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牧野英二

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哲学的対話の一つの試み

一カントにおける超越論的思考と解釈学的方法一

牧野英二

はじめに

本稿は,2006年6月10日に行なわれた韓国カント学会での記念講演の発表原稿の改訂版である。韓 国カント学会における日本人研究者による初めての講演に際して,筆者は,日韓関係の現状に鑑みて,

カント哲学及びその研究の今日的意義を中心にして,特に日本と韓国との間の「国境」を超えた「哲学 的対話の一つの試み」を意図した。

かつてニーチェは,晩年のアフォリズムのなかで,自己のめざすあるべき哲学者のタイプが「新しい 種族の哲学者」であり,「この将来の哲学者たちは,誘惑者と呼ばれる」(')と述べている。「誘惑者Ver‐

sucher」という言葉は,もともと「試みるversuchen」に由来する。また,「誘惑者」という言葉は,

試みることが任務であり使命である哲学者を表す(2)。筆者は,今回の招待講演の「試み」が哲学者とし ての「任務であり使命である」と考え,以下のような研究者共同体間での「哲学的対話の一つの試み」

を遂行したわけである。

そこで筆者は,本稿ではカント研究とディルタイ研究との接点に着目して,カントの批判哲学の意義 について,以下の諸点を明らかにしようと試みた。第一に,カントの批判哲学には,従来の通説とは異 なり,超越論哲学を形成する超越論的思考だけでなく,同時に多元主義を形成する解釈学的方法が見出 せるという点である。第二に,従来の哲学史では看過されてきたこの解釈の立場を採用することによっ て,批判哲学の一層豊かな広がりや深まりを明らかにする。第三に,それによって批判哲学の今日的意 義と重要性とを明らかにする。第四に,筆者は,これらのカント解釈の「試み」を契機に,日韓両国の カント研究に携わる哲学者が,上述のような意味での「誘惑者」となり,新たな「哲学的対話」の可能 性を拓く「地平」を共有することを意図している。

カント解釈上の蹟きの石

最初に,現代哲学とカントの理性批判との関係を論争的観点から確認しておきたい。周知のように,

ホルクハイマーとアドルノによる『啓蒙の弁証法」以来,近代主観主義の限界,主客二元論の制限,理

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文学部紀要第54号

性による自然や感情の支配のNHI題などが指摘され,1811t紀啓蒙思想の制限があらわにされてきた。と りわけカントの理性は「啓蒙的理`性」としてもっぱら否定的・批判的対象に吃められてきた(3)。また,

彼らの反合理主義の行き過ぎを批判したハーバーマスらによる「未完のプロジェクト」を遂行しようと する人々の間でも,カント的理性は,科学的認識や道徳的規範の歴史性,多元主義を看過した抽象的で 独断的な普遍主義である,と厳しく批判されてきた繩》。さらに,ハーバーマスとは対照的な立場に立つ ハイデガーの高弟であったガーダマーの主著『真理と方法』では,カントの趣味論,共通感覚論,反省 的判断力論などがやはり厳しい批判の的となり,もっぱら否定的に論じられている⑤。

他方,奇妙なことに,20世紀末に至り,ポストモダニズムと呼ばれる思潮に属する思想家たちは,

『判断力批判」の崇高論や啓蒙論の読み直しに異様なほどに熱心であった。さらに,解釈学的哲学の代 表者とも言うべきガーダマーとは対照的に,同じハイデガーの弟子でもあったハナ・アーレントは,カ ントを独自の立場から積極的に解釈した。それどころか彼女は,「カントは現代哲学のいわば隠れた真 の創始者であり,その上今日までその隠れた王(King)であり続けてきた」(6),と指摘した。しかし,

いっそう不思議なことに,アーレントのこの指摘を正面から受け止め,カントの「隠れた王」の姿を鮮 明にしようとする試みは,21世紀に入っても依然として殆ど見られない。だが,それはなぜであろう か。そこには,カントの批判哲学の積極的な解釈を妨げるいわば「頚きの石」が存在しているのではな いか。筆者は,この問題提起から議論を開始したい。また本稿では,「一つの試み」として,この疑問 に対する一つの回答を提示してみたいと考えている。

最初に,議論の手がかりを妓新の文献に求めてみたい。アメリカの哲学者で,ハイデガー研究者とし ても定評のあるトム・ロックモアは,今年刊行された最新のカント書の中で,カントの歴史的・今日的 意義について次のような論評を加えている。まずカントの積極的意義については,「倫理学,美学,自 然科学,科学哲学などを含む多くの領域に影縛を及ぼしているが,とりわけ認識の問題に関して」(7),

その重要性を指摘している。しかし,他方でロックモアは,カントには「両立しがたい,認識に対する 表象主義者の研究方法と構成主義者の研究方法」(8)が存在する,と主張している。これは,鋭い指摘で あるが,実はしばしば繰り返されてきたカント評価及び批判の視点である。筆者からみるならば,後述 のように,このロックモアのカント評価とカント批判の両面には幾つかの異論がある。

