝
廷の
威光
大中祥符五年十二月戊寅の条に︑
渓胴蛮張文喬等八百人来朝︒
とあ
り︑
問書
円一
一
七同四年十二庚申の条に
渓洞安遠・順南・永寧・濁水等州蛮田承暁等三百七十二人
来貢
︒
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者蛮人竪欲詣京山貝売︒即許毎十人内量令三二人上京
︒従
之︒
とあるによって︑蛮一朗自ら京師心至って貢献すると共に物品を貨売することを飲してゐたことが判るのである︒朝貢と云へ
とあ
り︑
同害
時間
﹁慶
一麿
五年
正月
戊寅
の条
にも
︑
施州渓洞蜜岡忠顕等一百九十人︒入賞方物︒
とあって︑その数を掲げてあるが︑宋会要稿蕃夷互南蜜大中祥符五年十月の条に︑
是月渓胴蛮
人 ︒
請赴闘朝親者千五百
人 ︒
朝議以通途往来公私労費︒遂令転運使定奪以問︒
とある如く︑闘に赴いて進奉を請ふ者が十月の一ヶ月聞に千五百名の多数にのぼったことを示してゐる︒この様な多数の者
が京師に赴けばその往来途上に於ける公私の労費も多額にのぼるので︑その数をおさへるため後に掲げる如く十人
の内
三・
二人を許すとか︑朝貢を二年一回にするとかの制限も行はれたのである︒筒︑進奉を願ふが闘に赴くことを許されない者等
は近接した宋側の州に行き︑そこで貢物を納入したのである翁)O叉︑泰山︑南郊及び正日一等の儀式の際に貢献の蜜曾達も参
列を許されてゐる五)O
巻一
さて︑長編七C皇耐三年正月戊寅の条に︑
以辰州渓桐彰師宝知上渓州︒何令乾元節貢献如旧︒師
宝
仕議之子也︒葦自威
平
己来︒始聴渓桐
二十
州貢
献︒
歳有
常賜︒蛮人以為利︒有罪即絶之︒慶暦四年︒仕議以罪絶貢献︒其後数自訴求知上渓州︒至是始許駕︒
とあ
り︑
宋史
鳩町
十蛮
夷に
︑
辰之諸蛮︒与韓康保静・南滑・永順三州接壊︒業蜜酋︒歳貢漠布︒利於回賜︒頗覚馴伏︒
とあって︑貢献物に対する宋朝の賜物によって︑蜜酋達が利益を得てゐたことを示してゐる︒そして宋側では若し蜜酋に罪
があれば貢献を許さなかったのであって︑この点からも蛮酋を制御してゐたのである︒向この上︑蛮曾達は京師に於いて物品の買売をも行ってゐた︒宋会要稿︑蕃夷 七歴代朝貢の天聖四年八月十四日の条に︑
詔渓洞諸州蛮人進奉︒今後只於遂州交納貢物︒給賜価銭︒毎二年一次許首領至京︒因使買売︒伺自今年為始︒
とあり︑又︑同室同春夷ョ南蛮︑天皇四年三月の条には漢洞蛮人が毎年あまり多数上京して官怠共に鐙擾であることを述べた
舟 小 川 り
こ
草刈
lt
i1!'!
やはり一種の貿易であったわけで︑回賜の利益と共にこの様な利益があった故にこそ蜜歯は喜んで朝貢し
︑朝廷では蛮歯に
罪があれは朝貢を絶ち︑又はその一部を制限する等の工作をなして(空︑蜜曾統御の一策となし得たのであらう︒
朝廷では貢物に対して繰・銭・塩等の賜物を与へたのであるが︑それらの賜予を独占して四周に勢力を振ってゐた酋長も
あっ
たの
であ
る(
告︒
兎に角︑以上概観した如く官職の授与及び朝貢の許可によって蜜酋を即時腕除したことは明かである︒勿論これによって蜜酋
の漢化も進んだであらうが︑これより一段と積極的政策として蜜酋を内地に徒す方法が採用されたのである︒
為博州都指揮 蛮酋は朝貢を許されることにより種Kの利益を受け︑為めに競って自ら京師に赴いたので
ある
が︑
を捕へ勾強制的に内地に遷すこともあって︑それによって叛乱等を防ぐ一方法とした如くで
ある
︒
長編問乾徳五年九月丁丑の条に︑
以渓州団練使彰允足︒為漢州都指揮使︒義軍指揮使彰允賢︒為衛州都指揮使︒珍州録事参軍国
思暁
︒
使︒允足等漢洞歯豪︒拠山険持両端︒故国共入朝而置之内地︒
とあって︑北江蜜即ち酉水流域の彰氏及び田氏の漢洞酋豪が山険に拠って両端を持してゐるので︑彼等の入朝の機をとらへ
て︑之を内地に置いたと云ふのであるが︑その遷された浅州及び博州は共に山東省の西部︑衛州は河南省の北に夫k在った地名である︒同じことを宋史地調蜜夷一乾徳五年冬の条にはほとんど同文で伝へてゐるが
︑ た
Yそ
h
には漢州牢按都指揮 使︑
衛州牢城都指揮使︑博州牢城都指揮使と夫K
あって︑各
Kに牢按の二字が附加されてゐてこの点少し異ってゐる︒
非 恒 三
叉︑
長編百元豊二年九月庚寅の条には︑
詔︒順州武陵桐麻仲福・黄敷︒各杖背︒編管仲福郡州︒敷青州︒勅家族随
