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ドイツにおけるカント哲学の普及と復興 利用統計を見る

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(1)

ドイツにおけるカント哲学の普及と復興

著者名(日)

柴田 隆行

雑誌名

井上円了センター年報

5

ページ

124-103

発行年

1996-07-20

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00002629/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

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ドイツにおけるカント哲学の普及と復興

柴田隆行

shibaid ldha)avhi 1 はじめに  従来の哲学はすべてプラトン哲学の応用問題にすぎない。すべての哲 学がカント哲学に注ぎ込み、すべての哲学がカント哲学から流れ出た。 へ一ゲルの哲学は近代哲学の総決算である。マルクスはこれまでのいっ さいの哲学的パラダイムを根本的に改めた。ハイデガーによればこれま でのすべての形而上学の歴史は存在忘却の歴史にほかならない。等々。 この手の標語が哲学史に溢れている。それぞれの哲学のエピゴーネンが 哲学史をどのように色づけようと或る意味では自由だが、エピゴーネン のものも含めてその「師」の哲学がどのように普及したのかを客観的に 概観するのも詮無いことではないと思う。  この小論は、井上円了記念学術センター研究員としての3年間の研究 テーマ「マールブルク大学における日本人留学生の社会思想史的研究」 の一環として位置づけられるべきものであり、初年度である昨年のマー ルブルク大学哲学部の歴史についての研究(1)に続くものである。この小 論のねらいは、カント哲学そのものの解明にではなく、それがドイツで どのように普及したのかを、まず18世紀末から19世紀初頭にかけて調査 し、その後19世紀後半からいわゆる新カント派を中心にカント哲学の復 興がはかられる様子を明らかにする点にある。 2 18世紀末のカント哲学の普及状況 カント(lmmanuel Kant,1724−1804)が後世に名を残すほどに注目さ ドィッにおけるカント哲学の普及と復興 137 (124)

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れるようになったのはやはり3批判書と呼ばれる、『純粋理性批判』(初 版1781年)・『実践理性批判』(1788年)・『判断力批判』(1790年)によっ てであろう。それ以前に『活力の真の測定に関する考察』(1747年)や『天 体の一般自然史および理論』(1755年)、『美と崇高の感情に関する観察』 (1764年)という前期著作もあるし、近年ふたたび注目されている『永 遠平和のために』(1795年)や、当時物議を醸した『単なる理性の限界内 の宗教』(1793年)や『学部の争い』(1798年)といった宗教上の問題を 扱った後期著作もある。ここで注目したいのは、これらカントの哲学著 作が当時どのように取り上げられたかという点である。  マールブルク大学でカント哲学が当初どのように扱われたかについて は、前述の拙稿「マールブルク大学の哲学史」で触れておいたが、概略 を繰り返せば、つぎのようなことである。マールブルクを支配するヘッ セン方伯ヴィルヘルムIX世はカント哲学をあからさまに拒否した。それ は、1786年の夏学期にマールブルク大学哲学教授べ一リング(Johannes Bering)がカント哲学に関する講義を予告したことに端を発したもので あり、方伯は勅令を発してカント哲学についてのいっさいの講義を禁止 した。これに対して哲学部は学問の自由の擁護を掲げてこの方伯の処置 に反対した。だが、神学部はカント哲学に断固反対の態度をとり、とく にフランス革命勃発後はカント哲学を「革命的」として危険思想扱いし、 「すべてを粉砕するカント」と呼ばれたかれの哲学に対する弾圧はいっそ う強化された。それにもかかわらず、カント哲学は学生たちや若い講師 たちのあいだに普及していった。その後、フランスによる占領時代にカ ント哲学は公認となり、哲学部ではカントの学説が支配的となった。フ ォアメルツ(48年3月革命前の社会運動高揚期)の時代にはへ一ゲル哲 学に人気が集まったが、そのへ一ゲル哲学も48年革命の失敗とともに表 舞台から退却した。  もちろんこれだけでは事態はまったく把握できないし、シュルツ、シ 138(123)

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ユッツ、ラインホルトらが「カントの思想を分かりやすく解説し、その普 及と発展に努めた」(2)という教科書風の記述も何の利益にもならない。 ここでは「カント世代」(Aetas Kantiana)と呼ばれる18世紀末に登場し たカントに関する著作を遺した人たちの膨大な活動に注目することにす る。幸い、1982年までにベルギーの出版社から314タイトルの著作が復刻 されており、われわれはそれを容易に手に取って読むことができる③。た だし、後述のハウジウスやローゼンクランツの文献目録と対照するまで もなく、このコレクションは必ずしもカント哲学関連文献のすべてを網 羅しているわけではない。  このコレクションの収集基準は必ずしも明確ではないが、ここに加え られた文献をまず年代順に並べてその量だけを比較するとつぎのような 結果が得られる。すなわち、『純粋理性批判』が公刊された1781年とその 翌年の関連文献はゼロ、83年に3点、84年ゼロ、85年2点、86年4点と いった具合で、しばしば指摘されるように、カントの主著と言われるこ の書物は当時まだほとんど注目されていないことがこれだけでもわか る。その第2版が出された翌年、すなわち『実践理性批判』が公刊され、 7月にフリードリヒ大王没後新たに就任した宗務庁長官ヴェルナーによ る検閲布告が発せられた88年には関連文献が16点と急増し、カントが一 躍注目されるようになったことがわかる。その後、89年7点、90年8点、 91年13点、92年6点と続き、92年7月にカントの宗教論が発禁処分にさ れたのに対抗してカントがそれを論文集に仕立てて書物として出版した 93年には11点、ヴェルナーがついにカントに対し宗教に関する著作を今 後いっさい発表しないようにと勧告した94年には25点、そして95年19点、 96年25点、97年17点、98年21点、99年19点、1800年15点というように、 カントはまったく時の人になった。この傾向はカントが死ぬ1804年まで 続き、没後は急激に減ってその後はずっと2、3点止まりになる。  のちにも触れるが、カント哲学に批判的なフェーダーやシュタットラ ドイツにおけるカント哲学の普及と復興 139(122)