第一の問題は,カント哲学の積極的意義に関する議論である。今日では,カント哲学の意義を正当に 評価するためには,理論哲学の領域では自我論や心の哲学に関する問題群,実践哲学では自由論や定言 命法に関する問題圏域,さらに美学や目的論,永遠平和論などの政治哲学・法哲学・歴史哲学の領域に まで目配りしなければならない。これらの問題群やそこでの個別問題の位置値が測定されることがない ならば,今日では批判哲学の解釈としては適切とは言えないであろう。実際,後述のように,従来個別 領域での独立した問題と解されてきたカントの認識論や美学そのものが,永遠平和論,政治哲学の`思想 などとも根底で深く関連しているのである。ロックモアのこのようなカント評価の視点には,認識論重 視という点で一面的であるという不十分性がみられるだけではない。ここには,それ以上にカントの全 体的評価を困難にさせる「頚きの石」となる危険性が潜んでいる。

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極学的対話の一つの試み 第二は,ロックモアのカント批判に関する問題である。彼のカント解釈は,カントの理論哲学を伝統 的な表象主義者か構成主義者かという二者択一的な問題設定に限定されており,この問題設定の仕方そ のものが,カントの超越論哲学の射程そのものを最初からいわば陰路へと追い詰め,その可能性を閉ざ す危険を孕んでいる。カントの超越論哲学は,たんに理論哲学だけでなく,実践哲学,美学,目的論な どの批判哲学の諸領域に及んでいる。このことは,「判断力批判のこの課題は,どのようにしてアプリ オリな総合判断は可能であるかという,超越論哲学の普遍的課題に属している」(V,289)とカント自 身が明言する通りである。要するに,カントの超越論的思考は,三批判書の展開ととともに徐々に拡大 されている。このことは,『純粋理性批判」のカテゴリーの演縄の課題だけでなく,『実践理性批判』で の自由の実在性の証明とともに,さらに「判断力批判』における趣味判断の妥当性についても,超越論 哲学の課題として位侭づけられている事実から明らかである。批判哲学の根本思想を形成する超越論哲 学は,決して理論哲学だけに限定され解釈されてはならない。ロックモアの「表象主義者か構成主義者 か」という狭随な二者選択の思考には,カントの多面的な豊かで深い,思想のいわば鉱脈を見失う可能性 がある。カント哲学の正当な評価のためには,これらの事実を踏まえて,上述の「蹟きの石」を取り除 きうる批判精神を発揮しなければならないゆえんである。

ではロックモア説のような「蹟きの石」の危険から免れるためには,どのような解釈の可能性がある のだろうか。ここでは,まずカント自身の体系の中では十分明らかにならなかった解釈学的方法に着目 したいと思う。それによって,あの「頚きの石」を取り除き,本稿の三つの結論への道筋を辿ることが 可能になるであろう。そこで,カントにおける解釈学的方法の働きに目を向けてみたい。実は,ここに こそロックモアの陥った「蹟きの石」よりもはるかに重大な問題ないし困難が潜んでおり,カント解釈 上の股大の「蹟きの石」が横たわっているのである。

周知のように,哲学の領域に初めて本格的に解釈学的方法を導入したディルタイは,精神諸科学に関 する基本姿勢を「著者が自分を理解した以上に,よりよく理解するという規則(Regel:besserver‐

stehen,alsderAutorsichverstandenhat)」(9),として定式化した。従来の哲学史の通説によれば,

解釈学的立場を表明するこの「規則」といわれる語句も,ディルタイの解釈学的方法に関する多くの思 想と同様に,およそシュライアーマッハーに帰せられてきた。ところが,シュライアーマッハーに先立 ち,カントは『純粋理性批判」のなかで,「われわれが注意しておきたいのは,普通の会話においても,

また著作においても,著者が自分の対象について述べている思想を比較することによって,著者が自分 自身を理解しているよりも,それ以上によく理解するということが決して珍しいことではない(Ich merkenuran,dassesgarnichtsUngew6hnlichessei,sowohlimgemeinenGesprache,alsin Schriften,durchdieVergleichungderGedanken,welcheeinVerfasserUberseinenGegenstand iiussert,ihnsogarbesserzuverstehen,alsersichselbstverstand)」(B370/A314),と述べてい

る。ではこの事実は,どのように解釈すべきであろうか。カントとディルタイ,超越論哲学の代表者と 解釈学的哲学の代表者との間に横たわるこの課題は,これまでどのように検討されてきたのであろうか。