行 ︒ 追奪元補職宣命︒仲福等同僚智春冠
順州
故也
︒
とあって︑広西省に接するJンド支那北部地域蜜酋が朱に反抗したので︑此等の者を家族と共に郡州に徒したことを
物語
っ
てゐるが︑郡州は先きに掲げた博州の近くであり︑青
州は
その東部で共に山東省に在る地点である︒同様な例は長一編一波大
この
際に
宋側
では
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一寸
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広西経略司言︒宜州渓嗣言︒莫世忍子会効乞帰明︒而南丹叉言︒公勤作過︒乞以一行人送藤州︒給回安置︒詔広商
経略司︒令宜州取問莫世忍
oA7
公効罪悪︒法所不容︒如欲正典刑︒令押就境上処新︒若以父子恩且欲存留︒即遣田
本処︒今一一回送還悪処鴎管︒後世忍乞新公効於宜州︒詔止刺面︒配江西牟披︒杭免決︒
とあるによって︑南丹州査の莫公効なる者が罪によって毅面の上
hi
江南西路即ち大休今の江西省の地に配されたことを知
F t t
四百︒叉同署三十七元枯五年疋月丁丑の条にも︑
荊湖南路安撫使謝酔言︒部州関峡・按歩・
莫良
等処回桐作過禽首楊最進等四十三人招降︒詔第補授奉職︒至軍将︒
充江漸僻郡指使土軍将校︒
随処幌 管 ︒
とあ
って ︑
災・に反抗した湖
南省
南部
の蛮
一
酋が四十三人降服して来たので︑江南及び西漸両路地域の僻郡に徒したことを示し
てゐる︒
以上
︑
煩雑であったが掲げた諸例は実に対して両端を持し或ひは罪を有した蜜歯を強制的に内地に遷徒させた例証であるが︑このほか蛮族の一族問に於ける内粉のため︑その一方が帰順して内地に居住せしめられた場合もある︒車中二
百
長編七十八至和二年正月戊辰の条に︑剤湖北路鈴轄転運使言︒知竜賜州彰師党以其旗来帰︒詔本路常加有撫之︒何議所与官及所居処与授閏頃畝之数︒以
問︒師党師宝子也︒師宝父任議奪師宝之妻︒師安念悉︒故与師党皆叛︒
ゆで玄とあり
︑用はに条の卯‑幸四年二徳景九十︑問者
‑ g
南丹州刺史莫洪枯死︒長子滋勧襲父任︒俄為弟池辿所逐︒准劫帥属来奔︒詔宜州︒賜関田資給之︒
とある如きは蛮歯の一族聞に於ける父子︑兄弟等の粉争の結果︑その子又は兄が家族を引連れて宋に帰順したので︑宋では 中祥符九年九用了巳の条に︑
叉一言︒殿直蒙仕知帰化州︒州与縄水桐接︒数遣共子文宝及妻族甘堂偵軍事︒叉其子格与官軍関敵︒悉部送赴闘︒有
蒙筆者︒亦仕之子︒先嘗止口一版︒署為昭州押牙︒並歎配管燕州︒とあって︑撫氷室回が鯨面の上︑山東半島北部の登州及び燕州に配されてゐる︒向ほ長一編一語汀元豊六年間六月戊子の条に
も ︑
王五
一 』ノ、
之を内地に遷したことを示してゐる︒同じ様な例であるが︑後の論述にも必要があるのでこ﹀で掲げておく︒
品 位 四
宋史九四蛮夷甫丹蜜の条に︑
洪時戸時)之襲兄位︒車共地利︒下修常賞︒共弟洪況念之︒翠妻子来奔宜州︒洪時怒其背︒己数引兵攻洪一布︒洪一市与
二男弁牙将一人︒実伝詩関訴共事︒語発兵到討︒上以蜜一夷之俗︒現康而己︒不欲為之興帥報怨︒洪況先自称南丹州
副使︒以為部州回一糠使︒給田十頃c下詔戒柿洪倍︒
とあ
る(
お)
︒
以上の如き
こと
は屡
K行はれたと見え︑桂海虞衡志・志蛮・南丹州蜜の条に︑
A7刺莫延事︒逐主ハ弟延
嘆而
自立︒延﹂民奔朝廷︒謂之出宋︒
とあって︑兄弟の争の結果弟が宍朝に出奔したことが‑述べ︑この様なことを﹁出宍γ﹂と謂ふと説明してゐる︒しかもその割
註に
︑﹁
州河
原明
者皆
称出
宍・
﹂とある故︑変簡が種々の理由により宋朝に帰順して内地に遷ったことは明かなことであらう︒{京会要落莫玄安化州︑大中祥符六年の条に︑
首領指揮使蒙但︒翠挨来帰︒詔徒於桂州︒給回処之︒とあり品︺︑安化州蜜の首領蒙但が桂州に徒されてゐることを示してゐるが︑
条に
︑
巻
二日
同じ様なことは長編十八景祐三年六
月壬申の
南丹州歯領莫准戟︒翠族内附︒詔以為湖南州団練副使︒不管勾会事︒伺加存撫之︒
とあって︑湖南省の地域に徒されてゐるこ
とを 知る
︒
叉長編臨調一冗祐二年六月壬寅の条には︑
権知桂州兼管勾広南西路経路司首時中奏︒懐順清占奪任曾︒与梁賢知父子︒互椙賊室口︒請将順清井家族︒就湖南近
裏州軍編管︒依例給回土令耕︒
とあって︑広西省とインド支那との