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一、ティッテル、ヴァイスハウプトらの著作が1780年代に公刊されてお り、早い方である。ローゼンクランツωによれば、ケーニヒスベルク大学 の数学教授で宮廷説教師であるヨハン・シュルツェ(Johann Schulze) が書いた『カント教授の純粋理性批判についての注解』(Erlduterungen 劾θγdes Herrn Professor Kantκ万励der reinen Vernunft. K6nigs− berg 1784)(5)がカント哲学に関する最初の文献である(6)。シュルツェは 1789年にも『カントの純粋理性批判の吟味』(Pntfung der Kantischen Critile der reinen Vernunfi.2Teile. Koenigsberg 1781−1792)を公刊 している。なお、ローゼンクランツは、当時のカントの弟子ないしは信 奉者としてヨハン・シュルツェ、クラウス、マイモン、キーゼヴェッタ ー、エラハルト、ヤーコブ、ティーフトゥルンク、ボルン、クルーク、 ハイデンライヒ、シュミット、ブーレ、テンネマン、スネル、ムッチェ レ、ブラストベルガー、ベンダフィットの名を挙げている(7)。  っぎに、『カント世代』のこれら文献を我流で内容的に分類してみると、 つぎのように数えることができる。点数が多い順に並べると、カント哲 学の概説81、宗教や神学に関する問題を扱った著作35、道徳論や倫理問 題を扱った著作34、認識論に関する著作22、法論21、形而上学に関する 著作15、『純粋理性批判』を名指して論じた著作14、哲学史に関する著作 12、超越論的哲学10、美学または感性論10、事典・文献目録9、カント 哲学に対する反響を論じた著作8、 『実践理性批判』に関する著作8、 『判断力批判』に関する著作6、論理学6、雑誌の合本5、自然科学に 関する著作3、数学2、人間学2、心理学1、その他著者自身の哲学の 開陳など分類困難なもの10、となる。  これはあくまでも我流の分類ではあるが、カント哲学のどういう点が 当時話題を呼んだのかがこれだけでも明らかである。すなわち、マール ブルク大学でカント哲学導入に断固反対したのが神学部であったことに 端的に現れているように、また前述のように文献が急に増えたのが宗務 140(121)

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庁長官ヴェルナーによる言論弾圧以来であることからも明らかではある が、カント哲学が宗教に及ぼす影響が当時最も懸念された問題だったこ とがこの数字からわかる。なお、カントはヴェルナーの勧告を忠実に守 ったが、フリードリヒ・ヴィルヘルムII世が97年に没するとこの約束も 没したと考え、98年には『学部の争い』を公刊して一矢を報いている。  いずれにせよ、カントのいわゆる宗教論のみならず、そもそも『純粋 理性批判』自体がすでに神信仰を否定はせずともその懐疑を表明してい ると受けとめられた。神の存在や霊魂の不滅といった問題は認識の対象 たりえず、当然のことながらマリア信仰も三位一体論も無視されている。 たとえばブリュッゲ(Christian Wilhelm Fltigge)の著作『科学的なら びに実践的神学のすべての部門へのカント哲学のこれまでに見られた影 響の、歴史的・批判的叙述の試み』(Versuch einer historisch−leritischen 1)arste//itng desろislzerigen Einflusses(/er Kantischen PhilosoPhie aerf alle Zweige der wissensc/ldftlichen und PraktiscJten Theologie. Han・ nover 1796)は、その標題どおり、カント哲学がキリスト教神学、教会 史、教義学、道徳などに与えた影響を縷々概説しているが、そこで取り 上げられているのはカントのいわゆる宗教論ではなく『純粋理性批判』 そのものである。  カントが『実践理性批判』において「要請」という形で神の存在や霊 魂の不滅を肯定したとしても、その根底にある道徳法則の主体は人間で あるかぎり、依然として超越神論に対する懐疑は晴れない。大井正氏の 言葉を借りれば、「カントは、キリスト教の神概念を純化し理想化して、 これを人間の事柄として人間におしつけている。これは、神を人間化し たともいえるし、人間を神視したともいえる」⑨。ブリュッゲの著作にも 見られるとおり、神学に対するカントの影響には道徳も問題になりうる。 「カント世代」の文献の中で、宗教に次いで点数が多いのが道徳論や倫理 学に関する著作であるのも、人間ならびに人間の自由の問題と宗教との ドィッにおけるヵント哲学の普及と復興 141 (120)

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関係がカント哲学を通してあらためて問われたからだと言えよう。  ハイニッヒ(Johann Gottlob Heynig)の『カントとその哲学につい ての公衆の判断の訂正』(Be「ichtigung der Urtheile des Publileums afber Kant und seine philosophie. C611n am Rhein 1797)という著作も、カ ント哲学が当時どのように受けとめられたかを知る貴重な資料を提供し てくれているが、それによれば、カントは「18世紀のドウンス・スコー トス」であり、自らの哲学的思弁を将来の普遍的哲学のための先行的寄 与とのみ見なしてあれこれと思い悩むスコラ学者にすぎないとされてい る(9)。ハイニッヒの文体は勿体ぶったもので、カントが重視した「哲学す ること」や「人間」という概念をわざと大袈裟に振り回してカント哲学 を椰楡しているところがある。このような例もあるので、当然のことな がら、『カント世代』のコレクションに収められた著作の内容を一点一点 検討してみなければ確かなことは言えない。しかしながら、ここで見た ような現象は、デカルト哲学の大学や学界への導入がおもに自然科学の 分野としての独立の問題として扱われたのとは明らかに事情が異なる。 あるいは、後述するように、ドイツ観念論と称されるフィヒテやシェリン グ、ヘーゲルらが論じた問題とも異なるし、また19世紀後半の新カント派 によるカントの取り上げ方とも異なる、と言うことはできるだろう。  このような簡易的分類での欠を補うために、このコレクションにも収 録されているハウジウス(Karl Gottlob Hausius)の著作『批判哲学の 歴史のための資料集』を参照しておこうω)。この本の中でハウジウスは、 それまで、すなわち1793年までに集めたカント文献を、カント自身の著 作も含めて、243点挙げている。この数字がまったく完全なものであるこ とを、のちに1070点の文献目録を作成したエーリッヒ・アディッケス(11) も認めている。  ハウジウスはここで文献を紹介するだけではなく、それらの文献の中 から代表的なものの抜粋ならびに書評の復刻を行っている。最初に文献 142(11g)