結論的に言えば,多くのカント研究者は,この事実とその重要性とを見落とし,多くのディルタイ学派

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文学部紀要第54号

やディルタイ研究者は,この事実を意図的に無視してきたのである。以下では,その歴史的事実を順次 明らかにする。

例えば,ディルタイの弟子の一人であったオットー・ポルノウは,この事実に直面して,率直にある 種の「当惑」を隠さなかった。彼は,この「規則」の出典を探究するプロセスで,シュライアーマヅハー,

アウグスト・ベック,フィヒテに遡り,最後にカントの上述の文章に辿り着いた。ところが,ポルノウ は,この文章を目の当たりにして,「しかし,カントにこの定式の真の起源があったのかどうかは不確 かであると言わざるをえない」(、)と主張している。ポルノウは,この「規則」をカント以前に遡って確 認することができなかった事実を認めつつ,その起源をカントに帰することを潔しとしない。そして,

こう推測する。「この語は,出所の確かな証明しうる文献の世界のなかに姿を現すに先立って,長い間 流布してきたのかもしれない」(ID,と。

以上のポルノウのカントに対する冷淡な推測ないし解釈の態度は,ある意味では正しい。なぜなら,

ディルタイ全集第14巻の編者,マルティン・レディカーは,『純粋理性批判』と同年に刊行されたヘル ダーの神学研究に関する書簡のうちに同趣旨の考えが見られ,これが上記の「規則」の最も一般的な起 源である,と明らかにしているからである('2)。だが,ここでは興味あるこの文献学的問題に立ち入る余 裕はない。本稿の課題にとって重要な問題は,カントが上述の主張によって,解釈学的方法をどの程度 遂行しているかという点にある。また,それはカントの思索にとってどのような積極的意義をもつかと いう問いにある。この疑問に対するポルノウの見解は,きわめて否定的であった。その理由は,「この 言い回しの言語的文体がすでにカントを起源とすることに反対を表明しているように私には思われる。

この文体は軽妙な機知に富んだ表現法という点で,それ以外の理性批判の言語の不器用な真面目さとは あまりにもかけはなれすぎている」('3),という点にある。

以上のポルノウ説には,カント解釈を制約する前提的理解があった。実際,カント全集の企画・編集 に多大な尽力を果たしたポルノウの師のディルタイ自身が,カントに対して終始両義的な態度をとって いたからである。一方で,ディルタイは,「カントの哲学の基本問題は,私にはすべての時代に妥当す るものと思われる」(V,12)とか,「われわれはこの超越論哲学の仕事を継承しなければならない」

(V111,14),と明言している。実際,彼の生涯の課題であった「歴史的理性批判」(Kritikderhistori‐

schenVernunft)の構想は,カントの「純粋理性批判」(KritikderreinenVernunft)の企図から着 想したものである。また,ディルタイの精神科学の認識論的基礎づけという構想も,カントの諸学の認 識論的基礎づけの考え方から学んだことは,周知の通りである。他方,ディルタイは,早い段階からカ ントの直観と思考との二元論や,アプリオリな純粋主義について歴史性を無視した抽象的な現象主義で あるとして批判してきた。例えば,1883年刊行の「精神科学序説』第1巻の前書きでは,著者は「ロッ ク,ヒューム,カントによって榊成された認識主観の血管には本当のjliLは流れておらず,たんなる思考 の働きとしての理性の薄められた血液が流れている」(I,xvii),と厳しいカント批判を展開している。

また,ディルタイは,その数年前の初期草稿でも「カントのアプリオリは硬直して死んでいる」(xlX,

44),と批判している。最晩年の遺稿『精神科学における歴史的世界の柵成のための草稿』では,彼は

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哲学的対話の一つの試み

「われわれは,カント的な理性批判の純粋で洗練された雰囲気を捨てて,そしてまったく異なる歴史的 対象の本`性を十分に明らかにしなければならない」(VIL278),と述べている(M)。

しかし,これらのディルタイの主張は,ポルノウ説に典型的に見られるように,カントには解釈学的 方法が存在するはずがないという独断的な思い込みを支えてきたように思われる。その結果,こうした 見解がハイデガー,ガーダマーを経て今日に至るまで,カントの正当な評価を妨げてきたのである。筆 者の解釈によれば,ポルノウの見解とは逆に,彼が懐疑の対象とした「軽妙で機知に富んだ表現法」こ そ,カントの批判哲学の思想表現であり,彼の解釈学的方法の表れである。そこで次に,カント自身の 文献に即して批判哲学に見られる解釈学的方法の一端を確認する作業に進むことにする。

カントの多元主義と解釈学的方法

第一に確認すべきは,カントの批判哲学には,今日でもすべての人間にみられるだけでなく,とりわ け体系的哲学者が陥りがちな自己の主張の正しさを押し付ける傲慢で排他的な独断論を慎重に回避する 思考方法が存在するという点である。カントは,ポルノウ説に反して,次のように明言する。「自分だ けにすべての真なる認識の所有を帰属させ,他者にはそれを認めない排他的な判断は,致命的な自惚れ にほかならない」(XXIV,94)。この見解は,しばしば「多元主義」(Pluralismus)と呼ばれる。経済・