境に居
た僕族の酋長が他族との争を生じたので家族と共に之を剤
︑ 湖
南路即ち
A7
の湖南省
の州軍に徒さうと云ふのである︒この様な請ひに対し枢密院は慌順滑に罪がある事情を述︒へつYけて︑
己該登極大及︒請特依帰明人例︒与茶酒班殿侍︒其家族令広南西路経路司︒差人押送道州
︒ 給 賜
閏土︒
鴫 ・
庶
無令出
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入︒
従之
︒
と一
言ひ
(告
︑家族が道州即九湖南省の南部に護送されたことた示してゐる︒空間
‑ 3 1
情︑長編八十rハ.紹聖四年匹月壬申の条によると︑南丹州の蜜歯の英会特・間労が家族と共に帰順して来たので広西経略司
としては︑
本司今相度︒欲差人伴送前安吉・郭州︒給国産安泊︒
とある如く︑江西省の士口安県及び湖北省の武昌県に徒さんと欲してゐる︒この続きによると
語︒莫会鞠与
閑労与吉州m w 州団棟割使︒不安童育会事︒
長史︒並不支請受︒的令広西経路司︒差
人伴押前去現州交
割︒令於本州一処居住候到︒給与係官堪耕種田土︒仰本州常切明庶︒
とあって︑その処置の行はれたことがわかる︒
今まで述べた諸例によっても︑多数の蜜簡がその本拠地を離れて速く内地の各州に留められたことは明かで応らう︒筒︑
この様な例は論述の必要上より︑後にも掲げることとする伏︑この点︑更に明時となるであらうが︑こ︑で遊従された地域
に関
L
て一応の考擦を為すこととする︒既に見た如く山険に拠って両端を持した北江蛮簡の彰氏及び田氏が入朝の際に捕へられて夫k淡州・
博州及び街
州の地に
遷されてゐるが︑それらの地点は山東省の西部と河南省の北部に在り︑
特に漢
・衛の二州は共に京師の開封府に近い︒その
次に掲げた例では広西省に接する地の蛮簡が栄に反抗したため︑共に山東省に在る郡州及び青州に遷されてゐるし︑更にそ
の次の例でも撫水蜜がやはり問じく山東の登川及び燕州に配されてゐる︒向︑他の二例によると江西江南及び両斯の揚子江
下流域に遷されてゐるが︑以上の諸例によると共に﹁
杖背
﹂
・
﹁数
面
﹂ ・
﹁刺
商
﹂等の刑を受けてゐることは注意に価する︒
しかも本来罪人の収容所であった宮城に配されてゐるし︑叉その土地が﹁逮悪処﹂であり﹁僻郡﹂であったのであって︑そこで厳重に覇管されてゐたわけである︒
これに反し︑蛮骨一族聞に於ける不和等のため宋に帰順して来た者の遷徒地は既に見た諸例では宜州・郁
州・
桂
州・
道州
士ロ 州
那州とかの諸州の名が見えるほかたY湖南の州軍などとあって ︑大体湖南・湖
北・
江西及び広西の諸省の地域に亙って
ゐる︒そしてその遷徒地域が前に見た反抗蜜酋のそれと較べて︑蜜歯の本拠地に接近してゐることは直ちに気付くところで
七
J九
ららう︒即ち悪質の蜜酋を山東や揚子江下流域等のより遠隔な地に遷してその牢城に配
し︑蜜族
鎮換制御の一法としたので
あら
う︒
備︑宗の蛮地経路の結果蛮一酋を内地に遷徒させたことは当然であらうが︑それは長編盟元枯五年八月丙辰の条の蘇轍の
蓋一四州等処︒土田山宙局兵諒鋤首領︒或徒置内地︒蕩平巣穴︒故所置州県久遠得安︒とあって︑南江警箇が討伐されて内地に徒し置かれたことを物語ってゐる︒同じ様な例は長一編ヰ九天蕗二年四月戊午の条に補下渓招降蛮人彰仕漢︒為方班殿直︒儒覇・傍聴並為二一班
傍聴
︒時
世
m一一
許・ 陳・ 鄭州 琉税
︒各 賜衣 冠籍
・用
︒
とある︒即ち北江蛮の招降蜜酋達が右班殿直や三
班借職を授けられて︑夫
K河南省の許島県准陽県及び鄭県等の塩税を監せしめられてゐることを知るが︑この三地点はすべて︑都の開封府に接近してゐることは注意すべきであらう︒一体この彰仕
漢の父儒猛なる者が叛したので︑失・では軍を出し討伐したが彼は山林中に亡入してしまひ︑た
VJ
仕漢等を執へて闘に赴かしめたのであるから(号︑以上の如く都の近くに徒して監視したのであらう︒尚︑この彰仕漢のことに関して長編時 一天皇元年
三月の条に︑﹁辰州一言︒下渓州刺史彰儒猛子右侍禁仕漢状称︒向以父老兄亡︒濯留家属西京︒潜帰本道与父針束漢民︒欲乞
放遺家族︒詔河南府︒遣人部送一赴闘︒以官舎一広之︒﹂と見え︑叉同じことを伝へた宋史地調査夷一北江蜜の条にも
﹁至
仕
漢為殿直︒留西京︒後靴遁帰
o