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目録から見ておこう。思弁的内容に関するもの、実践的内容に関するも の、宗教に関するもの、カント哲学の歴史に関するものの4つに大別さ れている。まず思弁的内容に関する文献として、カント自身の著作23点、 シュルツやシュッツ、ラインホルトらカント派の著作32点、その派によ る教科書7点、フユレボルンの『哲学史への寄与』を含む雑誌4点、小 品18点、そしてアーベル、アビヒトら折衷派の著作8点、その派の教科 書3点、カント理論を部分的に含む著作9点、つぎにシュタットラー、 ティッテル、ヴァイスハウプトらカントに反対する人の著作42点、雑誌 6点、カントに反対する理論を含む著作7点、教科書3点を挙げている。 っぎに、実践的内容に関する文献として、カント自身の著作『実践理性 批判』と『道徳形而上学の基礎付け』の2点、スネル、ヤーコブらカン トの追随者とされる人の著作12点、教科書5点、小品11点、部分的に含 む著作7点、フラット、ティリングらカントへの反論6点、教科書4点、 小品3点。3番目に、カント哲学と宗教の関係に関する著作としてフィ ヒテの『あらゆる啓示の批判の試み』など13点、その小品5点、反対者 の著作3点。最後に、カント哲学の歴史に関する著作としてラインホル トの『カント哲学のこれまでの運命について』、クロマツィアーノ『最近 3世紀間の哲学革命の批判的歴史』、匿名の『ドイツの文献、とくにカン ト哲学の現状についての或るイギリス人の書簡』の3点。そしてのちに フィヒテの無神論論争のきっかけとなったフォアベルクによるラテン語 著作などの補遺が8点。  以上の文献のうち、重要なものにはハウジウスの注解が付けられてお り、前述のように、その中からとくに重要なものは詳細な注解付きの抜 粋も収録されており、われわれにとって非常に便利な資料集である。た だし、言うまでもなく、ここで取り上げられているのは1793年までの文 献であり、先に見たように、カント哲学に関する文献が急増するのはこ れが公刊された翌年の1794年以降であるから、いわゆる「ヴェルナー事 ドイツにおけるカント哲学の普及と復興 143 (118)

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件」も含めたその後のカント哲学の当代に及ぼした影響はこのハウジウ スの資料集からはわからない。ここでわかることは、当時はおもに、理 論哲学の面では空間と時間の問題、範躊論、批判哲学の意味、神の存在 証明、物自体、知と信仰の関係などの問題が、実践哲学の面では自由の 事実性や幸福などが、宗教では啓示の可能性が、それぞれ論議されてい るという点である。ついでに言えば、1845年刊のエルンスト・ラインホ ルトの『哲学史』の中で、カント哲学を論じた当時の文献の中で注目す べきものとしてその名が挙げられているものの多くは、フェーダー(Jo− hann Georg Heinrich Feder)、フラット(Carl Christian Flatt)、ヘル ダー(Johann Gottfried Herder)、テイツテル(Gottlob August Tittel)、 ヴァイスハウプト(Adam Weishaupt)ら、ハウジウスがカント哲学の 反対者として分類している人たちがほとんどである点は興味深い事実で ある㈹。その後の哲学史の流れからすれば、ここに挙げられている人た ちが本当に注目すべき人たちかどうか疑問だが、ただ、前述のようにか れらが比較的早期すなわち1780年代にカント批判をしている点は注目に 値し、おそらくそういう意味でラインホルトが評価に価すると判断した のかもしれない。  つぎに、19世紀に入るが、ヘーゲル没後直ちにヘーゲル全集が発刊さ れるなどまだへ一ゲル哲学が全盛だった時代に書かれたカント哲学の影 響史を瞥見しよう。それは、1838年に『ドイツ四季報』に掲載されたフ ォルトラーゲ(Carl Fortlage)の論文「カント以前と以後の哲学に対す るカントの位地」である。フォルトラーゲはこう主張する。「今日自らの 思考においてカントの影響から自由だと言えるような学者はいない」 ㈹、と。たとえば主観的と客観的というカテゴリーをわれわれはほとん ど毎日のように使い、しかもその意味が良くわかっているものと思って いる。それが可能になったのは、カントがこの概念を理性批判という作 業を通してじっくり時間をかけて吟味したおかげなのだが、われわれは 144(117)

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日常そんなことは忘れている。近代ドイツにおける哲学の発展から日常 の一般意識にまで流れ込んでいるほとんどあらゆる概念がカント哲学に 由来するのに、である。フォルトラーゲはこのようにカントを賞揚し、 へ一ゲル全盛の時代にあらためてカント哲学の意義を喚起している。  フォルトラーゲはカントを太古のエホバに比し、エホバが異教の神学 や神論の壮大な構築物をゆっくりと、だが断固とした歩みでもって踏み 潰したのと同様に、カントも主知主義と感覚主義、独断論と懐疑主義の 輝かしい建物をゆっくりと、だが不動の歩みをもって踏みにじった⑭。 あるいは、かれはカントをソクラテスに比して、カントを新しいソクラ テスと呼んでいる。「ソクラテスと同様に、カントもまた哲学の実践的な 部分を価値と確実さにおいて理論的な部分の上位に置いた。ソクラテス と同様に、かれは無用な誰弁を弄しないよう注意し、かれの時代の形而 上学的仮象を否定した。ソクラテスと同様に、かれは哲学の中に完全な る革命を導入した。ソクラテスと同様に、かれは輝かしいものに対して 不可視のものを対置し、技巧的なものに単純なものを、わざとらしい思 弁に対して人間の健全な悟性を対置した。ソクラテスと同様に、かれは 哲学を天上から地上に引き降ろし、理論的全知の立場から実践的信仰の 立場に引き降ろした。ソクラテスと同様に、かれは目をくらませるすべ ての修辞学の敵であったが、しかし論理的な屈理屈や二律背反を結んだ り解いたりする点ではマイスターであった。」㈹さらに、カントとソクラ テスはどちらも閉鎖的な学派を作らなかった点でたがいに似ている。む しろかれらは、自らの哲学をその終りに至るまで生成途上の未完成のも のとしている。そしてただ、それ自体として善なるものの法則について の実践的な確実性と、そこに含まれる魂と神的実存との連関に対しての み、かれらは確固とした疑いなき理論を提示した㈹。このように見れば、 「カント哲学が、将来の哲学的発展において、ソクラテスが古代に持った と同様の偉大な影響を持つであろうことが推測できる」(17)、とフォルト ドイ・における・・晒学暗及と鯉145(116)