政治・金融・軍事などを含むグローバリズムの菟延のなかで,政治的,宗教的な原理主義の見解が大規 模な暴力や悲劇を拡大・再生産している今日,カントのこの見解はきわめて重要である。その意味では,

かつてノルベルト・ヒンスケが指摘したように,「現代の政治哲学の主導概念である多元主義は,真に カントの誤謬論に由来する」('5),と言ってよい。現代社会では,日本の国内外を問わず,生活のあらゆ る次元で他者の意見を排除し自己の主張を一方的に押し付け,対立や抑圧を生み出す論理が顕著である。

異なる見解をもち異質な立場に立つ他者の声に耳を傾け,緩やかな合意形成に向けた努力を尽くし,対 話や和解の実現に不可欠である多元主義的思想傾向は,すでにカントの批判哲学のうちで働いていたこ

とは明らかである。

第二に,こうしたカントの可謬主義的主張は,ヘーゲルなどに見られる主張とは異なり,有限な人間 にとって全体的真理の痩得は不可能であり,常に実現されるべき理念にとどまるという点に大きな特徴 と積極的意義がある。ここには,獲得されるべき真理の全体と部分との解釈学的循環構造が指摘できる。

この点については,カントの誤謬論の中心的表現とみられる『判断力批判』の有名な箇所に即して,さ らに明らかにしたい。カントは共通感覚の理想の解明にとって普遍的人間悟性の格率として,次の三つ の格率を挙げている。「1.自分自身で思考すること。2.あらゆる他者の立場で思考すること。3.つねに 自分自身と一致して思考すること」(V,294),である。第一の格率は,狭義の悟性の格率であり,偏見 に囚われない考え方の格率を意味する。これは,カントの啓蒙の宣言と解することができる。第二の格 率は,判断力の格率と呼ばれる。それは,自己の狭い個人的な見解から自由な考え方を開くことを要求 するのであるから,「視野の広い考え方erweiterteDenkungsart」(V,295)の格率を意味する。そし

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文学部紀要第54号

て第三の格率は,理性の格率である。それは,いつでも自己自身と一致して思考する首尾一貫した考え 方の格率を意味する。本稿の主題から見て特に注意すべきは,第二の格率の解釈学的含意とその可謬主 義的意義とにある。そこで論点をここに限定して考察を進めることにしたい。

第三に,さらなる議論の展開のために,ここでカント自身の論述を正確に把握しておく必要がある。

「しかし共通感覚(sensuscommunis)は,ある共通の[共同体的]感覚(gemeinschaftlicherSinn)

の理念,すなわち,次のような判定能力の理念と理解されなければならない。この判定能力は,自分の 反省のうちで他のあらゆるひとの表象の仕方を思想のうちで(アプリオリに)願感する。それは,いわ ば総体的な人間理性と自分の判断とを照らし合わせるためであり,これによって,容易に客観的とみな されかねない主観的な個人的諸条件に基づいて,判断に不利な影響を及ぼすかもしれない錯覚から免れ るためである。ところでこうしたことは,ひとが自分の判断を他のひとびとの現実的判断というよりも,

むしろたんに可能な諸判断と照らし合わせて,われわれ自身の判定に偶然付随する諸制限をたんに捨象 して,他のあらゆるひとの立場に自分を置き換えることによって起こるのである」(V,293f)。

以上のカントの主張の主要論点は,次の通りである。第一に,上述の第二の格率が判断力の格率と呼 ばれる場合,この判断力とは反省的判断力を意味する。この判断力の反省作用に基づく共通感覚の理想 を前提することによって,趣味判断は,他のすべての人に対する普遍的妥当性を要求する。第二に,こ の要求の仕方に注意すべきである。ここでの反省的判断の妥当性要求は,認識判断や定言命法のように,

異なる見解をもつさまざまな判断主体が下す判断を一義的に確定することはできない。しかし,それは,

カント自身が明言するように,決して個人的で主観的な判断でもなければ,その独断的な押し付けでも ない。第三に,趣味判断の普遍性への要求が可能であるとすれば,自分の私的な見解を超えて自分とは 見解を異にする他のすべての人々へと身を置き換えることが求められる。趣味判断が要求する普遍的含 意は,数多的な特殊から出発して,よりいっそう普遍的な原理・原則を探究する反省的判断力の働きに よって実現可能となる。第四に,こうしてカントにおける共通感覚,すなわち「轍想力と悟性との自由 な戯れ」を前提する理想的規範は,自己と他者との数多性ないし多元性(Pluralitat)の原理に基づく 視野の広い考え方の格率によって,自己中心主義や無謬主義を標傍する独断論から免れることも可能と なる。第五に,ここには個から理念としての全体へと向かい,逆に仮説的に全体から個へと帰還する解 釈学的循環の思考が見られる,と言ってよい。