帰り︑残して来た家族の放還を朝廷に依はその後西京河南府に家族と共に留められてゐたがこ﹀から潜かに本拠地に逃げ︑ 人聖初︒以状白辰州自言︒父老兄亡︒潜帰本道︒願放還家属︒詔徒其家京師︒舎以官第﹂とあってZ
求めたと一式ふのである︒然し朝廷では之を許さず︑かへってその家族を西京より京師に送らぜて官舎に置き︑前よりも一層
監視を厳重にしたのであった︒これらによってみるに蜜曾の家族を人質として内地に︑特に都の附近に置いて︑その叛乱を
防ごうとしたこと岳)は確かであらう︒
兎に角︑以上によって悪質の蜜歯が山東省や江斯の遠隔の地に編配され︑叉人質に近い取扱ひを受けた一族等が都の近く
の州に徒されてゐるのに対して︑蜜歯の一族聞に於ける内蹄のため叉は采の経略による圧迫のために帰順して来た首領逮は
その本拠地に近い湖南・湖北・江西・広西等の地域に徒し置かれたことは大休明かになったと恩ふ︒
ではその遷徒地に関して全体としてのある制限はなかったであらうか︒かく考へて見て直ちに気付くことは北辺の地域に
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遷徒された例を見ないことである︒来会要稿兵帰明に︑
三年
( 0
町 一
)八用七日詔︒帰明人
除河北
・河東・侠西・京東・川広不差余路︒並許差注︒
帰明蜜倦罫聴︒
とある︒即ち帰明した者が帰明官として遷される地域の制限につき述べてゐるが ︑これによると河北・河東
・陳
西・京東の
北辺諸路及び四川の南部と広南路とが禁止地区として掲げら仇︑それ以外の諸路は許可される
こと
﹀なってゐる︒但しその
禁止区域の内京東路は北方即ち契丹や西夏よりの帰明人
を除いた帰明蜜俗
l
本論考で主題として取扱つ之ゐる蜜l i
には
許可すると一式ふのであるoこの様に北辺一帯の諸路がすべて禁止されてゐるのは契舟
・西
夏に対する警戒のためで
ある
こと
は勿論でららう︒た
V北方民族でない南方の蜜悔だけは幾分その制限を寛くして京東路のみは許
可し
たのであらう︒前に掲
げた諸例中に見える遷徒州名の決州
・郡州・青州・燕州・登州等が皆この京東路に在ることを想ひ起すべきだらう︒たY既
に見た如く宋の初めに両端を持した蛮歯が入朝に際して捕へられて博州及び衛州の牢披に配されてゐるが︑これとても京東
路の北辺及び都と近接した地点である故︑南方蜜歯の遷徒地は大体これが北限であったであらう︒この様に蛮俸
の酋領のみ
京東路に遷徒するを許されたのは既に述べた如くそれが南方蜜であること﹀共に︑この京東路が彼等の本拠地より遠隔であ
り︑しかも中央からの監視の十分に行はれる地であったからでゐらう︒
倫ほこの照寧三年の制限によると北辺諸路のほか四川の南部と広南路とが掲げられてゐるが︑後の二地域が共に蜜夷と接
近した地域であったからで︑この点北辺諸路の場合と同じ理由からであったらう︒既に掲げた例中に蜜曾が宜州桂州等の広南路に徒されてゐるのを見たが︑これは共に真宗朝のことであるから︑その頃は未だ広南方面に関する制限もそれほどではなか?にのであらう︒
以上によって蛮歯遷徒の事情及びその地域が大休明かとなったと思はれるが︑
考察して見ること﹀する︒ 内
京東路除北界帰
明人外余
次にその遷徒地に於ける彼等の状態につき
四
ゴL
。
宋朝に両端を持したり反抗したりしたため杖背・蘇面等の刑を受けて︑﹁遠悪処﹂・﹁僻郡﹂や牢按に編配された蜜酋が
厳重な覇管の下に置かれてゐたことは既に見た如くで︑その様な処置は当然であらうが︑この外︑蛮曾の一族聞に於ける内
紛等のために帰順して来た者に対しても同じく厳重な覇管を行ってゐる︒
前に掲げた南丹州蛮曾莫会鞠等の場合に﹁木州常切鶴一際一とあって漢州の覇臨時下に置かれて監視を受けてゐることを知るし︑健族の酋長が他族と争を生じて湖南省の州軍に徒された時も其の家族は護送され︑同じく﹁覇庶無令出入﹂とあって︑
その出入を許さず厳重に監視されてゐることを知るのである︒
兵十
宗 会 要 稿 へ 帰 明 の 条 に
八
1
二十日( 0
諒一 )
枢密院奏︒勘会帰明番部及因過犯一編或襲昌之類︒元係外界人︒近来︑逐処不切関防︒或有失安存
致走失散在諸処︒深為不便︒
とあって︑編配あるひは覇管されてゐる帰明人が多数走失したことを物語ってゐるし︑同じことは同書同条に
政和一元年五月十日語︒応諸処見在郷村帰明人並改正令依条州県城内若住︒令転運司毎季具見管帰明人姓名︒申枢密