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ラーゲは強調する。ここから、冒頭にその一例を挙げたようなキャッチ コピーが生まれる。すなわち、「カント哲学は依然としてカント以前なら びに以後のすべての体系の通用門である」、あるいは「カントの体系は、 哲学の世界を後にも先にも動かしたいっさいのものがそこから入り、ま たそこから出て行く門であり、あらゆる理念のサークルが集まる全般的 精神の取引所である」ae)、と。カント哲学に比べれば、今日見られる哲 学は小さな部屋よりなる多面的構造物に似て、たしかにそれらの小部屋 が集まって全体を作ってはいるが、その全体そのものは見渡しがたい。 最近の哲学者は各々ただその建物の一翼を担うにすぎず、建物全体はカ ントによって構築されているのである。  以上のようなフォルトラーゲによるカント賞揚は、19世紀後半になる と、リープマンの「だからカントへ帰れ!」に象徴されるように頻繁に 聞かれるわけであるが、フォアメルツの時代にあってこれほどにカント 哲学の意義を全面的に主張する論調はまだ少なかった。その意味では、 先見の明があったと言えるだろう。  実は、このような直接的な言い方はとらずとも、その後の哲学の展開 の中でカント哲学の意義をはっきりと捉えたジャンルが別にあった。前 述のハウジウスも注目している文献であり、しかも、たとえ「カント世 代」に属する人たちが、ベルギーの出版社の広告文にあるように、「フィ ヒテ、シェリング、メンデルスゾーン、ヤコービ、ハーマン、ヘルダー、 その他数人が、著作集や全集の出版によって生き残った以外は、消えて しまった」としても、さらには文献の量だけ見ればたしかにとくに目立 つというほどではないにしても、しかしそれにもかかわらず、現在に至 るまでその後の哲学に絶大な影響を及ぼしたジャンルがある。それは、 哲学史である。  『カント世代』に収録されている哲学史文献は、前述の通り12点ある が、その中でもとくに注目に値するのはつぎの文献である。ブーレ(Jo一 146(115)

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hann Gottlieb Buhle)の『諸学の復興の時代以来の近世哲学史』全6巻 7冊(Geschichte der neuern PhilosoPhie seit der EPoche der VVieder− herstellung der Wissenschaften.7Teile,6Bde. G6ttingen 1800−1805)、 フユレボルン(Georg Gustav Fuelleborn)の『哲学史への寄与』全5 巻12冊(Bぴ晦θzur Geschichte der Philosophie.12 Hefte,5Bde. ZUIIichau und Freystadt 1793−1799)、ハイデンライヒ(Karl Heinrich Heydenreich)編訳の『アガピスト・クロマチアーノによる、最近3世紀 間の哲学革命の批判的歴史』2冊(・4gapisto Cromaziano kritische Ge− schichte der Revolutionen der PhilosoPhie in den drey le tz ten/dhrhun− derten. Leipzig 1791)、テンネマン(Wilhelm Gottlieb Tennemann) の『哲学史』全12巻11冊(Geschichte der PhilosoPhie.11Teile,12 Bde. Leipzig 1798−1819)、ティーデマン(Dietrich Tiedemann)の『思弁哲 学の精神』全6巻(Geist der speculαtiven Philosophie. 6 Bde. Marburg 1791−1797)などである(19)。  ハイデンライヒはイタリアのクロマチアーノが1767年から69年に書い た哲学史をドイツ語に翻訳した際に、原書の書名『哲学の歴史とその特 徴』を『最近3世紀間の哲学革命の批判的歴史』と改め、それに「イタ リア語のものから、吟味のための註とカントの革命についての付録を付 けた」という副題を付けた。さらに、カント哲学の立場に立って、「イマ ニュエル・カントによって実現された哲学革命と、とくに哲学史の用法 へのその影響についての若干の理念」と題する補論を付け、その中で「カ ントの批判的な仕事は、全面的な哲学革命を引き起こしたと同様に、必 然的に哲学の歴史(ゲシヒテ)の論じ方を完全に変革した。またそれに ついて従来書かれた最良の著作でさえも、批判的原理に従って書かれる べき哲学の歴史(ヒストリー)と比べれば、資料集以上のものではない と見なし得る」と宣言している。カントの批判哲学あるいは哲学革命を 哲学史の形成と関係させて論じたのはハイデンライヒが最初だと思われ ドイツにおけるカント哲学の普及と復興 147 (114)