しかし,ここで一つの大きな疑問が生じる。カントの趣味判断は,どこまでも自然美及び芸術美に対 する判定の働きに限定されていたのではないか。たしかにその通りである。だが,カントの思考の射程 は,我々読者の予想を遥かに超えている。そこで,ここではアーレントのカント解釈を手がかりにして,

この疑問に答えてみたい。それによって,予想を超えたところで,ヒンスケ説とアーレント説,そして 筆者の解釈との接点に光を当てることができるであろう。このことはまた,同じ漢字文化圏に属する日 本及び韓国のカント研究者間の解釈の共有可能性を拓くはずである。

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哲学的対話の一つの試み

アーレントのカント解釈と「地平」の拡大

第一に,本稿の主題からみて注意したいのは,アーレントがカントの判断力を「人間精神諸力のうち で最も政治的な能力である」《'6),とみなした点にある。この判断力とは,カント哲学の上級認識能力に おける区分,とりわけ判断力における区分で言えば,美感的反省的判断力に対応する。

第二に,アーレントは「『判断力批判』の第一部門は,実は政治哲学である」(mと主張する。通常の 解釈とは異なり,アーレントは『判断力批判』の諸主題がすべて卓越した政治的意義をもつことを主張 する。これらのきわめて独自のカント解釈には,当然のことながら様々な異論を呈することができる。

しかし,ここではこの問題には立ち入らず,議論を先に進めることにしたいく'8)。

第三に,アーレントにとって政治的空間とは,複数の人間の存在を前提にする言語行為を媒介とした 公共的空間を意味する。このような「公共的領域は,演技者と制作者によってではなく,批評家と鑑賞 者[注視者](spectator)によって構成される」('9'・アーレントにとって政治とは,通常考えられるよ うな権力による他者支配を意図するのではなく,国家による国民の幸福の保証にあるのでもなく,また 世俗的諸目的を達成することに本質があるのでもない。政治の本質は,人々に語りかける言語活動と能 動的活動のうちで他者と結合することにある。芸術は,政治とともに公共的空間に属する。判断力は,

カントが示唆したように,このような公共的空間を作り出す働きである。それゆえ,アーレントは,

「趣味は美を人間化し文化を創造する政治的能力である」(釦)と主張するのである。ここには,明らかに 現代社会の政治的状況に対するアーレントの批判的観点が窺われる。

ではこのように解釈された政治的空間のなかで,判断力は,どのような積極的な役割を果たすのであ ろうか。ここでの手がかりは,上述の構想力の自由にある。カント哲学の中心概念は,意志の自由であ り,理性の自律の思想である。ところが,アーレントは,この事実を承知の上で,敢えて別の見方を提 示する。なぜなら,構想力の自由によってアーレント自身が「代表的思考(representativethinking)」

と呼ぶ思想に導かれることが可能となるからである。この思考は次のように説明されている。「私は,

所与の問題を異なる観点から考察し,自分の心に不在の他者を現前させることによって,一つの意見を 形成する。すなわち,私は,不在の他者を代表する。この代表の過程は,どこか他にいる人々が実際に もっている諸見解を,やみくもに採用するわけではなく,世界をさまざまな遠近法(perspective)で 見渡してみるのである」(21)。

この「代表的思考」とは,上述のカントの思想の一つの解釈の試みに他ならない。なぜなら,アーレ ントの見解は,あらゆる他者の立場に自分を置き換えるという『判断力批判』における「視野の広い考 え方」の積極的意味を展開するからである。『純粋理性批判』では,「構想力は対象が現在していない場 合にも,対象を直観において表象する能力である」(Bl51),と定義されていた。アーレントは,榊想 力のこの自由な働きに着目して,その拡大解釈を試みる。「代表的思考」とは,この能力によって自分 自身の同一性を保持しつつ,実際には自分がいない所に身を侭き換え,自己とは異なる他者の立場に立

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つことが可能な「視野の広い考え方」を展開する。このようにして「私が所与の問題を熟考している間,

私が自分の心の中に,人々を実際にもてばもつほど,そして私が彼らの立場であれば,自分はどのよう に感じかつ考えるか,をよりよく想像できればそれだけ,私の代表的思考の能力は,いっそう強固にな り,その上,私の最終的結論,私の意見は,よりいっそう妥当なものになるだろう」(22)。