院 ︒
とあり︑叉その翌k年の条には
一二年正月二十一日︒兵部情書置食奥奏︒伏見︒帰明遠人以州県失於機察︒或致逃気︒近者枢察院申請令改正︒並居技中︒云k
とある︒これらは北方よりの一般の帰明人をも含めた例でみめらうが︑帰明人が厳重な監視の下に置かれてゐたこと一示すものであらう︒西京に留めれてゐた蛮酋の子が潜かに木拠地に帰って︑残して来た家族の放還を求めたのに対し︑宋朝ではかへ
ってその家族を態k西京より都に送らせて官舎に置いた如き︑既に先に掲げたが︑やはり蹴重な監視下に置かれてゐたこと
を一示すものであらう︒要するに蛮酋及びその家族が遷徒地にて厳重に監視されてゐた事は確かである︒
春一
5さて前掲の長編七十一八至和二年五月戊辰の条に︑蛮酋が一族聞の不和のため家族を率ゐて荊湖北路に来帰したことを述
べ︑続いて︑﹁詔本路常加有棉之︒例議所与官及所居処与授回頃畝之数︒以聞﹂とあるが︑これによると遷徒した蛮歯に授
与すべき官名及び田土が問題となってゐることを知る︒先づ田土につき考察しよう︒
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回土の授与に関しては既に掲げた諸州の中にも﹁詔宜州︒賜関田資給之︒﹂﹁詔徒於桂州︒給回処﹂﹁依例給田土令耕﹂
﹁給賜国土﹂﹁給国産安泊﹂﹁給与係官堪
耕種
岡土﹂とか﹁給回十頃﹂とか見えてゐて︑遷徒地に於いて国土が給与され︑
それが﹁例に依った﹂ものであったことも明白であらう︒
遷徒蜜曾に給与さるべき国土の広さについては先に掲げた如く﹁仇議所与官及所肘処与授回頃畝之数︒以聞﹂とあるのを
みると︑その場合場合に応じて決定されたのであらうが︑一般の例としては次の如きものがある︒
{木会要稿共十七帰明の条に
五年
( 0
翫)十月十八日詔︒帰明人応給官困者︒三口以下一頃︒毎三口加一頃o不足以戸絶田充o其価転運司接還︒とある︒これは帰明人に対する大体の標準を示したものであろう︒叉︑同書同条に︑
神{一京照寧元年五月二十三日詔︒今後帰明
人子孫穀祖
父乞恩沢者︒不以生長去処︒文武障朝官以上給田三頃︒如在寛
郷︒即給五頃︒以下給田二頃︒如在寛郷町給三頃︒云k︒
とあって︑多分︑酋長かそれに類する有力な帰明人の子孫に対して給与すべき国土の広さが定められてゐるが︑これによる
と一般の場合よりも広く授けられてゐるし︑
叉その遷従地の状況に応じて五頃も授けられてゐることを知るのである︒南丹
蛮歯一族が妻子をつれて来帰した時に一4国十頃を給した﹂ことは既に見た如くである︒南方の蛮ではないが契丹よりの有力
な帰正人に対して十頃・二十頃を賜はった例が見えるあ)様であるから︑有力な帰明人に対しては俊遇して広い回土を授けた
のであらう︒もっとも︑政治的な考慮からでふるが契丹などの北方帰明人は南方蛮のそれよりも俊遇もされ
てゐ
る五
)故
︑
二
γ頃ぞ授けられたのであらうから︑南方蛮歯の帰明人に対して授けられ
た十
頃な
いと
は多
い
方であったらう︒倍︑授けられ
る固に就いては前掲の元豊五年十月の詔の例によると宮田を給し︑それ
が不足すれば戸絶の困を給したと云
ふのであるが︑宋会要稿一叫十帰明の条には
十二月八日
( 0
諒 )枢密
院一
言︒
帰明
人給回︒旧条堪耕一種因不足︒給戸絶因︒一冗枯間令堪耕種田不足︒給常平田︒縁
常平田止人戸抵当場務所折納等︒田土数白木多︒詔添入常平田不足給一
円絶
回︒
とあって︑常平田も給されてゐることを知るが︑その給与された田土には耕佃に堪えざるものもあって問題となってゐる︒
それは同書同条に
五年
( 0
耐)
八周
一目
︒戸
部一
言︒
帰明
人所給田︒如有一家慨及痔薄不堪耕佃︒告官為験実別給︒
従之
︒
とφめるにより知らるが︑之は北方よりの一般の帰明人をも含めた者に関する
こと
で︑
蛮曾な
どの有力なる帰明人に関するも
のではあるまい︒兵十
筒 ︑ 宋会要稿
七帰明元豊六年の条に︑
十二
月二十八日
詔︒
思賜帰明人田宅︒母得質売
︒ 以 編紋所言︒賜
回宅
︒本欲化外之人
︒有業可帰︒不当許共質売
也︒
とあるによって︑授与された田宅の質売は禁止されてゐたことを知る︒
次に
官職の授与につき考察し
よう
︒一
体︑蜜歯に刺史知州等を授けて俸給を給し覇耐出したことは既に初めに概観した如く