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る。のちに、新カント派に列するフォアレンダー(Karl Vorltinder)も 「哲学史への体系的な関心が目覚めるのは、カントによる偉大な哲学革 新があって初めて」だと書いているが(20)、至当である。  哲学史が、過去の哲学者の学説を紹介する学説誌や、哲学者と呼ばれ る人たちの伝記ではなく、それ自体が一つの学である哲学史となるには、 哲学そのものの批判が不可欠であった。ドイツ・ロマン派の中心人物で あるシュレーゲル(Friedrich Schlegel)も早くからカントの批判哲学の 意義を認め、カントに倣って「すべての哲学の哲学は哲学の批判である」 として、哲学の自己批判を試みている。シュレーゲルによれば、哲学の 批判は「すべての先行する哲学の批判」でなければならないがゆえに、 哲学史として具体化される。「哲学的理性の批判は哲学史ぬきには成功し 得ない。」カントはそのことを自覚しながらも、たんに認識批判にとどま った「中途半端な批判家」と評される(21)。ただし、ハイデンライヒもシ ュレーゲルも当時は知るすべもなかったが、カント自身にも独自の哲学 史構想があった(22)。カントの批判哲学に基づく哲学批判としての哲学史 を実現したのは、前述の「カント世代」の人たちであり、さらにそれを 体系的な仕方で完成させたのはヘーゲルであった。しかしわれわれはも はやこの時代を去って、19世紀末におけるカント哲学の普及状況を見に 行かなければならない(23)。 3 19世紀末のカンF哲学の復興状況  48年革命の挫折後、多くの大学で教授や学生たちが政治的・社会的問 題から離れ、のちにいわゆる「象牙の塔」に籠もる傾向が生まれた。プ ロイセンによって統一されたドイツ帝国政府による財政的支援もあっ て、自然科学とそれに基づく技術の飛躍的発展が見られた。物理学者兼 生理学者のヘルムホルツ(Hermann von Helmholtz)カこ1855年に行った 演説が、哲学における新たな展開を示唆した。すなわち、自然科学的熟 148(113)

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考による認識論の再編である。へ一ゲル的思弁哲学と素朴唯物論を克服 する道がカントの認識批判の中に見出された。カント復興に大きく貢献 したのは、あらためて言うまでもなく、1865年に公刊されたリープマン  (Otto Liebmann)の『カントとエピゴーネン』と、1872年にマールブ ルク大学へ招聰されたランゲ(Friedrich Albert Lange)の『唯物論史』 だった。  そして、ランゲが注目してマールブルク大学に招いたコーエン(Her− mann Cohen)、コーエンのもとで学ぶために当初マールブルクの大学図 書館に就職したナトルプ(Paul Natorp)、さらにはかれらがその才能を 認めて学位取得ならびに就職のために骨を折ったカッシーラー(Ernst Cassirer)、そしてシュタウディンガー(Franz Staudinger)やフォアレ ンダー(Karl Vorlander)、ゲアラント(Albert Gdrland)、ハルトマン (Nicolai Hartmann)などの優秀な哲学徒がマールブルクに集まった。 これが、マールブルク学派と総称される新カント派の面々である。一方、 フライブルク大学、ハイデルベルク大学、シュトラースブルク大学など の、ドイツ西南部バーデン地方の諸大学には、ヴィンデルバント(Wil− helm Windelband)、リッケルト(Heinrich Rickert)、ラスク(Emil Lask)、バウフ(Bruno Bauch)、リール(Alois Riehl)といった人たち がもう一つの新カント派として活躍した。このほかに、カント文献学者 と呼ばれる一連の人びと、すなわちB・エルトマン(Benno Erdmann)、 ファイヒンガー(Hans Vaihinger)、アデイツケス(Erich Adickes)、 パゥルゼン(Friedrich Paulsen)などがいて、カントの著作の注釈書を 書いたり、カント協会を設立し、雑誌『カント研究』を創刊・編集した りしている。エスターライヒは新カント派をさらに細かく、①生理学的 (ヘルムホルツとランゲ)、②形而上学的(リープマンとフォルケルト)、 ③実在論的(リール)、④論理主義的(マールブルク学派)、⑤価値論的 批判主義(西南ドイツ派とバウフ)、⑥批判主義の相対主義的改変(ジン ドイツにおけるカント哲学の普及と復興 14g(112)

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メル)、⑦心理学的(新フリース派とネルゾン)の7つの傾向に分類して いるが(24)、これに対してケーンケ(Klaus ChristianKdhnke)は、⑥や ⑦の傾向は新カント派に含みうるのか疑問だし、ランゲを生理学的傾向 に入れるのも無理がある。他方、B・エルトマンやファイヒンガー、パ ウルゼンがここに欠けているのも問題だ、と批判している(25)。常識的に 言えば、マールブルク学派のコーエンはカントを形而上学的思弁への批 判者と位置づけ、数学と力学に重点を置いた認識論ないしは論理学の構 築を目指し、西南ドイツ派のヴィンデルバントは精神科学と文化哲学を 自然科学から独立の学として取り出し、とくに「個性記述的」な歴史科 学の確立を目指した、ということになっている。  新カント派のこのような分類などは、その成否はともかくとして、い ちおう周知のこととされているので(26)、ここではこれ以上立ち入らず、 18世紀末のカント哲学の普及状況を概観したのと同様の方法で、とくに ケーンケの研究を参考にして19世紀末におけるカント哲学の復興状況を 見ておきたい。  ケーンケは、新カント派の発生と躍進をトレンデレンブルク以降の哲 学的問題構成の推移から捉えつつ、さらにとくに大学における学生数、 私講師の数など教職ポストの変遷、カントに言及した学位論文や講義の 数、あるいは取り上げられたテキストの内容などを手がかりとしてその 実態を解明している。  リープマンとランゲによって先鞭をつけられた新カント派の発展は、 1871年刊のコーエンの論文「カントの経験理論」が70年代に徐々に普及 するかたちで始まった。ケーンケの著書に掲載されている学生数の変移 表を見ると、48年革命に向けて神学部の学生数が減少し、代わりに法学 部生が急増するが、50年代には法学部生は激減し、哲学部の学生が増加 し始める。そして60年代に入ると法学部生の数がやや持ち直し、神学部 生は凋落する。ところが、哲学部の学生数はその後も上昇し続け、70年 150(111)