これらのアーレントの見解は,上述のヒンスケ説が指摘したカントの多元主義思想の基礎づけの試み の一つである,とみることができる。また,筆者の見るかぎり,ポルノウが表現した「軽妙で機知に富 んだ表現法」とは,カントの上述の解釈学的思考方法の表現に他ならなかった。この主張は,今日きわ めて重要な学問的課題を先取りしている。例えば,環境倫理学の基礎概念として今日定着した「世代間 倫理」の概念は,まだこの世に生まれていない未来世代の「人々」,言い換えれば,不在の他者との間 の責任関係を前提しており,また,この概念が成立するためには,未来世代や将来の環境状態に対する 構想力の自由の働きが不可欠だからである。

この立場からみると,ハーバーマスやアーペルらも看過したカントとディルタイとの思想的な親近性 が明らかになる。最後に,「地平(Horizont)」の概念を手がかりにして,この点について簡単に見て みよう。周知のように,およそ人間は,つねに特定の歴史的・社会的条件のもとで生きている。ディル タイは,この「歴史的一社会的現実」に関する条件を「生の地平」という概念によって理解していた。

実際,最晩年のディルタイは,「私は生の地平(Lebenshorizont)とはある時代の人間がその時代の思 考・感情・意欲と関迎して生きる限界づけ(Begrenzung)であると理解する」(VIL177),と告白し ている。ディルタイの生の解釈学は,このような歴史的な生の地平で自己及び他者の理解を試みたので

ある。

この限界づけの意識を反映した「地平」の概念は,近代ではいち早く自然科学における天文学や地理 学の領域で導入され,カントもまた,この概念と理性の限界づけの試みとを結合したのである。カント は『純粋理性批判』で,「われわれの純粋理性のすべての問いは,この地平(Horizont)の外部に,あ るいはせいぜい地平の限界線(Grenzlinie)上にあるものに関係する」(B788/A760)と語り,「人間 理性の地理学者」(ibid)を引き合いに出したのも,こうした事情による。理性批判の狙いは,一方で 人間認識の「地平の外部」に超越しようとする思弁理性の独断論を批判し,他方では,人間理性のあら ゆる問題を「人間理性の地平の外部に放逐する」(ibid.)ことによって,これらの問題を処理すること ができたと誤解し,この地平を限定することに失敗した懐疑論とを批判的に克服することにあった。カ ントの意図は,認識の限界を批判的に探求する「普遍的で真の地平」(B687/A659)を獲得すること で実現可能となったのである〔卿)。

さらにカントは,次のように主張する。人間の社会生活の場面では,「他者の地平を自己の地平から みて測ってはならず,われわれにはなんら利益とならないことを無益とみなしてはならない。他者の地 平を規定しようと欲するのは向こう見ずというものであろう。ひとは一つには他者の能力を,一つには 他者の意図を十分に知っているわけではないからである」(IX,43)。だからこそ,カントは「自己の地 平を狭めるよりは,拡大するよういつでも努めなければならない」(ibid.),と言うのである。これら

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哲学的対話の一つの試み

の主張は,上述の「視野の広い考え方」を意味しており,アーレントの表現を借用すれば,不在の他者 を代表する「代表的思考」の思想と同じものである。カントもまた,ディルタイと同様に他者理解の重 要性とその困難性とに気づいていたのである鰹イ)。実際,今日の人間の生活実態を冷厳に吟味・検討すれ ば,明らかになるように,現代社会では政治制度や他の諸制度だけでなく,様々な生活の場面でも,

「他者の立場に立つ」ことの重要性を痛感しつつ,同時にそうした「代表的思考」の実現や他者の立場 に立つことの困難さを否応なしに認識せざるをえないのである。

以上の論述について,カント哲学の全体的視野のもとで超越論哲学を形成する超越論的思考と解釈学 的方法との関連から簡単にまとめてみよう。カントの哲学をこのように解釈することが可能であるとす れば,カントでは超越論的思考によって上述の「普遍的で真の地平」の櫛築が意図され,この「地平」

のうちで解釈学的方法を用いて他者の立場に立つことの可能が拓かれる,と解することができるであろ う(2$)。

四結論:グローバル化時代における批判哲学の意義

本稿の狙いは,第一に,カントの批判哲学には超越論的思考と解釈学的方法との二つの観点が存在す ることを明らかにすることであった。超越論的思考に関しては,周知のように理論哲学の領域ではカテ ゴリーの超越論的演鐸の思想に,倫理学の領域では自由の実在性の演縛の思想に,そして美学の領域で は趣味判断の演鐸の思想などに典型的に現われていた。ところが,解釈学的方法に関しては従来のカン ト解釈ではおよそ明らかではなかった“)。これまでの考察は,カントの「多元主義」の思想,とりわけ

『判断力批判』の趣味の演鐸の論述には,この解釈学的方法が明確に表されていることを明らかにした。

第二に,本稿では,この思想がヒンスケ説や,アーレントのカント解釈にも見られるように,カント 哲学がロヅクモアのカント解釈とは異なり,たんに理論哲学,認識論だけでなく,倫理学,政治哲学や,