である︒朱側に反抗したJンド支那北部の蜜酋が杖背の刑を受けて山東省の地に
編管
されたことは既に掲げたが
︑それによ
ると
︑﹁追奪元補官職宣命﹂とある故︑以前に授けられた官職はこの様な場合には
迫怒されたのであらう︒こ
れは尖朝に対
し反抗した者に対する処置であって︑一般には諸例
で見た如く蛮簡に職名を授けて遷徒させてゐる︒然し先掲の長編清
一一
リ
紹聖四年四月壬申の条に﹁
詔莫公鞠与州射団練副使︒不等
一同
公事
﹂と見え︑
問 主
江育景祐一
一 一 年六月壬申の久米にも﹁語以為
湖南団旗副使︒不管勾公事︒仇加存揖之﹂とあるによ円て︑共に団練副使に任ぜられてはゐるが︑公事を管勾しなかったと
云ふのである︒一体この団練使は単に武人の階殺を一示す称号となっ
てゐ
たのであるから︑この場合にも勿論称号のみの授与で実務に関与しなかったのは当
然であ
らう︒そして前条によると既に掲げた如く﹁並不支請受﹂とあるから請受即ち俸給も
与へられてゐないのであるが︑国土を給与されてゐることは既に見た如くである︒徽宗朝のことであるが︑蛮地を来朝に献
納した帰明人111酋長の如さ有カな者の帰
順 し た 者 で あ ら う
! に
対して職田が支給されてゐる
こと
は宗会要稿叫 十帰明の
条に︑
崇寧
二年九月二十三日詔︒帰明人如係納土
帰明
︒
並与依条支破職回
︒ 内 西 北
帰明人雌非納土︒亦与支
破 ︒
とあるにより知る故︑
さきの例で団練副使となし俸
給を支給せず国土を給したのはや
はり
この職国の場合と同じものであっ
たであらう︒前に見た﹁給回十頃﹂の場合も団練使に任ぜられた帰明人に授けられものであることをこ﹀で想起すべきであ
らう
︒
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袋二さて長編八七元豊元年間正月己卯
の条
に︑
権剤
︑ 湖南路転遼副使朱初平一吉田︒下班殴侍楊昌錯︒是徴州賞石団事職光鎮子︒自陳︒三州一鎮補班行人茜衆︒
人出官者︒望俊与推恩︒詔授昌輝三班借職︒増差監逝一州税︒
とあって︑誠徴州蛮歯で下班駁侍の楊畠錨が帰順して来たので三班借職となし湖南省長沙県の税を監せしめてゐることを知
る ︒
品 位 二
叉長編八三照寧十年六月甲午の条に
允州
査部
削
光勇為三班奉職安州監当︒以知一市州謝麟言︒光男先制土而逃
o A
7詣州自陳乞依南江漢桐例補授故也︒.
とらって允州の蛮歯が帰順して来たので之を三班奉職とし︑湖北省安陸県の地の監当官となしてゐること(詑)を知るが︑この
様なことが南江渓胴の例によって補授されたと云ふのである故︑照寧六年の南江蜜経略(お
)の
際に
も同様な事態が行はれたの
である
a v o
叉同樺なことは宋会要稿蕃夷叉南蛮天蕗二年七
月の
条にも
通漢
( 0
制遁)再表乞留京師︒詔不許︒以通漢子殿直光沢︒監期州税︒孫借職守忠︒巡轄剤南鼎州馬逓鋪︒並従共請︒とあって︑南江蛮歯向氏の子孫が湖南省常徳県の任地に遣はされてゐることを物語ってゐる︒この向光沢は次の年の十二月
になるとその本拠地の宮州蜜酋として宋朝に領土の献納を上表して来るのであるから
︑ 鼎
州の任地で税を監したのは短期間
であったであらう︒叉︑長一泊立大中祥符七年十一周戊良の条に︑
以一民州漢桐都指揮使説進武︒補三班借職︒監一房州税︒佑給装銭︒赴任︒
とあって︑蛮の説進武が装銭を給せられて湖北省竹山県の任地に赴かされようとしてゐる
│l
実際はその後変更されて准南
に赴く
l i
ことを物語ってゐる処を見ると︑査歯の一族が監当官としてその本拠地よりはなれて実際に任地に赴いたのであ
ろう︒これら帰明宮に俸給が与へられたことは勿論でゐらう︒これらは既に見て来た遷徒とは少し趣を異にするが類似の点
が多いのでこ﹀に附言しておくこととする︒備︑来帰してた蜜曾やその一族にその遷徒地に於いて官職を授け銭糧を給
した
ことも勿論行はれたのであった︒それは長編時一一一天聖三年七月了未の条に
未有
一
四
荊湖北路転運使孫沖言︒下渓州刺史彰儒猛攻殺知忠彦州彰天結︒共子儒素率共党九十二人来帰︒
知兵馬使︒余官並月給銭糧︒従之︒
とあって︑
北江蛮曾の子の来帰した者を湖北省の地に遷して都知兵馬使となし︑余官の者にも月
kに銭糧を給してゐること
によっても知られるが︑帰明宮が請給即ち俸給を支給されゐた例は多数ある故︑こ﹀では一k例証しない︒