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代になると他を圧倒するようになる。私講師の数も学生数に合わせて上 昇し、医学部の私講師の数と同様に60年代後半以降うなぎのぼりとなる。 そしてドイツ統一後の70年代には、政府による大学への強力な投資もあ って、正教授、助教授とも急増する。ケーンケは、「1870年代の大学教員 招聰のにわか景気(Berufungsboom)がなければ新カント派の運動のこ のような急激なアカデミーでの定着は考えられないだろう」(27)と書いて いるが、首肯できる(2B)。カントについての大学での講義数は、1862年か ら66年までが20講座、66年から71年まで34講座、71年から76年まで76講 座、そして76年から81までは113講座あり(E9)、新カント派の普及がいかに 急激に行われたかがよくわかる。1862年冬学期から90年夏学期までの間 にドイツ語圏の大学の哲学講座で古典哲学がどのように取り上げられた かを調べたケーンケの表によると(30)、1862年冬学期にはプラトンが14 回、アリストテレスが10回、に対してカントは3回、へ一ゲルも3回。 このような傾向は69年冬学期まで続くが、70年夏学期にはプラトン8回、 アリストテレス16回、カント7回、へ一ゲル1回となり、75年冬学期に はプラトン12回、アリストテレス11回、カント13回、ヘーゲル1回とい うようにカントを取り上げる機会が増えていることがわかる。そして78 年冬学期にはプラトン11回、アリストテレス16回、カント13回、へ一ゲ ル2回となってカントがプラトンを上回り、1881年冬学期にはついにア リストテレスをも凌いで、プラトン18回、アリストテレス8回、カント 20回となる。ついでに言うと、このときへ一ゲルはまったく取り上げら れず、代わりにショウペンハウアーが6回取り上げられている。62年冬 学期から90年夏学期まで全部で56学期中の総数で見ると、プラトン742 回、アリストテレス730回、カント500回である〔31)。  ケーンケは、この期間のドイツ語圏の各大学で具体的にだれがどのよ うにカント講義を行ったかを一覧表にして提示してくれている(32)。マー ルブルク大学の例を見ると、そこではランゲとコーエンだけがカントに ドイツにおける・・ト醇の普及と復興151(110)

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関する講義を行っているので、学者別一覧の中からマールブルク学派の 代表格であるコーエンの場合を紹介しようC33)。  1874年夏学期「カントの『純粋理性批判』解説」、74年冬学期「カント の『純粋理性批判』解釈」、75年冬学期「カントの『純粋理性批判』解釈」、 76年夏学期「カントの倫理学について」、77年夏学期「カントの『判断力 批判』解釈」、77年冬学期「批判的観念論の世界観」、79年冬学期「カン トの『純粋理性批判』」ならびに「哲学演習(カントの根拠付けの重要な 評価の吟味)」、80年冬学期「カントの『道徳形而上学』の解釈」、81年冬 学期「カント哲学の叙述」、83年冬学期「カント哲学」ならびに「カント についての哲学演習」、84年「カント以後の哲学史」などが、他の講義と ならんで見出される。  引き続き、西南学派の代表格であるヴィンデルバントの場合を見ると、 つぎのようになっている。73年夏学期「カント哲学の叙述と批判」なら びに「『純粋理性批判』」、73年冬学期「ライプニッツ以後のドイツ哲学の 批判的発展史」ならびに「カントの『判断力批判』についての論評」、75 年夏学期「カントから現代までの認識論史」、75年冬学期「カントの『プ ロレゴーメナ』についての論評」、76年夏学期「カントまでの近代哲学史」 ならびに「カント哲学の批判」、77年冬学期「カントから現代までの哲学 史」ならびに「カントの『プロレゴーメナ』についての哲学演習」、79年 夏学期「カントまでの近代哲学史」、79年冬学期「カントから現代までの 哲学史」ならびに「カント『純粋理性批判』の数節についての哲学演習」、 81年夏学期「カントまでの近代哲学史」、81年冬学期「カントから現代ま での哲学史」、82年夏学期「カントの超越論的感性論についてのゼミ」、 82年冬学期「カント後の哲学史」、84年夏学期「カント以後の近代哲学 史」、84年冬学期「カントから現代までの哲学史」である。  講義の具体的な内容はともかく、コーエンとヴィンデルバントの講義 ならびに演習の題目だけを並べて見るだけでも、しばしば指摘されてい 152(109)

(18)

るようにコーエンは認識論を中心にカントを再評価するが、ヴィンデル バントはフィッシャーの影響もあって哲学史を重視しているというよう な両者の違いが自ずからわかる。両者に共通する点としては、コーエン が一度『道徳形而上学』を扱った以外はカントの実践理性にまったく言 及していないということが注目される。コーエンとヴィンデルバントに かぎらず、この傾向はごく少数の例外を除いてこの間に行われたほとん どのカント講義について見られ、18世紀末にもっとも多く見られたカン トの宗教論をめぐる講義はここでは皆無に等しい。いわゆる新カント派 の哲学が何を志向していたか、そしてそれはどのような思想史的要請に 基づくものであるかが、このような統計的な方法によっても明らかにさ れ、また裏づけられる。ケーンケの調査は1880年代初頭で終わっている が、これをさらに1920年代まで広げて行えば、新カント派のこの一定の 傾向性がその後、カッシーラーやニコライ・ハルトマン、リッケルトら によってどのように変えられていったかがよくわかるであろう。  前節で述べたように、カント哲学が後世に残した影響の中で注目すべ きは哲学史であるので、逆に哲学史の中でカントがどのように位置づけ られているかを見ることで、その普及ならびに復興の様子が明らかにな るだろう。そこで最後にこの方法で主題に迫ることにしよう。  まず、カントと同時代ないしはその直後に活躍したティーデマンやテ ンネマンの哲学史を見てみると、当然のことながらカント哲学の評価が 定まっていないこともあって、カントはまだ登場しない。同じく「カン ト世代」に属し、ローゼンクランツがカント派と目したブーレの『近代 哲学史』全7冊(1800−04年)において初めてカントが本格的に取り上げ られた。そこでのカントへの割当頁数は156頁であり、ロックの200頁に 次ぐ分量である。これは、デカルト83頁、スピノザ153頁、ライプニッツ 119頁を凌いでいる。カントへの割当頁数を全体の頁数で割ると4.4%に すぎないが、156頁は十分読みごたえのある量である。少し時代を下って、 ドイ・におけるカント哲蜘普及と復興153(108)