趣味論,文化論などの多種多様な領域で豊かな思索の手がかりを提供していることを明らかにした。

第三の狙いは,カントの思想が今日依然として重要な意義を有することを明らかにすることであった。

カントの超越論哲学の立場から見れば,認識判断における普遍的妥当性の要求は不可避であり,倫理学 における定言命法は,道徳的・実践的必然性を要求する。これらの思想は,グローバル化の時代には,

人類共通の論理や価値観,世界市民的秩序の実現可能性を導く理念として重要である。したがって,こ の機会に,近年のカントに対する批判には行き過ぎが見られることを指摘しておこう。例えば,スピヴァ ク女史にみられるように,理性批判によって切り開いた理性の普遍性はたんなる「ヨーロッパ中心主義 の思想」に過ぎないというカント批判は,確かに鋭い指摘ではあるが,一面的で狭臘な見解である(万)。

さらに,カントの理性批判では他者の排除が行なわれているとする批判に対しても,やはり筆者は,全 面的に賛成することはできない。

他方,カントの解釈学的方法は,価値観が多様化し混迷する現代社会で「文明の衝突」や宗教対立,

宗派の対立,国民間の意見の相違などが激化するなかで,「他者の立場に身を置き換える」ことによっ

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て,「私の判断を他のひとの立場から公平[非党派的]に(unparteiisch)眺める」(X,122)ことを可 能にする。

しかし残念ながら,今日の日本人には,アーレントの主張するような構想力の自由を働かせて,他者 の立場に身を置き換え,「視野の広い考え方」の格率を採用することができない人が少なくない。この ことは,学校や大学,職場や地域などでの「いじめ」や「管理強化」などに端的に現れている。いまこ そ,日本人は,カントから学び,批判哲学やアーレントの「代表的思考」の主張を受け止め,異なる意 見をもつ他者や韓国をはじめとする他国の人々の意見に耳を傾け,過去の経緯や歴史的事実を公平に判 断することが求められている。筆者は,韓国と日本の人々がカント哲学をともに学びあうことによって 両国民の間の真の友好と信頼をいっそう深めることが必要であり,またそれは可能であると確信してい る。

(1)ノVYgtZscノzeWD沈e,K流ZjschcCesamm皿Sgme・Hers9.vonGColliundM、Montinari・SechsteAbteiIung・

ZweiterBand,S、55.Ber】in1968.

(2)VgLGeorgPicht,ノVIeKzsche,Stuttgartl988、SXXIIL

(3)VgLMaxHorkheimerundTheodorW・Adorno,、iαに“ABdCrAzリヌMZi7w"9J腰hilosOPhiScノDeFγzlg771e7T蛇,

Amsterdam1947.

(4)VgLJUrgenHabermas,DcrPハガノosOPhiscノzeasノャ皿沼derMDdCme,Z妙6M/Vb汀Cs泓"9℃恥FrankfurtamMain

l985.

(5)V91.HansG-Gadamer,WtzhmejZw"dMUノノzo`&’960,5.AufL,Tnbingenl986.S、45-47.

(6)HannahArendt,WhatisExistenzPhilosophy?in:"汀isα〃ReUie2ubXVIII/11946,p、38.

(7)TomRockmore,〃K、"化Wtz虎apMosOPhiei〃theTme"ZねZhCe打如?qy,Blackwell2006,p7.なお,紙 幅の制約上,カントの超越論哲学に関する立ち入った考察を行なうことはできない。飛者は,この点について 次の文献ですでに本格的研究を行なっている。牧野英二「カント純粋理性批判の研究」(法政大学出版局,第 一版1989年,第二版1993年)を参照されたい。

(8)〃id.

(9)WilhelmDilthey,Gesam腕elZeSch減"e雄Bd、5.InderhandschriftlichenZusiitzenzurEntstehungder Hermeneutik.s、335.以下では,ドイツ諦版ディルタイ全集からの引用は,巻数をローマ数字で,頁数をア ラビア数字で本文中に記す。また,アカデミー版カント全集についても,同様の表記の仕方を採用する。なお,

『純粋理性批判」についてのみ,慣例に従って,第一版をA,第二版をBとして本文111に原版の頁数を記す。

『判断力批判」の訳文は,原則として岩波版「カント全染」(有福孝岳・坂部恵・牧野英二編集)所収の第8巻・

第9巻(『判断力批判』上・下)の拙訳を使用したが,文脈により一部変更した箇所があることをお断りして おく。

(10)OttoF・Bollnow,Sm。われzW7ノ:にmte"e“た,Bd・LFreiburg/MUnchen,1982s53.

(11)Bollnow、α、40.

(12)WilhelmDilthey,CCSα湘加cJteSch7i/JePz,Bdl4」iv.,1966 (13)Bollnow,OPsit.