帰明官の任地に就いて制限があって特に北辺地域が除外されてゐた事については既に述べた如くであるが︑各州に於ける帰明官の人員についての制限が設けられてゐたことがあった事は︑南宋の例であるが宋会要稿世 十紹興六年五月二十八日の条に︑ 欲補儒素為復州都
詔北界帰朝帰明毎州不得過六員︒余依己降指揮︒共酉界井蜜繕人毎州不得過二員︒
とあるにより知るのであって︑蜜倍は毎州二員を過ぎることを禁ぜられてゐる︒
これ
らは一地点のみに集会させると弊害が
起るので分散させる主旨から出たものであらう︒
尚︑帰明官に対して朝廷では種Kの配慮をなして州県に落度のない様に注意してゐた如くで︑それは宋会要一精一ず帰明政
和七年七月九日の条に︑
詔o諸路一帰明宮己授漢{呂美一遣︒何所在処知遇等常功
( 0
制の
)体認朝廷待遇︒優加存郎︒無致失︒
とあり︑又他の例でも﹁以一ポ来遠之意﹂とか﹁州県常加安撫﹂とかの語が見えることにより窺ひ知ることが出来る︒
五
以上︑南方蜜歯の内地への遷徒を中心として︑
かっ
た︒
一体︑失・朝に於ける南支那蛮歯の内地への遷徒は蜜地経略と表裏をなすものが多いのであるが︑内徒は何んと一去っても少
数な蜜人が多数なる漢民族の内部に浸入するのであるから︑漢化の点ではそれ自体他に比較にならぬほどの効果をあげ得た
ものと認めねばならぬいたらう︒又︑蜜歯の内徒を通じて︑それに連る蛮人に大きな漢化力を与へたであらうことも忘れては
なる
まい
︒
その地域授与された田土・官職等につき概観のみを述べることしか出
来な
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一方︑漢民族自体の蛮地への進出及び州県の設置は漢人の査地への投入であって︑この点だけではさきの内徒の場合と全
く逆の立場にあること﹀なるが︑この際こそ漢民族の政治的・経済的及び文化的使位がその真価を発揮すること﹀なり︑こ
の優位を通じて蛮人・蛮地の漢化は着Kとして進展すること﹀なるのである︒この際の模化舞台は勿論漢人と蛮人との密接
な交渉の行はれる場所即ち設置された州県城築が中心となるのである︒この点については既にその梗概を述べたことがある
がハぎ︑この様な州県の設置と共に内徒が南蛮漢化の過程に大きな効果をあげ得たと思はれるので︑この点につき少しく論及
したのである︒
詮 (2
﹀ ﹁史学雑誌﹂第四七飯第一一号︒
朱史一服剛一梅蛮二︑夷山咽蛮︒朱会要稿︑審英五南蛮︑県率五﹂牛十月︒宋史一一一一
一一
張一
預伝
︒続
安治
遁鐙
長一
向腕
江︑
庚申の僚︒
宋史⁝諸蛮夷一︒文献一週考岡商考︑盤町判経︒元盤九域志一切議・隊州荊潮路︒
辛亥
︒
照率五年十一月 (1
﹀
( 3 )
長続叩一九天和二年五月丁卯・同香川九乾興一元年十二月
(4
﹀
朱史
⁝ 加 盟
蛮夷一︒
長一 続一 一乾 徳三 年七 月・ 同書 一 一 二
豆半七年四月丙成・開書一一足元制定八年七月丙辰・同書文献遁考囚寵考接狐穏︒
一一 二大 一合 同一 回八 年十 二月 己酉
︒元 登九 時叫 志鳩 山刑 湖北 路前 州の 侠︒
( 5 )
宋史
焼却
・文献望号・一見壁九空応いは右K同じ︒宋市宮地八地理士山︒長一統一把豆半六年六月巴卯・同書笠一冗壁一プ年六月・同斗信同年
十二月丁亥の保︒
( 6 )
朱会要稿蕃夷玉南蛮︑皇一献三年三月十七日及び治一ヰ四年十一月二十九日の僚︒宋丸一一羽・文献遜考は右に同じ︒
( 7 )
朱史
的回
蛮夷ニ誠徽州︒長編時心配一率九年十月辛亥・同書一一二県内且干六年E
月の 線︒
( 8 )
朱史⁝諸蛮夷一︒長続一一一一忌廃三年九月乙丑・問書腕↑岡田年一一一月里民の僚︒
五
ー
ノ、
(9
﹀ 宋
史鳩醐南丹
蛮・同
鳩潤 豪
州及び
撫水州︒宋会要
務
蕃夷五安
化州︒文献遁考
咽薦
︒
( 叩 )
桂海虞衡志
︑志 蛮︒ 償制 灯代 一
答 功 一
︒
拙稿
﹁広西蛮曾の始遷組について
﹂(
﹁ 南アジア学
報﹂二号︑昭和十九年)
( 日 )
朱会 芸術 蕃夷 五俄 氏︒ 文献 遁考 一叫 揖同 一凶 一原 資︒ 宗史 地問 蛮夷 一
一一
広源 州︒ 長編 坤↑ 皇一 献一
万年九月乙己︒
宋由 民一 胞団 蛮夷 三察
︑調
︒+ 父献 遁唱 え岨 商︒ 桂虞 衡士 山︑ 志変
︒
長信
森
一一 一天 蒋三 年三 年七 月戊 辰の 註︒