(19)

シェリング派のアストの『哲学史綱要』(1807年)では18頁3.6%、ブリ ースの『哲学史』全2巻(1837−40年)では83頁6.6%、シュヴェーグラ ーの『哲学史概説』(1848年)では29頁7.8%、エルンスト・ラインボル ト『哲学史』第5版(1859年)では94頁6.5%、エルトマン『哲学史綱要』 第4版全2巻(1896年。初版1866−67年)では59頁4.5%、となっている。 その後、19世紀後半以降のカント哲学復興後の状況はと言えば、当然カ ントへの全体における割当量は増えるが、哲学史という学が一定の確立 を見た後ではそう極端な例は見出せない。カント全集を編集したフォア レンダーの『哲学史』第6版(1921年。初版は1902年)では84頁9.6%で カントが群を抜いて多いが、ユーバーヴェーク『哲学史綱要』第12版全 4巻(1926年。初版1863−66年)では119頁4.6%、インド哲学などにも多 くの頁数を割いたドイッセンの『普遍哲学史』第2版全6巻(1919−21年。 初版1894年)では111頁3.7%、などおおむね妥当な線をいっている。な お、戦後では、コプルストン『哲学史』全9巻(1949−77年)では214頁5.3 %、へ一ゲル全集を編集したグロックナーの『始まりから現代までのヨ ーロッパ哲学』(1958年)では92頁8.1%となっており、これはヘーゲル の28頁2.5%を遙かに凌いでいる(34)。  日本の例も引いておこう。東洋大学学祖である井上円了の『哲学要領』 (1887年)は日本人による最初の哲学通史であるが、ここではカントは 3頁3.6%で、さすがにカントを「四聖」のひとりに数えているだけある、 というようなうまい話にはなっていない。同じく東洋大学創設に深く関 わった三宅雄二郎(雪嶺)の『哲学滑滴』(1889年)では24頁22.2%と多 く、同じく清沢満之の真宗学寮での講義録『西洋哲学史講義』(1890−93 年)でも85頁16.1%で、他を抜いている。東京大学講師ブッセの『哲学 史』第2版(1892年)では45頁11.5%、波多野精一『西洋哲学史要』(1901 年)では29頁11.5%、カント的精神に貫かれていると評される大西祝の 『西洋哲学史』全2巻(1903−04)では128頁11.3%、カント研究者安倍 154(107)

(20)

能成の『西洋古代中世哲学史』(1915年)と『西洋近世哲学史』(1917年) を合わせた頁割当は55頁7.3%、九鬼周造『西洋近世哲学史稿』全2巻 (1944−48年)では153頁21.7%、などなど、戦前の哲学史ではカントが 全体の中で占める割合が圧倒的に多い。それもそのはず、これらの哲学 史を書いた人たちの多くが、新カント派がまだ一大勢力を占めていたド イツへ留学し、しかもおもに彼らから哲学を学んだからであった。  たとえば、波多野精一は1904−06年ベルリンとハイデルベルクに留学 し、クーノ・フィッシャーやヴィンデルバントの教えを受けているし、 九鬼周造もハイデルベルクでリッケルトから個人教授を受けている。井 上哲次郎はそれより早く1884年にドイツへ渡り、ハイデルベルクでフィ ッシャーの講義を1年間聴講している。『近世における「我」の自覚史』 (1916年)を著した朝永三十郎は1909年にドイツへ渡り、同じくハイデ ルベルクでフィッシャーとヴィンデルバントに学び、同じ頃ドイツ留学 をした桑木厳翼もハイデルベルクやベルリンで学んでいる。大西祝は 1898年、安倍能成は1924年に、それぞれドイツ留学している。経済哲学 を開拓した左右田喜一郎は1905年から13年にかけてフランスとドイツへ 留学、フライブルク大学でリッケルトに師事している。1922年にドイツ へ渡った三木清もハイデルベルクでリッケルトに学び、のちマールブル クでハイデガーに学んでいる。田辺元は1922年から24年にドイツへ留学、 おもにフライブルクでフッサールから学んでいる(35)。  さて、紙数が尽き、また話題が三木清や、新カント派以後の哲学へ移 ったのを機会に、この小論を閉じることにする。  最後に結論を述べるとすれば、つぎのようにまとめられるだろう。カ ント哲学が登場した当初は、ケーニヒスベルクで直接カントを知ってい たシュルツェらによってその内容が紹介されたのをきっかけに、ヘルダ ーに代表されるカント哲学への批判が現れ、さらにそれを反批判しつつ 自分なりの立場を鮮明にしたラインホルトのような人物が登場する。か ドイツにおけるカント哲学の普及と復興 155 (106)

(21)