(14)ディルタイによるカント批判の錯綜した実態に関しては,次の文献を参照されたい。牧野英二「ディルタイ によるカント評価をめぐって」「ディルタイ研究』(日本ディルタイ協会編,第15号,慶鰹義塾大学,2004年 11月,5-19頁)。

(15)NorbertNinske,KU"taJSHCmzdS/bmejw"gα〃dieC2gc"、αγムFreiburg/MUnchenl980,S、43.

(11)

哲学的対話の一つの試み J1

(16)Arendt,Thinkingandmoralconsiderations:alecture,in:Sociα/RCS“たん,38(3),p、446.

(17)Arendt,FreedomandPolitics,in:A・Hunold(ed).FγPedo腕α"dScr/Uo加:A〃Amhoj0gyq/WbsZem

Thoz4gソt4Dordrechtl961,p207.

(18)カントの内在的解釈という観点からのアーレントに対する疑問については,次の文献で論じたことがある。

また,冒頭で簡単に触れたガーダマーやハーパーマスのカント批判に対する識演者のカント擁護の論述に関し ても,次の文献で立ち入っている。牧野英二『遠近法主義の哲学カントの共通感馳論と理性批判の間」(弘 文堂,1996年)46頁以下。31頁以下,85頁以下。

(19)Arendt,L“〃?hBsoPzJm"llsPbjj"calPソtjJosOP”Chicagol982,p63.

(20)Arendt,Thecrisisincullure,in:Batuee〃RIS[α"αF切如ね,NewYork1968,p、224.

(21)Arendt,TruthandPolitics,ibj‘.,p241.

(22)Arendt,ibm

(23)カントにおける「地平」の多義性と関連する諸課題については,次の拙諭を参照されたい。牧野英二「理性 の必要の感悩と生の地平」(日本哲学会編「哲学』第55号,2004年4月,法政大学出版局,41-55頁。)

(24)この解釈が可能であるとすれば,ガーダマーの主張するような「地平の融合」の困難さの一端もまた,明ら かであろう。その意味では,「すべての地平の融合は,すべての規定性の解消を意味する」というガーダマー 批判も首肯できる。VgLJoselSimon,、J"ムD花/>℃腕aeI/Cm"mzmddjCSPmcノleder跡jlosOPノtjC,Berlin/

NewYork20031S307-

(25)ここで当然のことながら,カントの批判哲学の体系のうちで両思想傾向が盤合的に論じられているかどうか という問題が生じる。しかし,本橘では,この難問に立ち入ることが出来ないので,稿を改めて論じることに

したい。

(26)飛者と同様にカントには,解釈学的観点かあり,それが特に「反省的判断力」の働きにあることをつとに指 摘したのはリーデルである。彼の主張については,次の文献を参照されたい。VgLManfredRiedeL I/bγstehc〃0“γE戒【d形"?Z脚rTノカ“アブezJmCescノzjchtea”he、"e"e脚tjsche〃WIsse"schc1/fc〃,Stuttgartl978,

S36f

(27)VgLGayatriChakravortySpivak,AC冠tiqWeq/Pbstcolo"jaJReaso",HavardUniversityPressl999,p 26.また,スピヴァク女史に対するカント批判とそれに対するカント擁護については,次の拙諭で論じたこと がある。牧野英二「コスモポリタニズムとポストコロニアル理性批判」日本カント協会編「[1本カント研究6 批判哲学の今日的射程』(カント没後200年記念学会特集号,理想社,2005年,57-72頁)を参照。さらに,

ポストモダンの思想家によるカント批判に対するカント擁誕と批判哲学の積極的意義との考察に関しては,次 の文献で立ち入っている。牧野英二「カントを読むポストモダニズム以降の批判哲学』(岩波響店,2003年)。

また,最新の拙論「カントと崇高の哲学」(r思想』岩波書店,2006年10月号,4-29頁)も参照戴きたい。

付記本稿は,2006年度韓国カント学会(2006年6月10日,於・中央大学校)での特別講演の発表原稿「カン トにおける超越論的思考と解釈学的方法」を加筆・修正したものである。この度,本学会で日本人として初めて講 演する機会を与えて下さった,郷国カント学会会長・李煉教授(消州大学校人文大学文化哲学科),また当日の講 演会で司会役を務められ,その後の討論会・懇親会などでも特別にご配噸下さった同学会副会長・金相奉副教授 (全南大学校人文科学大学哲学科),さらに,この皮の企画にご尽力下さった韓端錫名誉教授(元全北大学校人文科

学大学学長)には,衷心よりお礼申し上げる。

因みに,当日の講演原稿は,鰍|副カント学会の本年度学会誌に全文が軸教授によって鰍国語に翻択され掲載され る予定である。

尚,本稿の執飛にあたっては平成18年度科学研究費補助金・雅盤研究(B)の助成を受けた。

参照

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