長目黒山九嘉結五年十一月己丑及び朱史⁝諸蛮夷一同年の僚も略同様︒
長縄問団元一町六年二月辛亥及び問書政相同年三月丙成の保︒宋会市官稿蕃夷五周年二月二十二日
の僚
︒
長絹一定随一率九年十月辛亥・同咋九天一時二年四月乙任︒
長田
明一
位一
否豊
元一 年
E
月己 未︒
ハロ
﹀
( 日
﹀ ( 川 崎 )
ハ日 )
(
時 )
︿ げ
﹀
(刊ぬ﹀
長田 柄坤 庇元 徹
元年疋月丁己の僚参照︒
( 四
﹀
宋会要務蛮夷七彪代朝貢︑政和六年八月十三日︒同審英五南蛮大中一昨符五年十月の僚︒長続投一一塁且干八年
間四月
乙卯・同書
寸八
大中野作六年十月壬成︒朱
史雄調査英一︒
(
却
﹀
長続 一服 七大 中一 昨符 歪寸 十月 乙己
・
問書位二否昼
間 同年
二月間甲成の僚︒朱会主例蕃夷五南蛮
成卒五年
十月
・
夫建
四年八月・同
勢蕃夷
七歴代朝貢天忠一四年八月十四日の保︒
( 幻
﹀
臨川先注文集地図
賜渓洞知的州同
一 万
宗生一千差寒助南郊芥資冬交正柑香︒宋
史⁝ 脱却 蛮夷 一 歪
迫二年︒朱会主情蕃
夷五芸道
二年・及び
中 へ中
一 野付 一
一 克
・年
十
月・
同五年一一月の僚︒長線諮問先祐四年十一皮午午及び甲申の僚︒
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(詑﹀
長一 品ト 嘉誠 一
元年九月己亥︒
朱史日比調蛮夷一彰氏︑至和二年の僚︒
( お )
(
U A)
朱会妻橋蕃夷五南蛮︑至和二年
五月
の僚にも見
ゅ ︒
( お
)
文献
甲週
中考
拘商
南丹
州蛮にも見ゅ︒
長担与八六中
一 昨
符六年九月
一 安
巴及び文献遁考一世間南丹蛮の僚Kも見
ゅ ︒
(部) ( 幻 )
宋会要稿
蕃 夷 五 広
源
州変︑元
結
二年六月二十二日の僚
も同
じ︒
(mぬ)長
一 綿 一 斗
九天
一時
二年
一止
月乙卯の僚︒朱史⁝m明苦笑割天路二年の僚︒
宋会要稿惜一帰明に﹁太宗薙照三
年七 月︒認︒北界帰明
人先 令分処井代︒今遺密
枢
都品
市宮
崎初
守 一 ︒ 滋於 一凶 京許 州 ︒
給
関回
一処
之﹂
とある如童も井
代より
西京に還し
ている例で之は北方
の帰
問一
人の相場合であるが同じ目的であらう︒ (却)
( 却
﹀ ( 幻 )
周藤吉之氏
﹁中
国土地制度史研究﹂頁
=一四六
│三
回七
︒
宋会要特例性一帰明︑
徽宗室等二
年九月二十三日の
僚︒
本稿頁三二参照
︒
( 詑 )
先に掲げた長一時
吋九 天祐
二年四月戊牛の僚(本稿頁
二八 参照
﹀も同
様な例である
︒
( お )
長 一
精 一 町
一Lm山率七年正月丁巳の像︒
長精
一一
明一
万蹴五
年八月
一内一肢の蘇綴の言に﹁葉
況州
等一笠日皆用兵云々
﹂
(本稿︑寅二八参照)ととあるのはの様な内地への選後を
(川
品)
言ったのであろう︒
(お﹀史学会第五十三回大会︑東洋史部会﹁省地・省民に就いて﹂(昭和ニヤ九年十一月﹀﹁史伊雑誌﹂第六三続第
一二
号︒
七
法 政 史 学 第 七 号
正誤表
88 87 8281ヵ726966 65行63 57行。 43519
頁 頁 頁 頁 ラ 頁 頁 頁 頁 頁 頁 終 頁 行 頁 頁 上 中 下 下 7下迫 上 上 下 1マ 日 下 彩 段 段 段 段 行 段 記 段 段 段 段 ヵF主 β
7 , q;t3 9 11 最 7 ラ 5 カ T 必T
行 D行 行 行 終 行 6行 ラ 文 南 参 十 頬 量 ・ 何 月 明 十 題 ・ 「 介 志 望 空 ・ そ 北‑ 玉 者 一 挫 重 公 ず 台 月 に 琉 賀 十 れ 史 郡古日月 伎 十 九 ・ 関 球 常 九 た E宇 )11 十・ の・ 三・初・す所・ 鋒 ・ 年 共 誤
初日
‑ .
i尽 年 目 る 属 ・ 高 ・ l才・ 日 筒 τr 」 問 ・ 陸 女 村 。1南参十1!!fi重 何 月 明 十 関 「琉 志 十 そ 化。 埼。加ー 坐 複 公 治事月IJす 賀 九 れ史 玉 者 月 使 十 る 球 常。年と 五
づ持4ー与 君目 十 宛 二 。 九 」 版 。 陵 。 共 )11 )¥.0 返 年 目 属 。 介 に。
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