れらはカントの認識論を中心に学術的な議論を展開し、この流れはのち にフィヒテやヘーゲルによって独自に継承された。一般的にはカント哲 学の神学と宗教に対する懐疑的態度(と理解された)が問題とされて大 いに議論がわき起こった。その後、19世紀後半になると自然科学が急速 に進展し、それに対する哲学的態度があらためて問われた際にカントの 認識論が再度注目された。それは折しも大学そのものの復興と時を同じ くしたために、カント研究者に多くの教職ポストが与えられ、それがカ ント哲学復興に大いに貢献した。以上のようなあらすじがたどれるが、 最後にもう一度強調したことは、或る哲学が普及ないしは復興される際 に重要な役割を果たすのが、その哲学の影響そのものを明らかにする文 献が数多く作られることと、哲学史の中にその哲学がきちんと位置づけ られることである、という点である。そのことが、カント哲学の場合に はとくに顕著であった。 【注】 (1)拙論「マールブルク大学の哲学史」(1995年、本誌前号)を参照されたい。   ちなみに来年度は三木清を採り上げる予定である。 (2) 小倉貞秀編『カントとドイツ近代思想』(1990年、以文社)56頁。    その点、たとえば『現代思想』誌1994年3月臨時増刊号「カント」に収   められているカント年譜(pp.380−397)はカント哲学に対する当時の反響   を知るに便利である。イエナ大学におけるカント受容についてはDer   、4ufOrwch in den Kantianismus:Der Fnthhantianismus an der Univer−   sゴ椛’ノ吻αvon 1 785 −1800 und seine Vo rgesch ichte. Hrsg. von N.   Hinske, ELange u. H.Schr6pfer. Stuttgart−Bad Cannstatt 1995に詳し   い。それによると、イエナで最初にカント哲学を扱った講義は1784年冬学   期のウルリヒ(Johann August Heinrich Ulrich)によるものである。 (3) Aetas Kantiana. January 1982. Brussels, Editions Culture et Civilisa−   tlon. (4) Karl Rosenkranz:Geschichte der Kant ’schen Philosophie. Leipzig   1840.Neuausgabe hg、 von Steffen Dietzsch. Ost・Berlin 1987. (5) 『カント世代』コレクションでは1791年刊となっている。 156(105)

(22)

(6) KRosenkranz, ibid., S.242. (7)K.Rosenkranz, ibid., S.267.カント哲学をめぐる当時の論争について    は、Johann Eduard Erdmann:Versuch einer wissenschaftlichen Z)arstel−    lung der Geschichte der neuern PhilosoPhie. Faksimile・Neudruck der    Ausgabe Leipzig 1834−1853. Bd5.:Die Entwicklung der deutschen    Spekulation seit Kant I. Stuttgart−Bad Cannstatt 1977.を参照。 (8)大井正『ヘーゲル学派とキリスト教』1985年、未来社、17頁。 (9) Johann Gottlob Heynig:、召θ㌘万匁〃㎎derσrtheile des publikums    iiber Kant und seine PhilosoPhie. Cdlln am Rhein 1797. S.16f. (10) Karl Gottlob Hausius:Maten’alien zzar Geschichte der feri’tischen    PhilosoPhie, in drei Sammlungen nebst eiηeγ historischen Einleitung    2ur Geschichte der Kantischen PhilosoPhie. Leipzig 1793. (11) Erich Adickes:German Kantian BibliograPhy. Boston and London    1896. (12) Ernst Reinhold: Geschichte der Philosophie, nach den Haupt−    momenten ih rer Entwickelung・.5. Aufl. Jena 1859. (13) Carl Fortlage:Die Stellung Kants zur Philosophie vor ihm und nach   ihm, in:1)eutsche Vierteijahrsschnft,4. Heft,1838. S.93. (14) (15) (16) (17) (18) (19)    い。「18世紀末の哲学史    学史    武編『講座ドイツ観念 (20) (21)   Ausgabe, hrsg. von Ernst Behler, Paderborn 1958−., Bd.18−19, IV   962   K61n 1804−1805, in:K. A., Bd.12., S.113.    ヒ・シュレーゲルの哲学史観」   参照されたい。 (22) この点については前述のいくつかの拙論で詳細に論じたことがあるの ibid., S.112. ibid., S.114f. ibid., S.115. ibid., S.119. ibid., S.120f. 18世紀末の哲学史に関する諸議論については、以下の拙論を参照願いた       論争」(1987年、『白山哲学』第22号)、「18世紀末哲  論争の行方」(1988年、同前第23号)、「〈哲学史〉概念の成立」(加藤尚        論』第5巻、1990年、弘文堂、所収)。 Karl Vorlander:Geschichte der Philosophie, Bd.1. Berlin 1903. Ph{losophische Lehrj ahre 1796−1806. in:Kn’tische・Friedn’ch−Schlegel−        .,Nr、 、および、ders:D{e Entwicklung der Philosophie in zw61f BUchern        詳しくは拙論「フリードリ        (『國學院雑誌』第88巻第12号、1987年)を ドイツにおけるカント哲学の普及と復興 157 (104)

(23)

  で、ここでは省略する。 (23) へ一ゲル以前の哲学史の状況については、前掲の哲学史関連の拙論を、   へ一ゲル以降の哲学史については拙論「哲学史の成立とその意味」(1986   年、『國學院雑誌』第87巻第6号)を参照されたい。 (24) Traugott Konstantin Oesterreich:Die deutsche Philosophie des 19・  /ahrhunderts und der Gegenwαrt,12. v611ig neubearbeitete Auflage.   Berlin 1923. (25) Klaus Christian K6hnke:Entstehung und/1ぴ酩g des   Neukantianismus. Die deutsche UniversitdtsPhilosoPhie 2wischen   Idealismus zand Po∫itivismus. Frankfurt am Main 1993. S、305f. (26)新カント派の概略を知るに便利な最近の邦語文献として、雑誌『理想』   第643号(1989年)がある。 (27) K.Ch. K6hnke, ibid., S.310f. (28) カントと直接の関係はないが、当時の大学の内情についての邦語文献と   しては、リンガー『読書人の没落』(西村稔訳。1991年、名古屋大学出版会)   が参考になる。 (29) (30) (31) (32) (33) (34) K.Ch, K6hnke, ibid., S,315. ibid., S.610. ibid., S、383. ibid., S.585−600. ibid., S.601−609. これについては、日本のものも含めて、拙論「哲学史の統計的研究」(1991   年、『國學院雑誌』第92巻第11号)を参照されたい。 (35)20世紀初頭のハイデルベルクへの日本人留学生(おもに哲学関係)の動   向にっいては、生松敬三『ハイデルベルクーある大学都市の精神史』(1992   年、講談社文庫。初版は1980年)を参照。本書には、ハイデルベルクを活   動の舞台にした新カント派の人たち、とくにヴィンデルバントとリッケル   トについて興味深い事実が数多く紹介されている。 158(103)

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